詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「夕景」

2010-02-08 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「夕景」(「朝日新聞」2010年02月06日夕刊)

 谷川俊太郎の詩には、いつもはっとさせられることばの動きがある。「夕景」の全行。

たたなづく雲の柔肌の下
味気ないビルの素顔が
夕暮れの淡い日差しに化粧され
見慣れたここが
知らないどこかになる
知らないのに懐かしいどこか
美しく物悲しいそこ
そこがここ

いま心が何を感じているのか
心にも分からない

やがて街はセピアに色あせ
正邪美醜愛憎虚実を
闇がおおらかにかきまぜる

 1連目の「そこがここ」。この行が好きだ。
 この「そこ」は、家人やだれか親しいひとに「それ、とって」というときの「それ」に似ている。「それ」が何であるか、はっきりとわかる。けれど、ふいに、ことばがきえて、それが出てこない。ことばにならないけれど、はっきりとわかるもの。
 「そこがここ」とは、「そこ」と「ここ」が一体になってしまっている、融合してしまっているということだが、ね、ほら「それ、とって」というとき、その「それ」は「私」のなかではぴったり「私」にくっついてしまっている。だからこそ、ことばにならずに「それ」になってしまうのだ。
 ことばにならないものには、そういうものもある。「知らない」というのは「知らない」のではなく、「知りすぎて」、私から切り離せない。分離できないから、「名前」で呼ぶことができないのだ。
 「懐かしい」とは「私」の「からだ(肉体)」にしっかりからみついて分離できないもののことである。分離できないのに、それが肉体のなかでめざめて、肉体をゆさぶる。

知らないのに懐かしいどこか

 それは、たしかに「そこ」としか呼びようがない。この「そこ」は英語の定冠詞「the 」のように、「私」の意識に深くしみついている何かをあらわすのだ。定冠詞「the 」とともにあるような意識--それが「そこ」だ。

いま心が何を感じているのか
心にも分からない

 ああ、そうなのだ。「懐かしい」というのは、かりそめの「感情」。ほんとうは、それをなんと呼んでいいかわからない。「それ」としか言えない。そして、それは前に書いたことの繰り返しになるのだが、「肉体」と一体になっているから、それが何であるか分からないのだ。
 「心にも分からない」の「分かる」というときの文字「分」は「分節」の「分」でもある。「分節」できないもの。だから「分からない」というしかないのだ。「分節」はできないけれど、その存在があることは分かる。
 「分からない」のに「分かる」。
 この矛盾。

 矛盾だけが美しい思想だ、と私は思う。

 最後の行の「闇がおおらかにかきまぜる」は未分節の存在をかきまぜ、そこにいっそう深い渾沌を生じさせる動きのように感じられる。未分節は渾沌。そこにはどんな区別もない。そして、そこから一瞬一瞬、新しい存在が生まれてくる。夕暮れは闇をくぐり、生まれ変わる。--そんなことも考えた。

 


これが私の優しさです―谷川俊太郎詩集 (集英社文庫)
谷川 俊太郎
集英社

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ペドロ・アルモドバル監督「抱擁のかけら」(★★★★)

2010-02-07 22:42:08 | 映画


監督・脚本 ペドロ・アルモドバル 出演 ペネロペ・クルス、ルイス・オマール、ブランカ・ポルティージョ、ホセ・ルイス・ゴメス、ルーベン・オカンディアノ

 美しいシーンがいつくもある。とりわけ美しいのが、盲目になったルイス・オマールが、彼とペネロペ・クルスのキスシーンを映し出すモニターに指でふれるシーンだ。モニターだから、その指にふれるのは実際のペネロペ・クルスの肌ではない。唇ではない。また、盲目になったルイス・オマールに、ペネロペ・クルスが見えるわけではない。そして、見えないこと、触れえないことが、そこにある「映像」をより輝かせる。
 モニターの映像は、証明の足りない車内、車内でキスをするふたりを映している。ルイス・オマールも、ペネロペ・クルスも、ともに不鮮明である。粒子がとんで、粗い映像である。そして、その「粗い映像」を見る(見える)のは、実、ルイス・オマール以外の登場人物と、映画の観客にだけである。ルイス・オマールには「粗い映像」は見えない。そのかわり、「鮮明な映像」が見える。同じように、もし、他の登場人物や観客がモニターに触れたとしても、そこから感じ取ることができるのはモニターのガラスだけである。だが、ルイス・オマールはガラスではなく、ペネロペ・クルスの肌である。唇である。
 ルイス・オマールの記憶(肉眼と、その唇、指)が、ペネロペ・クルスを見つめ、ペネロペ・クルスに触れる。それは、実際に見て、触れるものよりも強烈にルイス・オマールの「肉眼」と唇と手に直接的に刻まれる。美、そのものとして、直接的に刻まれ、美そのものになるのだ。
 あるいは、あらゆるものは「記憶」になることで「真実」になる、ということができるかもしれない。「現実」に起きているとき、それも「真実」ではあるにちがいないが、それは変更可能な何かである。「記憶」になるとき「不変の真実」になる。「普遍」になる。そういう「哲学」をアルモドバルは強烈に描く。

 もうひとつ、はっとするような美しいシーン。ペネロペ・クルスが、夫(パトロン?)の息子がとったビデオの映像にあわせ、アフレコをする。ビデオには「音」がない。ビデオのなかでは、ペネロペ・クルスが夫に対して、悲しい顔で別れを告げている。怒りを告げている。ところが、そのことばを思い出しながら、アフレコをする現実のペネロペ・クルスは、ビデオの映像とは違って肌が美しく輝いている。ビデオの映像では目も泣いているのに、アフレコをしている現実のペネロペ・クルスの目は、さっぱりと哀しみを洗い流してきれいに光っている。新しい命に輝いている。
 このシーンにはふたつの重要なテーマがある。ひとつは、ひとの顔はひとつではないということ。見るひとによって、それは違って見えるということ。違った顔をひとはひとにみせるということ。パトロンにとって、ペネロペ・クルスは狂おしいほどに愛しいひとだが、いつも醜い。ほかの男を愛していて、自分に振り向いてくれない「いやな女」である。「いやな女」であるからこそ、それを「外見どおりの美しい女」にしたくて、必死になっている。一方、ルイス・オマールには、いつでも「美しい顔」である。悲しみ、苦しんでいる顔に見えるときでも、それは悲しみ、苦しみをとりのぞけばいつでも輝かしい顔にかわるものとして見えている。
 もうひとつは、どんな悲しみも、悲しみという「過去」(記憶)にすることで、ひとはそれを乗り越えていくことができるということ。ルイス・オマールはペネロペ・クルスとのキスを「過去」から「いま」によみがえらせ、その官能的な唇を自分のものにすることで、ペネロペ・クルスが死んでしまったという悲しみを乗り越えるが、ペネロペ・クルスはパトロンと過ごさざるを得なかった悲しみを「過去」に封印することで、「過去」を乗り越える。

 この映画では、あらゆる登場人物が、「過去」を「過去」としてしっかり「記憶」し、つまり「いま」にはっきりと呼び出して、新しく、出発しなおす。「過去」を受け入れ、抱き締め、それから出発する。
 「抱擁のかけら」とはよく訳出したもので、過去のかけらを抱擁することで、新しい命を吹き込み、過去のなかで死んでしまった「いのち」をよみがえらせているのだ。
 ペネスペ・クルスがアフレコするシーンでは、パトロンといっしょに暮らすとき、その「家」(そのベッド)で、傷つけ、殺すしかなかったルイス・オマールへの愛、ペネロペ・クルス自身の純情をよみがえらせているのである。そのよみがえった純情、パトロンに汚された純情を涙で洗い流したからこそ、アフレコをするペネロペ・クルスは美しい。
 それはもしかすると、たんに純情を取り戻したから、というよりも、純情を捨ててしか生きる術がなかった自分自身を許しているからかもしれない。自分の過ちを自分で許す--そういうことをとおして、実は、自分を傷つけた他人をも許しているのかもしれない。怒りの中にも、なにかしら、そういう「包容力」のようなものが感じられる。
 これは、ルイス・オマールの生き方にもあらわれている。彼を傷つけたのは、ペネロペ・クルスの愛人だけではない。かつての恋人であり、仕事仲間の女性もまた、ひそかに彼を傷つけていた。けれど、それを許し、受け入れ、抱き締めて、いっしょに歩きはじめる。その「包容力」が、あらゆる命を新しくする。

 アルモドバルの映画の登場人物は、ちいさな脇役の人物さえ、なんというか、非常にアクが強い。それぞれが強烈な「物語」をもっている。パトロンは、まあ、役柄的にもそうなのだけれど、ビデオのペネロペ・クルスのことばを「読唇術」で再現させるなど、やることが度を越しているが、そういう人物ではなく、ほんとうにちょい役で出てくるパトロンの息子(アルモドバルの過去?)のゲイの愛人や、ペネロペ・クルスのヘアドレッサーの男、ペネロペ・クルスを階段から突き落とす役の、ピカソの泣く女のような顔の女優など、思い出すときりがない。そういう人物が、ごった煮のなかで濁ってしまわず、それぞれ何か「純粋」といっていいほどの強度で映画のなかで生きているのは、もしかするとアルモドバルの「包容力」のせいかもしれない--そんなことも考えた。感じた。





ペドロ・アルモドバル・セレクション DVD-BOX

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劇団四季「コーラスライン」

2010-02-07 21:02:49 | その他(音楽、小説etc)
劇団四季「コーラスライン」(福岡・劇団四季劇場、2010年02月07日)

 「コーラスライン」の千秋楽である。そして、福岡における劇団四季の「千秋楽」でもあるはずだった。浅利慶太は、福岡での上演は赤字つづきでやっていけない。「コーラスライン」を最後に福岡から撤退する、と発表したばかりであった。
 ところが、その「千秋楽」の開演前に、浅利慶太が42年ぶり(と、たしか言っていた)に舞台に立ち、観客に向かって語りはじめた。
 「福岡から、コーラスラインを最後に撤退する予定だった。だが、その計画を発表したとたん、多くのファンから抗議のメールが殺到した。その量があまりに多いので、しばらく形をかえてつづけることにした。9月まで、とぎれとぎれに公演をつづける。夏休みには、子ども向けの作品も上演する。そのラインアップは……。」
 浅利慶太によれば、そもそも福岡の劇場は、舞台の東京一極集中を批判する(?)形ではじめたものである。その灯を消してはいけない、ということらしい。
 浅利慶太は、また、四季では入場料を値下げした。その結果、切符代金そのものの収益は年間18億円減ったが、入場客が増えたので実質減収は8億円だった、とも語った。どうか、まだ一度も舞台を見ていないひとに、ぜひ、見に来るよう呼びかけてほしい、とも語った。
 約10分間の挨拶だったが、これがこの日の一番の「出し物」であった。商売上手なひとだなあ、と感心した。



 ミュージカルそのものは、はっきり言って退屈である。オーディションに合格するために、整形手術を受けたと過去を語る役の女性の歌が聞きやすかったが、あとは、私の耳にはかなりつらく響いた。「コーラスライン」のオーディションという話だからといって、そこに登場する役者たちが、ほんとうにコーラスラインのオーディションを受けるレベルの歌、踊りでは、見ている方がつらくなる。
 え、こんなにうまいのに、オーディションに受からないの? という疑問がわくくらいでないと、芝居にならない。
 私は四季のミュージカルはそんなに見ていないので誤解しているかもしれないのだが、この「コーラスライン」のどの部分が、四季の(浅利慶太の)演出なのだろうか。そのままブロードウェイの舞台をなぞっているだけなのではないのか。新しいダンスの振り付けや、役に対する新しい解釈が施されているのだろうか。よくわからない。ブロードウェイまでいけない人のために、ブロードウェイで見てきたものを再現して提供します--が演出だとしたら、とてもさびしい。
 
 それにしても。
 役者の声をなんとかしてもらいたい。ミュージカルであろうと、普通の芝居だろうと、舞台の基本は「声」だろう。声でぐいっとひっぱる役者がほしい。もうしわけないが、私は何度も何度も居眠りしてしまった。声が聞きづらくて、何を感じているのか、それがつたわってこないからである。



コーラスライン [DVD]

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平岡けいこ『幻肢痛』(2)

2010-02-07 00:00:00 | 詩集
平岡けいこ『幻肢痛』(2)(砂子屋書房、2010年01月10日発行)

 平岡けいこはふたつの世界を生きている。ひとつは「想い」の世界。

地下深く眠るものたちに
私は想いをはせる
古ぼけた棺の中
いくつもの欠けた亡骸
焼けた記憶
繰り返す真夏の裏側
                                (「裏側!」)

 「想う」ことは「過去」を現在に引き寄せることである。そして、それは「過去」をつくりだすことでもある。つくりだすといっても捏造ではない。「過去」に感情、想いをつけくわえることである。感情には「いま」という時間しかないから、「過去」に感情あたえたら、それは「いま」になる。
 でも、この「いま」は、たとえば目の前にいる誰かの「いま」とは違っている。そこに、人間のかなしさがある。「想い」によって噴出してくる「過去」。それをどう共有できるか。
 共有するために、平岡は、書く。

 もうひとつは「もの」自体の世界だ。

枝は歪に伸びても美しい
世界との調和を保っているから
思考のないものは
完璧に存在する
                            (「たとえば<愛>」)

 「もの」には「思考」がない。だから完璧である。--これは、「思考」は間違えるということを逆説的に言ったものである。
 平岡のふたつの世界は「感情」と「もの」と言いなおすことができるかもしれない。言いなおしてもいいのかもしれないけれど、少し違う。そして、私がいいたい「ふたつの世界」の「ふたつめ」はほんとうは、その「少しの違い」のなかにあることである。

 「感情」が引き寄せる「過去の時間」と違って、「もの」は完璧である。それは「思考」を持たないからである。--だが、この対比は完璧ではない。ほんとうに対比させたいならば、「思考」ではなく「感情」ということばをつかって、

枝は歪に伸びても美しい
世界との調和を保っているから
感情のないものは
完璧に存在する

 と言わなければならない。けれど、平岡は「思考のないもの」と「思考」ということばを使う。
 平岡のことばは、ここでは、少し揺れている。独自の動きをしている。その「少し」の「揺れ」のなかに、平岡の「思想」がある。
 平岡は「感情」と「感情を排除した、もの」があると考えているのではなく、世界は感情と思考でできていると感じているのだ。「感情」と拮抗するのは「もの」ではなく、「思考」なのだ。
 「感情」と「思考」が「もの」のなかでぶつかって、世界が動いていく。「感情」と「思考」は一致しない。そしてて、「思考」を排除した「もの」だけが、「感情」には「完璧」な存在として出現する。「思考」が排除された「もの」は、どんな「感情」でも受け入れてくれるからである。「感情」は「もの」そのものになり、「世界」と調和できる--これは、夢である。かなわない夢である。

 「思考」と「感情」の違いは、次の連に書かれている。「たとえば<愛>」の3連目である。

歪な陰をひきずり歩く私という個
あなたと呼べる個を映してしか実感のない
あやふやなかたち

 「わたし」「あなた」という人間。それを平岡は「個」と呼ぶことで「もの」にしている。この「奇妙」なことばの運動が「思考」である。「思考」は存在から何かを剥ぎ取り、共通の「単位」(ここでは「個」)で整理しなおす。共通の「単位」をもったのは「数学」(論理)によって説明できる。そして「数学」(論理)によって、どこまでも動かしていくことができる。純粋に、動かしていくことができる。
 「感情」はそうではない。
 「思考」が「もの」から何かを剥ぎ取って「個」にするなら、「感情」は「もの」に何かをつけくわえることで「個」にする。それはたまたま「個」ということばのなかで重なり合うけれど、ほんとうは完全に別なものである。
 「思考」によって誕生する「個」は「単位」。それは「単位」であるから、基本的に、その「個」は複数なければならない。たとえば林檎を1個、2個と数え上げるとき、「林檎」は1個だけではだめである。複数存在しなければならない。複数存在するものを整理するために「単位」という共通の物差しが必要になる。それは逆に言えば、単位という物差しが、「もの」を「個」という形で生み出すということでもある。そして、その単位としての「個」とは、英語で言えば不定冠詞「a (an)」である。
 「感情」が生み出す「個」は、不定冠詞「a (an)」ではなく、定冠詞「the 」によって特徴づけられる。それはけっして他のものとはまじりあわない。世界でたったひとつである。それは「感情」が「世界」から、「自分自身のもの」として奪い取ったかけがえのないものである。
 どこにでもあるもの、不定冠詞「a (an)」によって整理されるものと、どこにでもないもの、定冠詞「the 」によって特徴づけられるもの。それは、「世界」のなかにあっては、ときとして区別がつかない。定冠詞「the 」によって特徴づけるときの、「感情」というものは目に見えないからである。「実感」は、それこそ定冠詞「the 」でしかありえない、「ひとり」の人間のなかにあるものだからである。

 このどうしようもない(というか、解決不能なとしかみえない)「思考」と「感情」の拮抗する世界を平岡はなんとか和解させようとする。
 「泣いてしまう」(書いてしまう)、つまり「過去」を常に「いま」に呼び出しつづけるという方法がひとつ。そして、もうひとつは……。「たとえば<愛>」の最後の方の連の2行。

忘却の言葉は想像という
優美な手に支えられている

 泣くこと、涙で「過去」を呼び出し、「忘却」という手で、その涙をぬぐうのだ。
 平岡のこの詩集には、「忘却」という手でぬぐいさられた「過去」が書かれている。「忘却」しようとして「忘却」できない「涙」が書かれている。--それは結果的に(?)みると、矛盾である。「忘却」されていない、完全にぬぐいさられていないから。けれど、それが矛盾であるからこそ、それが「思想」であり、「肉体」なのである。
 矛盾、矛盾するしかないことばこそ、信頼に値する「真実」である。「思想」である。




未完成な週末
平岡 けいこ
近代文芸社

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誰も書かなかった西脇順三郎(103 )

2010-02-06 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 「山の暦(イン・メモーリアム)」は、ぶらぶらと歩き回る詩である。

昔のように菫がどこをさがしても
みつからなくなつた
ただ坂の途中の藪に
イラグサと山ゴボウばかりだ
この山の唯一の哀愁だつた
ちんいようげの香りもしなくなつた
試験は未だあることになつている
試験が唯一のギリシャ悲劇のすべて
哀愁の源泉としてまだほとばしつて
いるのだ。
この山賀フロレンスを見下す
ところであつたらダンテは地獄篇
にすばらしい追加をしたことだ

 日本の自然の風景とギリシャ悲劇、ダンテが混在する。そこに試験(大学の?)までまじってくる。
 普通、それが文学であるかどうかは別にして、ことばというものは「同じ傾向」のものが自然にあつまってくる。何かを書こうとする(伝えようとする)とき、その伝えようとする「もの」(思い)にむけてことばが整えられる。統一させられる。
 ところが、西脇の詩では、そういう統一がない。いや、あるのかもしれないが、基準がないように見受けられる。統一がないというより、統一が常に破られる、といった方がいいかもしれない。
 いま引用した部分では、前半は「日本の自然」である。昔あった菫がみつからない。その「哀愁」。それのまわりには、イラグサ、山ゴボウという自然が集められる。
 それが、突然、「試験」によって破られる。
 それは「旅人かへらず」の「ああかけすが鳴いてやかましい」の乱入の仕方と似ている。意識の統一へ、突然「いま」が乱入してくるのだ。そして、意識の統一が破られるのだ。
 だから、これはほんとうは、「日本の自然」に「試験」が乱入してくるというよりも、「日本の自然」というものにむかって動いてしまっている意識、その意識があつめてくることばに対して、「いま」が乱入してくると言った方がいい。
 「日本の自然」も「いま」には違いないが、そこには「精神」というものが統一的に働いている。ことばを「統一」してしまう意識が働いている。こういう意識は、何かを書く、ことばをあつめるときに、自然に働いてしまうのもだが、西脇は、そういう「統一・整理」しようとする意識を破るのである。
 そして、その破る存在としての「試験」についてはなんの説明もない。「かけす」について説明がなかったのと同じである。背後の木にとまっているかけす--というふうに、西脇は説明していない。説明を省略し、ただ「現実」を「もの」として持ち込む。そこには「統一・整理」という意識が働いていないから、これを「無意識」と名付けてもいいかもしれない。
 「いま」を統一してしまう「意識」の世界へ、「無意識」をぶつける。「統一」を「無意識」で破壊する。そうすると、ことばが一気に動く。一気に乱れる。
 「試験」のあと、ことばは「日本の自然」とは関係のないギリシャ悲劇やダンテへと動いていく。そして、動いた先(?)から、過去(?)を振り返るようにして、一気に何事かが断定される。ダンテなら、この風景を詩に書き、すばらしいものにした、と。

 あ、まるででたらめ。この詩人は何をいっているのだ。ことばが分裂してしまっているじゃないか--と言ってしまうこともできる。
 この詩を「難解」、「現代詩は難解」というひとは、そういうふうにくくってしまって、自分とは無関係なものにするだろう。このときの「無関係」の「無」は、西脇の「試験」の「無意識」の「無」と似ている。つながりが「無い」の「無」である。ひとはだれでも「つながり」があるものに「意味」を見出す。そして、そのつながりが納得できたときに、「わかる」ということばをつかう。

 たしかに、ここにはつながり、連続というものがない。そのかわりに、つながりを壊すこと、破壊があり、破壊によって生じる乱れがある。
 そして、その破壊と乱れこそ、実は、詩である。破壊と乱れのなかには関係がある。「無」ではないものが、ある。破壊がなければ、乱れは生まれないのだから、そこにはつながりがある。
 だが、問題は、そんな簡単な論理では片付けられない。たぶん。きっと。

 破壊と乱れ。それが「美しさ」にかわる。それは、なぜなのか。

 西脇の詩の秘密は、そこにある。破壊と乱れのつながりを支えている何かがあって、その何かを私は「美しい」と感じるのだ。
 その何かを説明するのは難しい。
 私は、とりあえずそれを「音楽」と呼んでいるが、その「音楽」の定義がむずかしい。ことばが動いていくとき、ことばを動かすのはなんのか。「意識」が動かすのとは違う動きを西脇の詩のことばはしてしまう。それは、きっと、ことば自身のエネルギーが解放されてのことなのだと思う。西脇がことばを動かしているのではなく、ことばがかってに動いていく。ことばが、ことばを「聞きあって」、そうして動いていく。それは、「音楽」の音が互いの音を聞きあいながら動いていくのに似ている--そんなふうに、私には感じられる。
 これはもちろん、大雑把な「感じ」であって、具体的な説明・論理にはなっていない。「音楽」をどう定義するか、その定義の仕方の入口さえもわからない。けれど、私は、そこに「音楽」が働いていると感じる。



西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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網膜剥離 その後(あるいは、永井荷風「花籠」)

2010-02-06 10:09:11 | その他(音楽、小説etc)
 
 網膜剥離で手術をし、その後、私自身のなかで明らかに違ってしまったことがある。ただひたすら読みたくなった。書きたくなった。そして、その書くことに関して言えば、「結論」というものがどうでもらるなった。私はもともと「結論」を想定せずに、ただ書くだけというタイプの人間だが、それでもときどきは、こんなふうに書けば論理がすっきりするかな?とか、私の書いたことが読者にとどけばいいなあ、という欲望をもっていた。できることなら、私が書いたことばが誰かに感動を与えることができればどんなにいいだろう、と願っていた。まあ、それは、ものを書く人間ならもって当然の欲望・願望なのかもしれないけれど。
 その欲望・願望が消えてしまったわけではないけれど、かなり違ってきた。そういう欲望・願望は薄れて、ただひたすら書きたくなった。「結論」など、どこにもない。「感動」なんてものも関係ない。私のなかにある「ことば」そのものを解放したいのだ。何かを読む、何かを見る、何かを聞く--そういう瞬間瞬間に動きはじめることばを、ただ勝手気ままに動かしたい。いや、ことばが勝手に動いていってしまって、「私」というものなど消えてしまったらどんなに楽しいだろうと思うのだ。
 私のことばは「自由」ではない。いまさっき書いたことと矛盾するけれど、私には、まだまだどこかで「結論」を書こうとする意識が残っている。ひとを感動させたいとか、ひとに認められたいとかいう欲望が残っている。そういうものを完全にふっきってしまって、ことばが、ただことばとして「自由」にどこまでも動いていく。私は、そのことばをただ追いかけていく--そんなふうにして、まるで他人の書いたことばを読むようにして、自分の中からあふれてくることばを追いかけたいと思うようになった。

 矛盾してもかまわない。矛盾に気がついたら、あ、これは矛盾だな、と書く。矛盾を解消するために、書き直す、考え直すということはしない。矛盾だな、とことばが気がついて、そのあと、そのことばがどんなふうに動くか、ただ、それを追いかけたい。どんなふうに矛盾を突破できるか、後ろから後押しできれば楽しいだろうなあ、というような感じ……。

 で、思いつくままに。

 荷風全集を読んだ。「花籠」という作品。ルビは面倒なので省略。一部の漢字は簡略化、ひらがなにした。

 然う。静枝の君は少しく顔を赤らめしが、其小さき胸に満々たる喜びは、遂に包まれ難くてや、云ふばかり無き愛嬌あるえくぼを、片頬に漏らし給ひぬ。

 美しい文章だと思う。喜びを胸に隠しきれず、それがえくぼとなってあふれた、というのはいいなあ、目に見えるようだなあと思う。「遂に包まれ難くてや」の「や」が簡潔でいいなあ、とも思う。現代語(?)にするとどうなるのだろう。「だろう」というような間延びしたことばになってしまうのだろうか。言ったか言わないかわからない、ひとことの「や」。こういう短いことばは、もう現在は残っていないのだろうか。
 「小さき胸に満々たる喜びは、遂に包まれ難くてや」という「主語」のとり方(つかい方)、動詞の受け方というか、「受動態」風の文体も、いまからみると(私からみると?)、なんだか西欧風。外国語風。あ、日本語はこんなに自在に「主語」を入れ換えることができるのだ、と感心してしまった。
 なによりびっくりするのは、そのことばのスピードである。「や」や「主語」「受動態」(?)をきれいに取り込む「文語」の力である。「文語」というのは古い、だからことばのスピードが遅い--と感じるのはたぶん間違いなのだろう。「文語」(そして旧かなづかい)が敬遠されるのは、そのスピードが速すぎて、現代の退化した(?)頭がついていけなくなっているからだろう。反省しなければ、と自分自身に言い聞かせた。

 あ、ほんとうの「日記」みたい……。





荷風全集〈第1巻〉初期作品集
永井 荷風
岩波書店

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平岡けいこ『幻肢痛』

2010-02-06 00:00:00 | 詩集
平岡けいこ『幻肢痛』(砂子屋書房、2010年01月10日発行)

 詩集を開いた瞬間、ある1行が目に飛び込んでくる。そして、あ、この詩集について感想書きたい、という欲望がふつふつとわいてくる。まだ、1篇の詩も読んでいないのに、その詩がどういうものについて書いているのかさえもわからないのに……。そういう経験することが何度もある。 
 平岡けいこ『幻肢痛』も、そうした詩集の1冊である。
 
泣いてしまわねばならない

 冒頭の作品の2連目の2行目。それがふいに目に飛び込んできた。そして、その「泣いてしまわねればならない」が「書いてしまわなければならない」と聞こえた。平岡が、この詩を書いてしまわなければならない--と思いながら書いている。その「肉体」の声が聞こえた。
 私の「誤読」「幻聴」である。
 「誤読」「幻聴」であるとわかっているからこそ、私は、その「誤読」「幻聴」を追いかけてみたい、という気持ちになる。
 そして、書きはじめる。冒頭から読みはじめる。「夜明けまで」という作品だ。

限りなく焦燥に近い欲望なのだ
つまり 生活とは
無限のような一瞬なのだ

 1連目から読んでいたら(普通に詩集を読みはじめていたら)、私はつまずいてしまったかもしれない。1行目は読む気持ちをそそるが、2行目の「つまり」で私はうんざりする。3行目でがっかりする。観念のことばで書かれた説明というものが、私は嫌いだ。「頭」で動かしたことばは嫌いだ。
 だが、もうすぐ、あの1行があらわれる。その1行が私を待っている。

私は取り急ぎこの哀しみを
泣いてしまわねばならない
深海に沈む難破船のように
抉れた記憶を生活の裏に沈め

 「深海に沈む難破船」「抉られた記憶」。ああ、この無残なことば。読む気がしない。読む気がしない--と書きながらも、私の「肉眼」は「泣いてしまわねばならない」を「書いてしまわなければならない」と耳に伝えている。
 何なのだろう、この詩は。
 たぶん、その前の行、「私は取り急ぎこの哀しみを」の「取り急ぎ」に、この詩の「秘密」のようなものがあるのだ。「ゆっくり」ではだめなのだ。急いで、急いで、急いで、何かしなければならない。「泣いてしまわねばならない」。急いでいるために、すべてを「肉体」をとおしている暇はない。「頭」で処理できる(?)ところは処理してしまって、しっかりと「泣きたい」。「泣く」ことで「肉体」を回復したい。(「書く」ことで「肉体」を取り戻したい)。
 そう、この詩は叫んでいる。

限りなく焦燥に近い欲望なのだ
つまり 生活とは
無限のような一瞬なのだ

私は取り急ぎこの哀しみを
泣いてしまわねばならない
深海に沈む難破船のように
抉れた記憶を生活の裏に沈め

立ち去らねばならない 直ちに
古ぼけた懐中時計のねじを巻き
新しい地図を描く
失った翼でできた羽ペンで

弧を描いて
約束が落ちる
守られるはずだった
守られなかった約束たち

それぞれの形に留め置かれ
忘却に晒されるだけ

 あいかわらず観念的なことばがつづく。「頭」で書かれたことばがつづく。しかし、その一見すると「頭」で書かれたしか感じることができないことばが、「泣く」ということばのなかで、ぬれて、「肉体」になっていく。
 なぜだろう。
 実際には「泣いて」いないからだ。
 「泣いてしまわねばならない」ということばは、「泣いてしまっていない」ことを告げている。「泣いてしまっていない」。だから「泣いてしまわねばならない」。そして、そういうことばが「肉体」をくぐり抜けるとき、ほんとうは泣きはじめてもいない。泣きたい。泣けるなら、泣きたい。けれど、泣けない。泣けないから、「泣いてしまわねばならない」。
 そして、それが「書いてしまわなければならない」と聞こえるのは、そこにはまだ何も書かれていないからだ。

限りなく焦燥に近い欲望なのだ
つまり 生活とは
無限のような一瞬なのだ

 こんなことばを書いてみても、それは書きはじめてもいない。ことばにたどりついていない。ほんとうに書きたいことばが、まだ、やってこない。書きたいことばは遅れてやってくる。あらゆることばは遅れてやってくる。それは哀しみが、泣いてしまったあとにやってくるのに似ている。哀しみは遅れてやってくる。それを抱き締めるには、抱き締めてしっかり受け止めるには、まず泣いてしまわなければならない。
 平岡のことばは、そういう「場」でうごめいている。

 泣く、ではなく、「書く」と聞こえた、その1行。書くと聞こえたからには、「書く」ということを「中心」に据えて読み直してみる。「泣いてしまわねばならない」を「書いてしまわなければならない」と読み違えたまま、詩を読み直す。
 書く、とはどういうことか。
 それは過去を過去にすることだ。過去を「記憶」にすることだ。泣いてしまう、というのは、涙が出てきてしまう過去の出来事を、泣いてしまうことで、過去に封じ込める、過去にしてしまう、ということだ。

 ほんとうのキイワードは「泣く」ではなく、「しまう」なのだ。
 泣く、書くでは不十分。泣いて「しまう」、書いて「しまう」。それが、平岡の「肉体」が向き合っている世界だ。

 しかし。

 「抉られた記憶」ということばが平岡の現実をくっきりと描き出している。記憶はえぐられて、噴出してくる。過去はえぐられて、過去からあふれだしてくる。あふれだしてくるもの、しまいこめないものが過去なのだ。
 いま、ここ、へあふれだしてこないものは「過去」ではない。あふれだしてきて、涙をさそわないものは過去・記憶ではない。
 それをしまいこむために、泣く、書く--ここには矛盾がある。矛盾があるから、「思想」がある。

 過去を過去にするために書く--それは過去を過去から呼び出して、よりあざやかな過去にするということである。そうして、いったんあざやかな過去にしてしまえば、それを「出口」にしてさらに過去が噴出してくる。とめどもなく噴出してくる。過去とは、常に、現在の中へと噴出してくるからこそ過去なのである。
 だから、何度でも書かなければならない。(何度でも、泣かなければならない)。書いてしまう、泣いてしまうためには、次々に過去を現在に噴出させる、過去を生み出しつづけなければならない。
 この矛盾。矛盾だけれど、そうするしか方法がない。それが「思想」というものだ。

 矛盾。それが、書くこと。矛盾。それが、泣くこと。

 詩は、まだつづいている。

ただ目の前の哀しみを
泣いてしまわねばならない
海のように 繰り返し
赤子のように 揺れながら
希望のように 直ちに

白い月が夜明けと契るまでの
一瞬の けれど
永遠のような
絶望のような
闇を抱えて
今日を消費した焦燥を
なだめなければならない
一日の終わりに

つまり 生活とは
一瞬の闇が無限に続く
その先の壮麗な光なのだ

 「繰り返し」泣かねばならない。「繰り返し」書かなければならない。そうすることしか人間にはできないのだ。
 「希望のように 直ちに」は、泣くこと、書くことが、「希望」と直接つながっていることを証明している。「直ちに」とは「すぐに」であるが、それは「直接に」の「直」なのだ。
 「絶望」と「希望」は直接つながっている。「闇」と「光」は直接つながっている。その「直接」を取り戻すために、何度も何度も泣く、泣いてしまう。何度も何度も「繰り返し」書く、書いてしまう。

 ここに、たぶん、平岡の詩のすべてがある。まだ1篇読んだだけだけれど、私は、そのことを強烈に感じた。



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石川 勝保,平岡 けいこ
美研インターナショナル

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クリント・イーストウッド監督「インビクタス/負けざる者たち」(★★★★★)

2010-02-05 19:25:27 | 映画
監督 クリント・イーストウッド 出演 モーガン・フリーマン、マット・デイモン

 これはとても不思議な映画である。結末がわかっている。それなのに、まるではじめてみる結末のように引き込まれ、感動してしまう。なぜだろう。新しい手法が取り入れられているわけではない。むしろ、古い。特に、前半が、あ、これはどうしたものだろう……と思うくらい、古い。古くさい。なんといっても台詞が多い。映像ではなく、ことばで見せる映画である。
 私はことばが多い映画は好きではない。ことばがなくてもわかるのが映画というものだ。この映画は、私の定義からは外れる。落第の映画である。マンデラのことばがどんなに魅力的で、説得力があったとしても、ことばを映画で伝えるというのは間違っていると思う。ことばを伝えるためには本がある。映画は本を超えるべきである。
 --などということは、うーん。忘れてしまいますねえ。マンデラの高尚な「理想」を語ることばの数々。それは、忘れてしまいますねえ。映画だからねえ。特に、私のように、映画にことばはいらない、と考えている人間は、ことばなど、最初から無視している部分があるので、よけいそういう感じになるのかもしれないけれど。
 で、何が残るか。
 モーガン・フリーマンの表情。ひょうひょうとしている。理想、真理を語るというより、何でもないことを語る感じなのだ。途中にマット・デイモンを呼び、お茶をのむシーンがあるが、「お茶はどんなふうにしてのむ?」と聞くときの表情と、そんなに差がないのだ。理想を語る、理想で国民をひっぱっていくというときの表情に「強引さ」がない。国民をリードしなければならないという「悲壮感」がない。かわりに「あたたかさ」がある。他人に対して「命令」するのではなく、助けを求める。私にはあなたが必要だと、自分を控えめに差し出し、相手が近づいてくるのを待って、それを受け入れる。そのときの、「あたたかい」表情が残る。ことばは付け足しである。
 立派なことば、高尚な理想のことばがどんなに矢継ぎ早に口にするときも、そのときの顔は「高尚な理想を語っているんだ」という顔ではない。私にはあなたが必要だ、と助けを求める顔であり、ひとを受け入れ、抱き締める顔なのだ。
 あ、そうか。ひとは他人とあって話すとき、ことばを聞くのではなく「顔」を見るんだ。あたりまえのことだが、そんなことを思い出した。
 そして、そのこと--ひとと話すとき、ひとはことばではなく、顔を見ている、顔が他人を説得する、ということは、クライマックスでマット・デイモンに引き継がれていく。最後の最後のスクラム円陣。マット・デイモンが仲間に呼びかける。そのとき「俺の目を見ろ」とはじめる。すごいなあ。そのとき、もちろんマット・デイモンはマット・デイモンで、きちんとしたことを言う。仲間を鼓舞することばを発する。けれど、ことばはどうでもいいのだ。ことばの前に、「目」で伝える。「目」で伝達し合う。きっと仲間たちは、この勝利を思い出して語るとき、この円陣のことを語る。マット・デイモンが何を言ったかを語る。そして、そのとき真っ先に「俺の目を見ろ、とマット・デイモンは言った」というに違いない。あとのことばはいろいろ違ってくるかもしれないが、「俺の目を見ろ」だけは、だれもが間違えずに思い出すことができるはずだ。そして、そのときのマット・デイモンの目そのものを思い出す。
 あ、とってもいい顔というか、いい目をしていたねえ。「俺の目を見ろ」と言ったときのマット・デイモン。透明で、いま、ここにあるもの、つまり、仲間の顔を見ているのではなく(もちろん、しっかり仲間の顔を見ているのだけれど)、仲間の顔を見ることで、その向こう側を見ている。「勝つ」ことをめざしているんだけれど、「勝つ」を超越したものを見て、「ほら、これが見えるかい」と仲間に語りかけている。疲れ切って、余力の残らない仲間の顔ではなく、まだ何にも汚れていないもの、疲れていない美しいものを見ている。とてもいい目だ。(この目の一瞬の輝きだけで、マット・デイモンにアカデミー賞をやりたいねえ。)
 そして、この目が、その見つめているものが、スタジアムの観衆全員が見つめるもの、南アフリカの国民全員が見つめるものへつながっていく。「結論」はわかっているけれど、その「結論」は、このマット・デイモンの澄みきった目によって、浄化されてスクリーンに広がる。どきどきしますねえ。はらはらしますねえ。夢が、理想が実現するときって、こんなにどきどきするもんなんだねえ。
 ひととひとが話すとき、相手を見る、目を見る--というのは当然なのだけれど、何かをなし遂げるとき、ひとは目を通して、相手ではなく、ほかのものを見つめてしまう。だから……。ほら、優勝が決まった瞬間、白人がアフリカンに抱きつく、アフリカンの少年を白人の警官が抱き上げる。いままで見ていた「顔(顔の色)」ではなく、ひとりひとりの目が、いま、目の前にあらわれた美しいものしか見ていない。その美しいものから、「融和」がはじまる。
 涙が出るくらいに美しい。

 そして、この映画は、そういう美しい映像をスクリーンに広げながら、冷静に、「でも、ことばも忘れないでくださいよ」とつけくわえる。マンデラを支えつづけたことばが、最後の最後の瞬間に、もう一度反復される。美しい目は、強いことばによって支えられていると告げる。それは、だれもが、人間ひとりひとりが、それぞれに「強いことば」をもたなければならないといっているようでもある。誰かに期待するのではなく、私の魂を私が育てなければならないのだから。



 マット・デイモンの目について書いたが、ほかにも印象的な映像はたくさんある。モーガン・フリーマンは、ひとなつっこく、あたたかな表情を維持しつづけるが、一瞬だけさびしい顔になる。家族との関係がうまくいかないとき、ふっとさびしげな顔になる。個人的な世界の対立・孤立を内部に抱えながら、国全体の宥和を夢見たマンデラ。その、きわめて個人的な一瞬の顔。それが忘れられない。
 また、マット・デイモンたちが子供たちにラグビーを教えはじめるシーンも実にいい。ぎごちなかった関係がラグビーボールをもつことでひとつにつながっていく。それが、とても楽しい感じで広がる。そして、それがそのままラグビーの試合そのものの興奮につながっていく。子供たちにラグビーを教える、というシーンから、映画が、ことばではなく、映像、人の動きそのものの作品に変化していく。--この自然な、ことばから映像への切り替えがすばらしい。
 試合終了直前の、選手の顔、電光掲示板の時計。その文字。あ、文字にさえも表情がある。顔がある、という感じ。びっくりしますねえ。破裂寸前の選手の鼓動のどくんどくんという音と、スローモーションのリズム、デジタル時計の文字。これがアナログ時計だったら、緊迫感が違ってくるよなあ。

 クリント・イーストウッドの作品は、今回も、完璧。「アバター」で汚れた目を、この作品で洗い直そう。



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誰も書かなかった西脇順三郎(102 )

2010-02-05 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「燈台へ行く道」を読むと、なんとなくヴァージニア・ウルフを思い出す。タイトルの影響かもしれない。あるいは、ことばの運動というか、動きが、いわゆる「意識の流れ」のように思えるからかもしれない。
 次の部分が、とても好きだ。

岩山をつきぬけたトンネルの道へはいる前
「とらべ」という木が枝を崖からたらしていたのを
実のついた小枝の先を折つて
そのみどり色の梅のような固い実を割つてみた
ペルシャのじゅうたんのように赤い
種子(たね)がたくさん、心(しん)のところにひそんでいた
暗いところに幸福に住んでいた
かわいい生命をおどろかしたことは
たいへん気の毒に思つた
そんなさびしい自然の秘密をあばくものでない
その暗いところにいつまでも
かくれていたかつたのだろう

 「気の毒」。そして「さびしい」。あ、このことばは、こんなふうにして使うのか、と、こころがふるえる。 
 そのふたつのことばは「生命」とふかく結びついている。「生命」はいつでも「さびしい」。「さびしい」まま生きている。そこに美しさがあるのだから、それをあばいたりしてはいけないのだ。
 --ここには、西脇の、とても独特な「音楽」がある。
 それは、私がいままで何度か書いてきた「音」そのものの「音楽」とは別のものである。
 「音」のない「音楽」。沈黙の「音楽」。ことばにしてはいけない「音楽」。
 西脇は、ときどき、ことばにしてはいけないことをことばにしてしまう。
 それは武満徹が沈黙を音楽にしたのと似ているかもしれない。

 意識の流れ--と書いたが、あ、これは、ことばを捨てる動きなのだと思う。ことばを捨てるとき、そのことばの奥に隠れているものが、「とらべ」の固い実のなかの種のように姿をあらわす。
 ことばには、そういう動きもある。




西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)

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伊藤悠子「海のエジプト展」ほか

2010-02-05 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤悠子「海のエジプト展」ほか(「ふらんす堂通信」123 、2010年01月25日発行)

 「海のエジプト展」で見たこどもの石像のことを書いている。たんたんと書いているのだが、自然と引き込まれる。

千年有余
海は
我知らず
あやしていたのかもしれない
母から離れた幼子を
石像の一部であった幼子を
幼子は
海水に浸され点ほどの浅い窪みとなった眼窩で
母にうなずいていた
隆起の薄れた口の端で
乳をもらう満足を伝えていた
千年有余
海は
石像を石に戻しはしなかった
幼子はもうイシスの子ハルポクラテスではなく
共通の面影
ただの幼子になり
時をたがえて見つかった母に抱かれていた

 「海の中に母がいる」という詩句を思い出してしまうが、イシスの子ハルポクラテスの石像にとって、海はたしかに母だったのかもしれない。海と母は区別がないかもしれない。そして、そのとき、伊藤もまた海であり、母である。

海は
石像を石に戻しはしなかった

 「主語」は「海」である。学校教科書の文法上は、「海」が「主語」である。けれど、この詩を読んだ瞬間、その「海」は伊藤そのものである。
 海水に浸食され、最初の形からは遠くなった石像。かすかに残る目。唇。それをしっかりみきわめ、そこから母にうなずくしぐさ、乳を飲んで満足している表情をしっかりと読みとる伊藤の「肉眼」が、その「石」を単なる石から「石像」にひきもどす、奪い返すのである。
 そして、奪い返したとき、その石像はイシスの子ハルポクラテスは、イシスの子ハルポクラテスではなくなる。「共通の面影/ただの幼子」と伊藤は書いているが、これは正確には「私の、たったひとりの幼子」である。あらゆる母にとって、たったひとりの愛しい幼子である。
 展示されている「石」が「いし」から「石像」にひきもどされるとき、「石像」へと奪い返すとき、そのとき伊藤は(そして、すべての女性は)、単なる「おんな」ではなく「母」になるのだ。

 ここに描かれているのは、「石」(石像)の変化ではなく、「おんな」が「母」になるという「肉体」の運動である。
 
 「海という文字の中に母がいる」というのは、たぶん男の発想である。千年有余の海のなかで、女は「母」になる。「母」となって、いとしい幼子を抱いて誕生する。



 「トウカエデ」という詩の中にも忘れがたい行がある。

空が暮れかかるとき
街路に木の葉が一枚立っていた

 一本の木ではなく、一枚の葉。それは錯覚なのだが、その錯覚のなかに、一本の木よりも深い孤独がある。

空が暮れかかるとき
街路に木の葉が一枚立っていた
その整えられた樹形と 残照の加減で
一枚のトウカエデの葉にみえた
赤い葉も 橙色の葉も 黄色い葉も
大きな一枚の細やかな部分であった
ただ一枚すっと立っている
車は水のように流れていく
人は犬に引かれていく
木の葉だけが止まっている
木の葉と私だけが止まっている
ずうっと見つめ続けていればよかったが
ふと目をやると
ようとして
街路樹の連なりに組み込まれていた
トウカエデはさびしい私と遊んでくれたようだ
夜が来る前のいっとき

 「木の葉と私だけが止まっている」--この一体感は、「海」のなかで「母」として生まれ変わる瞬間に似ている。「私」が「私以外のもの」に「なる」。そのとき、「私」の「過去」というか「肉体」の奥に生きている「いのち」がよみがえる。
 一枚のトウカエデ。それは一枚でっあて、一枚ではない。一枚にみえるけれど、ほんとうは一本の木。いくつもの枝がひろがり、幾枚もの葉が茂っている。それぞれが違う色をしている。けれど、そのすべてが「一枚」にすりかわる。一枚と一本が入れ替わる--入れ替わることで「一体」になる。
 この動きは、「海」と「母」が「一体」になる、入れ替わる、新しく誕生するという動きと同じものである。

 この詩に書かれているのは「さびしい私」、孤独というものだが、それはセンチメンタルではない。新しく誕生するという動きがあるから、美しい。





詩集 道を小道を
伊藤 悠子
ふらんす堂

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誰も書かなかった西脇順三郎(101 )

2010-02-04 11:22:46 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 
 ひとは、どんなふうに詩を読むのだろう。私はとてもいいかげんだ。ぱっとページを開いて、目に飛び込んできた部分を読むだけだ。ぱっと見えたことば--それが動く。あ、おもしろそう、と感じてもそのスピードや変化に私のからだがついていかないときがある。ある意味では、私はことばを読む、というより私自身の体調を読んでいるのかもしれない。
 ほんとうは違う詩について書きたかったのだが、ふと目が「Ⅱ フェト・シャンペエトル」の「2」の部分で動かなくなった。

くぬぎの木によりかかつて考える時
初めて生存の根は深いのだ。
見えない世界にみみかたむけて
クワイの沈む水にも
みそさざいらしいものにも話が出来るのだ。

ポンタヴァンの木彫の女のように
可憐なしりを柔らかに突き出して
それから野原へとびこむのだ

 西脇のことばはたいがい軽くて速いが、ここではゆったり動いている。(きょうの私は、どうやらゆっくり動きたいらしい。)その「ゆっくり」を強調しているのが、最後の行の「それから」である。「野原へとびこむ」と書いているけれど、まだまだとびこむ気配はない。ただ、そのことを思っている(だけ)という印象がある。それは、その前の行の「可憐なしりを柔らかに突き出して」の「柔らかに」とも響きあっている。

可憐なしりを柔らかに突き出して

 うーん。「しり」は「可憐」なのかな? 「柔らか」なのかな? 学校教科書文法では「柔らかに」は「突き出して」にかかるのだろうけれど、私の「肉体」のなかでは、「柔らかに」はことばを逆戻りして「しり」を修飾する。
 ことばが一気に前へ前へと進むのではなく、進んだようにみせかけて、実は陰で(?)そっと引き返す--そういうような運動があり、それが「それから」にも影響するのだ。「それから」といいながら、ちっとも前へは進まない「それから」。
 そういうことは、現実にもある。
 あれこれ考える時が、そうである。あれをして、これをして、「それから」あれもする。でも、実際には何もしないなあ。「それから」だけが時間のなかでたまっていく。それが「おり」(淀?)のようになって、ゆっくり広がる。
 気をつけてのぞきこめば、そこには「私」が映っていたりする、かな?

 詩の後半部分から書きはじめてしまったが、「考える」という行が1連目に出てくる。「考える」というのは、そんなふうに、どこへも行かずに(詩では、「木によりかたつて」と動かない姿が描かれている)、「それから」を増やすことなんだろうなあ。1連目に「それから」は書かれていないが、「それから」を補っててみると、この詩のゆったりしたスピードがよくわかる。

くぬぎの木によりかかつて考える時
初めて生存の根は深いのだ。
(それから)
見えない世界にみみかたむけて
(それから)
クワイの沈む水にも
(それから)
みそさざいらしいものにも話が出来るのだ。

 「初めて生存の根は深いのだ。」と「見えない世界にみみかたむけて」のあいだには深い断絶がある。そのために句点「。」も書かれているのだが、無意識の「それから」はそういう深い断絶も、何もなかったかのようにつないでしまう。「生存の根は深い」などと、どこへも動いていけないことばを動かしてしまったあと、もう「それから」ということばでもつかわないことには、何も動かない。
 「それから」はほんとうに次を必要とするのではなく、次の「思考」(思い、感情)がやってくるまで待っている時間なのだ。
 「生存の根は深い」という「考え」は、いったんやめてしまう。
 「それから」見えない世界に耳を傾ける。それは「見える世界」を「目」でみるのをやめて、「耳」で見るということだ。「目」を「肉耳」にする。あるいは「耳」を「肉眼」にする。そうすると、「頭」ではできなかったことができる。
 たとえば、クワイ、みそさざいと会話することも、できる。
 それは「頭」でする「会話」ではない。「頭」でできる会話ではない。「肉体」でなければできない会話である。そういう「肉体」になるために、「頭」は「それから」ということばのなかへ捨てなければならない。

 1連目では書かれていないが、そこには「それから」がたくさんたまっている。それに気づいているから、西脇は2連目の最後に「それから」を書き残し、そうすることで、その「それから」という時間の中に「頭」を捨て去るのだ。
 「頭」を捨て去って、女の可憐な、柔らかな尻になって、野にとびだすのだ。

 そういう夢を見ている。ゆったりと。

最終講義
西脇 順三郎,大内 兵衛,冲中 重雄,矢内原 忠雄,渡辺 一夫
実業之日本社

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山口賀代子「はなれよ」、新井啓子「舟」

2010-02-04 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
山口賀代子「はなれよ」、新井啓子「舟」(「続左岸」33、2010年01月31日発行)

 ことばと「事実」はどういう関係にあるのだろう。「事実」があって、それをつたえることばがある。「もの」があって、それに「名前」がある、それがことば。普通はそう考えるのだと思う。一方に「もの」とか「事実」があり、他方に「ことば」がある。それは一対一の関係にある。あるいは、その一対一の関係があってこそ、世界が成立する、--そう考えるのだと思う。
 でも、ほんとうは違うかもしれない。
 山口賀代子「はなれよ」のなかほど。

そのむらでわたしはひとりのせいねんにであった そのとき こんどくるまでにといってあずけてきたものがある それはきおくだったかもしれないし みらいだったかもしれない そのなにかわからないふたしかてものをうけとると せいねんはわたしにきたくをうながし みたくなったらいつでもおいでと いったようなきがするが そのようなことはいわなかったかせしれない きてはいけない と いわれたようなきもするが あれはえいえんにきてはいけないということであったのか それとも くるにははやい と いういみであったのか

 ここには「事実」というものがない。「事実」というものが何なのかわからない。そして、ただことばだけがある。ことばが発せられるたびに、それらしい(?)事実が浮かび上がるが、すぐに次のことばでかき消される。
 「事実」があって「ことば」があるのではない。「ことば」があって「事実」を呼び出しているのだ。どこから? ことばが生まれる「場」からである。
 だが、ほんとうにそうか。
 ほんとうに「ことば」は「事実」を呼び出すのか。そうではなくて、「ことば」は「事実」を隠しているのかもしれない。「事実」と向き合ってしまうと、何か、とんでもないことが起きる。とんでもないこと、というのは「わたし」がわたしではないらなくなるようなことがらである。そういうことを避けるために、「事実」を隠す道具として「ことば」がつかわれている。
 もし、そうなら。
 普通に考えられていること、「事実」をつたえるためにことばがある、という定義は、まったくの嘘になる。
 なぜ、そんな嘘が必要なのか。

あれはえいえんにきてはいけないということであったのか それとも くるにははやい と いういみであったのか わからないまま おわれるようにやまをくだったが ほんとうは とおざかったのではなくすこしだけとおまわりをしながら いっぽ いっぽ はなれよにむかって あるいているのかもしれない

 離れることが近づくこと。ここにある矛盾。たぶん、ことばとは矛盾したものなのだ。必ず矛盾してしまうのだ。何事かをいうこと、ことばは何事かを隠してしまう。同時にふたつ(複数)のことを言えない。世界には「複数」のことがらが存在するが、それを同時にはつたえられない。
 「こころ」や「考え」になってしまうと、それはもっと複雑になる。それは「ひとつ」なのか「複数」なのかもわからない。「ひとつ」が複数に見えるのか、「複数」がひとつに見えるのか--そのことさえ、人間は知らない。
 それでも、ことばをつかう。
 言いたいことから離れていくのか、それともそれは近づいていくことになるのか。わかるのは、そういうことがらは、いつでも「それとも」を用意しているということである。「それとも」は「事実」をあばきながら「事実」を隠す。「事実」は「それとも」しかない、とでもいうように。

あれはえいえんにきてはいけないということであったのか それとも くるにははやい と いういみであったのか わからないまま

 わからないまま、どこまでことばを動かしていけるか。--山口が試みていることは、そういうことだと思う。この「わからないまま」、「それとも」の内部へ入っていくことばの運動は、とても魅力的である。ただ、山口の書いていることは、ちょっと短い。もっともっと長々と書いて、何が書きたかったのか、山口自身がわからなくなるまで動いていくと、ことばにもっと手触りが出てくると思う。その「手触り」が「事実」にかわってくると思う。



 新井啓子「舟」は「ことば」というかわりに、ほかの「もの」をつかって、どっちがほんとう? どっちが先? という世界を描き出す。夜を進む舟を描いているのだが、その3、4連目。

舟の中に積まれているのは 海を渡る鳥の風切り羽 飛
び疲れた鳥は 舳先にとまり羽を繕う くちばしで整え
られ すり抜けて 船主から船尾へ 重なり合って 羽
は舟に落ちる

鳥は闇の間で小さく身震いをする 白く明るい時の隙間
に 飛んでゆく支度をする 一本一本繕って するりと
羽を 落としてくると 自分の体温を確かめる 鳥は思
う 今夜はどこまで飛んで行けるのだろう

 詩のテーマ(主語?)は「舟」なのか「鳥」なのか、わからなくなる。というより、舟が鳥になり、鳥になることが舟であることなのだ、という「矛盾」をのせて、夜を進むことになる。「鳥」が舟を隠してしまうのか、隠されることで舟は舟でありつづけることができるのか。
 わからない。そして、わからないからこそ、それは詩なのだ、と私は思う。





詩集 海市
山口 賀代子
砂子屋書房

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水曜日
新井 啓子
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(100 )

2010-02-03 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇のことばは自在に運動する。その「領域」は限定されない。「常識」にしばられていない。
 「地獄の旱魃」という作品。そこに描かれているものを見ていくと、「対象」が次々に変わっていくことがわかる。クールベ、キュクロス、スペンディユウス、ルソー、ニイチェ、マイヨル、ゴーガン……。なんの説明もなく(?)、ただ、ことばが対象を渡ってゆく。

マイヨルの木彫の女

我国の彫刻家はどうして
裸女の前面ばかり気にしているのだ。
うしろに偉大な芸術が
ふくらんでつきでている

ひがん花が咲いている日
ゴーガンの画布を憶う日

ゴーガンの裸体のタヒチの人々
がすきだ殆ど仏画だ。
なぜあんな絵を綴織りの壁掛におらなかつたのか

 ひろびろとした気持ちになる。「うしろに偉大な芸術が/ふくらんでつきでている」は女の尻こそ芸術だということをいっているだけなのだと思うが、そう思って読み返すとき、あ、詩とはやっぱり「ことば」なのだと思う。「意味」ではなく、「ことば」。その「音」の動き。「意味」を捨てて「音」になるための、たくまざるなにかがある。そのなにかが、きっと詩人と詩人ではない人間をわけるのだと思うが……。
 「ふくらんでつきでている」--その音の中に、私は丸く輝く「月」を見てしまう。たんに尻がつきでたでっぱりであるというのではなく、月のように静に肉体からのぼってくる感じがする。そう感じさせる「音」が、そこにはある。

 「ひがん花」と「ゴーガン」は、まるっきり違うものだが、「音」が似ている。違うものを、さっと渡ってゆく「音」の不思議さ。

 「がすきだ殆ど仏画だ。」--この行のわたり。「学校教科書」の文体なら「ゴーガンの裸体のタヒチの人々がすきだ/殆ど仏画だ。」になるのだが、西脇は、そんなふうには書かない。そう書かずに、

ゴーガンの裸体のタヒチの人々
がすきだ殆ど仏画だ。

 と書くとき、ゴーガンの絵と、仏画がくっきりと並んで、そこに存在する。そして、そのふたつの存在を「すき」が強烈に結びつける。「がすきだ殆ど仏画だ。」は学校教科書の文法では奇妙なことばであるが、「すきだ」と「殆ど仏画だ」のあいだに「間(ま)」がないということ、それがふたつでひとつであるということが、とてもおもしろいのだ。ことばは、ふたつのものをひとつにしてしまうこともできるのだ。

色ざめたとき色のフランネルの女の腰巻の
迷信のウルトラ・桃色は染物屋の残した
最後の色調

 西脇の詩を(ことばを)読んでいると、「もの」があって、それを「ことば」でつたえているというよりも、「ことば」が、そのつど「もの」を現実の世界へひっぱりだしているという感じがする。
 西脇は「対象」を描いているのではない。西脇は、ことばで「もの」を「世界」へひっぱりだしているのだ。ことばがいつも「主体」(主語、主人公)なのだ。だから、何を描こうと、それはアトランダムにものを描いているということにはならないのだ。

榎の大木は炭にやかれた
坂の土手に
山ごぼうが氾濫した。
実は黒く熟してつぶれた
いたましい汁をたらすのだ。

 そして、西脇の「主体」(主語、主人公)は、いつでも「音楽」を生きている。自在に動く「音楽」が、ことば全体を「ひとつ」にしている。

いたましい汁をたらすのだ。

 この行のなかには「たましい」が苦悩している。苦汁している。苦汁の汗をたらしている。そして、それは「山ごぼう」という素朴な自然によって浄化させられる。素朴ないのちが、人間をいつでも「最初」の場所にひきもどすのだ。だから、たましいが苦汁しているにもかかわらず、それが美しく見えてくる。





ボードレールと私 (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
文芸文庫

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田中昌雄『蟻のカタコンベ』

2010-02-03 00:00:00 | 詩集
田中昌雄『蟻のカタコンベ』(編集工房ノア、2010年01月01日発行)

 田中昌雄『蟻のカタコンベ』には、いろいろなことばが「同居」している。その「同居」のあり方が、私には、かなり不満である。
 と、書いてもしようがないのかなあ。
 たとえば、「風のゴースト」。その書き出し。

石の吐息
生き物の粉末
ときに、血と悲鳴

 「石の吐息」「生き物の粉末」「血と悲鳴」は同じ「音楽」、「ときに、」は別の音楽。それは、「同居」できないことはないのだけれど……。そして、私の「好み」をいってしまえば、「ときに、」の方の音楽が、「石の吐息」などの「音楽」を突き破って動いていく瞬間が好きなのだけれど……。
 2連目。

秘語は
肌で聞かねばならないが
わたしは、皮膚が退化しているので
風は、ただ風

 うーん、逆に「石の吐息」の音楽の方が「ときに、」の音楽を封じ込めている、と感じてしまう。そして、その「流通言語」、ちょっと古くない? あ、私は、ここでつまずいているんです。
 「ときに、」という文字を読んだときは、なにかがはじまるかもしれない、と感じたけれど「秘語」だの「退化」だのということばが、(引用はしないけれど……)ほら、4連目の「逸脱」「妄念」などど簡単に響きあって、こういうことばの運動なら、すでにもう存在してしまったという気持ちになるのである。

 と、書きながら、この詩集について(あるいは、この詩について)書きたいなあと思うのは、そして書いているのは、最終連が忘れられないからである。

あっ、遠くで消防自動車が走っている
(どこかでぼくが燃えている?)
-だったら、空目、空耳を澄まして
 貝殻を助けにいかなくっちゃ…

 「ときに、」のリズム、深呼吸して「肉体」のなかから、いままで存在しなかったリズムと音を出そうとするときの「肉体」の動き--それに呼応するように、ふいにあらわれてくる「空目」「空耳」。あ、いいなあ。
 見誤り、聞き違い--それは、「いま」「ここ」にないものを見てしまうこと、聞いてしまうこと。そして、その瞬間、ことばではないものが、ことばになってしまう。ことばが暴走してしまう。
 田中は「石の吐息」も「ことばの暴走」と考えているのかもしれないけれど、そしてそれはたしかに以前はことばの暴走だったのかもしれないけれど、いまでは「ことばの予定調和」。それを破ってしまわないことには、ことばは自由に動き回れない。

 ひとは見誤る、聞き間違える。それは、ほんとうは、現実をそんなふうにねじまげてしまいたいという欲望が「肉体」のどこかに潜んでいるからかもしれない。

あっ、遠くで消防自動車が走っている
(どこかでぼくが燃えている?)

 それは、「空夢」なのだが、「空夢」はことばにすれば「正夢」になる。ちょっと補足すれば、「現実」の「世界」において「正夢」になる、というのではない。ことばの世界、「夢」のなかでは「空」と「正」の区別はないということである。
 ことばが動けば(夢は、ことばで見る)、そこにいままで存在しなかったことが存在する。存在があって、それをことばでとらえるのではなく、ことばがあって、それが存在を変形させる。ゆがめる。そして、自分の「肉体」にあったものにしてしまう。
 いつでも人間は、「存在(現実)」を自分にあったものにかえたいという欲望をもっている。それを、ことばのエネルギーで強引に作り上げてしまう。「現実」を破って、非在を存在させてしまう。そういうことがある。
 「空目」「空耳」ではなく「肉眼」「肉耳」が、見て、聞いたもの--それが「肉体」を突き破って「いのち」になろうとしているのかもしれない。
 
 田中が最後に書いている「貝殻」。それがどんなものかわからない。わからないけれど、どんな貝殻であっても、それが見たい、それに触れたい、そんなことを感じた。「空目」「空耳」を突き破って動く「肉眼」「肉耳」を感じた。


  
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ピーター・ジャクソン監督「ラブリーボーン」(★★)

2010-02-02 22:19:39 | 映画

監督・脚本 ピーター・ジャクソン 出演 シアーシャ・ローナン、マーク・ウォールバーグ、レイチェル・ワイズ、スーザン・サランドン

 「ラブリーボーン」の「ボーン」を映画を見るまで、「骨」だとばかり思っていた。いつまでたっても「骨」が出てこない--変な映画、と思いつづけてみていたのだが……。あ、「ボーン」は誕生だったんだねえ。
 少女が殺されるストーリーなのに「ラブリーな骨」では俗悪すぎるか……。でも、私なんかは、げてものが好きなので、「骨」を期待してたんだけれど。

 予想とは違ったのが残念なのだけれど、それにしても奇妙な映画。
 変質者に殺された少女が家族のことを心配する。そして、それを殺された少女の視点から描く。画期的といえば画期的だけれど、しっくりこない。犯人に対する少女の怒りが感じられないのだ。変じゃない?
 これは少女の視点から描いた--という体裁をとりながら、家族の視点から少女を思いやっている映画なのだ。愛する娘(姉)が殺された。その少女は、家族のことを心配して「天国」へいけずに、さまよっている。家族思いの少女に答えるために、家族は、少女の死、その悲しみをどう乗り越えていけばいいか。
 家族の誰か(父であってもいいし、母であってもいい、妹か弟であってもいい)が、少女はきっと残された家族のことを思いつづけている。だから、家族が力を合わせて助け合い、愛し合い、この悲しみを乗り越えなければいけない。そうしないと、少女は安心して天国へゆけない。きちんと生きていくことが、少女を天国へ旅立たせるための全体的な条件である。
 家族だけではない。恋人も同じ。少女の思い出は思い出としてこころに秘め、新しい愛へ進まなければならない。生きることが、少女にやすらかな眠りを与えることである。
 少女を愛したひとたちが、それぞれ再生する--その再生したいのちのなかで、少女もまた生まれ変わる。いきいきと生き続ける。
 うーん。わかるけれどさあ……。
 これって、映画じゃなくて、小説の仕事だよなあ。「映像」ではなく、「ことば」の仕事だよなあ。「映像」では、そんなことはまったくわからない。「ことば」なしでは、なんのことかさっぱりわからない。
 だから、ほら。
 映像よりも前に、死んでしまった少女のナレーションがすべてを説明する。「犯人」が誰かも、少女が「ことば」で説明する。(ショッピング・モールにいた怪しげな男が犯人ではない、なんてことまで、あらかじめことばで説明する。)少女自身の心配や喜びも、ぜんぶナレーション。ひどいでしょ? 映画として。映画になってないでしょ?
 

 犯人が事故で死んで、それで事件が解決--というのも、安直というか、いいかげんだなあ。それで家族は安心というか、気持ちが晴れるの? 殺された少女の気持ちは?
 不全感が残るなあ。

 *

 映画の感想になるかどうかわからないけれど……。
 犯人を誰がやるか。キャスティングのことだけれど。私は、映画がはじまってすぐ、こういう映画なら、ウィリアム・ハートがやるとおもしろいなあ、と思ったのだけれど、似てましたねえ。風貌が。禿げさせて、もっとやせていればウィリアム・ハートそのものじゃない? ウィリアム・ハートは「善人」役が多いようだけれど、やっぱり(?)「悪人顔」と思う人がいるんだなあ、と退屈にまかせて考えていました。
 きっとウィリアム・ハート自身がやった方が、この映画は怖くなったと思うけれど、そうすると、「ラブリーな誕生」(あるいは、「ラブのあるリ・ボーン 再生」)ではなく、ほんとうに「ラブリーな骨」の世界になってしまうかな?


 


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