詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

河邉由紀恵「うさぎ」、齋藤恵子「水」

2010-07-03 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
河邉由紀恵「うさぎ」、齋藤恵子「水」(「どぅるかまら」8、2010年06月10日発行)

 河邉由紀恵「うさぎ」には改行も句読点もない。どこに区切り(?)があるのかわからない。

かると・ド・ヴィジット不眠症の少女はだき人形
の小指をかみながら退屈なひるの時間をやりすご
す人形の名前はアリス・リデルびろうどのタペス
トリーがゆれ色あせたテーブルクロスがゆれアリ
ス・リデルの足がゆれもう余分な時計はいらない

かると・ド・ヴィジットがらすネガのなかの少女
はくらい部屋の隅っこで耳をすませて男が来るの
を待っているくるこない近づく男の足音に耳をた
てる小さな少女のうっすらと赤くなるほそくてな
がい末消血管のたぐいは少女の長い耳にあつまる

 そして、ここには書かれていない「切れ目」、そのないはずの「切れ目」へ意識が迷い込んでいく。
 深淵、暗い断絶があって、そのために向こう側へ渡れない--というのは、現実にも夢にも起きることだが、河邉は、それとは逆のことをやっている。河邉のことばは「切れ目」(隙間)を見せないことで、世界を変形させる。
 世界には「断絶」がなければいけないのだ。世界は、つながっていけはいけないのだ。なぜ、つながっていてはいけないのか。--それは、存在(形)というものが、それぞれ独立することではじめてそれ自身となるからだ。
 河邉は、そういう存在の本能のようなものを拒絶している。
 その拒絶の意思、存在の孤立を許さない意思のようなもの、それに引きずり込まれる。強引さに引きずり込まれる。

男が来るのを待っているくるこない

 この「くるこない」は花占いのようなものである。そして、その占いでは「くる」と「こない」は深く密着している。ねじれ、からみあい、「くるこない」でひとつのことばなのである。ひとつの夢、ひとつの願いなのである。
 「くる」だけが夢、願いであるなら、世界は単純である。「こない」ということが決まってしまえば、世界は単純である。
 ところが、恋においては、それは「切れ目」がない。あくまで「くるこない」がぴったりくっついていて、切り離せないのが、欲望なのだ。
 「くるこない」は矛盾だが、その矛盾を、河邉はことばで、そこに出現させてしまう。そして、それが出現してしまうと、不思議なことに、切れ目のないはずの「くるこない」に、--そのことばの奥に、どうすることもできない「断絶」が見えてくる。隠されている「断絶」、あまりに深く矛盾するものが押し合いすぎて、その内部に入った「ひび」のようなものを感じてしまう。

 あ、どうも、変なことを書いているなあ。

 でも、そんなふうにしか、私には書けない。存在と存在が、ぴったりとくっつき合い、押し合う。そのとき、密着した面がくっつけばくっつくほど、存在と存在のあいだには、見ることのできない「ひび」が入ってしまう。それはまるで「ひび」であること、そのこと自体が「存在」の理由であるような感じだ。
 河邉はだれにもわからない「ひび」、見えない「ひび」になって、世界を告発したいのだ。
 「ほそくてながい末消血管のたぐいは少女の長い耳にあつまる」--というときの「血管」は、河邉には「ことば」かもしれない。「ことば」は河邉のまわりにびっしりと集まり、(それはほそくてながくて、分離できず)、その「あつまってくる」という力で、河邉を「うっすらと赤く」する、しずかに発熱させる、発火させる、--そのしずかな、その奇妙な、熱が、「ことば」のなかにある。



 齋藤恵子「水」にも、不思議な「切れ目」がある。齋藤だけが見る「切れ目」と「連続」がある。切断と連続がある。

母が二階にあがっていく
母はふたりの姿になっている
着物を着ている元気な母
病んで腰がまがり目も視えない母
(略)

着物の母が病者の母をかばい
人目をしのぶように足音をたてず階段をあがる
身体と気持ちが分かれてふたりになったのだろう
背中だけのひとになってしまった母
ふたりの顔は同じはず
今声をかけてはいけない
ひとりに戻れないかもしれない

 ここに描かれている「母」は齋藤の「意識の母」である。齋藤のことばによって、はじめて「ふたり」になった母である。齋藤のことばが描写しなければ、「ふたり」にはなりえない母である。
 その母に、ことばの母に、

今声をかけてはいけない
ひとりに戻れないかもしれない

 というとき、それは齋藤が自分自身のことばに対して課した「禁忌」である。
 河邉の作品、河邉のことばとつなげてしまってはいけないのだろうけれど、私は、そこに不思議な連続性を感じる。
 ふたりの母は、ふたりに分かれながら、実はぴったりとくっついて、互いに押し合っている。そこには深い亀裂がある。亀裂があるのだけれど、ぴったり押し合っている(互いが互いを必要としている)ので、その亀裂は、互いを必要とするということのなかに隠れてしまっている。けれど、隠しても隠しても、というか、必要とすれば必要とするほど、その内部で、絶対に復元できない「ひび」が育っていく。
 だから、声をかけてはいけない。
 声をかけると「ひび」は一気に成長して、齋藤のことばを押し退けて、どこまでも成長してしまう。
 いま、齋藤が「肉眼」で見ているのは、「いま」「ここ」でしかありえない、緊密な「緊張」なのだ。

 緊張のなかには、深い深い「ひび」がある。見えない「ひび」がある。

 少女が少女ではなくなるときの緊張--河邉が描こうとしているのは、そういう緊張かもしれない。ひとが一生のあいだで一瞬だけ抱え込む緊張。そこから、世界を告発しようとしているのかもしれない。
 齋藤は、こんなことを書いてはいけないのかもしれないけれど……ひとがひとでなくなるときの緊張、生から死へのあいだにある緊張を書いているのかもしれない。母は、肉体の内部で「ひび」が深まっているのを知っている。そして、その「ひび」は、実は、母を知っている齋藤にも実感できる。まるで、自分自身の内部の「ひび」のように。その「ひび」に対する恐れのようなものが、ことばを動かしてしまう。ことばが、見てはいけないものを見てしまう。
 ことばはいつだって、人間が見てはいけないものを見てしまう。そして、その見てはいけないものを書いてしまうのが文学である。
 わかっているから、せめて、言うのだ。

今声をかけてはいけない

 あ、でも、見てしまったもの、見てはいけないものを見てしまった人間は、それを書かずにはいられない。「今声をかけてはいけない」なんて、もう、ほとんど言ってしまっている。言ってしまっている以上を言ってしまっている。
 矛盾だねえ。
 ことばは、いつでも矛盾してしまうねえ。
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アルバート・ヒューズ、アレン・ヒューズ監督「ウォーカー」(★)

2010-07-02 22:42:53 | 映画
監督 アルバート・ヒューズ、アレン・ヒューズ 出演 デンゼル・ワシントン、ゲイリー・オールドマン、ミラ・クニス、トム・ウェイツ

 デンゼル・ワシントンの「座頭市」か……。
 でもさあ、座頭市が教養があっちゃ、つまらないよなあ。勝新太郎と座頭市をごっちゃにしちゃいけないのかもしれないけれど、やっぱり、愚かじゃなくっちゃ。ばかだけど、純情。そういうのが、美しい、というものじゃないかなあ。
 なんて、映画とは無関係な感想かな?

 この映画、何がひどいかというと、ストーリーが映像になっていない。映像を「ことば」に置き換えないと、ぜんぜんおもしろくない。ボルヘスがこういうストーリーを書くと、夢のようにくっきりしたものになるんだろうけれど。すべてが既視感のあるものになって、それが逆にこわくなるんだろうけれど。
 この映画のひとつひとつのシーンも「既視感」という点で言えば、既視感。悪い意味だよ。ぜんぶ、どこかで見た感じがするというだけのこと。
 ボルヘスの既視感は違うね。見たことがないのに、脳のなかへ、その奥へ、ぐいと入ってきて、脳のなかにある余分なものを追い出してしまって、今読んだことばだけが存在するという錯覚を起こさせる強烈な既視感。知らないものまで、知っている、と感じさせる既視感。芸術は、そういうものじゃないとねえ……。
 なんて、言っても、はじまらないか。

 せめて、デンゼル・ワシントンが最初から「座頭市」として登場していれば、映画は少しは違ってきただろうになあ。
 「音」がほんとうにストーリーと噛み合わさっているのは、デンゼル・ワシントンが立ち寄る一軒家、その老女の手の震えがコーヒーカップを持つとき震える、そしてカチカチと音がするというところだけだもんなあ。
 こんなシーンや、嗅覚が鋭いことを知らせるシーンが「伏線」と言われてもなあ。
 観客をばかにしきっている。




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三井葉子『人文』(3)

2010-07-02 00:00:00 | 詩集
三井葉子『人文』(3)(編集工房ノア、2010年06月01日発行)

 ことばの鍛え方、ことばを自分自身のものにする方法にはいろいろあるだろう。論理的な文章をたくさん読む、感覚の鋭い表現に出会うたびにそれをメモして自分のものになるまでくりかえす、外国語を訳すということをやってみる--ひとは、それぞれに努力をすると思う。
 三井の場合は、どうか。
 いろいろな努力をしているのだろうけれど、私には、その努力のあとが見えない。
 三井が努力をしていないというのではない。努力の仕方が、まるで山を歩いて、そこに自然に道ができるような努力の仕方なのである。山を歩くといっても、自分で新しい道をつくって歩くというのではない。だれかが歩いた跡がある。草が倒れている。だから、その上を歩いて行ってみる。そして、それは新しい道をつくるという「自覚」(意識)がつくるのではなく、あ、こっちの方がみんなが通りやすい。みんなが通っている、だから、そのひとになじんだ、ひとにやさしい道を歩く。--そういう感じだ。
 もし三井に、努力というものがあるとすれば、それはひとに険しい道を避ける、ということだろうと思う。新しい独自の道ではなく、だれでもが通った道、その道をていねいに歩く。裸足で、足裏で、その道を踏みしめた人々の足裏を感じるように。ときには、足裏だけではなく、あ、ここのへこみはどうしたのだろう、としゃがんで手の平でふれてみる。耳を押し当てて、音が聞こえないか聞いてみる。ときには、残された小石を口に含んでなめてみる。そうやって、道の「歴史」を「肉体」のなかに取り込む。「肉体」に取り込んでいいものだけを、ていねいによりわける。そういう努力をしているのだと思う。努力という意識もなしに。
 たとえば俳句。こういう言い方は俳句をやっているひとには迷惑かもしれないけれど、俳句は短い。無理をせずに、ぱっと読める。だれでもが五・七・五と指を折って、ことばを動かしている。それを三井もやってみる。だれもやらないことと、しゃかりきになって向き合って、力づくでなにかをするというのではなく、構えずに向き合い、そのことばのひとつひとつを「肉体」のなかに取り込んでいる。ひとつのことばが、どんな「肉体」をとおってきたのか、その「肉体」と自分の「肉体」は出会うことができるのか。もしかしたら、隠れてセックスできるのかなあ。ちょっと、なめてみてもいい? つねって意地悪してもいい? 返ってくる反応に「肉体」でこたえながら、三井は三井のことばをふくらませてきたのだと思う。
 ほかの、まだ出会ったことのないことばが、ぽとんと三井の「肉体」の上に落ちてきたら、それを綿のように受け止めるため、ふくらませてきたのだと思う。新しいことばは、あ、この場所、ふわふわしていて気持ちがいい。下の方には栄養もたっぷりあるみたい。ここで根を張って、芽を出して、花を咲かせて、実を実らせたい--そんなふうに思えるような、ことばのための、ことばのやさしい「畑」。「道」なんだけれど、そのそばには何を育ててもいい「畑」があるような感じといえばいいのかなあ……。
 こんなことは、いくら書いても、何も言ったことにはならないのだけれど。でも、「あまい豆」という詩に出会うと、あ、これこれ、この感じ--といいたくなる。

あ それで
思い出した
ことばは種だった

農民のふるいふるい族だろう わたしに
生きることは
種播く
ことだった
のだ

ことばは 種
芽が出る
はなが
咲いて

ことばといっしょに育ち
ことばと実り
それはそれはかみさまのなさるようなことをした

ことばは身体
え?
そう


ことばは種だったのだ
わたしは枝を
出して枝のさきに
月を抱いた

ことばはしみじみと五体にしみとおって
種 播いたことも忘れているのか

ねえ

ほら

ぜんざい すする
あまい 割れた豆。

 「種」と「ことば」と「わたしの身体」、それから「種から育った枝」の区別がなくなる。月だって、区別がない。
 人間の仕事というものは、たしかに三井の書いているとおりだと思う。
 私も農民のふるい子孫(?)なのでよくわかるが、種を買ってきて畑に植える。芽が出て、花が咲いて、実る。そのとき、育っているのはたとえばキュウリであり、ナスであり、オクラなのだが、それを見るとき、農民はいちいちことどにはしないけれど、あ、芽が出た、茎がのびた、つっかい棒をしなくっちゃ、ツルをはわせる竹を組まなくっちゃ、と思う。植えたキュウリやナスが育つのにあわせて、ことばもいっしょに育っている。ことばは、語られることはないけれど、「肉体」のなかに、何をすべきかという認識そのものとして育っている。

それはそれはかみさまのなさるようなこと

 ほんとうにそう思う。私は特別な宗教を信じているわけではないけれど、たしかに植物が育ち、それにあわせてことばが育ち、それが組み合わさってものをつくるということになる、というのは「かみさまがなさること」。
 いいなあ。
 だれもが「かみさま」に触れ、そしてちょっぴり、「人間」の枠を超える。そして、ね。

ことばは種だったのだ
わたしは枝を
出して枝のさきに
月を抱いた

 あ、こんなことまで、できてしまうのだ。遠い遠い空の彼方の月。それを、枝になって、抱き留める。そうすると、月はしみじみと「肉体」(三井は「五体」と書いている)にしみとおる。
 ことばとなって。
 まだ、ことばにならない、ことば以前のことばとなって。

 それが「ことば以前のことば」なので、三井は、むりにそれをことばにはしない。いつか、だれかが、三井でなければ、 100年後、1000年後の、たとえば新しい「芭蕉」が三井の踏みしめた「足裏」を確かめるようにして、そのことばを踏み、美しいことばにするだろう。
 そのときまで、三井は待っている。
 「ぜんざい」なんかをすすりながら。「あまい 割れた豆」--って、これも、ねえ、「種」だよねえ。



 「ことば」という表現は出てこない、「種」という表現も出てこない。けれど「柳のように揺れ」も、長い時間をかけて自然にうまれてきた「道」に通じるものをしっかりとつたえている。

衣類を整理している
二十年も四十年も前の
どれひとつとして気に入らぬものはない
気に染まないと思いつつ納ってあったもの

気に入る

 この書き出しの「衣類」を「ことば(詩)」に置き換えてみると、三井の生き方がわかる。
 自分で必要と思ってつくったもの、買ったもの。なんだか気持ちにしっくりしない、気に入らないと思っていたもの--そういうものも、長い暮らしの時間のなかで、その奥底で、しっかりとつながってい生きている。いつか芽を出したいと願っている「種」のようでもある。そして、それは知らないあいだに、小さな芽さえ伸ばしはじめている。

どれひとつとして 気に入らないものはない
そのとき
どき
考えながら
どこと
どこを
たとえば昭和三十年と六十年をあわせても
出合いものの
たとえば
筍と若布の炊き合わせのようによく似合って
ゆるまない

 あ、すごい。昭和三十年のことばと六十年のことばが出会う。そこには、またあたらしい詩があるのだ。それは「ゆるまない」。ゆるみようがない。しっかりと、奥でつながっているのだから。ゆるまないどころか、新しく絡み合いながら、他のゆるんだところを引き締めるかもしれない。いや、ふるいものを突き破って、あっと驚かせるかもしれない。

こうして暮らしてきた
こうして繋いできたのだ と思う

風に揺れ
柳のように揺れ
五十年と七十年が出合っても いま はじまった恋愛みたいに
 あたらしい

衣類の整理をしている
まもなく 引っ越しなので。

 三井は、どんなことばも捨てずに「繋いできた」のだ。その「繋ぐ」ことのなかに、三井だけの「足裏」があるのではなく、出合ったこともないひとの「足裏」もある。だからこそ、「五十年」と「七十年」が出合うとき、そこに「見知らぬひと(その美しい足裏)」がふいにあらわれてきて、あたらしい恋愛がはじまる。こころがときめき、肉体がときめく。肉体がわかやぎ、華やぐ。

 かっこいいなあ。
 私は、もうほとんど「ストーカー」みたいにして三井の詩を、ことばを追いかけているけれど、「有罪」になっても、やめません。
 引っ越したって、隠れたって、追いかけていきますからね。
 と、「ストーカー宣言」をしておきます。ほんとうは、ストーカーなんて、味気ないことではなく、道行とか心中とか、古くてかっこいいことがしてみたいけれど……。




花―句まじり詩集
三井 葉子
深夜叢書社

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ジョージ・ロイ・ヒル監督「スティング」(★★★★)

2010-07-01 21:41:34 | 午前十時の映画祭
ジョージ・ロイ・ヒル監督「スティング」(★★★★)

監督 ジョージ・ロイ・ヒル 出演 ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード、ロバート・ショウ、チャールズ・ダーニング、レイ・ウォルストン

 なつかしいなあ。ポール・ニューマンもロバート・ショウも生きている。ロバート・レッドフォードも若いし、青い。
 映画のつくりもなつかしいねえ。タイトルがきちんとあって、章仕立て。撮影はもちろんセット。ロバート・レッドフォードが町を歩く。ほら、ロバート・レッドフォードの影が濃くなったり薄くなったり、右に映ったり、左に映ったり。現実の太陽の光じゃ、そんなことはないよね。セットの証明のせい。わざと、それを見せている。いいねえ。なつかしいねえ。これは映画ですからね、嘘ですからね、と何度も何度も断わりながらストーリーが進んでいく。
 にくい、にくい、にくい。
 ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードがどんなふうにロバート・ショウを騙すか--その手口をずーっと事前に説明しながら、最後の最後は、ロバート・ショウではなく観客を騙す。ロバート・ショウももちろん騙されるのだけれど、観客の方がもっと騙される。
 ロバート・レッドフォードが口のなかに血弾(?)を入れるシーンをちゃんと見せているじゃないか--と、たぶん、監督と脚本家は言うだろうけれど、違うよねえ。その説明--あとだしジャンケンじゃないか。
 というようなことはさておいて。
 私がこの映画でいちばん好きなのは、ラストシーン。見事ロバート・ショウを騙す、チャールズ・ダーニングをも騙すというシーンではなく、何もかもがおわって、「舞台」を片づけるシーン。ここが好きだなあ。
 映画ですよ、映画ですよ。
 楽しかったでしょ?
 つくっている私たちもとっても楽しかった。
 でも、映画は映画。嘘は嘘。終わってしまったら、セットを片づけてみんなそれぞれの家へ帰っていくんですよ。
 いいなあ、このさっぱり感。
 こういう映画は、やっぱり絵に描いたような色男--現実には存在しない色男じゃないと、さっぱり感がでないよねえ。そういう意味では、ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォードは、いい組み合わせだねえ。ともに、「重さ」がない。日常を感じさせない。



 気になったことがひとつ。福岡天神東宝で見たのだが、映像のピントが甘い。シャープな輪郭がない。もともとそうだった? それともフィルムの劣化? あるいは映写技術の問題? もともと天神東宝の映写技術には問題があるのだけれど。特に「午前十時の映画祭」の作品を上映している5階の映画館の音はひどい。途中で必ず「ぶーん」という雑音が入る。どうにかしてよ。
                         (午前十時の映画祭、21本目)



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三井葉子『人文』(2)

2010-07-01 00:00:00 | 詩集
三井葉子『人文』(2)(編集工房ノア、2010年06月01日発行)

 三井葉子『人文』には俳句が出てくる。「枯野」という作品は「旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る 芭蕉」を踏まえている。とは、いっても、ほんとうに踏まえているのかどうかはわからない。ことばが「文」(文学)になるまでには、山の中の道が踏み固められてできるよりも、もっと時間がかかるかもしれない。芭蕉がつくった句であっても、そこに芭蕉だけが歩いているわけではあるまい。
 ということは。
 と、私は、突然飛躍するのである。その芭蕉も通っただろうけれど、芭蕉じゃないだれかの踏みしめた「足跡」を、自分の足でたどってみてもいいんじゃないだろうか。そのことばのなかに、だれのものであるかわからない「足跡」、いや、その足の裏の感覚を感じてもいいんじゃないだろうか。
 と、三井が感じるかどうかはわからないが、私は感じてしまう。
 三井が芭蕉の俳句を踏む。そうすると、その三井の足の裏には芭蕉の足を超えた、もっと別のひとの足の裏の感じ、ことばを踏みしめて歩く別のひとの足の裏の感じが「肉体」そのものとしてつたわってくる。それを、三井は、三井のことばで語り直している。

穴に入るまでのひと呼吸
蛙はちょっと考えている

穴に入るまでのひと呼吸
蛇も ちょっと
考えている

腐葉土の
いい匂い

栗も爆ぜる

ああ 世界かァ
とわたしは思う

どうしようかと考えているところを世界というのかァ とわたし
 は
思う

枯野という世界もあるのかと思う わ
はせをさん

 「どうしようかと考えているところを世界というのかァ」がすばらしい。ひとは(動物も)同じところをとおる。それが「道」になる。ことばが繰り返されて、「文」になっていく。とは、いうものの、そんな簡単には「道」にならないし、「文」にもならないだろう。そのたびに「どうしようか」と思う。ひとも、動物も。
 その「ひと呼吸」、「どうしようかなあ」と思う「ひと呼吸」が、しずかに「肉体」を動かすのだと思う。そこでは「ことば」は動かず、ただ「肉体」が動く。

 「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」とは言うものの、実際に、駆けめぐりはじめるまでの「ひと呼吸」、決意のひと呼吸、踏み出すまでのひと呼吸--それが三井には、瞬間的に見えた、ということなのだろうなあ。



 この「ひと呼吸」を「蛙とびこむ」では別のことばで言っている。

死ぬわ というと
おお そうかとさきに死んでくれるおとこ

はずかしい というときにはずかしいことをして

ああ たったいちまい
こんなうすい皮を破ることができないとみもだえている
夜明けの
うすい
雲 の
ような

 うーん。「古池や蛙とびこむ水の音」という句が念頭に置かれているのだけれど……。そうか、古池の水面、その表面が「うすい皮」か--と思いたいのだけれど。
 私は、すけべなのかなあ。
 ぜんぜん違うことを考えてしまう。
 男と女のセックス。「死ぬ」とか「いく」とか。どっちが、先か。「はずかしいこと」なのか、「はずかしい」をとおりこしたことなのか。まあ、どっちでもいいけれど。その「死ぬ」というときの、瞬間的な、破壊。「うすい皮」? それは、この世とあの世の境にあるうすい皮かもしれない。
 それは、うーん、「死ぬ」といいながら、一回では死ねない。「ああ、もうすぐ、もうすぐ、もうすぐ」と身悶えながら、
 どっちが先に「死ぬ」?

 よくわからないねえ。

 ねえ、三井さん、「古池や蛙とびこむ水の音」を読みながら、ほんとうに、そんなことを考えたの?
 いや、そんなことは考えていません。かってに、いやらしいことを考えないでください。自分の妄想をひとの妄想にしないでください、ぷんぷん。
 叱られるかもしれないなあ。

 でも、私は考えてしまう。感じてしまう。そして、そういうこと--男と女のセックスのことだけれど、それはだれもが知っていることだけれど、そこには「道」は、まだないんだよなあ。「文」もないんだよなあ。あるように見えるけれど、それは勘違い。その人だけにしかわからない、「道」であり「文」である。そして、そのひとにだけしかわからないのだけれど、この「道」はみんながとおっている、みんなが「ことば」にしている。なんとか「文」にしようとしている。

 で、ここで、またとんでもない飛躍。「誤読」。

 古池に飛びこんだ蛙--その水面のうすい皮を破って、ぶじ、この世からあの世へと「死ぬ」--「死ぬ」といっても、生きている、というか、より強く生きていると感じる、その「水のなか」で、蛙さん、蛙さん、いまは、何を考えている? 感じている?
 それを聞いてみたい。
 でも、これは聞かなくてわかること。
 ほんとうにわからないのは、やっぱり「死ぬ」前の、「死ぬ」寸前の、つまり「うすい皮」を破る前の、「はずかしい」瞬間だね。
 なぜ、わからないのだろう。
 何度も何度もくりかえしているのに。
 わからないから、永遠にくりかえすのかな?

 三井が書こうとしているのは違うことかもしれないけれど、私は、色っぽくていいなあ、と思う。つやっぽくていいなあ、と思う。
 「文学」(文という道)のなかには、そういう色っぽいものがつまっている。「わび・さび」なんて、言ったって、それに辿り着くまでにひとはいろんなことをする。そのいろんなことをした「足跡」(足裏の記憶)が、どんなことばにもあって、それを芭蕉のことばから感じるなんて、超かっこいい。

 超かっこいい--なんて、軽薄なことばだけれど、三井のことばを「ほめる」なら、絶対、「超かっこいい」以外にない。



花―句まじり詩集
三井 葉子
深夜叢書社

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