詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

日高てる『日高てる詩集』(3)

2012-01-22 23:59:59 | 詩集
日高てる『日高てる詩集』(3)(現代詩文庫194 )(思潮社、2012年11月30日発行)


 日高てるの「視覚」、思想になった肉体、目の思想の強靱さに打ちのめされる。そして惹きつけられる。
 「おそれ」という作品。

遠い人を見るように
今朝の自分を
数秒前のスプーンを置こうとしていた自分を
見る
目をみはって見つづける
目をみはって見つづけていて見えないカタチを あお見ようとして

 いくつかの特徴があるが、まず空間と時間との混同というべきなのか、区別の無視というべきなのか、あるいは融合というべきなのかわからないが、日高のなかでは空間と時間が物理学のように分離しない。
 「遠い人を見る」。この「遠い」は空間、距離の遠さである。「数秒前のスプーンを置こうとしていた自分を/見る」とき、そこには空間はない。空間の隔たりがない。かわりに時間の隔たり「数秒」というものがある。
 「遠い人」を、「いつ」見たのか。「見るように」というのは実際には「いま」は見ていないということである。しかし、それは問題にされていない。「いつ」とは関係なく、「遠い人を見る」という行為だけが問題にされている。「遠い人」を見るとき、日高はどうするのか。目をみはる。目に力をいれる。--これは、だれでも想像できることである。
 でも、そんなふうにして目に力をこめてみても、「数秒前の自分」は見えるのか。時間が過ぎてしまえば、そこに「自分」は存在しない。「自分」という存在は「いま」しか存在しえない。「過去」には「存在した」であり、「存在する」ではない。「いま/存在する」なのである。
 どうやって、見る? 「見えないカタチ」を、どうやってみる? 遠くの人を見るように目に力をいれても、見えはしない。--というのがふつうの思想(哲学、あるいは科学)である。
 けれど、日高は見ようとする。
 このとき、「肉眼」は「想像力」である。「肉眼」は「思考力」である。「肉眼」は「精神」である。--それは、逆に(?)言えば、空間的に遠くの人見るときも、そこには想像力や思考力が働き、精神が肉眼を調整していたかもしれないことを明らかにする。
 「肉眼(肉体)」と「精神」は別個のものではなく、同じひとつのものが、あるときは「肉体」と呼ばれ、また別のときは「精神」と呼ばれるということでもある。
 ここから少し飛躍すれば(大胆に飛躍することになるのかもしれないが、私にはその区別はない)、空間と時間は同じひとつのものであり、あるときは空間と呼ばれ、あるときは時間と呼ばれるだけのことなのである。
 だから、「あるとき」は「遠くの人を見る(空間)」、そして「あるとき」は「数秒前の自分を見る(時間)」というだけのことなのである。
 その「空間に力点が置かれる、あるとき」と「時間に力点が置かれる、あるとき」を分離し、接合する「中間」に日高という「肉体」が存在する。「肉体」があるときは空間へ拡大し、あるときは時間へ拡大する。「精神・思考」という径路をとおって拡大するのだが、日高にとってそのとき「頼り」にするのが「眼・肉眼」である。

 2連目から、落としてしまったスプーン、失われたスプーンをめぐっての「思想」が展開するのだが、その書き出しがびっくりするくらいおもしろい。

--人は どのようなとき<失う>というのだろうか
--人は どのようなとき失ったことを<認める>というのか
目のまえに在ったものが見えなくなるとき
手にもつスプーンを落っことしたとき
瞬時をへて 手応えのない軽みをさして人はそう呼ぶのだろうか
<失った>と

 私がびっくりするのは「失う」である。
 繰り返し書くが日高は「視覚(視力・肉眼)」の思想を生きる詩人である。常に「見る」ということを中心にして肉体と精神が動く。その人間が、スプーンを落とし、その行方がわからなくなったとき、

見失う

 ではなく、<失う>と「見る」を省略(欠落)させてことばを動かす。
 スプーンはたまたま見つからないだけで、どこかにある。「永久」に「失われた」わけではなく、「いま」たまたま「見失われている」だけである。
 これは、ふつうの人間(私)が考えることで、視力を生きている人間にとっては、見失うことは失うことなのである。
 人は、自分にとっていちばん大切なことば、肉体にしみついてしまっていることばを頻繁に省略する。それは、あまりにも自分にとってそれが身近であるために、ことばとして動かすという意識が「欠落」してしまうのである。--こういうことばを私は「キイワード」と呼んでいるが、「見・失う」ではなく「失う」と書く日高にとって、「見る=視力(眼)」が日高の思想そのものである証拠がここにある。
 そして、「見・失う」から「失う」への飛躍、肉体(眼)を欠落させたとき、「肉体」の思想と「精神」の思想が、「空間」と「時間」のように、不思議な形でずれる。このことを日高は意識していないだろうけれど(意識できないだろうけれど)、ずれる。
 「見・失う」が「失う」になったとき、次に「認める」という「精神」の動きが問題になる。「見・認める」(こんなことばがあるかな?)ではなく「認める」。
 「見・認める」は、ふつうは「目でわかる、見てわかる」という具合になるのかもしれないが、それは別問題として、「目(肉体)」を頼りにせずに「認める」という意識(精神)の運動へと、日高のことばが動いていく。
 これは、非常におもしろい。びっくりしてしまう。
 日高は、そのあと「手応えのない軽み」ということばをつかっている。ここも、とてもとてもとても、おもしろい。
 私は最初に日高の「受け継ぐ」ということばに出会ったとき、そこに「手」が重要な働きをしていることを指摘したが、ここでも「手応え」という形で「手」が出てくる。「肉体」が出てくる。
 「失う」ということばで「見る・肉眼」を省略してしまった日高の思想は、「認める」という精神の運動を経て、もう一度「手・応え」という「肉体」へ帰って来て、そのことばの運動を点検していることになる。
 あるときは「精神」になり、あるときは「肉体」となる--という自在な「一元論」としての「日高という存在」がここにある。

 おもしろいなあ。ひきつけられる。非常に刺激的だ。

 この「精神」と「肉体」の無意識的な往復のなかで、日高は何事かを「覚える」。何を覚えるか。「おそれ」である。「おそれ」としか言えない何かを「覚える」。「知る」でも「わかる」でもなく、私は「覚える」だと直感する。

でも 自分が自分に出逢わないという虚数の花火が おそれよりも軽く
今朝 スプーンと手の隙間に
そして明日 自分と自分との隙間にとばないと誰がいえようか
--そのおそれのためにわたくしは
スプーンを置く

 「自分と自分の隙間」。それは「どこ」にあるか。空間的には、自分と自分の間に隙間はない。自分は「ひとつ」である。「隙間」は二つのものの間にあるのだから「ひとつ」のものに隙間はない。
 でも、ほんとう?
 あそこにいた私、ここにいる私というとき、そこに「私」が二人存在してしまう。ことばの上では、二人の私が存在しえる。複数の私が存在しえる。だから、隙間はあるということになる。
 しかし、同時に、それは単なることば(思考)の問題であって、「肉体」的にはいつも「ひとつ」。
 これは、どういうことだろう。
 やはり、「あるときは空間」「あるときは時間」「あるときは精神(思考)」「あるときは肉体」というのが人間であると考えるしかないのかもしれない。そして、そう考えるとき「あるとき」と「あるとき」の「間」には、とらえることのできない「隙間」がある。そしてとらえることのできない「接続」がある。

 それは、どこ?

 人によって違う。日高の場合は、まず「目」、次に「手」。視覚、触覚なのだと思う。こうしたしっかりした「肉体」があるとき、ことばは、どんなふうに動いても思想そのものになる。
 --私の書いているのは「日記」であり、ラフな思考の素描なので、「見当」でしかないのだが、そんなことを考えた。





めきしこの蕋―詩集
日高 てる
竹林館
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日高てる『日高てる詩集』(2)

2012-01-21 23:59:59 | 詩集
日高てる『日高てる詩集』(2)(現代詩文庫194 )(思潮社、2012年11月30日発行)

 「受け継ぐ」ということが単に誰かから何かを受け取ることではなく、それを別のだれかに「手渡す」ということまで含んでいるということは、「私」の存在を常に「他者」二人との間に置くことである。
 他者(→受け取る)私(→手渡す)他者。
 これが「もの」であるときは、わりと簡単にその関係をイメージできる。
 そうではない部分にも、日高は、この関係を持ち込んでいる。つまり、それが日高の肉体なので、そうなってしまう。自分自身の思考(精神の自己検証、自己を見つめなおす)においても、おなじことを日高は繰り返している。

 「光の通い路」は、北軽井沢の初秋に体験したことを書いている。自然のなかで、自分もまた自然の部分になったように感じていたとき。「私の目の前方、林の三、四メートル先の地上、一・五メートル位の高さの小枝が、突如として四ヶ所 帯状に波うった。」それはいったいなんであったのか。風が通ったのか、太陽熱のために「上昇気流のような現象が、そこだけ起り、そのため、その通り路の小枝の葉うらをかげろうのようにそよがせて通ったのではなかろうか。」そう考えたあと。

 それは裏切った男の後ろ姿のうえに、なお眼差しをかけて寄る人の言葉のように、かがやいて抜けていった。
 つづいて某の浪速女の嫌な打算が音をたてずケリケリ笑って、通りすぎるのをみた。
 午前十一時のことである。

 現実のなかの一現象が、翻って過去のなかにいきつく。このとき光はこちらに通ってくるまぶしい一瞬のできごとであった。

 「小枝が、突如として四ヶ所 帯状に波うった(現在)」という現象がある。私が、それをみつめている。そうすると「男と別れた過去」が突然よみがえってくる。
 「現在」-私-「過去」という関係がある。
 そこで、何を受け取り、何を手渡しているのか。
 「波うつ小枝」に「かがやき」を見ている。その「かがやき」は「私」を媒介とすることで、裏切った男を追う女の目とことばの「かがやき」を見ている。風か、地上を温められたためにできた上昇気流が「通り過ぎる」は、「私」を媒介とすることで、女の眼差し、言葉、打算の笑いとなる。
 「輝き」を受け取り、「輝き」を手渡す。「通りすぎたもの」を受け取り、「通りすぎたもの」を手渡す。そして、そこに「私」が入り込むことで、受け取ったものは「変化」して「手渡される」。
 きのう読んだ「言葉を手に」では、「言葉」「挨拶」「目配せ」「まばたき」のすべてを受け取り、手渡すことが「受け継ぐ」だと定義されていた。
 「変化(変質)」を手渡しては、「受け継ぐ」にならない--論理的には、それは「受け継ぐ」というより「歪曲」に近い。しかし、この「変質」「変化」こそが、「受け継ぐ」なのである。
 「言葉」「挨拶」「目配せ」「まばたき」のすべてを受け取るとき、それを正確に受け取るためには、「私」は「私」のままではいられない。「他者」にならなければならない。「私」のなかで変化・変質が起きるのはあたり前である。正確に「受け取る」ためには私が変化・変質するしかない。そして、手渡すのは、そのとき「変化・変質した私」なのである。
 あるいは「変化・変質」(変化する・変質する)を「手渡す」のである。変化する・変質するときの力を「手渡す」のである。

 他者-私-他者。その切断と接続。受け取りと手渡し。そのとき、日高が重視しているのは「視力」である。

私の目の前方

 これは「私の前方」と変わりがない。私たちは目が向いている方向を「前」と呼ぶからである。つまり「目」はなくてもいいのである。省略できるのである。
 私は「キイワード」を、何度も「肉体にしみついているために省略してしまうことば」と定義してきた。その自説を説明してきた。
 この考えを変更する気持ちはないが、もうひとつの定義がある。
 キイワードは肉体にしみついている。だから、そのことばを無意識的につかってしまう、ということがある。つかっているという意識はない。意識されないまま、動いてしまう。
 それが日高の場合「目」である。
 「目」を意識するときは、目ではなく、たとえば「眼差し」になる。あるいは、目配せ、まばたきになる。
 日高は基本的に「視力」の人間である。ということは、今回触れている、

他者-私-他者

 の「受け継ぐ」という運動ととてもおもしろい関係がある。
 かなり強引な論理の展開であるとわかっているのだが、つまり……。
 「目」というのは対象が近すぎると見えない。見るためには離れすぎてもいけないのはもちろんだが、近づきすぎてもいけない。手のひらを目の前にかざすとわかりやすい。どんどん目に接近させ、手のひらを顔にまで押し当ててしまうと手が見ななくなる。見るためには、対象との距離が必要なのだ。けれど、何かを受け継ぐとき、対象と距離が離れていてはできない。どこかで接近しなければならない。どこかで結びつかないといけない。その「結びつき」の媒介が「手」である。「手」で受け取り、「手」で「手渡す」。(ここはわざと「手」を重複させて書いています。)
 「目」が「私」と「他者」との距離をつくり、「手」が「私」と「他者」を結びつけるのである。「肉体(目と手)」が「私」と「他者」を切り離し、結びつけるという矛盾した運動のなにか、「私」を放り込む。「私」が「目」と「手」を生きるとき、そこに「受け継ぐ」という運動がはっきりと姿をあらわす。
 「黒いいちご」は大和盆地の黒いいちごとベルイマンの「野いちご」を結びつける(つまり、何かを受け継ぎ、手渡す)詩であるが、そのなかに。

 光線の膜のなかのひかりの野いちご。そして、悪魔の種子の形をした大和盆地の野のいちご--これらの隠された部分は、人が手にとるとき、かがやくだろうか。光を発するだろうか。

 「手にとるとき」というのは、いわば常套句だから見落としてしまいそうだが、そこには「手」ということばが、肉体がしっかりと入り込んでいる。手にとることで、「輝く」「光る」--つまり、「目」を刺激する。


カラス麦―日高てる詩集 (1965年)
日高 てる
弥生書房
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日高てる『日高てる詩集』

2012-01-20 23:59:59 | 詩集
日高てる『日高てる詩集』(現代詩文庫194 )(思潮社、2012年11月30日発行)

 日高てるという詩人を私は知らなかった。

 読みはじめてすぐ、ことばの強固さに驚いた。叩いても、壊れない。押そうにも、押せない。私の力では、どうしようもない強さがある。そこに存在し、きちんと立っている。自立ことばの、自律した美しい響きがある。何に向き合っても、ひとりで歩いていく美しさがある。どこが、どう美しいのか。よくわからないが--つまり、説明できないのだが、私の軟弱な視線を拒絶する厳しい美しさがある。思わず背筋が伸びる。しっかり読まないと、ことばから見放される、という怖さがある。
 こういう美しさは、偏見かもしれないが、男性のことばが持っているものである。
 詩集の裏には日高の写真が載っている。帯で半分顔が隠れている。とてもいい顔だ。表情を内部から引き締める力がある。そして、厳しいだけではなく、厳しさをそっと押さえ込むような(隠すような)ところもある。名前は「てる」と女性の感じがするが、男性かもしれない、と思う。ところが「奈良女子師範学校卒業」という文字が見える。や、やっぱり女性なのか。
 しかし、では、この無駄を完全に排除したような文体、ことばの肉体はどこから来たのだろうか。このことばの鍛え上げられた思想は、どこに源流があるのだろうか。日高はどうやってことばを動かしているのか。
 不思議な気持ちで読み進んだ。
 「言葉を手に」まで来て、はっ、と立ち止まった。

ぬけていないか
ひとつの言葉が
ぬけていないか
ひとつの挨拶が
ひとつのめくばせがまばたきが言葉にうけつがれるのを

ハギが滴を落とせばひとつの葉がうけ つぎの葉に
滴りを手渡す
                    (谷内注・「まばたき」には傍点がある)

 1連目に「うけつがれる」という表現がある。2連目に「ひとつの葉がうけ つぎの葉に」という表現がある。「うけつぐ」(うけつがれる)というのは、だれかが何かを受け取り、そしてそれを次のだれかに渡すことである--と日高は考えている。
 単に自分が何かを誰かから「受ける」のではない。自分が受けたままでは「受け継ぐ」にはならない。「受け継ぐ」かぎりは、その受け取ったものを「次」のだれかに渡さなければならない。日高にとって「うけつぐ」とは「受け+継ぐ」は「受け+次ぎに渡す」なのだ。あることがらがA→B→Cと渡っていって「受け継ぐ」になる。そして、日高は、受け継ぎの運動のBにあたる部分を強く意識している。
 誰かから何かを受けるだけなら、ことばはあいまいでいい。
 昨年見た映画「エンディングノート」におもしろいシーンがある。父親ががんで死んでゆく。その間際、葬儀の相談を父と息子が話し合う。息子が「葬儀は身内だけで」と伝えるから、と父の「遺言」を復唱する。それに対して、父が「葬儀は身内だけでおこないます、と伝えてくれ」と言う。「身内だけで」で十分わかる。それだけで、息子は父の意思をくみとっていることがわかる。けれど、自分がわかっているからといって、それだけでは意思を受け継いだことにはならない。だれかにそれを手渡すためには「身内だけでおこないます」と「動詞」までふくめてきちんとした文章にしないといけない。きちんとした文章にしなくても伝わるかもしれないが、きちんとした文章にしてこそ、意思が明確になる。父は「身内でおこないます」までをきちんとだれかに引き継いでほしいのだ。次のひとに伝えてほしいのだ。
 「受け継ぐ」とき、「ひとつの言葉」「ひとつの挨拶」「ひとつのめくばせ」「ひとつのまばたき」が抜け落ちても「受け継いだ」ことにならないのだ。「めくばせ」「まばたき」は「言葉」ではない--つまり、文字にはできない。だが、そこにそれでは「ことば」というか、思想が反映されていないかというとそうではない。ことばにならないことばが、ある。それもしっかり受け継がなければならない。
 日高は、そういうことを意識している詩人だと思う。「受け継ぐ」ことに対する、その明確な思いが「ひとつの葉がうけ つぎの葉に」ということばに具体的にあらわれる。
 さらに、この「受け継ぎ」は次の「手渡す」ということばでより強固なものになる。だれかに「渡す」だけではなく「手渡す」。「手」という「肉体」がそこに入ってくる。このときの「手」は日高自身の「手」である。だれかの「手」を借りて、だれかに「渡す」のではない。何かを受けとったひとが、直接、次のひとに渡す。その「直接」が「手」なのである。郵送や宅配便やメールではないのだ。
 そして、この「手」は1連目の「めくばせ」や「まばたき」のように、肉体そのもののことばである。「手」から「手」へ何かを渡すとき、私たちは「手」そのものもっている印象も受けとる。頑丈な手、やわらかい手、やさしい手……そこには目配せやまばたきとおなじくらいの「ことば」がこめられている。渡すひとが意識しまいが、しようが、そういうこととは関係なく、ひとは「肉体」の「直接性」から何かを受け取る。そこに「肉体」のことばを聞いてしまう。
 肉体はいつでも直接的である。直接、触れてこそ肉体である。この肉体の直接性を日高はことばにも要求している。

 「直接」であるがゆえに、自己に厳しくなる。
 受け取るだけなら、そのときの「直接」は、今風にいえば、ゆるくてもいい。「葬儀は身内だけでって言うから」でも、父の意思は受け止めたことになる。けれど、それを次のだれかに手渡すときは、「身内だけで」とことばをあいまいに濁したままではだめなのだ。受け止めたものをそのまましっかり、そのままの形で「身内だけでおこないます」でないと、次のひとに対して失礼である。次のひとに「おこないます」ということばを補わせるという負担を強いる。
 この「直接」何かを受け止め、「直接」何かを「つぎ」のひとに渡す。手渡すが、日高の思想(肉体)であると思う。

 私は日高の詩を読んだ記憶がないし、もちろん日高にあったこともないのだけれど、きっと手の美しいひとだと思う。頑丈なというか、しっかりした手だと思う。「手仕事」を「手抜き」をせずに、ひとつひとつやりとげてきた手だと思う。してきたことが、すべて手の動きに反映する--時間を手の中に、手の筋肉、骨、神経、血液のなかにもっているたしかな手。厳しいけれど、あたたかい。そういう手だと思う。

 日高のことばは、ときに抽象的に見える。それはしかし、受け継ぐべきものと日高自身の肉体の「合致」を目指し、日高が日高自身の肉体を「基本」にまで引き絞ったからである。そしてまた、受け止めたものを次のひとに手渡すために、日高の肉体を単純化したためである。日高の肉体(日高のことばの肉体)は、いわば「最大公約数」のように、基本へ基本へと身を鍛え、動いているのである。
 こうした強靱な詩人がいたことを私は知らなかった。とても恥ずかしく思った。


日高てる詩集 (現代詩文庫)
日高 てる
思潮社
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北川透「シベリア」ほか

2012-01-19 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「シベリア」ほか(「耳空」7、2011年12月25日発行)

 わからない詩をどう読むか。--これは難題。たぶん、わからない詩に出会ったとき、では、どこが好きなのか、ということをみつめればいいのだと思う。
 たとえば北川透「シベリア」。

鳴りひびいているのはシベリアの氷床
流出し始めたのはシベリアの寒冷気団
呼ばれているのはシビーリィ
なつかしい西比利亜の古地図
支配しているのは一〇八五ミリバールの高気圧
おまえはひかりの放射が断ち切られた 暗い正午に
おまえは駅前郵便局横の路地を曲がった
おまえは街中に散乱する沈黙の輪を潜り
おまえは凍てついている朝鮮人居住地の
おまえはひりひりと熱い赤い色の座席で
おまえはしずかにシベリアの乳房を待つ

 この詩は、私には全然わからない。特に後半の「おまえ」が何か(だれか)がさっぱりわからない。で、適当に、「おまえ」は「雪」だ、と思い込んで読む。あるいは(ここで、平気で「あるいは」というのが、私の変なところである)--あるいは、「おまえ」は「シベリア」だと思って読む。別に、それが「雪」であることを証明したいわけでもない。「シベリア」であると確認したいわけでもない。まあ、なんだっていいと私は思っている。ことばが動きはじめるときのきっかけだね。そのきっかけでいい。

 で。
 突然、話は変わるのだが(変わらない?)、私はこの詩が好きである。なぜ好きか。どこが好きか。リズムが好き。

鳴りひびいているのはシベリアの氷床

 書き出しの「……のは」+体言止めの行が三回つづく。2行はさんで「支配しているのは」と「……のは」が復活する。そのあと「おまえは……」という繰り返しがつづく。繰り返されるリズムが気持ちがいいので、きっとそこには何か「正しい」ことが書かれていると思うのだ。
 リズムがおかしいと、私は、このことばはきっと変--と思ってしまうのである。「正しさ」は繰り返され、肉体になじむものである。というか、肉体になじまないものは、私には「正しい」とは思えないのである。
 どこかに「正しい」ものがあれば、そのまわりに「正しくないもの(?)」があっても平気である。「正しくないもの」は「正しい」を、単なる正しさではなく、正しさから出発して、何か、正しいものを越えるところへ動かしていく。それは、つまり、正しいがより正しいものになるということである。か、どうかは、わからないが、私は勢いで書いてしまう。
 (あ、いま、私が書いていることは、便宜上の「正しい」であって、これはときには「邪悪」とか、「醜悪」でもいい--ようするに、あることがらが繰り返され、繰り返しているうちに、最初の越えてしまうことだね。でも、こういうことを書いていると収拾がつかなくなるので……。)
 そして、その「正しい」感覚は、

鳴りひびいているのはシベリアの氷床

 という行のなかの、「シベリア」という音の響き、それが呼び寄せる濁音と「ら行」の交錯である。(「氷床」は、何と読んでいいのか、私にはわからない。「ひょうしょう」と読んでみたが音がどうもなじまないし、そういうことばは私のもっている「広辞苑」にはない。別に、広辞苑がいちばんいい辞書と思っているわけでもないのだが、まあ、そこには載っていない。「こおりどこ」も載っていない。だから、このことばは私の肉体のなかでは「無音」である。その音を省略して、私は1行目を読んでいる。ただし、私の視力は、その文字から凍った広大て荒野を引き寄せる。白く、蒼く、黒い音のない無限世界を引き寄せる。
 音に戻る。
 「シベリア」のなかにすでに「濁音(べ)」と「ら行(リ)」があるのだが、この音が鳴「り(ら行)」ひ「び(濁音)」いている、と近づいて、また離れる感じがする。交錯するところがおもしろく、それがそのまま

流出しはじめたのはシベリア寒冷気団

 につながっていく。

「り」ゅうしつしはじめたのはシベ「リ」アかん「れ」いきだん

 「ば行」の濁音だけではなく、「じ」「だ」と「さ行(ほんとうは、し行、あるいは、じ行というべきなのかも)」「た行」にも広がっていく。

よ「ば」「れ」てい「る」のはし「び」ー「り」ぃ
なつかしいし「び」りあのふ「る」ち「ず」

 さらにここには「し」という音もくわわっている。「シベリア」の「し」が。こういう交錯は、私には音楽のように感じられる。(音痴なのだが……。)
 「し」は次の行の「誘い水」でもある。

支配しているのは一〇八五ミリバールの高気圧

 この行では、あれれっ、まだ「ミリバール」? いまは「ヘクトパスカル」と言うんじゃなかったっけ--と思いは脱線するのだが、でもたしかにヘクトパスカルは「シベリア」には似合わない。やっぱりミリ「バ」ールと強い響きの濁音がいい。
 ヘクトパスカルなんて、まるで「屁」みたいな響きがする。ぷっ、すーという、音がどこかへ消えていくような、変な音である。半濁音より、濁音の方が豊かで美しい。
 ミリバールの方が音としてかっこいいよなあ。「ま行」と「ば行」は、同じように唇を閉じて音を破裂させる。--このことが、最初から「気持ちいい音」である「シベリア」とも響きあうのだ。
 こういう「音」の魔術に引きずり込まれたら、まあ、意味なんてよくなる。ここからはじまるのは「意味」の絞り込み(結晶化)ではなく、「意味」の拡大。「意味」の拡張。「意味」の無意味化。ことばはどこまで動いて行けるか、ということになる。ことばは動いて行きながら、どれだけ「いま/ここ」にはないものへと拡大して行けるか。それが、読む楽しみである。

 それから北川のことばは、「おまえは……」という行を繰り返す。「おまえ」がだれなのか、私にはよくわからないが、いろんな音をあつめてくる「装置」のようなものになる。そこから世界を拡大する(拡張する)装置になる。世界を無意味化する装置になる。世界を統合する何かを解体し、音とリズムで再び作り上げていく通り道になる。
 その世界をつくりかえていく道--ことばの繰り返しがしっかりしているので、その支えに身を任せて、ほかのことばは軽く疾走するのかもしれないなあ。
 最終行の、

おまえはしずかにシベリアの乳房を待つ

 ここにも、「し」の繰り返しと濁音がある。「シ」ベリア、ち「ぶ」さ。
 「意味」はあった方がわかりやすいのかもしれないけれど、わからなくてもいい、と私は思っている。
 
 私が最初に想定した「おまえ」はだれ(何)なのか--そんなことはどうでもよくて、(あ、北川さん、ほんとうは何かとても深い意味がこめられているのだとしたら、ごめんなさい)、「しずかなシベリアの乳房」。この、音の美しさ。私は音読はしないのだが(だからほんとうに耳に美しくひびくかどうかは確かめたことがないのだが)、黙読のときに動く、舌、喉、口蓋、それが耳に(鼓膜に)伝わり、肉体全体に広がる。
 こういう感じが好きである。

 「アンヌ・ビリビリハッパ氏投身」は、詩の形が直角三角形をしている。

時が来た 滝に身投げするために
出発した 夕暮れに膝を折って
あるいは 書記機器を壊して
纏いつく 稲妻を処分する
水死者を 探すな嘆くな
花びらが 何に変るか
そのとき 叫ぶ母音
眠れぬ谺 駆ける
キリンの 音階
にわかに 雹
ぱらぱら
ツァラ
ドド


 ここにも「意味」はある。というか、「意味」は捏造しようとすれば、いつだも捏造できる。それが「意味」の(この詩の、ではなく)いちばんの問題点だ。
 たとえば、私はここからランボーの音楽と向き合っている北川という「意味」を捏造したくなる。単に、「時が来た」「出発した」「膝を折って」「母音」「音階」というようなことばがランボーを読んだとき「音楽」として聞こえてきた--という個人的な体験をよりどころにして。
 でも、そういうことは、ひそかに、かってきままに、だれも読まないところで、私がやることにすぎない。そういう「秘密」の(私にとっての「秘密」ということだが)楽しみにこそほんとうの詩の喜びがあるとも言えるのだけれど。
 で。
 この詩のどこが好きか。1行目。やはり「音」が美しい。「音」というのは、どうしようもなく肉体的なものだと思う。ある人が「美しい」といっても、私にはぜんぜん美しく聞こえない音がある。逆に、私は、この音、ここが好き--といっても、だれにも伝わらないこともある。
 1行目は「とき」「きた」「たき」という音の交錯からはじまる。その交錯のリズムが私には気持ちがいい。
 そして、その最初のリズムに誘われるように(リズムに乗って)、ことばが自在に手をひろげていって「キリンの 音階」にたどりつき、「雹」から旋律なしの、単独の「音」になるところがとてもおもしろい。
 単独の音--と書いたのだけれど、その一方で、「ツァラトゥストラ」という音も思い出してしまうのだけれど。
 そして、ほんとうの最後「ラ/ドド/シ」--これって、曲(音楽)が終わるとき、こういう終わり方する? 私は音痴だからよくわからないのだが、まだ旋律がつづいていくような印象がある。それを断ち切るための「死」かなあ、なんて、変なことも考えたりする。感じたりする。--この感じは「変」なのだけれど、こういう「変」なことを感じさせてくれることばが、私は好きである。

溶ける、目覚まし時計
北川 透
思潮社
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谷川俊太郎「鏡」

2012-01-18 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「鏡」(「朝日新聞」2012年01月06日夕刊)

 谷川俊太郎「鏡」は一回読んだときは不思議でもなんでもないのだが、感想を書こうかな、と思った瞬間につまずいてしまう。あれっ、と思うのだ。

なるほどこれが「私」という奴か
ちんこい目が二つありふれた耳が二つ
鼻と口が一つずつ
中身はさっぱり見えないが
多分しっちゃかめっちゃかだろう
とまれまた一つ年を重ねて
おめでとうと言っておく
お日様は今日も上って
富士山もちゃんとそびえてるから
私も平気で生きていく
もちろんあなたといっしょに
ありとある生き物といっしょに

 「鏡」をのぞいている。そして自分の顔を見ている。それから、ただなんとなく考えたようなことを書いている。その「考え」に共感するか、しないか--そこがこの詩を優れたしと思うか思わないかの「分岐点」のように思える。
 でも、私の書きたいのは、そこに書かれている「考え」ではない。
 あれっ、と思ったのは--うーん。
 これ、この詩に、普通にタイトルをつけるとなると、やっぱり「鏡」?
 「鏡」というタイトルで、詩を書くとこうなるかなあ。
 「鏡」について書かれた行がどこにもない。タイトルに「鏡」が出てくるだけである。ここが少し変だなあ。
 「私」あるいは「自画像」というタイトルならどうか。
 「自画像」のほうが、何を書いているかわかりやすくない?

 でも、私は最初はこの「変」に気がつかなかった。なぜなんだろう。鏡を見れば、そこに自分の顔が映る。鏡は自分の顔を見るもの。そして鏡を見るのは「私」を確認するため? 他人からは、「私」はどういうふうに見えるかを確認するのが鏡だから?
 どうも、そういう私たちのなかにある「無意識」が、それこそ「無意識」のうちに動いてしまい、タイトルと書かれている内容の「ずれ」に気がつきにくいのかもしれない。
 ことばの「移行」がとてもスムーズなのだ。
 なんといえばいいのかわからないが、人間のもっている無意識をしっかりつかんでいる。「頭」でつかんでいるのではなく、そのつかんでいるこことがらが「肉体」そのものになっている。

 で、他人には、「私」(谷川俊太郎)がどんなふうに見える?
 これがまた不思議だなあ。

ちんこい目が二つありふれた耳が二つ
鼻と口が一つずつ

 ここに谷川の特徴がある? 特徴は「ちんこい目」しかない。耳はありふれている(他人と区別がつかない、ということだろう。)鼻と口には特徴が書かれていない。--これで「私」の自画像と言えるだろうか。とても言えない。
 そこに描かれているは、谷川かどうか、わからない。谷川は「私のことを書きました」というかもしれないが、「ちっこい目」は、何人もいる。それでは谷川の特徴にならない。
 「鏡」も書いてないければ、「自画像」も書いていない。
 そして、そんなふうにあいまいに書いたあとで、

中身はさっぱり見えないが

 あ、ひとの特徴は顔(外見)だけではない。「中身」がひとを決定する(特徴づける)ということは確かにある。--しかし、それはそうなのだが。
 あれっ。
 鏡→自画像(顔の説明)じゃなかったのかなあ。
 そのことはするりとわきにおしやられ、

 自画像→中身(人間の精神性)

 か……。
 で、その「中身」の特徴は?
 「しっちゃかめっちゃか」--これは、だれでもそうだろう。とても、谷川を他人とはっきり識別する「中身」とは言えないなあ。
 そのあとも同じだ。年が変わり、一つ年を重ねる。これは新年にだれもが思うこと。ねして、無事にひとつ年を重ねられたことに対して「おめでとう」というのも普通のこと。特別なことは何もない。
 日が昇る。富士山はそのまま。(日の出と富士山が出てくるところは、谷川の特徴というよりも、日本の正月の特徴だよね。)

私も平気で生きていく

 これだって、特別かわった考えではない。だからこそ「私は」ではなく、私「も」なのだと思う。
 そう思っていると、突然、

もちろんあなたといっしょに

 これがいちばん不思議といえば不思議。
 鏡→顔(自画像)、自画像→中身(精神性)、精神性→何も見えない(特徴がない)、特徴がない→(年が変われば1歳年を重ねるなどいろいろ)→特徴のない私「も」生きていく、生きていく→あなたといっしょに
 顔(自画像)に向けられていた視線が知らずに「あなた」にむけられる。「あなた」をひきこんでしまう。
 「私」と「あなた」は、「鏡」と「顔(自画像)」が違った存在であるようにほんとうは違った存在である。別々のいのちである。しかしそれが「いっしょに」ということばで「ひとつ」になる。
 この、ほんとうは別々なものを「ひとつ」にする「いっしょに」は次の行では、「ありとある生き物」をまきこむ。
 そうすると、あれれっ、「自画像」ではなく、「世界」ができあがる。

 どこで、どうして、どうなって?
 はっきりわからないが、「無意識」でつながってしまうようにして、知らず知らずに「鏡」→「顔(自画像)」が「世界」になる。
 この不思議さが、この詩のおもしろさだ。

 たぶん「いっしょに」が、あらゆるところに含まれている。谷川は「単語(名詞)」を「ひとつずつ」個別に書くのだが、その「名詞(単語--存在、いのち)」は独立して「ひとつ」のではない。そこには他の「ひとつ」が「いっしょに」ある。
 「鏡」は「私」と「いっしょ」にあることで、あるいんは「私」は「鏡」と「いっしょ」にあることで、そこから私というものをみつめることができる。--これは抽象的な「いっしょ」かもしれないが。
 実は「具体的ないっしょに」の方が、わかりにくい。気がつきにくい。
 たとえば

ちんこい目が二つ

 「二つ」と書かれているが、右目、左目、それぞれの「ひとつ」が「いっしょに」いることで「二つ」になっている。「耳」も同じ。また、鼻と口は「一つ」だけれど、それは目や耳と「いっしょに」あることで、「顔」になる。
 「いっしょに」何かがあるということは、そのときの「一つ一つ」が他のものといっしょにあることで、一つ一つを超えた別の何かに「なる」ということ。
 「いっしょに」は「私」を越える何かに「なる」ことなのだ。
 この、深い哲学が、とても自然に、まるで「無意識」のようにできあがってしまう。そういうことばの運動に、谷川のことばのちからの不思議さがある。



みみをすます
谷川 俊太郎
福音館書店
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川上三映子「まえぶれもなく」再読

2012-01-17 23:59:59 | 現代詩講座
川上三映子「まえぶれもなく」再読
          (よみうりFBS文化センター「現代詩講座」2012年01月16日)

 川上三映子「まえぶれもなく」(初出「現代思想」11年09月臨時増刊号)を読みます。長い詩なので、まず黙読しましょうか。そのあと1連ずつ読みたいと思います。

(黙読)

質問 テーマはなんだと思いますか? どういうことが書いてありましたか。
「東日本大震災のことがテーマ。記憶を求めている」
「誰かにつながりたい思いが書いてある」
「震災後のことが書いてある。あなたということばが出で来るが決まった人ではなく、連絡のとれないひとをあなたと呼んでいる。書かれているのは経験ではない」
「私も震災のことを書いていると思う。起こってはならないことが怒ってしまった。誰かをさがして携帯が鳴っている」

 私も東日本大震災を契機に書かれた詩なのだろうと思います。地震で倒壊した建物や、津波にさらわれたひと。いまは携帯電話を誰もが持っているので、無事だったひとは、なんとか知人の無事を確認したくて電話をする。メールをする。でもなかなか連絡がつかない、そういう状況を書いていると思います。そのときのこころの動きを書いていると思います。
 1連目から少しずつ読み直して行きましょうか。

(朗読)

 突然、連絡がとれなくなった親しいひと。震災後も携帯電話の電波は飛び交い、そこではだれかとだれかが呼びあっている。同じように呼びあいたいと思って呼ぶ、叫ぶ--だが、届かない。そのことを書いていると思います。
 きょうは質問ばかりしますが、いつものように、この1連目でわからないことば、単語がありますか? ないですね。
 では、

質問 この1連目でどこがいちばん印象に残りますか? 1行でもいいですし、複数行でも、ひとことでもいいです。それはどこですか? そして、それはなぜですか?
「夜をふたつでも越えて……、からの部分の情景がくっきり見える。誰かが誰かを呼んでいる感じがよくわかる」
「空だけが巨大な蓋……のところも震災の情景がよくわかる」
「誰かが誰かを呼んでいるさけび声、が切実」
「私も夜をふたつでも越えて、のところが携帯電話の電池切れや故障のことを想像させるのでリアルに感じる」

 そうですね、震災の情景が強く伝わってきますね。
 ところで、最初の1行はどうですか? 私は、この行が非常に印象的に感じられた。
 最初の1行、タイトルにもなっているけれど、

まえぶれもなく抱きしめあうことだけを考えて

 
 「まえぶれもなく」というは、何だろう。
受講生「そこにいることが確信できるということ。そこへ行けば会えるということがわかっている」
谷内「予約をしなくても会える、ということ?」

 うーん、私はちょっと違う感じで読みました。
 地震は、前触れもなく襲ってくる。前兆はあったというかもしれませんが、一般のひとは知りませんでしたね。そういう意味では「まえぶれもなく」地震は襲ってきた--というのなら、まあ、わかります。
 けれど、「まえぶれもなく抱きしめあう」というのは、どういうことなのだろう。
 地震で不明になっているひと--その人と、突然出会う。そして感激して、思わず抱きしめあう。そういうことかな? 前触れのない地震によって引き裂かれていた二人、だから前触れのない地震のように前触れもなく、抱き合う--そういうことを考えている、ということかもしれない。
 そうすると、この詩では、

まえぶれもなく「襲ってきた大地震のように」抱きしめあうことだけを考えて

あるいは

「襲ってきた地震に」まえぶれがなかったように、まえぶれもなく抱きしめあうことだけを考えて

 と「襲ってきた大地震」ということばが省略されていることにならないかな?
 私は、そう読みました。
 これは、おもしろいですね。大地震の詩についておもしろいというのは不謹慎なのかもしれないけれど、ことばの運動として非常におもしろい。
 この詩は大震災のことを書いている。みんな、そう思いました。でも、黙読したときに気がついたかもしれないけれど、「大地震」「津波」ということばは直接出てこない。つかわれていない。避けている。それでも、震災だとわかりますね。
 ことばを避けるとき、二つの理由があります。ひとつは、そのことばでいやなことを思い出したくない。だからつかわない。もう一つは、そのテーマがわかりきっているので、つかわない。つかわなくても、そのテーマがいつも自分の意識のなかで動いている。肉体になってしまっている。無意識になってしまっている。
 川上の詩の場合はどっちだろう。
 どっちともとれますね。どっちでもいいと思います。重要なのは、川上がこの1行で、ことばでは書いていないけれど、「大地震」「津波」「被害」というものを強く意識しているということがわかるということです。
 強く意識されていて、もう、そのことをわざわざことばにしなくてもいいくらいに感じている。だから、そのことばが省略されたまま、ほかのことばを動かしているのだと思います。

 次におもしろいのは「抱きしめあう」ということばですね。人間はだれでも出会って感激したときは抱きしめあう。「ハグ」と英語で言う方が、いまでははやりかもしれないけれど。
受講生「ハグされると、とっても気持ちがいいのよ。落ち着く。大丈夫だよ、と声をかけられるときより、ずっと落ち着く」
 そうですね。
 でも、川上はここでは「ハグ」ではなく「抱きしめあう」と言っている。
 私は古い人間なのか、家族、同性の友人よりも、恋人の方が「抱きしめあう」には似合うなあと感じる。この詩では、「わたし」という人物が「あなた」という恋人と、「まえぶれもなく抱きしめあう」ことを考えていると言えると思います。

 私は1行目と同じように、7行目の「むすうの」から、14行目の「そこかしこでかすかに点滅をくりかえしているけれど」の部分がおもしろいと思いました。
 大地震で、まわりは悲惨な状況になっています。3行目から、その様子が書かれている。

空だけが巨大な蓋をする静かな
もう何と呼べばいいのかわからなくなってしまったものば
かりが積まれて果てのない誰もいない大地で

 建物がなくなって、つまり屋根がなくなって、空が蓋になっている。何と呼んでいいのかがれきが積まれている。ビルなのか、壁なのか、窓なのか。あるいは屋根なのか。壊れてしまったものには名前をつけるのがむずかしい。
 そういう状況のなかで、

むすうの
携帯電話の着信音
メロディや歌声やベルがまじりあってきらきら鳴って
それはまるで晴れた日にぱらぱらと降ってくる金色の細か
な雨みたいだ
光は
そこかしこでかすかに点滅をくりかえしているけれど

 ことばが美しい。美しいことばがつかわれている。「きらきら鳴って」の「きらきら」、「金色の細かな雨」「光」「点滅」--点滅は美しいとばかりは言えないかもしれないけれど、イルミネーションの点滅なんかはきれいですね。
 何か大震災の悲惨な状況は、その「きれい」「美しい」感じがあわない。 大震災で悲惨なことが起きているのだから、美しいことばではなく、悲惨なことばの方が状況を描写するのにふさわしいのではないかなあ、と私は思い、なんとなく違和感を感じる。
 これは、まあ、私が頭の中で考えたことなんだけれど、私の考えでは、どうもここに美しいことばが書かれるというのは、納得できない。亡くなったひと、不明のひとが大勢いるのに、「きらきら」とか「金色の細かな雨」とかいうことばをつかっていいのかなあ、とかんじてしまう
 頭の中で想像すると、あわないのだけれど、そう見えてしまう。
 ほかに的確なことばがあるのだろうけれど、それはうまくことばにならず、知っていることばが状況と結びついてしまう。--ここは、そういうぶぶんじゃないかなあ、と思う。

 ここは、ほんとうにいいたいのはそういうことじゃないけれど、いま知っていることばで言うと、こんな感じになる--そういう悲劇が書かれているのだと思う。
 どんな状況でも、それにふさわしいことばが見つかるまでは、自分の知っていることばで言うしかない。そのとき、何か状況とうまくあわないことも起きる。それが「現実」だと思います。
 以前話した李村敏夫の『日々の、すみか』という詩集は阪神大震災のときのことを書いた詩だけれど、そこに「出来事は遅れてあらわれる」ということばが出てきます。
 これは、現実を考えると、ちょっと変なことばです。阪神大震災という出来事は「遅れて」あらわれたのではなく、川上のつかっていることばを利用して言えば「まえぶれもなく」突然あらわれた。遅れてではなく、想像するより早く、想像していないときに早くあらわれてしまった。だから大混乱になり被害も拡大した。東日本大震災も同じですね。
 でも、季村は「遅れて」という。
 このときの「遅れて」というのは、出来事そのものではなく、出来事を正しくいいあらわすことばだと思います。適当なことばはすぐに思いつかない。それは遅れてあらわれる。遅れてやってくる。状況を的確に表現し、誰かに伝えるためのことばは、「遅れて」やってくる。「出来事」と呼んでいるのは、ほんとうは「出来事を描写することば」だと思います。ことばによって表現されて、そこに起きたことは「出来事」になる。「出来事」が「出来事」として定着するには、ことばが必要。そして、そのことばはいつでも、何かが起きたあとになって、つまり「遅れてやってくる」。
 普通の生活でも、あ、あれは、こういうことだったのか、こう言えばよかったのか、と思うときがありますね。そのときもことばは遅れてやってくると言えるかもしれない。「きらきら」や「金色の雨」は、そういうほんとうに出来事をあらわすためのことばがやってくる前に、先走ってやってききたことばだと思います。
 とりえあずのことば--といえばいいのかな? ほんとうは今起きていることを正確にあらわし、伝えることばがあるのだけれど、そのことばは遅れている。まだ、やってこない。だから、とりあえず、自分の知っている手持ちのことばで語る。そうすると、それは状況とあわない。悲惨な状況なのに「きらきら」と美しいことばが動いてしまう。
 そしてそれが状況とぴったりあわないために、何かよけいに悲惨な、強烈な感じがします。
 これは、その先にある

あの明るくてげんきで呑気なたくさんの音

 という行のなかにもありますね。「明るく」「げんき」「呑気」。ほんとうはそんなことばであらわす状況ではないのだけれど、そういうことばで、いままであらわしてきたものがそこにある。
 現実はまったく新しいのに、ことばは古いまま。状況にことばが追いつかない。
 「矛盾」が存在する。
 「矛盾」のなかに、私は詩があると考えているのだけれど--言い換えると、ことばにすると矛盾になってしまうのは、そのことを正しく言い表す語法(文体)が確立していないから矛盾になってしまうんですね。ものごとの方が先にあって、ことばがついていかないときに、矛盾があらわれる。
 大震災のときのような場合は、その矛盾は悲しみ、悲劇となってあらわれる。
 そういう「哲学」(思想)が、ここでは、とても自然に、口語体のまま語られていると思います。
 そういうことと少し関係があるのだけれど、

むすうの、げんきで

 このことばは「ひらがな」で書かれていますね。
 なぜでしょう。
「強調かなあ」
「たくさん、という意味だと思う」
「多すぎて、たくさん。何か特定できない感じ」
「特定の恋人のことではないから」

 私は、そのことばがほんとうは「むすう」「げんき」と呼んではいけないものだからだと川上が考えている、感じているからだと思いました。
 だれかを求める声、さがす声、それはたくさんあっても、「無数」ではない。ほんとうは、「ひとりひとり」。「ひとつ」でしかない。「げんき」も「元気」ではない。ほんとうは「ひとつひとつ」といいたいのに、その音がたくさんあって、その多さを言うには「むすう」という表現しか--いまのところ、それしかない。そういういらだちのようなものが、ひらがなのなかに含まれている。「無数」と感じで書いてしまうと「意味」ができあがってしまう。その「たくさん」という意味の「無数」ではない、数限りないもの--それが「むすう」なんですね。
 この切実さが、次の部分、1連目の最後の方に書かれています。

誰かが誰かを呼んでいるさけび声
そのなかのひとつは
わたしがあなたを呼ぶ声
いまもわたしが
あなたを呼んでいる声

 「さけび声」の「さけび」もひらがなになっている。
受講生「叫び--と漢字で書くと強い」
受講生「漢字の方が意味がはっきりする」

 そうですね。漢字の方が意味が強い、意味がはっきりする。
 でも、そうだとしたらなぜ川上は漢字で書かず、ひらがなにしたのだろう。
 私は、こんなふうに考えます。
 いままで、私たちが知っている(川上が知っている)叫び以上のものがそこにある。そのとき漢字では書き表せない。いままでの「意味」ではない「さけび」がそこにある。とりあえず「さけび」ということばを借りるのだけれど、ほんとうは「さけび」ではないかもしれない。
 ただ「音」を借りて、とりあえずそう呼んでおくということだと思います。
 これはさっき触れた「きらきら」とある意味で似ている。
 ほんとうのことばが追いついてきていない。「さけび」をあらわすもっと的確なことばがあるはずなのに、まだ、それがやってこない。だから、知っていることばを借りる--借りるけれど知っていることばとは「違う」ということをいいたくて、ひらがなにしている、と、私は思います。

 ちょっと、話が変わる感じがするかもしれないけれど、ここでまた質問しますね。
質問 「むすう」と対極のことばが、ここにありますね。
「ひとつ」

 そうですね。「ひとつ」。声、電話の着信音。それは無数にあるけれど、ほんとうは「ひとつ」。誰でもいいから呼んでいるわけではない。
 強盗に襲われたときに「助けて」と叫ぶ--そのときの叫び声は、聞いてくれるひとが誰であってもいい。警官ならいちばんいいけれど、そばにいるひとなら誰でもいい。そのときは漢字の叫び声になる。でも、ここでは呼んでいるは「ひとり」。「ひとり」を呼ぶときは静かな声でも大丈夫ですよね。特に近くにいるなら小さい声。携帯電話の音なら小さくていい。無音--バイブレーターというものあるくらいですから。それが、ひらがなの「さけび」。小さくていいのだけれど、必死、なんですね。
 さがしているのは、それぞれが「ひとつ」。「わたし」は「あなた」だけをさがしている。ほかのひとにも助かってほしいけれど、特に「あなた」には生きていてもらいたい。それは「ひとつ」の願い。誰の願いでもなく、「わたし」の願い。
 切実ですね。この切実な「ひとつ」を明確にするために、ひらがなの「むすう」があるとも言えると思います。「むすう」とひらがなで書いたのは「ひとつ」をひらがなで書く--そうすることで対比をはっきりさせるためです。

 2連目に進みましょう。

(朗読)

 2連目に限定してのことではないのだけれど、この詩で、不思議というか、普通の詩とは違う部分があるとすれば、なんだろう。

 詩の全部が全部そうではないけれど、普通、詩のなかの「わたし」というのは筆者と考えられています。この場合だと川上が「わたし」。
 でも、川上には、ほんとうに大震災のときに不明になった恋人「あなた」がいたのかなあ。川上の恋人は、実は違う人ですね。だから、この詩のなかの「わたし」は川上ではない。いわば、ここでは川上はフィクションを書いている。恋人が大地震で不明になっている女性を「わたし」と仮定し、そこでことばを動かしている。
 これが、この詩の特徴だと思います。とてもかわっている部分だと思います。
 こういうことが少し気になるのかなあ。2連目で、少し言い訳のようなことを書いている。言い訳からことばを動かしはじめている。

まえぶれもなく抱きしめあうことだけを考えて
わたしがあれから見つづけている夢のはなし

 「わたし」が「見つづけている夢」だと言っている。これなら、「わたし」が川上でも大丈夫ですね。矛盾しませんね。
 そういう工夫を川上はしています。
 で、それから先、川上の「本領」発揮。「わたし」の「夢」とことわりながら、「夢」とはいったい何なのだろうか--と、夢そのもののなかへ入っていく。
 そうして、その夢のなかで、川上は「物語」の「わたし」になって動きはじめる。これは「夢」であると同時に、その「夢」のなかの「わたし」は夢のストーリーを生きる本物の「わたし」です。

がれきだけが巨大な底になる静かな
記憶と無言と断ち切られたきのうばかりで埋められたとほうもない場所にうずくまってみつめるそこで
掘っている
掘っても掘っても手には届かず
汗だけが目におちてくる
しだいに腕と指の感覚がうしなわれ
何を掘っているのかわからなくなる

 この部分を、私はたいへんおもしろいと思って読みました。この部分だけを取り上げると、ちょっと説明がしにくいのだけれど、この部分だけ私には違った印象がある。詩のほかの部分とはまったく違っている。
 何が違うかというと。

掘っている

 からだが動いている。
 ほかの詩の部分では、「わたし」の感情というか、意志と言うか、思いと言うか、まあ、ことばが動いている。先に言ってしまうと、3連目には「わたし」と「あなた」の「会話」が出てくる。そこでは口や耳は動いているけれど、からだそのものはそんなに動いていない。
 ここでも「掘っている」というのはことばだけれど、肉体の動きをあらわしている。「掘る」には手を動かさないといけない。足も踏ん張らないといけない。からだ全体を動かす。そして、そのとき口は動かさない。しゃべらない。しゃべりながら掘ることもあるけれど、普通はもくもくと掘る。
 そうすると、もう肉体だけになってしまう。肉体のなかには感覚があるのだけれど、作業をくりかえしていると、その感覚すらなくなる。そして、「掘る」というときの「目的」さえわからなくなる。「何を掘っているのかわからなくなる」。
 こういうこと、経験したことがありますか?
 もう、何のためにではなく、その肉体の動きそのものが目的になってしまう。
 そのくせ、いままで考えていたこととは違うことが感じられる。
 「何を掘るか」「何をさがすか」ではなく、あとどれだけ掘るか。
 あとどれだけ掘るか、と考えるとき、目的は「掘る」だね。
 この極限の意識の変化が、まず肉体を書くことからはじまっているのがすごい。ひとの考えはさまざまあってなかなか「ひとつ」の形にはならないけれど、肉体と言うのは不思議なくらいだれにでも共通する。からだを動かし、掘る。そうするとだれでもが汗をかく。その汗は目におちてくる。そして、疲れがたまって、腕が痺れ、指が痺れ、感覚が失われる。これはよほど強靱な肉体でない限り、だれにでも共通する。
 そういうことろを通り抜けたあとで、川上は「思っていること」「考えたこと」をことばにする。そうすると、その思ったこと、考えたことは、肉体を通ってだれにでも共通したものになる。

でも
もう少し
もう少しだけ
あと5センチ
あと3分だけつづければ
もしかしたらすべての何もかもが元に戻るようなものをつ
かむことができるような気がしてならない

 この感覚、この考え、とてもよくわかるでしょ? そういう気持ちになるでしょ?
 これは、私は、川上が、そういうことばを書く前に、きちんとからだを動かしているシーンを書いているからだと思う。ことばを肉体を通らせる。そうすると、その肉体を通ったことばは、感情を語りはじめるとき、自然と読者の肉体を通る。
 つまり、川上が書いているのに、まるで自分の感覚のように感じてしまう。

そして夜になってひとり
今日もあそこで手を止めてしまったことがどうしようもな
くこわくなる
あそこに
あったかもしれないのに

 ここは、ことばの暴走ですね。ことばの暴走と言うとあまり表現はよくないけれど、ついつい考えてしまう。自然に、ことば自身が動いていく。
 そうなると、なんというのだろう、終わらない感じがする。どんなことでも、不安なことを考えると、不安がどんどん膨れ上がって、とまらなくなる。
 このままではきりがないので、川上は、またとても巧みにことばの質を変化させる。

でもこれはわたしの夢ではなく
今もあの場所できっとそうしているだれかのもの
わたしはあなたをさがしにゆくことで見えてしまうかもしれ
ないすべてをおそれ
今日も電話を枕元において眠ってばかりいる

 これは「わたし」ではありません。「わたし」はそういうことはしていない。けれど、「わたし」と同じように「ひとつ(ひとり)」である誰かは、そういうことをしている。そういう肉体と、川上は(詩のなかの「わたし」は)つながっている。

 ちょっと逆戻りします。この2連目で、私は、からだ(肉体)から感情(思い)へ切り替わるときのことば「でも」がとてもおもしろいと思った。
 掘って掘って掘りつづけて、感覚がなくなる。

でも
もう少し
もう少しだけ
あと5センチ
あと3分だけつづければ
もしかしたらすべての何もかもが元に戻るようなものをつ
かむことができるような気がしてならない

 ここでは肉体ではなく「意識」が動いている。意識がリードして「肉体」を動かしている。
 つまり、この部分は

でも
もう少し「掘って」
もう少しだけ「掘って」
あと5センチ「掘って」
あと3分だけ「掘り」つづければ

 と「掘る」という動詞が隠れさている。掘ると言う動作が無目的になったように、ここでは「掘る」が「無意識」になる。そして、その「無意識」を潜り抜けるからこそ、その意識できない「無」の向こう側、その先に何かがあると言う気持ちにもなる。

 で、またおもしろい部分。

そして夜になってひとり
きょうもあそこで手を止めてしまったことがどうしようもな
くこわくなる
あそこに
あったかもしれないのに

 この部分、わからないところはありますか? 書いてあることがら、わかりますよね。気持ちがびんびん伝わってきますね。

 質問 で、質問です。「あそこ」と書かれているけれど、「あそこ」ってどこですか?「あそこ」を言いなおしてみてください。
「掘るのをやめてしまった時間。たとえば心臓マッサージをするとき、やめるとき、のその時間」
「掘りつづけて、やめてしまったところ(場所)」
「死体のあるところ」
「死体をさがしているんじゃなくて、どこかで生きているかもしれないとさがしているんじゃないかなあ。だから死体というのは……」
「でも、死んだひとを探さないと、時間が動いていかない」
「でも、生きていることを願ってるんでしょ?」

 あ、おもしろいなあ。
 ここが、この詩のハイライトかもしれない。
 「あそこ」は「時間」か「場所」か。よくわからないですね。時間と場所がいっしょになったところかもしれない。
 また、探しているひとは、生きているか死んでいるかわからない。矛盾という言い方が正しいかどうかわからないけれど、正反対のものが、ここにありますね。でも、正反対といいながら、同じでもある。探しているのは「あなた」ですよね。わたしの知っているひと。
 それは、わかっているのに、どうもうまく説明できない。割り切れない。「あそこ」は人が死んでいる場所か、それとも「あそこ」にはひとが生きているのか。--わからないまま、「あそこ」というひとつのことばになってしまっている。
 それでむずかしい。
 わかるのにむずかしい。
 説明できない。
 こういうことばが、たぶん詩なのだと思います。

 むずかしいですね。わかっているのに、でも、むずかしい。むずかしいけれど、わかる。それはどういうことかというと、川上のことばが私たちの「肉体」のなかに入ってきて、肉体そのものを動かしているからなんです。
 思考だけを動かしているのではなく、肉体も動かしている。私たちは被災地でどこかを掘っているわけではない。けれど掘っている気持ちになっている。肉体が動いている。そして、その肉体が指し示す「あそこ」を肉体で知ってしまっている。
 だから、ことばにして説明し直そうとするととってもむずかしい。
 肉体が知っていること--以前、こういうことを「肉体で覚えていること」という具合に言ったことがあると思うけれど、肉体が覚えていることは説明がむずかしいんです。そして、説明できないくせに、肉体でそれを再現できる。
 自転車に乗る。それを肉体で覚えると、何年か乗らなくてもそのまま乗れる。足をどうして、スピードをどうして、なんてことばでは説明できない。「あそこ」でペダルにぐいと力を入れて、「あそこ」でハンドルを切って……。「あそこ」がどこかわからなくても、実際の坂道や交差点、信号の変わり目では、自然と「あそこ」がわかるでしょ?

 なんだか、私はこういう話をしていると、詩の話なのか、哲学の話なのかわからないような気がしてくるんだけれど、まあ、いいですね。
 これが私の「読む」流儀なので。

 そして、この2連目の最後で、もう一度質問します。

でもこれはわたしの夢ではなくて
今もあの場所できっとそうしているだれかのもの
わたしはあなたを探しにゆくことで見えてしまうかもしれ
ないすべてをおそれ
今日も電話を枕元において眠ってばかりいる

 この部分について、私はさっきちょっと言い漏らしたことがあるのです。
 さっき言ったことを明確にするために、ちょっとことばを補いたい。
 ここに書かれていることはこのままわかりますね。
 で、質問というのは、

質問 「でもこれはわたしの夢ではなくて/今もあの場所できっとそうしているだれかのもの」という行で、この文章は一応関係していますね。句読点がないけれど、句点「。」がここになると考えてもいいと思います。しかし、もし、この2行のあとに、あえて何かを書き加えるとすると、どういうことばがありますか? それを考えてください。
「けれども、かな」
「わたしは知りたくない」

 あ、私の質問の仕方が悪かったようですね。私の読み方をいいますね。
 私は、ここで、次のように読みます。

でもこれはわたしの夢ではなくて
今もあの場所できっとそうしているだれかのもの
「でもわたし自身の夢」

受講生「でも、そうすると変じゃないですか? 矛盾しませんか? 前の2行でわたしの夢ではなく、だれかの夢と言っているのに、わたし詩人の夢と言いなおすと意味がおかしくなる」

 そうですね。2行のままだと矛盾しないですね。「わたしの夢ではなく、だれかの夢」--2行だと矛盾しない。わたしの「でもわたし自身の夢」とつけくわえてしまうと矛盾になる。「わたしの夢ではなく」「わたし自身の夢」。矛盾ですよね。
 でも、そういう「意味」だと思います。
 わたし自身と無関係の夢なら、こんなに真剣に夢見ない。夢の中身にこころを奪われない。わたしの夢でもあるからこそ、引きずり込まれる。
 わたしの夢ではないといいたい、無関係でいたい。けれども、それはだれかの夢ではなく、わたしに関係してくる。わたしも同じ夢を見ている。「だれか」と「わたし」は切り離せない。「わたし」と「だれか」は同じ人物なのです。
 これは私たちも同じですね。
 ここに書かれていることば、その内容は私たちの書いたものでも体験でもない。けれど私自身の体験のように感じる。この私のものではないのに私のものと感じるという矛盾のなかに詩がある。
 詩は矛盾なのです。
 ひとの経験なのに、自分の経験として感じてしまう--そういうことばの運動のなかに詩がある。

 2連目まで読んで、私たちは、詩のなかの「わたし」と作者の川上が、違う存在だけれど川上であるとも感じました。それは読んでいる私たちもそうですね。ここに書かれている「わたし」は私ではない。けれど、まるで「私」のことのように感じる。
 このあと3連目。
 ここでは「わたし」と「あなた」が一体化します。会話がつづいているので、ふたりがいるのだけれど、そのふたりは「わたし」が再現した「あなたとわたし」というふたり。肉体は「ひとつ」ですね。意識も「わたし」と「あなた」とわけることはできるけれど、その「あなた」は「わたしの記憶のことば」なので「わたし」ですね。
 だから、これはいったいどっちのことば、とわけがわかりにくいところもあります。最初の方は「わたし」のひとりのことだけれど、後半がそうですね。

質問 「かなしいわけじゃないのに」以降の部分で「あなた」の言っていることを鍵括弧でくくってみてください。どれとどれが「あなた」のことばになりますか?
「そんなことわからないじゃないか、から永久に長生きだ、まで」
谷内「次の部分では」
「ううん、は、わたし」
「ううん、からその日がくるから、まではわたしのことばで、じゃあそのときからあとが、あなたかな」
谷内「おわりは?」
「……」

 ごちゃごちゃしてわかりにくいですね。
 私にも、わかりません。
 わからないと開きなおってもしようがないのだけれど、開き直りのついでにいうと……。
 こういうところは、わかってもいいし、わからなくてもいい。
 二人は反対のことを言っているのだけれど、ほんとうは同じことをいいたい。いっしょにいつまでも生きていたい。
 それなのにあえて反対のことを言って、ことばの深度というか、ことばを深めようとしている。考えをしっかりしようとしたものにしている。死とはなにか。生きるとはなにか。死んだらどうなるのか。
 これは二人がことばをかわすことで、少しずつ変化していく。一方だけが変化するのではなく、二人が変化していく。これは二人が一人になる、二人が「ひとつ」になるということですね。
 で、この3連目の最後。

ほんとうに
来るなんて

質問 何が来たんですか?
「大地震、津波」
「別れ」
「そのとき。別れるとき」

 私も、死、あるいは別れと読みました。
 その死によって、さっきの死をめぐる会話のなかで「ひとつ」になった二人がまた「ふたつ」わかれてしまう。ひとり(わたし)は生きていて、あなたはどこにいるかわからない。たぶん死んでいる。そういう絶望がある。
 で、さっき、私は「何が来る?」と質問しました。
 川上は、あえてその「何か」を書かなかった。

 ここから何かを思い出しませんか? この講座の最初の方を思い出してください。何か似たことがありませんでしたか?
 「まえぶれもなく抱きしめあうことだけを考えて」という1行には、東日本大震災ということばが省略されていた。それは「わたし」に深くしみついていることばだから、省略されている。同じように「死」も深く深くしみついている。だから、それはいわない。言わなくても「わたし」にはわかりきっている。もう「肉体」になってしみついている。
 
 4連目。
 ここでは、「わたし」と「あなた」は大震災で「ひとつ」ではなく「ふたり」に分裂してしまったという事実が書かれている。そして、引き裂かれてしまったからこそ、あなたを呼びつづける。

誰かが誰かを呼んでいるさけび声
そのなかのひとつは
わたしがあなたを呼ぶ声
いまもわたしが
あなたを呼んでいる声

 そのなかの「ひとつ」の「ひとつ」がとても切実。「さけび」ときうことばのひらがながとてもつらい。
 そして、ここには私が1連目で、少し違和感があるといった表現に似た部分がある。携帯の着信音をきれいな、美しいことばで表現しているところ。

思い出や笑い声ややさしかったことがまじりあってきらき
らと鳴って
それはまるで晴れた日にぽつぽつとつぼみをひらいてみせ
る名もない小さな花みたいだ

 この部分--しかし、私は、今度は違和感を覚えない。美しくていいなあと思う。それは、なんといえばいいのだろう、亡くなったひとの今いる場所が、そうあってほしいと願っているこころが引き寄せたことばのように思える。
 つらく悲しい場所にいるのではなく、楽しく明るい場所にいる。そう祈りたい。その祈りのようなものを感じます。




「現代詩講座」は受講生を募集しています。
事前に連絡していただければ単独(1回ずつ)の受講も可能です。ただし、単独受講の場合は受講料がかわります。下記の「文化センター」に問い合わせてください。

【受講日】第2第4月曜日(月2回)
         13:00~14:30
【受講料】3か月前納 <消費税込>    
     受講料 11,300円(1か月あたり3,780円)
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※新規ご入会の方は初回入会金3,150円が必要です。
 (読売新聞購読者には優待制度があります)
【会 場】読売福岡ビル9階会議室
     福岡市中央区赤坂1丁目(地下鉄赤坂駅2番出口徒歩3分)

お申し込み・お問い合わせ
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TEL:092-715-4338(福岡) 093-511-6555(北九州)
FAX:092-715-6079(福岡) 093-541-6556(北九州)
  E-mail●yomiuri-fbs@tempo.ocn.ne.jp
  HomePage●http://yomiuri-cg.jp



すべて真夜中の恋人たち
川上 未映子
講談社
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新井豊美「庭」

2012-01-16 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
新井豊美「庭」(「現代詩手帖」2012年01月号)

 私はいつから新井豊美の詩が苦手になったのだろうか。嫌いになったのだろうか。新井が変わったのか、私が変わったのか、よくわからないが……どうにも苦手だ。
 「庭」の1連目。

そこで人々は耳をひらき
廃れていく時の培養基
褪色した印画紙の
(紙の中を流れる風の音)
時の《息》に聴きいっていた

 2行目の「廃れていく時の培養基」で私はつまずく。ここが嫌い。「意味」が強すぎる。イメージではなく「意味」がことばを支配しすぎている。
 時(時間)という意味だろう。それが廃れていく。それを培養する--廃れやすくする、廃れることを促す液体か固体かわからないが、そういうものがある。そういうものをことばで提示しているのだが、「培養基」の方にはことばの力点はない。「廃れていく時」に重点が置かれている。「時」が廃れていく--その「意味」のなかに、抒情がこめられている。そして、その抒情は自然発生的なものではなく、どうも「ことば」でつくりだされたものである。
 詩は、特に現代詩は、感情を書き写したものというより、むしろ感情をつくりだしていく(捏造していく)ものだから、ことばが感情をつくりだすこと自体に私は反感があるわけではない。そのつくりだす感情が抒情というところに、何かいやな感じをもってしまう。それも「廃れていく時」なんて、抒情まるだしである。「廃れていく」ではなく、あざやかになるものに抒情が結びつくならちょっとおもしろいと思うのだが、「廃れていく」(しかも、時--これは、きっと「過去」という意味)ということばの動きが「流通言語」そのものに感じられる。しかも、それは「男性」が作り上げた「抒情流通言語文法」である。(簡単に言うと、清水哲男につながる抒情。)
 で、「廃れていく時」は3行目で「褪色した印画紙」と言いなおされる。--なんだか、いやだなあ。古い写真、そのなかで「廃れていく時」がある。「培養基」はやすっぽい現像液か定着液か。まあ、セピア色になっていく(褪色していく)抒情である。
 写真--だから、次は「紙」が出てくる。4行目の「紙」は写真である。で、その褪色し、セピア色になった写真の--その褪色(色が廃れる)なかに「時」の経過がある。「過去」がある。その「時の流れ」を、「風」と言い換えて、そこから「風の音」が出てくる。
 もちろんこのときの「風」は「時」の言い直しであるから、その次の行では「時の《息》」と、ちゃんと「時」が出てくる。そして、その「息」を人々は「耳をひらき」聞いている--と1行目へもどる。
 あまりにきっちりと完結しすぎている。--こういうところが、私は苦手なのである。新井豊美の詩が好きなひとは、私とは逆に、こういう完璧なイメージの完結が気持ちいいと感じるのかもしれない。濁りがないからねえ。
 で、濁りついでに途中をとばして最終連。

流れおりる枝先からさみどりの水滴にふくらんで
滴の音が
耳の濁りをいっとき
透明にする

 濁りを排除し、透明になる--透明な抒情が完結する。この感じが、私にはとても窮屈に感じられる。むしろ、濁りのなかに抒情がある、という感じにはならないだろうか。ノイズのなかに抒情があるという感じにならないだろうか、といつも思ってしまうのである。
 で。
 なぜ、こんなことを書くかというと--というのは飛躍なのだが、実は5連目が私は好きなのである。ふと、最初に新井の詩にであったときの不思議さがそこにある。

水底の凍った泥をかきまわす春の魚
そのちいさなあかい胸鰭
芽吹くはしばみの枝を折って池のなかにさしこむと
ふくらむ水の腹を枝はつらぬき

 「触覚」が動いている。触覚が世界をふくらませている。1連目、最終連の「聴覚」が世界を透明に結晶させる方向に動くのに対し、新井の「触覚」は世界を拡大し、同時に濁らせる。泥をかきまわし、水の腹をふくらませる--とは書いていないのだけれど、まあ、そんなことが書かれている。というか、「泥をかきまわす」というときの気持ちよさ。「触覚」の暴力がそこにあり、他者との交流がある。「触覚」によって私も変われば他者も変わるという予見不能の危なっかしさ--つまり恋がある。
 何かを水にさしこむ--そのさしこまれたものの量(?)だけ水の腹がふくらむ。さしこむ→腹→ふくらむ、ということばのなかにあるセックス。いのちの濁り。肉体の濁りがある。
 やわらかくて、女っぽい。
 私の女性観は古いのかもしれないが、濁ること、何かを内部にいれて、つまり孕むことで、豊かになっていく抒情というものがあると私は思うのだ。濁ることが(内部に何かをいれて)、その結果豊かになるという肉体の哲学を、新井は30-40年ほど前に書いていなかっただろうか。私は、そのころの新井のことばが好きだ。





夜のくだもの
新井 豊美
思潮社
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暁方ミセイ『ウイルスちゃん』

2012-01-15 23:59:59 | 詩集
暁方ミセイ『ウイルスちゃん』(思潮社、2011年10月15日発行)

 詩集を読むとき、最初に出会う詩がとても気になる。最初の詩がおもしろくないと、次の詩へ入っていくことができない。
 暁方ミセイ『ウイルスちゃん』の巻頭の詩は「呼応が丘 二〇〇九年五月十四日」。

緑地帯から
発光している
しがつの霊感の、稀薄な呼気だけを肺胞いっぱいに詰めて
そのまま一生沈黙したい

 この短い行と長い行がつくりだす不規則なリズムは、私にはなんだか気持ちが悪いのだが、3行目、

しがつの霊感の、稀薄な呼気だけを肺胞いっぱいに詰めて

 この行に惹きつけられてしまった。
 なぜだろう。
 「しがつ」がひらがなのせい? 「しがつの霊感の、稀薄な呼気」のことばが重なるようにして動いていくところ? たぶん、この重なり--重なることで世界が深くなるような印象に惹かれたのだ。
 そのあとのことばが「肺」ではなく、「肺胞」であるのも印象に残る。前の積みかさなったことばがあるから「肺」ではだめなのだ。「肺胞」とことばが重なった--重なってできたことばが必要なのだ。そこに、ある不思議なことばの肉体、ことばが自分自身でつくりだしていくリズムを感じた。
 少し進むと、

静かになるためには、眼差しを一枚ずつ重ねていった
おもたい青空の、見える一層一層から

 という行が出てくる。ここには「重なる」がことばそのものとして書かれている。そして、その「重なる」は実は「対象」ではなく、「眼差し」。
 あ、そうなのだ。
 暁方は「見えるもの」を重ねているのではなく、「眼差し」そのものを重ねている。つまり、それは「眼差し」の記憶、あるいは「眼差し」の予感かもしれない。「いま/ここ」にないものを「重ねる」のである。
 ことば、そのものを「重ねる」のかもしれない。
 「おもたい青空の、見える一層一層から」は正確には(?)、「おもたい青空を見る、その眼差しのひとつひとつから」ということになるかもしれない。青空を見る。見るたびに、その「眼差し」に「眼差しが見たもの(眼差しが見てきた青空)」の記憶が重なる。そして「層」をつくっていく。そうやって、重くなっていくということだろう。
 見る--それも重ねて見る、というのが暁方の肉体(思想)であると、私は直感した。
 たぶん、その直感に影響されてしまっているのだろうけれど、

まばゆい飽和だ
こんなに
朝の底の
ひかりの堆積層へ降る、                 (「世界葬」)

睡眠の重みが
やわらかな光の多層の
底の方へ降り積もる                   (「死なない朝」)

生きている時間を
閉じ込めておいて
日々の堆積層。                      (「死なない朝」)

 という「堆積・層」「重み(これは重なることで重くなる、ということだろう)」「積」ということばが目に飛び込んでくる。さらに、その「積む」が常に「底」を意識していることを感じさせる。

おもたい青空の、見える一層一層から

 では、「底」は「青空」のどこになるのだろう。「青空」の「底」というのは矛盾だが、矛盾ゆえに--その矛盾を通して見えるものが、ひどく印象に残る。その「底」はほんとうに存在するのではなく、「眼差し」によってつくられる「底」なのだ。
 世界は存在するのではなく、「眼差し」がつくっていく、つくりあげるものなのだ。
 だからこそ、次の2行が可能になる。

透明が濃密になって
どの窓からも見えるようになる朝              (「死なない朝」)

 「透明が濃密になる」とはどういうことか。「透明度が高くなる」ということなら、それが「見えるようになる」というのは激しい矛盾である。見えないから「透明」なのである。「透明」がさらに「透明になる(濃密になる)」なら、いっそう見えなくなるはずである。論理的には。あるいは科学的(?)には。
 しかし、暁方は「見えるようになる」と書く。
 これは「透明」を見た「眼差し」の、その力が「濃密になる」ということだろう。眼差しの力が濃密になる--というのは、比喩なので、論理的ではないが--透明を見た眼差しの記憶、それが煮詰まるように重たく重なるということだろう。
 こうした眼差しの堆積(層)を生きるからこそ、暁方には「渇湖」のような作品も必然として存在する。その形をそのまま引用するのはとても面倒なのでテキトウに説明すると、詩集の上段と下段に別のことばが動くという詩である。(詩集の80-81ページ参照)
 こういう作品を「読む」とき、ひとはどう読むのかわからない。上から読んで、下を読むのか。下を読んでから上を読むのか。また、私は朗読はしないが、もし朗読するとしたら、どうなるのか。朗読は別にして、ただ「黙読」するときに限って言えば、上を先に読もうが下を先に読もうがどっちでもいいのだろう。それが「地層」のように重なっている。そして、その重なりはなぜ重なりであるとわかるかといえば、上と下とことばの性質が違うからである--ということが大事なのだろう。
 重なる、堆積する--ということは、違うものが重なるということである。
 だから、

眼差しを一枚ずつ重ねていった

 というとき、そこには違う性質の眼差しが重ねられていったということになる。

透明が濃密になって

 は、「透明」と感じる違う性質の眼差しが重ねられ、濃密になる--違いが濃密になるということになる。
 「眼差し」の記憶、「眼差し」の肉体は、ひとつひとつが「違う」。だからこそ重なることで「層」をつくることができる。

 この「眼差し」の「違い」。この「違い」を支えるものは何?
 よくわからないのだが、次の部分が手がかりになるかもしれない。

ほのかな熱が頬のうえに降る
樹林や薄氷や、凍えた反射光と
同じ属性にある
わたしのからだ

 「違う」ではなく「同じ」ということばがここに出てくる。ここでの「同じ」は「同じ属性」という表現であり、それはうまい具合に私の予感していることとはつながってくれないのだけれど--「からだ」というものがある。「わたしのからだ」--それは「樹林や薄氷や、凍えた反射光」と「同じ」。でも、「眼差し」は、その「からだ」が「同じ」であることを超越して「違う」何かを見る。あるいは見るたびに「違う・眼差し」になる。
 「わたしのからだ」は「同じ・ひとつ」だが、そのからだのなかで「眼差し」だけが特権的に「違う」存在、つまり複数である--というのが暁方の「肉体」(思想)なのだと思った。
 この「違う」と「同じ」の交錯というか、重なりが暁方にとっては詩なのだ。

しがつの霊感の、稀薄な呼気だけを肺胞いっぱいに詰めて

 この行の「しがつ」「霊感」「稀薄」「呼気」は、別個なことばであるけれど、それは「わたしというひとつのからだ」の「複数の眼差し」がとらえた、「何かひとつ」のものの姿なのである。
 そこにある「もの(存在・いのち)」は「ひとつ」。それと対峙する「わたしのからだ」も「ひとつ」。でも、「眼差し」は複数存在するのだ。

 こういうとき、その「眼差し」をささえるのは何か。「ことばの伝統」と考えると、暁方の詩は高貝弘也の「ことばの肉体」とどこか通い合うものがある。「眼差し」とはいうものの、それは「視力」であるよりも、「ことば」の記憶である。暁方も高貝も「ことばの記憶(ことばの肉体)」で世界と向き合っているように思える。
 高貝なら、そうは書かないだろうけれど、あ、高貝だと私が感じたのは、次の部分。

通りすぎるまで
街や大通りの喧騒の
ひとつの上空からくる
雨だれのなかへ埋没していくことを、
ふいに震撼する
あなたとわたしの
輪郭線や

 何がどうとは言えないのだけれど、「震撼」と「輪郭線」のよびかわすことばの響き具合がなんともいえない。美しい。



ウイルスちゃん
暁方 ミセイ
思潮社
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ジェフリー・アングルズ「私のアメリカ史」

2012-01-14 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
ジェフリー・アングルズ「私のアメリカ史」(「ミて」117 、2011年12月30日発行)

 ジェフリー・アングルズ「私のアメリカ史」は、ほんとうに個人的な「アメリカ史」である。ジェフリー・アングルズの家系図について語っている。

思春期のときに
わたしのひいおじいさんは
密航者になって
ひとりでこの国にやって来た
と編み針をあやつりながら
祖母は言う
途中で見つかって
死にそうまで打擲された
だから陸に着いたら
さっさと逃げた
言葉なんて通じなかったが
どこかで猿を見つけた
あるいは盗んだかもしれない
自分の名前を皇帝のように
大きく看板に書いた
そして開かれた海の前で
手回しオルガンを演奏して
猿を踊らせた

 この1行1行のリズムが気持ちがいい。きっと「祖母」の語っているリズムを再現しているのだと思うが、ことばがリズムを持つまでには繰り返しが必要である。祖母はこの話を何度も何度も語っていたのだろう。そして、作者はその語りを何度も何度も聞いたのだろう。「あるいは盗んだのかもしれない」という推測さえ、繰り返されて「事実」になる。推測が事実というのは変だけれど、そう推測したということが事実なのだ。推測することで、実際以上に「ひいおじいさん」の「時間」というか「肉体」というか--その人間が大きくなる。そこに「誤読」が入っているのだけれど、「誤読」は一種の「夢」でもある。猿を見つける--でもバイタリティーがあるのだが、盗んだの方が懸命に生きる感じがする。いいじゃないか、生きるためなんだから猿ぐらい盗んだって。で、ほんとうは猿を盗んだが「事実」であって、「かもしれない」はその違法行為をごまかすための「方便」としての「推測」かもしれない。
 さあ、どっちを選ぶ?
 こういう「選択」にきっと、読者の「質」というか「品」が出るんだろうなあ。つまり「思想」が出るんだろうなあ。--と書いたあとでは書きにくいが、私は、きっと盗んだのだと思う。でも盗んだというとあとで問題になるから、「盗んだのかもしれない」と推量にしておいたのだ。あえて、ごまかしたのだ。そうした方が、どんなふうに読んでもいいでしょ? 好き勝手読みなさい。自分の「アメリカ史」をつくりなさい、ということだね。
 「ひいおじいさん」は、家系図をたどるとひとりではない。祖母の「ひいおじいちゃん」は父方の父と、母方の父。で、もうひとりのひいおじんちゃんのことが2連目で書かれているのだが、省略して、3連目。

思春期のとき
わたしはこの国しか知らない祖母の
話をベランダでひとりで聞く
彼女の皺で覆われた手は
流れることばのように速い
一目、二目、針を引いて
黒い紐を白い紐にかける
三目、四目、針を引いて
地平線に水平線をかける
四目、五目、針を引いて
赤い紐を青い紐にかける
六目、七目、針を引いて
血統を血統にかける
そして 寄り合わせたら
演奏し終わった針を
話とともに止めて
紐はしっかり
口で締める

 途中、「四目」が二回でてきて、書き間違いかなあとも思うのだけれど、まあ、いい。論理的な「意味」ではなく、ここはリズムさえあっていればいいのだから。リズムさえあっていれば、音(意味?)は自由というのはジャズやロックみたいでいいなあ。クラシックは逆だね。音はあっていないといけないけれど、テンポ(リズムとは感覚がちょっと違うのだろうけれど、私のような素人には、テンポとリズムなんて、まあ、似たようなもの)は自由。
 で、そういう破調(?)を通り抜けて、最後の

口で締める

 あ、これいいなあ。
 これは実際に口で締めるというよりも(実際は手で締めるのだと私は想像しているのだが)、紐を最後に口で(歯で)断ち切って終わるのだと思う。
 その断ち切りを「締める」というのが、うーん、おもしろい。
 口を締める(ではなく、閉める、かも)ことは、ことばを閉じること。そしてことばを閉じるということは、そのことばが語ってきた物語をそこで「断ち切る」こと。つまり終わらせること。
 で、その編み針をあやつることと、物語を語ることが、交差して、同時に終わる。
 そのためには、何が必要だろう。
 「物語」が確実に肉体にしみ込んでいて、自在に長さを変える必要がある。ことばのリズム(テンポ、とも言い換えてみる)は守りながら、物語が紐を編むのと同じ「時間」になるためには、ことばの省略、追加が自在におこなわれなければならない。そういうことを自在におこなうためには、その物語は何度も何度も繰り返され、肉体になじんでしまわないといけない。
 「知っている」ではなく、「覚えている」ことば。肉体となっている、ことば。
 ことばを発するのが口なので、物語が終わるとき、口は閉じられる。そういう意識がどこかに残っていて、

紐をしっかり
口で締める

 になってしまう。
 肉体になじんだことばが、事実をゆがめてしまう。ほんとうは手で紐を締め、口で、口の端で編んでいる糸の方を断ち切るのだけれど、締めると断ち切るが肉体のなかで混同してしまう。
 それくらい、ここで語られていることは繰り返されたのだ。ひいおじいさんの「歴史」だけではなく、それを語る祖母の時間も繰り返されたのだ。そして、それを聞くジェフリー・アングルズの行為も。
 耳になじんだことばが、視覚を混乱(?)させ、ことばを「流通言語」から違うものにしてしまう。
 それはここで語られているアメリカ史が「個人史」なのに対して、「個人語」というものかもしれない。そこには、詩人の「血統」がそのまま生きている。
 それがおもしろい。

 同時に掲載されている「田」も、「田」という象形文字に関する「個人語」の感想である。「流通言語」として説明されている「田」ではない思想をジェフリー・アングルズはつかみ取り、そこから「流通言語」(その思想)に異議をとなえている。
 作品は「ミて」で確認してください。
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ノーマン・ジュイソン監督「華麗なる賭け」(★★)

2012-01-14 21:58:45 | 午前十時の映画祭
監督 ノーマン・ジュイソン 出演 スティーヴ・マックイーン、フェイ・ダナウェイ

 タイトルの分割画面が、昔はとても新鮮に感じられた。でも、いまはなんだかうるさい。あまり効果的とも思えない。同じ画面に映っていなくても「同時」という感覚は生まれる。画面の大小もおもしろくない。いま、誰かがやるとするなら、目そのもののアップとか、飛行機の翼の一部とか、全体を観客の想像力にゆだねるものになるかなあ。
 冒頭の銀行強盗のシーンまでと、スティーヴ・マックイーンとフェイ・ダナウェイの恋愛がちぐはぐ。運転手をホテルに呼び出して雇うところから、公衆電話を活用して時間をあわせ、金を奪うまでは、ほんとうに華麗でわくわくするね。そのあと、まあ、恋愛してはいけない2人、銀行強盗の主犯と犯人探しの調査官が恋に落ちる――というのが見せ場なんだろうけれど、なじめないなあ。
 美しいのはグライダーのシーンとミシェル・ルグランの音楽が交錯するシーン。自力では飛ばず、惰力と風で空を舞う――その不安定が、2人の恋愛の駆け引きを象徴する。(そのシーンには別の女性がいるのだけれど。)どっちが惰力? どっちが風? 恋愛では、主役はなく2人の関係の揺らぎが主役。揺らぎ、駆け引きが美しい時、2人が輝く。惰力と風が拮抗しバランスをとるときグライダーが華麗に舞うのに似ている。
 これに比べるといかにもスティーヴ・マックイーンらしい海辺の車のシーンは、ぜんぜん美しくない。スティーヴ・マックイーンがリードするだけ。車を運転するとき、車をあやつるのはスティーヴ・マックイーン。まあ、砂浜のでこぼこが不確定要素だけれど、フェイ・ダナウェイは安心しきっているでしょ?
 それに比べると、グライダーは女が一応、「どうしてエンジンつきにのらない?」と問いかけるでしょ? 不安だからだね。自分のすべてをコントロールできたら、そこには恋はない。自分だけではコントロールできない――それが恋。
 ラストが、そうだね。最後の「賭け」は、どっちが勝った? スティーヴ・マックイーンもフェイ・ダナウェイも負ける。負けた二人の間で、不可能な恋だけが勝ち誇って輝いている。人間の「知恵」では解決できないいのちが輝く。それが、涙、というわけか・・・。


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池井昌樹「筍」ほか

2012-01-13 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「筍」ほか(「現代詩手帖」2012年01月号)

 池井昌樹「筍」は「終日」というタイトルでまとめられた4篇のうちの1篇。

むかしたけやぶだったから
たけのこがたくさんはえた
ひとのこははえなかった
たけやぶはきりはらわれて
おおくのいえがたちならび
おおぜいひとのこがうまれ
たけのこはもううまれなかった
こんなふしぎななつぞらのした
いつものばすをまちながら
ひとのこたちにはさまれながら
どこかにたけのこもはえている
しらないまちのあさをおもった

 竹林が造成され新興住宅が立ち並ぶ街。そのバス停で、知らない街、筍のはえている街を思った。--そういう単純な詩である。
 で、単純なのだけれど。そして、だれもがよくつかうことばなので、池井昌樹の独想とはいえないのだけれど。

しらないまちのあさをおもった

 この「知らない」と「思う」(漢字で書いておく)がよくよく考えると変である。不思議である。「知らない」ものを「思う」ことって、できる? できない。「知らない」ものを「思う」とはどういうことか。なぜ、「知らない」を思うことができるか。
 その前に書かれていることと関係がある。
 「ひとのこたちにはさまれながら」。これは「現実」なので、わかる。「どこかにたけのこのはえている」は「どこか」が不特定なのでわからないが、「たけのこ」は知っている。わかる。「はえている」も、そういう状態を知っている。わかる。
 「知っている」「わかる」ことを組み合わせて、「いま/ここ」ではないところを思ってみる。それは「知っている/わかっている」ことで構成されている。「どこか」「わからない(知らない)」、つまり、「いま/ここではない」ということだけは確かな「ある場所」と想像する。想像で生まれた街を「しらないまち」と池井は呼んでいる。
 で、何を言いたいかというと。
 池井が書く「知らない」には「知っている」が含まれているということである。(これはだれでもそうだけれど。)そして、池井は「知らない」に「知っている」が含まれているとき、そこに詩を感じるのだ。
 というよりも。
 「知っている」「わかっている」もの、「いま/ここ」にあるものを見つめていると、しらずしらずに「いま/ここ」から離れ、「知らない」ところへたどりつく。そして、その「知らない」のなかに「知っている」「わかる」がいつでも存在していることに驚くのである。--矛盾に驚くのである。

 逆もある。「腕」。

このうでだけでいきてきた
どんなくるしいときだって
どんなかなしいときだって
このうでだけでのりこえた
こどもそだててきたうでだ
おこめをといできたうでだ
はずかしいはなしだけれど
このうでだけをだきしめて
このうでだけにだきしめられて
ぼくはこれまでいきてきた
となりでねいきたてている
ちいさな疱瘡痕のある
おもいだせないあのひとの

 最後が変だよね。「このうで」というから、池井は「この腕」を知っている。その腕を抱き、その腕に抱きしめられてきたから、それは「知っている」腕である。その腕には「疱瘡痕」がある。腕に疱瘡痕がある世代というものがある。疱瘡痕が何によるものかも池井は「知っている」。
 その腕は「知っている」けれど、腕の持ち主は「知らない」人である。池井は「知らない」ではなく「思い出せない」と書いているが、「知らない」と同義である。
 でも、どうして思い出せない? あるいは「知らない」と言える?
 痴呆症?
 ちがうね。
 この「思い出せない」は、そういう「腕」は「思い出」のなかに、「記憶」のなかにあるのではない、ということだ。「いま/ここ」にあるだけではなく、それは「いま/ここ」、つまり過去(記憶)とつながる時間を越えて、「知らない場所」に存在するということなのだ。
 それは「過去」ではない、と書いた。それでは「未来」か。そうでもない。池井の書いているのは、いつでも「永遠」である。
 「いま/ここ」が永遠になるとき、「いま/ここ」を構成するものは「知らない」ものに純化される。「知らない」を貫く「知っている」ことに純化される。--こういう書き方は矛盾だが、矛盾でしか言えないものに、純化する。

 「陽」も同じ感じの作品だ。

まくどなるどがあるでしょう
そのおむかいのほんやさん
どこかでこどものこえがする
やさしいだれかがよんでいる
それをだまってきいている
いつものよごれたまえかけで
うでぐみをしてとしよせて
あのこがおとなになったころ
まくどなるどはあるかしら
むかいにほんやはあるかしら
けれどそこにはいないだろうな
そこにもどこにもいないだろうな
まくどなるどのあったころ
むかいにほんやのあったころ
あるひあるときあるところ
かわいいこどものこえがして
それをだまってきいている
だれかもこんなひのなかで

 書店の店員である池井が子どもの声を聞きながら、その子が大人になったころ、「いま/ここ」にあるものたちは、あるだろうか、と考えている。ぼんやり夢想している。時代の変化は激しいから、まあ、ないだろう--けれど。
 それがなくなったとしても。
 「だれか」が同じことを夢想するだろう。「時間」を夢見るだろう。「時間の夢」が「永遠」なのだ。「永遠」だから、「だれか」でいいのだ。「池井」でなくていいのだ。「永遠」に触れるとき、ひとは固有名詞からはなれ「だれか」になる。
 「知らない」「思い出せない」「だれか」--その不思議な透明性のなかに「永遠」はある。





池井昌樹詩集 (現代詩文庫)
池井 昌樹
思潮社
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川上三映子「まえぶれもなく」(2)

2012-01-12 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
川上三映子「まえぶれもなく」(2)(「現代詩手帖」2011年12月号)

 だれのことばでも肉体と意識は「ひとつ」かもしれない。
 私がおもしろいと思うのは、かなり逆説的な言い方になるのだが、意識は肉体と違って分裂しつづける。分裂しつづけることができる。そのとき、「肉体」が「意識」を「ひとつ」にする力として働き、「肉体」と「意識」は「ひとつ」であると教えてくれる。つまり、どんなに分裂しても、意識は肉体とともにあり、分裂したすべての意識がどこにも消えないということを教えてくれる。

もしもし どこにいるのですか もしもし
何がどうはっきりしたらあなたは死んだということになるのでしょう
だって死んでいないくても会えない人はたくさんいるし会わなくなる人はたくさんいるし
にこにこ笑って実家へ帰っていったあなたが新幹線に乗ったとたんわたしのことをもう好きではなくなって
連絡しなくなっただけなのかもしれないではないですか
わたしのことを忘れてしまってどこかで生きているのかもしれないではないですか

 ことばは意識を追いつづける。意識がことばを拡散させる。このとき、意識はどこへもゆけない。肉体のなかにとじこめられている。「ひとつ」にねじりあわされている。どこか、識別できないことろで重なりあっている。まるでそれは肉体のなかで五感がまじりあうような感じだ。五感は、その感じるところによって目(視覚)耳(聴覚)鼻(嗅覚)などにわかれるけれど、感じたものは肉体なのかで融合し、他の器官にも影響を与える。それと同じように、ことばは次々に交じり合い、影響を与え合う。そして、はっきりさせようとすればするほどわけかわからなくなる。自分のなかではわかっていることなのだけれど、いざことばにしてみるとくだくだと同じことを繰り返してしまう。ことばそれ自体はちがうことなのだけれど、ことばがちがえばちがうほどこころが同じになる。千々にくだけることで「ひとつ」であることがわかる。「ひとつ」が砕けて、群がって、動いていることがわかる。人間の肉体が動くとき、手も足も指も動くように。

悲しいわけじゃないのに何もかもがこうでしかないこうでしかありえなかった何か大きなものにむかってこらえきれず泣いてしまうわたしにむかって悲劇的な話をするのがきらいなあなたはそんなことはわからないじゃないか将来はiPS細胞とかがすごく発達して俺は死なないかも知れないしふつうに暮らしてふつうに子どもをいくつかつくってそれで永久に長生きだなんて言って笑っていて

 句読点がない。句読点がないけれど、私はついつい句読点を補って読んでしまう。ひとつづきのことばを、いくつかの文章にわけてしまう。けれど、ことばは句読点ではほんとうは区切れないものなのだと思う。
 話しているうちに、話している自分の声をきいて反応し、少しずつずれていく。そのずれを修正するようにして、文章にするとき句読点をつかうのだが、これは「学校教科書」が考えた規則で、人間のこころというのは「教科書」のようには動かない。
 理不尽に、ことばはつながっていく。連続していく。切断できない。
 それでは、いけない。
 連続ではなく、切断が必要なのである。
 それは自分のことばの場合もあるし、自分に向けられた他人のことばの場合もある。ほんとうは、そういう具合に接続していきたくない--そういう思いが噴出してきて、たとえば今引用した部分のあとは、次のように展開する。

 ううん死ぬよぜったい死ぬからどっちかがどっちかをおいていくんだよ必ずぜったいその日がくるからじゃあそのときがくるまでとにかく色々なことをして色々な思い出をつくって誰もいなくなったときその思い出はどこにもなんにも残らないかもしれないけれどぜんぶがなんでもなくなるかもしれないけれど残して

 「ううん」と否定のことばで、相手のことばを切断する。
 けれど、これはうまくいかない。

どっちかがどっちかをおいていくんだよ必ずぜったいその日がくるからじゃあそのときがくるまでとにかく色々なことをして色々な思い出をつくって

 この部分の「じゃあ」からつづくことば--それがとてもあいまいである。前の段落で、「ひとは永久に死なない(かもしれない)」と言ったのが男だと仮定する。それに対して女(わたし)は「ひとは必ず死ぬ」という。そのあと「じゃあ」と別の提案をするのは男の方である(はずだ)。しかし、区別がつかず、その男のことばを引き取って女が区切りもなくことばを動かしていく。
 このとき、意識も肉体も、識別されていない。「ひとつ」に融合している。ことばだけが「ひとつ」の状態で、しかも、矛盾を抱え、常に否定を含みながら動いている。

 あ、なんだか、書いていることがごちゃごちゃしてきた。

 きのう書いたことにちょっと戻る。
 きのう私は「でも」ということばが川上の思想であり、「でも」が「矛盾」を抱えながら、論理を飛躍させる。そのとき、そこに「ひとつ」の肉体というものがあらわれる--というようなことを書いた(書きたかった)。
 それがひとりのことばの場合でも、二人のことばの場合でも起きる。ふたりのことばなのに「ひとつ」になって動いていくということが起きる。
 そのときふたりは、無意識に「ひとつ」の肉体を共有している。これは「ことばのにくたい」というものかもしれない。「人間のにくたい」を越え、「ことばの肉体」として「ひとつ」になる。
 それを「愛」といえばいえるのかもしれない。--まあ、これは蛇足。
 「ことばの肉体」がひとつであるからこそ、「人間の肉体」が「ふたつ」にわかれ、その片方が不在のときに、激しい悲しみが襲ってくる。

 詩のつづき。

残るかもしれないよそれなんだっけアカシックレコードだよそれあるよそれなんて話してわたしをちゃかして何度も笑って何度も眠ったのにこんな
ほんとうに
来るなんて










すべて真夜中の恋人たち
川上 未映子
講談社
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八柳李花―谷内修三往復詩(19)

2012-01-12 23:37:01 | 詩集
許された時間のなかを  谷内修三

許された時間のなかを
福岡城址を歩いた
きみに会えると思ったのだ
梅林を抜けて石段をのぼるきみ
桜の庭のぼんやりとした明るさの道でどちらへ行こうか考えるきみ
さらに急な石段をのぼり石垣の死角へ誘うきみ
でもきみはいなかった
許された時間のなかを
きみと一緒に歩いたときの
石段はなかった
桜の庭はなかった
石垣もなかった
私の知らない空虚があるだけだった。
私が見たのは見覚えのないつまらない石
私が見たのは見覚えのない何本もの痛々しい冬の桜
私が見たのは枯れたススキが生えている石垣の裏側
あるいは天守台をささえる黒い、冷たい鉄骨(と、影
いやほんとうのことを言おう
私が許されているこの時間に。
私が見たのは孤独
石段のひとつひとつが孤独だった 誰がつまずいたのか、角の欠落が孤独だった
いっしょに重なり上へ上へと何かをささえているのにだれとも何も語り合っていない
桜の木々の枯れた孤独 折れたこころの孤独の断面
その木のなかには何もない 導管をはいまわる虫さえいない
石垣は自分からくずれないために孤独のなかに結晶していこうとしていた
いやちがう今度こそほんとうのことを書く
私がまだ許されているこの時間に。
石段の石が孤独なのではない 石には感情はない 石のなかには私の孤独がある
葉を落とした桜の木が孤独なのではない 木のなかに私の孤独がある
石垣の巨大な石が、間の小さな石が孤独なのではない
一個一個の石のなかに私の孤独がある
いやちがう今度こそ
ほんとうのことを書かなければならない
私が許されているこの時間の内に。
石段の石はだれにも踏まれない 空虚が上を渡っていく
何に耐えていいのかわからず孤独であることしかわからない
桜の木の枝は千々に分かれている 分かれていることで一本でいる
その分かれ目分かれ目の形の孤独(そのなかにいる私
それぞれの光と雨と風を求める孤独 求めても何も手に入らない孤独
孤独は私の精神のように分裂し無数の形になる
ひとつとして同じ形にならない
それなのに全部が桜の木だとわかる 孤独だから
石垣は動きたくない どこへも行きたくない ここにいたい
ここを動くもんかと意地を張っている その孤独
きみは知らない だって
きみはいないのだから そして
私の孤独だけがあらゆるところに存在する
私は私の孤独から逃げられない
こういうとき、むかし読んだ小説なら
「ばかだなあ」と嘲笑する声が木々や藪や石や分かれ道から
通りすぎる古くさい犬や風に流される枯れ葉から
聞こえてくる(はずだ (聞こえてきてほしい
だがそんな声も聞こえてこなかった
あざ笑う声が聞こえるのはもっと後(なのだろう
孤独になれてしまって、孤独であることを忘れたとき
遅れたように嘲笑がやってくる
それまでは聞こえてこない
私は孤独でさえない
孤独に出会えないくらいひとりなのだ
私は孤独にはなれない孤独が私を取り囲んでいるから
孤独が何かわからない孤独がぴったり身にはりついているから
石段がある 桜の庭がある 天守台の石垣がある
だれが見ても同じように石段、桜、石垣と呼ぶものがある
それを私は孤独と感じるが
これがほんとうのことだろうか
(許された時間のなかを、
「この石段、一段一段が低いよ
そういったとき、ほんとうだと思ったこころ
きみといっしょになったこころ
あれは孤独ではなかったのか
孤独なこころが許された時間に出会えた喜びではなかったのか。
孤独がわからない
孤独がわからない
孤独がわからない
きみに会いたいということしかわからない
きみがいない
きみはやってこない
嘲笑がやってくるまでには、さらに、まだまだ時間がかかる
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テレンス・ヤング監督「007/ロシアより愛をこめて」(★★★★)

2012-01-12 19:53:57 | 午前十時の映画祭
監督 テレンス・ヤング 出演 ショーン・コネリー、ダニエラ・ビアンキ、ペドロ・アルメンダリス、ロッテ・レーニヤ、ロバート・ショウ

 昔の映画は品があるねえ。そして、その品とは何かなあ、と考え始めたとき、あ、肉体なんだと気がついた。普通の肉体の、普通の動き。その、普通に品がある。いまの映画はアクションが普通の動きじゃないからね。そんなに走り続けられるわけがない、そんな危険なことができるはずがない・・・。
 でも、この映画はそのまま普通の人ができるアクションだよね。
 象徴的なのが、最後。メイドに扮したおばあさんが、靴に仕込んだ毒針でボンドと戦う。そのとき、ボンドはどうしてる? 椅子でおばあさんの動きを封じている。いまならこんなことをしないね。おばあさんの毒針自体がのんびりしすぎている。ボンドが素手で戦えない(椅子以外は素手だけど、この場合の素手は道具なし、という意味)なんてありえない。「マトリックス」なんか弾丸にだって素手で立ち向かう。(あ、これは違う?)
 だいたいすごい肉体訓練してるでしょ? 空手(カンフー)、柔道なんてお手の物。ボクシングだって。いわゆる格闘技全般をいまの役者はこなしてしまう。
 でも、この時代のアクションは、つまるところ取っ組み合い。ボンドとロバート・ショウの列車内の格闘がそうでしょ? 多少、けんかに心得がある程度の格闘だね。鞄にしかけた催涙ガスなんていうのも、ゆったりした感じ。そういう肉体が普通に動いて、それでも格闘といえる映画だからこそ、おばあさんお毒針さえもが最終兵器。おもしろいよねえ。
 このとき、役者の動きというのはあくまで観客もまねができる。その、普通さが品だと思う。品というのは、普通の最大公約数――だれもがそれでいいと感じることのできるものだ。
 で、ね。
 ここからは私の強引な飛躍。
 「007」にはボンド・ガールが出てくる。それが売り。セックスシンボル。ボンドはセックスを楽しみ、殺しもするのだが、ほら、殺しが普通の肉体(いや、かっこいい肉体なんだけれど)でやれることなら、セックスも普通の肉体でできること。何もかわったセックスしていないよね。普通にやることにはみんな品がある。その証拠が、売り物のセックスシーン、女の裸、だね。
 こんなことは昔は思わなかったけれどね。

 ぜんぜん関係ないことだろうけれど、ショーン・コネリー以外に、ロバート・ショウも裸を披露しているねえ。私は、このロバート・ショウの恥ずかしそうな目が好きだなあ。ほんとうかどうか知らないけれど、なんでも子だくさん。小説も書いているインテリ(古臭い!)なんだけれど、その子だくさんの養育費を稼ぐために役者をしているんだとか。どうりで、シャイだね。




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川上三映子「まえぶれもなく」

2012-01-11 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
川上三映子「まえぶれもなく」(「現代詩手帖」2011年12月号)

 川上三映子「まえぶれもなく」(初出「現代思想」11年09月臨時増刊号)は東日本大震災を契機に書かれた詩なのだろう。突然、連絡がとれなくなった親しいひと。震災後も携帯電話の電波は飛び交い、そこではだれかとだれかが呼びあっている。同じように呼びあいたいと思って呼ぶ、叫ぶ--だが、届かない。そのことを書いている。
 だが、最初の1行は--こういう言い方が正しいかどうかはわからないが、震災のことを書くというより「恋愛」のことを想像させる。

まえぶれもなく抱きしめあうことだけを考えて

 だれか--きっと「あなた」と抱きしめあうことだけを考える。大震災という事件ではなく、「私とあなた」のことにこだわるところ、つまり恋愛からはじまる。恋愛を感じさせるところからはじまる。もちろん、ここで「私とあなた」が恋愛関係にあり、私があなたをさがしていると読めば、それはそれでいいのかもしれないけれど。
 それだけ川上の意識が、大震災を自分にひきつけているということかもしれない。
 これはまた、あとで触れることになるかもしれない。とりあえず、そのことだけを指摘しておく。

 この作品の、川上の文体の特徴は、「終わらない感じ」にある。

まえぶれもなく抱きしめあうことだけを考えて
わたしがあれから見つづけている夢のはなし
がれきだけが巨大な底になる静かな
記憶と無言と断ち切られたきのうばかりで埋められたとほうもない場所にうずくまってみつめるそこで
掘っている
掘っても掘っても手には届かず
汗だけが目におちてくる
しだいに腕と指の感覚がうしなわれ
何を掘っているのかわからなくなる
でも
もう少し
もう少しだけ
あと5センチ
あと3分だけつづければ
もしかしたらすべての何もかもが元に戻るようなものをつかむことができるような気がしてならない
そして夜になってひとり
今日もあそこで手を止めてしまったことがどうしようもなくこわくなる
あそこに
あったかもしれないのに
でもこれはわたしの夢ではなく
今もあの場所できっとそうしているだれかのもの
わたしはあなたをさがしにゆくことで見えてしまうかもしれないすべてをおそれ
今日も電話を枕元において眠ってばかりいる

 「もう少し/もう少しだけ」ということばの動きに、「終わらない」という感じが強く滲む。「おわらない」ではなく、「終わらせたくない」という感じといった方がいい。そして、この感じを「終わらせたくない」ととらえるとき、そこに「恋愛」と重なる感情が動きはじめる。恋愛は終わらせたくないね。
 その「終わらせたくない」につながることがらは、

記憶と無言と断ち切られたきのうばかりで埋められたとほうもない場所にうずくまってみつめるそこで

 という行にもあらわれている。
 というと、ちょっと変だけれど、「終わる」「終わらせない」につながるものが、ここにある。
 「きのう」は突然きょうから断ち切られ、がれきに埋められている。そう書くとき、しかし、意識は逆に「きのう」へとつながる。きのうは「断ち切られない」。だから、きのうをさがすのである。--この矛盾が大震災の「いま」である。
 川上は、こういうことを抽象のまま語るのではなく、肉体をくぐらせて語る。肉体をくりりぬけた感情に語らせる。つづいているはずのものが断ち切られている。その切断を復活させるために何をするか。とりあえず、「きのう」が埋められている場所を掘る。

掘っている
掘っても掘っても手には届かず
汗だけが目におちてくる

 これは肉体の実際の動き出るあ。掘っても掘っても求めているものに手は届かない。そして汗がおちる。
 そのまますーっと読んでしまうが、ここには少し複雑なことがらが存在している。

「わたしは(ひとは)」掘っている
「わたしが(ひとが)」掘っても掘っても「さがしているものは/求めているものは」「わたしの(ひとの)」手には届かず
汗だけが「私の(ひとの)」目におちてくる

 あれこれことばを補いながら読み直すと、そういうことになるのだと思うが、「手には届かず」がなんともいえず不思議な働きをしている。なぜ「手には届かず」と書いたのだろう。なぜ「私の手は届かない」と「わたし」を主語にしたまま、ことばを動かさなかったのか。
 主語は私だが、私が「主役」ではないからだ。「主役」は「あなた」なのである。
 「終わる」「終わらせる」のは「わたし」ではなく「あなた」なのだ。あくまで意識は「あなた」に集中している。
 「恋愛」のとき、意識が「あなた」に集中することを「未練」というけれど、何かそういう強い感情が働いていて、私の手が届かないではなく、「あなたは」私の手には届かない--と言い換えてしまう。言い換えることで「あなた」が「主役」になって、「わたし」のなかにいるという感じが強くなる。
 意識的か無意識的かわからないけれど、そこが、とてもおもしろい。そこにとても惹きつけられる。
 その「あなた」が主役なのだというのは、しかし、ひっそりと語られるだけで、すぐに「主語」を「わたし」に変えて詩はつづいていく。

汗だけが目におちてくる
しだいに腕と指の感覚がうしなわれ
何を掘っているのかわからなくなる

 これは、とてもリアルですね。激しい労働のなかで感覚がなくなる。何をしているか、何のためにしているのか、一瞬、意識がなくなる。意識がなくても肉体は動く。
 そこで、はっと気がついて、もう一度意識を奮い立たせ、同時に肉体を突き動かす。

でも
もう少し
もう少しだけ
あと5センチ
あと3分だけつづければ
もしかしたらすべての何もかもが元に戻るようなものをつかむことができるような気がしてならない

 このリズムが、とてもいい。
 意識というのは、わりと持続するというか、ことばの持続のなかに意識の持続があり、その持続だけがつかみ取る何かがある。

もしかしたらすべての何もかもが元に戻るようなものをつかむことができるような気がしてならない

 もそうだけれど、さっき読んだ部分の、

記憶と無言と断ち切られたきのうばかりで埋められたとほうもない場所にうずくまってみつめるそこで

 も、「意識」を浮かび上がらせる部分。長く、切れ目のないことばのつながり--そのなかに「意識」は存在しやすいのかもしれない。
 
 少し戻る。

でも
もう少し
もう少しだけ
あと5センチ
あと3分だけつづければ

 短いことばで、意識が肉体を駆り立てている。その感じがここではとてもよくでている。「もう少し」と言い聞かせているのは「意識」なのだけれど、その「意識」に答えて動いている「肉体」がとてもよくわかる。
 さきに川上のことばは「肉体をくぐりぬけて動く」と書いたのだけれど、それは、こういう部分を指す。
 「肉体」といっしょになって動くことば--それが「肉体」を感じさせるから、それ以外の部分--つまり「精神(感情)」を書いた部分も、手に触れることができる「肉体」のような感じに見えてくる。
 ここが、とてもおもしろい。

 また、この部分で、私は

でも

 という1行が、とてもいいと思う。--いいというより、あ、この「でも」が川上の「肉体(思想)」そのものだと感じた。
 何を掘っているかわからなくなる「でも」もう少し掘る。
 この「でも」はよくみると、不思議なところがある。よくつかうつかい方なのだけれど、「論理的」ではない。
 「わからなくなる」は「意識・精神・頭脳」の問題。そのあとの「掘る」は「肉体」の問題。「でも」でつなぐには、つまり「逆説」のろんりでことばを動かしていくには飛躍がある。
 でも、(と真似してつかってみる)
 飛躍はない。

しだいに腕と指の感覚がうしなわれ
何を掘っているのかわからなくなる
でも
もう少し
もう少しだけ「掘らせる」

 「掘る」ではなく「掘らせる」という動詞を補ってみる。「意識」が「肉体」に働きかけ、「肉体」に「掘らせる」。その結果、「肉体」が「掘る」。
 これは「肉体」も「意識」も「わたしのもの」であるとき、矛盾(?)ではなくなる。私たちは、いつも、そうしている。「肉体」と「意識」は別個の存在ではなく、「ひとつ」なので、こういう混同というか、すばやい融合があるのだ。
 ここに、たぶん、川上の「文体」の特徴がある。
 私は川上の小説をほとんど読んでいないし、詩もほとんど読んでいないのだが、肉体と意識が「ひとつ」のものとして動く瞬間がとてもいい。
 その「ひとつ」を、あすは別の角度から読んでみる。



ヘヴン
川上 未映子
講談社
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