川上三映子「まえぶれもなく」再読
(よみうりFBS文化センター「現代詩講座」2012年01月16日)
川上三映子「まえぶれもなく」(初出「現代思想」11年09月臨時増刊号)を読みます。長い詩なので、まず黙読しましょうか。そのあと1連ずつ読みたいと思います。
(黙読)
質問 テーマはなんだと思いますか? どういうことが書いてありましたか。
「東日本大震災のことがテーマ。記憶を求めている」
「誰かにつながりたい思いが書いてある」
「震災後のことが書いてある。あなたということばが出で来るが決まった人ではなく、連絡のとれないひとをあなたと呼んでいる。書かれているのは経験ではない」
「私も震災のことを書いていると思う。起こってはならないことが怒ってしまった。誰かをさがして携帯が鳴っている」
私も東日本大震災を契機に書かれた詩なのだろうと思います。地震で倒壊した建物や、津波にさらわれたひと。いまは携帯電話を誰もが持っているので、無事だったひとは、なんとか知人の無事を確認したくて電話をする。メールをする。でもなかなか連絡がつかない、そういう状況を書いていると思います。そのときのこころの動きを書いていると思います。
1連目から少しずつ読み直して行きましょうか。
(朗読)
突然、連絡がとれなくなった親しいひと。震災後も携帯電話の電波は飛び交い、そこではだれかとだれかが呼びあっている。同じように呼びあいたいと思って呼ぶ、叫ぶ--だが、届かない。そのことを書いていると思います。
きょうは質問ばかりしますが、いつものように、この1連目でわからないことば、単語がありますか? ないですね。
では、
質問 この1連目でどこがいちばん印象に残りますか? 1行でもいいですし、複数行でも、ひとことでもいいです。それはどこですか? そして、それはなぜですか?
「夜をふたつでも越えて……、からの部分の情景がくっきり見える。誰かが誰かを呼んでいる感じがよくわかる」
「空だけが巨大な蓋……のところも震災の情景がよくわかる」
「誰かが誰かを呼んでいるさけび声、が切実」
「私も夜をふたつでも越えて、のところが携帯電話の電池切れや故障のことを想像させるのでリアルに感じる」
そうですね、震災の情景が強く伝わってきますね。
ところで、最初の1行はどうですか? 私は、この行が非常に印象的に感じられた。
最初の1行、タイトルにもなっているけれど、
まえぶれもなく抱きしめあうことだけを考えて
「まえぶれもなく」というは、何だろう。
受講生「そこにいることが確信できるということ。そこへ行けば会えるということがわかっている」
谷内「予約をしなくても会える、ということ?」
うーん、私はちょっと違う感じで読みました。
地震は、前触れもなく襲ってくる。前兆はあったというかもしれませんが、一般のひとは知りませんでしたね。そういう意味では「まえぶれもなく」地震は襲ってきた--というのなら、まあ、わかります。
けれど、「まえぶれもなく抱きしめあう」というのは、どういうことなのだろう。
地震で不明になっているひと--その人と、突然出会う。そして感激して、思わず抱きしめあう。そういうことかな? 前触れのない地震によって引き裂かれていた二人、だから前触れのない地震のように前触れもなく、抱き合う--そういうことを考えている、ということかもしれない。
そうすると、この詩では、
まえぶれもなく「襲ってきた大地震のように」抱きしめあうことだけを考えて
あるいは
「襲ってきた地震に」まえぶれがなかったように、まえぶれもなく抱きしめあうことだけを考えて
と「襲ってきた大地震」ということばが省略されていることにならないかな?
私は、そう読みました。
これは、おもしろいですね。大地震の詩についておもしろいというのは不謹慎なのかもしれないけれど、ことばの運動として非常におもしろい。
この詩は大震災のことを書いている。みんな、そう思いました。でも、黙読したときに気がついたかもしれないけれど、「大地震」「津波」ということばは直接出てこない。つかわれていない。避けている。それでも、震災だとわかりますね。
ことばを避けるとき、二つの理由があります。ひとつは、そのことばでいやなことを思い出したくない。だからつかわない。もう一つは、そのテーマがわかりきっているので、つかわない。つかわなくても、そのテーマがいつも自分の意識のなかで動いている。肉体になってしまっている。無意識になってしまっている。
川上の詩の場合はどっちだろう。
どっちともとれますね。どっちでもいいと思います。重要なのは、川上がこの1行で、ことばでは書いていないけれど、「大地震」「津波」「被害」というものを強く意識しているということがわかるということです。
強く意識されていて、もう、そのことをわざわざことばにしなくてもいいくらいに感じている。だから、そのことばが省略されたまま、ほかのことばを動かしているのだと思います。
次におもしろいのは「抱きしめあう」ということばですね。人間はだれでも出会って感激したときは抱きしめあう。「ハグ」と英語で言う方が、いまでははやりかもしれないけれど。
受講生「ハグされると、とっても気持ちがいいのよ。落ち着く。大丈夫だよ、と声をかけられるときより、ずっと落ち着く」
そうですね。
でも、川上はここでは「ハグ」ではなく「抱きしめあう」と言っている。
私は古い人間なのか、家族、同性の友人よりも、恋人の方が「抱きしめあう」には似合うなあと感じる。この詩では、「わたし」という人物が「あなた」という恋人と、「まえぶれもなく抱きしめあう」ことを考えていると言えると思います。
私は1行目と同じように、7行目の「むすうの」から、14行目の「そこかしこでかすかに点滅をくりかえしているけれど」の部分がおもしろいと思いました。
大地震で、まわりは悲惨な状況になっています。3行目から、その様子が書かれている。
空だけが巨大な蓋をする静かな
もう何と呼べばいいのかわからなくなってしまったものば
かりが積まれて果てのない誰もいない大地で
建物がなくなって、つまり屋根がなくなって、空が蓋になっている。何と呼んでいいのかがれきが積まれている。ビルなのか、壁なのか、窓なのか。あるいは屋根なのか。壊れてしまったものには名前をつけるのがむずかしい。
そういう状況のなかで、
むすうの
携帯電話の着信音
メロディや歌声やベルがまじりあってきらきら鳴って
それはまるで晴れた日にぱらぱらと降ってくる金色の細か
な雨みたいだ
光は
そこかしこでかすかに点滅をくりかえしているけれど
ことばが美しい。美しいことばがつかわれている。「きらきら鳴って」の「きらきら」、「金色の細かな雨」「光」「点滅」--点滅は美しいとばかりは言えないかもしれないけれど、イルミネーションの点滅なんかはきれいですね。
何か大震災の悲惨な状況は、その「きれい」「美しい」感じがあわない。 大震災で悲惨なことが起きているのだから、美しいことばではなく、悲惨なことばの方が状況を描写するのにふさわしいのではないかなあ、と私は思い、なんとなく違和感を感じる。
これは、まあ、私が頭の中で考えたことなんだけれど、私の考えでは、どうもここに美しいことばが書かれるというのは、納得できない。亡くなったひと、不明のひとが大勢いるのに、「きらきら」とか「金色の細かな雨」とかいうことばをつかっていいのかなあ、とかんじてしまう
頭の中で想像すると、あわないのだけれど、そう見えてしまう。
ほかに的確なことばがあるのだろうけれど、それはうまくことばにならず、知っていることばが状況と結びついてしまう。--ここは、そういうぶぶんじゃないかなあ、と思う。
ここは、ほんとうにいいたいのはそういうことじゃないけれど、いま知っていることばで言うと、こんな感じになる--そういう悲劇が書かれているのだと思う。
どんな状況でも、それにふさわしいことばが見つかるまでは、自分の知っていることばで言うしかない。そのとき、何か状況とうまくあわないことも起きる。それが「現実」だと思います。
以前話した李村敏夫の『日々の、すみか』という詩集は阪神大震災のときのことを書いた詩だけれど、そこに「出来事は遅れてあらわれる」ということばが出てきます。
これは、現実を考えると、ちょっと変なことばです。阪神大震災という出来事は「遅れて」あらわれたのではなく、川上のつかっていることばを利用して言えば「まえぶれもなく」突然あらわれた。遅れてではなく、想像するより早く、想像していないときに早くあらわれてしまった。だから大混乱になり被害も拡大した。東日本大震災も同じですね。
でも、季村は「遅れて」という。
このときの「遅れて」というのは、出来事そのものではなく、出来事を正しくいいあらわすことばだと思います。適当なことばはすぐに思いつかない。それは遅れてあらわれる。遅れてやってくる。状況を的確に表現し、誰かに伝えるためのことばは、「遅れて」やってくる。「出来事」と呼んでいるのは、ほんとうは「出来事を描写することば」だと思います。ことばによって表現されて、そこに起きたことは「出来事」になる。「出来事」が「出来事」として定着するには、ことばが必要。そして、そのことばはいつでも、何かが起きたあとになって、つまり「遅れてやってくる」。
普通の生活でも、あ、あれは、こういうことだったのか、こう言えばよかったのか、と思うときがありますね。そのときもことばは遅れてやってくると言えるかもしれない。「きらきら」や「金色の雨」は、そういうほんとうに出来事をあらわすためのことばがやってくる前に、先走ってやってききたことばだと思います。
とりえあずのことば--といえばいいのかな? ほんとうは今起きていることを正確にあらわし、伝えることばがあるのだけれど、そのことばは遅れている。まだ、やってこない。だから、とりあえず、自分の知っている手持ちのことばで語る。そうすると、それは状況とあわない。悲惨な状況なのに「きらきら」と美しいことばが動いてしまう。
そしてそれが状況とぴったりあわないために、何かよけいに悲惨な、強烈な感じがします。
これは、その先にある
あの明るくてげんきで呑気なたくさんの音
という行のなかにもありますね。「明るく」「げんき」「呑気」。ほんとうはそんなことばであらわす状況ではないのだけれど、そういうことばで、いままであらわしてきたものがそこにある。
現実はまったく新しいのに、ことばは古いまま。状況にことばが追いつかない。
「矛盾」が存在する。
「矛盾」のなかに、私は詩があると考えているのだけれど--言い換えると、ことばにすると矛盾になってしまうのは、そのことを正しく言い表す語法(文体)が確立していないから矛盾になってしまうんですね。ものごとの方が先にあって、ことばがついていかないときに、矛盾があらわれる。
大震災のときのような場合は、その矛盾は悲しみ、悲劇となってあらわれる。
そういう「哲学」(思想)が、ここでは、とても自然に、口語体のまま語られていると思います。
そういうことと少し関係があるのだけれど、
むすうの、げんきで
このことばは「ひらがな」で書かれていますね。
なぜでしょう。
「強調かなあ」
「たくさん、という意味だと思う」
「多すぎて、たくさん。何か特定できない感じ」
「特定の恋人のことではないから」
私は、そのことばがほんとうは「むすう」「げんき」と呼んではいけないものだからだと川上が考えている、感じているからだと思いました。
だれかを求める声、さがす声、それはたくさんあっても、「無数」ではない。ほんとうは、「ひとりひとり」。「ひとつ」でしかない。「げんき」も「元気」ではない。ほんとうは「ひとつひとつ」といいたいのに、その音がたくさんあって、その多さを言うには「むすう」という表現しか--いまのところ、それしかない。そういういらだちのようなものが、ひらがなのなかに含まれている。「無数」と感じで書いてしまうと「意味」ができあがってしまう。その「たくさん」という意味の「無数」ではない、数限りないもの--それが「むすう」なんですね。
この切実さが、次の部分、1連目の最後の方に書かれています。
誰かが誰かを呼んでいるさけび声
そのなかのひとつは
わたしがあなたを呼ぶ声
いまもわたしが
あなたを呼んでいる声
「さけび声」の「さけび」もひらがなになっている。
受講生「叫び--と漢字で書くと強い」
受講生「漢字の方が意味がはっきりする」
そうですね。漢字の方が意味が強い、意味がはっきりする。
でも、そうだとしたらなぜ川上は漢字で書かず、ひらがなにしたのだろう。
私は、こんなふうに考えます。
いままで、私たちが知っている(川上が知っている)叫び以上のものがそこにある。そのとき漢字では書き表せない。いままでの「意味」ではない「さけび」がそこにある。とりあえず「さけび」ということばを借りるのだけれど、ほんとうは「さけび」ではないかもしれない。
ただ「音」を借りて、とりあえずそう呼んでおくということだと思います。
これはさっき触れた「きらきら」とある意味で似ている。
ほんとうのことばが追いついてきていない。「さけび」をあらわすもっと的確なことばがあるはずなのに、まだ、それがやってこない。だから、知っていることばを借りる--借りるけれど知っていることばとは「違う」ということをいいたくて、ひらがなにしている、と、私は思います。
ちょっと、話が変わる感じがするかもしれないけれど、ここでまた質問しますね。
質問 「むすう」と対極のことばが、ここにありますね。
「ひとつ」
そうですね。「ひとつ」。声、電話の着信音。それは無数にあるけれど、ほんとうは「ひとつ」。誰でもいいから呼んでいるわけではない。
強盗に襲われたときに「助けて」と叫ぶ--そのときの叫び声は、聞いてくれるひとが誰であってもいい。警官ならいちばんいいけれど、そばにいるひとなら誰でもいい。そのときは漢字の叫び声になる。でも、ここでは呼んでいるは「ひとり」。「ひとり」を呼ぶときは静かな声でも大丈夫ですよね。特に近くにいるなら小さい声。携帯電話の音なら小さくていい。無音--バイブレーターというものあるくらいですから。それが、ひらがなの「さけび」。小さくていいのだけれど、必死、なんですね。
さがしているのは、それぞれが「ひとつ」。「わたし」は「あなた」だけをさがしている。ほかのひとにも助かってほしいけれど、特に「あなた」には生きていてもらいたい。それは「ひとつ」の願い。誰の願いでもなく、「わたし」の願い。
切実ですね。この切実な「ひとつ」を明確にするために、ひらがなの「むすう」があるとも言えると思います。「むすう」とひらがなで書いたのは「ひとつ」をひらがなで書く--そうすることで対比をはっきりさせるためです。
2連目に進みましょう。
(朗読)
2連目に限定してのことではないのだけれど、この詩で、不思議というか、普通の詩とは違う部分があるとすれば、なんだろう。
詩の全部が全部そうではないけれど、普通、詩のなかの「わたし」というのは筆者と考えられています。この場合だと川上が「わたし」。
でも、川上には、ほんとうに大震災のときに不明になった恋人「あなた」がいたのかなあ。川上の恋人は、実は違う人ですね。だから、この詩のなかの「わたし」は川上ではない。いわば、ここでは川上はフィクションを書いている。恋人が大地震で不明になっている女性を「わたし」と仮定し、そこでことばを動かしている。
これが、この詩の特徴だと思います。とてもかわっている部分だと思います。
こういうことが少し気になるのかなあ。2連目で、少し言い訳のようなことを書いている。言い訳からことばを動かしはじめている。
まえぶれもなく抱きしめあうことだけを考えて
わたしがあれから見つづけている夢のはなし
「わたし」が「見つづけている夢」だと言っている。これなら、「わたし」が川上でも大丈夫ですね。矛盾しませんね。
そういう工夫を川上はしています。
で、それから先、川上の「本領」発揮。「わたし」の「夢」とことわりながら、「夢」とはいったい何なのだろうか--と、夢そのもののなかへ入っていく。
そうして、その夢のなかで、川上は「物語」の「わたし」になって動きはじめる。これは「夢」であると同時に、その「夢」のなかの「わたし」は夢のストーリーを生きる本物の「わたし」です。
がれきだけが巨大な底になる静かな
記憶と無言と断ち切られたきのうばかりで埋められたとほうもない場所にうずくまってみつめるそこで
掘っている
掘っても掘っても手には届かず
汗だけが目におちてくる
しだいに腕と指の感覚がうしなわれ
何を掘っているのかわからなくなる
この部分を、私はたいへんおもしろいと思って読みました。この部分だけを取り上げると、ちょっと説明がしにくいのだけれど、この部分だけ私には違った印象がある。詩のほかの部分とはまったく違っている。
何が違うかというと。
掘っている
からだが動いている。
ほかの詩の部分では、「わたし」の感情というか、意志と言うか、思いと言うか、まあ、ことばが動いている。先に言ってしまうと、3連目には「わたし」と「あなた」の「会話」が出てくる。そこでは口や耳は動いているけれど、からだそのものはそんなに動いていない。
ここでも「掘っている」というのはことばだけれど、肉体の動きをあらわしている。「掘る」には手を動かさないといけない。足も踏ん張らないといけない。からだ全体を動かす。そして、そのとき口は動かさない。しゃべらない。しゃべりながら掘ることもあるけれど、普通はもくもくと掘る。
そうすると、もう肉体だけになってしまう。肉体のなかには感覚があるのだけれど、作業をくりかえしていると、その感覚すらなくなる。そして、「掘る」というときの「目的」さえわからなくなる。「何を掘っているのかわからなくなる」。
こういうこと、経験したことがありますか?
もう、何のためにではなく、その肉体の動きそのものが目的になってしまう。
そのくせ、いままで考えていたこととは違うことが感じられる。
「何を掘るか」「何をさがすか」ではなく、あとどれだけ掘るか。
あとどれだけ掘るか、と考えるとき、目的は「掘る」だね。
この極限の意識の変化が、まず肉体を書くことからはじまっているのがすごい。ひとの考えはさまざまあってなかなか「ひとつ」の形にはならないけれど、肉体と言うのは不思議なくらいだれにでも共通する。からだを動かし、掘る。そうするとだれでもが汗をかく。その汗は目におちてくる。そして、疲れがたまって、腕が痺れ、指が痺れ、感覚が失われる。これはよほど強靱な肉体でない限り、だれにでも共通する。
そういうことろを通り抜けたあとで、川上は「思っていること」「考えたこと」をことばにする。そうすると、その思ったこと、考えたことは、肉体を通ってだれにでも共通したものになる。
でも
もう少し
もう少しだけ
あと5センチ
あと3分だけつづければ
もしかしたらすべての何もかもが元に戻るようなものをつ
かむことができるような気がしてならない
この感覚、この考え、とてもよくわかるでしょ? そういう気持ちになるでしょ?
これは、私は、川上が、そういうことばを書く前に、きちんとからだを動かしているシーンを書いているからだと思う。ことばを肉体を通らせる。そうすると、その肉体を通ったことばは、感情を語りはじめるとき、自然と読者の肉体を通る。
つまり、川上が書いているのに、まるで自分の感覚のように感じてしまう。
そして夜になってひとり
今日もあそこで手を止めてしまったことがどうしようもな
くこわくなる
あそこに
あったかもしれないのに
ここは、ことばの暴走ですね。ことばの暴走と言うとあまり表現はよくないけれど、ついつい考えてしまう。自然に、ことば自身が動いていく。
そうなると、なんというのだろう、終わらない感じがする。どんなことでも、不安なことを考えると、不安がどんどん膨れ上がって、とまらなくなる。
このままではきりがないので、川上は、またとても巧みにことばの質を変化させる。
でもこれはわたしの夢ではなく
今もあの場所できっとそうしているだれかのもの
わたしはあなたをさがしにゆくことで見えてしまうかもしれ
ないすべてをおそれ
今日も電話を枕元において眠ってばかりいる
これは「わたし」ではありません。「わたし」はそういうことはしていない。けれど、「わたし」と同じように「ひとつ(ひとり)」である誰かは、そういうことをしている。そういう肉体と、川上は(詩のなかの「わたし」は)つながっている。
ちょっと逆戻りします。この2連目で、私は、からだ(肉体)から感情(思い)へ切り替わるときのことば「でも」がとてもおもしろいと思った。
掘って掘って掘りつづけて、感覚がなくなる。
でも
もう少し
もう少しだけ
あと5センチ
あと3分だけつづければ
もしかしたらすべての何もかもが元に戻るようなものをつ
かむことができるような気がしてならない
ここでは肉体ではなく「意識」が動いている。意識がリードして「肉体」を動かしている。
つまり、この部分は
でも
もう少し「掘って」
もう少しだけ「掘って」
あと5センチ「掘って」
あと3分だけ「掘り」つづければ
と「掘る」という動詞が隠れさている。掘ると言う動作が無目的になったように、ここでは「掘る」が「無意識」になる。そして、その「無意識」を潜り抜けるからこそ、その意識できない「無」の向こう側、その先に何かがあると言う気持ちにもなる。
で、またおもしろい部分。
そして夜になってひとり
きょうもあそこで手を止めてしまったことがどうしようもな
くこわくなる
あそこに
あったかもしれないのに
この部分、わからないところはありますか? 書いてあることがら、わかりますよね。気持ちがびんびん伝わってきますね。
質問 で、質問です。「あそこ」と書かれているけれど、「あそこ」ってどこですか?「あそこ」を言いなおしてみてください。
「掘るのをやめてしまった時間。たとえば心臓マッサージをするとき、やめるとき、のその時間」
「掘りつづけて、やめてしまったところ(場所)」
「死体のあるところ」
「死体をさがしているんじゃなくて、どこかで生きているかもしれないとさがしているんじゃないかなあ。だから死体というのは……」
「でも、死んだひとを探さないと、時間が動いていかない」
「でも、生きていることを願ってるんでしょ?」
あ、おもしろいなあ。
ここが、この詩のハイライトかもしれない。
「あそこ」は「時間」か「場所」か。よくわからないですね。時間と場所がいっしょになったところかもしれない。
また、探しているひとは、生きているか死んでいるかわからない。矛盾という言い方が正しいかどうかわからないけれど、正反対のものが、ここにありますね。でも、正反対といいながら、同じでもある。探しているのは「あなた」ですよね。わたしの知っているひと。
それは、わかっているのに、どうもうまく説明できない。割り切れない。「あそこ」は人が死んでいる場所か、それとも「あそこ」にはひとが生きているのか。--わからないまま、「あそこ」というひとつのことばになってしまっている。
それでむずかしい。
わかるのにむずかしい。
説明できない。
こういうことばが、たぶん詩なのだと思います。
むずかしいですね。わかっているのに、でも、むずかしい。むずかしいけれど、わかる。それはどういうことかというと、川上のことばが私たちの「肉体」のなかに入ってきて、肉体そのものを動かしているからなんです。
思考だけを動かしているのではなく、肉体も動かしている。私たちは被災地でどこかを掘っているわけではない。けれど掘っている気持ちになっている。肉体が動いている。そして、その肉体が指し示す「あそこ」を肉体で知ってしまっている。
だから、ことばにして説明し直そうとするととってもむずかしい。
肉体が知っていること--以前、こういうことを「肉体で覚えていること」という具合に言ったことがあると思うけれど、肉体が覚えていることは説明がむずかしいんです。そして、説明できないくせに、肉体でそれを再現できる。
自転車に乗る。それを肉体で覚えると、何年か乗らなくてもそのまま乗れる。足をどうして、スピードをどうして、なんてことばでは説明できない。「あそこ」でペダルにぐいと力を入れて、「あそこ」でハンドルを切って……。「あそこ」がどこかわからなくても、実際の坂道や交差点、信号の変わり目では、自然と「あそこ」がわかるでしょ?
なんだか、私はこういう話をしていると、詩の話なのか、哲学の話なのかわからないような気がしてくるんだけれど、まあ、いいですね。
これが私の「読む」流儀なので。
そして、この2連目の最後で、もう一度質問します。
でもこれはわたしの夢ではなくて
今もあの場所できっとそうしているだれかのもの
わたしはあなたを探しにゆくことで見えてしまうかもしれ
ないすべてをおそれ
今日も電話を枕元において眠ってばかりいる
この部分について、私はさっきちょっと言い漏らしたことがあるのです。
さっき言ったことを明確にするために、ちょっとことばを補いたい。
ここに書かれていることはこのままわかりますね。
で、質問というのは、
質問 「でもこれはわたしの夢ではなくて/今もあの場所できっとそうしているだれかのもの」という行で、この文章は一応関係していますね。句読点がないけれど、句点「。」がここになると考えてもいいと思います。しかし、もし、この2行のあとに、あえて何かを書き加えるとすると、どういうことばがありますか? それを考えてください。
「けれども、かな」
「わたしは知りたくない」
あ、私の質問の仕方が悪かったようですね。私の読み方をいいますね。
私は、ここで、次のように読みます。
でもこれはわたしの夢ではなくて
今もあの場所できっとそうしているだれかのもの
「でもわたし自身の夢」
受講生「でも、そうすると変じゃないですか? 矛盾しませんか? 前の2行でわたしの夢ではなく、だれかの夢と言っているのに、わたし詩人の夢と言いなおすと意味がおかしくなる」
そうですね。2行のままだと矛盾しないですね。「わたしの夢ではなく、だれかの夢」--2行だと矛盾しない。わたしの「でもわたし自身の夢」とつけくわえてしまうと矛盾になる。「わたしの夢ではなく」「わたし自身の夢」。矛盾ですよね。
でも、そういう「意味」だと思います。
わたし自身と無関係の夢なら、こんなに真剣に夢見ない。夢の中身にこころを奪われない。わたしの夢でもあるからこそ、引きずり込まれる。
わたしの夢ではないといいたい、無関係でいたい。けれども、それはだれかの夢ではなく、わたしに関係してくる。わたしも同じ夢を見ている。「だれか」と「わたし」は切り離せない。「わたし」と「だれか」は同じ人物なのです。
これは私たちも同じですね。
ここに書かれていることば、その内容は私たちの書いたものでも体験でもない。けれど私自身の体験のように感じる。この私のものではないのに私のものと感じるという矛盾のなかに詩がある。
詩は矛盾なのです。
ひとの経験なのに、自分の経験として感じてしまう--そういうことばの運動のなかに詩がある。
2連目まで読んで、私たちは、詩のなかの「わたし」と作者の川上が、違う存在だけれど川上であるとも感じました。それは読んでいる私たちもそうですね。ここに書かれている「わたし」は私ではない。けれど、まるで「私」のことのように感じる。
このあと3連目。
ここでは「わたし」と「あなた」が一体化します。会話がつづいているので、ふたりがいるのだけれど、そのふたりは「わたし」が再現した「あなたとわたし」というふたり。肉体は「ひとつ」ですね。意識も「わたし」と「あなた」とわけることはできるけれど、その「あなた」は「わたしの記憶のことば」なので「わたし」ですね。
だから、これはいったいどっちのことば、とわけがわかりにくいところもあります。最初の方は「わたし」のひとりのことだけれど、後半がそうですね。
質問 「かなしいわけじゃないのに」以降の部分で「あなた」の言っていることを鍵括弧でくくってみてください。どれとどれが「あなた」のことばになりますか?
「そんなことわからないじゃないか、から永久に長生きだ、まで」
谷内「次の部分では」
「ううん、は、わたし」
「ううん、からその日がくるから、まではわたしのことばで、じゃあそのときからあとが、あなたかな」
谷内「おわりは?」
「……」
ごちゃごちゃしてわかりにくいですね。
私にも、わかりません。
わからないと開きなおってもしようがないのだけれど、開き直りのついでにいうと……。
こういうところは、わかってもいいし、わからなくてもいい。
二人は反対のことを言っているのだけれど、ほんとうは同じことをいいたい。いっしょにいつまでも生きていたい。
それなのにあえて反対のことを言って、ことばの深度というか、ことばを深めようとしている。考えをしっかりしようとしたものにしている。死とはなにか。生きるとはなにか。死んだらどうなるのか。
これは二人がことばをかわすことで、少しずつ変化していく。一方だけが変化するのではなく、二人が変化していく。これは二人が一人になる、二人が「ひとつ」になるということですね。
で、この3連目の最後。
ほんとうに
来るなんて
質問 何が来たんですか?
「大地震、津波」
「別れ」
「そのとき。別れるとき」
私も、死、あるいは別れと読みました。
その死によって、さっきの死をめぐる会話のなかで「ひとつ」になった二人がまた「ふたつ」わかれてしまう。ひとり(わたし)は生きていて、あなたはどこにいるかわからない。たぶん死んでいる。そういう絶望がある。
で、さっき、私は「何が来る?」と質問しました。
川上は、あえてその「何か」を書かなかった。
ここから何かを思い出しませんか? この講座の最初の方を思い出してください。何か似たことがありませんでしたか?
「まえぶれもなく抱きしめあうことだけを考えて」という1行には、東日本大震災ということばが省略されていた。それは「わたし」に深くしみついていることばだから、省略されている。同じように「死」も深く深くしみついている。だから、それはいわない。言わなくても「わたし」にはわかりきっている。もう「肉体」になってしみついている。
4連目。
ここでは、「わたし」と「あなた」は大震災で「ひとつ」ではなく「ふたり」に分裂してしまったという事実が書かれている。そして、引き裂かれてしまったからこそ、あなたを呼びつづける。
誰かが誰かを呼んでいるさけび声
そのなかのひとつは
わたしがあなたを呼ぶ声
いまもわたしが
あなたを呼んでいる声
そのなかの「ひとつ」の「ひとつ」がとても切実。「さけび」ときうことばのひらがながとてもつらい。
そして、ここには私が1連目で、少し違和感があるといった表現に似た部分がある。携帯の着信音をきれいな、美しいことばで表現しているところ。
思い出や笑い声ややさしかったことがまじりあってきらき
らと鳴って
それはまるで晴れた日にぽつぽつとつぼみをひらいてみせ
る名もない小さな花みたいだ
この部分--しかし、私は、今度は違和感を覚えない。美しくていいなあと思う。それは、なんといえばいいのだろう、亡くなったひとの今いる場所が、そうあってほしいと願っているこころが引き寄せたことばのように思える。
つらく悲しい場所にいるのではなく、楽しく明るい場所にいる。そう祈りたい。その祈りのようなものを感じます。
*
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