監督 吉田大八 出演 神木隆之介、橋本愛、大後寿々花
予告編がとてもおもしろかった。で、期待していたのだが最初に上映された福岡天神東宝2はスクリーンがとて小さく(「午前10時の映画祭」のとき、このスクリーンをホームシアターより大きい、試写室気分が味わえる、と持ち上げていたひとがいたが……)、上映も限られていたので見逃してしまった。KBCシネマ1で上映されているので、それを見た。
予告編をはるかに上回るおもしろさ。今年いちばんの傑作であることは間違いない。
ストーリーは単純で、ある高校の勉強もできればスポーツもできる桐島という男が突然バレー部をやめる、という話が学校中にひろがる。だれも真相を知らない。その「不在の桐島」によって、まわりの高校生が中心を失った(あこがれを失った?)みたいになっ、ふわふわと動く。まあ、高校生というのは、いつでも「どうしていいかわからないこと」をかかえて、ふわふわしているものである、
というような、偉そうな(おとなぶった?)ことを言いそうになるが。
いやあ。
高校生の気分にもどりました。私は何でもその気になってしまう。「テス」を見ればナスターシャ・キンスキー、「ブラック・スワン」を見ればナタリー・ポートマンの気持ちになってしまう、わあ、変態だあ、と自分でも思ってしまうのだけれど。でも、サンドラ・ブロックにはなりたくないって、あ、単に美人に夢中になってしまうってだけのことか……。
というようなことは、さておき。
高校生のころというのは、自分の気持ちがわからないから、他人の気持ちもわからない。(いまは、それに「まわりから浮いてしまってはいけない」という思いが重なるからたいへんだねえ。--私は、こんなにたいへんではなかったなあという思いもあるのだけれど。)で、他人と、そんなことはどうでもいいと言ってしまえず、何か真剣に見てしまうね。同時に、自分が見つめられているということも感じて、不安になる。ああ、めんどうくさい、という感じもする。
そのあたりの「個人差(?)」のようなものが、同じシーンを複数の視点で繰り返し描かれる。最初の「金曜日」のことだけれど。
これがねえ、実に自然。実になめらか。
主人公(? で、いいのかな。知らない役者ばかりなので、だれがだれかわからない)を映画部の友達が「お待たー」と迎えにくる。二人が教室を出ていくと女子がすぐにまねて「お待たー」とまねをして笑いだす。「聞こえるよ」と注意する女子もいるが、それは承知のこと。それを主人公と友達が廊下を歩いているシーンからももう一度見せる。しまっている曇りガラスの向こう側から、女子の「お待たー」「聞こえるよ」「聞こえたったいいのよ」と言っているのを聞きながら二人が歩いている。ちらっと窓を見やりながら。
映像がこまかくて、ていねいで、いいなあ。
みんな、だれも自分のことをわかってくれない、という悩みをかかえている。だれも自分のことを親身になってくれないと感じている。まあ、それは「わがまま」なのだけれど、そしてそれが「わがまま」と思うから、高校生は自分を抑えてしまって、どうしようもなくなるのだけれど。
こういう「ごちゃごちゃ」に恋愛未満の恋愛がからんできて、それはもう「高校時代」としかいいようのないものなのだけれど。
で、そういうことはそのまま映画で見てもらえればいいので。
最後がなかなか感動的なのです。
「桐島2号(?)」ともいうべきモラトリアム高校生の男が主人公をインタビューする。「将来は映画監督ですか」「いやあ」「監督になったら女優と結婚するんですか」「いやあ」「アカデミー賞を受賞するんですか」「それはないと思う」というような、一種のからかいのあと、「で、なんで映画とるの?」
そうすると、主人公が答える。「自分の撮っているものはまだまだなんだけれど、ある一瞬、大好きな映画とつながっていると感じる(同じものを撮っていると感じる)瞬間がある」というようなことを言う。
さらに桐島2号が野球部のキャプテン(3年)に、「なぜ部活をやめないの?」と聞く。そうすると「ドラフトが終わるまでは」「スカウトとか来てるんですか」「そうじゃないけれど、ドラフトまでは……」。あ、夢がある。不可能なのだけれど、夢がある。
映画部の主人公の言ったのも、そういう夢のつながりだね。--これがねえ、高校生気分。いいなあ。涙が流れる。
で、こういう、いわば「うざったい」とでもいうべき青春映画にゾンビの大暴れというギャグがからんで。
そのあとというか、その背後というか。
桐島2号に失恋した女子が部長をしている吹奏楽部が練習している曲が流れる。その前のひとりひとりが練習しているシーンや、音合わせを聞いているときは、あ、やっと吹いているなあという感じなのだが、その背後の曲がとてもいい。
そして、それは演奏している部員にもわかるようで、終わった瞬間、
「いまのよくなかった?」
「よかったよねえ」
と自分たちで感激する。
ほんの一瞬なのだけれど(そして、ゾンビのシーンと、桐島2号との「くさいせりふ」の影に隠れる形なのだけれど)、これがほんとうにほんとうに美しい。
それこそ高校生の演奏なのだけれど、「音楽」そのものに「つながっている」。そして、あらゆることは「つながる」瞬間に輝く。「つながる」と、そのとき「私」は私であって、私ではない。私を超える何かになる。
吹奏楽部の演奏が象徴的だけれど、自分の能力を超えて、何かにつながり、その何かの力で自分がひきあげられていく。そういうことといのうは、あるのだ。
主人公の、最後の怒り、バレー部の男に食ってかかるのも、そういう意味では自分を超える一瞬だよね。
みんな、ほんとうは自分を超えたがっている。
思い出しただけで、どきどきする。
私はもう「高校生」からはかけはなれた世界を生きている人間だけれど、まだ、何かと「つながる」ことができるかな、と思う。そして、どきどきする。自分が探しているものと、しっかりつながり、そうすることで、その何かと一体になるよろこびを求めているんだなあと感じた。
高校生みたいでしょ?
私はいま「高校生」と「つながっている」。
こういうことを、平気で言いたくなる映画です。
ぜひ、見てください。
予告編がとてもおもしろかった。で、期待していたのだが最初に上映された福岡天神東宝2はスクリーンがとて小さく(「午前10時の映画祭」のとき、このスクリーンをホームシアターより大きい、試写室気分が味わえる、と持ち上げていたひとがいたが……)、上映も限られていたので見逃してしまった。KBCシネマ1で上映されているので、それを見た。
予告編をはるかに上回るおもしろさ。今年いちばんの傑作であることは間違いない。
ストーリーは単純で、ある高校の勉強もできればスポーツもできる桐島という男が突然バレー部をやめる、という話が学校中にひろがる。だれも真相を知らない。その「不在の桐島」によって、まわりの高校生が中心を失った(あこがれを失った?)みたいになっ、ふわふわと動く。まあ、高校生というのは、いつでも「どうしていいかわからないこと」をかかえて、ふわふわしているものである、
というような、偉そうな(おとなぶった?)ことを言いそうになるが。
いやあ。
高校生の気分にもどりました。私は何でもその気になってしまう。「テス」を見ればナスターシャ・キンスキー、「ブラック・スワン」を見ればナタリー・ポートマンの気持ちになってしまう、わあ、変態だあ、と自分でも思ってしまうのだけれど。でも、サンドラ・ブロックにはなりたくないって、あ、単に美人に夢中になってしまうってだけのことか……。
というようなことは、さておき。
高校生のころというのは、自分の気持ちがわからないから、他人の気持ちもわからない。(いまは、それに「まわりから浮いてしまってはいけない」という思いが重なるからたいへんだねえ。--私は、こんなにたいへんではなかったなあという思いもあるのだけれど。)で、他人と、そんなことはどうでもいいと言ってしまえず、何か真剣に見てしまうね。同時に、自分が見つめられているということも感じて、不安になる。ああ、めんどうくさい、という感じもする。
そのあたりの「個人差(?)」のようなものが、同じシーンを複数の視点で繰り返し描かれる。最初の「金曜日」のことだけれど。
これがねえ、実に自然。実になめらか。
主人公(? で、いいのかな。知らない役者ばかりなので、だれがだれかわからない)を映画部の友達が「お待たー」と迎えにくる。二人が教室を出ていくと女子がすぐにまねて「お待たー」とまねをして笑いだす。「聞こえるよ」と注意する女子もいるが、それは承知のこと。それを主人公と友達が廊下を歩いているシーンからももう一度見せる。しまっている曇りガラスの向こう側から、女子の「お待たー」「聞こえるよ」「聞こえたったいいのよ」と言っているのを聞きながら二人が歩いている。ちらっと窓を見やりながら。
映像がこまかくて、ていねいで、いいなあ。
みんな、だれも自分のことをわかってくれない、という悩みをかかえている。だれも自分のことを親身になってくれないと感じている。まあ、それは「わがまま」なのだけれど、そしてそれが「わがまま」と思うから、高校生は自分を抑えてしまって、どうしようもなくなるのだけれど。
こういう「ごちゃごちゃ」に恋愛未満の恋愛がからんできて、それはもう「高校時代」としかいいようのないものなのだけれど。
で、そういうことはそのまま映画で見てもらえればいいので。
最後がなかなか感動的なのです。
「桐島2号(?)」ともいうべきモラトリアム高校生の男が主人公をインタビューする。「将来は映画監督ですか」「いやあ」「監督になったら女優と結婚するんですか」「いやあ」「アカデミー賞を受賞するんですか」「それはないと思う」というような、一種のからかいのあと、「で、なんで映画とるの?」
そうすると、主人公が答える。「自分の撮っているものはまだまだなんだけれど、ある一瞬、大好きな映画とつながっていると感じる(同じものを撮っていると感じる)瞬間がある」というようなことを言う。
さらに桐島2号が野球部のキャプテン(3年)に、「なぜ部活をやめないの?」と聞く。そうすると「ドラフトが終わるまでは」「スカウトとか来てるんですか」「そうじゃないけれど、ドラフトまでは……」。あ、夢がある。不可能なのだけれど、夢がある。
映画部の主人公の言ったのも、そういう夢のつながりだね。--これがねえ、高校生気分。いいなあ。涙が流れる。
で、こういう、いわば「うざったい」とでもいうべき青春映画にゾンビの大暴れというギャグがからんで。
そのあとというか、その背後というか。
桐島2号に失恋した女子が部長をしている吹奏楽部が練習している曲が流れる。その前のひとりひとりが練習しているシーンや、音合わせを聞いているときは、あ、やっと吹いているなあという感じなのだが、その背後の曲がとてもいい。
そして、それは演奏している部員にもわかるようで、終わった瞬間、
「いまのよくなかった?」
「よかったよねえ」
と自分たちで感激する。
ほんの一瞬なのだけれど(そして、ゾンビのシーンと、桐島2号との「くさいせりふ」の影に隠れる形なのだけれど)、これがほんとうにほんとうに美しい。
それこそ高校生の演奏なのだけれど、「音楽」そのものに「つながっている」。そして、あらゆることは「つながる」瞬間に輝く。「つながる」と、そのとき「私」は私であって、私ではない。私を超える何かになる。
吹奏楽部の演奏が象徴的だけれど、自分の能力を超えて、何かにつながり、その何かの力で自分がひきあげられていく。そういうことといのうは、あるのだ。
主人公の、最後の怒り、バレー部の男に食ってかかるのも、そういう意味では自分を超える一瞬だよね。
みんな、ほんとうは自分を超えたがっている。
思い出しただけで、どきどきする。
私はもう「高校生」からはかけはなれた世界を生きている人間だけれど、まだ、何かと「つながる」ことができるかな、と思う。そして、どきどきする。自分が探しているものと、しっかりつながり、そうすることで、その何かと一体になるよろこびを求めているんだなあと感じた。
高校生みたいでしょ?
私はいま「高校生」と「つながっている」。
こういうことを、平気で言いたくなる映画です。
ぜひ、見てください。
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