詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

吉田大八監督「桐島、部活やめるってよ」(★★★★★)

2012-10-17 10:45:59 | 映画
監督 吉田大八 出演 神木隆之介、橋本愛、大後寿々花

 予告編がとてもおもしろかった。で、期待していたのだが最初に上映された福岡天神東宝2はスクリーンがとて小さく(「午前10時の映画祭」のとき、このスクリーンをホームシアターより大きい、試写室気分が味わえる、と持ち上げていたひとがいたが……)、上映も限られていたので見逃してしまった。KBCシネマ1で上映されているので、それを見た。
 予告編をはるかに上回るおもしろさ。今年いちばんの傑作であることは間違いない。
 ストーリーは単純で、ある高校の勉強もできればスポーツもできる桐島という男が突然バレー部をやめる、という話が学校中にひろがる。だれも真相を知らない。その「不在の桐島」によって、まわりの高校生が中心を失った(あこがれを失った?)みたいになっ、ふわふわと動く。まあ、高校生というのは、いつでも「どうしていいかわからないこと」をかかえて、ふわふわしているものである、
 というような、偉そうな(おとなぶった?)ことを言いそうになるが。
 いやあ。
 高校生の気分にもどりました。私は何でもその気になってしまう。「テス」を見ればナスターシャ・キンスキー、「ブラック・スワン」を見ればナタリー・ポートマンの気持ちになってしまう、わあ、変態だあ、と自分でも思ってしまうのだけれど。でも、サンドラ・ブロックにはなりたくないって、あ、単に美人に夢中になってしまうってだけのことか……。
 というようなことは、さておき。
 高校生のころというのは、自分の気持ちがわからないから、他人の気持ちもわからない。(いまは、それに「まわりから浮いてしまってはいけない」という思いが重なるからたいへんだねえ。--私は、こんなにたいへんではなかったなあという思いもあるのだけれど。)で、他人と、そんなことはどうでもいいと言ってしまえず、何か真剣に見てしまうね。同時に、自分が見つめられているということも感じて、不安になる。ああ、めんどうくさい、という感じもする。
 そのあたりの「個人差(?)」のようなものが、同じシーンを複数の視点で繰り返し描かれる。最初の「金曜日」のことだけれど。
 これがねえ、実に自然。実になめらか。
 主人公(? で、いいのかな。知らない役者ばかりなので、だれがだれかわからない)を映画部の友達が「お待たー」と迎えにくる。二人が教室を出ていくと女子がすぐにまねて「お待たー」とまねをして笑いだす。「聞こえるよ」と注意する女子もいるが、それは承知のこと。それを主人公と友達が廊下を歩いているシーンからももう一度見せる。しまっている曇りガラスの向こう側から、女子の「お待たー」「聞こえるよ」「聞こえたったいいのよ」と言っているのを聞きながら二人が歩いている。ちらっと窓を見やりながら。
 映像がこまかくて、ていねいで、いいなあ。
 みんな、だれも自分のことをわかってくれない、という悩みをかかえている。だれも自分のことを親身になってくれないと感じている。まあ、それは「わがまま」なのだけれど、そしてそれが「わがまま」と思うから、高校生は自分を抑えてしまって、どうしようもなくなるのだけれど。
 こういう「ごちゃごちゃ」に恋愛未満の恋愛がからんできて、それはもう「高校時代」としかいいようのないものなのだけれど。
 で、そういうことはそのまま映画で見てもらえればいいので。
 最後がなかなか感動的なのです。
 「桐島2号(?)」ともいうべきモラトリアム高校生の男が主人公をインタビューする。「将来は映画監督ですか」「いやあ」「監督になったら女優と結婚するんですか」「いやあ」「アカデミー賞を受賞するんですか」「それはないと思う」というような、一種のからかいのあと、「で、なんで映画とるの?」
 そうすると、主人公が答える。「自分の撮っているものはまだまだなんだけれど、ある一瞬、大好きな映画とつながっていると感じる(同じものを撮っていると感じる)瞬間がある」というようなことを言う。
 さらに桐島2号が野球部のキャプテン(3年)に、「なぜ部活をやめないの?」と聞く。そうすると「ドラフトが終わるまでは」「スカウトとか来てるんですか」「そうじゃないけれど、ドラフトまでは……」。あ、夢がある。不可能なのだけれど、夢がある。
 映画部の主人公の言ったのも、そういう夢のつながりだね。--これがねえ、高校生気分。いいなあ。涙が流れる。
 で、こういう、いわば「うざったい」とでもいうべき青春映画にゾンビの大暴れというギャグがからんで。
 そのあとというか、その背後というか。
 桐島2号に失恋した女子が部長をしている吹奏楽部が練習している曲が流れる。その前のひとりひとりが練習しているシーンや、音合わせを聞いているときは、あ、やっと吹いているなあという感じなのだが、その背後の曲がとてもいい。
 そして、それは演奏している部員にもわかるようで、終わった瞬間、
 「いまのよくなかった?」
 「よかったよねえ」
 と自分たちで感激する。
 ほんの一瞬なのだけれど(そして、ゾンビのシーンと、桐島2号との「くさいせりふ」の影に隠れる形なのだけれど)、これがほんとうにほんとうに美しい。
 それこそ高校生の演奏なのだけれど、「音楽」そのものに「つながっている」。そして、あらゆることは「つながる」瞬間に輝く。「つながる」と、そのとき「私」は私であって、私ではない。私を超える何かになる。
 吹奏楽部の演奏が象徴的だけれど、自分の能力を超えて、何かにつながり、その何かの力で自分がひきあげられていく。そういうことといのうは、あるのだ。
 主人公の、最後の怒り、バレー部の男に食ってかかるのも、そういう意味では自分を超える一瞬だよね。
 みんな、ほんとうは自分を超えたがっている。
 思い出しただけで、どきどきする。

 私はもう「高校生」からはかけはなれた世界を生きている人間だけれど、まだ、何かと「つながる」ことができるかな、と思う。そして、どきどきする。自分が探しているものと、しっかりつながり、そうすることで、その何かと一体になるよろこびを求めているんだなあと感じた。
 高校生みたいでしょ?
 私はいま「高校生」と「つながっている」。
 こういうことを、平気で言いたくなる映画です。
 ぜひ、見てください。



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アグニェシカ・ホランド監督「ソハの地下水道」(★★★★★)

2012-10-16 10:51:04 | 映画
監督 アグニェシカ・ホランド 出演 ロベルト・ヴィェンツキェヴィチ、ベンノ・フユルマン、ヘルバート・クナウブ

 セックスが何度も描かれる。
 その一シーン。ユダヤ人が狭い一室に共同で住んでいる。夜。男が眠っている妻を跨ぎこして女のベッドへ行く。セックスが始まる。「妻が起きるから声を出すな」というのだけれど、互いに声は漏れてしまう。妻は、それをじっと見ている。娘も目を覚まし、じっと見ている。妻(母)は娘の目を手で覆う。覆いながら、妻の方はしっかり目を見開いている。
 もうひとつ。地下水道の隠れ家に避難したユダヤ人たち。そこでも男が女のところへ近づき、セックスがはじまる。それを別の女が見ている。見ているだけではなく、見ながらオナニーをする。そのときの、女の目の変化。肉体の内からあふれてくる官能を閉じ込めながら(閉じ込めようと必死になりながら)、他人のセックスを見ている、その不思議な目の暗さと輝き。
 それをカメラはしっかり映し出す。
 うーん。ちょっと、うなってしまった。過酷な状況のなかで、セックスの衝動を抑えられない人間の欲望。それに引き込まれた--というのではないなあ。そんな簡単なことがらではない。いや、それもあるのだけれど、どうも何かが違う。
 私はスケベだからどんなセックスシーンでも夢中になってみてしまうけれど、そこに描かれているのは単なるスケベなシーンではない。セックスというのはだれがしたって、同じように不格好な形でのあれこれであり、エクスタシーに達しておしまい、ということになるのだが、この映画ではエクスタシーよりも、それを見ている目をしっかりとらえている。
 これは何なのかなあ。みんながスケベということ? 男はセックスをするというけれど、この映画では、女が目でしっかりとセックスを見ている。(セックスに気がついた別の男は背中を向けてしまう。)この目は何? 監督は何が描きたくて、二人の女の目をしっかりとスクリーンに映し出したのだろうか。
 セックスなんて、もともとプライバシー。見てしまったとしても見なかったことにするのが、いわば「礼儀」なのに、なぜ?
 この疑問が、最後の最後になって、ぱっと解決する。
 セックスはプライバシーである。プライベートな「こと」である。この映画は、庶民の「シンドラーのリスト」である。主人公の下水道修理の男は、ユダヤ人のグループを地下水道に匿うのだが、それは彼にとってはプライベートなことがらである。「善意」は善意であるのだけれど、それだけではない。ドイツ軍に売り渡すよりも匿った方が金になる。見返りが大きい、という不純な動機(?)から、彼の行為は出発している。それはいわば隠しておかないとまずいこと、隠しておきたいプライバシーなのだ。見つかればドイツ軍に殺されるということだけではなく、不幸な人間を食い物にしている(彼らから金をせしめている)ということは、ひとに宣伝してまわるようなことではない。
 それが、ソ連軍がポーランドに侵攻し、ドイツ軍が撤退し、ポーランドが解放された瞬間、もう隠しておかなくてもいいことにかわる。そのとき、主人公は地下水道からあらわれてきたユダヤ人を、まわりのひとに、
 「おれのユダヤ人だ」
 とみせびらかす。ほこらしげに紹介する。
 「おれのユダヤ人だ」というのは、正確には何といったのかわからないのだが(字幕も正確に覚えていないし、ポーランド語はわからないのだが)、その「おれの」ということばのなかに、まさに個人的なこと、つまりプライバシーが噴出する。
 そうなのだ。この映画は「シンドラーのリスト」とは違って、あくまでプライベートな映画なのだ。ひとりの、まあ、ユダヤ人を助けることで金を稼げたらいいなあと思っていた平凡な中年の下水修理工のプライバシーを描いている。はっきりした善意、絶対的な善意というか、絶対的な良心からユダヤ人を助けているのではないけれど、触れ合っている内にだんだんこころが変わってくる。彼らが家族のように思えてくる。自分のほんとうの家族、妻と娘を守らなければならない。けれど、ユダヤ人たちも守りたい。苦悩と葛藤がはじまる。
 その苦悩、葛藤のなかで、少しずつ「生活」が変わってくる。
 ユダヤ人のなかには、セックスが原因で(?)、妊娠し、赤ん坊を産むということも起きてくる。赤ん坊をどうやって地下水道で育てる? どうやって助けることができる? そういうことを妻と相談したりする。「秘密」が「秘密」ではなく、親しいひとのあいだで共有される。そして、その共有された秘密は秘密で、共有されたプライバシーになる。プライバシーを共有するということ、知っていても知らないということにするということ、そういう形の、ほんとうのプライバシーの意識がここにある。
 「おれのユダヤ人」と主人公が叫ぶ。そのとき、妻は、手作りのお菓子を配る。「おれの」ということばのなかには、「おれの妻の」も含まれている。「おれの」ということばのなかには、第三者(地下水道から姿をあらわすユダヤ人に驚いているポーランド人)にはわからないプライバシーがある。プライバシーは、その当事者が語るまでは、あくまでもプライバシーである。
 主人公は最後の最後に、自分のプライバシーを自慢する。それはたしかに自慢していいことなのだ。
 この映画が描くのは、あくまでプライバシーなのだ。国家でも軍隊でも、あるいは戦争でもないとさえ言えるかもしれない。どこにでもプライバシーはある。そして、そのプライバシーを見つめる目もある。プライバシーを見つめる目、他人のプライバシーを見てしまったというのは、それもまたひとつのプライバシーである。それは、第三者に語るべきことではない。
 というところまでことばを動かすと、また、そこに、この映画に描かれていない(あるいは静かに描かれている)ことがらが見えてくる。
 同じ部屋にいて夫が(男が)誰かとセックスをするのを見てしまう目。それと同じ目が、実は主人公を見ていたはずである。何かおかしい。何か隠している。もしかしたらユダヤ人を隠している--ということは、たとえば食料品店の女は気づいていたかもしれない。肉眼では見ていないが、何かが見えていたはずである。「玉ねぎを煮るにおいが地下からした」と告げ口をしたひとがいるのだから、そういうことに何人かは気づいていたはずである。
 そういうひとたちはそういうひとで、他人のプライバシーを守っている。主人公のプライバシーを静かに守っている。「あなたのしていることは、あなたの責任。あなたが私にかかわらないかぎり、それはあなたの責任ですればいいこと」。これは、冷たい意識だろうか。そうではないと思う。なぜなら、ほら、誰かが「助けて」と自分に何かを求めてくるなら、その求めには自分のできることをするという形で主人公はかかわっていったではないか。
 歴史の奥には、こういうプライバシーの歴史があるのだ。ヨーロッパの強さ、個人主義の強さをずしりと感じる映画である。「真実」はいつでもプライバシーのなかにある、ということを語る映画である。
                        (2012年10月14日、天神東宝4)


 天神東宝の各劇場の音響はどうしようもなくひどい。「天神東宝4」では空調の音が映画の音を上回る。突然スイッチが入り、突然切れる。その繰り返しである。そのたびに、映画そのものの音が変化してしまう。もっときちんとした映画館で上映されるべき映画である。





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阿部日奈子『キンディッシュ』

2012-10-15 10:45:50 | 詩集
阿部日奈子『キンディッシュ』(書肆山田、2012年10月15日発行)

 きのう(おとつい)読んだ柴田千晶『生家へ』の俳句には「わざと」が見えて、それが私にはいい気もちはしなかった。
 阿部日奈子『キンディッシュ』も「わざと」が目立つことばなのだが、阿部の詩の場合は「わざと」が気にならない。阿部は「ありのまま」を求めていない--というと誤解を招く表現になってしまうが、「ありのまま」のあり方が「俳句」における「ありのまま」とはかなり違うのだ。というような抽象的なことを書いていても感想にはならないので……。
 「行商人」という作品。

冬のあいだに作りためたボタンを車に積んで
行商の旅に出る
売掛帳に記された仕立屋や洋裁学校を
街道に沿ってまわる
七日間の旅程
荷台で揺れる小抽斗のなかは矩形に区切られて
春夏向きの貝ボタンだけでも十数種類がそろっている

すみれ服飾学院は
洋装店二階のこぢんまりした教室
裁ち台に広げた生地にボタンを置いてゆく
花形に削った白蝶貝のボタンは クレープデシンのワンピースに
タイシルクのコートには 斑猫を模した七宝のボタン
木目がきれいなナットボタンは 麻のスーに
切子細工のガラスボタンは 綿ヴォイルのシャツブラウスに

 書き出しの「冬のあいだに作りためたボタンを車に積んで/行商の旅に出る」の「主語」は誰か。「私」なのだろうけれど、「私」は誰か。まさか阿部ではあるまい。ということは、この作品、このことばは阿部の「過去」をもっていない。このことばのなかには阿部の「過去」が含まれていない。ことばは虚構を動いている。ここにかかれていることは、いわば「うそ」である。「わざと」うそが書かれている。
 柴田の詩も、そこに書かれているセックスが「ほんとう」というよりは、「うそ」を含んだ「わざと」なのだろうけれど、阿部の「うそ」と柴田の「うそ」はまったく違う。「わざと」のあり方が違う。
 柴田は「流通する風俗」というものを意識し、その風俗のなかにいわば柴田自身をみせながら隠している。見せれば見させるほど柴田は隠れてしまう。そのかわり「風俗の肉体」が見える--というところまでことばが突き進めばそれはそれでおもしろいのかもしれないが、そういう「散文」の粘着力、粘りを発揮するのではなく、俳句を利用して「断面」としての「象徴」で問題を解決してしまう。その手際は、テキパキしているといえばテキパキしているのだが、そのテキパキが目立ってしまうと、なんだか柴田の「頭のよさ」だけを見せつけられたような気がする。そこが、私には、まあ、不満だね。
 脱線した。
 阿部にもどる。

 阿部の「過去」をもたないことば。つまり、阿部は実際に冬のあいだボタン作りをしたわけでも、春になってボタンの行商をしたわけでもないのに、なぜこんなことを「わざと」書くのか。
 その理由は、そのまま考えていくと、わけがわからなくなる。書きたいから書いただけでおしまいになる。
 で、ちょっと違った方向からことばを見ていく。
 「過去」をもたないことばというのは可能なのか。まあ、書かれているから、可能である、と結論は出ているのだけれど。では、なぜ、可能なのか。この「なぜ」に阿部のことばの運動の秘密と、阿部の「肉体(思想)」がある。
 阿部のこの詩のことばが阿部の過去(体験)とは無縁であるとしたら、では何と関係があるのか。体験していないことばを阿部はどこから自分のものにしたのか。
 先行することばの運動--つまり、「本」から獲得したのだ。「本」以外のことば、たとえば映画や芝居や、身の回りの会話でもいいが、自分以外のひとのことばから獲得したのである。そこから学んだのである。
 いわば、ここには他人のことばがあるのだが、他人のことばがなぜ阿部のことばになりうるのか。自分の「過去」でもないものを、なぜ自分の「過去」のように書くことができるのか。
 ことばにはことばの肉体があるからだ。ことば自身の「過去」があるからだ。それは「文学の過去」と言ってもいい。「文法の過去」と言ってもいい。そしてそれは「文学の肉体」「文法の肉体」と言ってもいい。「過去」とは「肉体」であり、「過去」とは「肉体」のなかにしみついた「無意識」である。
 あることばは別のことばを好んでくっつきたがる。ほかのことばではいや、という好き嫌いがある。いやなことばが出合うと、とても耳障りである。
 (柴田の俳句と散文の組み合わせに感じたのは、その「耳障り」である。まあ、どんな音の結びつきも音楽の可能性であり、それを耳障りと批判するのは可能性の否定である--といわれれば、その通りである。また、脱線した。)
 ことばはどんな組み合わせでも可能なようであって、なかなかそうはいかない。音楽の和音のように、一種の組み合わせがある。まだ「文学のアルキメデス」は誕生していないので、だれも「ことばの和音」を数式化していないが、それは確実に存在する。
 その「ことばの和音」は阿部の詩を読むと、はっきりと感じることができる。「ことばの肉体」がつかんできた「ことばの運動のなじみ」というものがはっきりと感じられる。
 たとえば「行商」。それは「売掛帳」ということばとしっくりなじむ。そういうことばがあるかどうかわからないが、たとえば「販売実績記録簿」ということばは「行商」にはにあわない。「バランスシート」というようなことばもここにはにあわない。
 そういうことばをもってきて、「行商」ということばを活性化(?)させるということも可能かもしれないが(柴田のしているのは、好意的に考えればそういう方法なのだろうけれど)、阿部はそういう方法をとらない。あくまで「ことばの肉体」「ことばの記憶」をたどり、それを「正直」に「ありのまま」に存在させようとする。
 行商、売掛帳、仕立屋、洋裁学校、街道、旅程、荷台、小抽斗、矩形……。どのことばも同じ「過去」(同じ時間)をもっていることがわかる。どのことばも「いま/ここ」(現代の風俗)とは違う。阿部はその「過去」を「過去」の時間のままに(ありのままに)統一する。
 ここに阿部の「わざと」がある。そして、その「わざと」には乱れがない。いわば、とても正確な「和音」がひびきあっている。
 阿部がここで書いているのは、いわばそういう「ことばの和音」であり、ことばの数学なのである。同じような詩人に、たとえば高柳誠がいる。那珂太郎も実は「ことばの和音」という視点でとらえていくと、同じ系列に属する。彼らがやっていることは、あくまで「ことばの音楽」であり、いわばことばのアルキメデス派なのだ。ことばは、「ことばの和音」を求めて、自在にそれ自身の力で運動する--そういう可能性を、阿部は提示しているのである。

 こういう「ことばの和音(音楽)」追求には、ことばの歴史(過去)が反映しているのだけれど、そういう「ことばの音楽の運動」には「個性」が反映しないかというと、そうではない。「音楽」が「和音」を守りながらも個性があるように、たとえば「赤い靴」(童謡)も「恋人よ」(五輪真弓)も「ふれあい」(中村雅俊)も「ダンシングオールナイト」(モンタ&ブラザーズ)も「ラシドレミ」と同じ音で始まるが違うように、阿部のことばも「ことばの和音」を踏まえながら、阿部独自のものとなっている。そこには、阿部の「好み」(どうすることもできない本能)がやはりあらわれてくる。
 なぜ「すみれ服飾学院」なのか。なぜ「リンドウ洋装学校」ではないのか。この違いのなかへ踏み込み、それを明確にすることはむずかしい。それは、その違いを識別し、それを選ぶという意識が、もうすっかり阿部の肉体になってしまっているからだ。そういう肉体が、2連目の「個別のボタン」「個別の生地・洋服の形」になってあらわれている。
 その「和音」を楽しいと思うか、思わないか--詩の評価の分かれ目は、そこにあらわれてくる。どんなことばでも「和音」であるはずなのに、(それがいままで聞いたことがある和音か、聞いたことがない新規の和音かの違いであっても、組み合わせがあるかぎり「和音」であっていいはずなのだが)、それに読者がなじむかどうかが、詩の分かれ目である。
 こう書いてしまうと、詩の評価などいいかげんなものだが、まあ、いいかげんでいいのだ。詩なのだから。
 他人のことはさておいて、私は阿部のことばの和音の作り方、あるいは高柳誠、那珂太郎のことばの和音の作り方は、とても気持ちがいい。気持ちよく響く。そこには「風俗的な肉体の匂い」がない。架空のものだけがもつ透明感がある。和音のための、「わざと」つくられた「構造」が、「わざと」なのに、あるいは「わざと」だからなのかもしれないけれど、ゆるぎがない。強固である。そこに安心感がある。「ことば」なのだ。という安心感--ことばは、こうやって他人と共有されることばそのものになるのだ、という力がある。そういうことばの力が、それが「わざと」書かれたものであるのに、「ありのまま」の力を明確にするために書かれたものという印象をあたえる。そういう印象を感じる。「わざと」なのに「ありのまま」に触れることができる。

笑いさんざめくお嬢さんがたは
年々幼くなるように見えてならない
産毛がひかる水蜜桃の頬っぺたでもうじき結婚だなんて
心配を通りこして痛ましくさえ思うのだが
みごとな銀髪の女学院長が含みのある笑顔で目配せするので
行商人は黙って
陽光の溶けこんだ紅茶を啜っている

 阿部は最後になって「行商人」という主人公を明確にすることで、つまり、この詩のことばが「行商人」という第三者の視点によって統一されたものであると明確にすることで、物語のなかに「作者」として「溶けこんで」ゆく。紅茶のなかの陽光のように、輝きながら。
 物語ることの楽しさ、物語らずにはいられない「ことばの肉体」が、読み終わったあと、紅茶のように読者の「臓腑(肉体の奥)」に広がってくる。



海曜日の女たち
阿部 日奈子
書肆山田
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柴田千晶『生家へ』(2)

2012-10-14 19:49:00 | 詩集
柴田千晶『生家へ』(2)(思潮社、2012年10月01日発行)

 柴田千晶『生家へ』はどんなふうに読むことができるのか。「俳句+散文詩」というのが出版社(柴田?)の「売りことば」なのだが、まあ、宣伝だね。こういうものを気にしなければいいのかもしれない。
 「俳句」ではなく「1行現代詩」、「散文詩」ではなく「散文」。いや、そういう枠をとっぱらって、「5・7・5」という「定型」と「否定形」。それもとっぱらって、ただの「ことば」。そう読むといいのかもしれない。
 私は「俳句」ということば、その「定義」にひっかかってしまうのである。「俳句」を「散文」で「これは、こういう背景のあることばなのです、と説明するときの、そのことばの構図にひっかかってしまうのである。

 俳句とは何か。
 たとえば、「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」。ここには「法隆寺」という「固有名詞」がある。だから、ここに書かれている寺が「法隆寺」であることはたしかなのだが、そのほかのことは、どうだろう。「柿」はどんな柿? 鐘は法隆寺の鐘? それともどこか遠くの寺の鐘? だいたいこのとき子規はどこにいたんだろうか。法隆寺で柿を食った? まさかね。では、どこ? 自分の家、というか、逗留先?
 わからないことはいっぱいある。いっぱいあっても、子規が柿を食ったということはわかる。鐘が鳴ったということもわかる。法隆寺を思っている(?)ということもわかる。こんな句なんて、「ありのまま」じゃないか。その「ありのまま」がわかってしまうので、それ以外は、まあ、関係がない。そこにどんな「過去」があるか、これからどんな「未来」が始まるか、まったく関係ない。子規という人間さえ関係がない。そういう無関係の関係のなかに、そのことばを読むと誘い込まれ、読者(私)とことばがひとつになるということが俳句なのだと思う。
 芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」。これだって、池に蛙が飛び込めば水の音がするなんて「ありのまま」。「ありのまま」すぎて、わかりすぎて、そのことが不安になると、この「古池」がどこの池なのか、蛙は一匹なのか複数なのか、水の音はどぼんなのか、ぽちゃんなのか。時間は何時ごろなのか--というようなことを気にしはじめる。つまり、芭蕉は「いつ/どこで」この句を詠んだのか。でも、そういうことは、関係がない。どこだっていい。どの池であっても「古池」であり、どんな蛙であっても「蛙」、どんな水の音であっても「水の音」。「ありのまま」なのだから、そしてその「ありのまま」という「ありかた」というのは、あらゆる「古池」、あらゆる「蛙」、あらゆる「水の音」でありながら、たったひとつの古池、蛙、水の音である、ということだ。「あらゆる」が「ひとつ」という矛盾が俳句なのである。
 「あらゆる・ひとつ」というのは矛盾であるからこそ、ほら、学校で初めて「古池や蛙飛び込む水の音」という句を「名句」であると習ったとき、変な気持ちになったでしょ? 何これ? 蛙が池に飛び込んで水の音がした--それがどうしたの? 「あたりまえ」でしょ? 「ありのまま」でしょ? 「ありのまま」では、どこがいいのか子どもにはわからない。しかも、その「ありのまま」というのは「矛盾」していることなのだから、こどもにはわからない。子どもには「矛盾」がわからない。というか、「矛盾」を受け入れることができない。知らないことを、知っていることに置き換えて、知っていることを少しずつ増やしていくことが、子どもにとって「わかる」ということなのだ。
 「矛盾」がわかるようになるのは、おとなになって、自分の肉体のなかに「矛盾」がたまってきたときである。「矛盾」があっても、「いま/ここ」にこうして人間が生きているということが納得できるようになって、ようやく「矛盾」を受け入れることができる。あらゆることが「矛」であり「盾」であり、それは「表裏一体」である。「わかる」は「理解する」ということではないのだ。受け入れることなのだ。
 「古池や蛙飛び込む水の音」のことばのなかには、そのことばだけではなく、あらゆることばが同時に存在している。ひとつと無数が「表裏一体」になっている。そして、それが「表裏一体」だからこそ、私たちはそこに私自身の「古池や蛙飛び込む水の音」を溶け込ませることができる。というか、読んだ瞬間に、そこに「私」が溶け込んでしまい、そのことばを境目(?)にして、私と芭蕉が「表裏一体」になる。
 だから--というのは変かな?
 この句を読んだ瞬間、これが俳句なら自分にでも書ける、そう思わなかった?
 古池やどんぐり落ちる水の音
 古池や緑の水に赤い鯉
 どこが違うのか、小学生にはわからない。
 つまり、小学生であっても「古池や蛙飛び込む水の音」は、そのまま自分の世界そのものになる。「ありのまま」にのみこまれ、同化してしまう。「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」も同じだね。読んだ瞬間に、そのことばが自分のものになり、どこが特別なのかわからないというのが、きっと俳句の真骨頂である。そして、そこには「無数」と「ひとつ」の「表裏一体」がある、というのが「俳句の正直」なのだ。「無数」と「ひとつ」が「表裏一体」であるから、そこには「私」は存在しないという形でしか存在できない。存在しないことが存在することなのだ。つまり、「矛盾」が俳句なのだ。
 だから。
 この「だから」というのは、一種の「飛躍」なのだが、

袋綴ぢのヌード春の鉄匂ふ                   (「汐まねき」)

 というような、「わからない」ことばがあると、それは俳句ではないのだ。
 言い換えると。
 この柴田の俳句を小学生に読ませてみるといい。なぜ「春の鉄」なの、それが「わからない」というだろう。思春期の男子なら「袋綴ぢのヌード」に反応して教室に笑い声がひろがるかもしれない。つまり、それは「わかる」からだ。けれど、やっぱり「春の鉄匂ふ」につまずく。「これ、いったい何?」
 こういう組み合わせを「おもしろい」(わかる)と感じる(錯覚する)のは、ひねくれた「現代詩」愛好家だけである。詩とは異質なものの出会いである、ということを唯一の真理と信じている「現代詩人」だけである。
 ここにあるのは「作為」(わざと)だけである。(わざと、が詩である--というのは、西脇順三郎の詩の定義である。)

 で、私がきのう書いたのは、そういう「俳句」の感覚と柴田の書いている「俳句」が相いれないだけではなく、「俳句」を「散文」によって解説してしまうと、「表裏一体」が完全に分離する、分離してしまって、「俳句」は完全に否定されてしまうということなのだ。
 私は俳句をつくっているわけではないが、そこのところにつまずく。
 これを俳句ではなく「一行詩」ととらえなおせば、少し、違った感じになる。--なるかな、と少しは思うので、その方向にことばを動かしていってみようか。

   袋綴ぢのヌード春の鉄匂ふ

黒崎課長が死んだ。四日前、課長はすでに死んでいた。赤髪町のビジネスホテル
の一室で、黒崎課長は服を着たまま、浅く湯を張ったバスタブに浸かっていた。
死因は心不全と伝えられたが、なぜ服を着たままだったのか、なぜ着てきたはず
の背広だけがどこにも見つからなかったのか、不可解なことだらけの黒崎課長の
死だった。

 この「汐まねき」の「一行詩」と「散文」の関係は、ここまで読んだだけではわからない。「わざと」が、さらに「わざと」を呼び寄せている。「課長の死」という事件を「わざと」向き合わせている。
 しかし、そこには「死んでいた」「服を着たまま」「不可解」ということばが「ヌード」と呼びあい、そこに「セックス」が浮かび上がる。「袋綴ぢ」と「服を着たまま」の呼応など、作為(わざと)が見え透いていて、あざとい感じすらするが、見方によっては「ていねいな伏線」ということになる。(これを「伏線」と感じるひとには、柴田のことばは「巧み」だなあ、という印象を与えると思う。いい詩だなあ、という印象をあたえると思う。)
 さらに「鉄匂ふ」は「血の匂い(鉄分があるからね)」を連想させし、課長とビジネスホテルの組み合わせは、なるほどね、ラブホテルじゃなくてビジネスホテルをつかっていたんだね、というようなことも連想させる。今度はそうしよう、ポケットから領収書がでてきても言い訳がしやすいからね、とか……。(このありりの工夫にも、「柴田はうまいなあ」と思うひとがいると思う。)
 で、この連想のなかに、「一体感」はあるのかな?
 まあ、そうだね。ここにも、強引に言えば、個別のセックス(黒崎課長)と複数のセックスの「表裏一体」があり、その「表裏一体」のなかに、読者(私)が融合し、「一体感」を感じると言えないこともない。
 そんな具合に、実際、柴田のことばは動いていくのだけれど。
 でも、柴田って「黒崎課長」と同性? つまり、男?
 私は柴田に会ったことはないのでよくわからないけれど。

 まあ、この「むり」には柴田自身が気づいて、

   茫茫と牛乳流す春の川

ひと月前に黒崎課長が宿泊した606号室は、まるで何事もなかったかのように
客室として使用されていた。課長が浸かっていたというバスタブに触れると耳鳴
りがして、排水口からゴボッゴボと水が逆流してきた。課長はまだここにいるの
かもしれない。裸のままベッドに俯せて私を待っているのかもしれない。

 という具合に、なんだかわけのわからない俳句を挟んで、強引に「女」をわりこませる。事件(?)のなかの「女」と柴田の性を「一体化」する。
 この「わざと」は「現代詩」の「わざと」を超えるね。
 つまり。
 手術台の上のミシンとこうもり傘の出会い、美術館と便器と「泉」の出会いは「無意味」によって「驚き」を引き起こす。「笑い」を引き起こすが、柴田がここに書いている「わざと」は「無意味」とは正反対。「意味」でありすぎる。男と女がビジネスホテルでセックスをするというのは「わざと」というよりは、あまりにも常識的すぎる。つまり「悪趣味」ということになる。
 こうなってしまうと、もう俳句どころではない。
 どうやって「わざと」のなかに「現代」を盛り込み、「意味」を「悪趣味」から「現実」(実感)に変えていくかということが、ことばの課題になってしまう。
 柴田はそれを一生懸命にやっている。
 で、一生懸命にやればやるほど、それが「物語」になってしまう。「流通可能なストーリー」になってしまう。そして、その結果、「一行詩」は、やはり「流通可能な象徴詩」にかわってしまう。
 何といえばいいのかよくわからないが、「一行詩」と「散文」が出会い、それが一生懸命に互いをふくらませようとしているのだが、どうも私には、それが「相乗効果」というよりは「相殺効果」のように思えてしまう。
 「詩」が強烈に浮かび上がるというよりも、「一行詩」がもっていたはずの「詩」がそぎ落とされ「流通言語」が残る、「風俗」が浮かび上がってくる、という感じがする。

 「わざと」をたくさん含んだ「一行詩」を「俳句」と呼ぶのは、それはそれでおもしろいと思う。でも、その「俳句」を「散文」と組み合わせ、向かい合わせにすることで「流通可能なストーリー」に仕立てるというのは、どうも、俳句に申し訳ない感じがするなあ。
 俳句を専門につくっているひとは、この詩集をどんな具合に読むのかな?
 それを聞いてみたい感じがする。




セラフィタ氏
柴田 千晶
思潮社
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柴田千晶『生家へ』

2012-10-13 10:46:07 | 詩集
柴田千晶『生家へ』(思潮社、2012年10月01日発行)

 柴田千晶『生家へ』は俳句と散文(帯には「散文詩」と書いてある)が組み合わさった詩集である。俳句を短歌(和歌)にすれば「歌物語」になる。そういう「形式」の作品である。
 「春の闇」の冒頭部分。

   春の闇バケツ一杯鶏の首

「食品加工原料・豚脂牛脂」とペイントされた室井商店のトラックが、早朝の駐
車場に並んでいる。青いフェンスの網目一面に獣たちの血や脂が染み付いた軍手
が差し込まれ、朝の陽に晒されている。室井商店の前を通りかかると、きまって
大きなバケツを提げた短躯の男が店の奥の暗がりから現れた。男が引きずるよう
に運搬しているバケツには豚や牛の臓物らしきものが入っている。男はいつもす
れ違う一瞬、私の顔を盗み見て店脇の路地に薄ぼんやりと消えてゆく。いつの頃
からか、出勤前にこの光景を見ることが私の日課となっている。いや、この一瞬、
男に見られることが私の日課となっているのかもしれない。

 この冒頭に俳句と散文の関係は?
 散文を読みはじめた瞬間、俳句のなかにある「詩」が「詩」ではなく「物語」になる。俳句は基本的に「一瞬=永遠」という構造をもっている。遠心・求心といいかえてもいいが、柴田のこの句と散文の場合は、「時間」を軸に見ると、関係がつかみやすくなる。
 「詩」が「物語」になるとき、そこに「時間」が浮かび上がる。柴田が書いているのは、朝の出勤という「一瞬」のつもりかもしれないが、「一瞬」というのは「詩」のなかにあっても「散文(柴田は映画のシナリオも書いているようだから、それを例にとればシナリオも--これは、あとで触れるかもしれない)」のなかには「一瞬」は存在しない。というか、散文というのは時間(期間)のなかで人間が動くとき、初めて散文になる。散文とは「ひと」そのものなのだ。「いきる」ことそのものなのだ。
 映画(芝居の方がもっと極端だが)では、ある存在がそこに登場するとき、その存在(人間でも、ものでも)は「過去」をもっている。この作品で言えば「室井商店」というのは「食品加工原料」をあつかっているという「過去」をもっている。その「過去」とは簡単に言えば食肉を解体することである。解体の過程で、牛や豚の血が流れる。解体の作業をするときひとは軍手をはめている。作業が終われば、軍手を洗って干すということが必要になる。フェンスの軍手はそういう「過去」をもっている。「過去」をもっているとは「過去」を説明するということでもある。
 この詩では、その「過去」とつながる男があらわれる。人間は出会うと、その瞬間に、それぞれの「過去」がぶつかりあう。自分とは違った「過去」を他人に見てしまう。柴田は、男が食肉の解体作業に従事している「過去」を、それが正しいかどうかは別にして、見てしまう。バケツのなかの鶏の頭。赤い鶏冠。
 「過去」を説明されると、「いま/ここ」がとてもわかりやすくなる。
 「散文」は柴田にとっては、いわば「過去」の説明なのである。

 で、これが、問題である--と私は思う。
 詩は「過去」の説明によって明確になるものなのか。明確にすべきものなのか。柴田の冒頭の俳句(詩)は「過去」の説明によって、「わかる」、とてもわかりやすくなる。
 春の朝、柴田はバケツに鶏の首がいっぱい入っているのを見た。それは食肉加工を商売とする店先であり、毎朝、そのバケツをもった男があらわれ、店の脇の薄くらがり(春の闇)に消えていく。そういう光景を書いていることが、とてもよくわかる。すべての存在が「時間」のなかで、一連の動きをもって(一連の動きだから、どうしてもそこに時間が登場する)、くっきりと見えてくる。
 問題は。
 そのときほんとうに見たのは何? 「時間」になってしまわないか。
 詩は時間を超える。時間を超えるというより、出合った瞬間に、実は「過去」が解体し、そこからいままでなかった時間が誕生するというのが詩である--これは私の定義だけれどね。
 柴田の詩では、それが正反対になる。
 俳句(詩)が、「過去」の時間によって説明される。「いま/ここ」がこういう状態であるのは、こんな「過去」があるからだ、と説明される。
 これでは詩の否定である。

 柴田は、このことにうすうす勘づいているかもしれない。だから、そうやって説明される「過去」を否定すようとする。

    出勤前にこの光景を見ることが私の日課となっている。いや、この一瞬、
男に見られることが私の日課となっているのかもしれない。

 「私が見る」という「構図」を「私が見られる」という構図に瞬時に置き換える。そうすると、「私が見ていた時間(男の過去)」が消え、そこに「私の時間(私の過去)」が突然噴出する。
 物語の逆転の大トリックみたいなものだ。映画の大逆転のようなものだ。
 ここには正確には書かれていないが(というか、説明はされていないが)、柴田はなぜ様々な風景のなかから、朝の光景として食肉加工商店に目を止めたのか。なぜバケツのなかのものが「鶏の首」であるということに気づき、それを書くことになったのか--その「根拠」というか「理由」のようなものが、ほんとうはこの作品のテーマ(?)であり、そういうものをこそ柴田は物語として「未来」の方向へ投げ出していくことになる。
 「未来」というのは、まあ、ことばの進む方向なのだが、その「未来」は実はこれまでの体験(過去)を語るのだから、この「散文」の動きは、一種の「逆向き」の動きである。「謎解き」といえばいいのかも。
 作品のつづきを引いて説明するとわかりやすくなるかな?

   夜の梅鋏のごとくひらく足

かつて京急黄金町の線路沿線の路地には「ちょんの間」と呼ばれるショートプレ
イが出来る店が建ち並んでいた。

 「かつて」が明確にしているように、ここから始まるのは「過去」のことである。「過去」の記憶があって、それがバケツのなかの鶏の首を浮かび上がらせるのである。柴田が、「かつて」を知らなければ、柴田はバケツの鶏の首を見なかった。見たとしても、それは意識に残らないか、あるいは意識から締め出してしまっていただろう。朝からそんなむごたらしいものを見て、気分がいいわけがないからね。でも、柴田はそれを意識から追い出さない。逆に意識にしっかり組み込む。
 詩(俳句)にして、特別な意識として屹立させる。

 で、この「過去」は、さらに解体された肉、血からセックス、殺人へと「物語」を展開していくことになる。(これは、もう書かなくてもいいね。)

 こうした「構造」の読んでいると、私はなんだかいやな気持ちになる。
 うまく言えないが、詩が消えていくのを感じる。
 俳句は、解説された瞬間、「要約」になってしまう。「意味」になってしまう。それが「物語」のなかに組み込まれた瞬間、それは「象徴」ということになるのかもしれないが、これって、いやだなあ。
 柴田は映画のシナリオも書いているから映画もたくさん見ていると思うけれど、何といえばいいのか、俳句は、フラッシュバックの一瞬の映像、しかもストーリーの凝縮した瞬間のスチール写真のようになってしまう。
 こういうのは、私は嫌いだ。古くさい--というか、なんだか「教科書」のように見えてしまう。「教科書」は読みたくないなあ。
 映画で私が見たいのは、もっと「不安定」な「いま/ここ」そのものである。「過去」を失って、どう動いていいかわからない。わからないのに、肉体があるために動いてしまう。存在してしまう。そのとまどいのなかから始まる何かである。
 散文(小説でも哲学でもいいけれど)は、そういうものだと思う。これからどうなるの? わけがわからない。でも、ことばは動いていく。それが散文。
 その散文を俳句はある瞬間へと「要約」する。俳句を「要約」するかたちで散文が動いている。

 きっと別な言い方をすると、この詩集は俳句と散文が競合するように互いを補いながらことばの世界を豊饒にする、ということなんだろうなあ。
 でも、私はそういうふうには言いたくないなあ。
 で、ケチだけをつけてみた。



 作品全体としてではなく、気に入った「行」や「部分」をあげておくと。

無念だ無念だとつぶやきながら嬰児は遅い春へと流れ落ちてゆく。
                                  (「顔」)

 「無念だ無念だとつぶやきながら」は「なみあむだぶつ」(なんまいだ)の音を含んでいて、遠いところから情念が復讐してくるような感じがあり、とてもおもしろい。あとの方にも「無念だ」の繰り返しはあるが、「無念だ、無念だ」と読点「、」で区切られてしまったうえに「つぶやく」とつながらないので、暗い情念が消えてしまって残念だ。
 「斑猫」の「足の親指を丹念に口に含まれていると、」から始まるセックス描写も、「男の声のようにも、私の声のようにも聞こえる」までのことばが大好きである。「含まれていると」の「いる」がおもしろい。そうか、「持続」か、と私はそこから「深読み」というか「誤読」を楽しむことができる。「聞こえる」というところにセックスが落ち着くのも、とても気に入っている。セックスは聴覚である、と私は思う。肉体の遠近感だと思う。
 まあ、これは余談だから、ここまで。



生家へ
柴田 千晶
思潮社
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高野民雄『空の井戸』

2012-10-12 10:29:19 | 詩集
高野民雄『空の井戸』(思潮社、2012年09月25日発行)

 高野民雄『空の井戸』を読みながら、ふたつの視点、ということを考えた。
 「空の井戸」の1連目。

そこに何も隠されているわけではない
空の深い井戸
私たちはそれを重力の下から仰ぎ見て
限りなく深いと感じ その深みから
また 限りもなく何かが湧き出すようにも思う

 空は井戸ではない。これが一つ目の視点。井戸ではないけれど井戸と呼ぶことができる、というのがもうひとつの視点。ふたつ目の視点は「虚構」と言い換えることができる。しかし、虚構ではないかもしれない。そこから何かを生み出すための、あえて作り上げた何かではないかもしれない。
 では、何といえばいいのだろう。
 簡単に「比喩」と言っていいのかもしれない。「いま/ここ」にそれ(呼んでいる何か)があるわけではないのだが、「いま/ここ」にないからこそ、ことばによって「いま/ここ」に呼び出すということかもしれない。
 ある「もの(存在)」を呼び出して、「いま/ここ」にある「現実」と「いま/ここ」にない「何か」を結びつける。
 いや、それとも違うなあ。

また 限りもなく何かが湧き出すようにも思う

 この1行の「思う」がとても象徴的である。
 高野は「思う」ことさえも「思っている」。「思う」がひとつ目の視点だとすれば、その「思う」を「思っている」がふたつ目の視点。--なんだか、「われ思う、ゆえにわれあり」みたいな感じだが、高野の意識(ことばの運動)は自然に対象を対象化してしまう。
 これは、その直前の「限りなく深いと感じ その深みから」の「感じ」にも通じることである。
 「思う」も「感じ」も、詩には不要なことばである。

そこに何も隠されているわけではない
空の深い井戸
私たちはそれを重力の下から仰ぎ見る
限りなく深い その深みから
また 限りもなく何かが湧き出す

 「感じ」と「思う」を削除しても(3行目は一部文意がつながるように書き改めた)、そこに書かれている世界は変化しない。というより、「感じ」あるいは「思う」を省略した方が、高野と空と、そして大地が一体になるというか、大地と空とのあいだに存在する高野が、空-高野-大地という区別がなくなる。

空(高野)大地
高野(空-大地)

 どう表現していいのかわからないが、高野が消えるか、空-大地が消える。消えたと思ったら、あらわれる、という感じになる。
 ところが「感じ」「思う」があると、どうしても中心に「高野」があらわれてきてしまう。空、大地と対立してしまう。対立ということばはたぶん正確ではないのだが、自己主張してしまう。
 で、この自己主張が、おもしろいことに「ふたつの視点」を行き来する。高野は一方で「空は深い井戸」と自己主張し、他方で「空は深い井戸」という視点からも自己主張する。
 それが2連目。

空はなぜ青いのか
私たちはそれを学校で あるいは本で学ぶのだが
二十生世紀の半ばを過ぎて やっと
重力に少しだけ打ち勝って空の青を超えた宇宙飛行士たちは
地球は青いといい 映像によって私たちもそれを見た

 「空は深い井戸」と自己主張していたときは、高野は「地上」にいたはずである。ところが、2連目では高野は地上にはいない。実際は地上にはいるのだが、意識は地上を離れ「空の深い井戸」の「底」、つまり宇宙にいる。そこから地球を見つめている。
 この瞬間「井戸」は「井戸」ではなくなっている。「地上」は「地上」ではなくなっている。「宇宙」を起点にして、地球そのものを「井戸の底」のように見つめている。
 視点が「飛ぶ」(飛躍する)のである。
 で、このとき。
 1連目の「感じ」「思う」はどこへ行った? どこへ消えてしまった?
 変だねえ。
 「感じ」「思う」は何に変わったのか。
 私の「感覚の意見」では、それは「学ぶ」に変わった。
 「感じ」「思う」は「自分」だけの世界だが、「学ぶ」は「自分」であるよりも他人、詩のなかにあらわれてきたことばを借りて言うと「学校」「本」の世界である。「学校」や「本」が、「感じ」や「思う」を修正する。そしてそこには自分の肉眼で見たものではなく、他人の肉眼で見た(らしい)もの、つまり「他人が撮影した映像」がわりこむのだが、こういう修正を、高野は「違和感」もなく受け入れている--ように感じられる。
 その「違和感の欠如(?)」が、何といえばいいのか、「ふたつの視点」を簡単に共存させてしまう。

 うーん。

 よくわからないのである。私には。どっちの視点についていけば高野に出会えるのか、それがわからない。「ふたつの視点」をもっている、ととらえるときだけ、高野はそこに存在するのだが、もし、現実に私が高野と出会ったときのことを思うと、「ふたつの視点」で見られてはいやだなあと直感的に思うのである。

 3連目は省略して、4連目。

私たちもそこにいるはずである
宇宙または夜の暗黒を背景に浮かぶ地球
その不安定な映像の 陽の当たる空と海と陸
それらをおおう薄青い光の底
あるいは写っていない向こう側の夜の闇の底に
見上げる顔のひとつもなく
だれひとり写っていない
私たちの記念写真
逆向きの
空の
深い井戸の


 「私たちもそこにいるはずである」の「はずである」は強い断定だが、断定とはいいながら、それは「頭」で動かしている断定である。「論理」である。
 「感じ」「思う」は「学ぶ」を経て「論理」を突き動かし、「推論」を「結論」としてさし出す。そして、その「結論(推論)」は科学によって裏付けられているから、それに対してだれも異議はとなえないだろう。
 宇宙飛行士が撮影した青い地球。そこには写ってはいないが、つまり「解像」されてはいないが、ほんとうは私たちがいる。高野がいる、ということを現代ではだれも否定はしない。
 そうなのだが。
 ここに、何か大きな問題がひそんでいる。と、私の「感覚の意見」は声を張り上げる。これは、とても変なことだと思う。
 地球にいて空を見上げる高野の視点。そして、その空を「深い井戸」ということばでつかみ取る高野の、いわば「肉眼」ではないもうひとつの視点。そのあと、その肉眼ではない視点から「逆向き」に肉体の存在する地球、地球にいる高野を見つめ返してくる「第3の視点」。
 「第3の視点」の発見が、高野という詩人を特徴づけるのかもしれないけれど、それを可能にしているのが「学ぶ」を経由していること、その「学び」を高野はあまりにも簡単に受け入れているという印象があって、
 うーん、
 私は、そこでまたとまどうのである。

 このとまどいは、詩集の後半にある「俳句(?)」を読むともっと大きくなる。

草に寝て
空見上げれば
青地球

 これは「空の井戸」をそのまま3行に書き直したものだろう。空を見上げると同時に、その空の形見から地球を見下ろしている。そういう「感じになる」--それはそれで、とてもよく「わかる」のだが、つまり私はそこから「誤読」の世界へ突き進んで行きたい欲望に一瞬かられるのだけれど、「誤読」を押し進めることができない。
 俳句の世界では、自己の視点と、自己ではない宇宙の視点が出会い、その出会いのなかで自己と宇宙がとけあって、「いま/ここ」が「いま/ここ」を超えた別の「次元」になる瞬間が感動的なのだが、そしてそれが「別次元」であるからこそ、どんな「誤読」でも「誤読」したものの勝ち(?)ということになるのだが、高野のことばの世界では、「いま/ここ」の融合のかわりに「学校(学ぶ)」が割り込んできて、それが世界を「整然」とととのえる。
 「見上げれば」の「れば」に、高野の「論理を生きる学びの精神」が強烈にあらわれている。仮定し、推論し、結論を下す。そのとき、そのことばの運動を支配しているのは感情でも感覚でもなく、第三者から「学んだこと」である。
 うーん、これでいいのかな?
 私の「わからない」は「疑問である」の「言い換え」である。




空の井戸
高野 民雄
思潮社
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アッバス・キアロスタミ監督「ライク・サムワン・イン・ラブ」(★★★★)

2012-10-11 11:09:21 | 映画
アッバス・キアロスタミ監督「ライク・サムワン・イン・ラブ」(★★★★)

監督 アッバス・キアロスタミ 出演 奥野匡、高梨臨、加瀬亮

 キアロスタミが日本人俳優をつかって日本で映画を撮った--という「話題」にひかれて見たのだが、なんとも不思議である。「手触り」が不思議である。
 高梨臨がタクシーに乗って奥野匡のマンションへ行く。その途中、駅のロータリーで会いに来た祖母の姿を見る。ロータリーを2回まわる。途中にトラックが止まっていて、祖母がよく見えない。だから2回まわるのだが、そのシーンに限らず、これは映画? それともドキュメンタリー? と区別がつかない。映画は映画なのだけれど、映像があまりにも虚構性を欠いているために、映画を見ているという安心感がない。嘘をみているという安心感がない。つまり、どうせ映画なんだから、という気楽さがない。
 最初の方の、高梨臨が嘘をついているシーン。加瀬亮がほんとうかどうか確かめるために、電話越しに「トイレへ行け」という。トイレで水を流せ。トイレのタイルを数えろ。--ほんとうにそのトイレにいたのかどうか、あとでタイルの数を数えることで確かめるというのだ。うーん。これは映像ではなく、台詞なのだが、その嘘のようなことばが、高梨臨のどうしたらいいのかわからない、という顔のなかにしっかり根をおろし、おいおい、こんな「ほんとうのシーン」なんか映画にいれるなよ、と思いたくなるのだ。
 映画は、日常では見ることのできない何かを見るためのものである。高梨臨と加瀬亮のやりとりはたしかに日常的に見ることができるのもではないが、それは見ることができないというよりも、見ることを除外しているシーンである。私たちはいつだって見たいものだけを選んでみている。見たくないものは見ないという生き方をしている。
 これは、どこの国でもそうだろう。
 たとえばキアロスタミの「友達のうちはどこ?」。少年が洗濯物をしている母に対して、ノートを友達の家まで返しにいかないといけないという。母親は、それをまるで聞こえなかったように聞き流し、洗濯物を干しつづける。このときの母親の態度は、子どもの言っていることは聞いてはいるが、ほんとうは聞いていない。つまり、親身に向き合っていない。「そんなこと、どうだっていい。ほかにすることがあるだろう」というのである。
 で、そこからがとてもおかしいことが起きるのだ。--これは「友達のうちはどこ?」にかぎらず、まあ、「現実」のことなのだけれど、その、ある人にとっては「どうでもいいこと」が別の人にとっては「どうでもいいこと」ではなく、真剣に悩んでいることなのだ。
 見たくないものは見ない。けれど、見てほしいのは、その見たくないことであるということがある。逆に、見られたくないものがある。けれど、それは見られてしまう。そういうこともある。見る-見られるは、思いのままにはならない。
 こういう場面に、キアロスタミのカメラはするりと入ってきて、その見る、見られるを「なま」の形で定着させる。
 高梨臨がタクシーで駅のロータリーをまわるシーンが印象的なのは、それが高梨にとって「見られたくない」シーンであると同時に、「見てほしい」シーンだからである。おばあちゃん、会いに来たんだよ。おばあちゃんを、こんなふうにタクシーのなかから覗き見しながら、おばあちゃんには会わずに内緒の仕事に行くんだよ。内緒の仕事は知られたくない(見られたくない)けれど、おばあちゃんを完全に裏切ったわけではないということは見ていてほしいよ。
 それをタクシーの運転手は「事情」がわからないまま、バックミラー越しに見ている。何が起きているのかわからない。けれど、何かが起きているということはわかる。わからないのに、わかる。見る必要もないし、見なくてもいいものだけれど、ひとはそれを見てしまい、わからないのに、わかってしまう。いやだねえ。--これが「目の力」、「見る」という人間の不思議な力なのだけれど、それが何といえばいいのだろう、じわーっと肉体に迫ってくる。この「じわーっ」が「ほんとう」。「うそ」ではない、この映画の苦しさというか、窮屈な感じ。気楽になれないねえ。こういうものが、肉体のなかにたまりつづけていく。それが人生といえば人生なのだろうけれど。
 さらにめんどうくさいのは。
 奥野匡のマンションのとなりに住んでいる女の視線。彼女は奥野匡の行動を窓から、身を隠したままずーっと見ている。そしてことばで干渉もする。「私は見ているのよ」という具合。ことばには出さないけれどね。で、めんどうくさいというのは、彼女の「好奇心」のようなものは、私にもあるということ。タクシーの運転手にもあるということ。見なくてもいいんだよ。見ない方がいいんだよ。でも、見えたものから、あれこれ考えてしまう。そしてほんとうにわかったわてげはなく、一部しかわかっていないのに、そのわかったことを手がかりに「現実」を自分の想像力にあわせて捏造してしまう。
 たぶん、キアロスタミの今回の映画は、そういう視点へと収斂していくのだろうけれど(つまり、そういうふうにとらえればすっきりしたストーリーとして見えるのだろうけれど)、でもねえ、ストーリーなんて「ご都合」だから、それは映画とは無関係なんだなあ。
 ストーリーに流されず、映像にもどろう。
 いや、「声」にもどった方がいいのかな。
 一方に、小さな窓(カーテンで自分の視線は隠している)から見つめつづけるひとがいる。見えたものだけを手がかりに勝手にあれこれ他人に干渉してくる人がいる。他方で、現実に会っていても、すべてを知っているわけではなく(見えているわけではなく)、そのために「声(ことば)」で、その見えないものを見ようとする欲望がある。見えないものこそ、ことばにすることで見たいのだ。
 こういうことを母国語ではなく、日本語の俳優をつかってやってしまうところが、不思議だなあ。わからないことばだからこそ、ことばで何かを見ようとする「欲望」だけがキアロスタミにつたわったということかな? そうだとすると、とても耳のいい人だ。キアロスタミ監督は。ことばではなく「声」そのもののなかに、何かを見ている。だから、おばあちゃんの声、覗き見する女の声の、感情を否定したようなひびきの意味がある。感情を隠している--その隠しているものを、あるいは隠しているということをキアロスタミは聞き取っている、ということになる。
 そういうキアロスタミに通じる耳の力も、私たちはこの映画では要求されているのかもしれない。キアロスタミは観客にいろいろ要求してくる監督なのだ。そうした映画をとる人間なのだ。
 うーん。
 ちょっと困ってしまう。
 キアロスタミには、つまりイラン人には日本人はこんなふうに見えるのか、と突き放してみることができれば簡単なのだが、そんなふうにはならない。イラン人監督が見た日本、日本人という感じがない。国籍を突き破って、肉体の力、見る、聞く力の本質に立って、人間をそのまま把握している。日本にきて、ことばが通じず、通じないために、ことばに頼らず目と耳の力だけで「現実」を鷲掴みにしている。そのどっしりしたエネルギーに圧倒されて、見ていて(聞いていて)、私は困ってしまった、ということなのかもしれない。
 ハリウッド映画では、こういう困惑は味わえないね。

 書きそびれして待った。加瀬亮が奥野匡の車のなかで、高梨臨のことを話す。このシーンが非常にいい。高梨臨のタクシーのなかでのシーンから書きはじめてしまったためにうまくつながらないのだが、そこにいるのは演じられた人物であるはずなのに「うそ」ではなく「ほんとう」を見てしまう。加瀬亮のなかに存在する「おとこ」の「ほんとう」が加瀬亮を突き破ってあふれてくる(主演男優賞ものだね)。それに向き合う奥野匡の「うそ」も年季が入っていて、とてもおもしろい。
                      (KBCシネマ1、2012年10月07日)



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小川三郎『象とY字路』(2)

2012-10-10 09:33:24 | 詩集
小川三郎『象とY字路』(2)(思潮社、、2012年10月10日発行)

 きのう小川の詩集を読みながら、詩は「誤読」をして、その「誤読」を棄てるときに、詩人と出会えると書いた。そういうことを書きながら、こんなことを書くのは矛盾しているのだが、きょうは「誤読」を書きたい。「誤読」をほどかずに、「誤読」として封印してみたい。
 「賭け」という作品。

人間の住んでいるところは
不思議だな、
とあなたがため息をついて言うから
また同じ説明をした

 この「あなた」とは誰なのか。「人間のすんでいるところは」と書き出しているのは、その感想をもつ「あなた」が人間ではないからだろうか。ふつうに考えるとそうなるけれど、そうとは限らない。自分を客観的(?)にみつめて、つまり対象化して「人間は」と一般名詞で言ってみただけかもしれない。
 そうすると、この1連目は「自問自答」の導入部ということになる。

あれは
住んでいるんじゃないんだよ。
つまり
そこを覚えているだけなんだ。
大体あんな小さなところに
人が住めるわけないじゃないか。
つまりそこに
うまく隠れているわけなんだ。

 この部分は、とてもおもしろい。「住んでいる」というとき、私は「場所」を思う。住むには場所がなくてはならない。ホームレスでさえ、ブルーシートで囲った「場所」を確保して、そこに「住んでいる」。
 ところが、「あなた」ではないもう一人の人間(私=小川と、仮に呼んでおく)は、「住んでいるんじゃない」と「住む」という「動詞」そのものを否定する。
 「あなた」は「ある場所」を指し示し、「住んでいるところ」と言ったが、「私」は「住む」という動詞を否定する。そうすると、その動詞の否定によって「世界」ががらりと転換する。
 それも転換したのかしないのか、気づかないような、ほんとうの瞬時に。

つまり

 小川をまねして言ってしまうと、つまり「つまり」ということばで「説明」するようにみせかけながら説明を拒絶して、説明できない「飛躍」をする。--その説明のできないものをあえて説明すれば。

住んでいるんじゃない→覚えている

 ここに「飛躍」がある。「ところ(場所)」に住んでいるのではなく、覚えている。それも「頭」で覚えているのではなく肉体で覚えている。
 覚えているということは、つかえる、しかも肉体をつかって何かができるということである。だから、

住んでいるんじゃない→隠れている

 「ところ(場所)」は存在するためにあるのではなく、隠れるためにある。しかし、隠れるというのも「存在する」ということではある。--と考えると、ここに「矛盾」があるね。つまり、ここに「思想(ほんとうの肉体)」があるということだ。
 「住む」というのは、いわば「自己主張」である。「私はここにいる」と他人に宣言し、そこから関係をつくっていく。けれど人間の関係はそうした明瞭なものではなく、逆に「隠れる(自分を隠す)」というところからも出発し、見つめなおすことができる。

ほら
カーテンの隙間から
じっとこちらを伺っている目があるだろう。
私らの態度が
気になってしょうがないんだ。
屋根裏から伸びている階段から
とんでもなく低い空へ向かって
人間たちは昇っていく。
家は単にその通り道で
住んでいるように
見えているだけ。

 「隠れる(隠す)」から「見る」「見えている」へとことばが「飛躍」している。そこには「視力」が働く「こと」によって、世界をどのようにな「意味」にも転換(変更)できることの不思議さがある。
 「とんでもなく低い空」というおもしろいことばが、その不思議さを象徴的に語っている。「とんでもなく高い空」というのは、たとえば雲ひとつなく澄み渡り空の天井が特定できない感じだけれど、「とてつもなく低い空」って、どこ? どこからが空? 私たちはどこまでが空か、その高さを想像することはできるが、どこからが空か、その起点を想像することができない。だから「とてつもなく低い空」というものは想像できない。想像できないのに、それがことばになってしまうと、あたかもそれが存在するかのように、そして想像できるかのように錯覚してしまう。
 こういう変な現象は、いつでも起きる。そして、その変な現象のひとつが、先に触れたことがらである。
 「住んでいるところ」を「住んでいるんじゃない」と言いなおすと、「ところ」が消えて「隠れている」という動詞だけの世界に「飛躍」する。それから「隠れる(隠す)」という動詞から「見える」「見えている」へとさらに「飛躍」する。
 「ところ」が消え、「住む」という動詞の「意味」、住む=生きるという動詞、生きるということの「意味」が、ぬるっとにじみでくる。

 この、不思議な形でにじみでてきた「意味」は、人間にどう影響するのだろうか。そのことは、面倒くさいので省略。
 最後の部分がまたおもしろかった。すっ飛ばして、そのことを書いておく。

つまり
どちらが先にここを出ていくのか
私は賭けをしているんだ

 途中をすっとばしたのは、最終連が「つまり」で始まっていることとも関係する。「つまり」は小川にとっては「説明抜き飛躍」の合図である。小川が説明抜きに書いているのだから、そこに私が説明を書き加えてみたって、「誤読」にすぎないし、その「誤読」をもういちどほどいて見せるという面倒は、もうやってみせる必要はないだろうと思うからだ。
 で、何がおもしろかったかというと。
 とても単純な「だじゃれ」のようだが、「賭け」が「影」のように感じられたのである。この詩では「あなた」と「私」が対話しているのだが、それは「私」と「私の影」の対話のように見える。それが最後の「賭け」によって、実は「あなたは影でした」と種明かしされているように見えた、ということである。
 「あなた」は「私の影」というのは、ものすごく単純な「意味」である。この詩はそういう単純な「流通言語」でなはなく「流通意味(?)」に封印して、もういちど最初に引き返し読み直すと、ことばのスピードが一気に加速するかもしれない。




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小川 三郎
思潮社
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小川三郎『象とY字路』

2012-10-09 10:36:39 | 詩集

 詩を読んだとき(ことばを読んだとき)、そこに「書かれていない意味」を感じるときがある。--というのは、正確ではなくて、そこに書かれていることばが日常と違うために、「そこには意味が隠されているのではないか」と探してしまう、ということがよくある。
 たとえば「象」。

象は育ちすぎてしまって
入る小屋がない。

みんながむこうで新しく
大きな小屋を作っているが
出来上がるまでに
象は死んでしまう。

(悪魔がいるのです
この美しい世界には
悪魔がいるのです)

象は自分より
小さな小屋へと
歩いていく。

(誰もが苦しんでいるのです
自分の身体を抱きしめて
私がここにいるのです)

みんながいくらなだめても
象は小屋に入ろうとする。

(悪魔がいるのです)

今朝まで難なく入れていたのに
今日は大きくなりすぎた。

(どんと思い気持ちが
この地球を貫くのです)

今夜きっと象は死んで
誰もその姿を見られない。

 大きくなった象。小屋に入れなくなった象。その象のために新しい小屋を作っている。それを見ながら、象は別なことを考えている。(悪魔がいるのです)と。
 このとき、象と小屋と悪魔の関係は?
 はっきりわからない。だいたい、それが「関係」であるかどうかも怪しいのだけれど、何らかの関係、つまり結びつきがあると考えてしまう。
 「意味」は、何かしらかけ離れたもの(?)を結びつけるという運動のなかにある。結びつけるという「動詞」のなかにある。そして、その「関係」だけを、つまり「動詞」だけを取り出すというのはとてもむずかしい。
 で、こういうとき、人はどうするか。
 人は、ではなく、私はどうするか、というべきか。
 とても簡単である。
 「象」は何かの象徴である。「小屋」も象徴である。象徴であるということは、実は、象は象ではなく、小屋は小屋ではないということである。
 たとえば象は「こころ」を象と言い換えたものである。何かのために巨大に膨れ上がった「こころ」。たとえば怒りのために、嫉妬のために膨れ上がったこころ。それは、いままでこころが入っていた「小屋」、つまり「肉体」のなかには入りきれない。もっと別の「肉体」が必要だ。でも、そんなものはつくれない。人は「こっちの小屋に入ればいい」と大きいものをつくってみせる。(まあ、これは、怒りの鎮め方を教えてくれる、というようなことかもしれない。)でも、こころは、昔のままの、いままでの肉体に帰っていきたい。それが自分の「すみか」だから……。
 ああ、なんてことばは便利なのだろう。なんて空想は便利なのだろう、と私はときどき思う。こんなふうに書いてしまうと、そこに、ほんとうに「意味」が生まれてくる。こういうことは、ほんとうに簡単にできてしまう。
 でもねえ、これが問題なのだ。この「誤読」が実はやっかいなのだ。
 このとき私は小川のことばを読んでいるふりをしながら、小川のことばを遠ざけて、自分の都合にあわせて小川のことばを利用しているにすぎない。
 これでは詩を読んだことにはならない。
 象をこころを象徴したものである、ととらえてはだめなのだ。象は象のまま、そこに実感できないとだめなのだ。象の耳や、鼻の皺や、太い足のさきっぽを飾る爪、それから肛門を隠したりみせたたするしっぽ--そういうものが見えないといけない。小さくなってしまった小屋の入り口も見えないといけない。象はこころの象徴、という具合に考えてしまった瞬間から、そういうものは見えなくなる。
 象徴詩には「もの」ではなく「関係」が書かれている。関係こそが「世界」である、というような、わかったようなことを言ったって何にもならない。

 これは、そして、書いている詩人にとっても重要な問題である。
 象を小川はいつまで見ていたのだろうか。大きくなりすぎた象そのものを、象徴ではなく、生き物、動物として見ていたのだろうか。
 これが、実は、よくわからない。
 よくわからないけれど。
 しかし。

(どんと思い気持ちが
この地球を貫くのです)

今夜きっと象は死んで
誰もその姿を見られない。

 この最後の部分は、あ、小川は象をもう一度見ている。見えている、ということが感じられる。象は、こころの象徴ではなく、象そのものである、と感じる。
 こころは、象にはならず、

(どんと思い気持ちが
この地球を貫くのです)

 と「気持ち」になって、別に存在するからである。象徴であることでは満足できずに、こころが象を突き破ってしまう。そうすると、象は象徴であることの内部から(こんな言い方しか私にはできないが)、象そのものを破ってしまって自己主張してしまう。そのとき、見えないはずの「こころ」というものが、なぜか、見えたような感じがする。
 「重い(おもさ)」と「地球を貫く」の「貫く」という動詞、動きの中に、「こころ」が「こと」になる瞬間があり、そこに瞬間的に象があらわれてくる。
 これは「錯覚」なのかもしれないが、その「錯覚」にぐいっと私は引きずり込まれる。ブラックホールに引き込まれるようなものである。
 象が象であることを止めて、気持ちになって、象徴である象を突き破って噴出するというのは、何か矛盾した言い方だが、矛盾しているからこそ、そこにブラックホールのようなものを感じ、それを「真実」だと感じる。
 で、その象は、もう象ではないのだから

今夜きっと象は死んで
誰もその姿を見られない。

 ということになる。
 この「見る」「見られない」は「意味」ではないのだ。「意味」にならない、何かなのだ。名詞では定着できない「こと」、運動そのものが引き込む「異次元」なのだ。
 もし、この詩に「意味」があるとすれば、つまり単なる「論理」ではなく「肉体になってしまった思想」というものがあるとすれば、この最後の瞬間にある。
 象ということばで書きはじめて、小川は、その象ではあらわせない何かにかわってしまった。その「かわる」という「こと」のなかに思想(肉体)があるのだけれど。
 これは、書けない。私のことばでは追いついてゆけない。
 で、こういうとき、どうするか。ただ読み返す。読み返して、そのことばが私の肉体のなかで「意味」にならないまま落ち着くのを待つしかない。
 詩は「意味」を棄てさせてくれることばの運動である。そして「意味」を棄てるためには、最初に書いたように、読者は自分自身で「意味」をつくってみる必要がある。「誤読」してみる必要がある。「誤読」して、「誤読」では追いつけないものにぶつかり、そこから自分の「誤読」をほどいていく。
 そうすると、ある瞬間に、小川と出合える、出合ったという気持ちになれる。
 これは錯覚にすぎないかもしれないけれど、私は、そういう瞬間のために詩を読んでいる。



象とY字路
小川 三郎
思潮社
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永井章子『表象』

2012-10-08 09:59:27 | 詩集
永井章子『表象』(編集工房ノア、2012年09月01日発行)

 永井章子『表象』にはとても驚かされた。初めて読むわけではないと思うが、あ、読み落としていた、という気持ちにさせられる。ていねいに向き合ってこなかったなあ、申し訳ないことをしたなあ、と反省してしまった。
 「メニエル症候群」にまずびっくりした。

主語を 私にして
歩いていくと
道はいつも行き止まりになる
そろそろ
私以外の 主語を
と思いながら
ほっておいたが もう
限界がきたのだろうか
私 という文字を見て
うえを見上げると
目がまわるようになった

 「主語」ということばのつかい方がおもしろい。「主語を 私にして」というのは「自意識過剰」の状態のことなのだろうか。自分のことをしっかり意識してということなのだろうか。--私はそんなふうに「誤読」する。
 いや、「誤読」を意識する間もなく、「誤読」にさそわれる。永井が何を書いているかは関係なくなる。永井のことばを追いかけることで、私は勝手に何かを感じたくなる。
 「主語を 私にして」というのが自意識過剰の状態だとしたら、「私以外の 主語」を思い描くことは自意識を棄てるということかもしれない。しかし、自意識を棄てるというのは、それ自体が自意識だろう。矛盾だね。あるいは、自己撞着、ということなのか。
 まあ、それ以上は考えない。
 永井のことばは、奇妙な具合に「開かれている」。窮屈ではない。自意識のことを書いているようであっても、それが奇妙に閉ざされていない。それがとても気持ちがいい。

 私は詩について語るとき、一篇の詩を何度も何度もつつきまわして考えることが多いのだが、というか、書きはじめると、ついついそんなふうに「誤読」の深みにはまっていくのだが、読むときは必ずしも、そこにある行をつつきまわしているわけではない。さーっと読んでしまう。だから読み落としも多いのだが、この永井の詩集も、あっと言う間に読んでしまった。
 そして、読みながら私は、「私以外の主語で考えると」ということばに重なり合うことばを次々に拾い上げた。

最終は何時ですか
と聞こうとしたのに
何を待っているんですか とまた違うことを
                      (「精密検査を受けてください」)

 「以外」は「違う」ということに似ている。「何を待っているんですか とまた違うことを」は「何を待っているんですか とまた思っていることとは違うことを」、つまり「思っていること以外のことを」聞いた、ということになりはしない。
 そして、その「違うこと(以外のこと)」は完全に違っているわけでもない。「何時ですか」「何を待っているのですか」というふたつの質問のなかには「何」という共通項がある。共通でくくれる何かがある。
 「以外」も「違う」も、何かしら「共通のこと」を含んでいる。
 とても変な印象だが、「私以外の主語」とういこき、そこには「私以外」を判断するために「私」が含まれてしまう。「私」をどこかで意識しないことには「私以外」もほんとうにそれが「私以外」であるかどうかわからない。
 「違う」は「同じ」を含んでいる。--これは「矛盾」だけれど、矛盾だからこそ、そこに思想がある。

以前と同じ感触が甦ったのです てっぺんに来た時 確かにここに来たことがあると確信しました
                             (「頂上の難破船」)

 「以前と同じ感触」。これは「いま」と「以前」が違うことを前提としている。「違う」が「同じ」をどこかで含んでいるから成り立つように、「同じ」は「違う」をどこかにかかえこんでいないと成り立たない。
 「違う」と「同じ」のあいだに「ほんとう」がある--というのは奇妙なことだが、永井が感じている「ほんとう」は「違う」と「同じ」のあいだ、「同じ」と「違う」ということばが動く瞬間にある。
 その言い方を借りて「誤読」をさらに進めれば、「私という主語」と「私以外の主語」の「あいだ」に「ほんとうのわたし」が存在するということになる。
 変だねえ。
 なぜ、「主語としての私」だけではないのか。それだけが独立して強固に存在することができないのか。--まあ、これは、わからない。わからないけれど、そのわからないなかに「わかっている」ことがある。どうも「ほんとうの私」は「主語としての私」と「私以外の主語」のあいだで、どうにもことばにならないものとなって動いている--それだけははっきりしている。

 あ、これでは、何もはっきりしていないか。
 でも、はっきりしているのだ。この変な感じを永井は正確にことばにしている。

自分の気持ちを自分に説明する言葉が見つけ出せない
                             (「頂上の難破船」)

 そうか。詩を書くのは、「自分の気持ちを自分に説明する言葉が見つけ出せない」からだね。「自分の気持ち」、それがあるのは「わかる」。けれど、それが「どんな気持ちなのか」ことばにできないので「わからない」としか言えない。
 この矛盾。そこに「ほんとう」がある。
 「ほんとう」ということばは、同じ「頂上の難破船」という詩のなかで「ほんとうのことろ そんな友がいたのかどうか曖昧です」という形でつかわれているのだが、ね、このつかい方も変であって、そのくせ、それ以外には考えられない「実感」に満ちたことばでしょ?
 「ほんとう」は「あいまい」。確かなのは「あいまい」だけ。

考えるとおかしな話だが 普段は見なれているせいで 特に不思議なこととも思わないで過ごしている
                           (「N門はどこですか」)

 論理的に考えようとすると、「おかしな話」である。しかし、そういうことを私たちは「特に不思議なこととも思わないで過ごしている」。「私」を「主語」にしながら「私以外の主語」を考えるというむちゃなことをやっている。「私」と「私以外」の主語のあいだにある「同じ」と「違う」をみつめながら、「あいまい」な「ほんとう」をつかんでいる。でも、それはことばにならない。実感しているのに他人に(誰かに)「わかる」形でことばを動かせない。

 この詩集はおもしろすぎる。哲学的すぎる。哲学の装いをしていないが、それは永井が哲学をしているからであって、ほんとうに哲学をすれば「装い」をしている暇などなくなるのだ。

いつも
ことばが先をいき
思いが
追いかける
追いついてみると
少し違う
何か違う
そんなずれが揺れている
                               (「出会い」)

 「ほんとう」が存在する「あいだ」、それは「ずれ」なのか。「ずれ」と永井は呼んでいる。「追いかける/追いついてみると」というとき、そこに「あいだ」は消えるのだけれど「ずれ」がある。
 秋になって、続々と詩集が出版されている。読んでも読んでも追いかつないが、この詩集はことしいちばんの詩集である。
 おもしろすぎて、これ以上深入りすると、ほかの詩集が読めなくなってしまう。
 永井には申し訳ないが、感想を書くのはきょうかぎり。
 
 この「日記」を読んだひとにはぜひ読んでもらいたので、発行所の情報を書いておく。
株式会社 編集工房ノア
〒531-0071 大阪市北区中津3-17-5
電話(06)6373-3641
FAX (06)6373-3462




表象―永井章子詩集
永井章子
編集工房ノア
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トニー・ギルロイ監督「ボーン・レガシー」、オリヴィエ・マルシャル監督「そして友よ、静かに死ね」

2012-10-07 10:38:44 | 映画
「ボーン・レガシー」(★★)
監督 トニー・ギルロイ 出演 ジェレミー・レナー、レイチェル・ワイズ、エドワード・ノートン
「そして友よ、静かに死ね」(★★★)
監督 オリヴィエ・マルシャル 出演 ジェラール・ランヴァン、チェッキー・カリョ 、ダニエル・デュバル

 2本の映画を見終わって感じるのは、「顔」というものはこんなに違うのか、ということである。
 「ボーン・レガシー」。ジェレミー・レナーはたいへんな童顔である。顔が短く、丸いということが影響しているかもしれないが、ともかく幼く、つるりとした印象がある。で、彼が豪腕のCIA要員というのだが、どうも私にはそんなふうに感じられないのである。「ハード・ロッカー」のときもそうだったが、なんというか「緊迫感」がない。「緊迫感」というのはきっとそこに危険があるということではなく、危険を認識する能力のことなのである。子どもは、まあ、何が危険か知らない。だから、どんなときでも緊迫感がない。見ている観客は、あ、危険なシーンだと思うかもしれないが、役者の肉体から緊迫感がつたわってこない。こういう顔は、この手の映画には向かないなあ、と私は感じる。
 特にそう感じたのが、ジェレミー・レナーがウィルスによって熱を出しているシーン。病院にいる。顔にはかさぶたというか、傷というか、まあ、汚れが浮き出ていて、たいへんな病気ということはわからないではない。けれど。童顔であるために、ジェレミー・レナーが「かわいそう」とは思っても、ぜんぜん心配にならない。だって、子どもって、どんな病気でも平気で回復してしまうでしょ? そんな感じなのだ。肉体の内部まで病気が冒しているという感じがしないなあ。つるんとした肌、赤ん坊みたいな肌が、ウィルスであらされている、苦しんでいる--というのは、さっき書いたが「かわいそう」ではある。で、この「かわいそう」は女性観客の母性本能を刺激するかもしれない。「かわいそう」から始まるこころの動きが、不思議な「一体感」へと変わっていく。
 ほら、レイチェル・ワイズが単に被害者ではなく、いっしょに闘ってしまうところが、なんともいえずおもしろいでしょ? 現実にはこんなことはないなあ。映画だから、もちろん現実的である必要はないんだけれど。いちばんの見せ場であるオートバイにのって逃げるシーン。最後にレイチェル・ワイズが追ってくる殺し屋をバイクの後ろにしがみつきながら蹴る。闘っているのはレイチェル・ワイズ。逃げているのはジェレミー・レナー。昔のスパイ映画なら、ここは女に運転させて、男が闘うという場面だねえ。
 まあ、この映画では逃げるときの運転技術の方に力点があるからジェレミー・レナーが運転するのだという見方もあるだろうけれど、そういうときはそういうときで女は後ろからしがみついているだけ、男はそういう「負」をかかえながら敵と戦うということろに昔の映画の「男の責任」というものがあったんだけれどね。
 まあ、ジェンダーなんかはもうとっくに消え去ってしまっているから、これはこれでいいんだろうけれどね。
 で、主役がこういう「童顔」なので、悪役もとってもかわっている。エドワード・ノートン。この顔も、いわゆる「男顔」ではない。半透明な感じがあって、その半分透明であることを利用して他人を引き込むタイプ、だますタイプだね。これもまあ、昔でいえば「女殺し」のタイプだなあ。
 というわけで、これは、こんなことを書くと女性差別と叱られるかもしれないが、女性向けの「ボーン」シリーズだね。

 「そして友よ、静かに死ね」。こちらは昔ながらの「男の世界」。そして顔はというと、とっても老けている。皺が深く顔に刻み込まれ、髪も白いものが目立つ。簡単に言うと顔が「過去」を持っている。そしてその「過去」には共通項がある。
 その「過去」の共通項を観客の男が(たとえば私が)持っているわけではないが、登場人物が何人もいて、彼らがそれを共有していると、なんとなく同じ「過去」が自分のなかにもあるように感じてしまう。
 「ボーン・レガシー」が、いわば観客の持っていない「過去」、持っていたけれどもなくしてしまった「過去」、つまり純真で回復力のある力、回復力があるのだけれど守ってやらないと傷ついてしまういのちを前面に出してきて「母性本能」を刺激するのとは、まったく違うね。
 男は「母性本能(父性本能?)」が十分ではなく、もっと甘えん坊で、付和雷同型であるから、童顔には共感せずに、「頑固な過去」にあこがれてしまう。もしかしたら自分もそんなふうに「未来」を生きることができるかもしれない。顔に刻まれた「過去」を見ながら、自分の「過去」と重ねるのではなくて、自分の「未来」(可能性)と重ねる。
 ばかだねえ。ほんとうに。
 まあ、そういうばかを相手に、ていねいにていねいにつくられた映画だ。
 映画の細部のていねいさが「ボーン」とはまったく違う。その典型が、ジェラール・ランヴァンがギリシャ人を殺しにゆくシーン。その直前のシーン。安全剃刀でクレジットカードを削っている? 何してる? 何のために? クレジットカードのなかに何か隠している? 実はクレジットカードのなかに安全剃刀を仕込んでいる。凶器をつくっている。悪党の家に行くのだから当然ボディーチェックは受ける。銃は持って行っても取り上げられることがわかっている。でも、ポケットにいれたクレジットカードがまさか安全剃刀を仕込んだ凶器とは思わない。サバイバルナイフならボディーチェックで見つけ出せるが、クレジットカードとはねえ。
 ジェラール・ランヴァンがギリシャ人の首根っこを押さえつけて、頸動脈を切った瞬間、直前のクレジットカードを削っているシーンが私の頭の中でフラッシュバックし、「やられた」と思いました。そうか「過去」はこんな具合につくるのか……。
 この映画では、過去のシーンがフラッシュバックで何度も描かれるが(そのシーンは傷だらけのフィルムという感じがして、とてもうれしい)、観客の頭の中で必然的に起きるフラッシュバックは映画のなかでは再現しない。これが、とてもにくい。いやあ、これはいいなあ、と思う。
 「過去」の作り方、つまり「生き方」を、この映画は観客に見せるのだけれど、そうだねえ、これが「男の映画」なんだなあ、まあ、思った。こういう映画は古いといってしまえば古いのだけれど、いいじゃないか、古くあることを目指しているんだから。
          (「ボーン・レガシー」2012年09月30日、天神東宝シネマ3)
        (「そして友よ、静かに死ね」2012年09月04日、KBCシネマ2)





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池井昌樹『明星』(2)

2012-10-06 11:08:38 | 詩集
池井昌樹『明星』(2)(思潮社、2012年10月01日発行)

 池井昌樹『明星』にはいつもの、ひらがなの「定型詩」のほかに「散文詩」がある。
 散文詩といってもエッセイとどう違うのか。あるいは志賀直哉の短編とどうちがうのか。たぶん区別はない。区別したってしようがない。ことばを読むとき、それが詩集に入っているか、エッセイ集に入っているか、短編集に入っているかという「流通」の都合があるだけだろう。
 で、その散文詩。「Help! 」は中学生のころの思い出を描いている。夏の夜、隣家の屋根の上で男が大声で歌っている。「うるさい」とまわりが騒ぎだし、その男の父親らしい影が男を家のなかに連れ戻すということがことがあった。
 そのなかほど。

半世紀近く昔のその夜を私は今も昨夜のことのようにありありと思い出す。

 これはなんでもない感想、感慨のように読める。実際に、読んでしまう。こういうことはだれにでもあることだろう。「いま/ここ」にいるのに、遠い一瞬が「いま/ここ」のすぐそばに「ありあり」と思い出される。
 なぜ、この行を書いたのかなあ。なぜ、こんなふうにだれもが言うことをだれもがいう具合に、つまり「流通言語」で書いたのかなあ。--ということを考えると、たぶん、その答えにつまってしまう。
 なくていいんじゃない? この行は、いらないんじゃない?
 前後を含めて引用すると、それがさらにわかると思う。

うるさいぞッ。高校受験を控えた弟(私のことだ)も変声期のボーイソプラノで叫んでは隠れた。やがて明かりの中から別の人影が現れ、父親だったのだろう、有頂天な手を取りしきりに屋内へ連れ戻そうとする様子が見えた。半世紀近く昔のその夜を私は今も昨夜のことのようにありありと思い出す。あれから姉は第一志望の国立大学へ進学し、弟はクラスで唯一人公立高校の受験に落第した。

 男が屋根の上で歌を歌っていたのは夏の夜。姉と弟(池井)が大学に合格し、高校に落第したのは、その翌年の春。そこに「時間」があるのだけれど、なぜ、そこに「いま」がわりこみ「半世紀近く昔のその夜を私は今も昨夜のことのようにありありと思い出す。」という文章が必要なのか、と考えはじめると、説明する「論理」がない。見つからない。論理的に考えると、そこにそういう行が必要であるという理由がないのに、しかし、私たちはつまずかずに、さっと読んでしまう。自然に読んでしまう。
 これは変だよねえ。
 変なのだけれど、しかし、変じゃないよね。言い換えると、私が「変だ」と言っているから、そのことばが「変」に見えてくるだけで、たぶん、実際にはだれもこんなところにつまずかない。読みとばしてしまう。
 この「読みとばし」--これは、私の「感覚の意見」では、この瞬間、「半世紀近く昔のその夜を私は今も昨夜のことのようにありありと思い出す。」という行為が、読者と池井とのあいだで「共有」されてしまうというこことだと思う。
 たとえば「変声期前のボーイソプラノ」というのがほんとうかどうか知らないが、「そうか、池井は中学三年でまだ変声期ではなかったのか。私は中学に入ると同時に変声期になったなあ」、「池井は高校受験に失敗したのか。私は公立高校に受かったけれど」という具合に、「池井」と「私」が「別人」として存在するために書かれている。そこでは「池井の体験」をそっくりそのまま読者は「共有」しない。池井は自分とは違うということ確認する。
 でも「半世紀近く昔のその夜を私は今も昨夜のことのようにありありと思い出す。」という文にふれるとき、「半世紀前の夜」の出来事は池井の体験したものであって、読者(私)が体験したものではないにもかかわらず、「ありありと思い出す」という「行為」そのものを、まるで「池井の体験」であって「私の体験」ではない、という具合に、瞬間的には思わない。
 何かを「ありありと思い出す」という「行為」そのものの「時間」というか、動詞がふ含んでしまう「こと」のようなものが、私をすっぽり飲みこんで、「こと」が「共有」されるのだ。 

 私の書いていることは、かなり面倒くさいことであり、説明しようとすればややこしくなるだけなのだが。
 ええっと。
 私はよく「キイワード」ということばをつかう。そして「キイワード」というのは、書いている本人にとってはわかりきっていることなので、たいていは書かれない、という具合に説明する。その「キイワード」はいわば筆者の「肉体」である。「肉体」であるから「思想」である、と考えるのだが。
 この詩の場合、「キイワード」は「ありありと思い出す」なのである。
 「キイワード」が「キイワード」であるためには、それがほんとうは池井個人の肉体にだけ深くからんでいるという「特徴」をもっていないといけない。
 けれど、この詩の場合、「ありありと思い出す」には、そういう「特徴」がない。だれでも、ある瞬間を「ありありと思い出す」ことがあり、そういうことをしばしば語る。
 だから、めんどうくさい。
 なぜ、このことばが「キイワード」なのか、それを説明するのがめんどうくさいし、また他人と楽々と「きょうゆう」されてしまうものが、なぜ池井の詩の特徴なのか、ということを説明するのはもっと面倒くさい。
 ややこしい。

 で、飛躍して言ってしまうと。(この「飛躍」も、私が最近つかう「手」のひとつなのだが……。)
 池井の「キイワード」は「だれでもない」ということ。所有権がないということ。所有権は池井を超える何ものかがもっていて、その何ものかはだれにでも開かれているものなので、読者はそれを「キイワード」とは気がつかない。
 言い換えると、それは「私の知っていること」(私の感じていること、私の体験したこと)と、簡単に「誤読」してしまう。
 この「誤読」を「共感」とふつうはいうのだけれど。
 で、池井の詩は何も新しいことなんか書いていない。古くさい思い出ばかり書いている。ことばの冒険はどこにもない、「現代詩ではない」というような批判もそこから成り立ちもするのだけれど。
 でもね、違うんですよ。
 「共感」という「誤読」は、あまり信じてはいけない。「共感」しているのではなく、それは自分の感性というか、自分のことばを封印して、池井のことばの上っ面をなぞって「わかった」と思い込んでいるだけ。錯覚なのだと私は思う。

 あの男はどうなっただろうか。風の便りで、地元で働いていることを知った。また、あのときの歌はビートルズの歌だった(たぶん「ヘルプ!」)ということをことを書いたそのあと、詩の最後の部分。

あの歌声の陰で消えていった様々なも--風鈴の音や七夕飾りや一斉に起つ蛙声や潮の香、パン屋や本屋や玩具屋や、その明るく綺麗な興奮(ときめき)を何時までも、何時までも忘れないでいる。胎内回帰願望だろうか、それとも昭和の遺物だろうか。誰から何と言われようと、甍(いらか)の波の何処かしら、金銀砂子を唱えながら、夜になってもまだ帰らない、少年の手を引きにくるもう誰もなく。

 半世紀前の昭和の記憶、風鈴の音、蛙の声、玩具屋--それといっしょにある自分の「綺麗な興奮」。それは、池井と同年代の人間(つまり私のことだが)には、そのまま「なつかしい」という「共感」にすりかわる。同時に「なつかしいけれど、そんなことは知っている」ということにもなる。知っているからなつかしいのだが。
 でも、最後の最後の、

夜になってもまだ帰らない、少年の手を引きにくるもう誰もなく。

 これは、どう? 「共感」できる? というか、わかる?
 「夜になってもまだ帰らない、少年」は池井のこと? なぜ「帰らない」と「少年」野あいだに読点「、」がある? その「少年の手を引きにくる誰(か)」って誰?
 ふいに、池井が遠くなるでしょ?
 「ありありと思い出す」という池井と、この読点で区切られた少年、さらにその少年の手を引く「誰(か)」の関係が、突然複雑になるでしょ?
 「夜になっても帰らない少年」ならば、それはまあ池井の子ども時代思い出にすぎない。中学三年になって、その少年が手を引きにくる誰かを頼りにするというのは、変だぞ、くらいの印象が生まれるだけである。
 問題は、実は、読点「、」。
 この読点「、」をこそ、池井は「ありありと思い出す」のである。
 「まだ帰らない少年」という具合に、「名詞」を修飾するののではなく、ここでは「まだ帰らない」という「こと」、動詞を含んだことがらが独立して「ありあり」と思い出されている。そして、その「こと」を思い出したあとで、池井の肉体のなかで「誰かが手を引きにくる」「こと」が重ね合わせられている。
 ふたつの「こと」が同時に存在する。その「こと」は繰り返すと「動詞」を含んでいる。「動詞」というか、動作というか、肉体ができる運動は基本的にひとつであり、ふたつの動詞をいっしょにすることは、肉体には、一種の「むり」である。「聞きながら勉強する」「歩きながら話す」というふたつの動詞はどうか、という意見は当然あるだろうけれど、それは並列というものであり、歩く足が話すわけではない。
 「帰らない」という「こと」、手を「引きにくる」という「こと」。その「こと」の主語は、別々である。別々であるが、それが「つながっている」という「こと」を池井は「ありあり」と感じている。
 で、この「ありあり」を強調するために、実は、途中の「ありありと思い出す」という余分なことばがあったのだ。
 池井がほんとうに「ありありと思い出す」、「ありありと感じている」のは、15歳の夏という「時間」ではなく、そういう世界が存在するときに、その世界のなかでそれぞれの「帰らない」こころを、そのこころの手を引いている何か「いる」という「こと」なのだ。



 別な形の「補足」を考えてみる。
 あるところに、次のような文章を書いた。

 「現代詩」という、わかったようなわからないようなことばの冒険を読んでいると、どんなことばでも平気になる--かというと、そうではない。私はたとえば、次のようなことばにつまずいてしまう。
 読売新聞朝刊の「編集手帳」。大津の「いじめ」は「暴行」である。広島の「虐待」も「虐待」を超えていると指摘したあと。

「しつけ」だったと、母親は供述している。何を言う。日本製の漢字(国字)で「しつけ」は「躾」と書く。わが子の美しい身体をアザだらけにする「しつけ」があってたまるものか。

 「躾」は「身」に「美」と書く。そのことを踏まえて書いているのだが、このときの「身」って「身体」のこと? からだのこと? 
 私は、そこにつまずく。
 私の印象ではどうも違う。「しつけ」によって「身体」が美しくなるわけではない、と思う。たしかに「しつけ」のいい人は、その姿が美しくみえるが、そのときの「姿」は身体のようであって、そうではないと思う。「身体」の内部がにじみでてきた「姿」であって、「肉体」とは違うなあ。
 「躾」という文字を発明した人はだれか知らないけれど、このときの「身」は、たとえば「修身」(好きなことばではないけれど)や「立身」(これも好きなことばではないけれど)というときの「身」ではないのだろうか。
 「身体」というよりも「生き方」。
 「躾」は「生き方」を「美しくするもの」だと思う。「しつけ」が完成されたとき(?)、そこに「仁」とか「徳」とか、あるいは「道」というものが「姿」をあらわすのだろう。
 それは「身体」とは無関係である。

 ことばは、「みかけ」にひきずられてだまされることがある。
 「躾」の「身」を「肉体」と思うのは、みかけに「共感」しているからである。
 でも、ことばは、そんな具合には動いてはいないのである。
 この文を書いたときは思い浮かばなかったが、「躾」の「身」は、「身を入れる」というときの「身」と考えると、きっと「肉体」ではないということがはっきりする。
 「身を入れて仕事をしろ」という具合に「身」はつかわれるが、このときの「身」は「肉体」ではないね。仕事がどんなものであるにしろ、身体はそれを外側から動かすものである。身体は「仕事」のなかには入ってはいけない。「仕事」のなかに入っていくのは、「こころ」「気持ち」「意志」というようなものだ。
 「躾」はしたがって「こころ」を美しくするもの、「気持ち」を美しくするもの、「意志」を美しくするもの、ということになるだろう。
 「身分」というのは「肉体の位置」(どういう関係の位置に「肉体」があるか)ではなく、「身をわきまえる」というところと、深いところでつながっているのだと思う。

 「表面的共感」という「誤読」ではなく、「誤読」そのものの力を借りて、「共感」の深みに動いている「動詞」に触れないと、錯覚が上滑りする、と私は思っている。(「感覚の意見」です。)



明星
池井 昌樹
思潮社
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陶山エリ「診察室」

2012-10-05 10:18:08 | 現代詩講座
陶山エリ「診察室」(現代詩講座@ リードカフェ、2012年09月26日)

 「あの」ということばを10回以上含む詩を書く--がテーマ。好評だったのが、陶山エリ「診察室」。

あの舟に揺られているのは白い肌のひとたちだ
潮騒の重さを許しているあのひとはあなたかもしれない
半透明に詫びて
あのひとは私にだけ見えているのでしょうか
知らない夢に紛れ込んでしまったらしい
もう、舟を流してはいけないと
あなたかもしれないあのひとは
祈りにしか聞こえない詩を書いては朗読を止めない
祈りにしか映らない深い瞬きをしている私かもしれない舟に乗らなかったあの女の
黒目に快楽の亡骸が渡っていく
波音がうるさく続いて
午睡にようやく気づく、先生、壁に架かっているあの絵
パウル・クレーの「忘れっぽい天使」ですね

手首に海路を見つけて以来
あの男とは会っていないのですが
もうあの日からその名前さえも拒むことを決め、あのひとと呼んでいますが
28日に一度くらい、あのひとが夢に現れるのです
不確かな約束だけを垣間見せるあのひとのあの背中、あの青い喉ぼとけに近づくと予知夢に為りかねないので
あの夢の字幕に傷をつけ
あの男から言語を奪い、あのひとに無風と鈍痛を与えます
あのてこのてでわたしをすくおうと企みますが
昨日、前髪を真っ直ぐに切り揃えたのですが
悲しみはそれほどでもないのです
海路があのときのままなので疑っているのです

 受講生の感想は、
 「痛みを感じさせる。」
 「診察室の、医者と患者の人間関係を心象風景として感じさせる。たどりつけない自分が出てくる。」
 「リストカットのことを書いているということがはっきりわかる。」
 「哀しい。上手に書けている。」
 「あの青い喉ぼとけ、とかパウル・クレーの絵とか、ことばが印象的。」
 「半透明を詫びて、あの夢の字幕に傷をつけ、というのもいい。とてもかっこいい。」 「28日に一度くらい、という表現でおんなをあらわしているのもいい。」
 「あのてこのてですくおうと企みますが、は先生がすくおうとしているのかな?」
 「あれ、それは違うんじゃない。」
陶山「わたし、です。」

 そういうやりとりがあって、全体の印象としては、この詩の世界がリストカットをしたおんなのことを書いているということが、だいたい「共有」されていることがわかった。そして、この詩が好評だった理由は、私のことばで言うと「情報量」が多い。もっと簡単に言うと、ことばが多い。
 だから、
 「この詩をすっきりさせたらどうなるかなあ。すてきな詩になると思う。」
 という感想も聞こえた。
 ことばが多すぎて、イメージが散らばってしまう、と感じたのだ。
 でもこの感想は少数派で、その感想をもらしたひとさえ「青い喉ぼとけ」「パウル・クレーの「忘れっぽい天使」」はとてもいい、と言う。気に入ったことばがあるけれど、なんとなくそれが多すぎてついていくのがたいへんということかもしれない。
 「半透明に詫びて、夢の字幕に傷をつけ、もかっこいいわねえ」と別の受講生。
 どこのこばがかっこいいかはそれぞれのひとの好みと関係してくるのだけれど、ともかく、この詩にはかっこいいことばが多いというのは受講生の共通した認識だった。
 で、そのことば--それぞれの単語としてはわかるけれど、では、実際にはどういうこと? とそのときは質問しなかったが、そういう質問をすると、たぶんすぐにはどの受講生も答えることができないと思う。自分のことばで言いなおすことができないと思う。
 ここに、詩の、不思議な秘密がある。
 このとき読者のなかに何が起きているか。
 読者はことばを意味ではなくイメージをイメージのまま、意味以前として受け止めている。そういうイメージがあるということ、そういうものをことばで提出できるということに驚いている。「意味以前」であるから、それは別のことばで言いなおすことはできないのはあたりまえのことなのだが、「言いなおしてみて」と質問すると、そのとき初めて、あ、意味を考えないといけないのかとつまずく。意味がわからない、というわけでもない。たとえば「28日に一度くらい」ということばからは「生理、月のめぐり」ということを瞬間的に把握する。「言い換え」なのに、それがすぐに肉体につたわることばもある。わかるものと、わからないものがあるということが、とまどいの原因である。わからないのに、ひかれてしまうということが原因である。
 その一方で、パウル・クレーの「忘れっぽい天使」という固有名詞(言い換え不能な全絶対的なことば、「正解」のようなものも、読者をひきつける。私は、この絵を知らない。見ているかもしれないが、タイトルを意識したことはない。架空の絵かもしれない。どこがほんとうで、どこからが架空、あるいはイメージなのか、実ははっきりしないまま、読んでいると、ことばが輪郭を持ったまま流動するのがわかる。そのくっきりした輪郭と、はっきりしない動きに肉体が揺さぶられる。
 そういうことが、この詩ではしきりにおきる。
 書き出しの「あの舟」の「舟」ひとつにしろ、実は明確な描写はない。それなのに「あの」という特定のものが指し示される。すべては「実在」のものであるようだが、比喩なのかもしれない。その区別がつかない。そして、それが比喩であったとしても、その比喩には「あの」という特定の何かがついてまわっている。そしてそのとき、その「何かがついてまわっている」というか、そこには作者だけの何かがあるという感じ--これが、たぶん、詩のことばに近づいていくときのいちばん重要なポイントだと思う。
 「何かがある」そのことがわかる。その「何か」とは何か。なぜ、何かがあるとわかるのか。たぶん、読者のなかにも、その「何か」と重なる体験があるからだ。その体験は「意味」にはなっていない。けれど、体験その物はある。なぜ意味になっていないか--意味するほど考えなかったといういことかもしれないし、意味にして考えることをしたくなかったということかもしれない。でも、それはたしかに「あった」し、いまも「ある」。だから、それを感じとってしまう。
 それは、どこにあらわれているだろうか。

<質問>今回のテーマは「あの」を10回以上つかって詩を書くということだったのだけれど、「あの」に目を向けると、何か、気づかない?
<受講生1>「あなた」が「あの男」「あのひと」と、つかいわけられている。
<受講生2>「あの女」ということばも出てくる。これは、「わたし」ですね。
<受講生3>「その名前」と、「その」ということばも出てくる。
<質問>でも、「この」は出てこないね。「あの」「その」「この」は、どう違うだろう。
<受講生4>「あの」は遠くて、「この」は近い。「その」は中間?
<質問>距離が違う。では「あの男」と「あのひと」では?
<受講生5>感じが違う。「あの男」の方が客観的というか、離れている。
<受講生3>「あの男」と書いて「あのひと」と読ませるやり方もあるね。

 そういうことを話していると、最初に話していた「半透明に詫びて」とか「夢の字幕に傷をつけ」「青い喉ぼとけ」というものが何であるにしろ、それはあまり問題ではなく(?)、「あのひと」「あの男」「あなた」、「わたし」「あの女」、「あの日」というしかない一日かぎりの日と「28日に一度」という繰り返される「日(この日)」という距離のある時間・空間がこの詩では、瞬間瞬間にぱっと浮かんではぱっと消えていくという感じでつながっていることがわかる。
 私たちは、実は、その何か自分にとって忘れることのできない特定の「あの(あれ)」を繰り返し繰り返し「いま/ここ」に呼び出しながら(思い出しながら)生きている。「あの」は「この」から「遠い」。「その」からも「遠い」。--それは、なんというか、意識の時空間の方便であって、ほんとうは違うね。「あの日」「あの男」「あのひと」、そして「あの女」は、それを思うとき、実は「いま/ここ」にいる「わたし」の肉体とはぜんぜん離れていない。距離がない。密着しているということがわかる。
 人間は、何かを「あの」という具合に遠ざけることはできない。遠ざけたつもりでも「あの」ということばといっしょに近づいてきてしまう。--これは矛盾なのだけれど、矛盾しているから、そこに不思議な真実がある。その矛盾をまるごと受け止め、その矛盾のなかで自分を動かしてみる--それが詩なんだな、と思う。



詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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池井昌樹『明星』

2012-10-04 11:17:18 | 詩集
池井昌樹『明星』(思潮社、2012年10月01日発行)

 「曲がり角」という作品を読んでみる。

みじかいあいだでしたけれども
つまはせんたくしておりました
みずがきらきらはねていました
みじかいあいだでしたけれども
おさないものがわらっていました
ほおにきらきらみずをうつして
みじかいあいだでしたけれども
かぜはそよそよふいていました
きぎはさやさやゆれていました
みじかいあいだそのひとときの
いつかどこかのかどをまがって
ぼくはまいにちかえってきました
まいにちかえりつづけてきたのに
どこでどうまちがえたのか
いつものかどがみつからない
いつまでもかぜはそよそよふいて
いつまでもきぎはさやさやそよぎ
いつまでもつまはせんたくをして
いつまでもみずはきらきらはねて
ぼくはまいにちかえってくるのに
まいにちかえりつづけているのに
みじかいあいだそのひとときの
いつかどこかのまがりかど
まいごのぼくがまだひとり
ゆめにみられることもなく

 この詩をもし「現代詩講座」で取り上げるならば。

<質問>この詩にわからないことばはありますか?
<受講生>ありません。
<質問>では「みじかいあいだ」は、自分のことばで言いなおすとどうなるかな?
<受講生>……

 私は意地悪ですねえ。答えられないよね。すぐには、何も思いつかない。それは、わからないではなく、わかるのだけれど、わかりすぎてことばにならない。「つま」ではなくたとえば母が洗濯物をしているのを見た記憶がだれにでもあると思う。(母を例にひくのは、講座の受講生に女性が多いから。「つま」が洗濯をしているのを見ることは、女性にはないからね。)あるいは自分が洗濯をしているとき、その水の反射が子どものほほに輝くのを見た記憶もあるかもしれない。いまは洗濯機をつかうのでそういう実体験は減っているが、そういう光景を映画とか本とか写真で見たことはだれにでもあると思う。それはほんとうに「みじかいじかん」?

<質問>いまはそういう光景は見ることがないから「過去の、ある一瞬」という意味の「みじかいじかん」?
<受講生>なつかしい光景という意味では「過去」かもしれないけれど、「過去」が短いという感じではないと思う。
<質問>逆に考えてみようか。「みじかいじかん」の反対のことばはこの詩のなかにはないだろうか。
<受講生>「ながいじかん」は書いていない。
<質問>「ながいじかん」に似たことばはない?
<受講生1>「まいにち」がそうかもしれない。
<受講生2>「いつも」もそうかもしれない。
<受講生3>「いまでも」というのは、何か変。「みじかいあいだ」かぜはそよそよふいていました、きぎはさやさやそよぎ、と最初の方に書いてあって、あとの方には「いまでもかぜはそよそよそよぎ/いまでもきぎはさやさやそよぎ」と書いてある。

 あ、いい疑問だなあ。
 変だね。
 池井の書いている世界では「いまでも」風がそよそよ吹いて、つまは洗濯をしている。そんなことは、ありえないね。風が吹きつづけるということは絶対にありえないことではないだろうけれど、妻が洗濯物をしつづけるということはない。洗濯物は、洗うものがなくなれば終わる。
 そうすると「いまでも」は現実の世界ではないね。
 そして、それは「みじかいあいだ」とは矛盾するね。

<質問>「矛盾」というのは、どういこと?
<受講生1>えっ、矛盾は矛盾だけれど。
<受講生2>どんな楯でも突き破ることができる矛とどんな矛でも防ぐ楯がぶつかるとどうなるか。そんなことはありえない。
<質問>どちらかが間違っている?
<受講生3>うーん、間違っているということをいいたいんじゃないと思う。

 そうだね。
 問題は、たぶん、人間は「ありえないこと」もことばで考えてしまうということにあるのかもしれない。どんな楯でも突き破る矛というものを考えることができる。そしてどんな矛でも突き破れない楯というものも考えることができる。
 ひとつひとつの考えには間違いはないけれど、それが出合うと「ありえない」ということがわかる。
 「ありえないこと」なのに、なぜ、そんなことを人間は考えることができるのか。考えたいからというか、まあ、一種の「欲望」「本能」のようなものだね。
 で、私はここからこんなふうに考える。
 本能や欲望は絶対的に正しい。どんな楯でも突き破れる矛がほしい。どんな矛でも防げる楯がほしい。それは絶対的に正しい欲望。そして、それが絶対的にただしいからこそ、どこかに間違いがある。間違いがあるけれど、間違えるということのなかに、何かしら絶対的に正しい「願い」のようなものがある。
 そう思ってこの詩を見つめなおすと。

<質問>池井が絶対的にあこがれている世界は何? どういう世界を「正しい」と感じている?
<受講生1>妻が洗濯物をしていて、子どもがそのまわりで水が反射する光を浴びていて、風はそよぎ、木々は揺れている、という世界。
<質問>それを何と言いなおしているかな?
<受講生2>「みじかいじかん」。
<質問>でも、「いまでも」その妻が洗濯をして風はそよいでいるんだよね。
<受講生3>あ、でも、その「いまでも」には子どもはいません。「おさないもの」は「いまでも」の部分には繰り返されていません。

 そうだね。ここが、たぶん、この詩のいちばん重要なところ。
 「みじかいじかん」と「いまでも」(言い換えると、この「いまでも」は「過去」から「いま」を結んでいるから「いつでも」だね。この言い換えはかなり強引なのだけれど)のあいだには変化がある。
 「おさいないもの」は「ぼく」になっている。おとなになっている。おとなになってしまっている「ぼく」は「いまでも」の世界には入っていけない。

<受講生>でも、いまの説明は変だと思います。
<質問>どこが?
<受講生>最初の方には「つま」と書いています。「おさないもの」は池井と妻との子どもであって、「ぼく(池井)」の幼いときのことではありません。

 あ、鋭いねえ。
 ようするに、私の読み方は間違えている。論理的ではない。
 そうなんです。論理的には読まない。
 飛躍する。飛躍というのは「説明」の省略なんだけれど、むりやり、説明をしてみると。
 最初の方の光景は、妻と幼い子どものことを書いているけれど、それは単純に妻と幼い子どものことを書いているのではなく、そこに池井の幼い時代のことを重ねて書いている。重ねてみている。たらいで洗濯をして、そのそばにいる子どものほほに水が反射する光が輝くというのは、「いま」ではなありえない。池井の子ども時代なら、まあ、ある。ちょうど洗濯機が出回りはじめた時代だから。
 そのときの母と子ども、さらにはまわりの自然、そんな親子を祝福するような輝かしい光景--それは「一瞬」のように見える。もう、過ぎ去った過去のように見える。
 でも、「過去」というのはとても不思議。時間というのはとても不思議。
 思い返すとき、その遠い過去の風景と、きのうの風景を思い返すとき、どっちが「遠い」? 時間に長さがあると仮定して、「いま」から「きのう」までの距離と、「いま」から「池井が子どもだった時代の過去」までの距離は、きちんと「長さ」で感じられる?
 私は感じられない。
 遠いはずの「過去」の方がすぐ近くに感じられる。
 そして、この「近い」は別のことばで言うと「長い」になる。「みじかいあいだ」なのだけれど、その「みじかいあいだ」は「いま」までずーっと池井の肉体のなかに生きている。「いまでも」生きている。「いつでも」(ということばを池井はここではつかっていいないが)生きている。
 「いつでも」というのは「まいにち」ということでもある。
 毎日、池井は、あの短い時間を、あの光景を自分の肉体のなかに感じる。
 だからこそ、毎日帰る家への曲がり角で実際に見る光景が肉体のなかにある光景と違うことにとまどい、迷子になる。

<質問>この「まいご」をどうやったら、家に無事に届け返すことができるのかな?
<受講生>「ゆめにみられることもなく」と関係がありますか?

 私は関係があると思う。その「まいご」をだれかが夢に見れば、「まいご」は家に帰ることができる。
 だれも「まいご」を夢に見ない。だから、池井は自分の詩のなかで「まいご」を書く。夢に見るのではなく、詩にする。ことばにする。池井は自分のことばで自分をみつめる。そのとき、幼いときの至福の一瞬、母が洗濯物をしていて、そのそばで自分が水の光と遊んでいた姿が見える。その姿は、いわば親子(家族)美しい理想のようなものだね。
 そういう光景を描きながら、池井は、ここではもうひとつ大事なことを書いている。

ゆめにみられることもなく

 ここでは「夢に見られる」という形にことばが動いている。「夢見る」という言い方もあるけれど、池井は「夢に見る(見られる)」という形で「夢」と「見る」わけている。わけながら結びつけている。
 で、その「見る(見られる)が、とても重要。

みじかいあいだでしたけれども
つまはせんたくしておりました
みずがきらきらはねていました
みじかいあいだでしたけれども
おさないものがわらっていました
ほおにきらきらみずをうつして

 ここには、ことばが省略されている。これらの行は、

みじかいあいだでしたけれども
つまはせんたくしておりました
(それを私は見ました)
みずがきらきらはねていました
(それを私は見ました)
みじかいあいだでしたけれども
おさないものがわらっていました
(それを私は見ました)
ほおにきらきらみずをうつして
(それを私は見ました)

 ということなのだが、これはそこに書かれていることが「つま」と「おさないもの」だから。
 でもこの「つま」と「おさないもの」は、池井にとっては「母」と「自分」だったね。

<質問>そうすると、いま無理矢理補ってみた「それを私は見ました」の「私」はだれになるだろう。
<受講生>池井のお父さん?

 そうかもしれない。そう考えるのがいちばん自然かもしれないけれど。
 私は池井の詩を長い間読んでいるので、それが「父」を超える存在に感じられる。「父」だけではなく、父の父、祖父、それらかずっと先の父の父の父の父の父……という具合につながる人間の「いのち」そのものに見える。
 池井の詩は、「私小説」ではなく「私詩」のようにみえるけれど、じっくり読みつづけると「私」の世界を超えて、人間の「いのち」そのものにつながってみえる。「いのち」の視力がことばを動かしているようにみえる。
 「いのちの視力」というのようなものは、まあ、抽象的で、そんなものはないとも言える。「ないもの」を書くから、ことばのどこかに奇妙なところ、矛盾したところ、わかるのだけれど論理的に説明できない部分がある。で、そういう部分こそ、ほんとうは大切。そういう部分と向き合って、池井のことばをほぐしていくのではなく、自分のことばを解きほぐしていく、池井(詩人)の力を借りながら自分のことばを新しくしていく、ということが詩を読むことだと思う。

 「自分のことばを新しくしていく」というのは、少しずつだし、どう新しくしたかなんて、うまく言えるはずがないのだけれど、その少しずつが重なり、きっと変わっていく。だから、私は詩を読む。


明星
池井昌樹
思潮社
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望月遊馬『焼け跡』(2)

2012-10-03 15:24:28 | 詩集
望月遊馬『焼け跡』(2)(思潮社、2012年07月31日発行)

 望月遊馬『焼け跡』の活字の大きくなった部分、「目次」ではなく「本文」の最初を引用する。

「まずは、ヒトの動作と発言のところにテロップがないように。指をひとつひ
とつ切りおとしていく指揮のなかに、白い肌である金属質の繊維がいくつかた
ばねてある。そこに灯る灯のむこうには、わたしたちの昼夜がじょじょに流砂
の骨のかたちで流れていく。骨と繊維との境界のあたりには、セピアの写真が
挟まれている。ふたつの人生について思った。白い冬季のオートミールのよう
な、それがハンカチの色であって、雑穀のないブラウンの帽子のような、一瞬
の友人が窓に浮かんでいる。手をのばして。ちいさな婚衣をくりかえす雨には、
乾いた友人の横顔が斜めに付着している。そこにいる。手をのばして、雨のな
かをベネチアへの逃避行をする。雨を受けて顔が、ぴらりとはがれてしまう。
手をのばして。白い胚芽のような体をした女が、切り布のところに浮かんでい
る。すらりとした背丈が、うすく景色を打った。「雨だ。」

 何が書いてあるのだろうか。よくわからない。よくわからないが、冒頭の「(カギ)の受けがない、というのは学校作文に反する。まあ、それは、いいかてんてん。でも、きになるねえ。なぜ、カギの受けがない? 最初のカギは何? で、このわからない、ということ、そしてそういうカギのつかい方に違和感があるということは、実は大切なことだと思う。わからない、や、違和感は、私(谷内)と望月との違いだからである。思想の、そして肉体の違いが、そこにある。でも、これは、どう接近すればいいのかわからないので、こういうことは私はほおっておく。
 で。

まずは、ヒトの動作と発言のところにテロップがないように。

 これは、何だろう。何かわからない。わからない原因は「テロップ」が突然出てくるからだろう。テロップというのは、たとえばテレビのモニターに映し出される「絵」ではなく「文字」のようなもののことだと思う。映像があって、それを補足する文字がある。世界は映像と文字(ことば?)がかみ合って、何らかの「意味」を明確にするものなのかもしれない。
 でも、「発言」はことばではない? ことばだろうと思う。それに「テロップ」の「文字(ことば)」が必要? テレビではときどき「発言」を「テロップ」でも紹介することがある。発言をテロップでくりかえす。くりかえすと、それは強調になるね。このひとはこんなことを言っているのだよ、と念押しをする。
 望月の「意図」もそういうところにあるのかな?
 という思いとは別に、この書き出しは、私の「肉体」に限定して言えば、「目」を刺激してくる。「肉体」に「見る」という動作を覚醒させる。
 1日の「日記」で、たしか私は望月の詩について「みえる/見える」ということばを取り上げた。私は私の書いたものを読み返さないので--目が悪いので、読み返すことをしないので、おぼろげだが、そんなふうに覚えている。どういうことを書いたかは、もう忘れてしまった。--でも「みえる/見える」が望月の思想・肉体と密接な関係にあるという印象が私の「肉体」に残っている。その印象が、この詩を読むと甦ってくる。そして、「見える」ということばをついつい補って読んでしまう。

まずは、ヒトの動作と発言のところにテロップがないように。指をひとつひとつ切りおとしていく指揮のなかに「見える」、白い肌である金属質の繊維がいくつかたばねてある「のが見える」。そこに灯る灯のむこうには、わたしたちの昼夜がじょじょに流砂の骨のかたちで流れていく「のが見える」。骨と繊維との境界のあたりには、セピアの写真が挟まれている「のが見える」。ふたつの人生について思った。

 「ヒトの動作と発言のところにテロップがないように」配慮するのは、望月が何かを「見ている」。その「見ている」という行為の邪魔にならないようにする、ということだろう。ヒトの動作と発言のところにテロップが「重なら」ないように、に配慮する。
 「重なる」というのは、何らかの「意味」をかかえこんでいる。それを望月は排除し、「重なる」前の何かを見ようとしている。見たいと感じている、ということかもしれない。
 でも、「ふたつの人生について思った。」には「見える」は補えない。どうしてだろう。

白い冬季のオートミールのような(ように見える)、それがハンカチの色であって、雑穀のないブラウンの帽子のような(ように見える)、一瞬の友人が窓に浮かんでいる「のが見える」。手をのばして「いるのが見える」。ちいさな婚衣をくりかえす雨には、乾いた友人の横顔が斜めに付着している「のが見える」。そこにいる「のが見える」。手をのばして、雨のなかをベネチアへの逃避行をする「のが見える」。雨を受けて顔が、ぴらりとはがれてしまう「のが見える」。手をのばして「いるのが見える」。白い胚芽のような体をした女が、切り布のところに浮かんでいる「のが見える」。すらりとした背丈が、うすく景色を打った「のが見える」。「雨だ。」

 後半も、「見える」を補うことができる。「雨だ。」というのはだれかの声なので、それは「見える」ではなく「聞こえる。いや、しかし、もしそれが「テロップ」だとしたら、これもまた「見える」ということばを補える。
 望月は「見える」世界を描いているのだということがわかる。分断され、「目次」のようにならべられている「こと」は、すべて「見える」である。
 ただ「思った」だけが、「見える」ではない。
 ここに、望月の「思想」がある。「肉体」を私は感じる。

 「思った」はほんとうに「見える」とは違う動詞なのか。そうではない。「思う」も「見える」である。
 「見える」を「思える(思った)」に書き直してみると、こんな具合になる。

指をひとつひとつ切りおとしていく指揮のなかに、白い肌である金属質の繊維がいくつかたばねてある「ように思える」。そこに灯る灯のむこうには、わたしたちの昼夜がじょじょに流砂の骨のかたちで流れていく「ように思える」。骨と繊維との境界のあたりには、セピアの写真が挟まれている「ように見える」。ふたつの人生について思った。

 「……のように見える」ことを「……のように思える」と私たちは言い換えることができる。「見える」(見る)と「思える」(思う)は、私たちの肉体のなかで交錯し、重なり合っている。
 「思う」という精神(?)の働きは「頭(脳)」あるいは「こころ」ですることだろうか。「思う」のなかには「心」という感じが含まれているから、まあ、そうなんだろうねえ。
 「見る」は、まあ、基本的には「目」で「見る」だね。
 でも「味を見る」は「目」ではなく「舌」だね。
 「肉体」は、その器官はどこかで不思議な感じで融合している。重なり合っている。
 その「重なり」を意識しはじめるとき、そしてその「重なり」を剥がして(?)、そこにあるものを「純粋」にそれ自体としてとらえようとするとき、私たちは、何かを棄てなければならないのかもしれない。
 望月は、ここでは「見える」を捨て去っている。「見える」を棄てることが「思う」を純粋に突き詰めることだととらえているのかもしれない。そういう意識の動きが、ここからは感じられる。
 これは、私の得意な「感覚の意見」である。つまり、論理的には説明できないことがらなんだけれど、まあ、そう感じてしまう。
 でも、そうやって「棄てた感覚(見る)」は執拗に復讐してくる。反撃してくる。
 「手をのばして」が3回出てくるが、これはその「見える」が3回復讐してくるということだね。
 「写真」とか「白い」とか「ちいさな」とか「すらりとした」とか「うすく」とか、どれもこれも「見える/見る」の反撃だね。復讐だね。

 ここから、私は何を要約すべきか。何を望月の「思想」として要約すればいいか。そして、それについて意見を言うことができるか。
 なんてことは、しない。する必要がない。
 私はただ次のように言いたいのだ。
 もし望月の詩を読んでいて、何かわけがわからなくなったら、そこに「見える/見る」を補ってみるといい。そうすると、そこに書かれたことばが映画の映像のように動いていくのが「見える」。そして、その「見える/見る」という行為のなかで体験した「こと」を私たちは望月と共有すればいい。
 もっと簡便な「流通言語」で言いなおすと、望月の詩は「ことばで書かれた映画」なのである。「見える/見る」というとき、私たちは対象と離れている。目は接近しすぎると何も見えない。一定の距離がないと目は機能しない。「見える/見る」のつくりだす「距離感」、肉体と対象との「距離感」のなかに望月の思想、つまり「肉体」の立ち位置があるということになる。


焼け跡
望月 遊馬
思潮社
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