詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

島野律子『むらさきのかわ』

2012-11-17 11:39:35 | 詩集
島野律子『むらさきのかわ』(ふらんす堂、2012年10月13日発行)

 島野律子『むらさきのかわ』は一冊の「長編詩」なのだろうか。いくつもの断片で構成されている。とりあえず「断片」と読んだのは、何行かことばがあったあと空白があり、次のことばのあつまりが必ず新しいページから始まるからである。
 その断片の特徴は句読点がないことである。句読点がなくて、改行がある。そして、その句読点のない「1行」(次の改行までを、とりあえず1行と呼んでみる)は、ほんとうに1行(ひとつの文章)なのか、それとも複数の行(複数の文章)なのか、よく分からない。

暗い空になって道の上の枝が厚く花をつける夜の上のほうをうっすらと見つめ
ながら道を横切って白いライトの下にはまるかわいていく空まで肩をこすって
近寄っていく

 この書き出しは、

暗い空になって道の上の枝が厚く花をつける。夜の上のほうをうっすらと見つめ
ながら道を横切って白いライトの下にはまる。かわいていく空まで肩をこすって
近寄っていく。

 ということなのだろうか。そのとき「主語」は、どうなるのだろうか。「主語」をあえて重複する形で補って「文章」にしてみるとどうなるだろうか。「主語」だけではなく、少し生命を補足すると、どういう文章になるだろうか。

「空は」暗い空になって、「道の上の木では」道の上の枝が厚く花をつける。(その厚い花のせいで、空が暗くなっていることが、私にはわかる、私には感じられる。)「私は」夜の上のほう(花の上の夜の、さらに上の方を)をうっすらと見つめながら、「私が」道を横切って(いくと、そこには白いライトがあって)白いライトの下にはまる。(白い街灯の光の輪の中に入って、そこから花を見つめると)かわいていく空まで、「花が」肩をこすって近寄っていく(ように、私には見える)。(あるいは「私が」花になって、私の肩が空をこすって、夜の上の方へ近寄っていくように感じられる。)

 これが「正しい」かどうかは、まあ、関係がない。詩なのだから、どう読んだっていいのだろうから、私はとりあえずそんなふうにして島野のことばを私の肉体のなかに取り込むのだけれど、そのとき、最後の部分が奇妙に肉体にこびりつく。
 「肩」は「花の肩」なのか、あるいは「私の肩」なのか--実はわからない。そして、その「わからない」ことのなかに、私は詩を感じる。その「詩の感じ」が私のに肉体にこびりつくのを感じる。
 何か、しつこいね、この私の書き方は。
 島野の粘着力のある文章が書き写しているうちに、粘着力にそまったのかもしれない。
 で、何がいいたいかと言うと。
 この「粘着力」のなかで、「花」と「私」があいまいになり、同時にその「あいまいさ」のなかから「肩」という自明のもの(自明であるかどうかわからないけれど--肩というとき、首の下、胴の上部分、あるいは何かの上の方、その端っこ思い浮かべる)が、あいまいさを突き破るように登場してくる。その突然あらわれる「肩というもの」の運動(突然あらわれるという運動、「もの」ではなく「こと」)は、句読点のない、粘着力のあることばの運動の結果なのだということだ。
 句読点のない、どこで切っていいのか、どこで飛躍していいのかわからない--つまり、切断と接続のわからないことばの運動のなかで、はじめてあらわれることができる何かなのだ。

 句読点というのは「文章」、ことばの運動を「整理」するものである。意識の接続と切断を整理し、他人と共有しやすい形にととのえる。そのために句読点がある。
 でも実際にことばが動いている瞬間というのは、途中で意識がねじれて行って、うまいぐあいに「文章」にはならない。だから人はあとで読み直して「推敲」というものをするのだろう。
 そしてこういう「整理」というものは、意識の運動を明確にする一方、どうしようもなく「ずれ」ていくエネルギーを排除してしまうことになる。「整理」というのは、一種の「排除」である。「排除」なしには「整理」はたぶん、できない。
 問題は。
 その排除したもののなかに、大切なものはなかったか、ということだ。
 ほら、何かを書いていて、枚数がオーバーしてしまって、どうしても何かを削らなければならなくなったとき、そして削ってしまったとき、ああ、あの部分こと書きたかったことなのにと思うことがあるでしょ?
 それは「テーマ(もの)」でるあこともあるが、それよりも。
 切断と接続を結びつけるエネルギー(粘着力)そのものであることもあるのではないだろうか。運動そのものであるということが、あるのではないだろうか。

 私たちは(私は、かもしれないが……)、何かを「理解」するとき、「もの」を「理解」する。ある「もの」が「何」であるかわかったとき、それを「理解」と呼ぶことが多い。けれどほんとうに「理解」しなければならないのは「こと(運動)」かもしれない。動詞でしかとらえることのできない何かがある。
 たとえば「粘着力」である。これは「もの」ではなく、「こと」。体にねばねばと絡みついてきて、その結果、自分の体を思うように動かせない。つまり、私自身の「動き」を自由にできない--動きを邪魔する何か、それによって起きている「こと」のなかに「粘着力」というものがある。
 そういうものを島野のことばは書き表そうとしている。

電線が途切れないように支えている夜を囲む高い壁はざらざらの色にまぶされ
ておいしそうだ前の冬の切り跡からこぼれている音もありそうな溝にはまりか
けている靴からまだ足は遠くない

 ここに書かれていることを、最初の文章のように整理しなおしてみようとは、もうしない。一度すれば十分だろう。
 で、なぜこの部分を引用したかというと。
 島野のやっている「粘着力」の再現(強調?)の、そのことばの運動のなかから、思わずはっとさせられる美しいことばが噴出してくる。

冬の切り跡からこぼれている音

 あ、これはいいなあ。なぜ、こういうことばが噴出してきたのかわからない。「粘着力」の「ねばねば」が遠い過去(肉体の奥)から、ふいにひっぱりだしてしまったのだろう。そうすると、その瞬間に、それは「音」という「もの(名詞)」なのだが、その「音」が生まれたときの「運動(動詞)--音はものとものとがぶつかって生まれるからね」が瞬間的にひらめく。それを私は見たか。つまり、体験したか。
 思い出すことができない。
 でも、それを「いいなあ」と思うのは、私の肉体がどこかでそれを「動詞」として体験しているのだ。
 そういう思い出せないことを思い出すという、変な動きが私の肉体のなかに生まれる。あ、これが詩の瞬間だなあ、と私は思う。
 こういうことが、ときどき、島野の詩を読んでいて起きる。あとで、あ、あれはどこに書いてあったのかなあ、と探し出そうとすると、それがなかなかみつからない。それは、ありふれた言い方になるが、まるで川の流れのなかで一瞬見たもののようでもある。目の前の川の流れは相変わらず川の流れだけれど、いま見ている川の水はさっき見た水とは違うのである。流れていくものを「粘着力」のある意識で呼び戻すとき、それは何かにぶつかったしぶきのようにきらめくのかもしれない。

むらさきのかわ―島野律子詩集
島野 律子
ふらんす堂
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川上明日夫『往還草』

2012-11-16 10:25:36 | 詩集
川上明日夫『往還草』(思潮社、2012年10月31日発行)

 私はどうも川上明日夫とは性が合わないようである。とても読みにくい。
 たとえば「浮雲」。

見る人が雲を連れてきましたいまわたしの部屋に住んでま

ぽつんとわたしの思案に浮かんでは一緒にながれてゆきま

まいにち空の窓の開け閉めなどはるかな風の途など訊ねた

水分は希望ですから草や花々人などを染めての還り旅です


 1行が26字で組まれている。そして2行目(?)は必ず1字である。同じスタイル(あるいは類似のスタイル)の作品が何編もある。この行の「構成」が理解できない。詩集全体が1行が26字ならまだ組版の制約でそうなっているのかと想像するのこともできるが、「螢草」は1行目が19字、2行目が1字である。
 なぜ?
 
 私は「黙読派」であって、「朗読派」ではないのだが、この詩は「黙読」するひとにむけて書かれているか、「朗読」するひとにむかって書かれているのか。
 私の黙読のリズムに、このスタイルはあわない。朗読する人は、この1行目と2行目の「長さ」をどんな呼吸で処理するのか。想像もつかない。
 もしかすると、川上は自分のことばに酔って、同じところをぐるぐる回っているのかもしれない。ことばは確かに変化して、それにともなって「意味」もかわってくるから「同じところをぐるぐる」というのは変かもしれないが、私にはどうしてもそう感じられてしまう。
 ことばではなく、「同じところ」、たとえば知らない街の規則正しくつくられた道を想像してみる。1ブロック(外国みたいな言い方だが)の長さがきまっている。そこをぐるぐるまわる。1字の1行は「交差点」である。そこから右へ行くか左へ行くか、あるいはまっすぐに行くか--歩き方はいろいろあるので、まっすぐに行けば「ぐるぐる回る」ではなくなるかもしれないが、それは「地理上」の問題であって、意識的には「ぐるぐる」である。頭の中に「地図」ができていて、いつでも「最初」にもどることができる。
 どこかへ行くふりをしていながら、どこへも行かない。次の交差点まで、その道に沿って存在するものをことばにするだけである。そして、こんなふうに存在をことばにすることができる、ということに川上は酔っている。
 これは、気持ちが悪い。そこに書かれていることばが、どんなに魅力的だとしても、そういう生き方(?)が気持ちが悪い。ことばは、川上をどこかへ運んで行くわけではない。つまり、どんなにことばを書いてみたって(動かしてみたって)、川上はけっしてかわらない。そういう「ところ」で書いている。そんなふうに感じられる。

 ほかの人が読めば、きっと違ったふうに感じられるのだろうが、私には、このリズムはとても気持ちが悪いとしか言えない。実際に川上に会ったことがないのでこういうことを書くのは失礼かもしれないけれど、もし川上の姿をみかけたら、私は川上に見つからないように、そっと隠れるだろう。子どもが知らない人に出会って、あ、何か違う、と感じたとき、早くここから逃げたい、出会わなければよかったのにと思う気持ちに似ているかもしれない。

 少しひどいことを書きすぎたかもしれない。でも、そう感じるのだから仕方がない。

 一篇、少し気に入った詩について書いておく。「うつし花」。この詩には1字空きが頻繁に出てくる。

心を じっと澄ます ツユクサを 聴いています 月草と呼
んで みるところに 死人の眼が ありました 生きること
とは 露のくさぐさ 眼をあげて 月の光りに たゆたって
います 空に沿う 喩がありますね 澄んで美しく 濁らな
い 月草とは そのように 偲んだ心にいたい 濁ることは
偲ぶこと 生きることである とあの方がいう 染まらない
魂なんてと しずかな 見るひとが ツユクサに 聴いてい
ます

 「ツユクサを 聴いています」と「ツユクサに 聴いています」は、どう違うのか。違わないだろうと思う。違わないということは「ぐるぐる回る」ということなのである。同じことばが何度も出てくる。それも「ぐるぐる回る」ことなのである。「ツユクサ」は「露」という文字になり「草」という文字になる。そして「ツユ」は音が変化して「月」にもなり、それが「月/草」という形であらわれもする。この変化は「澄む」ことか、「濁る」ことか。「生きる」ことか「死ぬ」ことか。区別はない。「ぐるぐる回っている」のだから、あるときは「澄む」ことが「濁る」ことでもあるのだ。
 「澄む」ことが「濁る」ことである--というのは矛盾?
 そんなことはない。たとえばコップにいれた泥水を思い浮かべればいい。それは時間が経つと澄んでくる。ただし「澄む」のは上の方であって、下の方はいっそう「濁る」。「澄む」と「濁る」は接続して「いま/ここ」になる。どちらに視点を置いて「世界」を見るかはそのひとの勝手である。
 この「勝手」を川上は、私とはずいぶん違う形で生きている。「澄む/濁る」の「切断/接続」を「螺旋」のように「ぐるぐる回る」、そしてぐるぐる回りながら、上の方へか、下の方へかわからないけれど、まあ、動いていく。その「ぐるぐる回り」はきっとエッシャーのだまし絵のように、上だと思っていたらいつのまにか下へ来ていたというような、それも「ぐるぐる回り」なのだと思う。
 こういうのは、一瞬見たときは、「あ、おもしろい」と思う。
 でも、私は目が悪いせいか、そういうものを見ていると、ほんとうに気持ちが悪くなる。こんなふうに私は他人をだますことができます、という「技術」に酔っている感じだけがあとに残る。

 酔ったひとのげっぷの匂いを嗅いでいる気持ち、というと言い過ぎになるのかもしれないけれど--まあ、そういう「生理的な反応」の方が私の場合、先に出てしまう。




川上明日夫詩集 (現代詩文庫)
川上 明日夫
思潮社
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アン・ホイ監督「桃さんのしあわせ」(★★★★★)

2012-11-15 11:05:56 | 映画
アン・ホイ監督「桃さんのしあわせ」(★★★★★)

監督 アン・ホイ 出演 ディニー・イップ、アンディ・ラウ

 最初はどこに惹きつけられているのかわからないままスクリーンを見ていた。ディニー・イップが朝食の準備をし、アンディ・ラウが食べる。もくもくと食べる。ディニー・イップがご飯をもってくる。アンディ・ラウがふりむきもせず片手で受け取り食べつづけるシーンは、あ、このふたりはもう長い間ずーっとこうやってきたのでことばがいらないんだ、ということを告げる。そして、そのことばのかわりに「動き」があるのだけれど、その「動き」というのは、実は人間だけのものではない--というのはとても矛盾した言い方だが、たとえばアンディ・ラウが向かっている食卓。それは動かないけれど、そこに「ある」という「動き」をしている。「ある」ということは「動いている」、言い換えると「生きている」ということである。この「生きている」に私は惹きつけられた。引き込まれたのだ、しだいしだいに気がついてくる。
 どのシーンとはっきりとは思い出せないのだが(つまり、それくらい頻繁にそういうシーンが出てくるのだが)、俳優が動く「場」としての「室内」。俳優をカメラがとらえるとき、俳優だけではなく、そのフレームの中に家具やドアが入ってくる。家具やドアが「ある」。それが動かないまま俳優の演技(アクション)を受け止めている。そこに「もの」が生きているという感じがする。この「もの」の生きている感じ、いっしょに「いま/ここ」に「ある」ということが、なんとも不思議な手触りなのである。
 ディニー・イップが脳卒中で入院し、それからリハビリ施設のある老人ホーム(?)に入ってからも、そういう印象がある。そこにある「もの」はディニー・イップがなじんでいる「もの」ではない。ドア(カーテンの仕切り)も部屋ごとの区切りもディニー・イップにはなじみのない「もの」である。ところが、それは彼女にとってなじみがなくても、彼女より長くそこに「ある」、「生きている」。それが静かに彼女を受け止める。その感じがスクリーンから静かに静かにつたわってくる。「主張」ではなく、「事実」としてつたわってくる。
 だから。
 その施設を私は知っているわけではない。私は他の老人施設も知らない。けれど、ディニー・イップの動きとともにそのフレーム(映像)のなかにテーブルやドアや、ディニー・イップのこまごまとした日用品がまぎれこむとき、私はそれを知っている、と感じる。知らないものなのに知っていると感じる。そのとき感じていることを、ゆっくり思いめぐらしてみると、あ、これは「もの」が「ある」ということは、「もの」が「生きている」ということなのだ、とわかる。
 で、この感じが--たぶん、逆に感じないといけないのかもしれないけれど、私の感じた順を正確にたどってみると、この「もの」が「ある」、「もの」が「生きている」という感じが、人間に反映(?)してくる。
 アンディ・ラウは最初ディニー・イップが「生きている」とは実感していない。「もの」のように感じているというといいすぎになるけれど、まあ、空気のように、存在を意識せずに暮らしている。最初に書いた食事のシーン、片手を少し持ち上げていると、そこにディニー・イップが運んできた茶碗がのり、それを当然のようにして食べつづけるシーンには「もの」は存在しても「人間」の存在は稀薄である。「茶碗」という「もの」が二人を動かしている。まるで茶碗が「生きていて」、そのいのちを人間が受け止めて動いている感じすらする。
 でもそうではなくて、やはり人間が「生きている」。「もの」のように、そこに「ある」ことが当然と思っていた人間は、そこに「ある」のではなく「生きている」。
 人間は「ある」のではなく、「生きている」。これは、当然のことなのだけれど、ほんとうは「当然」とは感じていないときがある。老人ホームの入居者を描いたシーンが、そういうことをどぎまぎさせるくらいに感じさせる。人間は「生きている」。しかし、「生きている」ということに対して尊厳がはらわれていない。「もの」として、そこに「ある」という状態に置かれている。--そんなふうに「見える」。醜い体をさらしながら、そこに「ある」。それは「生きている」ので排除できないから、そこに「ある」という状態にしているのだ。これは残酷なことだが、そういう醜さが、「いきる」と「ある」の関係を「事実」として映像化されている。
 こういう状況で「生きる」のは、つらい。しかし、ディニー・イップは少しずつ工夫して生きていくし、それをアンディ・ラウはそっと寄り添って見守る。そしてそれはあくまで「生きている」を見守り、寄り添うのであって、それ以上はしない。その過程で、「生きる」「ある」が結びついて、人間が「いる」にかわる。
 「もの」は「ある」。しかし、人間は「いる」という。--ああ、日本語っていいなあ。こういう微妙なことが言えるのだから。「もの」が「ある」ことの幸せのように、ひとが「いる」ことが人間を幸せにする。そういうことをスクリーンを見ていると自然に感じるのである。
 「もの」が「ある」が「生きる」につながり、ひとが「生きる」が「いる」にかわる。この変化を「なる」と言いなおすこともできるなあ。脳卒中で倒れたディニー・イップをアンディ・ラウが親身な見守るとき、アンディ・ラウは「主人」ではなく「義理の息子」に「なる」。そこに「いる」のは、昔からのアンディ・ラウではなく、「義理の息子」に「なった」ひとりの新しい人間だ。「なる」ことで、アンディ・ラウはさらに「いきる」ことができる。
 この人間の「生きる」「いる」「なる」の変化を、この映画は、ほんとうに自然に描いている。いつでも、どこでも見ることのできる日常として描いている。今年、「最強のふたり」という映画が大ヒットしたが(まだ上映されているが)、その映画に比べると「桃さんのしあわせ」は地味すぎる(おもしろみが少ない)が、「地味」だけがもちうる強靱な哲学があると感じた。

 蛇足になるけれど、次のシーンも好き。
 老人ホームにスケベな男がいる。入居者に無心しては女を買ってセックスをしている。アンディ・ラウは二度目に無心されたとき拒絶するが、ディニー・イップは「好きにさせたらいい」と金をかしてやれとアンディ・ラウに助言する。
 このとき、私は、あっと思った。ディニー・イップの生涯というのは、アンディ・ラウの家族の世話をするという、どちらかというと「下積み」の暮らしである。そんなふうに「生きる」ことがほんとうに楽しいの? そういう疑問に対して、ディニー・イップは、「そうやって生きるのが好きなんだ」と答えるだろう。部屋をきれいにして暮らす。おいしいものをつくり、「おいしい」と言ってもらう。特別な人間に「なる」のではなく、ふつうの人間として「いる」。生きて「いる」ことが「好き」なのだ。
 ディニー・イップは死んでしまうのだけれど、なぜか、ああ、いいなあ、としみじみと思うのだった。
                     (2012年11月14日、KBCシネマ2)


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千葉剛「詩人ディキンスンの2ショット」

2012-11-15 00:56:52 | 詩(雑誌・同人誌)
千葉剛「詩人ディキンスンの2ショット」(「朝日新聞」2012年11月13日夕刊)

 ディキンスンの2枚目の写真が発見された。女性といっしょに写っている。これはディキンスンが同性愛者だったという説を補強するのものだという。
 ふーん。
 同性と二人で写っている写真があると「同性愛」か。
 私なんか、犬とキスしている写真まであるんだけれど、どうなるのかなあ。

 ということよりも。
 千葉剛の書いている次の部分がとても気になった。

ああ 海よ!
今宵(こよい)こそ--あなたの胸に--
錨(いかり)をおろすことができるなら!
           (F269 千葉剛訳)

 これは愛をテーマとした詩「嵐の夜よ--嵐の夜よ!」の終わりの3行だが、同性愛の心境の反映と考えれば詩の意味が理解しやすくなる。海は広く深く、ここでは包容力のある恋人を意味する。錨は固くて水底目指して突き進んでいくものであり、そのイメージから男性性器を意味する。愛する女性と一体になるには、自分自身が男性にならなければいけない。つまり、エミリィの性交願望の表出であり、同性愛ゆえの表現と言えるだろう。

 これが女性のひとのことばなら、そうなのかなあ、と思うが、千葉剛というのは、私はよく知らないがたぶん「男性」だろう。そうなると、これはあてにならないなあ。というか、これってマッチョ思想そのものの視点であり、とても信じられない。
 同性愛の場合、一方が女性であり、もうひとりが男性であらなければならないというのは、ほんとうなのだろうか。それは同性愛を異性愛に置き換えて理解しているに過ぎなくて、ほんとうは違っているのではないだろうか。
 女性だけれど男性のように女性を愛したい、というのがディキンスンの同性愛だと仮定してみる。この仮定は、男にはとても簡単な仮定である。だから、すぐに納得してしまうけれど。でも、変だなあ、と私は思う。
 では、ディキンスンの相手は? どう思っている? 女性だけれど、男性のように振る舞ってくれる女性に愛されたい? こう考えたとき、変だと思わないのだろうか。
 ディキンスが男性として女性を「愛したい」なら、他方の女性は「愛されたい」でいいのか。
 「愛」は「愛したい」「愛されたい」と二人が分業しておこなうことなのか。違うんじゃないのかなあ。愛すると同時に愛されたい。そこには「能動/受動」の区別がない。そういう区別があるときは「愛」には達していない。
 ディキンスンはどんなふうに愛されたいと感じていたのか。相手の女性はどんなふうに愛したいと感じていたのか。そして、そのふたりの「愛したい/愛されたい」が「ひとり」のなかで人間を動かしていたかを理解しないことには、「愛」自体を誤解することにならないだろうか。
 錨が「固く」「突き進んでいく」から「男性性器」を意味するだとしたら、「あなたの胸」は、なぜ、海なのだろう。胸と海の共通項は? 女性性器との共通項は? 胸(乳房)は確かに女性の魅力であるし、乳房に欲望をかきたてられるというのはわかるけれど、乳房がなぜ海? 錨を男性性器と呼ぶのなら、胸と海との関係も女性性器に結びつけて明らかにしてほしいと思う。
 詩なのだから、何がなんでも全部論理的にとらえなくてもいい--というのなら。
 うーん。なぜ、簡単に錨と男性性器だけを結びつけたのか、そのことが私にはよくわからない。

 それに。
 私は「嵐の夜よ--嵐の夜よ!」を読んでいないので勝手な想像になってしまうが、嵐の夜に、海に深く錨をおろしたいというのは、女性を男性として愛したいという欲望とは関係がないんじゃないだろうか。嵐とどこで出合うかにもよるけれど、嵐の日に船が錨をおろすのは流されてしまわないためなのではないだろうか。そうすると、それは男性性器となって海を愛するということとは違うんじゃないだろうか。

 わからない。
 千葉の文章から私がわかるのは、そうか、千葉は、自分に固く突き進んでゆく男性性器を男性のあかしとして要求しているということだけである。
 マッチョ思想にもとづいて、ディキンスの同性愛を描写したって、それは女性の同性愛とは無縁だろうなあ、誤解するだけだろうなあ、としか思えない。



エミリィ・ディキンスン詩集
エミリィ・ディキンスン
七月堂
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秋川久紫『戦禍舞踏論』

2012-11-14 11:08:32 | 詩集
秋川久紫『戦禍舞踏論』(土曜美術社出版販売、2012年10月20日発光)

 秋川久紫『戦禍舞踏論』はタイトルもそうだが漢字が目立つ。で、その漢字なのだが私には2種類あるように見える。

白象も獅子も、麒麟も孔雀も、恐らくこの戒厳の季節を瞬時に終わ
らせることはできないだろう。断片化してしまった心を集積し、あ
るいは魂を強く反転させて、刹那的にその舌先を浄めることができ
たとしても。
                              (「戦禍舞踏論」)
 
 ひとつは白象、獅子、麒麟、孔雀の類。こういう漢字表記は、いまはあまりみかけない。で、私は単純だから、その「いまはみかけない」ということにつまずく。瞬間的に「いま」から切り離されてしまう。いわば「異次元」に誘い込まれる。何が起きても、それは「いま/ここ」とは違った世界である。ということは、まあ、想像力の世界である。
 もうひとつ。戒厳、断片化、集積、反転、刹那的。これらのことばは、さらにふたつにわけることができるかもしれないけれど、そういうことを細かにやっていると面倒くさいので、とりあえず「ひとつ」の固まりとしてとらえると。これは、何やら「意味」が凝縮している。「口語」ではないなあ。「断片化」は「ばらばらにして」、「集積」は「寄せ集めて」、「反転」はひっくりかえしてくらいの「口語」になるかもしれない。でも、秋川はそういうまどろっこしい(?)言い方をしないで、「漢語」(漢字熟語?)つかう。このとき、私は意識が加速化するのを感じる。--あ、これは「感覚の意見」です。説明はできない。そんなふうに感じる。
 「戒厳」とか「刹那」は、うーん、漢字は読めるけれど、私は書けるかなあ。画数が多くてめんどうくさいから、私はそれを書くことを思うと、きっと違うことばを選んでしまう。書かないと思う。ワープロだから書くのは簡単、という人がいるかもしれないけれど、私の場合ちょっと違う。私はきっとワープロで文字を打ち込みながらも、「肉体」は文字を書いている。だからむずかしい漢字はワープロのキーを叩くとき避けてしまう。(これは本を読むときに、音読はしないけれど、無意識に声帯や何かが動くのに似ている。)
 あ、脱線してしまったが。
 で、この「意識の加速」というのはほんとうに意識の加速?
 私の「感覚の意見」はここでも、ちょっと暴走する。
 どうも「漢字(文字)」が文字の力(表意文字だから、その表意する力といえばいいのかもしれないが)に乗っかって、どこかへ飛んで行く感じがする。
 離脱、飛翔、ということになるかもしれない。--あ、こんなことばをつかってしまうのは、きっと秋川のことばのあり方に染まっているからなんだろうなあ。
 で、
 その離脱、飛翔は、「いま/ここ」から離れること、「いま/ここ」が引き留めているものをふりきってどこかへ飛んで行くこと、という具合に考えると、ほら、最初の「麒麟(書けない)」「孔雀(書こうとしても思い出せない)」の「いま/ここ」とは違う世界ということとつながらない?
 「断片化」とか「集積」というようなことばは、どちらかというと「科学的」(客観的?)な雰囲気があるが--これも、感覚の意見です、はい。その、どちらかというと理知的で客観的なことばが、麒麟や孔雀という幻想的な表記を、ぐい、と押す。「いま/ここ」から切り離され、飛んで行ってしまうことに対して、理性の保証を与えるという感じの役割をしていると思う。
 いいかえると、
 これからいろんなことが、「いま/ここ」ではつかわれないことばで書かれるけれど、それは幻想ではなくて、ほんとうは「理性」がとらえた客観的世界(科学的世界)なのだという「保証」。
 なんとなく、そう説得されてしまう感じがするのだ。

それはただ慈しみを湛えた阿弥陀如来や弥勒菩薩とて同じであり、
それゆえ、我々は煌びやかな舞踏によって、やがて世界をプラチナ
箔の一双屏風の中に塗り込める力を持った観音が現れるのを待つし
かないのだ。

 ほんとう? わからないけれど、これが「わからない」のは私がばかだからですね。だって、秋川のことばは科学的・客観的なことばに支えられているのだから。

 ふーん。

 書きながら、私は半信半疑(って、つかい方で大丈夫?)。
 「実感」できるのは、秋川のことばを読んでいると、そのことばが、どうも私の日常的につかっていることばとは違って、ことばがことばのなかを自由に飛んで行く感じがする。ことばがそうやって、どんどん「いま/ここ」から遠くへ行ってしまう、という感じがする。
 まあ、秋川は、ことばにそういう力を与えようとして書いていることなんだろうなあ。
 それから。気がついたことがひとつ。ことばが「いま/ここ」から離脱、飛翔するという運動を考えるとき、秋川のことばには、もうひとつ大事な「ことば」(要素)がある。「漢字」でなはい、あることばが重要な役割をしている。いいかえると、頻繁に出で来る。

白象も獅子も、麒麟も孔雀も、恐らくこの戒厳の季節を瞬時に終わ
らせることはできないだろう。

 この文の中の「ない」。否定。それが、ことばが「いま/ここ」を離れていくとき、とても便利(?)なのだ。「いま/ここ」では「ない」の「ない」につながっていくのだ。そして、その「ない」が否定ではあるけれど、私たちが日常的につかっているために、意外と(?)否定しているという気持ちが意識されない。
 「終わらせることができないだろう」も「終わらせることができるろう」も、たぶん、私は同じ感じで自分の肉体の中に取り込んでしまうだろうなあ、と思う。

白象も獅子も、麒麟も孔雀も、恐らくこの戒厳の季節を瞬時に終わ
らせることはできないだろう。断片化してしまった心を集積し、あ
るいは魂を強く反転させて、刹那的にその舌先を浄めることができ
たとしても。

 ここでは「できない」と「できる」が「同じ」感じでつかわれているだけではなく、「できたとしても」「できないだろう」という、とても複雑な--「ない」を強調する形でことばが動いている。
 ここが秋川の詩の特徴だと思う。「舞踏」とはよくいったもので、この「できたとしても」「できないだろう」という、どこへも進まない、「いま/ここ」に踏みとどまる運動が「舞踏」なんだろうねえ。
 一方で漢字(表意文字)を利用して「いま/ここ」から離脱・飛翔しながら、否定と肯定をぶつけるという「矛盾(結果的には、否定の方へ傾くのだけれど)」が、ことばの肉体を「舞踏」に仕立てるということなんだろうと思う。

 くりかえして言うと(整理して言うと)、秋川のキーワードは「ない」である。漢字が目立つけれど、その意識のそこにあるのは「ない」という不思議な「哲学」である。「ない」ものが「ある」をめぐってことばが運動している。
 「ない」ということばがないと、たとえば次のような行は書けなくなる。そのことが「ない」こそが秋川のキーワードであることを証明している。

期待は毒薬、絶望は媚薬? 悪い噂をキャベツみたいに齧り尽く
した所で、謹厳な父親が鸚鵡になったりはしないだろう。
                        (「狂詩曲(ラプソディー)」)

あらゆる訴訟は不安と保身の顕現であって、その正体はナースコー
ルと変わらない。言うなれば、逃げる輩が正義をかざす。
                               (「春の覚醒」)

ところで、富がいつしか卓越した創造の前に跪くという願いはつい
にナイーブな幻影に過ぎないとして、創造が必然的に富に隷属する
という断定も、言わば一つの軽佻なデジャヴに過ぎない。
                   「舞姫(をとめのすがたしばしとどめむ」)

 最後に引用した「……に過ぎない」の「ない」。これは特に秋川のことばを考えるとき象徴的なものに思える。
 「……に過ぎない」は「ない」という「否定」を含んでいるが、その「意味」は「……である」である。強い肯定である。
 より強い肯定のために、秋川のことばは否定を潜り抜けるのである。

 ここから一気に飛躍してしまうと。
 より深く「いま/ここ」に潜り込むために、「いま/ここ」から離脱・飛翔するのが秋川の詩である。


詩集 戦禍舞踏論
秋川 久紫
土曜美術社出版販売
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岡野絵里子『陽の仕事』(2)

2012-11-13 10:57:12 | 詩集
岡野絵里子『陽の仕事』(2)(思潮社、2012年10月30日発行)

 岡野の詩を読んでいると、ときどき「何か」とすれ違う。「何か」としか言いようがないのは、その「何か」を岡野は追いかけず、別なものを追いかけるからである。そして私は岡野が追いかけているものではなく、別な「何か」を追いかける。
 たとえば、「観覧車(ビッグ・ウィール)」。

 ……チャム、 と小さな扉が閉まると 狭い箱の中で私たちは親
密になった フロリダから来たエイミーと 私と それから歌のよ
うに近づく

 私はこの部分が大好きだ。観覧車の小さな箱の中で「私」と「エイミー」がいる。そう気づいたとき、ふたりは「歌のように近づく」。
 「歌のように近づく」というのは、どういうことか。「私」には「私のメロディーとリズム」があり、「エイミー」には「エイミーのメロディーとリズム」がある。それは別個の存在であるけれど、それが出合ったとき、どちらからともなく「和音」(ハーモニー)を求めるようにして変化が始まる。
 人と人の出会いには、たしかにそういうものがある。

 しかし、ほんとうは(?)、そうではないのだ。岡野の詩は私が書いたようなものを追いかけているわけではない。実は、この詩の2連目は次のような形をしている。

 ……チャム、 と小さな扉が閉まると 狭い箱の中で私たちは親
密になった フロリダから来たエイミーと 私と それから歌のよ
うに近づく 何かの気配 アジアで一番大きい観覧車なのよ だか
ら乗りたかったのよ とエイミーは言い 箱は私たちを乗せ 静か
に投げ上げられた

 近づくのは「私」と「エイミー」ではなく、「何かの気配」である。
 この瞬間、私は「見た」と感じたものを見失う。--これは私の誤読である。あ、間違えて読んでしまった、そうなのか。そう思うとき、その「そうなのか」には何かがっかりしたものがある。
 どうして「何かの気配」なのかなあ。

 エイミーは長野で初めて見た雪のことを話す 凍った羽根が降っ
て来るの 信じられない量!

 このことばには「エイミーのメロディーとリズム」があり、それが「私」にまっすぐに近づいてくるのがわかる。あ、いいなあ、と思う。けれど、

 エイミーは長野で初めて見た雪のことを話す 凍った羽根が降っ
て来るの 信じられない量! でも今は私たちが天使の位置にいる
わけね 振り返ると 湾に散る光が見えた ああ あそこにも羽根

 「エイミー」は雪を天使の凍った羽根と見る。そして「私」は東京湾に散った光を、その散らばっている乱反射を天使の羽根と見る--という具合に「音楽」は響きあっている(響きあおうとしている)のだが……。

でも今は私たちが天使の位置にいる

 これが、なんとも「理詰め」すぎる感じがする。いや、「理詰め」で追いかけようとすると、天空にいる「私たち」が天使なのだから東京湾で散らばる光は「私たち」の羽根ではないことになる。羽根は舞わずに、海に漂っている、という具合に何か背中がむずむずするような「気配」を感じる。
 と、書きながら、それでも岡野の詩を読んでしまうのは、ことばにどこか清潔なところがあって、それが全体のトーンを統一しているからだと思う。

 岡野の詩には「光(陽)」があふれている。その光だけがもつ透明な清潔さが岡野を統一しているのかもしれない。
 そう思う一方、違うことも私は感じる。
 「インナーハウス」。

 見えないものが光る それは私がよく知っている家だ 眼の底
で 光っているのは 幻の門柱と車寄せの奥に見え始めているの
は 夜ごと建てられ 夜ごと壊される家 釘の音が叫び声のように
響き 古びた部屋たちが 揺れて重なり合う家

 ここにたぶん「もうひとりの岡野」がいる。「光(陽)」は見える。見えるけれど、それはたいていの場合、透明で見えない。つまり太陽の光をそのまま表現することはできない。光が透明であるがゆえに、私たちは「もの」を見ることができる。「もの」は不透明であり、透明ではないからこそ、見える。--ここに「論理」で追い詰めようとするとめんどうくさいことが起きる「矛盾」がある。だから、私たちはふつうそういうものをいちいち追いかけたりはしない。単純に、光があるから何かが見えると思うだけである。
 しかし、岡野はここで一瞬立ち止まっている。
 何か「目に見えないものがある」。それは「光(陽)」とは違う。外から照らすことで存在を浮かび上がらせるものとは違うものが「家」にある。それは「内部」から支える力というものだろうけれど、まあ、具体的に追いかけるのはやめておく。そういうものも「光る」。
 で、この「光る」は「光」とはどう違うのか。
 むずかしいね。
 説明するのはとてもむずかしいのだが、たしかに違うのだ。

 すこし違うのだが、「聖夜」のなかに、動詞について書かれた行がある。そのことが岡野の考えをいくらか説明してくれるかもしれない。

「悲しみ」と「悲しさ」では 深さが違う なぜなら
「悲しみ」は「悲しむ」という動詞の名詞化で
「悲しさ」は「悲しい」という形容詞が名詞化したものだからだ

 と書かれた文章を読んだ そうだ確かに 動詞は実感を伴って重
く 形容詞は客観性批評性をまとって身軽なのだ

 この「動詞」と「形容詞」に対する「定義」が正しいかどうか、私は知らない。大事なのは、それが正しいかどうかではなく、岡野は「そう考える」という「事実」なのだ。
 「動詞は重たい」。
 だから、

見えないものが光る それは私がよく知っている家だ

 この「光る」には、やはり「重さ」があるのだ。
 きのう「明るい恐れ」ということばを取り上げたが、きっとその「明るい恐れ」は単純な「光」ではなく「光る」ものなのだ。「恐れ」が光っている。「明るい」という「形容詞」をまとっているが、ほんとうは「光っている」。
 そこに「重さ」というか、「暗さ」に通じる何かがある。
 この「明るい」「光(陽)」と「光る」が出会い、近づいたり離れたりする運動の中で岡野のことばは動いている。動いているから、その動いているものを追いかけると、ときどき岡野の追いかけているものと「ずれ」てしまう。けれど「ずれ」たからといって、それでは岡野が追いかけているものとは完全に違ったものにたどりつくのかというとそうでもないような気がする。
 こういうあいまいな(?)気持ちになる詩というものが、私は、わりと好きである。
 「帆」という作品には、うまく言えないが、私がいま書いてきた感想の「ゆらぎ」がいい感じに重なり合う--と私は思っている。
 透明と輝きと暗さ(というより不透明ないのちの発光か)がなまなましく(?)というか、色っぽく、つまり「肉体」をもって、そこに存在している。

早朝のベランダで
シャツは目を覚ます
後ろ身頃をちょっと伸ばし
遠くを見るような仕草をして

人は シャツよりほんの少し早く目覚めただけ
古い夢から起き上がり
眼鏡を探し
新しい夢を読んで

食物の脂を滲ませて
人の体は甘く 重い
だが ベランダに立てば

帆となって一日をはらむ
家々の輪郭を鮮やかにする青
その奥で瞬く静かな瞳
それら決して届かないものの下
人は見えない水を分けて進み
密やかな望みにはためく





陽の仕事
岡野 絵里子
思潮社
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岡野絵里子『陽の仕事』

2012-11-12 09:52:19 | 詩集
岡野絵里子『陽の仕事』(思潮社、2012年10月30日発行)

 岡野絵里子『陽の仕事』はタイトルが象徴するように、光に満ちた詩集である。
 巻頭の詩は「光について」。

眠りの中で人は傾く
昼の光を静かにこぼすために

 書き出しの2行で私は夢中になってしまう。最近はこういう美しい行にはなかなか出合わない。書き出しから美しい詩というのは、昔、教科書で読んだ抒情詩くらいなものである。あのころは私も抒情詩が好きだった、というようなことを思い出したりする。
 あ、岡野の詩とは関係ないか。
 でも関係ないことを考えさせてくれる(感じさせてくれる)というのは、そのことばに「意味」以上の力があるからだ。だから、私は関係ないこと(書かれている意味以外のこと)を感じさせてくれる詩が好きだ。
 で、この2行--自分の体が舟になって傾きながら夜の海へ流れていくような、不思議な感じにさせてくれる。眠りの中で体が舟になり、眠りそのものは広い広い海。そして、そこには昼の光ではなく、夜の光が輝いている。
 その夜の光の前には、昼の光がある。それが2連目。

その日 私は沢山の光を抱いた
駐車場に並んだ無数の窓 その
一枚ずつに溜まった陽の蜜
無人の座席に張られた蜘蛛の糸を
渡って行ったきらめくビーズ

 真昼の駐車場の豪華な光の反射。でも、そこには人はいない。人は「ここ」(岡野が見ている駐車場)ではなく、どこかにいる。その不思議な、静かな緊張のようなものもある。そういうことも、夜、ほどかれるのだ。眠りの中で。閉ざした瞼の奥に、静かに何かがやってくる。それにおされるように昼の光をこぼし、夜をつみこむ--小さな舟。
 これは、岡野の詩とは無関係なこと(というか、書いていることとは違うこと)なのだが、そういう印象を私は最初の詩で感じた。
 次の「陽の仕事」。

 見えないものに 私たちはたやすく包まれる 光とか 声とか
それは どこか遠くに置いてきた心が痛むからなのか

 あふれる光を目印に 一日の頁が折られた 陽のまじめな仕事
を 誰かが拾い上げたかのように

 バスから次々と人が降りて来る 遠くから運ばれて 陽の下を散
らばっていく 呼ばれているのだ 一日の中へ

 やがて 人の仕事も始まっていく

 通勤の風景を書いているのかもしれないけれど(働きはじめるひとを励ますのが陽の仕事であるというのかもしれないけれど)、ここには最初の夜の詩とは逆の動きがあるね。「遠くから運ばれて」は単に距離の問題ではない。遠い夜の時間から運ばれて来るのである。そして、夜の時間を(夜の光を)静かにこぼすために、ひとは身をかたむける。それは傾いた肉体をまっすぐにするということかもしれないけれど。
 陽の光、朝の光は人間をまっすぐにする。何かが私たちを包み、まっすぐにする。そのまっすぐになるという動きの中で、やはり「傾き」があり、何かがこぼれる。「どこか遠くに置いてきた心」へ向かって、まだ肉体のなかに残っている心がいそいで帰っていく。それが「心の痛み」。

 そんなことを思っていたら、「紙の舟」。

 その人はそっと腰かけた そこが世界の縁と知って 私も静かに
腰かける 世界の縁の反対側に 世界は穏やかに傾いた 私たちの
明るい恐れを乗せて

 最初に私が思い浮かべた「舟」が、こんなところで出てきた。しかも、ここにも「傾き」がある。
 あ、と思う。
 何かにふれているのだと思う。それは「意味」では説明できないものなのだが、こういう不思議な瞬間に、あ、この詩はいいなあという感想が生まれる。
 それはおいておいて。

 明るい恐れ

 このことばに、私は、岡野の書いている「陽の仕事」が結晶していると感じる。「明るい」と「恐れ」はどちらかというと「矛盾」した感じである。「暗い」と「こわくなる」というのが普通である。「暗い」と何も見えない。だから「こわい(恐れる)」。「明るい」と安心である。
 でも、岡野が書いているのは、そういうことではない。
 「恐れ」そのものが、何かしら「明るい」ものをもっている。そういう「恐れ」を感じている。
 では、「明るい恐れ」とは何?
 よくわからないけれど、それを「昼」と「夜」とに関係づけて私が思うのは、「明るい恐れ」というのは「知っていること」なのだ。「昼」の体験が照らしだすもの、「昼」の体験が教えてくれるもの。
 極端な例を書くが、たとえば人が死ぬ、その死と向き合う--これが「昼」の体験。つまり「夢」ではなく「現実」の体験。そして「体験」したからといって、それが「わかる」わけではない。人が死ぬ。でも、その死を人間は自分のものとしては体験できない--ということではないが、体験してしまったら、死は体験ではなくなってしまう。そういうことが「現実」にはあり、それを私たちは「昼」の体験として体験しているのだが、ほんとうにそう言える? 「昼」の体験なのに、死は「実感」ではなく、私たちが何事かを理解するために考え出した「概念」にも似ている。
 体験しないことでも私たちは知ることができる。考えることができる。それがなぜなのか、それはわからない。そしてわからないまま、それをことばにすることもできる。
 たぶん、ここに「詩」が誕生する「驚き」の瞬間があるのだと思う。
 それを岡野は「明るい恐れ」ということば、「明るい(明るさ、陽)」ということばのなかに凝縮させている。





陽の仕事
岡野 絵里子
思潮社
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ロバート・レッドフォード監督「声をかくす人」(★★★+★)

2012-11-11 10:40:44 | 映画



監督 ロバート・レッドフォード 出演 ジェームズ・マカヴォイ、ロビン・ライト、ケヴィン・クライン

 ほれぼれしてしまった。スクリーンを見ながらほれぼれしてしまった。--この「ほれぼれ」は、あまり適切なことばではないだろうなあ。ほんとうはこんな具合にはつかわないのだろうなあ、と思うけれど。
 何にほれぼれとしたか。ロビン・ライトである。あ、倍賞美津子に似ていると思いながら、そういうば倍賞美津子にもほれぼれとしてしまうんだなあ、と思い出した。
 そこに彼女がいる。そうすると、もうそれ以外のことが気にならない。吸い込まれてしまう。その顔に。その顔に刻まれた皺に。目の暗い輝きに。その強さに。
 自分の「無罪」は自分がよく知っている。だから「無罪」を主張する。で、その「無罪」に対して軍事法廷は「証拠」を求めてくる。「おまえが無罪なら誰が犯人なのか」と。彼女にはそれが答えられない。わからないからではなく、「わかる」から。「わかる」といっても確証ではなく、そうではないか、というおぼろげな印象である。おぼろげではあるが、それが胸に強くひびく。なぜなら、それが息子だからである。どんなときでも母親は自分の子どもを信じる。そして、守る。その苦しみと、その喜び。喜びというのは、まあ、違っているかもしれないけれど、自分は死刑になるかもしれないけれど、とりあえずいま息子が死刑にはならないということ。それを思うこと。
 でも、これって、正しいこと?
 あ、これがむずかしいね。
 「情念」と「真理(理想)」がせめぎ合う。そのせめぎ合いのなかに「人間の尊厳」のようなものが輝く。そしてロビン・ライトは「事件」の「事実」ではなく、彼女自身、母親としての「事実」に従う。「情念」に従う。「事実」のなかに「真実」があるとは限らない。けれど「情念」のなかには「真実」があり、「真理」があり、「永遠」がある。
 これをロビン・ライトは表情と、姿勢の美しさで表現する。具現化する。いやあ、すごい。もともと私はロビン・ライトが好きだけれど、夢中になってしまう。
 「北のカナリアたち」の吉永小百合と比較してはいけないのかもしれないけれど、小百合のノーテンキな子どもたちへの信頼と比べると、その「真理=心理」に雲泥の差がある。「北のカナリアたち」を倍賞美津子で見てみたいなあ、とふと思った。
 脱線した。
 「声をかくす人」にもどると。
 このロビン・ライトがたったひとりで表現する「事件の事実」と「こころの事実(こころの真理)」の問題を、ジェームズ・マカヴォイが「事件の事実」と「法の事実(法の真理、理想)」の問題として浮かび上がらせる。
 リンカーンが暗殺された。それは事実。そしてその犯人をつきとめ裁かなければならないというのは「法の仕事」である。その「法」のなかに、「事件の事実」以外のものが入り込んでくる。「裁く人間(検察側)の心理」である。その心理は「事実」を追求するという法の理念(法の真理)からはみ出して、「復讐」に傾いてしまう。「われわれのリンカーンを暗殺された。暗殺者には必ず報復をしなければならない」という「心理」が、ほんとうにロビン・ライトが共犯者なのか、その証拠は何かを追求する、真実を追求するということを妨げてしまう。
 この問題を、いやあ、ロバート・レッドフォードはうまいなあ、「社会派の正義」を振りかざさず、さらりと表現する。いちばん訴えたいことを、ほんの一瞬でことばにする。軍事法廷でおこなわれているのは裁判ではなく「復讐(リベンジ)」であると、ジェームズ・マカヴォイに一回だけ言わせている。
 人は誰でもいいたいことを何回でも言ってしまうものだが、ロバート・レッドフォードは一回しか言わないことで、それを聞き逃す人を逆に糾弾しているのだ。
 そして、そこで起きたことをロビン・ライトの表情と姿勢に集約させる。彼女の存在を忘れるな、彼女にしてきたことをアメリカは責任を持ってつぐなわなければならない。それは彼女を忘れない、いつでも思い出すというとでしかつぐなえない。「事実」の「継承」。それを、ロバート・レッドフォードは、ここでしっかりと実行している。

 ああ、ロバート・レッドフォードは、ほんとうはこういう映画の、ジェームズ・マカヴォイのような役こそ演じたかったんだねえ。でも、あの金髪と青い目がそれを邪魔している。典型的な美男子に観客は「正義派」を期待しない。人間の苦悩を期待しない。個人的な恋愛の苦悩なら別だけれど……。美形の男優を美形に終わらせず何とか俳優に育てたい--自分のできなかったことを美形の若手に実現してもらいたい、という気持ちで映画をつくっているのかもしれないなあ。

 あ、+★の★はロバート・レッドフォードに対してではなく、ロビン・ライトに。彼女の演技がなければこの映画は成立しない。主役のジェームズ・マカヴォイの演技を受け止めながら、その「受け止める」演技で、ジェームズ・マカヴォイの「肉体」のなかから「真実」が芽生え、育っていくのを励ますという、いわば「大地」のような役どころなのだが(実際は彼女の方が守られるべき立場なのだが、それが二人の「こころの成長」のなかでは逆転する)、これがほんとうに「美しい」。ゆるがない。こういう演技にこそアカデミー賞を与えたい。
 激情をしぼりこんだような、冷静な映像(カメラ)も、とてもよかった。
                      (2012年11月10日、KBCシネマ2)



The Conspirator/声をかくす人[Region2][UK-PAL[Import]
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小川三郎「洗濯」、金井雄二「蓋と瓶の関係」

2012-11-10 10:28:30 | 詩(雑誌・同人誌)
小川三郎「洗濯」、金井雄二「蓋と瓶の関係」(「Dawn Beat」創刊号、2012年10月31日発行)

 小川三郎「洗濯」を読みながら、あれっ、小川三郎ってこんな詩人だったっけ、と思った。私は記憶力がほとんどなく、特にひとの名前は苦手で勘違いしているかもしれないけれど。よくわからないが、今回の「明るい」ことばが私は気に入った。

洗濯機が回っている
私の洗濯ものが回っている。

知らないひとの洗濯ものも
ひとつふたつ混ざっている。

たぶん私の洗濯ものも
ひとつふたつは知らない家で
洗われているので構わない。

パンツもシャツも手ぬぐいも
みんな仲良く回っている。

泥の汚れも油の汚れも
みんな仲良く流されていく。

洗濯機は
底が抜けている。
向こうに私の顔がある。

 1連目は「ほんとう」である。(と、仮定しておこう。)でも、2連目は「うそ」だね。そういうことは現実にはありえない。3連目も「うそ」。しかし、この3連目が「うそ」といいながら、実に微妙。

たぶん私の洗濯ものも
ひとつふたつは知らない家で
洗われている

 ここまでは、完全に「うそ」。しかし、そのあと

      ので構わない。

 これは、どう?
 「構う」「構わない」は「私(小川、と仮定しておく)」の「気持ち」。「気持ち」が「ほんとう」か「うそ」かは、変な言い方だが、本人次第。
 で、この詩の場合、それは「ほんとう」なのだ。
 なぜ、それが「構わない」かと言えば、それは「ほんとう」のことではなくことばで書いているだけのことなのだから、実際に何かが起きるわけではない。いや、何かが起きるのだけれど、それはあくまで「私」の「思い」のなか、「私」の「肉体」のなかに起きることであって、それは「私」が責任を持てばいいだけのことである。
 こういう「うそ」を「構わない」と受け入れると何が起きるか。「楽しい」が起きる。つまり、愉快になる。
 この「構わない=楽しい」を別なことばで言うと、どうなるか。
 私の「現代詩講座」なら、ここで質問する。

<質問>「構わない」を小川は別のことばで言っていないかな? 
    ヒントは、大事なことばは何度でも繰り返される。
<受講生1>「みんな仲良く」かな。

 そうだね、私もそう思う。「みんな仲良く」というのは「楽しい」。何かを忘れて(何かに構うことはいったん脇に置いておいて)、「いま/ここ」で「私」と「みんな」の区別をなくして何かをする。
 で、ほら、いま「区別をなくして」と私は言ってしまったんだけれど、

<質問>「区別をなくして」を別なことばで言うと、どうなるかな?
    小川は何と書いているかな?
<受講生2>「知らないひとの洗濯ものも/ひとつふたつ混ざっている。」の混ざってい
    るかな。

 そうだね。「混ざっている」。

<質問>「ひとつふたつ」は別なことばでは?
<受講生3>「パンツもシャツも手ぬぐいも」
<受講生4>「泥の汚れも油の汚れも」

 そうだね。で、これがちょっとおもしろい。「区別をなくして」なのに、「パンツもシャツも手ぬぐいも」「泥の汚れも油の汚れも」も「区別している」。

<受講生3>「私の洗濯もの」と「知らないひとの洗濯もの」も。

 そうだね。ほんとうは「区別」がある。けれど「区別しない」。「矛盾」だね。その「矛盾」を受け入れる。これが「構わない」。そうすると「楽しい」。
 ここに小川の「肉体」というか、「思想」がある。思想はいつでも「矛盾」のなかにある。「矛盾」というのははっきり見えると思いがちだけれど、実はよく見えないこともある。
 この詩の場合も、

<質問>この詩には矛盾したところがあります。それはどこですか?

 こんなふうに突然質問しても、きっと、わけがわからなくなると思う。どのことばもだれもが知っていることばだし、ここに書かれていることはありえないことなんだけれど、ふとそんなふうな気持ちを感じることもある。
 どこに矛盾がある?
 矛盾なんてないじゃないか。
 そんな感じになると思う。
 でもね、「構わない」ということばをていねいにほかのことばと関係づけて読んでみると、何かが見えてくるでしょ? 矛盾が見えてくるでしょ?
 そうすると、「構わない」が小川の詩の「キーワード」ということになる。「構わない」ということばを書かなかったら、この詩はうまく動かない。詩が成立しない。ふつう「キーワード」は隠れていて、詩人はそれを書かない。けれど、それを書かないとことばが動かないとき、たった一回かぎりつかう。そういうものだと思う。
 つかいながら、きっとつかったという「気持ち」もない。

 「みんな仲良く」区別がない。それが「かまわない」と言えるのは、まあ、暮らしというものがみんな「区別」のない何かだからだね。「ひとりひとり」違うけれど、その「違い」を飲みこんで「同じ」ものがある。そういうところをつかみとれば、暮らしは何があっても「構わない」といえる心境になるかもしれない。

向こうに私の顔がある。

 これは「向こう」と「私」がつながって「区別がない」ということでもあるだろうね。



 金井雄二の「蓋と瓶の関係」も楽しい詩だ。

蓋の欲望は
瓶の上に乗ることだ
ぼくは瓶の中から
ジャムをすくい
パンにぬりおわると
蓋を閉める
平均的な力を
だんだんと加える
蓋は瓶の縁を
幾重にもなめるように
合わさっていく
がっしりとかさなる
それは純粋な幸福感
子どもがきて
蓋を開けようとしても
あかない

 「蓋の欲望は/瓶の上に乗ることだ」って、「ほんとう」? どうやって蓋の欲望を聞きだしたのかなあ。もしそれが蓋の欲望なら、瓶の方の欲望は? ね、こんなふうに「意地悪」をしてみると、金井の書いていることが「うそ」だとわかる。ことばだけの世界だということがわかる。
 で、そういう「ことば」の世界を生きていくと、とっても変なことが起きる。
 瓶の蓋を閉める(締める?)を、全部ことばにしてみる。「平均的な力を/だんだん加える」なんて、うーん、私に言えない。そうか、「だんだん」か。
 で、途中を省略するけれど。蓋が「がっしりかさな」って、

それは純粋な幸福感

<質問>これはだれの幸福感?
<受講生1>蓋の幸福感。
<受講生2>「ぼく(金井)」の幸福感。

 うーん、どっちかわからない。「区別」がつかない。まじりあっている。この「交じりあって」「区別がない」状態を、小川の詩を読んだときは「楽しい」と言ったね。
 この詩も、この「それは純粋な幸福感」という、蓋か「ぼく」か区別のつかないところへ来たとき、その「楽しさ」が頂点に達する。

<受講生3>瓶の幸福感だと間違いになりますか?

 あ、すっごくいい質問。
 私はならないと思う。ほんとうは、そういうことまで金井は書いていると思う。瓶に蓋がしっかりしまり、それが蓋の幸福であり、「ぼく」の幸福であり、同時に瓶の幸福。「区別」がないことが「楽しい=幸福」だからね。
 最後の3行は、その「幸福」をじゃましちゃだめだよ、という金井の「わがまま」。子どもはその幸福からはじき出されているのだけれど、構わないね。開けようとしてうんうんうなる--そこにはまた別の幸福があるはず。
 書いていないけれど、金井はそういうものも見ている。



象とY字路
小川 三郎
思潮社
にぎる。
金井 雄二
思潮社
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小松弘愛『ヘチとコッチ』

2012-11-09 11:04:02 | 詩集
小松弘愛『ヘチとコッチ』(土曜美術社出版販売、2012年10月30日発行)

 小松弘愛『ヘチとコッチ』は「土佐の言葉」について書かれた3冊目の詩集。その土地、その土地のことばというのは、何か肉体を感じさせるものがある。ことばが耳のなかから肉の中まで入り込んで、奥底の何かを揺さぶるようなものがある。「古語」にも、そういうものを感じる。というか、ことばとはもともと肉体と密接な関係があって、その「肉」の部分が失われずにあるものなのかもしれない。
 「しつをうつ」は「水打ち」しているところに差しかかった小松が、その水を浴びてしまう。

「あっ、すいません。
しつをうってしまいました」
バケツを手にしている女の人は
その昔の「サザエさん」が年をとったような人
「いやぁ、暑いですねえ」
ブロック塀越しに見る庭の向日葵もうなだれていた

「しつをうつ」
あるいは
「しとをうつ」「しとをする」
漢字を宛てれば「湿を打つ」でよかろう

 そうなんだろうけれど。
 私は「尿(しと)」も瞬間的に思い浮かべた。芭蕉の「のみしらみ、うまがしとする……」ですね。
 で、その瞬間、土佐ことばの「しつをうつ」が、ものすごくなまめかしく「肉」に迫ってくる。人間と(肉体と)水の関係が、一瞬、わからなくなる。
 滝井孝作(だったと思う)の文章のなかに、男がいつも帰り道に立ち小便をする。そこを妻と二人でとおりかかったとき、「おまえもしてみろよ」と唆す。女は一瞬ためらうのだけれど、やってしまう。このときのことを、滝井孝作はながながとは書いていないが、何とも言えない「肉」の交歓のようなものがある。
 それを瞬間的に感じた。その感じが私の「肉」のなかで甦った。
 「水を打つ」では、こんなことは思わないなあ。
 で、ちょっと芭蕉の句にもどると。
 「うまがしとする」は単に旅のわびしい宿の状況を描いているだけではなく、「いきもの」のなまあたたかい交歓がそこにあるから、肉を揺さぶってひびいてくるのだな、と思うのである。わびしさよりも、生きていることの「ぬくもり」がある。
 「水を打つ」というのも、何か「いきもの」の「ぬくもり」とつながるところがあるかもしれない。クーラーで冷房するのとは違う、何か、生きているものが「循環」する動きがそこにはある。
 で、そういうことを考えながら(感じながら)つづきを読んでいく。
 数年前から高知市ではバケツで湿を打つ女性が増えたそうだ。

そのきびきびした動作を目で追っていると
絵心もないのに
「湿を打つ女」の構図を考えてみたりして

 小松にそういう気持ちがあったかどうかわからないけれど、私はここで「しとをうつ(しとをする、尿をする)」女を瞬間的に思い浮かべる。小松は、いや、それは違うと否定するかもしれないけれど、そういう「誤読」を誘う力がこのことばにある。(ことばに力があるのではなく、私にスケベな妄想をする癖があるのかもしれないが。)
 こういうとき、私は、ことばに魅力を感じる。古いことば、その土地でのこっていることばの奥にある「肉体」を感じる。「思想」を感じてしまう。それに、もっとふれたい、という気持ちになる。

 私の書いているのは、またまた詩の感想ではないかもしれない。
 何回も小松の「土佐ことば」の詩には感想を書いているので、まあ、いつものどおりの感想ではなく、こんなふうに逸脱していくのもいいかな、と思い書いているのだが。
 ことばの不思議なつながり、ことばが肉体を通り、そこを出ていくことで、ことばそのものが肉体になり、説明のしようのない形でひびいてくる。そういう作品をもうひとつあげるなら、「ふけりあめ」。

雨が降っている
「ふけりあめ」が降っている

『高知県方言辞典』には

ふけりあめ
 見せびらかすように降る雨

 あれっ、「ふける」っ方言? よく思い出せないが、なんとなく「みせびらかす」という感じでそのことばを聞いたような気がするのだが……。
 小松が最後に注釈で書いているけれど、「広辞苑」にも「他人に見せて誇る。みせびらかす」という具合に説明がでている。私はつかわないけれど「広辞苑」に出てくるくらいだから「方言」というものではないような気もするが。
 「方言」ではないなら。
 それは「方言」ではなく、昔からあることばが、そのままの形で土佐には生きている、ということになる。「方言」というようなものは実は存在しなくて、そこには「生きている肉体」があるだけなのだ。「生きつづけている肉体」と言い換えてもいい。
 なぜ、生きつづけたのかなあ。まあ、これはわからない。わからないけれど、あ、ここに何かが生きつづけている、と思うのは何かしら「肉」が励まされる感じがする。
 で、ここから、私の「誤読」。
 「ふける」というと私が思い浮かべるのは「心を注ぐ。没頭する。心を奪われる。自制心をなくす(広辞苑)」というようなものなのだけれど。
 これって、よくよく「肉体」と相談してみると(肉体の声を聞いてみると)、「見せびらかす」にどこか似ている。「心を注いだものを、見せびらかす」「心を奪われたものを、見せびらかす」「自制心をなくしたもの、もうそこには自分はいなくて、ただそれだけがあるというようなものを、見せびらかす」。見せびらかすものは、自分にとってとても大切なもの。
 豪快で、きらびやかだ。
 で、ね。
 私は少しはずかしいことを書くのだが、この「ふける」「みせびらかす」ということばの底を動いている力について考えたとき、そこに、さっき読んだばかりの「しと」がぎゅっと割り込んでくる。「湿」ではなく「尿」の「しと」が。「しと」につながる、セックスが。
 セックスに「ふける」。まあ、これは「自制心をなくす」ということかもしれないけれど、それを「没頭する、心を注ぐ」という具合に考えていくと、それはポルノにつながる。セックスは見せるものではないのかもしれないけれど、見せびらかすことができたら、それはそれで豪快で、きらびやかだねえ。実際、見せびらかしたいひともいるし、見せびらかすことで生活を支えているひともいる。勝新太郎のように「おれは鏡を見ながらオナニーができる」と言った激烈なナルシストもいる。
 激しく降る雨をただ「はげしく」と言うのではなく、その「激しさ」のなかに「心を注ぐ=見せびらかす」という「心理(肉体の奥の思想)」をくみ取り、それを「ことばの肉体」の奥に隠して、「土佐ことば」は生きつづけているのかもしれない。
 で、さらに「誤読=妄想」を暴走させると。
 「しとをうつ」「しつをうつ」「水を打つ」という女を、たとえば私ならどんな構図にするか。(小松は書いていないが……。)
 いい男(気に入っている男=小松)が毎朝家の前を通る。待ち伏せをするようにして水を打つ。「あ、ごめんなさい。ぬれました?」と服が濡れたのを口実に家に誘い込む--そういう「物語」がどこかに隠れていない? そのとき、「しつをうつ」の「しつ」はしらずしらずに「しと」と結びついている「肉体」にもつながっていく。そういうことを、男は(小松は、とはいわないのだが)、ひそかに思い描いたりする。

 --こんなことは、小松の詩集のテーマ(?)ではない。そう、たしかにテーマではないだろうし、そういうことは書いていないのだが、そういう書いていないことを感じさせるのが詩なのだ、と私は思っている。



詩集 のうがええ電車―続・土佐方言の語彙をめぐって
小松 弘愛
花神社
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阪本順治監督「北のカナリアたち」(★)

2012-11-08 11:07:52 | 映画
監督 阪本順治 出演 吉永小百合

 若手6人の演技を見たくて行った映画だったが……。
 これは、ひどい。映画になっていない。「生きていなければだめ」というメッセージを伝えたいのはわかるが、この映画を見て、そう感じる? 最後の「うたをわすれたかなりあ」をいっしょに歌いたくなる?
 ならないなあ。
 「のど自慢」を見たときは、最後の「上を向いてあるこう」を思わず口ずさみそうになって、音痴なのを思い出してやめてしまったけれど……。
 何が問題か。
 小百合と6人の教え子、それに小百合の夫、愛人(?)が登場するのだが、これがばらばら。教え子の二人が、ほんとうは相手が好きだったという以外は、互いの関係がない。分校にいていっしょに歌を歌っているけれど、それだけ?
 全員が小百合と個人的に関係するだけ。
 うーん、これって、イスラム教みたい。私がイスラム教を誤解しているかもしれないが、誤解ついでに書いてしまうと、イスラム教というのは神と個人の「直接関係」の宗教。神と個人が、ひとりひとり「契約」を結び、その「契約」を履行すると天国へ行ける。だから9・11のテロにしても、他の人をどれだけ殺そうと、それが神に対して約束したこと(契約)なら、それは天国への道。神が個人に対して問うのは、どのような「契約」を神と結び、それを履行するかどうかだけ。
 で、ここから派生して(?)、人間関係も個人と個人をとても重視する。「直接的な関係」を重視する。「直接的」ではない関係なんて、その人にとっては「関係」ではないのである。
 この視点からみると、吉永小百合の「位置」がとてもすっきりする。
 小百合は子どもたちにとっては「神」。6人のこどもが登場するが、彼らは「神=小百合」と「直接関係」を生きる。そのときたまたま「コーラス」(コーラン、と書きそうになってしまう)を媒介にしているので、そこに「和音」の関係が生まれるが、それは副次的なもの。6人は、他の5人との「直接関係」では動かない、影響を受けない。いや、こどものけんかがあったではないかというかもしれないが、そのけんかで「人間」がかわるわけではない。「神=小百合」のまわりで起きた「飾り」であって、それが証拠に、そのけんかの結果、「神=さゆり」という関係が変わるわけではない。だれかが「先生、私意地悪をされた。かわりに叱って」と訴えるわけではないし、まあ、そんなことは訴えなくても先生なら注意しなければならないから注意するだけであって、その結果「先生は、だれそれの見方で、私のことなんかどうでもいいんだ」というような、こどもっぽい「すねた」何かが動くわけでもない。「神=さゆり」と児童ひとりひとりが「直接関係」を「個人的」に生きているから、こんな具合になる。
 事件(?)の奥にある「神=小百合」と男との密会をこどもが見た、ということさえ、なんというんだろう、「有機的」ではない。ことばのうえでは、小百合は男と会っていたというのが村中のうわさになっていると説明されるが、ぜんぜん有機的ではない。だいたい、そういうことを「主人公」の「こどもたち」が共有していないことがおかしい。こどもというのは何でも共有してしまう。分校で6人しか児童がいないなら、当然、共有されない「秘密」なんていうものはない。そして、そういう「秘密」が共有されるなら、人間関係はもっと濃密になる。
 人間関係が濃密にならないのは、すべて「神=小百合」と「個人」という「直接関係」が重視され、その他の「個人」と「個人」の関係は付属のもの、副次的なもの、と考えられているからである。
 小百合を「神」とあがめる「サユリスト」なら、まあ、こういう映画もいいのかもしれないが。
 人間が人間同士からみあって、そのからみあいがどうしようもなくなる、というところへ人間が動いていってしまう。そして、そのどうにもならないものを、役者が「肉体」として表現して見せる--そういうものでないと、映画とは言えない。スクリーンに大写しになる「役者の肉体」、その苦悩をこそ私は見たい。その苦悩なのかに、人間はこういう苦しみも生きることができる、という「希望」がある。
 映画が描きたいのは、まあ、そういうことだったのかもしれないけれどね。スクリーンからはつたわってこない。て

 問題はまた別のところにもあるかもしれない。
 こどもたち6人は小学校時代とおとなになってからを別人が演じるが、小百合は「神」なので若いときも年を経てからも同じ人物のままである。これがねえ、とっても「まずい」。「神=小百合」対「個人」という「直接関係」がさらに強調されてしまう。
 小百合が演じた教師も若いときとその後を別人が演じるべきなのだ。別人が演じながらも、そこに「先生-児童」という関係が思い出されて、甦るとき、「生きてきた時間(描かれなかった人生)」が噴出してきて、彼らを「いま/ここ」から「未来」へ突き動かしていく。そういうドラマがあってはじめて映画になる。
 ほんとうに描かなければならないのは、「いま」と「過去」のあいだにある「だれも知らない時間」である。その「だれも知らない時間」を小百合も6人のおとなになったこどももきちんとは描かない。「いま不倫しています」「けんかしていたけれど、実は好きでした」というのはほんの一瞬。そういう一瞬ではなくて、「会わなかった長い時間」が描かれないかぎり、それは映画ではなく、単に「小百合ショー」。「小百合」を美しく見せるための「ストーリー」があるだけ。
 小百合は松阪慶子のようにぶざまに太らず、むしろ若いときよりスマートになっている感じさえするが、でも、それがどうしたの、とサユリストではない私は思ってしまうのである。
                        (中州大洋1、2012年11月04日)




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浜田優『生きる秘密』

2012-11-07 11:09:38 | 詩集
浜田優『生きる秘密』(思潮社、2012年10月25日発行)


 浜田優『生きる秘密』を読みながら、あ、そうか、詩とは比喩なのか--と、あたりまえのようなことにあらためて気づいた。詩が比喩であることを私は忘れていた。
 「約束」を読んだとき、私はそれが何を書いているのか一瞬わからなかった。

あまりにもはやくいってしまったから
いたむ夏には一点の染みもなく
視界は光の海に灼かれ
炎天の真下、しんしんと痺れる脳髄で私は自問する
私がおまえに託すはずだった新生の希望は
この夏の日ざかりのようにじゅうぶん白かった
それから薄い楕円になって揺れる木蔭にいて
聞こえる、聞こえてくる
いっしんに青葉を食む幼虫のさざ波は曲がった勾玉の笛
蛹になったら、あさぎ色の産着にくるまれて
かたく身を尖らせて眠るふいごの息、ああ
まだ翔べないのに
おまえどこへいったのか

 「夏」ということばとがあるから、夏の情景である、と私は単純に考える。ある夏の一日、「私(浜田、と仮定しておく)」は蛾か蝶かわからないが青虫(毛虫の幼虫?)が葉っぱを食べているのを見た。それを見ながら、蛹になって蝶になって飛んで行く姿を想像した。そのうち青虫を見失った。(蛾か蝶になって、飛んで行ったのかもしれない)。見失ったので、その青虫に託すはずだった「新生への希望」(生まれ変わりたい欲望?)もまた見失われてしまった--というようなことが書いてあるのかなあ。
 ことばが変な具合に「清潔」である。

炎天の真下、しんしんと痺れる脳髄で私は自問する

 こんな表現(言い方)を私はしない。「脳髄で自問する」。びっくりする。びっくりするのだけれど、その「びっくり」のなかに、なぜか「清潔」という印象が入ってくる。これは「抽象的」なものがもっているひとつの「性質」かもしれない。抽象的なものは、なぜか「どろどろ」と絡みついてくる感じがしない。ある「距離感」がある。「客観的」ということばと「抽象的」ということばは、私のなかではどうも重なり合う部分がある。
 「自問する」とは、あれこれ悩む、考えこんでどうにもならないことばをこねまわすという具合に書いてしまうと、ほら、何か、うるさくて「清潔」というかんじじゃなくなってしまうけれど、浜田はあくまで「自問する」と、自分自身を「客観的」に見ている。
 ほう。
 で、ついでに「しんしんと痺れる」と「痺れる」まで「客観的」に描写したりする。ねえ、脳髄がしんしんと痺れているなら「自問」なんかしないで、はやく病院へ行って検診を受けてみたら、などと、ここでは言ってはいけないのだが。
 うん。
 私は、そのことばの「清潔さ」がかなり気になったのである。
 ことばが「清潔」であることがたぶん浜田の詩の特徴(評価の中心)なのかなあ、と思ったが--いや、実際に、この「清潔さ」は非常に印象に残るのである。
 青虫は、葉を食べながら丸まっている。それが「勾玉」に見えるというのも、翡翠の勾玉を見るような気持ちになるからね。毛虫になって、蛹になってというような生々しい変化ではなく、勾玉という鉱物、それからそれが笛(音楽)になる変化--ここに「清潔」の「清潔」たる理由があるね。
 で、そういうことを考えながら、いま私が感じている変な「違和感」は何だろうと、私は体のなかが揺さぶられる思いがした。私はほんとうは何を感じているのかな?
 それこそ「自問」している自分に出会い、わっ、浜田のことばに染まっているとも思った。私が私でなくなっていくような感じ。--これが「快感」なら、それはそのまま詩の体験であり、その私が私ではなくなっていく「誤読」へ私は突き進むのだけれど。
 うーん。
 何かがひっかかる。
 何がひっかかるのだろう。

 で、「雨の台座」まで読んできて、そこで私は「あっ」と声をあげてしまった。

雨は種子
アスファルトに撒かれてすぐ
燃えつきる種子

 これは「雨」を「種子」という「比喩」に置き換えて語った行である。そうか。詩は比喩なのか--と、このときはっきりわかったのである。
 比喩とは、「いま/ここ」にないものを借りて、「いま/ここ」にあるものを描く。「種子」はほんとうは「いま/ここ」にない。けれど、そのことばを借りて「いま/ここ」になる「雨」のかわりに動かしてみる。そうすると、「雨」のなかにある「運動」が見えてくる。「雨」は大地(アスファルト)に落ちてもそこから芽ぶくことはない。そのまま死んでしまう。「燃えつきてしまう」。これは、雨を描きながら、同時に植物(種子)と大地の関係を語ることでもある。
 こういう「比喩」を語るとき、「私」は「どこ」にいるのか。
 「いま/ここ」にいない。
 「いま/ここ」かもしれないが、そしてそこに雨が降っているかもしれないが、ことばを動かす「脳髄」は「いま/ここ」にどっぷりとひたっている(染まり切っている)わけではなく、何か遠くにいる。「安全地帯」のような場所で「いま/ここ」を客観視している。
 「比喩」とはきわめて個人的・主観的なものであるけれど、同時に「客観的」なのものである。「客観」の要素がないと、その比喩は他者には共有されない。
 あ、ここなんだな、と私は思う。
 他者と共有できる「客観」としての「比喩」。それは「客観」であるからこそ「清潔」なのだ。主観にまみれていない。個人的事情にまみれていない。それは客観であるから、どんなに接近しても「私(読者)」にとっては「遠い」ままである。たとえ「いま/ここ」であっても、私の「主観」にふれてることはない。

 ああ、ここからが問題だなあ。
 「私の主観」にふれてこなくても、それは「文学」なのか。
 これは大問題だぞ。

 この問題に、私は自分自身の「答え」というものを出し切れていない。よくわからないのである。
 ただなんとなく、ここ数年(もっと前からかもしれない、10年以上前になるかもしれない)、「客観」というものを私はうさんくさく感じはじめている。「主観/客観」という分類の仕方にうさんくさいものを感じている。
 なのに。
 いまもこうやって「主観/客観」ということばをつかうしかなくて。
 そして、浜田の「客観」と「比喩」のことを考えようとしてつまずいているのだが。

 こういう問題は、まあ、保留しておく。放置しておく。
 きょうはここまでことばを動かしてみたと書いておくしかないことがらである。

 で、(と、ここで飛躍する)。
 「雨と台座」には「雨」の3行のあと、次のことばも出てくる。

遺伝子を断ち切れ
生命にはできないことが
言語にはできる

 あ、これは魅力的なことばだ。
 私もそう思う。言語(ことば)は論理的に不可能なこと(客観的ではないこと)が楽々とできてしまう。
 そしてこれこそが、ことばを考えるとき、大問題として「いま/ここ」にある。非論理的というのは、ある意味で「客観的ではない」ということである。「主観的」である。思いつきである。それを支えてくれる「科学的証拠」などない。
 でも、これって「主観」でいいのかな?

 問題のたて方が、どこかで間違っているのだろう。
 何かを考える。そのとき、たいてい「断定」する。そして「断定」は共有されるとき「客観」となる--といえるかどうかはわからないけれど、まあ、テキトウにそう考えておくのだが、テキトウというのは、そのことにこだわってしまうと、また「主観/客観」の何かがねじれてくる。わけがわからなくなるからである。

 だんだん詩集感想からかけ離れてくる。
 まあ、仕方がない。
 私はもともと「感想」を書くふりをしているだけで、ほんとうは一度も詩の感想など書いたことがない。詩をそっちのけにして、その日その日、ことばについて考えたことを書いているのだから。




 たぶん--というのは、またいいかげんな方便なのだが。
 たぶん、浜田の詩は、私が「客観」と呼んだものの向こう側というか、その「客観(比喩)」の運動の「法則」のようなものを追っていくと、全体像が鮮やかになるのだと思う。
 「いま/ここ」にある「現実」。それは「現実」とはいっても「流通言語」にまみれているだけの「仮構」である。その「仮構」に浜田は「比喩」という「主観的客観(言語矛盾だね)」を持ち込むことで「現実」を破壊する。その瞬間に詩が誕生する。

 ね、ことばって、なんでも「それらしいこと」が言えてしまうでしょ?
 気をつけようね。




生きる秘密
浜田 優
思潮社
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中山直子『雲に乗った午後』

2012-11-06 10:35:39 | 詩集
中山直子『雲に乗った午後』(土曜美術社出版販売、2012年10月10日発行)

 中山直子『雲に乗った午後』の詩篇は、私は苦手である。たとえば「氷雨」。

氷雨よ
おまえは なんと まっすぐに
冷たく 正直に
ふるのだろう

氷雨よ
はるかな鈍色の情感から
無心に せつせつと
くだる

音なく 暗く
ただ しんしんと
冷える日

けれど 氷雨よ
いまこそ わたしの
生きねばならぬ時

 「苦手」の理由は最終行。そう書かなければならない理由があるのだろうけれど、そう書かれただけではわからない。で、こういうことに対して批判すると、「私にはこれこれの理由があるんです」云々という反論(?)がときどき返ってくる。
 そりゃあねえ、だれにだって理由はある。でも、それがどうしたの? それがどんなに肉体的に、あるいは精神的につらいことであろうと、そんなことは、私には関係ない。
 一方。
 たとえば道でだれかがうずくまって、腹をかかえてうんうんうなっている。そうすると、それが「演技」であっても、あ、腹が痛いんだ、「だいじょうぶですか?」と声をかけてしまう。私には関係がないのに、その腹の痛みさえ感じてしまう。
 この違い。
 「私には関係がない」ことであって、しかもそれが嘘であってもこころが動くことがあるのに、それがほんとうであったとしてもぜんぜんこころが動かないことがある。
 それなのに、その「理由(?)」を中山は「けれど」という「論理的」なことばでつないでゆく。「けれど」はその単語だけである「意味」をもっている。前に書かれたことを否定するという「意味」をもっている。そして、その「意味」についてこい、と読者に言う。
 あ、これがいやなんだなあ。「論理」のなかにある押し付け。そして、それが「生きねばならぬ」とつながるとき、私なんかは臆病なので、それを否定できない。「生きねばならぬ」と言っているひとに、そんなことはないよ、とは言えない。「同情(?)」を強いられているような気持ちになる。
 これは、いやだなあ。

 いやだなあ、と書きながら、なぜこの詩集を鳥開けているかというと、1連目の「まっすぐに」「冷たく 正直に」の組み合わせが「流通言語」とは少し違う。「正直に」が、簡単に言うと、かわっている。冷たく降る氷雨は、ふつうは「意地悪」なものである。いやなものである。けれど、それを中山は「正直」と呼んでいる。「まっすぐに」から導き出されたことばなのだが、「まっすぐに 正直に」ではなく、そのあいだに「冷たく」ということばが入ることで曲折する。この曲がり方と、それをもとに戻す(?)感じ、ことばが揺れ動くところが魅力的なのだ。
 もう少し読んでみようかな、という気持ちにさせられる。

雪晴れの朝
広い寂しい十字路で
鳩が 雪を 食んでいる
--ぽっぽろう くっくう
                          (「雪を食む鳩 母の姿」)

 「ぽっぽろう くっくう」というのは美しい音だ。中山は、こういう音を聞く耳を自然な感じでもっている。それも、私にはうれしい。ただし、この鳩が母の思い出とつながっていくのは、「理由」としては「反論」できないのだが--私のいつもつかっている表現で言えば、そこから「誤読」はできないのだけれど、それが、うーん、窮屈。
 私はいつでも、どんな詩でも「誤読」したいのだ。
 だから、「シベリアの原野の白鳥」のような詩は「感動的」であるかもしれないが、その「感動的でしょ?」という感じがいやで、身を引いてしまう。へんに説教くさい。説教は聞きたくないなあ。それがどんなに正しいことであっても、と私は思う。
 似たような(?)話なら、志賀直哉の「鳩」だったかな、番の鳩と志賀直哉の友人の鉄砲内のことを書いた短編の方が実におもしろい。志賀直哉が書いていないことをどんどん「誤読」してゆける。 

 で、「誤読」のついでに書くと。
 「牛の瞳」。この詩は好きだなあ。「誤読」できる。同人誌(だったと思う)で読んだとき感想を書いた記憶がある。なんと書いたか、よく覚えていないけれど、たしか書いたと思う。この詩はとても好きだ。

かっきりと大きく見開かれた
澄んだ瞳の牡牛が
牛舎の柵のそばまで来て
不思議そうに 私の顔をじっと見る

「よしよし」と言いながら
柵からはみ出した秣(まぐさ)を
向こうに押しやる
もそもそと長い舌で巻きとって
少し食べる
また 見ている

「こいつ 興味津津なんですよ」
ニーダ・ザクセンの牛飼いが言う
朝焼けいろしたエリカの咲く
荒地の近く
「さよなら」と言っても
まだ 見ている

 ここには「過去」がない。つまり、ここには中山の「体験」したことが、その「体験」のなかに入ってきていない。中山ははじめてその牛と出会い、その牛の表情に向き合っている。いま体験していることを「意味」として支えてくれる「過去」がない。たとえば、そこに母の入ってくる余地はない。--いや、ほんとうは、そこには「鳩」の詩のときと同じように母が入ってきてもいいのだけれど、中山はそれをうまく組み込むことができずにいる。
 「過去」がないと、逆に、「過去」が剥き出しになる。人間性が剥き出しになる。
 じっと見つめてくる完全なる他者(牛、それまで話ここともない存在である)に向き合い、知らず知らずに「よしよし」ということばが出てくる。その「よしよし」はたとえば小犬に言ったことがあるかもしれない。あるいは自分の子ども、見知らぬ子どもにもに言ったことがあるかもしれない。そのときと同じ「よしよし」--その「同じ」の感覚のなかに「過去」が噴出する。
 あ、中山はいいひとなんだなあ、とその瞬間にわかる。
 こういう感覚は、たぶん動物にもつたわる。生き物の本能にふれる何かである。
 だから牛は中山の押しやった秣を食べる。そうして中山を見つめる。
 このひと、どういうひとなんだろう。ひとと暮らしている動物は、それが知りたいものである。それが「興味津津」ということである。
 「興味津津」のとき、「警戒心」は消える。無防備になる。その無防備同士が出合う。無防備同士が出会うと、その瞬間、世界が一気に広がるね。自分の枠を越えて、いままでの自分じゃなくなる。セックスのエクスタシーに似ている。あの瞬間って、みんな無防備でしょ?

「さよなら」と言っても
まだ 見ている

 これは「シベリアの白鳥」よりも、もっと感動的である。
 中山は、その瞳を「ことば」ではなく瞳のまま「覚えている」ということが、その無防備さからつたわってくる。
 ひとがもし何かを共有しなければならないとしたら、こういう「無防備」こそ共有すべきなのだと思う。
 あ、「説教」になってしまったかな?



雲に乗った午後―詩集
中山 直子
土曜美術社出版販売
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ブリングル『、そうして迷子になりました』(2)

2012-11-05 10:03:38 | 詩集
ブリングル『、そうして迷子になりました』(2)(思潮社、2012年10月10日発行)

 ブリングル『、そうして迷子になりました』はだんだん疲れてくる。読んでいて、だんだん読むのがつらくなってくる。
 私は最初何を書こうとしていたのか。
 ブリングル『、そうして迷子になりました』にはいろいろな「声」がまじりあっている。
 そう、書こうとしていた。
 そして、「いつだったどこかでおこっている」が特徴的だが--と書いて、あ、私はこの詩にブリングルを見て、それ以外の作品に向き合うときも、「いつかどこかで」に通い合うものを探していたのだ。だが、あらゆる作品に、あらゆる共通項があるというようなことはなくて、それで私がかってに(?)疲れてしまったのである。
 最初に書こうとしていたのは、こんなこと。

 画数の多い漢字に課された多重の意味は取
り立てられるからわたしはそんなの使わない
んだよ使わないままで生きていくよ今日もお
いしいごはんを食べてくたくたと眠るわたし
は合間あいまにせっくすをしたりしなかった
りきすはぺにすよりたいせつだよねとほこり
の浮かぶ朝に素直に打ち明けながらもっくり
と一日いちにちを掘り起こしていく農耕民族
なのです耕していくのです。

 「いろいろいな声」のすべてを取り上げているときりがないので。
 ひとつめ。「画数の多い漢字に課された多重の意味」。こういう「表現」は日常はつかわない。たとえば、この詩のなかに「せっくすしたりしなかったり」ということばがあるが、セックスをしているときは、こういうことばはどこか遠くにある。そして、日常的につかわないから、ブリングルは「わたしはそんなの使わない」と言っている。--言っているけれど、「使わない」というためにつかっている。これは「知っている」のだけど、それを否定するということだね。で、この「否定されることば」がひとつの「声」。
 ふたつめ。「きすはぺにすよりもたいせつだよね」。これは「画数の多い漢字に課された多重の意味」とは違って「流通言語」にはならない。えっ、キスよりペニスが大切だよ、あ、私は背中にふれてくる指の感触--とかなんとか、それぞれによって「思い」が違う。この「思い」は「肉体」ということでもある。肉体が違うから「たいせつ」が違う。すべてが一回かぎり。「おひとりさまかぎり」。相手が違えば「たいせつ」も違ってくる。「流通言語」に対して、これは何と呼ぶべきか。よくわからないが、「極詩的言語」になると思う。でも、不思議なことに、こういう「極詩的言語」は「画数の多い漢字に課された多重の意味」というようなことばよりも「わかる」。「それ、違うんじゃないの」という否定的な声がそれにつづいてでてきたとしても、それは「わかる」からそう反応するのである。何がわかるかというと「肉体」がわかるのである。書いたひと(ブリングル)の肉体と読者の肉体が出会い、読者自身の肉体がことばの「ただしさ(まちがい)」を即座に判断するという「わかる」。「画数の多い漢字に課された多重の意味」は、これに対して「頭」で「わかる(わかったようなつもりになる)」ことばである。
 で、この「わかる」と「わかったようなつもりになる」のあいだには、いろいろめんどうくさいことがある。そしてブリングルはその「わかったようなつもりになる」ことが「流通」し、世界を形作ることに対して「いつだっておこっている」ことになるのだけれど。
 そのとき、「自己主張」するのが、もうひとつの、ことば。
 この連では「もっくり」「くたくた」とあまりおもしろくない(印象的ではない?)ことばが書かれているのだけれど、別の連で言えば、

 ほんととか嘘とかいらないの。だってわた
しはぷすんぷすんと軽石みたいに酸素を孕ん
で今日もごきげんよかよかと過ごしている普
通のおんなのこですから

 ここに出てくる「ぷすんぷすん」。意味以前の音。これがみっつめ。
 これは「きすはぺにすよりたいせつだよね」が「肉体」の意味(主張)をつたえるのに対して、どんな「意味」もつたえない。
 あえていえば、それはiPS細胞のようなものだ。何にでもなる。つまり、そのことばは何にでも「接続」し、そのつながった先のことばをブリングルの「いろ」に染めてしまう。
 そして、その「染めるとき」、その「染め方」が奇妙な言い方だがブリングルのものでありながら、だれに対しても開かれている。「ぷすんぷすん」に「意味」はなく、ある肉体の感覚があるだけでなので、読んだ人はそれぞれの「ぷすんぷすん」をとおって「軽石」を自分仕様にすることができる。もちろん自分仕様といっても、それはブリングルのことばをとおってということなのだから、それは「誤解(誤読)」というものであって、ほんとうはブリングルの肉体にふれているのだ。
 「意味」ではなく、「意味以前」として肉体にふれ、そこから必要な(?)肉体(細胞)に変化していく。--ね、iPS細胞でしょ?(違っていたら、中山先生ごめんなさい。)
 こういうことばは「ざぬぅーん ざぬぅーん」(はかる)というオノマトペから、「シュガーレイズドハニーディップ」(わ)のような商品名まで様々だけれど、そういうことばを「共通の細胞の母胎」として「肉体」(きすはぺにすよりたいせつだよ、という声)をとおって育ち、それが「画数の多い漢字に課された多重の意味」という「頭の声(流通言語)」を叩き壊していく。
 こういう運動がブリングルの詩だな、と私は感じ、そう読んでいくのだが、だんだんこの「構図(?)」が構図通りにならない--つまり、私の「頭」からずれていく。
 で、あ、私は詩集の後半は「肉体」では読まずに「頭」で読んでしまっているなあ、と思うのだ。反省するのだ。つらくなるのは「頭」で読みはじめているからだね。
 ブリングルの詩集は、肉体を休ませながらゆっくり読まないと肉体で受け止めることができないのだ。体調もよくしてからでないと厳しいぞ、と反省した。








、そうして迷子になりました
ブリングル
思潮社
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ブリングル『、そうして迷子になりました』

2012-11-04 10:30:20 | 詩集
ブリングル『、そうして迷子になりました』(思潮社、2012年10月10日発行)

 ブリングル『、そうして迷子になりました』も「音」が肉体に迫ってくる。たとえば「はかる」の1連目。

あめ
が、
とったん、とったんと
穿ちますのでしばしわたくしは
わたくしの渇いた部分を探し
やねのしたに逃げ込みました
まにあった身体
安堵して歩く
すんすんと歩く
足のゆびさきんちょ、
むずむずとさきんちょ
とりわけ親指さき
んちょ、
むずむずと
足の指痛んでくる
つんつんと痛み増す
指先がめくれてきま  つん

 「意味(ストーリー)」があるのか、ないのか。あろうが、なかろうが、どうでもいい--と書いてしまうと、まあブリングルには申し訳ないことになるが、私はブリングルの書いている「意味」を無視して勝手に読む。
 「とったん、とったん」は雨音なのか。そうであるなら、それはトタン屋根の上に落ちる雨音に違いない、というような「だじゃれ(?)」から始まり、それにつづく「わたくしの渇いた部分」から、なぜか、一気にセックスを想像するのである。
 で、なぜセックスを想像するかというと、トタン屋根から私は家畜小屋(豚小屋、牛小屋、鶏小屋)のようなものを思い、藁の匂いだとか、排泄物の匂いだとか、あたたかい匂いを感じ、また、そこから「納屋」なんかもついつい思い浮かべる。そこは「夫婦」のセックスの場所にはふさわしくないが、そして「恋人」のセックスの場所にはもっとふさわしくないかもしれないけれど、ふさわしくないからこそ、そこでセックスをしてしまう。そうすると、そういう「汚れた(?)」の場所が一気に「純潔」の場所に変わるような、何事かが起きる。
 そんなことは、ブリングルはここでは書いてはいないのだけれど。
 書いていなからこそ、私は、そこに書かれていないことを書き加え、勝手に想像するのである。
 とはいいながら、やっぱり書いてはいないので、書かれていることばにも引き戻され、そうか、この詩に登場する「わたくし」は実際にはセックスはしないけれど、でもセックスは想像するんだろうなあ、と軌道修正(?)したりする。

足のゆびさきんちょ、
むずむずとさきんちょ
とりわけ親指さき
んちょ、
むずむずと

 セックスしてしまえば「むずむず」ではなくなるんだろうけれどね。何か、エクスタシーにたどりつけないもどかしさ、ほら、そこにあるのに、という感じが「さきんちょ」「さき/んちょ」ということばの「先」にある。わかってるのに、それが自分のものにならないもどかしさのうよなもの。それが「肉体」のなかに動きはじめる。

つんつんと痛み増す
指先がめくれてきま  つん

 これは何だろう。

つんつんと痛みます
指先がめくれてきま  す

 の「変形(?)」したことばかなあ。

指先がめくれてきま  つん

 は「指先がめくれてきま」まで言って、「せん」と言おうとして、それがひっくりかえったのかなあ。「きません」と「きます」をいっしょに言うと、そういう「声」になるのかなあ。
 「きません」(否定)、「きます」(肯定)がいっしょになるというのは「矛盾」だけれど、そういう「矛盾」というのは「肉体」のなかにある。どっちかわからない。そういうものが、「肉体」なのかで人間を動かしている。
 私はスケベなのでまたセックスを持ち出してしまうが、エクスタシーの瞬間を「死ぬ」(行く)というのは、この「きま  つん」の矛盾の結びつきに似ている。「死ぬ」(行く)ではなく「生まれる」(私はここにいて、私ではないだれかが私をおきざりにして行ってしまう)なのだが、それを私たちは「死ぬ」(行く)と習慣的(?)に言う。
 変だねえ。
 変だけれど、私たちはなぜか、そういう矛盾を納得してしまっている。
 さらに(?)変なのは、こういうことばというのは「国語」が違っても「そっくり」ということだね。英語なら「I'm coming」、スペイン語なら「me voy」。日本語の感覚は英語よりもスペイン語に近いか。英語では「来る」と「行く」が奇妙にすれ違うからね、日本語とは。--で、その「すれ違い」が逆に、何か「肉体」の共通性を感じさせもするのだけれど。

 ブリングルの詩の感想から脱線してしまったようだけれど。
 そうでもないかもしれない。
 ブリングルのことばは「明確な意味」を拒んでいる。「流通言語」(意味の確立したことば)を拒んでいるところがある。そんなことばでは、自分の気持ちは言えないという怒りがどこかにあって、それがことばを動かしている。

 「いつだってどこかでおこっている」というタイトルの書き出し。

 ほんととか嘘とかいらないの。だってわた
しはぷすんぷすんと軽石みたいに酸素を孕ん
で今日もごきげんよかよかと過ごしている普
通のおんなのこですから言葉に押し倒されて
も固く閉じた身体を投げ出してされるがまま
でいるおぼこなだらしのないおんなのこでし
かないのです。

 「言葉に押し倒されて」にブリングルの「抗議」のようなものが感じられるが、まあ、それはもう書かなくてもいいかな。
 私がこの部分で気に入ったのは「ぷすんぷすんと軽石みたいに」の「ぷすんぷすん」。あ、なるほど、そういう感じだね。納得したのだ。肉体が、そして耳が。「ぷすんぷすん」はもちろん聞こえない音である。聞こえない音なのに「ぷすんぷすん」と書かれたとき、耳(鼓膜)ではなく、もっともっと体の奥にあるほんとうの耳(これを私は「肉耳」と呼ぶことがある)にはっきり聞こえる音である。
 こういう「音」をはっきり聞き取り、ことばにする肉体はすごい。無防備に信じてしまっていい。無防備に信じてしまうというのは、変な言い方なのだが、別な言い方で言うなら、丸裸でつきあっていい、ということになるかもしれない。
 私が無防備になれるのは、そういうことばといっしに生きているブリングルが無防備であるということかもしれない。
 で、この無防備がなぜ信じていいかというと、無防備な人間の「暴力」というのは「肉体」の暴力そのものであり、肉体を越えないから、どんなに暴力的であってもそれはだれかを殺さない。傷つけるということも、ほんとうは、ない。だれかを傷つけるとわかった瞬間に、肉体の暴力は、ふっと手をとめる。肉体は自分の「限界」を無意識に知っていて、それがブレーキをかけるのである。

 ほら4Bの鉛筆でこくりここくりことなぞ
るフォルムはもう線なんかじゃないよ。

 一筆書きができないで、ほじくったりまさ
ぐったりしているうちに鮮度の悪くなった文
字たちでおなかがはじけるくらい蓄えた皮が
つっぱっているそうですかほーけーですか脳
みそまで皮かむりして氾濫した言葉、繰り返
す洪水、お戯れ、もう一切合切のーさんきゅ
ーだよとアイロンで皺を伸ばすけれど一度つ
いた道筋はそんなに簡単に手放せない、

 「氾濫した言葉」というような「流通言語」を「そうですかほーけーですか」という俗な肉体のことばで叩き、「アイロンで皺を伸ばすけれど一度ついた道筋はそんなに簡単に手放せない(消えない)」という暮らしに根ざしたことばで叩き、「ほじくったりまさぐったり」という「肉体の動き」そのものの強さを残していく--そのことばの動きに、その音の強さに、音を生きている肉体はいいなあ、と思うのである。
 「意味」ではなく、「音」を前に押し出してことばが動いている部分が、とても強い、その強さを気持ちよく感じるのである。













、そうして迷子になりました
ブリングル
思潮社
コメント
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