島野律子『むらさきのかわ』(ふらんす堂、2012年10月13日発行)
島野律子『むらさきのかわ』は一冊の「長編詩」なのだろうか。いくつもの断片で構成されている。とりあえず「断片」と読んだのは、何行かことばがあったあと空白があり、次のことばのあつまりが必ず新しいページから始まるからである。
その断片の特徴は句読点がないことである。句読点がなくて、改行がある。そして、その句読点のない「1行」(次の改行までを、とりあえず1行と呼んでみる)は、ほんとうに1行(ひとつの文章)なのか、それとも複数の行(複数の文章)なのか、よく分からない。
この書き出しは、
ということなのだろうか。そのとき「主語」は、どうなるのだろうか。「主語」をあえて重複する形で補って「文章」にしてみるとどうなるだろうか。「主語」だけではなく、少し生命を補足すると、どういう文章になるだろうか。
これが「正しい」かどうかは、まあ、関係がない。詩なのだから、どう読んだっていいのだろうから、私はとりあえずそんなふうにして島野のことばを私の肉体のなかに取り込むのだけれど、そのとき、最後の部分が奇妙に肉体にこびりつく。
「肩」は「花の肩」なのか、あるいは「私の肩」なのか--実はわからない。そして、その「わからない」ことのなかに、私は詩を感じる。その「詩の感じ」が私のに肉体にこびりつくのを感じる。
何か、しつこいね、この私の書き方は。
島野の粘着力のある文章が書き写しているうちに、粘着力にそまったのかもしれない。
で、何がいいたいかと言うと。
この「粘着力」のなかで、「花」と「私」があいまいになり、同時にその「あいまいさ」のなかから「肩」という自明のもの(自明であるかどうかわからないけれど--肩というとき、首の下、胴の上部分、あるいは何かの上の方、その端っこ思い浮かべる)が、あいまいさを突き破るように登場してくる。その突然あらわれる「肩というもの」の運動(突然あらわれるという運動、「もの」ではなく「こと」)は、句読点のない、粘着力のあることばの運動の結果なのだということだ。
句読点のない、どこで切っていいのか、どこで飛躍していいのかわからない--つまり、切断と接続のわからないことばの運動のなかで、はじめてあらわれることができる何かなのだ。
句読点というのは「文章」、ことばの運動を「整理」するものである。意識の接続と切断を整理し、他人と共有しやすい形にととのえる。そのために句読点がある。
でも実際にことばが動いている瞬間というのは、途中で意識がねじれて行って、うまいぐあいに「文章」にはならない。だから人はあとで読み直して「推敲」というものをするのだろう。
そしてこういう「整理」というものは、意識の運動を明確にする一方、どうしようもなく「ずれ」ていくエネルギーを排除してしまうことになる。「整理」というのは、一種の「排除」である。「排除」なしには「整理」はたぶん、できない。
問題は。
その排除したもののなかに、大切なものはなかったか、ということだ。
ほら、何かを書いていて、枚数がオーバーしてしまって、どうしても何かを削らなければならなくなったとき、そして削ってしまったとき、ああ、あの部分こと書きたかったことなのにと思うことがあるでしょ?
それは「テーマ(もの)」でるあこともあるが、それよりも。
切断と接続を結びつけるエネルギー(粘着力)そのものであることもあるのではないだろうか。運動そのものであるということが、あるのではないだろうか。
私たちは(私は、かもしれないが……)、何かを「理解」するとき、「もの」を「理解」する。ある「もの」が「何」であるかわかったとき、それを「理解」と呼ぶことが多い。けれどほんとうに「理解」しなければならないのは「こと(運動)」かもしれない。動詞でしかとらえることのできない何かがある。
たとえば「粘着力」である。これは「もの」ではなく、「こと」。体にねばねばと絡みついてきて、その結果、自分の体を思うように動かせない。つまり、私自身の「動き」を自由にできない--動きを邪魔する何か、それによって起きている「こと」のなかに「粘着力」というものがある。
そういうものを島野のことばは書き表そうとしている。
ここに書かれていることを、最初の文章のように整理しなおしてみようとは、もうしない。一度すれば十分だろう。
で、なぜこの部分を引用したかというと。
島野のやっている「粘着力」の再現(強調?)の、そのことばの運動のなかから、思わずはっとさせられる美しいことばが噴出してくる。
あ、これはいいなあ。なぜ、こういうことばが噴出してきたのかわからない。「粘着力」の「ねばねば」が遠い過去(肉体の奥)から、ふいにひっぱりだしてしまったのだろう。そうすると、その瞬間に、それは「音」という「もの(名詞)」なのだが、その「音」が生まれたときの「運動(動詞)--音はものとものとがぶつかって生まれるからね」が瞬間的にひらめく。それを私は見たか。つまり、体験したか。
思い出すことができない。
でも、それを「いいなあ」と思うのは、私の肉体がどこかでそれを「動詞」として体験しているのだ。
そういう思い出せないことを思い出すという、変な動きが私の肉体のなかに生まれる。あ、これが詩の瞬間だなあ、と私は思う。
こういうことが、ときどき、島野の詩を読んでいて起きる。あとで、あ、あれはどこに書いてあったのかなあ、と探し出そうとすると、それがなかなかみつからない。それは、ありふれた言い方になるが、まるで川の流れのなかで一瞬見たもののようでもある。目の前の川の流れは相変わらず川の流れだけれど、いま見ている川の水はさっき見た水とは違うのである。流れていくものを「粘着力」のある意識で呼び戻すとき、それは何かにぶつかったしぶきのようにきらめくのかもしれない。
島野律子『むらさきのかわ』は一冊の「長編詩」なのだろうか。いくつもの断片で構成されている。とりあえず「断片」と読んだのは、何行かことばがあったあと空白があり、次のことばのあつまりが必ず新しいページから始まるからである。
その断片の特徴は句読点がないことである。句読点がなくて、改行がある。そして、その句読点のない「1行」(次の改行までを、とりあえず1行と呼んでみる)は、ほんとうに1行(ひとつの文章)なのか、それとも複数の行(複数の文章)なのか、よく分からない。
暗い空になって道の上の枝が厚く花をつける夜の上のほうをうっすらと見つめ
ながら道を横切って白いライトの下にはまるかわいていく空まで肩をこすって
近寄っていく
この書き出しは、
暗い空になって道の上の枝が厚く花をつける。夜の上のほうをうっすらと見つめ
ながら道を横切って白いライトの下にはまる。かわいていく空まで肩をこすって
近寄っていく。
ということなのだろうか。そのとき「主語」は、どうなるのだろうか。「主語」をあえて重複する形で補って「文章」にしてみるとどうなるだろうか。「主語」だけではなく、少し生命を補足すると、どういう文章になるだろうか。
「空は」暗い空になって、「道の上の木では」道の上の枝が厚く花をつける。(その厚い花のせいで、空が暗くなっていることが、私にはわかる、私には感じられる。)「私は」夜の上のほう(花の上の夜の、さらに上の方を)をうっすらと見つめながら、「私が」道を横切って(いくと、そこには白いライトがあって)白いライトの下にはまる。(白い街灯の光の輪の中に入って、そこから花を見つめると)かわいていく空まで、「花が」肩をこすって近寄っていく(ように、私には見える)。(あるいは「私が」花になって、私の肩が空をこすって、夜の上の方へ近寄っていくように感じられる。)
これが「正しい」かどうかは、まあ、関係がない。詩なのだから、どう読んだっていいのだろうから、私はとりあえずそんなふうにして島野のことばを私の肉体のなかに取り込むのだけれど、そのとき、最後の部分が奇妙に肉体にこびりつく。
「肩」は「花の肩」なのか、あるいは「私の肩」なのか--実はわからない。そして、その「わからない」ことのなかに、私は詩を感じる。その「詩の感じ」が私のに肉体にこびりつくのを感じる。
何か、しつこいね、この私の書き方は。
島野の粘着力のある文章が書き写しているうちに、粘着力にそまったのかもしれない。
で、何がいいたいかと言うと。
この「粘着力」のなかで、「花」と「私」があいまいになり、同時にその「あいまいさ」のなかから「肩」という自明のもの(自明であるかどうかわからないけれど--肩というとき、首の下、胴の上部分、あるいは何かの上の方、その端っこ思い浮かべる)が、あいまいさを突き破るように登場してくる。その突然あらわれる「肩というもの」の運動(突然あらわれるという運動、「もの」ではなく「こと」)は、句読点のない、粘着力のあることばの運動の結果なのだということだ。
句読点のない、どこで切っていいのか、どこで飛躍していいのかわからない--つまり、切断と接続のわからないことばの運動のなかで、はじめてあらわれることができる何かなのだ。
句読点というのは「文章」、ことばの運動を「整理」するものである。意識の接続と切断を整理し、他人と共有しやすい形にととのえる。そのために句読点がある。
でも実際にことばが動いている瞬間というのは、途中で意識がねじれて行って、うまいぐあいに「文章」にはならない。だから人はあとで読み直して「推敲」というものをするのだろう。
そしてこういう「整理」というものは、意識の運動を明確にする一方、どうしようもなく「ずれ」ていくエネルギーを排除してしまうことになる。「整理」というのは、一種の「排除」である。「排除」なしには「整理」はたぶん、できない。
問題は。
その排除したもののなかに、大切なものはなかったか、ということだ。
ほら、何かを書いていて、枚数がオーバーしてしまって、どうしても何かを削らなければならなくなったとき、そして削ってしまったとき、ああ、あの部分こと書きたかったことなのにと思うことがあるでしょ?
それは「テーマ(もの)」でるあこともあるが、それよりも。
切断と接続を結びつけるエネルギー(粘着力)そのものであることもあるのではないだろうか。運動そのものであるということが、あるのではないだろうか。
私たちは(私は、かもしれないが……)、何かを「理解」するとき、「もの」を「理解」する。ある「もの」が「何」であるかわかったとき、それを「理解」と呼ぶことが多い。けれどほんとうに「理解」しなければならないのは「こと(運動)」かもしれない。動詞でしかとらえることのできない何かがある。
たとえば「粘着力」である。これは「もの」ではなく、「こと」。体にねばねばと絡みついてきて、その結果、自分の体を思うように動かせない。つまり、私自身の「動き」を自由にできない--動きを邪魔する何か、それによって起きている「こと」のなかに「粘着力」というものがある。
そういうものを島野のことばは書き表そうとしている。
電線が途切れないように支えている夜を囲む高い壁はざらざらの色にまぶされ
ておいしそうだ前の冬の切り跡からこぼれている音もありそうな溝にはまりか
けている靴からまだ足は遠くない
ここに書かれていることを、最初の文章のように整理しなおしてみようとは、もうしない。一度すれば十分だろう。
で、なぜこの部分を引用したかというと。
島野のやっている「粘着力」の再現(強調?)の、そのことばの運動のなかから、思わずはっとさせられる美しいことばが噴出してくる。
冬の切り跡からこぼれている音
あ、これはいいなあ。なぜ、こういうことばが噴出してきたのかわからない。「粘着力」の「ねばねば」が遠い過去(肉体の奥)から、ふいにひっぱりだしてしまったのだろう。そうすると、その瞬間に、それは「音」という「もの(名詞)」なのだが、その「音」が生まれたときの「運動(動詞)--音はものとものとがぶつかって生まれるからね」が瞬間的にひらめく。それを私は見たか。つまり、体験したか。
思い出すことができない。
でも、それを「いいなあ」と思うのは、私の肉体がどこかでそれを「動詞」として体験しているのだ。
そういう思い出せないことを思い出すという、変な動きが私の肉体のなかに生まれる。あ、これが詩の瞬間だなあ、と私は思う。
こういうことが、ときどき、島野の詩を読んでいて起きる。あとで、あ、あれはどこに書いてあったのかなあ、と探し出そうとすると、それがなかなかみつからない。それは、ありふれた言い方になるが、まるで川の流れのなかで一瞬見たもののようでもある。目の前の川の流れは相変わらず川の流れだけれど、いま見ている川の水はさっき見た水とは違うのである。流れていくものを「粘着力」のある意識で呼び戻すとき、それは何かにぶつかったしぶきのようにきらめくのかもしれない。
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