詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

疋田龍乃介『歯車vs丙午』(2)

2012-11-03 11:13:47 | 詩集
疋田龍乃介『歯車vs丙午』(2)(思潮社、2012年10月20日発行)

 疋田龍乃介『歯車vs丙午』には豆腐が登場する詩がある。きのう読んだ「豆腐冥府」のほかに「豆腐系譜」「豆腐慈雨」。そのどれもがおもしろい。なぜおもしろいかというと、豆腐というものが私になじみがあるからだ。豆腐を知っているからだ。そしてその私の知っている豆腐と疋田の書く豆腐がどこか違っている。で、どこが違っているかというと、実に簡単。私はそういう豆腐を知っていたが、そのことを「ことば」にしてきたことがなかった。別な表現でいうと、豆腐を考えるとき、疋田の考えるようなことは、豆腐から「除外」していた。その、私が除外していた豆腐の「過去」が疋田のことばのなかで動き、「過去」が「いま/ここ」になる。存在感のある役者が舞台にでてきたときのように。
 で、その「過去」には、疋田の場合、不思議な「音」がまじりこむ。
 タイトルの「豆腐冥府」「豆腐系譜」「豆腐慈雨」自体、とー「ふ」めー「ふ」、とー「ふ」けー「ふ」、とー「ふ」じ「う(ふ)」と、楽しい韻を踏んでいる。最後の「じう」の「う」に「ふ」を感じるのは、「思ふ(う)」のような動詞の活用が日本語にあるからかな? まあ、こんなことは、「感覚の意見」。

ひもとくよ
系譜にてらされて
ふるふい丘まえで
ほざく大豆はひぐまの
指のさきさ

 これは「豆腐系譜」の冒頭。「豆腐」の「系譜」が丘の前(ふもと?)の大豆から語られるのであるのだが、「ふるふい丘」か。「ふるうい丘」「ふるーい丘」。「ふ」と「う」と「ー(長音)」のゆらぎが、肉体の奥を揺さぶる。頭で理解していることではなく、肉体で覚えているものを動かす。肉体で覚えているものの、さらに「過去」を突き動かす感じだなあ。だから(?)、私は野生の熊(ひぐま)は見たことがないのだけれど、そうか、むかしは熊が大豆を食べにくるということもあったかもしれないなあ、と想像したりする。そこには、まあ、私の知らない「豆腐」の「過去」があるのだけれど、その「過去」をそこに置いておいて、

さきそらさっさ
ゆでられて順にはべる
白乳のからでできたうつわよ
おあまえも系譜にはいれるから
ひじで隠れていたおからのからい
からくやける豆腐の蒸気する
先祖のあじからひもとくよ

 大豆を「ゆでる」、豆乳(白い色をしている乳)=「白乳」、「おから」、「蒸気」が「豆腐の製造過程=過去」となって肉体を揺り動かす。
 「先祖のあじからひもとくよ」は「先祖の味から繙くよ」ということだろう。「味」を手がかりに「豆腐の過去」を見てみる、ということなんだろうなあ。
 それはそれで、「詩の構図」、芝居でいうと「ストーリー」のようなもの、これから展開していく世界のひとつの「指針」のようなものなのだが。
 それよりも、

さきそらさっさ

 これ、わからないね。わからないけれど、その前の「指のさきさ」の音と響きあってとても楽しい。むりに「意味(ストーリー)」を考えるなら、咲き揃った、じゃなく実りそろった大豆を「そら、さっさ」と「ゆでる」へつながっていくのかもしれない。豆腐をてきぱきとつくる、そのときの人間の動き、掛け声がここにまじりこんでいるかもしれない。そんなことは疋田は書いてはいないのだが、農作業をしたことのある私の「からだ」は「そら」という掛け声も「さっさ」というはげまし(叱り?)も覚えていて、豆腐をつくっているひとの姿を思い浮かべるのである。豆腐には、そういう「仕事の味」がある。なにか仕事をするとき、そこには「声」が同時に動いている。「声」は「からだ」をはげますものである。仕事にとっての、いわば「必然」のようなもの。
 私は疋田の「経歴」を知らないけれど、疋田のまわりには、そういう「声」と「からだ」と「仕事」をつなぐ「先祖」がいたんだろうなあ、と思う。

 「か」くれていたお「から」の「から」い/「から」くやける

 という音の楽しさもいいなあ。「から」だけではなく、「く」「け」も重なって、「か行」がうれしい。これは、その前の、はいれる「から」からはじまっているのかもしれないけれどね。

ゆるい波が枝をわたって
さきそらほてるよ
ほっほ、先祖は情婦に豆をゆで
まるでビーンズとダーイズが
ちがう片目をつむりあい
ふるふい丘のうえで
からみあいゆれて

 「ビーンズとダーイズ」は「先祖」ではなく「いま」の疋田の「からだ」しかつかみとれない音楽だけれど、そういう「新しさ」でことばを活性化させる、その手法にびっくりするなあ。笑いだすなあ。
 「ほてる」は大豆がゆでられてあつくなるということをふまえているのだが、「情婦」が出てくると、どうしてもセックスを想像するね。「からだ」を動かして「仕事」をするとセックスをしたくなるものだからね。「仕事」の達成というのは、ある意味では「自分が自分でなくなる=エクスタシー」ことだから、そこで、つい、むらむらっとする気分が仕事から「からだ」に伝染するものなのだ。
 仕事をしながら片目をつむりあい、つまりウィンクしてセックスの打ち合わせ(誘い合い)をする感じがあって、こういう部分はとてもうれしいなあ。
 だから(?)、ほら、詩はこんなふうにつづく。

よりふるえて
ひぐまの眼にとまるや
ひもとかれるまでしぼられ
色のぬけた墓の白くむさぼり
ひんむいた腐肌がふたたび
死んでおよぐ豆乳の川を
ひもとくのだよ
なめらかなそうそうふと
そふのやわらかい白髪がゆれる
はるか幾代もまえから

 何が書いてあるか--ではなく、ここからどれだけ勝手にことばを引き出して、それをつなげて「ストーリー」を無視して別なことを想像できるか、それを語らなければならない。「誤読」を「捏造」の次元にまで暴走させないといけない。そうしないと、読んだ楽しさがひろがらない。
 情婦(女)の服を「ひもとく」=紐・解く。おっぱいを「しぼる」(むんずとつかむ)。「色のぬけた」まっしろな肌を「むさぼり」、衣服を「ひんむいた」肌を「むさぼり」、(こんなふうに、ことばは前後する)、「死ぬ」と言わせたり、言ったり、何度でもくりかえす。そのたびに「なめらかな」「やわらかな」感じが新しくなり、あ、これ、これが「豆腐」が実現しなければならない「味」なんだ、なんて、嘘もつく。なぜ嘘かというと、そういう「方便」で、つまり「なめらかで、やわらかい味」を知らないとそれと同じ感触の豆腐はできない、だからセックスすることでそれを体に覚え込ませないと--なんてことを先祖(祖父や曾祖父?)が言ったかどうか知らないけれど、私は勝手にそういうことを想像して楽しむ。

 書いてあることとは違うこと、詩人が書かなかったことを勝手に捏造し、その「誤読」を前面に押し出して、「私はこの詩のこんな部分が大好きです」と告白し、詩人を困らせるのが私の楽しみである。こんなふうにこの詩人を「誤読」しようよ、と他の読者を誘い込むのが大好きである。







外を見るひと―梅田智江・谷内修三往復詩集 (象形文字叢書)
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書肆侃侃房
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疋田龍乃介『歯車vs丙午』

2012-11-02 10:45:20 | 詩集
疋田龍乃介『歯車vs丙午』(思潮社、2012年10月20日発行)

 疋田龍乃介『歯車vs丙午』を「犬のひげのがん」まで読んで、いまここで感想を書こうか、それとも全部読み通してからにしようか迷っている。と、書いたということは、もう迷っていなくて、よし、ここで書いてしまおうと思ったということになる。
 なぜ、こんなことを書いているかというと、最初の「豆腐冥府」が非常におもしろかった。ところが「しみごし」「ハロー・オブ・ザ・リビングデッド」「犬でもできる」「犬のひげのがん」と読み進むうちに楽しさが消えていく。このまま楽しさが消えてしまったら「豆腐冥府」がおもしろかったという印象が消えてしまうんじゃないか--そんな気がしているからである。
 で、あとのことはあとのこと。いまは「豆腐冥府」について書く時間だ、と決めたのである。

貨物列車の切れ端にへばりつきながら
私の豆腐の波がたゆたうのだよ
湯葉が震動するたびに
新しい路線がいちいち断絶されていく
後ろから里芋の王は転がり続ける
人生の仁訓を糸ひきまきながら
ハンカチを執拗に振りかざす蛮人たちが
きれぎれ列車を白黒になって包囲する
彼らが一様に背負った致命傷から
借物の視線が延滞されていく
それは豆腐のことを思わなければならない
お母さんの体液は豆乳で成り立っていた
すい臓も大豆でてきていたらか
豆腐性リンパ腫の疑いがあります

 何が書いてあるか。わからないね。わからないけれど、最初、私は「貨物列車」ではじまることに、ちょっといやな感じをもった。1行目を読んでつづきを読むのをどうしようかな、と思うくらい悩んでしまった。何がいやかというと「貨物列車」ということばには、私の偏見だが、「抒情」がつまっている。「貨物列車」ということばは「抒情」にまみれている。「文学」の匂いがする。そこが嫌いだ。
 で、なぜ、こういうどうでもいいようなことを書いているかというと、このどうでもいいことがとても大切だからである。ことばを読むとき、私は純粋にそこに書かれていることばだけを読んでいるわけではない。私の「過去」を読んでいる。私がこれまでにふれてきた「ことば」を読んでいる。どんなことばもそれぞれの「過去」をもっている。芝居でいうと「存在感」をもっている。それが登場するだけで、その背後に「何か」が感じられる。「貨物列車」の場合、私は「抒情」につながるあれこれを思い出してしまう。ひとが乗っていないこと、その列車が走る背景は荒野だとか、夕焼けの海だとか。あるいは大きな車輪の隙間からセイダカアワダチソウが揺れるのが見えるとか……。
 そういうことを疋田が書いているかどうかは問題ではなく、私がそれを思い出してしまう。そして、その思い出したことを疋田のことばのなかで読みとる。詩を読むとは、結局私自身の「過去」を読むことになる。どんなに目新しいことが書いてあっても、それを私の「過去」として読んでしまう。そういう読み方しか、私にはできない。
 で、そういう読み方をしながら、あ、そうか、私はこれを見落としていた。私が見ていたのはほんとうはこういう世界だったのだと思った瞬間、私はその詩が好きになる。疋田の書いていることとは関係なしに、私は私の「過去」を疋田のことばを利用して読む。それは二重の意味での「誤読」である。まず疋田のことばを疋田の「文脈」で読んでいない。そして私の過去を私のことばで読んでいない、という二重の「誤読」。
 その「誤読」を支えるというか、なぜそういう「誤読」がはじまるのかというと、まあ、テキトウなものであるけれど、一種の「音楽」だな。

貨物列車の切れ端にへばりつきながら
私の豆腐の波がたゆたうのだよ
湯葉が震動するたびに
新しい路線がいちいち断絶されていく
後ろから里芋の王は転がり続ける

 「貨物列車」はいやなのだけれど、そのあとの音がただ楽しい。「貨物列車」という外の世界(?)と豆腐という内の世界(?)の衝突がおもしろい。詩のあとの部分を先に言ってしまうことになるけれど(私はすでに読んでいるからね)、全体として団欒で湯豆腐(?)か何かの鍋を囲んでいる。鍋には豆腐と、湯葉と、里芋がはいっていることはわかる。ほかに何がはいっているかは、わからない。でも、そういうことはどうでもいい。わかることが少しあれば、それでぜんぶわかるのだ。で、わかったことを囲みながら、あれこれ思っている。たとえば「いま、ここ」ではない故郷(列車ということばのせいだね)を思っている。そこを出てきたときのことを思っている。
 そんなことを疋田は具体的に書いていないのだが、私自身は、生まれ育った土地から離れ、別の土地で生活しているのでそんな「過去」をことばのなかに投げ込むのである。それから湯豆腐を団欒で食べたときのこととかね。そこには母もいる。母は病気である、というような「物語」もはいってくる。これは私自身の物語ではないが、いったん故郷、鍋、母、病気という具合にことばが結びつくと、そういう世界が自然にできあがる。これは、「貨物列車」の「抒情」にまみれきった世界だけれど、好きな世界ではないけれど、そうなってしまう。
 で、その好きじゃない世界なのになぜおもしろいかというと。
 これが説明がむずかしい。「音が楽しい」と私は先に書いたのだけれど、音としたいいようがない。音が裏切るのである。裏切るけれど、それが楽しい。新鮮である。そして、これはほんとうに「偏見と独断」なのだけれど、その音は「古今集」以前なのだ。おおらかなのだ。音の連続感と、イメージ(描かれた対象)とのあいだの「断絶」を「意味」が埋めない。「声」が埋めていく。「声」の力で、ことばを動かしてしまう。「言わない」ことでも「声」はつたえてしまう--というのは、これはまた私の「偏見と独断」なのだが、

後ろから里芋の王は転がり続ける

 この1行の「王」。この音がすばらしく美しい。「里芋の王」は「大きな里芋」くらいの意味かもしれない。まあ、そういうものを私は想像するけれど、それよりも、

後ろから里芋の王は転がり続ける

後ろから里芋は転がり続ける

 こうやって「王」のあるなしを比べてみるとわかると思うけれど(もちろん、これは私の「偏見と独断」、あるいは「感覚の意見」)、「お(う)」の音が、うし「ろ」、さ「と」い「も」のなかにあって、それを「お(う)」がぐいと押す。そして、それが「ころがる」に飛躍する。(こ「ろ」がる、とそこにも「お」はあるが。)
 イメージは飛躍するが音は肉体の奥でつながる。それがとても楽しい。ことばの接続と断絶が、説明すると面倒くさいのだが、肉体のなかで「活性化」する。
 行が前後してしまうが、

新しい路線がいちいち断絶されていく

 この行の「い」の音の響きも、不思議に楽しい。「いちいち」はなくて「意味」はかわないというか、「路線が」「断絶される」ことにかわなはないのだけれど、そこに「いちいち」が入ると、「意味」以上に感じる何かがある。「いちいち」は「そのたびに」、あるいは「毎回」ということにもなるが、そういうことばを「いちいち」のかわりにいれると、「意味」はかわらないけれど、音がかわる。そして、いま書いたばかりのことと矛盾するけれど、音がかわると「意味」が変わって感じられる。

 これは、まあ、どうでもいいことだけれど、どうでもよくない、とても大事なことで--って、どっちなんだ、と自分自身で自分を叱り飛ばしたい気持ちになるが、この「いいかげん(?)」なことがらのなかに、たぶん「ことばの自由」に関する大切なことがある。
 わたしのことばでは、それを説明できない。私は、そこまで自分のことばをととのえていないし、肉体もととのっていないのだが、疋田のことばが私の肉体をとおるたびに、そこに新鮮な何かが照らしだされる。そして、あ、それ、わかる。それを私の「からだ(肉体)」は覚えている、という具合に感じる。
 そういうことが積み重なって、

切れ端にへばりつきながら
咽喉薬を飲むとねむたくなり
瞼を閉じれば列車が執着してまとまる
里芋の王は砕け散る
ふるふーんふーんふん
それを我慢してしまえば
豆腐は永劫に震えるだろうな

 この「ふるふーんふーんふん」が私の「からだ(肉体)」のなかから聞こえてくる。その音は「からだ」の外から聞こえてくるのではなく、「からだ」のなかから聞こえてくる。
 これは、たとえて言えば、道に疋田が倒れていて「うんうん」とうなっている。それを見た瞬間、私が、あ、疋田はいま腹が痛いのだと感じるような「感じ」に似ている。「痛み」は疋田のものであって、私の腹はちっとも痛くないのに、あ、腹が痛いのだと感じる。それは私自身が腹が痛くて苦しんだことを「からだ」が覚えていて、その覚えていることが、何かしらの「錯覚」のよう私と疋田を結びつける。
 それに似ている。
 こういうことが、実は「ふるふーんふーんふん」だけではなく、ほかの行でも起きているのだ。
 説明できないけれど。

 で、こういうことが起きる、そういうことを引き起こすことば、そういう詩は、私は好きだなあ。
 そのあと、「犬がひげのがん」まで読んだけれど、「ふるふーんふーんふん」につながるような音に出合えなかった。「意味」だけが「流通言語」を壊しているような気がして、それはそれでわかるけれど、「楽しい」という気持ちにはなられない。
 今夜は鍋にして、里芋も入れて、その里芋をテーブルの上、床の上に転がしてみたい、そうするとそこに貨物列車が走ってくるだろうか、試してみたい--そういう楽しい気持ちが、ほかの詩では感じられなかった。
 で、いそいで、最初の詩の感想だけを書いている。



詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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大西久代『海をひらく』(2)

2012-11-01 11:10:27 | 詩集
大西久代『海をひらく』(2)(思潮社、2012年10月10日発行)
          --現代詩講座@リードカフェ(2012年10月31日福岡市中央区)


 まず、読んでみましょう。(朗読)

海をひらく

海に向かい叫びあるいは感涙の時をもつことがある 波のカノ
ンにかたくなさを預けて 空をよび合う水平線に諦念の色はほ
どける 祈りの底で震える希望 鮮烈な事象に立ち向かう海は
いくつもの物語りを内包する

原初の水の起伏はどのようなものであったか 水脈を伝って迸
る水の集積 満々たる水が海へ流れつくとき 青の深みへと生
存の手を浸した種の歓喜 誕生は水からはじまる

岸辺に落ちたひと葉 風の裁量を避け 陽に灼かれ越境線を漂
う 信じること 背を伝う波音を快楽として 海は運ぶ 漂着
する至福 大地という終息の場はととのえられる

海は森と呼応する 海に漂う月は森を冥く照らす 生も死も飲
み込んだとばりを察知する 森が夜通し震えるのは海の負荷を
知るからだ

瀝る青を纏って 日々の底に定着してゆく 三半規管に宿る波
音 取り出し謳い 体に染みた冷ややかさを懐かしむ 記憶の
底でひらこうとする いつか鎮まっていった悲しみ 波線と荒々
しさを秘めた海の緘黙


<質問>わからないことばは、ありますか?
<受講生1>わからないことばはないけれど、「風の裁量」のように、ふつうにはつかわ
   ないことばがある。
<受講生2>「海の緘黙」の「緘黙」のように、だいたいわかるけれど、ふつうにはつか
   わない「硬いことば」が多い。
<質問>いま、「硬いことば」が多いという感想があったけれど、ほかにはどんな印象が
   しますか? どこがいちばん気に入りましたか? どのことばが好き?
<受講生3>最初の「叫び」と最後の「緘黙」の呼応が好き。硬いことばだけれど整って
   いる。
<受講生4>「海は森と呼応する 海に漂う月は森を冥く照らす」。照らすのにくらい、
   というのが印象的。
<受講生2>後半が好き。前半はうわっつらな感じ。後半は宗教のひとかなと思った。
   「瀝る青」が好き。
<受講生1>「空をよび合う水平線」「色はほどかれる」が好き。

 ことばが硬い、ふつうはつかわない熟語やむずかしい感じもつかわれている。けれど、全体として美しく整っている感じがする、というのがだいたいの印象かなあ。
 私の印象、私の読み方で、読み進んでみますね。
 私は1連目の「物語り」という表現が、この詩では大事だと思った。漢語というが熟語がこの詩にはとても多い。「感涙」「諦念」「鮮烈」「事象」。私は、どのことばもたぶんつかわない。その漢語(熟語)のなかにあって、「物語り」が少し変わっている。ふつうは「物語」。「り」という送りはつかわない。これは、たぶん「漢語(熟語)」ではないのだと思う。
 こういうちょっとかわったつかい方をするのは、作者がそのことばに何かの「意味」をこめているからだと思う。私はこのことばを、みんながつかうのとは違う感じでつかっています、という意思表示。

<質問>では、何が違っているのか。どこが違っているのか。
<受講生>……。

 わかりにくい。わからないですね。でも、大事なことばというのは、ひとは必ずくりかえす。知ってほしいことはことばを変えて表現するのが、表現者(文学者)の癖のようなもの。

<質問>「物語り」はこの詩では、どんなふうに言い換えられていますか?
<受講生>……。

 これもちょっと意地悪な質問だったかな。質問を変えてみます。

<質問>では、この詩は「何の物語り」? 2連目だけからだとどんなことを想像する?
    「原初の水」って何だと思う?
<受講生2>水、誕生、ということばから羊水を連想する。
<受講生1>人間の根本、生命の源。
<受講生3>地球ができたときの水。

 あ、いきなり抽象的なことばがでてきてしまったなあ。
 もっと具体的に、何か思わない?
 私が単純すぎるのかなあ。
 「原初の水」は、つぎの「起伏」ということばを手がかりにすると、海の波の感じもするけれど、「水脈を伝って迸る」ということばを読むと、川というか水源を想像しませんか?

<受講生1>森のいちばん奥。

 そうですね。
 水源の水が集まってきて「海へ流れつく」。海は川の水の集まり。そういう「物語り」を私は想像する。「誕生」ということばもあるけれど、いわば海の誕生の物語りを書いていることになると思う。
 森の奥の水源からいくつもの川が集まってきて、海にそそぐ。そうやって海ができあがる。そういうイメージが浮かぶ。
 3連目はどうだろう。

<質問>「岸辺に落ちたひと葉」の岸辺とはどこだろう。
<受講生1>水源に「岸辺」というのは違う感じがするけれど、そのあたり。
<受講生3>川かなあ
<受講生2>川だけれど、もっと海に近い川。海と交わっているようなところ。その岸。

 そうですね。2連目で「水源」のことを想像したので、その関係でいうと川の岸辺という感じがする。けれどそのあとに「海は運ぶ」ということばがあるから、ほんとうは川ではないかもしれない。
 で、いま、川と海が交わっているところ、という感想があって、これはいいなあ、と思ったんだけれど。
 私はちょっと違った感じで読んだ。
 「川と海の交わっているところ」、つまり海の近くだとして。
 「海は運ぶ」「漂着する」ということばから、何か想像しない? 何を運んでいるんだろう。

<受講生1>「名もしらぬ遠き島より」の「椰子の実」。

 私もそれを想像した。連想してしまった。
 岸辺というのはその海の真ん中にある島の岸辺かな? ここではない、遠い海の、海そのものの岸辺。ほとんど海そのものだね。
  そこから「大地という終息の場」へ「漂着する」。
 海の真ん中に(海そのもののただなかに)葉っぱが落ちるというのは変だけれど、詩なのだから変なこところがあってもいい。ここでは、広い海から陸地へと波が押し寄せるという動きが書いてあるのだと思う。
 そんなふうに読むと。
 2連目は水源(山)から海への動き。
 3連目は海から(島から)大地への動き。
 2連目と3連目は向き合う形で存在している。
 こういう向き合い方をなんというだろう。「呼応」という具合に呼べないかな?

 で、4連目。
 「海は森と呼応する」。「呼応する」がでてきますね。
 これは2連目と3連目のことを説明しなおしている。言いなおしていることになる。詩に限らず、大事なことは何回かことばをかえてくりかえされる。そのくりかえしに目を向けると詩の全体が自然に見えてくるように思う。
 水は山から(大西は「森」からというのだけれど)海に流れ、海は波を大地の岸辺へと寄せてくる。岸辺で森と海が出合っている。そして、それぞれの「源」は森と海。岸辺から遠いところ。その遠いものが、岸辺で呼応している。
 森と海は出会いながら、遠くへ広がり、同時に結びついている。
 こういう矛盾した瞬間に、詩があるのだと思う。

<質問>この矛盾した出会い、結びつきは、他に書かれていない?
<受講生4>「海に漂う月は森を冥く照らす」。海の上の月は海に反射して海が輝く。
    けれど森の上の月は反射しない。光によって、森の中に影ができる。

 あ、すごいなあ。
 光によって逆に影ができる。そういうのは矛盾のようで矛盾ではない。世界には矛盾だけれど、矛盾じゃないもの、矛盾じゃないけれど矛盾するものがあるね。
 それは、そのまま、「ありのまま」受け入れるしかない。あることがらを一方からとらえて、こうだと断定すると、その断定自体に間違いはないのだけれど、それは断定した瞬間にだけ成り立つことがらであって、別の立場からみると違ってくる。だから、ことばの断定にこだわってはいけない。
 詩を書くというのは、ことばを「断定」するのことだけれど、断定しながら同時にそうじゃなくてもいい、という感じが必要。「誤読」されてもいい、という覚悟がひつようなのかな。
 ちょっと脱線したけれど。
 矛盾の結びつき、これを大西は別なことばで言いなおしている。
 「生も死も飲みこんだとばり」。生と死が矛盾ではなく、対立ではなく、「も」という並列のことばでつながっている。共存している。
 何か反対なのもが出合う。それはしかし「対立」や「矛盾」ではなく、「共存」。
 それは1連目の「空」と水平線(海)の関係にもつながる。それは対立するのではなく「呼応する」(呼びあう)。
 大西は、そういう何か対立したものが呼応する(呼びあう)という運動をするときのことを「物語り」と感じているのかもしれない。
 どんなふうにして呼びあうのか、なぜ呼びあうのか。
 森の奥から流れてくる「水」、海に存在する「水」。それはつながっているからだ。そのつながりを自分なりの理解の仕方でとらえなおす--それが「物語り」。
 大西が自分のためにつくる「物語り」ということになる。

 最後の連。
 ここで私が注目するのは「三半規管」ということば。「肉体」をあらわすことばなのだ。森と海が呼応する、呼びあう--その声を大西は実は聞いている。その声のなかに「物語り」を聞いている。波の音を聞きながら、その波が生まれてきた過去(森から流れてきたという過去)を聞き、それから波がいましていること(何かを陸に漂着させているといういま)を聞き、それが「記憶」と重なるのを感じる。川が海へ流れているのを見た記憶、それから海に何かが漂着するのを見た記憶--それが出会いながら、「海の物語り」をつくりあげる。「物語り」を語ることが、「海をひらく」ということ。「海」は私にとってはこういう存在である、と語ること。
 その「物語り」の奥には、「いつか鎮まっていった悲しみ」というようなものもある。海は「緘黙(沈黙)」しているが、そこには「物語り」があるはずだ。

 この詩は、とてもていねいにつくられていて、しかも構造がしっかりしている。
 1連目で「物語り」というキーワードをきちんと書いて、2連目で「物語A」を書き、次の3連目で「物語A' (Aダッシュ)」くりかえす。そういう構造を利用して書きたいことを説明しながらことばの世界を広げていく。「呼応」ということばで、それがA+A' であることを説明し、最後でそれを「肉体の内部」に取り込む。
 このとき「肉体」と「海」が呼応する。この「呼応」(物語りの誕生)を、大西は「ひらく」と呼んでいることがわかる。
 そういう詩だと思います。

 という具合に読んで来ると、詩はどんなふうに見えて来るかな。

<質問>ここには何が描かれている?
<受講生2>心象風景。
<質問>肉体のなかにあるこころがとらえた風景という意味かな?
<受講生3>海も山も動かない。動かない自然が描かれている。
<受講生2>とてもしっかりとつくられたことばの世界だと思う。

 そうですね。ほんとうにいい詩だと思う。
「海」は大西の「肉体」の内部、こころ、精神の象徴のようなものとして描かれている。「海をひらく」は「こころをひらく」、あるいは自己を語るということと同じ「意味」でつかわれていると思う。
 それがとてもよくわかる、というか、きちんと伝わって来る。だからこそ、ちょっと最後に私は不満をいいたい。

<質問>いま、この詩を心象風景ととらえる感想があったけれど、その「風景」の特徴っ    て何?
<受講生4>自然、動かない。
<質問>その風景の反対のものって何だろう。
<受講生>……。
<質問>1連目に「カノン」ってことばが出て来るね。この「カノン」って、何?
<受講生1>音楽の形式で、ひとつの旋律を違う楽器で次々に演奏していく。
 
 ありがとう。
 ひとつのことを言いなおしていく、ととらえると、それはこの詩の形式にもあてはまるよね。
 この詩は海のことを書いている。海は森の奥の水源から出発した一滴の水からはじまる。その海は海のなかにあるものを岸辺へと届ける。そんなふうに呼応しながら世界が成り立っている。その記憶、大西のなかにある海の記憶を、こうやってことばにして「ひらいている」というのがこの作品だと思うけれど、そこに「音楽」がない。「音楽」がないというと言い過ぎなのだけれど、「カノン」という形式まで利用(応用)しているのに、その音楽が耳に聞こえてこない。三半規管という耳につながる「肉体」の具体的なことばさえあるのに、なぜか音楽があまり聞こえてこない。
 それはなぜかなあ。
 たぶん、最初にみんなで詩を読んだときの、その最初の印象の奥にあるものが影響してると思う。
 この詩には漢字の熟語が多い。そして漢字というのは不思議なことに、正確には読めないけれどその意味がわかることがある。「緘黙」の「緘」という文字は手紙の封につかわれたりするから「緘黙」なら閉ざして黙っている、沈黙と似たようなものだな、とか。あるいは「瀝る」はサンズイがついているから「水」に関係することばだな、送り仮名が「る」だから、「こぼれる」? 違うな、「したたる」かな? いいや、「したたる」にてしおこう、という感じになる。
 こういうとき動いているのは「目の記憶」だね。「目」でことばを読んでいる。で、この「目」というのが不思議。たとえば「三半規管」というのは、そんなものは肉眼では見えないというか、ふつうに目で見る世界ではないね。それがこんなふうにことばにして書かれてしまうと、まるで「見える」ように錯覚してしまう。これは「脳」が錯覚しているというか、正しく判断しているというか--これはむずかしいのだけれど。
 脱線してうまくいえないのだけれど。
 この詩に音楽があるとしたら、それは「目で見る音楽」であって、「耳で聞く音楽」ではない、という感じがする。それが何となく、私には「古い詩」のようにも感じられる。

<受講生2>この人は団塊の世代のひと。十数年ぶりに詩集を出したと書いてあった。

 あ、そうか。「現代詩文庫」が発刊されたころ、詩を書いていたひとなんですね。その最初の「現代詩」のもっていることばの感じが、漢字のつかいかたなんかに出ているのかもしれない。むかし書かれた「男性詩人の詩」という感じがどうしてもしてしまう。
 そこが私には、不満というか……。今回、受講生から「みんなで読むならこの詩が読みたい」という声があって、この詩をを取り上げたのだけれど、ブログで紹介したとき、この詩について書かなかったのは、そういう理由です。


海をひらく
大西 久代
思潮社
コメント
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