荒木時彦『memories』(書肆山田、2013年05月15日発行)
荒木時彦『memories』でいちばん気に入ったのは「11」。
なぜ、これが気に入ったかというと、ここには不思議な時間がある。「ずいぶん時間がかかった」と荒木自身書いているのだが、その時間は、1時間とか2時間とか、あるいは1日、2日、1週間、2週間、1か月、2か月という時間とは違う。「流通時計(?)」で測れる時間ではない。
「僕の中に」ある「時間」である。
2行目の「僕の中に」は直接的には「さみしい気持ちがある」にかかることばだけれど、そこには独特の「時間」が含まれている。その「時間」のことを、私は言っている。
なんのことか、わかりにくいかもしれない。言いなおそう。
この1行は、「意味」はわかるけれど、かなり奇妙な言い方である。どこが奇妙かというと。ふつうは「僕の中に、さみしい気持ちがある」とは言わない。「僕はさみしい」。あるいは「僕は」は省略して「さみしい」という。つまりこの1行はふつうは、
と、「意味」はかわらない。(ほんとうは、「意味」はかわるのだけれど、便宜上、かわらない、と書いておく)。「意味」はかわらないけれど、では、どうして荒木はそう書いたのか。あるいは「意味」がかわらないとしたら、何がかわるのか。
「僕の中に」「ある」と書く、そのことばが「違う」。ことばがあるか、ないか、が違う。
さらに言いなおすと、「さみしいと気づくまで」と書くよりも、ことばが「僕の中に」と「ある」ということばの量だけ遠回りしている。迂回している。それが違う。そして、ことばがことばの量だけ遠回りをするとき、その遠回りには「時間」がかかる。これは「認識」の問題なので、「時間」といっても計測しにくい「時間」である。長くても、短くてもかまわない。あっても、存在しない「量」である。あっても、存在しないのだけれど、その存在は「意識」できる。
この「遠回り」は、なんとも刺激的で美しい。より近づくための遠回りなのである。そこにある感情が「さみしい」と気づくためにいったんその気持ちを離れる。そして近づく。そうすると、あ、この気持ちこそ自分が探していた感情なのだとわかる。
寺山修司風に言うと(ここで寺山修司が急に出てくるのは、私がまだ秋亜綺羅の詩のことば、ことばの運動の影響のなかにいるからである)、それは初恋の少女をより強く抱きしめるために突き放すのに似ている。いったん突き放し、それを抱きしめると、突き放されたものがより深く胸に飛び込んでくる。作用、反作用のような感じ。
このとき、「さみしい」という感情が、感情ではなく、「作用/反作用」というちょっと科学的(客観的?)なもの、言いなおすと感情ではなく精神、あるいは理性によって洗い清められる。そして、新鮮になる。
感情(さみしさ)を描くのに、わざと感情ではないもの、理知的、精神的な径路をたどる。遠回りをする。そういう「時間」をくぐることで、世界を立体化するといってもいいかもしれない。
「さみしい」という露骨な(?)感情表現がそこにあるにもかかわらず、べたべたしない、センチメンタルな感情に溺れているという感じがしないのは、ことばの運動が、そういう径路を通っているからである。「流通時間」ではなく、荒木特有の「時間」をくぐっているからである。
で、これはいいのだけれど、全部が全部、そうではない。「径路」をたどりきれないものがあって、それは「流通抒情詩」に終わっていて、ちょっとつまらない。
つまらないものを書いてもしようがないので、もう少し、気に入った断片について触れながら補足する。
「33」もおもしろかった。一部は「帯び」にもとられているけれど……。
「僕は集中しているが、他のことを考えている。」というのは矛盾だが、それが矛盾だから、そこに詩がある。荒木のキーワードがある。矛盾した形でしかいえない真実がある。「肉体」がある。「肉体」はジグソーパズルを完成させるという仕事をしながら、それとは違うことを考える、その思いを同時に同居させることができる。そして、それは同居していた方が「集中」には効果的なのだ。というか……ジグソーパズルの絵と違うことを考えると、そこから思いがけないヒントが甦ってて形と色を結びつける。母親のきていた服の色、公園のブランコの色……余分なもの、迂回路がある方が、ジグソーパズルの仕事を仕上げるには効果的ということもある。いや、そっちのほうが効果的である。
なぜかはわからない。たぶん、私たちの「肉体」というものは、何かを思い出しながら、何か肉体の奥に生きているものを解放しながら、今向き合っているものを動かしていくのである。絶対に必要なものではない何か、それこそが「いま/ここ」を動かしていくのに必要なものである--と、まあ、荒木が書いていた矛盾の通じる形でした言えない何かなのだけれど。
似たようなことを告げるのが、「3」
なぜ「サラ・ムーン」の写真なのか。それが「サラ・ボーン」の写真だったら、それは荒木の目に入ったか。たぶん、入らない。私たちの目は常に開かれ何かを見ているが、それは見ていると思っているだけ。ほんとうはそこに存在しているものを除外しながら、必要なものだけを見ている。サラ・ムーンの写真が目に入ったのは、荒木がサラ・ムーンを知っているからだ。つまり荒木はサラ・ムーンとある「時間」を過ごしたことがある。それを「肉体」がおぼえていて、そのおぼえていることが、「いま/ここ」に甦っている。この2行に詩があるのは、そういう「いま/ここ」にない「時間」が荒木を通って、荒木のことばを通ってあらわれるからだ。
この「時間」は「過去」ということかもしれない。そして、その「過去の時間」は計測できない。それは「時間」ではなく、「時」だからである。「間(ま)」がない。そういうものが、噴出してくる。「時」が噴出してきて、「時」のまま「永遠」になるが、「永遠」もまた「間」をもたない絶対的に「時」である。
で、最初に強引にもどると。
というのは、いろんな「過去」を思い出し、その「時」の噴出を肉体で感じ、あ、これが「さみしい」だと気づいたということである。「ずいぶん時間がかかった」は「多くの時の噴出に出会った」ということかもしれない。
そういうものは「僕の中に」ある。私のことばで言いなおせば「肉体」のなかにある。ことばが「肉体」をとおって、肉体がおぼえているものをつかみとると、そこには自然に詩があらわれる。
荒木時彦『memories』でいちばん気に入ったのは「11」。
きみが出て行ったあと、
僕の中に、さみしい気持ちがあるのに気づくまで、
ずいぶん時間がかかった。
なぜ、これが気に入ったかというと、ここには不思議な時間がある。「ずいぶん時間がかかった」と荒木自身書いているのだが、その時間は、1時間とか2時間とか、あるいは1日、2日、1週間、2週間、1か月、2か月という時間とは違う。「流通時計(?)」で測れる時間ではない。
「僕の中に」ある「時間」である。
2行目の「僕の中に」は直接的には「さみしい気持ちがある」にかかることばだけれど、そこには独特の「時間」が含まれている。その「時間」のことを、私は言っている。
なんのことか、わかりにくいかもしれない。言いなおそう。
僕の中に、さみしい気持ちがあるのに気づくまで、
この1行は、「意味」はわかるけれど、かなり奇妙な言い方である。どこが奇妙かというと。ふつうは「僕の中に、さみしい気持ちがある」とは言わない。「僕はさみしい」。あるいは「僕は」は省略して「さみしい」という。つまりこの1行はふつうは、
さみしいと気づくまで、
と、「意味」はかわらない。(ほんとうは、「意味」はかわるのだけれど、便宜上、かわらない、と書いておく)。「意味」はかわらないけれど、では、どうして荒木はそう書いたのか。あるいは「意味」がかわらないとしたら、何がかわるのか。
「僕の中に」「ある」と書く、そのことばが「違う」。ことばがあるか、ないか、が違う。
さらに言いなおすと、「さみしいと気づくまで」と書くよりも、ことばが「僕の中に」と「ある」ということばの量だけ遠回りしている。迂回している。それが違う。そして、ことばがことばの量だけ遠回りをするとき、その遠回りには「時間」がかかる。これは「認識」の問題なので、「時間」といっても計測しにくい「時間」である。長くても、短くてもかまわない。あっても、存在しない「量」である。あっても、存在しないのだけれど、その存在は「意識」できる。
この「遠回り」は、なんとも刺激的で美しい。より近づくための遠回りなのである。そこにある感情が「さみしい」と気づくためにいったんその気持ちを離れる。そして近づく。そうすると、あ、この気持ちこそ自分が探していた感情なのだとわかる。
寺山修司風に言うと(ここで寺山修司が急に出てくるのは、私がまだ秋亜綺羅の詩のことば、ことばの運動の影響のなかにいるからである)、それは初恋の少女をより強く抱きしめるために突き放すのに似ている。いったん突き放し、それを抱きしめると、突き放されたものがより深く胸に飛び込んでくる。作用、反作用のような感じ。
このとき、「さみしい」という感情が、感情ではなく、「作用/反作用」というちょっと科学的(客観的?)なもの、言いなおすと感情ではなく精神、あるいは理性によって洗い清められる。そして、新鮮になる。
感情(さみしさ)を描くのに、わざと感情ではないもの、理知的、精神的な径路をたどる。遠回りをする。そういう「時間」をくぐることで、世界を立体化するといってもいいかもしれない。
「さみしい」という露骨な(?)感情表現がそこにあるにもかかわらず、べたべたしない、センチメンタルな感情に溺れているという感じがしないのは、ことばの運動が、そういう径路を通っているからである。「流通時間」ではなく、荒木特有の「時間」をくぐっているからである。
で、これはいいのだけれど、全部が全部、そうではない。「径路」をたどりきれないものがあって、それは「流通抒情詩」に終わっていて、ちょっとつまらない。
つまらないものを書いてもしようがないので、もう少し、気に入った断片について触れながら補足する。
「33」もおもしろかった。一部は「帯び」にもとられているけれど……。
一〇〇〇〇ピースのジグソーパズルは、時間の感覚を麻痺させるのに十分だ。
ピースをはめていく間、僕は集中しているが、他のことを考えている。子供の頃、母親につれられて行った公園のこと、学校で、友達とちょっとしたいたずらをしたこと、今つきあっている恋人のこと。
「僕は集中しているが、他のことを考えている。」というのは矛盾だが、それが矛盾だから、そこに詩がある。荒木のキーワードがある。矛盾した形でしかいえない真実がある。「肉体」がある。「肉体」はジグソーパズルを完成させるという仕事をしながら、それとは違うことを考える、その思いを同時に同居させることができる。そして、それは同居していた方が「集中」には効果的なのだ。というか……ジグソーパズルの絵と違うことを考えると、そこから思いがけないヒントが甦ってて形と色を結びつける。母親のきていた服の色、公園のブランコの色……余分なもの、迂回路がある方が、ジグソーパズルの仕事を仕上げるには効果的ということもある。いや、そっちのほうが効果的である。
なぜかはわからない。たぶん、私たちの「肉体」というものは、何かを思い出しながら、何か肉体の奥に生きているものを解放しながら、今向き合っているものを動かしていくのである。絶対に必要なものではない何か、それこそが「いま/ここ」を動かしていくのに必要なものである--と、まあ、荒木が書いていた矛盾の通じる形でした言えない何かなのだけれど。
似たようなことを告げるのが、「3」
バーガー・ショップでレモネードを飲んでいる時、
壁にかけられたサラ・ムーンの写真が目に入った。
なぜ「サラ・ムーン」の写真なのか。それが「サラ・ボーン」の写真だったら、それは荒木の目に入ったか。たぶん、入らない。私たちの目は常に開かれ何かを見ているが、それは見ていると思っているだけ。ほんとうはそこに存在しているものを除外しながら、必要なものだけを見ている。サラ・ムーンの写真が目に入ったのは、荒木がサラ・ムーンを知っているからだ。つまり荒木はサラ・ムーンとある「時間」を過ごしたことがある。それを「肉体」がおぼえていて、そのおぼえていることが、「いま/ここ」に甦っている。この2行に詩があるのは、そういう「いま/ここ」にない「時間」が荒木を通って、荒木のことばを通ってあらわれるからだ。
この「時間」は「過去」ということかもしれない。そして、その「過去の時間」は計測できない。それは「時間」ではなく、「時」だからである。「間(ま)」がない。そういうものが、噴出してくる。「時」が噴出してきて、「時」のまま「永遠」になるが、「永遠」もまた「間」をもたない絶対的に「時」である。
で、最初に強引にもどると。
きみが出て行ったあと、
僕の中に、さみしい気持ちがあるのに気づくまで、
ずいぶん時間がかかった。
というのは、いろんな「過去」を思い出し、その「時」の噴出を肉体で感じ、あ、これが「さみしい」だと気づいたということである。「ずいぶん時間がかかった」は「多くの時の噴出に出会った」ということかもしれない。
そういうものは「僕の中に」ある。私のことばで言いなおせば「肉体」のなかにある。ことばが「肉体」をとおって、肉体がおぼえているものをつかみとると、そこには自然に詩があらわれる。
sketches | |
荒木時彦 | |
書肆山田 |