詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

南川隆雄『爆ぜる脳漿 燻る果実』

2013-05-05 23:59:59 | 詩集
南川隆雄『爆ぜる脳漿 燻る果実』(思潮社、2013年04月30日発行)

 南川隆雄『爆ぜる脳漿 燻る果実』を読んでいて、「尻」ということばが印象に残った。

川原に腰をおろす叔母の尻の下から平べったい石を抜
きとる 尻は湿った砂の窪みにすとんと落ちる また
ふざけて と撫で肩がわらう                 (「水底のぞき」)

磯の香に いま絞められる家禽のにおい
島の遠景は複写紙のひとひら
尻の砂をことさらに払って参道にでる               (「埋める」)

堤防下の田の湿りに尻をおとし
身もだえる茜色の東空に目をこらす
やがて炎は
おのずからおとろえ黒ずんだ朝がくる              (「けむる街」)

 この「尻」が印象に残るのは、どの尻も地面(大地)に接触しているからである。「尻は……落ちる」「尻の砂」「尻をおとす」。それは地上にあって肉欲をそそるために揺れるのではない。
 3篇の詩のなかに出てくるだけでこういうことを言っていいかどうかわからないが、南川は尻を大地に押し付けている人間なのである。尻とは、腰、でもある。ふわふわしていない。視点が定まっている。「思想」に揺らぎがない。私は「思想」と「肉体」を同じものだと考えているが、南川の思想(肉体)は常に大地と接している。「腰が据わっている」という言い方があるが、それよりももっと「肉体」的。尻が大地を敷いている。
 「頭」で空想などしない。
 「けむる街」は空襲で焼けた街を歩く詩である。歩いたときの記憶を描いたものである。

たてよこの道がくっきり見とおせる
そのひと筋をおとなの背について歩く
消されたものの跡
なんという真新しい

よごれのない赤子の白い足首が
道のなかほどに落ちている
--おんぶされて逃げるとき
トタン板にでも擦られたのだね
ふりかえって叔母がいう
なんという真新しい 切り口
手つかずの原始のけしき

 悲惨な光景なのだが、悲惨ということばを跳ね返してくる。南川は「真新しい」と書いているが、それは「悲惨」というより、美しい。ほんとうに真新しい美しさだ。その真新しさ、美しさはどこから来ているのか。
 自分の肉体の肯定、生きていることの肯定から来ている、と私は思う。感じる。
 「西洋哲学書」に書かれている「思想」ではなく、だれかが語ったことばではなく、ただ自分だけの「肉体」で「いま/ここ」と向き合う。いままでまわりにあったものが全部焼けて消えてしまった。しかし、そこにもひとがとおる(歩く)道だけはある。そしてそれは、ひとが生きるために走って逃げた道である。走って逃げたひとは、きっと生きている。赤ん坊は、まだ大地を歩いたことのない足を失ったかもしれない。けれど、失うことで生きている。それは、悲惨か。悲惨かもしれないが、そんなことばでつかみとる世界よりも真新しい。生きているということは、真新しいということなのだ。それを実感している。この「真新しい」はことばにならない。「流通言語」の語る「哲学」にはならない。「真新しい」という奇妙なことばになって、肉体に食い込んでいる。まるで切断された赤子の足首の断面のように。切断されたのに、食い込んでいる。--この矛盾、なまなましさが肉体の思想であり、思想の肉体であり、ことばの肉体だ。
 「尻をおとす」、そうして大地にぺったりと座る。それは単に座るというよりも、大地に自分をくくりつけること。大地と一体になるということかもしれない。大地を離れないということかもしれない。大地を呼吸するということかもしれない。
 そんなふうにして、南川は、自分の肉体(思想)を限定する。大地から離れない。ひとが尻をおとし、歩いていくその大地にのこってことばを動かす。だれかのつかったことば、「西洋哲学」から学んできたことばではなく、自分の「肉体」が覚えていることばで語る。それが、おのずと「思想(肉体)」になっていく。こういう「尻をおとしたことば」は壊れない。空中で分裂してしまわない。
 「牛」という作品は、既製のことばで言えば「輪廻転生」の世界、あるいは釈迦に出会ったときに感じる愉悦を含んだ恐れを瞬間的に感じたときのことを描いたものかもしれないが、いま私が書いたようなことばを退けて(尻ぞけて、尻で踏み潰して--と思わず私は書きたくなるのだが)、ことばが動く。

ひさしぶりに海を眺めたくなり
高みへと坂道を歩む
そこをゆったり牛が下ってきて目を合わす
波のたゆとうおもわくのない瞳

海原の残像がまぶしい
視線をそらし 黒い背毛越しに
いま行こうとする高台をさぐる
うろたえた姿を牛の眼差しにさらす

年端もいかぬ者の軽口にこころ揺らめき
去っていくふるい友にいつまでもこだわる
情けないわたしの面に
牛はほんのわずか口許をほころばす

いまからわたしが行こうとするところを
見ようとするものを もう見ている
おぼろげな肉親の消息や
この世でのわたしの行く末までも
牛はうかがい知っている
そう思いめぐらし おそれる

ともに立ち止まらない
ぬるい体臭を残して牛は下っていく
背毛にすがる病葉が裏返る
じぶんの瞳のなかに歩み入るように
午後の濃い海風に牛は溶け込んでいく

 「尻」の詩人でなければ、この「牛」は描けない。この「牛」に出会えない。読み返すたびにどきどきする詩である。





爆ぜる脳漿 燻る果実
南川 隆雄
思潮社


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田代芙美子『過ぎ去る時の河畔に』

2013-05-04 23:59:59 | 詩集
田代芙美子『過ぎ去る時の河畔に』(花神社、2013年04月25日発行)

 ことばと耳--について考えていたせいだろうか、田代芙美子『過ぎ去る時の河畔に』を読みはじめてすぐ「耳」ということばに出会った。「涙」と言う作品。

降り止まぬ内耳の雨をかきわけ
言葉を聞き取ろうとする聴神経は
一本の動脈に支えられ見えない昏がりで
かすかに聞こえる音を解析し組みたてようと
かつて過ぎた日の爽やかな記憶を求めて

 うーん。「耳」はここではじかに、テーマになっている。よく聞き取れないことば、なのか、ことばをよく聞き取れない耳、なのか。私の考えていることばと耳の問題とは少し違って、肉体の仕組み(障害?)の問題と向き合っているようなのだが。
 いや、それでもおもしろい。
 というのは、ちょっと親身さに欠ける感覚かもしれないけれど。

 私が考えていることばと音の問題から言うと、2行目の「聴神経」。これは、「音」が聴こえない。私はそのことばを聞いたことがない。ところが「ちょうしんけい」と入力し、変換すると「聴神経」になるから、そうか、これはやっぱり「ちょうしんけい」と読むのかと思い、こういう聞いたことのない音があると「聴神経」という文字から「意味」を想像してしまうので、どうも、私は不安になる。むりやり視神経(網膜)をこじ開けられて、そこに文字を突きつけられる感じ。目で、何かを考えはじめている。
 で、おもしろいのは。
 私がそう感じるだけではなく、どうやら田代も「視覚」をつかって何かを探っているということである。「耳の神経(と、私なら書く)」が、あれ、変だ、と気づいて、その「変」を具体化するとき(わかりやすく言いなおすとき)、

一本の動脈に支えられ見えない昏がりで

 「見えない」。ね、「視覚」でしょ? 「聴こえない」暗がりではなく、「見えない」昏がり。聴力が問題なのに、目が割り込んでくる。
 暗がり、ではなく、「昏がり」と書くところにも視覚へのこだわりがあるね。くらがりと「聞く」だけではつたわらない何か--黄昏からの連想で言うと、以前は明るかったのに、だんだん暗くなっていくのが「昏がり」なんだろうね。
 そして、

かすかに聞こえる音を解析し組みたてようと

 ここがおもしろい。田代のことばの動きのポイントがあるように思う。
 「音を解析し組みたて」る。これは、つまり世界の「再構築」である。世界を聞こえる小さな音にまで微分し、その微分値を積み上げる(積分する)ことで世界の全体を「つくりあげる」。聴こえないものを、聞こえる音がもっている最小の基本からつくりあげていく。
 このときできあがった世界というよりも、きっと、その作り上げるという作業が「意味」なのだ。
 で、そう考えるとき。

一本の動脈に支えられ見えない昏がりで

 この「見えない」が、おおっ、という感じでよみがえる。「聴こえる」微分値としての「音」。それを積分していくとき、田代は「見えない」ということばを支えている「視覚」を取り込む。「聴こえない」という問題をつきつめていくときに、聴覚だけではなく、視覚も知らずに動員してしまう。聴覚が否定されたとき、それを視覚が補う。そうして全体を「組み立て直す」。
 その「助けを求める」領域は「視覚」だけとは限らない。

かつて過ぎた日の爽やかな記憶を求めて

 「記憶」そのものに頼る。「記憶」の定義はむずかしいが、まあ、「おぼえていること」である。その「おぼえていること」というのは、耳が覚えていることもあれば、目がおぼえていることもある。ほかの肉体がおぼえていることもある。
 そういう、肉体の他の領域、それとぶつかるところまで、ことばを動かしていくというのは、必然なのだ。

 と、書いてきて、私は「ことばと耳」ではなく、「ことばと肉体」の問題にもどってきたなあ、と感じる。
 田代は、聴こえにくくなった耳のことを書きながら、耳だけではなく、視覚も動員して世界をもう一度つかみ取ろうとしている。そのつかみ取り方のなかに、何か新しいものがある、新しいものを提出できる--詩を作りだすことができる、と感じてことばを動かしているのだろう。新しい肉体の動かし方--それがことばになったとき、それが詩なのだ。
 「かすかに聞こえる音を解析し組みたて」るという表現には、ことばを日常的につかわない領域にまで微分し、突き動かし、そこから積分をはじめるという「新しさ」への決意がある。
 田代は「意思」の力でことばを統一しながら、肉体を微分し、再構築する。そうすることで世界をとらえろおそうとする。
 で、そのとき、とってもとってもとっても、おもしろいのは、自分の外にある世界だけではなく、田代の肉体の「内部」の世界もかわることだね。
 新しい肉体の動かし方をしたのだから、肉体の内部がかわるのはあたりまえなのだが、この必然が田代の場合、とてもスムーズ。だからこそ、それが輝く。

暗緑色の川水は粘り
石の階段は水底で蝕まれ ぬめり
耳の奥にゆらめく
ここでは音は初めからなく追憶からも消され
聴神経は安らぎを得るだろう
言葉のない川水に足を入れ水をみつめる
朝あけの陽は輝きを増し
あまりに透きとおる空に臆する内耳は
弦のように鳴りひびく

 前半は「ねばり」「ぬめり」ということばが指し示すように「聴覚」の世界ではない。「視覚」でも「ねばり」「ぬめり」は感じられるが、ほんとうに実感するのは「触覚」だろう。触覚の記憶が視覚にも影響して、それが見えるように感じられるのであって、そう感じたとしてもそれは視覚ほんらいの機能とは違う。感覚の融合が、そこにはある。融合(影響)があるからこそ、触覚につづいて「ゆらめく」という「視覚」的な感覚があらわれる。「触覚」は「ゆれない」。じかに「さわっている」(離れない)のが触覚である。
 この感覚の融合を「影響」と呼んでもいい。つまり、感覚は互いに影響しあうということ。
 だからこそ。

ここでは音は初めからなく追憶からも消され
聴神経は安らぎを得るだろう

 ということばへと展開する。「音」は実は「触覚/視覚」を含んでいる。そのふくまれているものが「触覚」「視覚」に吸収されてしまうと、音は消える。消される。「音」と思っていたのは、実は、他の感覚の融合したときに生じる「複数の感覚」の形なのである。音は「視覚+触覚」である。音が視覚と触覚に微分されてしまえば、そこには「音」はなく、「聴神経」はその無音に安らぐ。
 そして、完全に安らいだあと、そのあまりの安らぎに(不純物のなさに)、

あまりに透きとおる空に臆する内耳は
弦のように鳴りひびく

 内耳(聴神経)そのものが鳴りだすのである。「音」は耳の外から聴こえるのではなく、耳の内部で鳴りはじめる。「肉体」の「おぼえていること」が、音となって誕生するのである。
 「内耳」で降り続く雨のような「音」。それはもしかすると、耳自身の鳴り響きかもしれない。耳は聞くだけではなく、鳴るのだ。
 田代は、とてもおもしろい「哲学」を書こうとしているように思える。








海と砂時計
田代 芙美子
思潮社
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田中宏輔「ROUND ABOUT。」

2013-05-03 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
田中宏輔「ROUND ABOUT。」(「ミて」122 、2013年03月20日発行)

 私は目が悪いので……と何度も書いてしまうが、字がびっしりつまった作品、むずかしい漢字が多い作品は読むのが苦しいのだが。田中宏輔「ROUND ABOUT。」は文字がびっしりつまっていて、そのうえ●が頻繁に出てきて、あ、読むのはつらいなあ、と一瞬身構えるのだけれど。

●桃●って呼んだら●小犬のように走ってきて●手を開いて受け止めたら●皮がジュルンッて剥けて●カパッて口あけたら●桃の実が口いっぱいに入ってきて●めっちゃ●おいしかったわ●テーブルのうえの桃が●尻尾を振って●フリンフリンって歩いているから●手でとめたら●イヤンッ●って言って振り返った●このかわいい桃め●と思って●手でつかんで●ジュルンッて皮をむいて食べてやった●めっちゃ●おいしかったわ●水槽のなかに●いっしょうけんめい●水の下にもぐろうとしている桃がいた●人差し指で●ちょこっと触れたら●クルクルッて水面の上で回転した●もう●このかわいい桃め●と思って●水面からすくいだして●ジュルンッて皮を剥いて食べてやった●めっちゃ●おいしかったわ

 楽に読める。書いてあることが単純だから? いや、そうではなくて、そこに「音」があるからだ。ことばが「音」として聞こえてくる。そしてその「音」は一緒に肉体を動かす。「音」といっしょに肉体の動きが見える。「めっちゃ/おいしい」という「音」といっしに、そこに存在する「肉体」が見えてくる。食べて、官能を喜ばせるという「肉体」のあり方か見えてくる。
 「桃」は「小犬のように走って」くることはないから、「桃」は比喩かもしれない。でも、水のなかでクルックルッとまわる桃は比喩ではなく現実のようにも見える。水に浮かんだ桃(だけではなく、ほかの果物でもそうだろうけれど)は指でつつくとくるんとまわる。そういうことを肉体が覚えているので、それは桃に見える。でも、全体のなかでは、その水に浮かんだ桃も桃ではなく、比喩かもしれない。--まあ、どっちでもいい。どっちにしろ、「桃」は何かなのだ。「桃」であっても「燃せ」でなくても、とりあえず「桃」と読んでいる何か。そういう「抽象的」なことばというのは、おおい、わけがわからんぞ、と言ってしまいたいものが多いのだけれど、田中の詩の場合、そういう具合にはならない。「めっちゃ/おいしい」が、だれもが知っている官能だからである。
 と、一気に言ってしまう前に、少しもどってみようかな。
 田中の詩の「桃」は何か「比喩」のようなものであり、その「比喩」がそれでは何を具体的にあらわしているかということはわからないのだけれど、「わからない」という感じが詩を支配することはない。なぜだろう。
 理由はふたつあると思う。ひとつは「桃」を私たちがよく知っていること。熟れた桃の皮は「ジュルンッ」と剥ける。ほかに言い方はあるかもしれないけれど、簡単に、べたべたの水分を含んだまま、手に果汁なんかがこびりついた形で剥ける。そして、それにかぶりつくと甘くて、うまい--と書いてきて、何かが変わったことに気づく?
 そこに二つ目の理由がある。桃について書いていたのに、そこに桃以外のもの、肉体が自然に絡みついている。皮をむく。手が汚れる。かぶりつく。うまい、と感じる。そこにあるのは、もう桃ではなく、桃によって動かされている肉体。そしてその肉体が「めっちゃ/おいしかった」に融合していく。
 桃でも、肉体でもなく、「めっちゃ/おいしい」という世界--桃と肉体がからみあって「ひとつ」になって、新しい人間の世界をつくりだしている。新しいのだけれど、そこには「肉体」がしっかりからみついている。肉体がとけあっている。だから、それは「古い」というか、なつかしいというか、ようするに「知っている」世界。
 そして、その肉体が何かと融合しているところに「ことば」があって、そのことばが--私の場合、「音」としていちばん先に肉体に結びついてくる。「見える」のではなく、「聞こえる」と同時に「発する」「音」として肉体に結びついている。「めっちゃ/おいしい」というときの、声の解放感と結びついている。逆に言うと、その「めっちゃ/おいしい」という音(声)と同時に、そこに「肉体」が喜んでいるのが「見える」。
 「聞こえる(聴覚)」から「見える(視覚)」へと肉体がそのとき広がっていく。そして、それが「触ることができる」「食べることができる」などのように、肉体を次々に広げてもゆく。
 「●桃●って呼んだら」には「呼ぶ」という「声(音)」が登場するけれど、次の「小犬のように走ってきて」も「走る」という「音」が肉体を動かす。「走る」というこばを読むと、それが黙読であっても(私は黙読しかしないが)、「音」は喉だけではなく、足にまで刺戟を与える。足が動く。動かない足のなかで。そういうことが起きる。ことばは「音」になって「肉体」に広がって、肉体そのものになる。
 「皮がジュルンッて剥けて」の「ジュルンッ」というのは「音」そのもの。その「音」が「意味」を超えてというより、「意味」以前のなまな感覚そのものとして肉体のなかに入っていく。
 ことばは「意味」となって頭に入ってくものかもしれない、つまり「意味」にならないと頭には入っていけないかもしれないが、「音」のまま、無意味のまま、肉体のなかに入ってゆくことができる。そして、そこに意味になる前の何かをつくりだす。新しい肉体--といっても知っている肉体を新しく生み出す力がある。
 田中のことばのなかでは「音」が動いている。「意味」以前の何かが動いている。それは「意味」以前であると同時に、「意味」を超越している。

 で、「桃」は、そういう「音」をくぐりぬけて肉体のなかに入り込み、意味を超越して居すわることになる。で、次のような展開が、飛躍しながらつづく。(途中を省略して引用する。)

哲学を勉強している大学院生の友だちが●ぼくに言った●桃だけが桃やあらへんで●ぼくも友だちの真似をして●腕を組んで言うたった●そやな●桃だけが桃やあらへんな●ぼくらは●長いこと●にらめっこしてた●アメリカでは●貧しい桃もふ努力次第で金持ちの桃になる●アメリカンドリームちゅうのがあるそうや

●桃々●桃々●いくら電話しても●友だちは出なかった●なんかあったんかもしれへん●見に行ったろ●桃って言うたら、あかんで●恋人の耳元で●ぼくはささやいた●わかってるっちゅうねん●桃って言うたら●あかんで●そう耳元でささやきあって興奮するふたりであった

●あんた●あっちの桃●こっちの桃と●つぎつぎに手を出すのは勝手やけど●わたしら家族に迷惑だけはかけんといてな●そう言って妻は二階に上がって行った●なんでバレたんやろ●わいには●さっぱりわからんわ

 桃はもう桃ではなく、人間のように見える。しかもそれが、なんとなく、あ、これは人間のことだな、とうすうす感じられる程度に--ややこしいことに、うすうすだからこそ、逆に人間だなと「確信」してしまうという形で見えてくる。「確信」というのは、だんだん大きくなってくる妄想のことかもしれないけれど。真実というのは「肉体」の外にあり、普遍のものかもしれないけれど、「確信」というのはあくまで肉体のなかにあって、だんだん動かせない大きさにまで育つものである。
 ことばの動き、音(声)の動きとともに、そこに肉体が見えてくる。肉体が存在しはじめる。私は田中に会ったことはないのだが、そこに田中の肉体を感じる。そしてそれは、私の肉体と切断した「他人」ではなく、私の知っている「肉体」である。私の覚えている「肉体」である。田中の「肉体」なのに、自分の「肉体」が田中の声によって広がって、田中の「肉体」になっていく。セックスだね。
 で、そのセックスをしている「確信」を育てるのが、私の「感覚の意見」では「音(声)」である。「●桃って言うたら、あかんで●恋人の耳元で●ぼくはささやいた●わかってるっちゅうねん●桃って言うたら●あかんで」の「桃」のかわりにほかのことば言ったこと(聞いたこと)はだれにでもあるかもしれない。何かを念押しする。何度も口にする。耳にする。そのとき、ひとは「意味」を言っているのだろうか。「言ってはいけない」という「主張」を言っているのだろうか。そうかもしれない。しかし、それだけではない。何か、自分の肉体に念押している。相手の肉体に念押ししている。喉を動かす、その肉体に念押ししている。「肉体」が交渉している。--だから、つまり、ことばを「音」にして肉体にもぐりこませること、「声」をだすこと、「声」を聞くことが、肉体の交渉、セックスになり、それゆえにひとは「興奮する」。

 ことばは「音(声)」になることで、肉体交渉、セックスになる。それゆえに(というのは、私の飛躍なんだろうけれど)、音のないことばはつまらないけれど、ことばに音さえあれば、それはどんなことばでも楽しい。
 読むのはつらくない。
 (目の悪い私には、田中の詩の引用はとてもむずかしい仕事だった。誤字だらけかもしれない。目がいらいらするので点検しない。「ミて」で作品を確認してください。)



 突然思いついたことを書いておく。
 私はことばとセックスをする。そのとき「視力(視覚)」ではなく「聴力(聴覚)」の方が優先する。「聴覚」の刺戟の方にひかれる。これは、「視覚」というものが目の前方にしか開かれていない(限定的な方向をもっている)のに対し、聴覚は全方向に開かれている(方向に限定がない)ということと関係しているかもしれない。聴覚の方が無限なのである。この「無限」ということから言えば、「嗅覚」も同じである。方向が限定されない。空気さえあれば、どこへでも伝わっていく。そして、危険なまま、「肉体」のなかへ入ってくる。聴覚よりも嗅覚の方が、いのちに関係するかもしれない。吸っただけで死んでしまう「空気」というものがあるからね。
 そうすると。
 「嗅覚」で書かれた詩(ことば)の方が、もっとセックスに近くて、危なくて、おもしろいということになるかも……。






The Wasteless Land. 7
田中 宏輔
書肆山田
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たなかあきみつ『イナシュヴェ』(2)

2013-05-02 23:59:59 | 詩集
たなかあきみつ『イナシュヴェ』(2)(書肆山田、2013年04月25日発行)

 たなかあきみつ『イナシュヴェ』のことばは、「非・私詩」である。そこには単純な形でたなかの日常はでてこない。肉体も出てこない。けれどことばはどんなときでも肉体そのものだから、「もの(存在)」の描き方を追うことで、たなかの「いのち」に接近することはできると思う。私がたなかのことばから感じるのは、まず視力/目としての肉体である。それに耳(聴力)が反応する。
 「Alzheimer 氏の食卓《最新版》」の書き出し。

副え木も蝶番もなく
記憶のまぶしいドミノ倒しの乱反射をリピートする皿の上
すっかり雑草をはぎとられた更地のような皿には
日がわりのコルク代わりに潰れた耳形の金色のリボン
その金色は光線しだいで灰色がかった褐色になったりするが
静かなオーシャンの海底に滞留するプラスチックスープの素材たるヴィニル袋には
ちぎり残された柔らかいパンの山塊、ぎざぎざのマッスの静けさが
封入されている、海蝕が密封されている

 ここにあるのは視覚の「乱反射」である。いや「反射」ではなく、視覚の「乱射」かな? そこでは「耳」さえ聴覚にはならず、「耳形のリボン」という視覚にさらわれていく。
 私は、いま非常に目の状態が悪いので、こういう視覚の乱射にはなじめない。これは、もっぱら私の体力の問題であって、正常な視力の持ち主にはどうということもないのかもしれないけれど。たなかの問題ではないのだけれど。で、私の視力では、

海蝕が密封

 ということばなどは、ことばというより「文字」が乱射されてくるようで、かなり厳しい。音があるはずなのに、「静けさ」のなかに吸収され、文字だけが、ことばの海底から浮上してくる。--もっとも、これは「文脈」そのものの現象なのかなあ。
 ちょっとわからない。
 こういう作品は、私は苦手で(昔は好きだったかもしれない)、私が好きなのは「イナシュヴェ」のような詩。

満月のその夜に
夜空の空中架園にあったはずのダダイズムの所在を
センターラインをななめに走行中の救急車にたずねる
斜体のダーはドイツ語ではほらここに
喉で待ちぶせるダー、ダーはロシア語では束の間の全面肯定
ダダイズムは《未完(イナシュヴェ)》のままいまも火花を
地獄谷の間歇泉のようにぶくぶく吹き上げている

 耳がよろこんでしまう。喉もよろこんでしまう。特に「斜体のダーはドイツ語ではほらここに/喉で待ちぶせるダー、ダーはロシア語では束の間の全面肯定」の2行の「ダー」という濁音の豊かな響き。それが「ダダイズムは《未完(イナシュヴェ)》のままいまも火花を」のタイトルにもなっている聞き慣れないことばつながる感じ。「イナシュヴェ」のなかの「ヴ」という濁音、「シュ」のかすかな音引き感覚(?)。たなかが「未完」と書いているから、それはそういう「意味」なんだろうけれど、「ダダイズム」「ダー(ここ/これ)、肯定」と耳と喉のなかで融合しながら、「未完」こそ新しい「完成」、完成になる前の完成--これって矛盾しているけれど、その矛盾を超越して、その完成になる前の完成が出現してくる感じが「肉体」のなかに生まれる。
 それは、私の「誤解」。
 ああ、「誤解/誤読」だから、うれしいんです。わけのまからないまま、これがいい、ここがいい、と私の「感覚の意見(肉体の意見でもあるかな)」は叫んでいる。「意味」なんて必要なら、あとでくっつければいい。

イエロウやオレンジや緑黄の火花ならともかく
だんだら無色の火花ってあるんだろうか

 「イエロウ」わかるね。「オレンジ」わかるね。「緑黄」わかる、でも、あれっ、ふつうは「黄緑」。どう違う? 「だんだら無色」--これは何? 無色なのに「だんだら」って、ありうる? 無色なのに、見える?
 見えなくてもいいのです。というのは、私の「感覚の意見(肉体の意見)」。なぜなら、私はこのとき「視力」をつかっていない。火花を「イエロウ」「オレンジ」と呼ぶのは「流通言語」であって、私はそのときその「色」を正確に思い描いていない。センターラインを斜めに走る救急車みたいに「音」が肉体のなかをすべっているだけ。そして、そのスピードに乗ったまま、「だんだら無色」という音になっていく。
 「だんだら」のなかに「ダダイズム/ダー」があり、「むしょく」のなかに「イナシュヴェ」がある。「斜体」もある。響きあっている。そうなんだ。「未完」というのは「だんだら無色」の色なんだ、とわけのわからないことを納得してしまう。
 こういう「錯覚」が私はとても好きなのだ。
 私の「錯覚」はたなかの書きたいこととは無関係な暴走かもしれない。「誤読」を通り越して、たなかの詩の否定かもしれない。そんなことを書きたいわけじゃない、と抗議されたら返すことばはない。けれども、詩なんて、そういうものなのだ。詩人がどう思って書こうが関係がない。それを読んで、あ、これが楽しい。このことばを真似してつかってみたいと感じたとき、そこに詩は存在している。それが詩人の思いと違っていたとしたら、その暴走のなかにある可能性を書いた詩人が気づいていないということだけ。
 ほら、たなかだって「傷口は光を吸収し、やがて光源と化す」(写真失踪)と書いていた。詩人と読者のあいだの「傷口」にこそ、新しい「光源」があるのだ。

 なんだか脱線したが。

 それとは別に、「音」が気持ちよく響いてきた詩に、「給水塔異聞」(キリンの首よりながいナトリウム灯のタテ位置)や「ひたすら走りつづけるには……」がある。そこには目にうるさい漢字熟語がない。網膜をこじ開けて、脳を直撃しようとする文字がない。耳に聞こえる「音」がそのままことばになっている。私は目が悪いせいか、最近は、網膜をこじ開けて攻撃してくる文字ことばがどうも苦手になってしまった。
 その「苦手意識」のまま書くのだが……。
 たなかの詩にもどって、少し気になることを書いておく。たなかのことばは「視力」を出発点にしている。そのことと、たなかのやっている「訳詩」の関係。たなかは外国の詩を読むとき、そしてそれを翻訳するとき、ことばを何によって統合しているか。これは私の勝手な憶測だが、どうも「視力」が優先しているのではないだろうか、という気がする。「文字」を優先しているのではないか、という気がする。文字が目につく。これは私の感覚の意見では、「意味」の優先になる。肉体よりも頭の優越。そのために、私にはときどきとても厳しい感じ、苦しい感じがある。私の目が疲れてしまう。(これは何度も書くけれど、私の目の健康状態と関係しているのであって、健康な人の目には違った感じで見えるかもしれない。)
 私はただ単に想像しているだけなのだが、たとえば中井久夫の訳詩を読むと、そこには「音」がある。中井久夫は、文字ではなく「音」を翻訳しているという感じがする。読んでいて、耳がとても気持ちがいいのである。たなかは「外国の文字」を日本の文字(漢字をふくむ)に書き直している、という感じがする。「読む」ではな「書く」という印象が強い。
 たなかのことばにも「音」はあるのだろうが、その「音」を「文字」が覆い隠してしまう。文字が浮き上がって、音が沈んでゆく。原詩も知らずに言うのだが、日本語以外は理解できないくせに言ってしまうのだが。










ピッツィカーレ―たなかあきみつ詩集
たなか あきみつ
ふらんす堂
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たなかあきみつ『イナシュヴェ』

2013-05-01 23:59:59 | 詩集
たなかあきみつ『イナシュヴェ』(書肆山田、2013年04月25日発行)

 現代詩には二つの潮流がある。ひとつは詩人が「わたし」として顔を出すもの。もうひとつは「わたし」が主語として登場しないもの。前者は「私・詩(私小説?ふう)」であり、後者は「非・私詩」ということになるのかな? で、「私詩」の場合、そこに書かれている「感情」に共感し、いいなあ、わかなるなあ、この気持ち……という具合に、なんとなく「読んだ」という気持ちになる。感動したときは、ね。でも、後者は? どこに感動すればいい? いままで読んだことのないことばの動き? あ、こんな表現思いつかなかった、とびっくりすればいい? それで、びっくりしたあと、どうなるの? うーん、説明がむずかしいね。

 たなかあきみつの場合、あきらかに後者である。たとえば「写真失踪」。短いので、とりあえず、この作品について触れてみる。その前半。

偽傷のような偽の日付。それゆえ画面はやや
ブレている。期せずして誤植へ幾分かブレる
ほうがギラッとした波の傷口にはふさわしい。
波に限らず傷口は光を呼吸し、やがて光源と
化す。そこへの跛行に滑らかさは禁物。雪降
りやまず、幻肢も等高線も休息も束の間、こ
こは吃音の港、音が疼く闇のレンズだった。

 「私」は排除されている。ひとも登場しない。ただ「もの(存在)」が描写される。でも、これは「風景」? うーん、絵でいえば「静物画」かな? スティル・ライフ。英語で言ってみようか。そうすると、そこに「ライフ/生活」が顔をのぞかせる。ひとがいなくても「生活」がある。ひとが描かれていなくても「生活」がある。それを見つめる「ひと」。その「もの」と一緒に暮らしてきた「ひとの生活」が、「もの」に陰影を与えている。そこから、もしかしたら「ひと=私」というものに接近していくことができるかもしれない。
 ある「もの(存在)」をどうことばにするか、ということろに、必然的に「ひと」が出てくる。「私」は書かれていないが、「もの」を語ることばのなかには「ひと=私」がいる。「ことば」のふりをして「私」がいる。
 それは「もの」にある統一感を与えていく--を逆からたどって、「もの」を描いていることばの運動のなかから「統一感(ゲシュタルト?)」を浮かび上がらせれば、それが「ひと」になる、ということかもしれない。
 この詩では「偽」「誤(植)」「傷」ということばが、ぶつかりながら、実を寄せ合う。ある「真」がどこかにある。他方、「真」ではないもの、いわば「偽」がある。「偽」は「誤(植)」と言える。何かを間違えることで「偽」になっている。その誤りのなかには「傷」がある。「傷」ゆえに誤るのである。同時に、そこには「真」と「偽」の亀裂(切断/傷)というものもある。それは「明確」なものではなく、「幾分のブレ」のようなものである。もし明確に違ったものであるなら、それは「誤植」ではなく、また別の「真」になってしまう。「ブレ」というのは幾分の「真」を共有し、同時にそれ以外のものをもっている。あるいは、欠いている。その差異が「傷」であり、「傷口」である。それは「傷」という否定的な要素をもっているけれど、同時に、ある種の可能性も含んでいる。「真」だけではとらえられない何かへ動いていく--そういう運動の可能性をもっている。「もの(存在)」を描きながら、そこでは「偽」「傷」ということばから、ひとつの見えない運動性が予感されている。「偽」は「にせる」「いつわる」(いつわり、にせる)という動詞をふくむ。「傷」は「傷つける」という動詞をふくむ。「傷つく」という動詞もふくまれる。「傷つける」か「傷つく」か、さあ、どっちを選んで動くべきか……。と考えはじめると、ちょっとややこしくなりすぎるので、もうやめるが……。何かしら、このことばの運動のなかには、小さな差異のなかに入り込み、それを拡大することで、「いま/ここ」にはないものを存在させようとしている運動があることがわかる。
 言い換えると。
 たなかは、何か「もの」と向き合いながら、その「もの」をふつうに言われていることばで描写するのではなく、自分が感じた「違和感」のようなものぶつけながら、その「違和感」が拡大し、そのとき「もの」と「わたし(たなか)」のあいだ(傷口--それはものに存在するときもあれば、たなかに存在するときもあるし、ちょうどそのあいだにあるときもある)に、「いま/ここ」にない何かを出現させ、そのいままで存在しなかったものになろうとしているのである。
 ちょっと抽象的になりすぎたけれど、静物画の比喩にもどると、静物画のリンゴや花瓶は、いわば単なるリンゴや花瓶ではなく、あくまで画家が自分の肉眼を表現したものであるということだ。それはいままで存在しなかったリンゴであり花瓶あると同時に、いままで存在しなかった肉眼が表現されているのである。
 静物画の場合、セザンヌの描くリンゴとルノワールの描くリンゴは違う。色が違う。形が違う。リンゴの違いというよりも、色と形が違う。--のではなく、セザンヌとルノワールの肉眼そのものが違っている。リンゴと花瓶は同じでも肉眼が違えば絵は違ってくるのである。肉眼の、見え方の違いを具体化したものが絵なのだ。
 それと同じように、詩人の場合も、実はリンゴや花瓶を描いても、そこに違いがある。ただし、それは「リンゴ」「花瓶」ということばが同じであるために、目に見えない。--で、どこが違う、という問題になると、これがねえ。セザンヌのリンゴには青が底に隠されている強靱さがある。ルノワールのリンゴには輪郭のあいまいさからにじむ、女体のやわらかさに似た命がある、なんて具合には説明できない。せいぜいが、このリンゴには森鴎外の書いたリンゴの描写の影響があるというような具合で、作者自身の「肉体」を引き合いに出すことがむずかしい。

 うーん。
 これから先、私は私のことばを、どう続けていくことができるかな? 続けていくことで、たなかに接近できるのかな?
 
 「もの」を描写する。ことばで描写する。そのとき、ことばは、何を「統一感」としてかかえこむのか。その「統一感」を貫く何が書き手の(詩人の)個性と結びついているのか。--そういうものを見ていけば、「わたし」が登場しない「非・私詩」でも、作者に迫ることができる、ということを書こうとして、私はずるずると脇道にそれていったのだけれど。
 脇道を無視して、一気に引き戻ってことばをつなげると。

 たなかのことばは最初「視力」から出発している。「偽」は「画面(視力がとらえた世界)」の「ブレ」として存在する。視力から出発したから「ギラッ」と光る「光(光源)」へとことばは動いていく。そこに「呼吸」という肉体が加わり、「滑らかさ(触覚)」が加わり、「吃音/音(聴覚、あるいは発語のための器官)」、「疼く(触覚)」が加わり……最後にまた「闇(視覚)」がやってくる。ことばが肉体を探している。
 このことばのなかにあらわれる「肉体」を見ていると、たなかは視覚の人間なんだなあ、ということがなんとなく感じられる。視覚で世界を統一している。世界への違和感も視覚から出発し、それを肉体のさまざまな器官(感覚)で受け止めながら、もう一度視覚(目)を戻ってくることがわかる。
 でも、その視覚は、なんというのだろうか、微妙なグラデーションの違いを指摘するような視覚、ほんのかすかな誤差を見逃さない職人の視力とも違うね。視覚そのものを「商売」にしているひとの、引き込まれるような視覚ではない。すごい絵を見ると、その瞬間、自分の目が自分の目ではなく、画家の目になったように感じる--そういう錯覚を引き起こす視力をたなかのことばはもってはいない。けれど、視力から出発し、視力にもどる感じがする。
 さらにいうと、その視力を追いかける肉体の器官(感覚)は、どうも視力とはしっかり融合している感じがしない。ざわついている。視力が他の器官(感覚)に働きかけているのはわかるが、それによって他の肉体(感覚)が逸脱してしまって、エクスタシーのなかで違うものに触れるという感じがしない。
 ざわついている。
 でも、この「ざわついている」は、何かを探している、模索しているというふうにとらえれば、そこにいのちの苦しさが見えてくるのかもしれない。

 (きょうは、感想の「前書き」みたいになってしまった。あした、また書いてみよう。書いてみるつもり。)


ピッツィカーレ―たなかあきみつ詩集
たなか あきみつ
ふらんす堂
コメント (1)
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