南川隆雄『爆ぜる脳漿 燻る果実』(思潮社、2013年04月30日発行)
南川隆雄『爆ぜる脳漿 燻る果実』を読んでいて、「尻」ということばが印象に残った。
この「尻」が印象に残るのは、どの尻も地面(大地)に接触しているからである。「尻は……落ちる」「尻の砂」「尻をおとす」。それは地上にあって肉欲をそそるために揺れるのではない。
3篇の詩のなかに出てくるだけでこういうことを言っていいかどうかわからないが、南川は尻を大地に押し付けている人間なのである。尻とは、腰、でもある。ふわふわしていない。視点が定まっている。「思想」に揺らぎがない。私は「思想」と「肉体」を同じものだと考えているが、南川の思想(肉体)は常に大地と接している。「腰が据わっている」という言い方があるが、それよりももっと「肉体」的。尻が大地を敷いている。
「頭」で空想などしない。
「けむる街」は空襲で焼けた街を歩く詩である。歩いたときの記憶を描いたものである。
悲惨な光景なのだが、悲惨ということばを跳ね返してくる。南川は「真新しい」と書いているが、それは「悲惨」というより、美しい。ほんとうに真新しい美しさだ。その真新しさ、美しさはどこから来ているのか。
自分の肉体の肯定、生きていることの肯定から来ている、と私は思う。感じる。
「西洋哲学書」に書かれている「思想」ではなく、だれかが語ったことばではなく、ただ自分だけの「肉体」で「いま/ここ」と向き合う。いままでまわりにあったものが全部焼けて消えてしまった。しかし、そこにもひとがとおる(歩く)道だけはある。そしてそれは、ひとが生きるために走って逃げた道である。走って逃げたひとは、きっと生きている。赤ん坊は、まだ大地を歩いたことのない足を失ったかもしれない。けれど、失うことで生きている。それは、悲惨か。悲惨かもしれないが、そんなことばでつかみとる世界よりも真新しい。生きているということは、真新しいということなのだ。それを実感している。この「真新しい」はことばにならない。「流通言語」の語る「哲学」にはならない。「真新しい」という奇妙なことばになって、肉体に食い込んでいる。まるで切断された赤子の足首の断面のように。切断されたのに、食い込んでいる。--この矛盾、なまなましさが肉体の思想であり、思想の肉体であり、ことばの肉体だ。
「尻をおとす」、そうして大地にぺったりと座る。それは単に座るというよりも、大地に自分をくくりつけること。大地と一体になるということかもしれない。大地を離れないということかもしれない。大地を呼吸するということかもしれない。
そんなふうにして、南川は、自分の肉体(思想)を限定する。大地から離れない。ひとが尻をおとし、歩いていくその大地にのこってことばを動かす。だれかのつかったことば、「西洋哲学」から学んできたことばではなく、自分の「肉体」が覚えていることばで語る。それが、おのずと「思想(肉体)」になっていく。こういう「尻をおとしたことば」は壊れない。空中で分裂してしまわない。
「牛」という作品は、既製のことばで言えば「輪廻転生」の世界、あるいは釈迦に出会ったときに感じる愉悦を含んだ恐れを瞬間的に感じたときのことを描いたものかもしれないが、いま私が書いたようなことばを退けて(尻ぞけて、尻で踏み潰して--と思わず私は書きたくなるのだが)、ことばが動く。
「尻」の詩人でなければ、この「牛」は描けない。この「牛」に出会えない。読み返すたびにどきどきする詩である。
南川隆雄『爆ぜる脳漿 燻る果実』を読んでいて、「尻」ということばが印象に残った。
川原に腰をおろす叔母の尻の下から平べったい石を抜
きとる 尻は湿った砂の窪みにすとんと落ちる また
ふざけて と撫で肩がわらう (「水底のぞき」)
磯の香に いま絞められる家禽のにおい
島の遠景は複写紙のひとひら
尻の砂をことさらに払って参道にでる (「埋める」)
堤防下の田の湿りに尻をおとし
身もだえる茜色の東空に目をこらす
やがて炎は
おのずからおとろえ黒ずんだ朝がくる (「けむる街」)
この「尻」が印象に残るのは、どの尻も地面(大地)に接触しているからである。「尻は……落ちる」「尻の砂」「尻をおとす」。それは地上にあって肉欲をそそるために揺れるのではない。
3篇の詩のなかに出てくるだけでこういうことを言っていいかどうかわからないが、南川は尻を大地に押し付けている人間なのである。尻とは、腰、でもある。ふわふわしていない。視点が定まっている。「思想」に揺らぎがない。私は「思想」と「肉体」を同じものだと考えているが、南川の思想(肉体)は常に大地と接している。「腰が据わっている」という言い方があるが、それよりももっと「肉体」的。尻が大地を敷いている。
「頭」で空想などしない。
「けむる街」は空襲で焼けた街を歩く詩である。歩いたときの記憶を描いたものである。
たてよこの道がくっきり見とおせる
そのひと筋をおとなの背について歩く
消されたものの跡
なんという真新しい
よごれのない赤子の白い足首が
道のなかほどに落ちている
--おんぶされて逃げるとき
トタン板にでも擦られたのだね
ふりかえって叔母がいう
なんという真新しい 切り口
手つかずの原始のけしき
悲惨な光景なのだが、悲惨ということばを跳ね返してくる。南川は「真新しい」と書いているが、それは「悲惨」というより、美しい。ほんとうに真新しい美しさだ。その真新しさ、美しさはどこから来ているのか。
自分の肉体の肯定、生きていることの肯定から来ている、と私は思う。感じる。
「西洋哲学書」に書かれている「思想」ではなく、だれかが語ったことばではなく、ただ自分だけの「肉体」で「いま/ここ」と向き合う。いままでまわりにあったものが全部焼けて消えてしまった。しかし、そこにもひとがとおる(歩く)道だけはある。そしてそれは、ひとが生きるために走って逃げた道である。走って逃げたひとは、きっと生きている。赤ん坊は、まだ大地を歩いたことのない足を失ったかもしれない。けれど、失うことで生きている。それは、悲惨か。悲惨かもしれないが、そんなことばでつかみとる世界よりも真新しい。生きているということは、真新しいということなのだ。それを実感している。この「真新しい」はことばにならない。「流通言語」の語る「哲学」にはならない。「真新しい」という奇妙なことばになって、肉体に食い込んでいる。まるで切断された赤子の足首の断面のように。切断されたのに、食い込んでいる。--この矛盾、なまなましさが肉体の思想であり、思想の肉体であり、ことばの肉体だ。
「尻をおとす」、そうして大地にぺったりと座る。それは単に座るというよりも、大地に自分をくくりつけること。大地と一体になるということかもしれない。大地を離れないということかもしれない。大地を呼吸するということかもしれない。
そんなふうにして、南川は、自分の肉体(思想)を限定する。大地から離れない。ひとが尻をおとし、歩いていくその大地にのこってことばを動かす。だれかのつかったことば、「西洋哲学」から学んできたことばではなく、自分の「肉体」が覚えていることばで語る。それが、おのずと「思想(肉体)」になっていく。こういう「尻をおとしたことば」は壊れない。空中で分裂してしまわない。
「牛」という作品は、既製のことばで言えば「輪廻転生」の世界、あるいは釈迦に出会ったときに感じる愉悦を含んだ恐れを瞬間的に感じたときのことを描いたものかもしれないが、いま私が書いたようなことばを退けて(尻ぞけて、尻で踏み潰して--と思わず私は書きたくなるのだが)、ことばが動く。
ひさしぶりに海を眺めたくなり
高みへと坂道を歩む
そこをゆったり牛が下ってきて目を合わす
波のたゆとうおもわくのない瞳
海原の残像がまぶしい
視線をそらし 黒い背毛越しに
いま行こうとする高台をさぐる
うろたえた姿を牛の眼差しにさらす
年端もいかぬ者の軽口にこころ揺らめき
去っていくふるい友にいつまでもこだわる
情けないわたしの面に
牛はほんのわずか口許をほころばす
いまからわたしが行こうとするところを
見ようとするものを もう見ている
おぼろげな肉親の消息や
この世でのわたしの行く末までも
牛はうかがい知っている
そう思いめぐらし おそれる
ともに立ち止まらない
ぬるい体臭を残して牛は下っていく
背毛にすがる病葉が裏返る
じぶんの瞳のなかに歩み入るように
午後の濃い海風に牛は溶け込んでいく
「尻」の詩人でなければ、この「牛」は描けない。この「牛」に出会えない。読み返すたびにどきどきする詩である。
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