監督 バフマン・ゴバディ
映画だけにかぎらないだろうけれど、どんなものでも鑑賞の順序というのは重要だ。直前に見た作品とどうしても比較してしまう。もし「パルヴィズ」を先に見ていなかったら、この作品に強い衝撃を受けたと思う。反政府的な詩を書いたという理由で投獄された詩人が主人公。妻も投獄される。妻は投獄中に強姦され、こどもを産む。妻は出所後、詩人は死んだと告げられる。けれど詩人は生きていて、彼が妻とこどもに会う。さらには妻を強姦した知人(秘書? 運転手?)とも会って……というストーリーなのだが、そういう過酷な人生を生きたひとの目に、世界がこんなふうに見えるのか、見えていいのか、という疑問がつきまとうのである。歪んだ現実が、飛躍した想像力となって暴走する。それをあくまでスペクタクルとして描くという方法はわからないわけではない。いや、やっぱり、わからない、というべきか。
イマジネーションの飛躍は詩人自身の作品からヒントを得ている。詩に登場する亀やサイがそのまま現実に映像としてあらわれる。それはいいのだが、たとえば雨の日の車のなかからみる風景、ワイパーが雨粒をぬぐっていくときの滲んだ街の風景、雪の降る墓地の色合い、自殺(?)しようとして車を海に突っ込もうとしたときの波しぶき--そういったものが「絵」になりすぎていて、「もの」として迫ってこない。「もの」の迫力がない。「もの」の現実感がない。詩は、どんなに「幻想的」に見えたとしても、それは「幻想」ではなく、「リアル」が現実を突き破ってあらわれたもの。現実を美しくゆがめたもの、ゆがみをととのえて、そこに精神の揺らぎを反映させて見せるというものではないだろうと思う。
タイトルになっている「サイの夢」(サイについての夢? サイが出てくる夢?)のサイのシーンなど、イランにサイがいるの?と思ってしまって、どうにもなじめない。詩を朗読しているのが女性の声というのも、映像を弱くしているように思える。感情を排除して、力のかぎり朗読する--声そのものを聞かせるくらいの方が、違和感があっていいのではないかと思った。
おもしろいと感じたのは、空からカメがたくさん降ってくるシーン。雨のかわりにカメが降ってくるのである。(雨も降っているが。)これが非常に美しい。美しくないから、美しい。最初は、あの石みたいなものは何? 石が降ってきた? と思っていたら、カメ。そのとき何か衝撃が走る。それを主人公が手のひらでうけとめる。
そこから詩がはじまる。ひっくり返されたカメ。逆さまの家に住むことになったカメはどうするのか。どう生きればいいのか。主人公は牢獄で一匹のカメを日繰り返す。そして息を大きく吸い込み、そして止める。息を止めてカメがどうするかを見ている。カメは最初は動かない。けれど、首と(頭と)手足をつかって、バネのようになって自分をひっくり返す。それに合わせて、息を吐き出し、再び息をする。主人公はカメに賭けたのだ。何を賭けたか--それは説明されないが、カメが裏返しから自分の力でもとに戻るなら生きてやると思ったのかもしれない。こういうことは、ことばで説明しなくても「肉体」が感じる。何かがかわるまで、息を止めて我慢比べをする--そういうときの、自分の「肉体(いのち)」の力が自分にどれだけあるか、試してみたことがあるでしょ? そういう肉体がおぼえていることが、意味を超えて(主人公が何を考えてそうしたかを超えて)、自分の肉体に甦る。その瞬間、スクリーンの中の役者の肉体と、そこで演じられている人間の肉体、そして見ている観客(私)の肉体が重なり合って動く。
こういう瞬間だね。どきどきするのは。わくわくするのは。
こういう感じを強く打ち出すには(そういう映像で観客を強くひっぱるには)、映像に余分な演出があってはだめなのだ。そぎ落とさないといけないのだ。「パルヴィズ」のように。映像だけではない。音楽もそうである。「サイの夢」には音が多すぎる。音が感情をかってに作り上げすぎる。さきに書いた詩の朗読も、噴出してくる肉声というよりも、映像を飾る音楽になってしまっている。音楽に堕落させられている。
やっぱりマジド・バルゼガルの方が新しい。なによりも人間を描くことに集中している。人間を描くために、何を除外するかということを真剣に考えている。着飾って人間を見せるのもひとつの方法だが、裸にして、その裸をさらに皮をひん剥いて、血の滲んでいる筋肉や骨まで動かして見せる方がはるかに迫力がある。
(2013年09月20日、キャナルシティ5)
映画だけにかぎらないだろうけれど、どんなものでも鑑賞の順序というのは重要だ。直前に見た作品とどうしても比較してしまう。もし「パルヴィズ」を先に見ていなかったら、この作品に強い衝撃を受けたと思う。反政府的な詩を書いたという理由で投獄された詩人が主人公。妻も投獄される。妻は投獄中に強姦され、こどもを産む。妻は出所後、詩人は死んだと告げられる。けれど詩人は生きていて、彼が妻とこどもに会う。さらには妻を強姦した知人(秘書? 運転手?)とも会って……というストーリーなのだが、そういう過酷な人生を生きたひとの目に、世界がこんなふうに見えるのか、見えていいのか、という疑問がつきまとうのである。歪んだ現実が、飛躍した想像力となって暴走する。それをあくまでスペクタクルとして描くという方法はわからないわけではない。いや、やっぱり、わからない、というべきか。
イマジネーションの飛躍は詩人自身の作品からヒントを得ている。詩に登場する亀やサイがそのまま現実に映像としてあらわれる。それはいいのだが、たとえば雨の日の車のなかからみる風景、ワイパーが雨粒をぬぐっていくときの滲んだ街の風景、雪の降る墓地の色合い、自殺(?)しようとして車を海に突っ込もうとしたときの波しぶき--そういったものが「絵」になりすぎていて、「もの」として迫ってこない。「もの」の迫力がない。「もの」の現実感がない。詩は、どんなに「幻想的」に見えたとしても、それは「幻想」ではなく、「リアル」が現実を突き破ってあらわれたもの。現実を美しくゆがめたもの、ゆがみをととのえて、そこに精神の揺らぎを反映させて見せるというものではないだろうと思う。
タイトルになっている「サイの夢」(サイについての夢? サイが出てくる夢?)のサイのシーンなど、イランにサイがいるの?と思ってしまって、どうにもなじめない。詩を朗読しているのが女性の声というのも、映像を弱くしているように思える。感情を排除して、力のかぎり朗読する--声そのものを聞かせるくらいの方が、違和感があっていいのではないかと思った。
おもしろいと感じたのは、空からカメがたくさん降ってくるシーン。雨のかわりにカメが降ってくるのである。(雨も降っているが。)これが非常に美しい。美しくないから、美しい。最初は、あの石みたいなものは何? 石が降ってきた? と思っていたら、カメ。そのとき何か衝撃が走る。それを主人公が手のひらでうけとめる。
そこから詩がはじまる。ひっくり返されたカメ。逆さまの家に住むことになったカメはどうするのか。どう生きればいいのか。主人公は牢獄で一匹のカメを日繰り返す。そして息を大きく吸い込み、そして止める。息を止めてカメがどうするかを見ている。カメは最初は動かない。けれど、首と(頭と)手足をつかって、バネのようになって自分をひっくり返す。それに合わせて、息を吐き出し、再び息をする。主人公はカメに賭けたのだ。何を賭けたか--それは説明されないが、カメが裏返しから自分の力でもとに戻るなら生きてやると思ったのかもしれない。こういうことは、ことばで説明しなくても「肉体」が感じる。何かがかわるまで、息を止めて我慢比べをする--そういうときの、自分の「肉体(いのち)」の力が自分にどれだけあるか、試してみたことがあるでしょ? そういう肉体がおぼえていることが、意味を超えて(主人公が何を考えてそうしたかを超えて)、自分の肉体に甦る。その瞬間、スクリーンの中の役者の肉体と、そこで演じられている人間の肉体、そして見ている観客(私)の肉体が重なり合って動く。
こういう瞬間だね。どきどきするのは。わくわくするのは。
こういう感じを強く打ち出すには(そういう映像で観客を強くひっぱるには)、映像に余分な演出があってはだめなのだ。そぎ落とさないといけないのだ。「パルヴィズ」のように。映像だけではない。音楽もそうである。「サイの夢」には音が多すぎる。音が感情をかってに作り上げすぎる。さきに書いた詩の朗読も、噴出してくる肉声というよりも、映像を飾る音楽になってしまっている。音楽に堕落させられている。
やっぱりマジド・バルゼガルの方が新しい。なによりも人間を描くことに集中している。人間を描くために、何を除外するかということを真剣に考えている。着飾って人間を見せるのもひとつの方法だが、裸にして、その裸をさらに皮をひん剥いて、血の滲んでいる筋肉や骨まで動かして見せる方がはるかに迫力がある。
(2013年09月20日、キャナルシティ5)