詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

バフマン・ゴバディ監督「サイの季節」(★★★)

2013-09-20 13:06:52 | 映画
監督 バフマン・ゴバディ

 映画だけにかぎらないだろうけれど、どんなものでも鑑賞の順序というのは重要だ。直前に見た作品とどうしても比較してしまう。もし「パルヴィズ」を先に見ていなかったら、この作品に強い衝撃を受けたと思う。反政府的な詩を書いたという理由で投獄された詩人が主人公。妻も投獄される。妻は投獄中に強姦され、こどもを産む。妻は出所後、詩人は死んだと告げられる。けれど詩人は生きていて、彼が妻とこどもに会う。さらには妻を強姦した知人(秘書? 運転手?)とも会って……というストーリーなのだが、そういう過酷な人生を生きたひとの目に、世界がこんなふうに見えるのか、見えていいのか、という疑問がつきまとうのである。歪んだ現実が、飛躍した想像力となって暴走する。それをあくまでスペクタクルとして描くという方法はわからないわけではない。いや、やっぱり、わからない、というべきか。
 イマジネーションの飛躍は詩人自身の作品からヒントを得ている。詩に登場する亀やサイがそのまま現実に映像としてあらわれる。それはいいのだが、たとえば雨の日の車のなかからみる風景、ワイパーが雨粒をぬぐっていくときの滲んだ街の風景、雪の降る墓地の色合い、自殺(?)しようとして車を海に突っ込もうとしたときの波しぶき--そういったものが「絵」になりすぎていて、「もの」として迫ってこない。「もの」の迫力がない。「もの」の現実感がない。詩は、どんなに「幻想的」に見えたとしても、それは「幻想」ではなく、「リアル」が現実を突き破ってあらわれたもの。現実を美しくゆがめたもの、ゆがみをととのえて、そこに精神の揺らぎを反映させて見せるというものではないだろうと思う。
 タイトルになっている「サイの夢」(サイについての夢? サイが出てくる夢?)のサイのシーンなど、イランにサイがいるの?と思ってしまって、どうにもなじめない。詩を朗読しているのが女性の声というのも、映像を弱くしているように思える。感情を排除して、力のかぎり朗読する--声そのものを聞かせるくらいの方が、違和感があっていいのではないかと思った。
 おもしろいと感じたのは、空からカメがたくさん降ってくるシーン。雨のかわりにカメが降ってくるのである。(雨も降っているが。)これが非常に美しい。美しくないから、美しい。最初は、あの石みたいなものは何? 石が降ってきた? と思っていたら、カメ。そのとき何か衝撃が走る。それを主人公が手のひらでうけとめる。
 そこから詩がはじまる。ひっくり返されたカメ。逆さまの家に住むことになったカメはどうするのか。どう生きればいいのか。主人公は牢獄で一匹のカメを日繰り返す。そして息を大きく吸い込み、そして止める。息を止めてカメがどうするかを見ている。カメは最初は動かない。けれど、首と(頭と)手足をつかって、バネのようになって自分をひっくり返す。それに合わせて、息を吐き出し、再び息をする。主人公はカメに賭けたのだ。何を賭けたか--それは説明されないが、カメが裏返しから自分の力でもとに戻るなら生きてやると思ったのかもしれない。こういうことは、ことばで説明しなくても「肉体」が感じる。何かがかわるまで、息を止めて我慢比べをする--そういうときの、自分の「肉体(いのち)」の力が自分にどれだけあるか、試してみたことがあるでしょ? そういう肉体がおぼえていることが、意味を超えて(主人公が何を考えてそうしたかを超えて)、自分の肉体に甦る。その瞬間、スクリーンの中の役者の肉体と、そこで演じられている人間の肉体、そして見ている観客(私)の肉体が重なり合って動く。
 こういう瞬間だね。どきどきするのは。わくわくするのは。
 こういう感じを強く打ち出すには(そういう映像で観客を強くひっぱるには)、映像に余分な演出があってはだめなのだ。そぎ落とさないといけないのだ。「パルヴィズ」のように。映像だけではない。音楽もそうである。「サイの夢」には音が多すぎる。音が感情をかってに作り上げすぎる。さきに書いた詩の朗読も、噴出してくる肉声というよりも、映像を飾る音楽になってしまっている。音楽に堕落させられている。

 やっぱりマジド・バルゼガルの方が新しい。なによりも人間を描くことに集中している。人間を描くために、何を除外するかということを真剣に考えている。着飾って人間を見せるのもひとつの方法だが、裸にして、その裸をさらに皮をひん剥いて、血の滲んでいる筋肉や骨まで動かして見せる方がはるかに迫力がある。
                     (2013年09月20日、キャナルシティ5)
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石倉宙矢『ときはかきはのふたり』

2013-09-20 07:59:45 | 詩集
石倉宙矢『ときはかきはのふたり』(報光社、2013年08月20日発行)

 石倉宙矢『ときはかきはのふたり』は「恋愛詩」なのだが、ときめくような感じではなく、とても落ち着いている。たぶん若い時代の「ときめく詩」というのは、自分が自分ではなくなってしまうという「期待」のようなものが出発点であるのに対し、石倉の書いているものが、自分から出て行かなくてもいい「暮らし」の詩なのである。ふたりの間には何もない(若いときの恋愛)ではなく、もう「暮らし」がある。ふたりの時間がある。それが落ち着きを与えている。
 「早春」がとても印象的だ。

風が背戸のあわいを吹きぬける
樋や羽目板をならして
どこかで憎しみや裏切りが
ひらめいてくだけた

つめたいのに、皮膚は温もっている今日
あたたかいくせに、面差しの冷えている明日

あなたがわたしになり
わたしがあなたになれる
そんな風が吹きとおってゆく
今の今
そこのそこ

 3連目の「そこのそこ」。わかります? わからないよね。そこがどれか。でも「そこ」でわかるひとがいる。「それ」でわかるひとがいる。「あれ」でわかるひとがいる。よくあるでしょ? 「あれとって」「あれね」。
 「暮らし」があると、そのなかで蓄積されるものがある。その「暮らし」の外にいるひとにはわからないけれど、「暮らし」のなかにいるひとには、「そこ(それ)」と言ったひとの場所と、「そこ(それ)」の距離から、「そこ(それ)」がわかる。「そこ(それ)」なら、言ったひとからは離れているが聞いているひとの近くだろう。「あれ(あこ)」なら、言ったひとからも聞いているひとからも離れているだろう。その「距離感」が浮かび上がらせるものが「そこ(それ)」「あこ(あれ)」である。「そこ(それ)「あこ(あれ)」で通じてしまうのは、指し示されたもの(こと、場所、時間)をふたりが知っているからである。共有されたものがあるのだ。
 だから、

ねえ、うそはいけないよ
ええ、ほんとはもっといけない

 というとき、ひとりが言っている「うそ」、もうひとりが言っている「ほんと」も何のことかふたりにはわかる。
 この詩を読むと「そこ」も「うそ(ほんと)」も具体的には何を指し示しているのかわからないけれど、私にはわからないものをふたりがわかっているということがわかる。これは、知らない男女のふたりをみて、あ、夫婦だ、あ、親子だ、不倫関係だとわかるのににている。
 けんかや、相手をなだめる感じ、いさめる感じ、軽口のたたき方--要約してしまうと区別がなくなるけれど、要約できない「口調(肉体のリズム)」、ふたりの「肉体」の距離感、眼差しの動き方のようなものが、ふたりの「関係」を「感じさせる」。
 それは「意味」ではない。だから「頭」で要約するわけにはいかないのだが、「肉体」が感じる。「肉体」が「おぼえていること」が「意味」を超えた、手触りにふれる。
 嘘はいけない。けれど本当のことを明らかにして相手を傷つけてもいけない。嘘と本当は、背戸を吹き抜ける風のように吹き抜けさせなければならない。今、早春の風が吹いて言ったね。いままでよりも温かいね。そうね、けれどちょっと寒い感じも残っているね。相反するものを同時に感じるとき、そこに、何かがある。

あなたがわたしになり
わたしがあなたになれる

 というのは嘘でもあるし、本当でもある。相反するのではなく、それはとけあっている。区別がない。そういう「区別のない」ところにまで恋愛がたどりつくと、それは恋愛ではないのかもしれない。ときめかない。けれど、もし「ふたり」が「ひとり」になると、猛烈にさびしくなる。
 「そこ」だけではなく、「そこのそこ」という微妙なことは、「暮らし」があってはじめて生まれることばである。「そこ」だけならひとは指し示すことはできるが、「そこのそこ」をひとは指し示すことはできない。指し示しえない「そこのそこ」を「わかる」のは「暮らし(思想/肉体)」だけなのである。
 この詩集は、そういう「場」で書かれている。

父を着て―石倉宙矢詩集 (エリア・ポエジア叢書)
石倉 宙矢
土曜美術社出版販売
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谷川俊太郎『こころ』(55)

2013-09-19 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(55)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「心は」は難解な詩である。

見えてしまうものに
目をつぶる
聞こえてくるものに
耳をふさぐ

 さらりと読んでしまうが、主語は何? 「肉体」かな? つまり「私の肉体」。

見えてしまうものに
「私の肉体である」目をつぶる
聞こえてくるものに
「私の肉体である」耳をふさぐ

 うーん、変だ。何か間違っている。
 ややこしいね。もっと簡単に「私は」と言った方がいいのかな?

見えてしまうものに
「私は」目をつぶる
聞こえてくるものに
「私は」耳をふさぐ

 すっきりした。私は「肉体」にこだわりすぎているのかもしれないなあ。でも、すっきりしすぎる感じもする。何かが違うような気がする。私が最初にこのしにつまずいたときの感じからすると「私」が主語ではないような気がする。
 谷川はタイトルで「心は」と書いている。ためしに「主語」にしてみる?

見えてしまうものに
「心は」目をつぶる
聞こえてくるものに
「心は」耳をふさぐ

 あ、これが一番いい感じ。
 でも、「論理的」に考えようとすると、おかしい。
 「見えてしまうもの」。それを見たくないから、目を閉じる。そうすると、目を閉じるように命令したのは心かもしれないけれど、実際に目を閉じるのは「心」じゃないね。あくまで「肉眼である目」だね。目が目をつぶる。
 この印象があって、私は最初に「私の肉体」を主語にしてしまったのである。
 最初に戻ってしまった。

 別な視点から、ことばを動かしてみる。
 「心は」目をつぶるということは……心は「見なかった」ことにしたいのかな? 聞かなかったことにしたいのかな?
 肉体が体験したのに、それがなかったことにする、といってもそれが実際になくなるわけではない。そうすると、それは「心」の中の仕事? あるいは「頭(精神)」のなかでの仕事?
 その仕事を、でも谷川は「目」「耳」という馴染みのある「肉体」であらわしている。目や耳の動きであらわしている。
 「心」あるいは「頭(精神)」の運動を、肉体を比喩としてつかっていることになるのかな?
 ことばが堂々巡りをしてしまう。

 さらに、そのときの「仕事」は、具体的に考えると、わからなくなるなあ。

心はときに
五感を裏切り
六感を信じない
心はときに
自らを偽っていることに
気づかない

 「五感」あるいは「六感」というのは肉体のなかにある「感覚」。「心」を肉体の比喩で動かしてみると、その動きが「五感/六感」という肉体のなかにあるものを裏切ったり、信じていないことがわかる。
 そのとき「心」は何をしている。
 「心」は自分を偽っている。
 見えてしまうもの--それはほんとうは見たいもの。
 聞こえてくるもの--それは聞きたいもの。
 臭ってくるもの--それはかぎたいもの。
 あるいは見なければならない、聞かなければならない、嗅がなければならないものかもしれない。
 本能が本能の力で無意識に見て、聞いて、嗅いでしまうもの--それを遮断しようとするは、本能を裏切ること、と谷川は言っているのかもしれない。

 この「本能」ということばにたどりつくと、私はまた最初の「主語」で「私の肉体」と書いたところに戻ってしまう。

見えてしまうものに
「本能は」目をつぶる(ことはできない)
聞こえてくるものに
「本能は」耳をふさぐ(ことはできない)

 私は谷川が書いていないことばを補いながら読んでしまう。「誤読」してしまう。

心はときに
五感を裏切り
六感を信じない
心はときに
自ら「の本能」を偽っていることに
気づかない

 このとき、「心」とは何の規制も受けない、無意識の「心」、純粋な心ではなく、○○はしてはいけない、というような「流通概念になってしまっている社会的規制」で教育された心である。そういう「社会的規制」が人間の行動を抑制する。「本能」を傷つける。そういうことに「社会的教育を受けた心」は気がつかない。

 谷川が書いていないこと書きすぎているだろうか。
 でも、こんなふうに逸脱して読んでしまうのが、きっと詩なのだと思う。
 作者がどう思っているかは関係がない。詩人のことばに触発されて、どんどんことばが動いていってしまう。それが詩なのだと思う。
 「難解」で「誤読」を誘ってこそ、詩なのである。

 谷川が、その読み方は間違っていると指摘したとしても、そう読むことは私の本能の形なのだ。本能に正直になれば、どうしても作者の思いとは違うところへいってしまう。私は谷川ではないのだから。
手紙
谷川 俊太郎
集英社
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マジド・バルゼガル監督「パルヴィズ」(4)(★★★★★)

2013-09-19 10:55:35 | 映画
監督 マジド・バルゼガル 出演 レヴォン・ハフトワン


 この映画はレヴォン・ハフトワンの荒く苦しげな「はあ、はあ、はあ」という息と、彼の醜いからだからはじまる。太っている、禿げている、中年である。だぶだぶのTシャツとズボン。汚れがわからないようなダークな色合い。体型や容貌でひとを判断してはいけないのだが、現実ではないので、私は平気で差別してしまう。だらしないなあ。その彼が、窓に新聞がはってある殺風景な部屋にいる。ベッドにごろんところがる。彼は仕事を持っていない。今で言うと「ニート」である。やっぱり、ね。こんな格好していたら、仕事だってないよなあ……。
 映画は、このレヴォン・ハフトワンがなぜ殺風景なアパートにいるのか。そこで彼がどんなふうに生きていくのか、何をみつめ、何を考えるのかを、レヴォン・ハフトワンになりきってみつめていく。長まわしのカメラが、常にレヴォン・ハフトワンの側にいる。その長まわしは一般の長まわしとかなり違う。ふつうの長まわしはカメラのなかで役者が演技をする。役者の「肉体」の連続性が長まわしのカメラを突き破って存在感をもってくるまで長まわしをする。この映画では、レヴォン・ハフトワンは最初から存在感をもっていて、長まわしの必要がない。この映画の長まわしは、レヴォン・ハフトワンの存在感ではなく、彼が存在するときの「周囲」の存在感をうかひあがらせる。窓に新聞をはった室内の光、その光がつくりだすぼんやりしたくすみ、壁の剥がれかけた塗装やあれこれ。レヴォン・ハフトワンの肉体はかわらないが、この部屋だって、これから先、何も変わらない、という感じがする。家具を入れて、部屋を暮らしやすいようにととのえる、ととのえれば新しい生活がはじまるという印象はまったくない。部屋そのものが、もう改善されることを放棄したレヴォン・ハフトワンの肉体のようなのである。--これは、部屋そのものがそういう性質のものであるというより、レヴォン・ハフトワンにみつめられることによって、そうなっているのである。そのことがわかるまでには、かなり時間がかかる。観客はがまんして、このレヴォン・ハフトワンの視線どおりに動くカメラになれないといけないのだが……。
 いったん引き込まれてしまうと、これは、すごい。見ていてレヴォン・ハフトワンになってしまう。彼の息遣いそのものになってしまう。このとき、おそろしいことがひとつある。息遣いの「はあ、はあ、はあ」以外に、彼を印象づける「音」がないのだ。ふつうの映画のように、音楽が彼の心情を代弁するということがないのである。ふつうの映画では悲しい場面には悲しい音楽が流れる。何かが起りそうなときには、これから何かが起こるぞという感じをあおる音楽が流れる。そういう映画文法のなかで、観客は主人公と一体化するのだが、この映画はそういう一体化を拒絶して、「はあ、はあ、はあ」とだけ一体になるよう迫ってくるのである。視線(カメラ)の動きとともに「はあ、はあ、はあ」が重なると(その息が実際に聞こえないときにさえ、彼の息遣いは耳のなかに響く)、もうレヴォン・ハフトワンになるしかないのである。
 沈黙と、「はあ、はあ、はあ」。ときどき噴出する短い台詞。それはいつでもレヴォン・ハフトワンを傷つける。父親の「肉が生焼けだ」「塩をかければ」「塩で焼けるのか」という批判。クリーニング店長の「スーツをもっていないだろう」など。有効な反論がない。何も言えないことと、「沈黙」が重なり合う。「はあ、はあ、はあ」。そのなかに、ことばにならないことば、沈黙と拮抗する何かが生まれてくる。レヴォン・ハフトワンの味方をするものは何もない。(音楽もそうだが、背景をつくりだしている室内や調度も、彼を代弁しない。彼の精神がどう動いているかを印象づけない。)味方は「はあ、はあ、はあ」だけである。
 そういう息苦しい展開のなかで、最後だけ、映像が大きく変化する。その変化はそのままレヴォン・ハフトワンの変化でもある。レヴォン・ハフトワンがテーブルに座るとき、最初のシーンでは画面の右側。左側が父親。アパートでひとりで食べるときも右側。少年がやってきてふたりで掛けるときもレヴォン・ハフトワンは右側。左側に少年。いつも右側に座ることでレヴォン・ハフトワンが「権力」的に弱いということをこの映画は象徴しているのだが、最後は位置が逆になる。レヴォン・ハフトワンが左側。父親が右側。そして、そのとき台詞。「たばこを吸うな。ここは私の家だ(私にしたがえ)」「私は客だ」。明確に自己主張し、反論する。「肉が生焼けだ」と批判されたときのように、やりこめられるだけではない。
 食事のあと、「話をしよう」と父親をソファに腰掛けさせる。このときは父は左側、レヴォン・ハフトワンは右側になるのだが、右側ではあってもレヴォン・ハフトワンはテーブルの左側の椅子(それまで座っていた権力の椅子)をもってきて、向き合う。この動きを、例の長まわしのカメラがずるーーーっという感じでとらえる。切り返しの方が映像がきれいだと思うが(椅子が明確になると思うが)、あくまでレヴォン・ハフトワンの視線の動きにこだわるのである。そのずるーーーっと動くカメラのなかで最後にレヴォン・ハフトワンの顔がアップで映ると、あ、もう、私は完全にレヴォン・ハフトワンそのもの。その後起きることはこの映画では描かれていない。観客の想像力に任されているのだが、それまでの策略で夜警の主任を追い出したり、赤ん坊を誘拐し放置したり、小犬をごみといっしょに捨てたり、クリーニング店長を殴り殺したりするのを見たあとでは、何が起きるか簡単に想像できる。--想像できるというのは、私がレヴォン・ハフトワンになってしまっている証拠で、それがこわくてどきどきするのだが、なんだかわくわくもするのである。これですべて片がついた。片をつけてやるぞ、と思ってしまうのである。

 この映画の狙いは、人間を孤立させる社会が、孤立した人間をどんなふうに暴力的にしてしまうか、誰もが暴力的になる危険をもっているということを明確にすることにあるのかもしれないが、そういう社会メッセージを抜きにして、私はレヴォン・ハフトワンになってしまうことに溺れてしまった。
 そういう魔力をもっている。映画そのものの情報量を極端に少なくする演出理念、独自のカメラの動き、音楽の処理--どれもこれも、きわめて新しい。絶対に見逃してはいけない映画なのだけれど、一般公開の予定はまだ立っていないようである。ぜひ、日本でも一般公開してほしい作品である。
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中島真悠子『錦繍植物園』

2013-09-19 09:25:18 | 詩集
中島真悠子『錦繍植物園』(土曜美術出版販売、2013年09月20日発行)

 「台所」という作品の書き出しに引き込まれる。

包丁の角をつきたてて
ぐるりとねじこみ えぐる
台所の隅に置かれてあったじゃがいもは
いつのまにか芽を伸ばしていた
毒を含むそこ

 放置されているもののなかにも「いのち」があり、それは芽吹く。そして、その芽吹きは「毒を含む」というのは--最近見たマジド・バゼル監督「パルヴィズ」の主人公を思い出させる。(私はこの映画のショックからまだ立ち直れないのだが……新しすぎて、その映画の魅力を書き表すことばがまだ見つからないのだが……)
 その毒を、「包丁の角をつきたてて/ぐるりとねじこみ えぐる」と動詞を三つ重ねて追い込んでいくときの動きがとてもいい。中島真悠子に私は会ったことがないのだが、こういう肉体の動きを読むと、会ったような気がしてしまう。私の「肉体」がおぼえていることが、中島の書く動詞といっしょに動き、私の「肉体」と中島の「肉体」が、「ことばの肉体」をとおして重なり合う。その重なりに、違和感を感じない。しっくりと、感じる。あ、そこ、という感じ。--こういう感じを私は「ことばの肉体でセックスする」というのだけれど。
 じゃがいもの芽をえぐる--ということは、簡単に「じゃがいもの芽をえぐる」、あるいは「取り除く」で十分なのだけれど。言い換えると、料理本のマニュアルにはたぶんじゃがいもの芽は最初に「取り除いて」くらいの表現ですませているのだろうけれど。それを「包丁の角をつきたてて」から書きはじめると、読みながら「肉体」が動くでしょ? そして、いっしょに「肉体」を動かしながら、その動きが甦る。ここには本当のことが書いてある、ということを自分の「肉体」の記憶として思い出す。中島は自分の体験を書いているのだけれど、具体的で、ていねいで、正直なので(省略も、嘘もないので)、それが迫ってくる。
 そして、これは中島が書いていないのだけれど。
 「包丁の角をつきたてて/ぐるりとねじこみ えぐる」という具合に、しつこい感じ(?)が何か、ほら、自分のなかで「悪意」があるときの気持ちの発散の仕方を感じさせるでしょ? 何かを痛めつけている感じがするでしょ? 「取り除く」では、この、何かを痛めつけるときの、「肉体」の力の入り方が出てこない。(感じられない)。
 うーん。
 中島はじゃがいもの芽が「毒を含む」と書いているのだけれど、それだけではないね。その芽を見て、毒を感じるとき、中島のなかにも無意識の毒が含まれている。だから「取り除く」ではなく「包丁の角をつきたてて/ぐるりとねじこみ えぐる」と動くのだ。じゃがいもの毒と同時に中島は中島の中の無意識の毒を発見している。

新しい生 は
朝の台所で
儀式のように
正しく切り取られていく

 毒は「新しい生」でもある。中島の「肉体」のなかから生まれて、まだ「肉体」になりきれない「いのち」である。そう気づくからこそ、ここで中島のことばはいったんにぶる。「儀式のように/正しく切り取られていく」。暴力や憎しみはなく、それを「儀式」をとおしてととのえるという無意識が働く。
 ここはあまりおもしろくないが、その「儀式」によって「いのち」が傷ついた感じ(感傷的になった感じ?)が、次の連でそのままことばになるのを読むと、あ、中島は揺れ動いているということがよくわかる。

ざらつく表皮
歪みくぼんだ塊
内からあふれだした芽
そのように
私という塊にも

 なかなか「毒」を「これが私の毒です」と、目を背けたくなるような形、えぐりとってしまえ、という残酷な気持ちを引き出す具合に表現するのはむずかしいね。自分に(自分とつながる人間に)遠慮している。だから、

姉の腕が
母の舌が
出てくる出てくる
目が髪が歯が
背から肩から頬から
歳月をかけて
かすかに毒を含んで

 「毒」が毒のままではなく「かすかに」と弱められてしまう。これは残念だなあ。弱まった毒は、もう毒ではなくて、「薬」だ。「肉体」を(暮らしを、思想を)、ことばでととのえようとしている。この無意識は詩の大敵である。
 これをどうするか。詩の大敵である無意識の「良識」、毒を「かすか」なものにおさえて他人の批判をかわす動きをどうするか--後半の詩を読むと、その操作を中島は「フィクション(物語)という形で処理するのだが、うーん、これは中島の選んだ方法だとしたら、ちょっと残念。
 物語のなかで「概念」の動きをつかまえる。「意味」を描くというのは、詩の仕事ではないのである。概念を書かないと(この詩でいえば「歳月をかけて/かすかに毒を含んで」のなかに暮らしの意味、概念がある)、ことばは成立しないという心配があるのかもしれないけれど、「もの」と「肉体の動き」を描けば、「意味/概念」は読者の肉体のなかで勝手にできあがるのである。そこで「ことばの肉体」のセックスが可能なのである。「概念」を持ち込むと、せっかくの「ことばの肉体セックス」が「頭のセックス」におわってしまう。「現実」が「妄想」になってしまう。

 この詩は、途中でかなり寄り道をするが、最後はなんとか「肉体」を復活させている。どこかしぶといところがある。

私は待っている
掘り起こしてくれるやさしい手
するすると皮を剥けばこんなにも
おいしく肥えた内実だと
子宮のようにたっぷりと水を張ったボールに
ごろりと沈めれば
静かにぬくい朝の明るい台所

 生まれ変わった「いのち」が「待っている」女性に限定されているのが少しくやしいけれど。そのととのえ方が「毒」となって、社会に広がっていくよ、と私は言っておきたい。こんな形の「女性詩」を突き破る毒になってほしい。書き出しにはその力がこもっているのだから。



文芸雑誌「狼」21号
古山正己,加藤思何理,岡田ユアン,石川厚志,颯木あやこ,広田修,木下奏,中村梨々,中島真悠子,三浦志郎,小山健,光冨郁埜,服部剛,坂多瑩子,洸本ユリナ,高岡力,今鹿仙,坂井信夫
密林社
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谷川俊太郎『こころ』(54)

2013-09-18 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(54)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「腑に落ちる」は変な詩である。何が変化というと「論理」的ではない。--というのは、言い方がよくないが。論理を超えるのが詩なのだから、詩が論理的手あるはずはないのだが。でも、谷川の詩は論理を踏まえながら、論理を超える、論理を突き破るところにひとを驚かす要素があって、あ、そうなのか、そういうふうにことばになるのか、という驚きがあって、それが特徴となっている。
 「腑に落ちる」には、その論理を突き破る論理、という特徴から少しずれている。そのために、何か奇妙な感じになる。でも、その奇妙な感じが、いいなあとも思うのだが。

 1連目は「腑に落ちる」ということばをつかって、「腑」って、どこ?と問いかける。「下腹あたり」を指さしながら、質問されたひとは「どこかこのあたり」と答えている。それに対する2連目。

そこには頭も心もないから
落ちてきたのは言葉じゃない
それじゃいったい何なんだ
分かりませんと当人は
さっき泣きじゃくったせいか
つき物が落ちたみたいに涼しい顔

 「言葉」を受け止めるのは「頭」か「心」かのどちらかであるという前提で、谷川は「腑に落ちた」のは「言葉」ではない、と主張している。そして、それでは「腑に落ちる」というとき、何が腑に落ちるのか、というようなことをさらに問いかけるのだけれど、
 うーん、
 禅問答みたいでわからない。
 谷川の「論理」は「禅問答」とは遠い世界だと思っていたが、ここでは「論理」が何かを超越している感じ。
 で、「わからない」と言ったひとは、「涼しい顔」。
 この「超越」の仕方が、かなり変わっている。

 いつか、ここに書かれていることが、ぱっとわかるときが来るかもしれないけれど、どうにも「論理」がつかみきれない。どんな具合に「論理」を破って、そこに詩が出現するのか、その「構造」のようなものが見えない。
 だからこそ、この詩が気にかかる、気にかかって、それがいい感じなのである。「肉体」を刺戟してくる感じが妙なのである。
 「腑に落ちる」の「腑」が肉体だから?
 かもしれない。
 「腑」と「涼しい顔」が向き合っている。「腑」と「顔」が向き合って、その向き合った部分に、顔は「涼しい」という感覚をねじ込む。そこがおもしろい。でも、そのことをこれ以上は書けない。どう書いていいかわからない。

 というよりも、というか……。
 書きながら、私には気になって仕方のないことがひとつある。
 最後から2行目--これが、私の「記憶」と違っている。私は記憶力はよくないし、詩を暗唱するということもないのだが、引用しながら、あれっ、

さっき泣きじゃくった「くせに」

 じゃなかったのか。そう思ったのだ。
 この詩が朝日新聞に載ったとき、その感想を書いたはずだから、そのときの引用と比較してみればわかることかもしれないが。
 どうして、そう思ったのかなあ。
 「……せいか」だと、順接というのだろうか、論理がまっすぐに進んでいく。「……くせに」だと逆接になる。あることがらが「反対」の方向に向かうとき、「……くせに」になる。
 たぶん私は、谷川の詩は「論理を否定する論理」の形として生まれると思い込んでいて、そのために「……せいか」という「逆接」の運動を無意識のうちに持ち込んでいたのである。

 で、そのことを考えると。
 そうか、この詩を変だなあとどこかで感じたのは、この詩が逆接による論理の破壊ではないからだな、ということがわかる。
 順接によって、論理を超越していくのだ。破壊ではなく、論理を土台にして、別の次元へ飛んでしまう。それこそ、泣いていたのに、泣いていたことなどなかったかのように、涼しい顔をしている。そんなこと、あったっけ、という顔をしている。
 逆接による論理の破壊(論理の否定)よりも、順接による論理の超越(無意味への飛躍)の方が、なにか「絶対的」なものを感じさせるね。強いね。
 その「強さ」を私は受け止められなくて、変だなあ、と感じたのだろう。



 私の、この谷川俊太郎「心」再読の感想は、論理をととのえないことを自分に課しながら書いている。読み返さない。書き直さない。思いつくまま、という「ライブ」の感覚。とはいえ、今回の感想は、あまりにも飛躍が多いかな。支離滅裂かな?
 でも、ふらふらしながら「順接による論理の超越=詩」というところへ、突然、たどりつけたのはなんとなく気持ちがいい。
 多くの抒情詩は「逆接の抒情詩」(敗北の抒情詩)である。どういうことかというと、ほんとうはこれこれのことがしたいという青春の夢があるが、それは実現することなく破れた、そして精神が哀しみを発見した、という感じ。青春が敗北するということが、「逆接」なのだ。
 谷川の、この詩の「抒情」というか「感情」の動きは、夢が破れた(?)けれど、そんなことは気にしない。「敗北」に美なんか探し出さない。「負けちゃった、泣いちゃった」と、さっさと切り上げて、別なことをしはじめる。
 なんといえばいいのかなあ。(と書きながら、私は考えるのである。時間かせぎだね。)
 それはきっと、「無意味の抒情詩」なのである。
 多くの抒情詩が「逆接の抒情詩」「敗北の抒情詩」であるのに対し、たの「腑に落ちる」は「超越/無意味の抒情詩」である。「超越」が「無意味」であるのは、「超越」したとき、それまでの「意味」が「意味」でなくなるからだ。(と、論理を偽装しておく。)
 この「無意味の抒情詩」が「腑」という「肉体」を露骨に表現することばといっしょに動いているところが、とてもおもしろい。




手紙
谷川 俊太郎
集英社
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マジド・バルゼガル監督「パルウィズ」(3)(★★★★★)

2013-09-18 14:09:22 | 映画
マジド・バルゼガル監督

 マジド・バルゼガル監督が20日まで福岡に滞在しているという情報を聞き、なんとか感想を伝えられないだろうかと思っていたら、面会を取り持ってくれるひとがいた。で、会ってきた。
一番印象的だったのがラストシーンだたったので、そのことを伝えたかった。いままで2回ブログに感想を書いたが、なかなかそのことをことばにできなかった。作品が新しすぎて、そこで起きていることはもちろん、自分の感想さえ、なかなかことばにならないのである。

 私がノートに書いた絵を見せながら話したのだが、話す前に監督がスマートフォンで私のへたくそな絵を写真に撮っていた。(あ、証拠写真?として、その姿を撮るべきだったかなあ。「パルヴィスがとても似ている。私も絵コンテを描く。こんなに上手くはない」というのはお世辞だろうけれど、この絵が気にいったみたい。)



 で、その絵を中心に話したことは、以下のようなこと。(――は私の言ったこと。)
――主人公が最初の食事のシーンでは右側、父親が左側に座っていた。アパートでひとりで食べるときも右側だった。ところが、最後のシーンではパルヴィズが左、父親が右に座っている。父親と主人公の力関係が逆転したことを象徴している。
監督「質疑応答のときだれもそのことを言わなかった。質問してほしかった。だれも気づかなかったのかと思っていた。あした来て、質問してください。アパートで少年と向き合うときも少年は左側。少年の方が権力があるのだ。描きたかったことが、そこに集約されている」
――気づいていたけれど、それがなかなかことばにならない。衝撃が強すぎて、ことばになるまで時間がかかる。そして、食事のあと話し合いをするとき、父親が妻とならんでソファに座る。それが左側。主人公が右側になるが、そのときカメラが切り返しではなく、ずるっとひきずるように動くのがとても印象的だ。
監督「主人公は、テーブルから椅子をもってきて座る。椅子が権力の象徴なのだ」
――椅子をもってくるのも印象に残っているが、ことばにできなかった。ブログに書いたけれど、ほんとうに新しすぎて、そのことにことばがついていけない。ただ衝撃だけが残っている。
 で、この映画のテーマのようなものが、そのラストに象徴されていることを踏まえた上で、私はもう一度、最後のカメラの長まわしにこだわって、
――カメラの長まわしにひきずられるように、自分が主人公になってしまったような気持ちになる。私は主人公のように太ってもいないし禿でもないのだが、まるで主人公になってしまう。話をしようといったあと、主人公が父親に何をしたか、この映画は描いていないのだけれど、何をするかが自分のなかでわかって、それがどきどきするし、またわくわくもする。変な気持ちだが、主人公と一体になってしまって、何か、打ちのめされたような感じで椅子から立ち上がれなかった。隣の女性二人が映画が終わるとすぎに立ち上がって出て行ったのでびっくりした。
監督「この映画では、カメラは第三者の位置に立っていない。常にパルヴィズの視線に添っている。パルヴィズの視線の右を向けば右、ふりかえればふりかえるという具合。エレベーターの段差をみつめるシーンでは、うえから」
――室内のときは、ふつうのひとの視線の高さと似ているので、そこまでは気がつかなかったけれど、ゴミといっしょに捨てた犬を少年が探しているのを上から見下ろしているシーンは、そういうパルヴィズの視線をはっきりと感じさせる。あのシーンも印象に残っているが、印象に残っているのはそのためだと思う。
監督「カメラがパルヴィズであるようにするために、レンズも変えていない。ひとつのレンズで映画を撮っている」
――その効果なのだと思う。最初は何かよくわからなかったが、だんだんパルヴィズそのものになってくる。主人公を見ているというより、主人公になってしまって世界を見はじめる。最後は、不思議だけれど、ほんとうにどきどき、わくわくしてしまう。
監督「最初が長いという指摘はあるが、長くする必要があった」
――長くはないと思う。前半があるから、後半のパルヴィズと一体化したカメラが、そのままパルヴィズになるのがよくわかる。映画を見ているとパルヴィズになってしまう。

――これまでのイラン映画だと、日常を描いていても、そこにファンタジーのようなものがある。この映画では夢は夢でも「悪夢」がある。その悪夢に気づかされるような衝撃、パルヴィズにひきずりこまれ、パルヴィズになってしまうこわさがある。
監督「これまでのイラン映画では貧しいひとの暮らしか、上流階級の暮らしを描いていた。貧しいひとの暮らしのなかにはストーリーがいっぱいある。ストーリーだらけである。そういうストーリーではなく、団地にすむ中流のひとのことを描いてみたかった。団地にすむひとを描いたイラン映画はまだない」
――時代は上流と下流に二極分化が進んでいる。そのなかで中流が引き裂かれ、上流に行けないひとが暴力を振るいはじめる。その不気味な動きは、まだまだ顕在化していないけれど、10年後には、この映画が描いていたものがはっきりわかるようになると思う。私自身にしても、たとえばパルヴィズのように中年で太っていて仕事をもっていないひとがいれば無意識的に避けてしまう。それはやはり一種の差別で、そういうものが暴力を育てるということをはっきり描いている。で、それが告発の形であらわれるのではなくて、パルヴィズそのものに私がなってしまうという形で表現されているのが、こわい。打ちのめされる。まったく新しい。(そのとき語らなかったことも、補足して書いています。)

――この映画は台詞が非常に少ない。しかし、それがとも効果的に動いていると思う。最初のパルヴィズと父親との食事のときの対話、「肉が焼けていない」「塩をふれば」「塩をふれば焼けるのか」や、クリーニング店長の「スーツをもっていないだろう」という指摘が、パルヴィズにぐさりとささる。
監督「沈黙を描きたかった。沈黙が長すぎるという指摘もあったが、饒舌ではことばでの説明になる。ことばではなく、映像で、視線で映画を撮りたかった。この映画では余分なものは全部排除した。映画を撮る前にスタッフに話した。音楽があれば、音楽がそのときの気持ちを過剰におしつける。ふつうのシーンでも音楽で悲しくなる。部屋にあるもの、壁の色やなかにでも、主人公の気持ちを過剰に感じさせる。演出してしまう。そういうもの排除し、主人公の視線をそのまま描くことで一本の映画にする。小説には一人称のスタイルがある。(この一人称というのは、通訳のひともちょっとあいまいだったので、私が「一人称」と言い添えたのだけれど、「私小説」ということばでもいいかもしれない)映画はふつう三人称だけれど(客観的な第三者の視点から撮影する)、この映画ではあくまで「一人称」、パルヴィズの視点だけで世界を描きたかった。台詞ではなく主人公の荒い息遣いで、そこにあることを表現する」
――沈黙と拮抗することば。ことばが短いほど沈黙があふれる。単に長くなるというのではなく、沈黙の存在がくっきりする。主人公の息遣いも、ずっーと耳に残る。それも私とパルヴィスを一体化する。カメラの視線と、息遣いとで、映画を見ているとまるでパルヴィズとひとつになってしまう。そして、どきどきする。一体化してしまったことに、不思議な興奮を感じる。
(監督夫人が、こういうやりとりの前後にあらわれた。美術監督をしているという。)
――アパートの室内の、ものがない感じがとてもよかった。
美術監督「ありがとう」

 ほかにもいろいろ話したと思うけれど、強く覚えていること、私が映画から感じたことはこれだったんだなあと思うことだけを思い出して書いてみた。
 映像の力で人間の、いままで私たちが見逃していた「悪夢(悪意?)」のようなものを浮かび上がらせる力はすごい。まったく新しいと思う。私の感じだ主人公との一体化というのは――なんというか、ほんとうは一体化してはいけないのだけれど、自分のなかにそういう要素があるという発見として、どきりとするのである。そういう人間を産む社会の告発というのが、監督の狙いかもしれないが、私はそれを通り越してしまって、パルヴィズそのものの「悪夢」のようなものに引きつけられるのである。
 会話していたときにでてきたことと関連させると、こういう「悪夢」を肉体のうちにかかえた人間は「中流階級」が二極分離するとき、そこからこぼれ落ちるとき、パルヴィズの暴力がそのまま噴出するように感じられる。それは10年後の世界にはあふれかえっているような気がする。そういう暴走を阻止するためにどうすればいいのか、というのは別問題で、映画(芸術)は、その人間をリアルに具体化すればそれでいいのだと思う。
 映画というよりも、人間観察、人間造形をやっている。「哲学」を映像で試みているのだと思う。現代の問題を描く「社会派」というよりも、「現代人」の内面をどこまで掘り下げて描くか(探るか)を真剣に、正直に、根気よくやっている。

 監督と話すことができて、自分がこの映画から感じたものをやっとことばにすることができた。この映画は何度も書くように新しすぎる。新しすぎて、それを私のことばにするには時間がかかる。監督との話を含めて、私の場合3日かかった。3日かかっても、まだ全部をことばにできているとは言えないのだけれど、なんとなく、こころが落ち着いた。
 このあと、少し映画を離れて(あるいは別の映画に関連づけて)
――イラン人には髭をはやしたひとが多いが、監督が髭をはやしていないのは?
監督「数日前、福岡に台風が来た。その台風に吹き飛ばされてしまった」
 あ、ユーモアのある人だ。
――先日見た「沈黙の夜」では主人公が髭を剃ることが、因習から脱却する象徴として描かれていた。監督は古い世界から脱却している、という「証拠」として髭をそっているのかと思った。
監督「来年福岡に来るときは巨大な髭をはやしてくるよ」
通訳のひとの補足「あれはトルコ映画。トルコとイランは違う。イラン人は半分くらいが髭をはやしていない。キアロスタミもはやしていない。トルコでは髭が男の象徴のように思われている」
――アラビア語とイラン語はだいぶ違うんですか?
通訳のひと「日本語と中国語くらい違います。アフガニスタンでもペルシャ語を話します」
その髭のない監督との写真。
(3人写真の右端が監督夫人、中央は通訳のひと。通訳つきの贅沢な対談だった。)




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谷川俊太郎『こころ』(53)

2013-09-17 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
 論理というものはいいかげんなものだと私は思っている。ことばをつないでいけば、どんな論理にでもなる。そして、それがいいかげんなものだからこそ、そこには必ず矛盾が入る余地がある。この矛盾を、非論理的なこと、無意味ととらえるか、それとも
 詩
 ととらえるか……。

 逆の言い方をしてみる。何かを論理的に考えつづける。そうすると、論理が論理自身を裏切るときがある。この逸脱を偶然ととらえるか、必然ととらえるか。矛盾ととらえるか、詩、ととらえるか。
 谷川は、きっと、詩というに違いない。
 谷川の詩は、いつでも「論理」を含んでいる。そして、その論理が破れるときをぱっと取り出す。詩にする。
 「孤独」も、そういう作品だ。

この孤独は誰にも
邪魔されたくない
と思った森の中のひとりの午後
そのひとときを支えてくれる
いくつもの顔が浮かんだ
今ここにいて欲しくない
でもいつもそこにいて欲しい

 「孤独」といいながら、「孤独」を感じるためには「孤独」ではない状態が必要。これは「論理」の矛盾である。
 「孤独」を邪魔されたくない。でも、こうして「孤独」でいられるのは、私が孤独でいることを許してくれるひとがいるからである。支えてくれるひとがいるからである。たとえばサラリーマンだったら、平日の午後にひとりで森の中にいることはほとんど不可能。平日にひとりで森にいることができるとしたら、代わりに誰かが仕事をしている。--俗なたとえだけれど。
 そして、この「論理」は矛盾しているけれど、「論理」と考えるから矛盾なのであって、「感情の運動」と考えれば矛盾ではない。感情というのは、もともと勝手気ままなのである。「論理」とは相いれないものなのである。「感情」に「論理」があるとすれば、それは「動く(変わる)」という「真実(真理)」というものである。「変わる(変わりつづける)」ということ(運動)が「普遍」なのである。
 普通は変わらないものを普遍というが、変わりつづけるということが変わらないとき(運動しつづけるとき)、変わる(運動する/動く)が「普遍」になる。

嫌われているとしても
嫌われることでひとりでない
忘れられているとしても
私は忘れない
孤独はひとりではない

 「孤独」とは「ひとりでいること」である。けれど谷川は「孤独はひとりではない」という。そして、そのことを私たちは「感情の論理」として受け止める。
 「頭の論理」が破綻し、それを突き破って「感情の論理」があらわれるとき、「頭の意味」が破られ「感情の論理」が新しい「意味」として噴出してくる瞬間が詩なのである。
 「頭の論理」から「感情の論理」へのワープ。それが詩。
 谷川が「頭の論理(流通論理/流通言語)」を多用するのは、それを否定し、打ち破り、「感情の論理」を噴出させれば詩になると知っているからである。「感情の論理」は「頭」を経由せず、直接感情に触れる。
 この接触は、ちょっと大げさに言えば、神に直接触れるのに似ている。その接触は「理不尽」というか「超論理」である。「頭」で「論理」を積み重ねても神には触れることができない。「頭」を否定し「こころ」で直接、触れるしかない。

まり (新価格)
谷川 俊太郎,広瀬 弦
クレヨンハウス
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マジド・バルゼガル監督「パルウィズ」(2)(★★★★★)

2013-09-17 12:16:52 | 映画
マジド・バルゼガル監督

 きのう書きそびれたことの追加。
 この映画は、きのう書いたように新しすぎる。暴力の描き方にはいろいろある。大きく分けると
(1)最初から凶暴な人が暴力を振るう。
(2)最初は善良なひとだけれど、暴力に目覚める。
になる。この映画は(2)の方だが、その目覚め方が、まったく新しい。
これまでの映画は、善良な人間が何か許すことのできないものを見て、被害者(?)を救済されるために暴力を振るうものが多かった。「タクシードライバー」のような感じ。そういう暴力に対しては共感のようなものがある。
 この映画は、なんといえばいいのか、「共感」を求めていない。求めていないというと変だけれど、暴力に「一分の善」がある、という具合には描いていない。まったく共感できる部分がない。
 犬猫を無差別に殺すことに対して、私は共感できない。
 赤ん坊を誘拐すること、窒息死させそうになること、道路に置き去りにすることに対しても共感できない。
 嘘の被害をでっちあげ、夜警の主任を追い出すということは、まあ、少しは「共感」できないこともないが、すかっとするというカタルシスはない。
 少年の飼っている犬をゴミに出すこと、アパートの家主を納戸にとじこめたままにすることにも共感はできない。
 クリーニング店の店長を殴り殺すことにも共感できない。
 しかし、この「共感できない」は「頭」の反応である。「肉体」は違うのである。
 主人公がずるずると暴力にひきこまれていくとき――不思議なことに、目が離せない。引き込まれてしまう。主人公のみつめる「世界」のざらざらしたような手触りが映像としてしっかりスクリーンに表現されている。それは、まったく見たことのない風景かというとそうではなく、私も日常的に見る風景なのである。荒れた部屋。汚れたなべ。だらしない食事……。あるいは、ひとの冷たい態度。人間性を無視する他人のことば。台詞は非常に少なくて、台詞の意味というより、ことばの調子や、その発言のときのひとの表情が、何かむごたらしいのである。そういうものを見ていると、どうすることもできない怒りのようなものがわいてくる。その怒りをどうしていいのか、わからない。普通の人間なら「くそっ」とかなんとか叫んだり、壁をこぶしでたたいたりする。このれでの映画なら、そういう表現でやりすごしてきたものを、この映画は、そういう発散のさせ方を封じることで、暴発させる。暴発するまで、主人公の「肉体」にとじこめておく。デブの男が、だらしない生活と食事のために太っているというより、つもりつもった怒りのために太っているのだと感じるようになる。

 このデブの、だらしいない男の暴力というのも、実はとても新しい。
 デブはたいていが善良だ。この映画でも団地の小間使いをする善良な人間として描かれている。他人のこどもを学校に送り迎えする善良な隣人として描かれている。父親に食事をつくるやさしい息子として描かれている。それがだんだん変わっていく。
 スクリーンに登場したときから凶暴なデブもいるが、善良だったデブが凶暴にかわるというのは、新しい。「タクシードライバー」でも、デニーロが痩せているから、何かしらストーリーが見えてくる。痩せた人間が凶暴になるのは、いわば「予定調和」なのである。最初から神経がぴりぴりしていて、そのために痩せている人間が、そのぴりぴりした精神をおいつめられて暴発する。それは、とても「見えやすい(見なれた)」風景である。
 この映画は、それとは逆なのだ。
 これが新しさに拍車をかけている。新しすぎて、わからない感じを与えている。
 もし主人公が禿げていなくて、デブでもなくて、美男子だったらどうなるか。たとえばジョージ・クルーニーがこの役をやったらどうなるか。そんなことは、まあ、ありえないのだけれど。この「ありえない」という印象(先入観)のなかにも、実は、この映画の描いている「暴力」の「裏の真実」がある。
 私たちは無意識のうちに、ある種の人間を「好意的にみつめる」の部類に囲い込み、ある種の人間を「好意的にはみつめない」部類におしのける。この「おしのけ」は、感じられないようにそっと仕組まれる。だれも、そういうことを前面には出さない。差別になるからね。ところが、そういう隠している差別が瞬間的にでてしまうときがある。その瞬間的な差別(理不尽な差別、太っている、禿げている、職をもたい――だらか、だらしない「不良の人間」というレッテルをはる)が「裏の真実」である。
 この映画は、実はそういうことを「告発」している。
 無意識の差別が暴力を引き出す。そして、差別されている人間の暴力はときには暴発してしまう。人間は、苦悩のなかでは暴力的になる。その暴力は抑制がきかない。
 主人公は単純な加害者ではなく、被害者である。けれど、その被害を実証することは、とてもむずかしい。そのむずかしさと向き合いながら、この映画は、主人公の視点に限定して世界を描いている。声高に差別するひとを描くのではなく、ごくごく日常的な調子で描く。だれだって、この主人公を見れば、デブで、禿げていて、だらしない男と見てしまう。そう見られている男が、何もないアパートをみる。ひとりで食べる食事をみる。かよわい犬や赤ん坊をみる。男にも簡単にできる暴力があることを発見する。「弱いものいじめ」ということばがあるが、男の暴力も出発は「弱いものいじめ」である。「弱い部分」を探して、いじめるのである。暴力をふるっても大丈夫な部分を確かめながら、暴力に目覚めていく。
あ、ひどい、と思いながら、(あるいは、ああ、赤ん坊を殺してしまわなくってよかった、まだ精神がこわれきってはないと少し安心しながら)、これなら自分にもできる、自分もやってしまいそう……という感じがしてくる。主人公に、「共感」するのわけではないのに、「肉体」が飲み込まれていく。
きっと、いま、私は主人公と同じように「はあ、はあ、はあ」と荒い息をしているんだろうなあ。

この映画はほんとうに新しい。それはこの映画のあとの観客の反応からもわかった。監督との質疑応答があったのだが(予告されていたのだが)、映画が終わるとすぐに何人もの観客が出ていった。私の右隣にいた熊本から来たという女性と、その隣の女性もすぐに出ていった。おもしろくなかったのだ。感動できなかったのだ。中年の、デブの禿の男が暴力的になっていくという映画にはカタルシスはないからねえ。でも、私は打ちのめされて、席から立てない状態だった。
きちんとした映像で、もう一度見てみたい。時間があるかなあ。監督が「映像が意図とは違っていた。原因はわからないけれど」といったことばが気になっている。その最初の発言がなかったら、なぜ、こんなにくすんだ映像なのか、ということを私は質問したかったのだった。くすんだ映像では、男の見ているものが「現実」から遠くなる。網膜に侵入してくるという感じがなくなる。この映画は、鮮明すぎるくらいの方が強烈に肉体に迫ってくる。どこなら、きちんと上映できるだろうか。(九州の映画館は上映に問題があるところが多すぎる、と思う。)
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秋の夜は、

2013-09-17 01:12:42 | 
秋の夜は、

秋の夜はデザートにブドウが出てくる。
白い皿に載って。

ことばで大粒のブドウの色、
灰色のきめこまかい粉をまとった紫を説明するときは、
ブドウをつまんだときにできる指の跡を
書いてみると楽しいかもしれない。
紫というより藍色に近いが、
細かく区別すると詩は消えていく。
水に濡れて深くなる感じと書き直すべきか。

もし水彩画に描くなら。
白い皿に映る影のなかにブドウの色をまぜる。
水彩画は現実よりも明るく描くこと。
明るく描きながらわざと明暗をつけるとリズムが出る。
だから丸い影を重なり合わせ、
そこに乱調が響く具合にする。
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谷川俊太郎『こころ』(52)

2013-09-16 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(52)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「心の居場所」。

今日から逃れられないのに
心は昨日へ行きたがる
そわそわ明日へも行きたがる
今日は仮の宿なのだろうか

 この1連目はだれもが思うようなことを、だれもがつかうようなことばで書いている。ように見えるけれど。うーん、3行目の「そわそわ」がきっとなかなか出てこない。「昨日へ」行くときは、どんな気持ちで? すぐには出てこないね。きっと昨日はよかったという感じなのだろうけれど。で、おなじように3行目に「そわそわ」がなくて、そこに好きなことばをいれていいよ、と言われたとき、私は「そわそわ」は自分の肉体から出てこない。谷川が「そわそわ」と書いているので、そのまま読んで「そわそわ」を思い出すことしかできないなあ。
 ここがきっと谷川の詩のすごいところ。
 「そわそわ」ということばはだれでもがつかうし、その意味も知っている。だから「そわそわ明日へも行きたがる」という行を読んだとき、何でもないように読んでしまう。特別かわったことが書いてあるようには感じにくい。
 でも、とっても変わっているのだ。
 変わっていることがわからないくらいに変わっているのだ。

 3連目も、たぶん、同じ。

宇宙の大洋に漂う
小さな小さなプランクトン
自分の居場所も分からずに
心はうろうろおろおろ迷子です

 最終行の「うろうろおろおろ」ではなく--1行目の「宇宙の大洋」。「地球」じゃない。これが、とっても変わっている。不思議。谷川にしか書けない。
 「宇宙の大洋」ということばを読むと、「宇宙」のなかに「地球」があり、その「地球」にある「大洋」を想像する。太平洋とか、大西洋とか。
 谷川は「地球」ということばを書いていないのに、「地球」を補って読んでしまう。
 しかし、だからといって「大洋」を地球にしばりつけて「わかる」わけではない。太平洋とか大西洋とかを想像すると書いたことと矛盾するのだけれど、太平洋、大西洋と思うのは、あとからのこじつけで、私は実は、すぐに「宇宙」浮かんでいる「水の球体」としての「地球」、「青い星」を思い浮かべた。「地球」は「宇宙」に浮かんでいる「丸い大洋」なのだ。
 それは「宇宙」から見ると、とても小さい。その小さい「大洋」のなかで、さらにさらに小さいプランクトンのような「心」。
 でも、小さいのだけれど、それは「宇宙」と直接向き合っている。「地球」を経由しないで「宇宙」と向き合っている。そのとき「地球(陸地)」は消えている。あくまで「大洋/水の塊」として「宇宙」に生きている。

 だれもが知っていることばだけれど、そのつかい方はとても変わっている。そこに谷川の「肉体/思想」がある。
 だれもが知っていることばで語られる「思想/肉体」を、それが独特のものであるとわかるように把握し直すのはむずかしいね。
「脱構築」とか私には正確に書くことができないあれやこれやの外国語で語られる「思想」--それは見たことのないキーワードといっしょに語られるので、そのキーワードさえつかいこなせば(?)、その思想を特徴づけることができるけれど。
 「そわそわ」とか「宇宙(の大洋)」ということばは谷川のキーワードであると言っても、それを説明し直すのがむずかしい。
手紙
谷川 俊太郎
集英社
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マジド・バルゼガル監督「パルウィズ」(★★★★★)

2013-09-16 18:11:46 | 映画
マジド・バルゼガル監督「パルウィズ」(★★★★★)

マジド・バルゼガル監督

これはまったく新しいイラン映画だ。新しすぎて、最初はついていけない。つまり、予想と違うことが起き過ぎる。しかし、だんだんその奇妙な展開に慣れてくると、もう、どきどきして映像から目が離せない。
中年の、禿の、でぶの男が主人公。団地に父と住んでいる。団地のひとの小間使いみたいな感じで重宝されているのだが(ここまでは、それまでのイラン映画の延長といえなくもない)、父親が再婚し、主人公の息子に「家を出て行け」と言ってからが異様である。
ふてくされているだけだが、だんだん周囲の人に悪意を持つようになる。団地の犬、猫に毒入りのえさをやって殺してしまう。父が、団地をうろつく犬猫を嫌っていたので歓心を引きたかったのだ。だが、逆にしかられる。そこから急速に悪意が膨らむ。
夜警の同僚を密告して職場から追い出す。乳母車の赤ちゃんを誘拐し、泣き出すと窒息死させようとする、路上に放置する、アパートの家主を納戸に押し込める、少年の子犬をゴミとしてだしてしまう、クリーニング店の店長を殴り殺す、そして父の家庭へ押しかける・・・
 この変化を主演男優の視線と演技だけで見せる。日常の細部をねっとりと見つめる。日常に「意味」などないのだが、長回しのカメラで主人公の動きを追いながら、主人公が見ているものをスクリーンに映し出す。そこに意味がないから、だんだん精神が荒廃してくる。肥満体の緩慢な動きと、まるで目にも皮下脂肪がついているようなどろりと動く視線、その視線にとらえられた「もの」。父によってあてがわれたアパートの、すさんだ感じがすごい。生活がない、というと言いすぎだが、たとえば父の家にいたときの食卓との違い。一方にはテーブルクロスがあり、料理があり、取り皿がある。客用の椅子がある。ペットボトルに入った水があり、コップがある。ところが男の部屋には小さなテーブルと椅子だけ。そこで男は虚無と向き合い、一人で食べる。虚無を食べるように。味だけは、塩をたっぷり使い、不健康に。
 どこまで人は「悪く」なれるか、暴力を振るえるか、暴力を振るいながら自分の精神の傷に耐えられるか。暴力の傷に耐えるとは、でも、どういうことだろう。傷を傷と感じずに、暴走することか。
ラストの父親の家での食事のシーンが、ちょっとおもしろい。
それまで主人公はいつもスクリーンの右側に座り、食べているが、最後のシーンでは左側に座り、右の父をみながら食べる。父の位地と息子の位地が逆転している。息子が父の位地を奪ったのだ。しかし、本当の最後では、左側のソファに父親が座り、右の椅子に座った息子との対話が始まる。父の位地を奪ったが、息子は息子として「父殺し」を実行するのだ。
この「父殺し」は実際には映像化されないが、もう映像化されたのと同じ。どきどき、わくわく(わくわくは変かもしれないが、今まで見たこともないものを見るという興奮にわかうわくする)してしまう。
また、この主人公を「具体化」する俳優の「肉体」もすごい。醜い。その、迫真の醜さに、あ、この男なら父親を殺してしまうと信じてしまう。終始スクリーンに溢れる息遣いが、耳にいつまでも残って困ってしまった。

 アジア映画祭では観客の投票をやっている。たぶん今回のベスト1は逃すだろうけれど、10年後には世界の古典としての位置を占めるだろう。そういう強靭な映画である。前年なのは、上映条件(機器との相性?)が良くなかったのか、色彩がかなりあいまいになっている。監督が最後に意図したものと違っていると語っていた。鮮烈な映像でもう一度みたい、もう一度ノックアウトされたい映画である。
(2013年09月16日、キャナルシティ13)

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長嶋南子「泣きたくなる日」、青山かつ子「淡路亭」

2013-09-16 10:35:13 | 詩(雑誌・同人誌)
長嶋南子「泣きたくなる日」、青山かつ子「淡路亭」(「すてむ」56、2013年08月10日発行)

 長嶋南子「泣きたくなる日」はだれもが経験するようなことを書いている。

どうしても泣きたくなる日があって
柱のかげで泣こうとしても
身をかくすほどの大きな柱が家にはなくて
そんな日は
ご飯を食べていても誰かと会っていても
こっそり涙をふいている

 誰もが経験すると書いたけれど--それじゃあ、なぜ、詩?
 そうだねえ……。私がこの詩でいいなあと思ったのは(ここが詩だなあ、と思ったのは)、

身をかくすほどの大きな柱が家にはなくて

 そんな柱のある家って、じゃあ、どこにある? どこにもない。でも、柱のかげで泣く、という状況はわかるね。現代ではそういう記憶をもっているひとは少ないかもしれないけれど(マンションなんかでは柱そのものがどこにあるかわからなかったりする。柱がなくて、突然壁だったりするからね)、こどものときは確かに柱に隠れるという感じがあったなあ。柱のかげから覗くとか……。昔の家には「大黒柱」というのがある。普通の住宅では大黒柱といっても特別に太いわけではないけれど、家の中心にあって、なんとなく上部に見える。そういうもののかげに隠れる。
 このとき、その柱は実際の柱であると同時に、「もの」ではなくて「象徴」になっている。昔は「日常」に「象徴」があった。「象徴」というのは「日常の意味」を超える何か神聖なものである。
 こういうことは「意味(論理)」ではなくて、「肉体」がなんとなく覚えていること、「肉体化した思想(理念)」である。
 それが刺戟されて甦ってくる。そのとき詩を感じる。--別のことばで言えば、詩人・長嶋の肉体に触れたと感じる、セックスをしたという気持ちになる。

 暮らしには、「柱-大黒柱」のように「流通概念」として「象徴」になったものもあれば、まったく個人的なものとして「象徴」のようになったものもある。
 長嶋の場合は「原っぱ」。

いっそのこと原っぱにいって
オンオン泣けば
ためこんでいたものが一気になくなって楽になるだろう
人前でひそかに泣かなくてすむだろう

 「原っぱ」はさえぎるものが何もない。だから「見られてしまう」。けれどもその「見られる」は「遠くから見られる」である。この「遠さ」の感覚、「象徴」が「原っぱ」。ひとりで泣きたい。けれど誰にも知られないなら泣いたことにはならない。特にこどものときは、ね。こどもは泣いていることを見られたい。
 泣いているとわかっているけれど、その泣いているまで近づいてなぐさめるにはちょっと苦労する。原っぱの真ん中まで歩いていかないといけないからね。だから、ほんとうになぐさめにいくのは(どうしたの、と聞きに来るのは)、大切な友人や家族くらい。「遠さ」は「親密さ」をはかる何かだったのだ。「本能」だったのだ。泣きながら、泣き止めるためのものをこそ、こどもはもとめている。「欲望の正直」がその瞬間に輝く。
 あ、こんなことは、長嶋は書いていないけれど、私の「肉体」はそういうことを思い出す。
 詩のつづきを読むと、そのことがもっとわかる。

けれどまわりは新しい建売住宅ばかりで
原っぱはすでにない
家の前の小さな空き地で大声で泣いたら
頭がおかしい人がいるどこの人だろうかと気味悪がられる

 「遠さ」がないのが「現代」なのだ。大な原っぱなら大声で泣いても聞こえない。小さな空き地なら小さな声で泣いても聞こえる。大声で泣いたら大変である。
 「日常」のなかで「象徴」が「象徴」の意味を持たなくなっている。「象徴」は一種の「浄化作用」であり、それが働かないと、すべてが気味悪くなる。あ、「日常(人間)」はもともと気味悪いものかなのかもしれないけれど……。
 「日常」からだんだん「長嶋の知っていた象徴」が消えていっているのだけれど、そのことに長嶋の「肉体」はなかなかついていけない。その微妙な変化を長嶋のことばはきちんとつかまえている。
 この変化(「日常の象徴」の変化)は、うーん、若い人には継承されていくのかなあ。この長嶋の詩を読んで「日常の象徴」の変化に気がつくかなあ。よくわからない。若い人は若い人で、あたらしい「日常の象徴」というものに向き合っているかもしれない。そのために、古いことばで言えば「世代間ギャップ」のようなことが、ことば(詩)の世界でも起きているだろうなあ。
 若い人は、長嶋の詩を「おばさんの泣き言」くらいにしか思わないかもしれない。「言語の実験がなくて、どうしてこれが現代詩といえるのか」と思うかもしれない。



 青山かつ子「淡路亭」は、「個人の象徴」を書いている。

電車から見える
窓の向こうのビリヤード

むかし
人と別れて
がらんどうにとびこんできた
そこだけが明るい
鮮やかなラシャのみどり

 長嶋が原っぱに逃げ込んで大声で泣いたように、青山はビリヤードに逃げ込んで涙を拭いた。その「逃げて、泣く」ということ(動詞)は、でも、今にも通じる「象徴(行為の象徴、意味を含んだ行為)」なので、なかなかおもしろい。私は若者ではないので、いまの若者がもし「逃げて、泣く」という行為をするとき、どこに逃げ込むのかがわからないけれど……。
 あ、脱線したけれど。
 そうかビリヤードか、と私は何か「肉体」が刺戟される。ビリヤード場は全体はぼんやりとくらい。競技をする台の上だけが明るい。影と明るさの対比があって、まあ、逃げ込むとしたらその「暗がり」のなかへ逃げるのだけれど、逃げ込んでみたら明るさの方が目について……という一種の期待を(予想を)裏切られるようなことがあって、そのときから青山にとっては「ビリヤード」が一種の「哀しみの象徴」になっている。そのことが、私には「ビリヤード」ということばといっしょに実感できる。


そこを通過するたびに
記憶の球がはじけ
みどりの台をこすがって
ことんと落ちる
一瞬がある

 「落ちる」も「象徴」だ。「ことん」も「一瞬」も「象徴」だ。「日常のことば」であるけれど、そこには別の意味(哀しみ)がまじり込んでいる。



猫笑う
長嶋 南子
思潮社
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谷川俊太郎『こころ』(51)

2013-09-15 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(51)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 きのうの「買い物」が大人向けの詩だとしたら、「こころから」はそれを子ども向けに書き直したものと言えるかもしれない。サブタイトルに「子どもたちに」ということばがそえられている。

こころはいれもの
なんでもいれておける
だしいれはじゆうだけれど
ださずにいるほうがいいものも
だしたほうがいいものも
それはじぶんできめなければ

 自分できめなければいけない、というのはそれはそうだけれど、むずかしいね。こういうむずかしいことも平気で(?)子どもに向けて言ってしまうのが谷川の谷川らしいところなのかなあ。
 そのあと谷川はかなりこわいことを言う。

こころからだしている
みえないぎらぎら
みえないほんわか
みえないねばねば
みえないさらさら
こころからでてしまう
みえないじぶん

 出したものがこころのなかに入れておいたものだとして、その出したものだけが出るわけではない。意識しないものも出てしまう。そして、これは何かを出したときだけとはかぎらない。きのう読んだ詩を子どもが読んでいるとはかぎらないが、もし読んでいるとするなら、きっと気づく。
 「隠している」ということだって出てしまうのである。
 何でも「出し入れ自由」というのは自分勝手な思い込みにすぎないかもしれない。
 出て行ってしまうのは「みえないじぶん」。自分には見えないけれど、それは他人には見えてしまう。他人にも見えないなら「見えない自分」というのは存在しない。

 こんなこわいことを子どもに言ってしまっていいのかな?

 こわいことだから、子どもに言ってしまいたいのかもしれない。言わなければならないのかもしれない。大人になってから、それがわかるためには、何もわからないうちに、その「ことば」を覚えておかないといけない。ひとは聞いて覚えたことしか思い出せない。わかることができないのだから。
 思い出せる?
 「みえないじぶん」が「こころからでてしまう」と気づいたのはいつか。そして、それに気づいたとき、どうしてそう気づいたのか。誰が教えてくれたのか。
 「教訓」ではなく、「肉体」をのぞくとき、どうしてもつかみきれない「子ども」がどこかにいて、笑っているような気持ちになる。「何もかも知ってるよ」と残酷に笑っている。
 --こんなことは、谷川は書いてはいないのだけれどね。書いていないから、読んでしまうのである。




こころ
クリエーター情報なし
朝日新聞出版
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レイス・チェリッキ監督「沈黙の夜」(★★★★)

2013-09-15 13:16:52 | 映画
レイス・チェリッキ監督「沈黙の夜」(★★★★)

監督 レイス・チェリッキ

 黒と赤と白。この三色がとても効果的、象徴的につかわれている映画である。黒は男の黒い服。赤は花嫁のベールとリボン。それは初夜の純潔を証明する血の色である。血は男のなかにも流れているし、男が過ごしてきた過去の流血という形で存在するのだが、男は赤を隠している。白は花嫁のドレス、シーツ。これは純潔を浮かび上がらせるひとつの装置。白は男も白いシャツを着ている。男にも純粋なものはある、ということか。そして、その白はもうひとつ雪の色でもある。この雪は何をあらわしているか--無垢か。そうかもしれないが……。
 最後のシーンの「白」がとてもおもしろい。
 ラストシーンに銃声が一発響く。それを聞いて村から女が二人、男と女の初夜の部屋を尋ねてくる。シーツをもらいに来る。最後は二人の女がドアを叩く音で終わり、実際にはシーツは掲げられない(このことは、初夜がなかったことを象徴する)のだが、そのときの二人が歩いてくる道に積もった雪が絶妙の色をしている。
 雪のシーンは何度か出てくる。花嫁が家を出るのを見たあと、若い男が村を飛び出す。そのとき彼の向かう先に白い雪山。それは若い男の「純粋さ」の象徴のようなものである。男が見る夢のなかでも雪が出てくる。赤いリボンにまといつかれるようにして走る男。そのときの場所が雪の野原。--その雪の色に比べるとラストの色は灰色に近い。これはうっすらと地面に積もっていて、地面が透けて見えるということなのだが、それ以外に所長的な意味をになっている。純粋、無垢は美しいものと考えられるが、はたしてそうなのか。そんなふうに単純化できるのか。純粋、無垢と思われているもののなかに、汚れがひそんでいないか。
 ラストシーンに絡めていうと、二人の女は、男と花嫁の初夜を確認にきたのだが、初夜を確認するという風習のなかに「純粋、無垢」(祝福)と言い切ってしまうもの以外のものが含まれていないか。たとえば、この映画の男と女は対立する部族(?)の若いの象徴である。結婚によって対立が集結する。それは、ありていに言えば対立を終わらせるための「手段」なのである。「策略」なのである。このために、雪は汚れている。その汚れに二人の女は気づいてはいない。
 それに気づくことができるのは、映画を見ている観客だけである。だから、ここにこそ監督の強いメッセージがこめられている。
 男は血の抗争の代弁者として二度服役した。いま、策略結婚で、結婚を望んでいない少女と結婚してしまった。この連鎖から男はなんとか自分自身を解放したいと思っている。そのために口髭を剃るということも実行する。少女に言われて、口髭を剃るのだが、少女に言われてする--という行動のなかに、因習の打破、自分の生きてきた世界からの脱出の願いがこめられている。
 でも、そういうことは「部屋の外」(男の行動を実際に目撃できなかったひと)にはわからない。何が起きているかわからないまま、習慣(因習)にしたがって、二人の女は初夜のシーツを受け取りに来る。その道が、灰色の雪で濁っている。寒々しく広がっている。
 この白の変化こそ、この映画の「結論」というか、メッセージである。
 「部屋」のなかでは男が因習の連鎖を断ち切った。そのあと、それを「外」へ広げていくのは、死んでしまった男ではできないことである。別の部屋の中では、もしかしたらいままで通りの因習がつづいているかもしれない。策略結婚の、幼い花嫁を男が力付くで犯し、結婚を成立させるという関係がつづいているかもしれない。この因習「外」からどうやって改善できるか。

 映画のなかにあるひとつの不思議なシーン。「白」について書いたとき少し触れたのだが、少女が花嫁になって家を出るのを見た若い男が村を去っていく。その前に純白の雪山が広がる。それはほんとうに真っ白だ。そのときの若い男はだれなのか。少女の恋人ととらえればまてひとつストーリーが広がるが、この男はきっと監督自身なのだ。監督は、そういう風習に縛られる「村」から脱出した。そして、そういう「因習(村の掟)」を映画という形で告発する。それが監督の「白」の示し方なのだ。「白」は「無罪証明」である。ラストシーンの灰色っぽい白と比較すると、そのことがはっきりする。
 で、そうわかった上で書くのだが。
 この「無罪証明」は余分だなあ。「無罪証明」をしようとするから、映画が、あまりにも完璧に「ストーリー」になってしまう。わからない部分をなくしてしまう。役者の存在感を「ストーリー」が上回ってしまう。
 そこが残念。

 もっとも……。
 この作品は福岡アジア映画祭の上映作品のうちの1本。上映のあと、監督との質疑応答があったが、そのときの質問の口火が「ラストシーンで、二人の女が鍵をがちゃがちゃさせる音がするけれど、あれは男と女を部屋にとじこめておくためか」というものだった。えっ、どこからそんな疑問が出てくる? さらには、「初夜の始まりに銃声二発。終わったときも銃声二発で知らせるはずなのに、ラストで一発しか鳴らなかった。なぜか?」という質問がつづく。
 あ、そういうことは、観客が自分で考えるようにするために監督が仕組んだもの。どう理解するか、それを質問している部分。まるで学校のテストで、「先生、この問題の答えは何ですか?」と聴くようなもの。
 質問したひとはほんとうに映画を見ていたのかなあ。映画のなかでの男の変化を見ていたのかなあ。
 男は少女の要求に応じて、次々に自分をかえている。おとぎ話をする。綾取りをする。髭を剃る。--この髭を剃るというのは、中東の男たちの顔を見たことあるなら、大変なことだとわかる。男はたいてい髭をはやしている。サダムも、ビンラーディンも。男が男であることの象徴のようなものだ。男は髭を剃ることで、自分はここまで少女のためにかわろうと努力している、部族間の抗争を終わらせるために努力している、と告げているのである。
 でも、どんなに男が少女のために変わったとしても、初夜のシーツを証拠として受け取りに来るという「因習」までは変えられない。結局、少女を「策略結婚」という因習のなかにとじこめてしまう。男はすでに、二度ひとを殺している。映画の冒頭でふたつの墓をまいっている。ここで少女と初夜を迎えてしまえば、3人目の人間を殺すことになる。少女は生きたまま死んだ状態になる。
 それを避けるために、男は自殺する。
 男の自殺によって社会が変わるわけではないことは、ラストの灰色の雪が象徴しているが、それは男にはわからないこと。男は最後に、ひとを生かすために自分を殺す。三度目の正直ということばがトルコにあるかどうかわからないが、三度目でやっと目覚める。

 それにしても。
 こうやって映画の感想をブログに書いている人間がいうことではないかもしれないが、他人の感想なんておもしろくないねえ。いったい、このひと、ほんとうに映画を見たの?といいたくなるときがある。
 映画の解説なんて聴くもんじゃないね。去年(おととし?)KBCで「ニーチェの馬」を見たとき、どこかの大学教授(?)の「解説」があったけれど、ああ、ひどかったなあ。あの「解説」のために、私はあの映画を不当に評価してしまう。同じことを繰り返すしかない人間の不条理な哀しみ(途中で他者に出会うが結局いつもの二人にかえって繰り返すだけの生活)を剛直な映像で表現した映画だったのだけれど、「解説」に腹を立てて、私は「金返せ」の評価しかしなかった。
 「沈黙の夜」も、観客のとんでもない質問のために、思わず「金返せ」といいたくなったけれど、あ、これは知人から券をもらって見たんだった。気を取り直そう……と思い、気が変わらないうちに急いで感想を書いた。
                     (2013年09月15日、キャナルシティ13)
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