監督 アテイグ・ラヒミ
フランス、アフガニスタンの合作映画。アフガニスタンの映画を見るのは、私は初めてである。
内戦の街。昏睡状態の夫に、介護に疲れた妻が自分の秘密を語る。悲しみを語る、というのがストーリーである。途中に、若い兵士にレイプ(?)される、その兵士と関係がつづくという「現実」が紛れ込むので、語られることが「現実」に見えるかもしれない。その若い兵士のことも女は語るから……。
しかし、「現実」ではないかもしれない。つまり、それは秘密ではなくて、女のひそかな夢なのかもしれない。二人の娘は夫の子どもではなく、知らない男の子どもである。こどもを産むために、知らない男とセックスをした、というのは、女が「現実」を受け入れるための、自分自身をだますための嘘かもしれない。自分に嘘をついてしまいたいほどの悲しみ、絶望のなかにいる、という具合にも見ることができる。
女は「悲しみを聴く石」という「夢」を追いかけている。石に向かって悲しみを語りつづけると、あるときその石が砕けちる。そして、同時に、悲しみも砕けちる。そういう「夢」を女は追いかけている。その「夢」のなかにしか、救いはない。
女は昏睡状態の夫を「悲しみを聴く石」にみたてて、自分の悲しみを語っている。悲しいこと、悲しい記憶を語るとき、ひとは嘘をつかないか。それはちょっとわからない。現実が悲惨であるとき、その悲惨さを忘れるために、もっと悲しい思い出でっちあげないとはかぎらない。
ということは、しかし、考えてもわからない。
「現実」はどこにあるか。
この映画が描く「現実」は何か。
昏睡状態の夫に触れる女の手の、その触覚にある。布を濡らし、夫の体を拭く。開いたままの目を守るために目薬を注す。汚れた服を破る。下着を破る。体を石けんで洗う。そのときの手。同時にアップで浮かび上がる男の肌。--女は、男の肌にだけ触れる。触れている。言い換えると、女は、それまでも男の「こころ」に触れたことなどないのである。指で触れることができる何か--それだけが「現実」である。手が、あらゆる「記憶」を思い出すのである。
でも、それはやりきれない「現実」だ。女が思い出すことができるセックスは、あまりにも抑圧的だ。とじこめられたセックスである。
そのやり切れぬ「現実」から、女が一瞬解放されるシーンがある。若い兵士との何度目かのセックスのあと、女は地下室から夫のいる部屋へ向かって階段を上る。そのとき女の指が壁に触れる。壁に触れて、それが人間の肌とは違っていることに、何かうきうきと浮き立つ。人間の肌と違うものに触れることで、人間の肌を、その肌に触れた快感を思い出すふうでもある。
これがあまりにも美しいので、私は、ここで語られる女のことば嘘のように感じてしまうのである。女が若い兵士を導いて、そこからはじまるセックス。その快感。充実。
それをより美しいものにするために、過去を悲しく悲惨にする。悲しみが「現実」を洗い流し、「いま」を別世界へ運んで行く。何か矛盾した動きがここにあって、それが矛盾を突き破って動きはじめる。
この矛盾がおもしろい。
最後の最後。女の「悲しい告白」(夫への裏切り)を聞いて、夫が突然、昏睡状態から覚める--あ、これこそ、「夢」だね。昏睡状態から覚めて怒る夫を殺す。そのとき、女ははじめてほんとうに自分がしたかったことをする。夫殺しをする。「夢」が「現実」になる。このときも、触覚がキーワードである。昏睡から覚めた夫の手が女の手をつかむ。つかまれたことを、触覚を、手で感じる。そこから手でナイフをにぎり、ナイフを夫に突き刺すという動き。
夫は戦争というつかみどころのないものに触れていた。「理想」に触れていた。「戦争」が理想というのではなく、そのあとの「平和」という理想のために戦っていた。そういう手の触れられない「虚構」ではなく、女はいつでも手で触れることができる「現実」を求めている。手に触れるものが、それだけが「現実」というより、「真実」なのだ。
(2013年09月14日、ユナイテッドシネマ・キュナルシティ13)
フランス、アフガニスタンの合作映画。アフガニスタンの映画を見るのは、私は初めてである。
内戦の街。昏睡状態の夫に、介護に疲れた妻が自分の秘密を語る。悲しみを語る、というのがストーリーである。途中に、若い兵士にレイプ(?)される、その兵士と関係がつづくという「現実」が紛れ込むので、語られることが「現実」に見えるかもしれない。その若い兵士のことも女は語るから……。
しかし、「現実」ではないかもしれない。つまり、それは秘密ではなくて、女のひそかな夢なのかもしれない。二人の娘は夫の子どもではなく、知らない男の子どもである。こどもを産むために、知らない男とセックスをした、というのは、女が「現実」を受け入れるための、自分自身をだますための嘘かもしれない。自分に嘘をついてしまいたいほどの悲しみ、絶望のなかにいる、という具合にも見ることができる。
女は「悲しみを聴く石」という「夢」を追いかけている。石に向かって悲しみを語りつづけると、あるときその石が砕けちる。そして、同時に、悲しみも砕けちる。そういう「夢」を女は追いかけている。その「夢」のなかにしか、救いはない。
女は昏睡状態の夫を「悲しみを聴く石」にみたてて、自分の悲しみを語っている。悲しいこと、悲しい記憶を語るとき、ひとは嘘をつかないか。それはちょっとわからない。現実が悲惨であるとき、その悲惨さを忘れるために、もっと悲しい思い出でっちあげないとはかぎらない。
ということは、しかし、考えてもわからない。
「現実」はどこにあるか。
この映画が描く「現実」は何か。
昏睡状態の夫に触れる女の手の、その触覚にある。布を濡らし、夫の体を拭く。開いたままの目を守るために目薬を注す。汚れた服を破る。下着を破る。体を石けんで洗う。そのときの手。同時にアップで浮かび上がる男の肌。--女は、男の肌にだけ触れる。触れている。言い換えると、女は、それまでも男の「こころ」に触れたことなどないのである。指で触れることができる何か--それだけが「現実」である。手が、あらゆる「記憶」を思い出すのである。
でも、それはやりきれない「現実」だ。女が思い出すことができるセックスは、あまりにも抑圧的だ。とじこめられたセックスである。
そのやり切れぬ「現実」から、女が一瞬解放されるシーンがある。若い兵士との何度目かのセックスのあと、女は地下室から夫のいる部屋へ向かって階段を上る。そのとき女の指が壁に触れる。壁に触れて、それが人間の肌とは違っていることに、何かうきうきと浮き立つ。人間の肌と違うものに触れることで、人間の肌を、その肌に触れた快感を思い出すふうでもある。
これがあまりにも美しいので、私は、ここで語られる女のことば嘘のように感じてしまうのである。女が若い兵士を導いて、そこからはじまるセックス。その快感。充実。
それをより美しいものにするために、過去を悲しく悲惨にする。悲しみが「現実」を洗い流し、「いま」を別世界へ運んで行く。何か矛盾した動きがここにあって、それが矛盾を突き破って動きはじめる。
この矛盾がおもしろい。
最後の最後。女の「悲しい告白」(夫への裏切り)を聞いて、夫が突然、昏睡状態から覚める--あ、これこそ、「夢」だね。昏睡状態から覚めて怒る夫を殺す。そのとき、女ははじめてほんとうに自分がしたかったことをする。夫殺しをする。「夢」が「現実」になる。このときも、触覚がキーワードである。昏睡から覚めた夫の手が女の手をつかむ。つかまれたことを、触覚を、手で感じる。そこから手でナイフをにぎり、ナイフを夫に突き刺すという動き。
夫は戦争というつかみどころのないものに触れていた。「理想」に触れていた。「戦争」が理想というのではなく、そのあとの「平和」という理想のために戦っていた。そういう手の触れられない「虚構」ではなく、女はいつでも手で触れることができる「現実」を求めている。手に触れるものが、それだけが「現実」というより、「真実」なのだ。
(2013年09月14日、ユナイテッドシネマ・キュナルシティ13)