詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アテイグ・ラヒミ監督「悲しみを聴く石」(★★★)

2013-09-15 08:23:43 | 映画
監督 アテイグ・ラヒミ

 フランス、アフガニスタンの合作映画。アフガニスタンの映画を見るのは、私は初めてである。
 内戦の街。昏睡状態の夫に、介護に疲れた妻が自分の秘密を語る。悲しみを語る、というのがストーリーである。途中に、若い兵士にレイプ(?)される、その兵士と関係がつづくという「現実」が紛れ込むので、語られることが「現実」に見えるかもしれない。その若い兵士のことも女は語るから……。
 しかし、「現実」ではないかもしれない。つまり、それは秘密ではなくて、女のひそかな夢なのかもしれない。二人の娘は夫の子どもではなく、知らない男の子どもである。こどもを産むために、知らない男とセックスをした、というのは、女が「現実」を受け入れるための、自分自身をだますための嘘かもしれない。自分に嘘をついてしまいたいほどの悲しみ、絶望のなかにいる、という具合にも見ることができる。
 女は「悲しみを聴く石」という「夢」を追いかけている。石に向かって悲しみを語りつづけると、あるときその石が砕けちる。そして、同時に、悲しみも砕けちる。そういう「夢」を女は追いかけている。その「夢」のなかにしか、救いはない。
 女は昏睡状態の夫を「悲しみを聴く石」にみたてて、自分の悲しみを語っている。悲しいこと、悲しい記憶を語るとき、ひとは嘘をつかないか。それはちょっとわからない。現実が悲惨であるとき、その悲惨さを忘れるために、もっと悲しい思い出でっちあげないとはかぎらない。
 ということは、しかし、考えてもわからない。
 「現実」はどこにあるか。
 この映画が描く「現実」は何か。
 昏睡状態の夫に触れる女の手の、その触覚にある。布を濡らし、夫の体を拭く。開いたままの目を守るために目薬を注す。汚れた服を破る。下着を破る。体を石けんで洗う。そのときの手。同時にアップで浮かび上がる男の肌。--女は、男の肌にだけ触れる。触れている。言い換えると、女は、それまでも男の「こころ」に触れたことなどないのである。指で触れることができる何か--それだけが「現実」である。手が、あらゆる「記憶」を思い出すのである。
 でも、それはやりきれない「現実」だ。女が思い出すことができるセックスは、あまりにも抑圧的だ。とじこめられたセックスである。
 そのやり切れぬ「現実」から、女が一瞬解放されるシーンがある。若い兵士との何度目かのセックスのあと、女は地下室から夫のいる部屋へ向かって階段を上る。そのとき女の指が壁に触れる。壁に触れて、それが人間の肌とは違っていることに、何かうきうきと浮き立つ。人間の肌と違うものに触れることで、人間の肌を、その肌に触れた快感を思い出すふうでもある。
 これがあまりにも美しいので、私は、ここで語られる女のことば嘘のように感じてしまうのである。女が若い兵士を導いて、そこからはじまるセックス。その快感。充実。
 それをより美しいものにするために、過去を悲しく悲惨にする。悲しみが「現実」を洗い流し、「いま」を別世界へ運んで行く。何か矛盾した動きがここにあって、それが矛盾を突き破って動きはじめる。
 この矛盾がおもしろい。
 最後の最後。女の「悲しい告白」(夫への裏切り)を聞いて、夫が突然、昏睡状態から覚める--あ、これこそ、「夢」だね。昏睡状態から覚めて怒る夫を殺す。そのとき、女ははじめてほんとうに自分がしたかったことをする。夫殺しをする。「夢」が「現実」になる。このときも、触覚がキーワードである。昏睡から覚めた夫の手が女の手をつかむ。つかまれたことを、触覚を、手で感じる。そこから手でナイフをにぎり、ナイフを夫に突き刺すという動き。

 夫は戦争というつかみどころのないものに触れていた。「理想」に触れていた。「戦争」が理想というのではなく、そのあとの「平和」という理想のために戦っていた。そういう手の触れられない「虚構」ではなく、女はいつでも手で触れることができる「現実」を求めている。手に触れるものが、それだけが「現実」というより、「真実」なのだ。
(2013年09月14日、ユナイテッドシネマ・キュナルシティ13)
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谷川俊太郎『こころ』(50)

2013-09-14 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(50)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「買い物」という作品はかなり奇妙な作品である。

隠しているのではない
秘密にしておきたいわけでもない
やましいことは何一つない
誰に話してもかまわない
ささやかな買い物 でも
知っているのは世界中で
自分ひとりだけ

 何を買ったのか。「隠しているのではない」とわざわざ書くのは「隠している」ということの強調である。そのあとの「秘密」「やましいこと」も否定することで、逆に「秘密」と「やましさ」を浮かびあがらせる。「隠しているわけではない」が「隠している」ということを知ってもらいたい。
 矛盾したものが、私たちのこころにはある。その矛盾は、そしてこんなふうに少しずつもらすような形で解きほぐすのかな?

 もし、買ったものが「形」のあるもので、人の前でつかうことのあるものだったら、それは「買った」と言わなくても「買った」ということがわかる。人の目の触れるところでつかうものではないのかな?
 --という具合に「妄想」を拡大していくと、うーん、これは「買った人」の秘密ではなく、読者の秘密を暴くようなものだね。秘密が暴かれるようなものだね。
 どこか「共犯者」になったような気持ちになる。
 こういう不気味な「ひとつ」へと誘う詩もあるのだ。

いつかは忘れてしまうだろう
私の心のジグソーの一片
でもそんなかけらが合わさって
私という人間がいる
不思議

 谷川が何を買ったか、「いつか忘れてしまう」ように、読者(私、谷内)も、そのことばによってどんな「妄想」を抱いたのか忘れてしまうだろう。でも、そういう「忘れてしまったこと」を含めてたしかに「私」という人間はできあがっている。

 その一方、私たちは、そういうことを忘れながらも「覚えている」。覚えているので、ときどき思い出す。思い出しながら、「覚えていること」の、たぶん「覚える」という動詞のなかで「ひとつ」になる。
 言い換えると「隠しているのではない」「秘密ではない」「やましいことはない」という否定の仕方で自分を納得させたという「矛盾」のなかで「ひとつ」になる。「矛盾」と書いたけれど、まあ、それは「矛盾」ではなく、もっとほかのことばの方が適切なのだろうけれど。

ままです すきです すてきです (幼児絵本シリーズ)
谷川 俊太郎
福音館書店
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松木俊治「どうして」

2013-09-14 08:24:45 | 詩(雑誌・同人誌)
松木俊治「どうして」(「豹樹」19、2013年07月31日発行)

 松木俊治「どうして」は特に変わったことが書いてあるわけでもないのだが。

坂を下りる
そこにバス停がある
雨ざらしの
ベンチに座りしばらくやすむ

もういちど
坂を下りる
薄暮の青空
グラウンドからは部活の声も聴こえてくる
ずっとつづく道には
始まりがなく
終わりもない

 「雨ざらしの」ベンチ、「薄暮の」空--には「詩」の連想がからみついていて、あまりおもしろくない。
 ところが突然、

始まりがなく
終わりもない

 と、ふいに「詩」がはぎとられる。「詩の連想」が無意味になる。「始まりがなく/終わりもない」とはどういうことだろうか。松木はふいに何を見つけたのだろうか。
 グラウンド、部活から松木の記憶は過去へと動いていく。

暗くなりはじめたテニスコートに
こさめか降っていた
ながい叱責だった
あのとき
ぼくは英語教師の黒くて太い
眼鏡の縁ばかりをみていた

それは
理不尽委でも
当然でもなかったけれど
その前も
そのあとも
ぼくはただ
持て余したままだった

 「理不尽でも/当然でもなかった」は「始まりがなく/終わりもない」の言い方に似ている。なにか通いあうものがあるのだろう。「その前も/そのあとも」になると、もう完全に「始まりがなく/終わりもない」になる。「その前も/そのあとも」は「時間」の「前/あと」だけれど、それを空間に(道に)置き換えてみると、松木がいる「ここ」の「前」と「あと(後ろ)」に道があって、それはどっちが始まりともどっちが終点(?)ともわからず、ただつづいている。
 どっちでもいい。
 この感じが「持て余す」という動詞と重なる。
 これはいいなあ。
 何とはなしに「肉体」を感じる。この「感じ」を「肉体」が覚えていることを思い出す。
 何を持て余すのか。
 「感情」というよりも、感情にととのえられない(感情になりきれない)肉体を持て余すんだろうなあ。
 いま引用した部分にも「暗くなりはじめた」とか「小雨」とか「詩」を連想させることばが動いているけれど、それを「理不尽」「当然」ということばが洗い流し、あいまいな「その前/そのあと」ということばへゆらぎ、そのあとで「持て余す」があらわれると、ことばが消滅して「肉体」だけが取り残される。
 こういう抒情は好きだなあ。べたべたしていない。感情がないからべたべたできない。

窓から真夏の風に揺れる
一枚の赤いタオル
どうして
と問いかける

 つくり出されたものではない「偶然」がある。「無意味」がある。「もの」がある。そこには「理由(どうして)」を拒む詩がある。




ぼくはみじかいけれど手紙を書いた―松木俊治詩集
松木俊治
ふたば工房
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谷川俊太郎『こころ』(49)

2013-09-13 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(49)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「こころ」シリーズは毎月一回(たしか第一月曜日)に朝日新聞の夕刊に連載されたものだけれど、こうやって一冊になって読んでみると、ときどき毎月書いたというより、一回に何作かつづけて書いたのではと思うことがある。
 「ふたつの幸せ」と「一心」は「ふたつ」「一」と違うし、一方が「幸せ」なのに他方は苦悩のようなものを描いているから、まったく違うと言えるのだけれど。でも、その違うこと「ふたつ」と「一」、「幸せ」と「苦悩」の関係が「呼応」のように思える。一方を書いた瞬間、その奥からふっと沸き上がってくる「反論(?)」のようなものに見える。
 その「一心」。

生きのびるために
生きているのではない
死を避けるために
生きているのではない

そよ風の快さに和む心と
竜巻の禍々しさに怯える心は
別々の心ではない
同じひとつの私の心

 正反対とさえいえるものまで「ひとつ」のこころ。こころが、そんなふうにどこまでいっても「ひとつ」なら、「肉体」はどうなんだろう。
 たとえばきのう読んだ詩の「少女」と「老人」。彼らの「幸せなこころ」はひとつ。ひとつになっている。そうであるなら「肉体」は? 別々? 別々だとしたら、いったい「どこで」ひとつになっているのだろう。

 こんなことは、ややこしく考えない方がいいに決まっている。そよ風に和むこころと竜巻に怯えるこころが「ひとつ」になるところで「ひとつ」になっている。矛盾したものが、矛盾しているからこそ、それが「ひとつ」である場所があるのだ。
 で、どこ?

 「ありとある」ところ。「ありとある」時間。「ありとある」という無数が「ひとつ」。
 だから、最後に美しい哲学が。

死すべきからだのうちに
生き生きと生きる心がひそむ
悲喜こもごもの
生々流転の

 谷川にとって「生々流転」するのは「肉体」ではなく「こころ」。「ひとつ」のこころが、いくつもの時代、いくつもの「肉体」を流転する。流転することが「生きる」こと。「生きる」とき、そこが「ひとつ」の場所であり、時であり、肉体。

 あ、「意味」にならない「感想」を書きたいのに、どうしてもこんなことを書いてしまう。困ったなあ。


新装版 谷川俊太郎の問う言葉答える言葉
谷川俊太郎
イースト・プレス
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西岡寿美子『すゞれる』

2013-09-13 09:54:30 | 詩集
西岡寿美子『すゞれる』(高知新聞総合印刷、2013年09月26日発行)

 西岡寿美子『すゞれる』は「限界集落」と呼ばれる地区のひとびと、その暮らしを描いている。西岡の暮らしを描いている。その暮らしを描いているといっても、もうそこには暮らしはほとんどなく、立ち去ることしかできないのだが、そこにあったはずの暮らし、覚えていることを書いていると言った方がいいかもしれない。
 「二〇〇三リポート Ⅱ」は、 200年からみて四十年ほど前の、「その人」のことを書いている。その人は、畑を転用して田を「造り出す」。その作業を見ている。

それはほぼ次の手順だったと思う
畑土を総ざらえした跡へ
水漏れ留めの拵えとして
赤土(粘土)を運び入れて大きな皿型に叩き重ね
周囲に土手を積み
最後に畑土を戻し入れる

 この完結で正確な描写に西岡のたしかな視力がある。そして、その視力は単に見ているのではなく、見るときに西岡の「肉体」に働きかけている。肉体が覚えている。西岡の肉体が、田を造り出すという仕事を覚えているのだ。だから「手順」という。「手」という肉体を含んだことばがつかわれる。よく似たことばに「順序」があるが、「順序」と「手順」は違うのだ。「肉体」が覚えていることを「手順」と言うのである。
 ことばにしてしまうと、あまりにも短くて簡単に田圃ができそうだが、そうではない。これは大変な労働なのである。

わずか三十坪ばかりの一区画を
早朝から日没まで
照ろうが吹こうが雪が積もうが
農閑期の晩秋からのふた冬
昨日も今日も
寸毫も進むとも見えぬ位置に人形(ひとがた)のように張り付き
他を頼まず独力で掘り運び叩き捏ね均し
つまり三年がかりで小新田を造り出したのではなかったか

 西岡も三年かかって、その労働を自分の「肉体」のものにしたのだ。

まだ覚えている
石で詰め土に喰われ変形したあの人の黒紫色の指爪を

 自分の肉体の変化のように、西岡はしっかりと「その人」の肉体の変化を自分に刻み込む。「手順」を肉体に刻み込んだから、「手(指、爪)」の変化がそのまま肉体に乗り移る。その変化が刻み込まれるまでの時間と労働が、西岡の肉体のなかで覚えていることを思い出させる。
 その人の働くところをみたひとは、みな、覚えているに違いない。それは、自分にはできないことだからである。同じ「肉体」をもっていても、そういうことをできる人とできないひとがいる。そのことが、同時に、それぞれの「肉体」に刻印される。
 だから、あんなに土地持ちなのに、なぜ新田が必要か。一俵や二表にもならない。「物持ちほど欲持ちだ」というような陰口を聞かれたりもする。そういうことばが西岡の記憶に残るのは(覚えてしまうのは)、西岡にもそういう気持ちがどこかで動いたからかならなのだが……。
 だが、そういう妬みのようなものは、実際に肉体に刻み込まれた労働の跡にぶつかると無言になる。対抗できない。そういう肉体に驚き、そして肉体が共感する。そこまでやれる肉体というのは、ものすごい。自分をはるかに超えている。

口を引き結んで
見る側の肌が粟立つ重労働を止めはしなかった
欲心などと嘲笑う口を噤ませる恐ろしい執心
それ以上に痛ましいとも惨いとも
言うに言えない根を詰めた老体の精励で
あの人が造り出した新田に
初めて種籾が下ろされ
苗が薄青んだのを見てわたしの目には涙が噴いた

 肉体は精神の迷い、感情の乱れ、一種の妬みのようなものを、その人の労働と、それにこたえる新しい苗が吹き払っていく。何が起きたのか。

 畦を一寸でも広げるのが百姓魂であるなら
 この人は誤っていない

 西岡は「誤りのなさ」を見つけ出したのだ。ひとは「正しい」ことはなかなかできない。けれど「誤りのないこと」なら、自分の「肉体」を正しく動かしさえすればできるのである。「手順」を誤らないかぎり、何かがそれにこたえてくれる。
 自然も「肉体」でこたえてくれる。
 田圃をつくるには、土を掘り返し、粘土を入れて固めて、そのうえに土を戻す。粘土をまぜるだけではだめ。しっかり「皿」をつくって、それから土を戻す。それが「間違いのない」手順である。もっとほかに簡単な方法があるかもしれないが、それを探して実行するのではなく、「覚えている」間違いのないことを繰り返す。--それは、その積み重ねで、ひとは山を切り開き、土地を耕し、暮らしをしてきたひとの暮らしをそのまま引き継ぐことだ。引き継ぎながら育てることだ。
 このとき自然は同じ「手順」で造り替えられ(ととのえられ)、その「手順」のなかで生きる自然が甦る。人間にDNAがあるように、自然そのものにも何かいのちをうみだすDNAがあって、その自然のDNAが「その人」の「手順」に誘われるように、自然そのものの「手順」を思い出すようにして自然が自然の「肉体」になる。「自然の肉体」ができてくるのである。
 「人間の肉体」と「自然の肉体」が呼応し、それに「西岡のことばの肉体」がよりそうとき、そのことばはマニュアル(手順書)ではなく、
 詩
 になる。
 いやあ、美しい。

 「その人(あの人)」の労働には、春が来たら植物が芽吹く、そうしてまたいのちが繰り返されるという自然の、人間の力を圧倒する美しさ(自然の肉体の美しさ)と向き合う力がある。早苗のみどり。それを美しくするのは、「誤っていない」ことを繰り返すことができる力なのである。

わたしは
集落の棚田総数二百余枚
造田に要したであろう始祖と代々の祖たちの
背骨が歪むまでの労働で成った集落遺産の
金銭に換えられない厳かさを教えられた

 「厳か」。それは「誤っていない」ことのなかに必ずある。「誤らない」という意思の力、その意思がととのえる形のなかにある。それはかつての集落を支えていた。「自然」と「人間」が「肉体」としていっしょに育ってきた美しさが、そこにはあったのだ。

 それが、いま、日本各地で、否定されている。拒絶されている。「誤っていない」ことを繰り返すのではなく「誤っていないというだけではだめ」という感じで、ある暮らしが否定されてる。「厳か」とは無縁の「美」が席巻している。「肉体」とかけはなれた、「欲望の肉体」が「欲望の肉体」を刺戟しつづけることで疾走する美がのさばっている。
 これは、やはりおかしい。

 少し脱線するが。
 この夏、宮崎駿の「風たちぬ」という映画があった。宮崎駿が表現したかったのは、「ものづくり」の「厳かさ」というものであったかもしれない。ただし、それは実現されていなかった。「厳か」に、悲恋という「はかない美」を並列させたために、どっちつかずになってしまった。というよりも、「厳か」な力、その美を復活させないといけない危険な時代に、それを田を造り出すようにして造り出せず、横道にそれてしまったという「罪」が宮崎駿には残されたかもしれない。「手順」を描くことをおろそかにした結果である。「引退宣言」などしなくても、宮崎駿の「アニメーターの肉体」はそのとき滅んでいる。その事実を納得できない宮崎駿の「精神」が「引退宣言」という未練となって噴出したのである。「精神」が「肉体」を破って出てくるとき、それは「精神」の勝利ではなく、「肉体」が「精神」にそっぽを向いた反動にすぎない。
 宮崎駿がこの詩を読んだら、どう思うだろうか。

 「誤っていない」ということば似た表現が、この詩集ではもう一度出てくる。「水に送る」。「限界集落」を通り越して「廃集落」になった村。家の石臼を「あなた」は人に売らず、また人に盗まれることも避けるように、川辺に置くことで自然に返した。川べりで石臼をみたとき、西岡はそのことに気づき、次のように書く。

あなたの選んだこの上ない臼のあましどころと
生の日の心のありどころの相違(くるい)なさを

 「くるいなさ」。
 西岡は、「あやまっていない」「くるいがない」ということを、「肉体(思想)」の基底においている。「あやまっていない」「くるいがない」だけでは、つまらないか。ものたりないか。--だが、あやまらない、くるわない、という「肉体」は自足ができるのだ。自足から「厳か」が生まれてくる。
 西岡は「あやまった」ことばをつかわない。「くるいのある」ことばをつかわない。そうすることで「厳か」へ到達する。この「厳か」の前で、私に何ができるだろうか。
 余分なことは言わず、西岡が田を造り出したひとを見たと書いたように、ただ、「あやまったことはかかない」ということを守り通して西岡が書いた詩を読んだ、と書くだけでよかったのだろう。
 どの詩にも「正直」が動いている。ぜひ、読んでください。



 アマゾンにはまだ登録されていません。発行所の住所、電話番号は
 高知市葛島1-10-70
 088-882-5521
 西岡に直接注文したい人には、メールで住所をお知らせします。
 yachisyuso@gmail.com

 Facebookで詩を書いています。
 感想を聞かせてください。
 https://www.facebook.com/pages/象形文字編集室


土佐の手技師
西岡 寿美子
風濤社
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あなたはいて、

2013-09-13 09:48:52 | 
あなたはいて、

午前あなたはいて、
あなたがいなくなった午後、
屋上から見る街は
あなたと見たビルと
あなたなしで見るビルとに分割された。
あるいは分離していく。

秋の午後、あなたなしで街を見るとビルの影は直線だ。
あなたがいたとき見たビルが隠している道路が
あなたがいないときビルが隠している道路と直角に交わる。

あなたなしでビルを見るとあなたの連想が消えてビルがものになる。
ハイブリッドの車がメルセデスを追い抜いていく音がする。
十七歳のとき、ひとりで見た海を思い出す。
私は海を見るように遠い音を揺する街を見た。

私は待った。
私のなかにある海の連想が消えるのを。
私は待った。
あなたなしの街が太陽が傾くときに、
影と光に分かれて、形が色になってしまうのを。
それから動いていく。
引き潮のように。

私は否定する。
ことばが不適切に思い出にからみつくのを。
私は否定する。
あなたがいないことを。

あなたは行った。
私は待っている。
私の連想がすべて崩壊するのを。
崩壊しなければならないものを。




下のページで詩を書いています。
感想を聞かせてください。
https://www.facebook.com/pages/%E8%B1%A1%E5%BD%A2%E6%96%87%E5%AD%97%E7%B7%A8%E9%9B%86%E5%AE%A4/118161841615735
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谷川俊太郎『こころ』(48)

2013-09-12 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(48)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「ふたつの幸せ」は、谷川の詩の秘密を語っているかもしれない。

心のなかで何かが爆発したみたいに
いま幸せだ!って思う
理由なんて分かんない
ただ訳もなく突然幸せになる瞬間
晴れてても曇りでも雨でも雪でも
まわりは不幸せな人でいっぱい
私だって悩みがいっぱい
でもなんだろね ほんと
あっという間に消えるんだけど
その瞬間の喜びは忘れない
そんなことってない?

老人は微笑んで少女を見つめる
爆発とはほど遠いが
いまの穏やかな幸せに包まれて

 「ふたつの幸せ」とは少女の幸せと老人の幸せのことだろう。しかし「ふたつ」と書いているけれど、私には「ひとつ」に見える。別々に感じられない。
 で、谷川の詩の秘密--というとおおげさだけれど。
 「他人の幸せ」を「自分の幸せ」として受け止める力。他人と「ひとつ」になる力だと思う。その「他人」というものを、そして、谷川は選ばない。
 この詩の場合、谷川を「老人」と仮定すれば、老人は「少女」の幸せと一体になっている。この無秩序(?)といってもかまわないような区別のなさ--それが「ありとある」につながるのだと思うけれど、その力がすごい。
 無秩序(制限がない)から、少女もそのまま老人に近づいてくる、とも言えるね。

 そして、この詩は、またその「ふたつ」の幸せ、少女と老人の幸せを見ている谷川の幸せを描いているという具合にも読むことができる。谷川は「老人」ではなく、ふたりから離れたところにいる。離れたところにいるんだけれど、ふたりと一体になっている。
 そう考えると、あるいは少女こそが谷川かもしれない。
 谷川が老人に向かって「理由なんて分かんない」幸せを語っている。そのとき谷川は「少女」になっている。
 たぶん、これが、つまり谷川=少女が、詩の本質かもしれない。少女になる、なれる、という幸せ。少女になって谷川が動く幸せ。
 それをそのまま書くのが気恥ずかしい。だから老人を登場させた、とも読むことができる。
 でも、どんなふうに書いても「幸せ」というのは、結局「ひとつ」。だから、あえて「ふたつ」書いたのかもしれない。

女に
谷川 俊太郎
集英社
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井口幻太郎『奇妙な商売』

2013-09-12 09:28:36 | 詩集
井口幻太郎『奇妙な商売』(摩耶出版社、2013年08月28日発行)

 井口幻太郎『奇妙な商売』は四つの作品群にわかれている。詩集のタイトルになっている「奇妙な商売」は日常から少しはみだした感じのことを書いているが、それがいやな感じがないのは日常を見る視線が落ち着いているからだろう。
 「訪れ」という作品。

朝の硝子窓いっぱいに
芙蓉の影が映っている
子どもの頃見た影絵のよう

澄んだ光がさわさわとその葉を揺する
薄いレースのカーテンを開けると
机の上の開いた書物の顔を撫で
子どものように戯れる

 いま、ここにある美しさを、ことばでていねいにととのえる。そういう「生き方(思想/思想)」がつたわってくる。
 ここから、幸せを引き出す。

自家には応接室がない
棟割長屋で狭いからというだけでなく
元より襟をただす正客もない

玄関から来るものはなくても
夜遅く やっと路地にたどり着き
疲れた手で狭い書斎の戸開けると
カーテンの隙間を洩れた月の光が
僕のたった一つの癒しの椅子に
座っていたりする
遥々と来て

 「遥々と来た」のは月の光だけではなく、その部屋にたどりついた井口そのものかもしれない。自分が遥々と来たから、相手も遥々と来たと感じるのである。井口自身がどこから遥々と来たかは、月の光のように簡単に「距離」であらわすことはできないのだけれど、簡単に言えないからこそ、月の光に「遥々と」を語らせる。そして、それを受け止めるのだろう。
 あえていえば、その「遥々と」は、その連の直前の3行にある。「応接室」がない。「正客」がいない。それでも「書斎」がある。本を読み、ことばを読み、井口自身のことばをととのえるという生き方。これは「他人」には見えない。井口自身にも、そのととのえ方がはっきり見えるわけではない。地球と月までの「距離」がはっきりわらかない。遠いとしかわからないのと同じだ。だけれど、月の光をみればまっすぐかどうかはわかる。そういう感じ。

 なかなか見えにくい「まっすぐ」なのだけれど、「名前」には、そのまっすぐがすっきりとあらわれたことばがある。
 なかなか息子の名前が出てこなくなった母親のことを書いたあと、兄の飼う犬のことが書いてある。痴呆症になって、名前を呼んでも反応しなくなっている。

雑種だけれど
毎晩必ず玄関に出て
一キロばかり先の交差点を車で左折する
兄の帰宅を知らせたこと
畑に現われた猪と格闘し
傷だらけになりながら
明け方 終に撃退した勇姿

僕はいつまでも
覚えているから

 最後の2行が美しい。覚えていて、そしてことばにする。そうすると、そこにいちばん生き生きとした犬があらわれる。
 この視点を、井口のまわりにいる人にそそいだのが「奇妙な商売」の詩群である。兄の犬と同じように、と書くと語弊があるかもしれないけれど、ひとはみな、自分の領分を守って生きている。領分はそれぞれに違うから、その違いが「奇妙」に見えるかもしれないが、そこには本人にしかわからない「正直」がある。
 その正直に井口は、

僕はいつまでも
覚えているから

 と寄り添うのである。


詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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谷川俊太郎『こころ』(47)

2013-09-11 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(47)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「私の昔」は「自画像」のつづき。--であるかどうかは、まあ、わからない。私が「自画像」のつづきとして読んでしまうということ。「自画像」というのは、「いま/ここ」にあらわれた「過去(昔)」のこと。昔があって、いまがある。
 でも、谷川は、そんなふうに簡単に「時間」を「いま-昔」ととらえない。「自画像」を見ようとすると、「自画像」なんだろうけれど、「顔」ではないものが見えてくる。「時間」というものが。「時間」をどう考えるか--という「哲学」がいっしょに動いていることに気がつく。「ちんこい目」「シミ」ではないものが見えてくる。

私の昔はいつなんだろう
去年がまるで昨日のようで
子ども時代もまだ生々しくて
生まれた日から今日までが
ちっとも歴史になってくれない

 うーん。「昔」とはいつか、たしかにわからないね。きのうも去年も子ども時代も、「思い出す」という動詞のなかでは「距離」の違いがない。「時間」は一直線の線状に1分とか1時間とか1年とか--時計や暦のようにはならんでいない。
 それはいいんだけれど。それはわかるんだけれど。

ちっとも歴史になってくれない

 あ、ここで「歴史」ということばが動くのか。私は「歴史」というものを自分が生まれる前のこと、と思い込んでいるので、びっくりしてしまう。
 谷川にとって「未来-現在-過去」という線状の時間の配列が「歴史」。その時間の区分が時計で測れるとおりになっているというのが「歴史」なんだね。
 ちょっとびっくりする。
 この「歴史」の対極にあるのが「昔」ということになる。

還暦古希から喜寿傘寿
すぎればめでたい二度童子
時間は心で伸びて縮んで
暦とは似ても似つかない

 「時間」には2種類ある。「歴史/暦」のように、計測され配列された時間。時計がいっしょにある。もうひとつは「心」が引き寄せたり遠ざけたりする時間。自在に伸び縮みする。これは「心の時間」、「心」が「時間」なのだ。時計ではなく。

 ここに書かれているのは「時間に対する哲学」というの名の「自画像」。
 その最後は、やっぱり谷川にしか書けない不思議な飛躍を含んでいる。

私の昔はいつなんだろう
誕生以前を遡り
ビッグバンまで伸びているか

 「私の昔」は「私が誕生してから」としか私は考えたことがないが、谷川はそういう「流通概念(流通哲学?)」を簡単にたたき壊す。谷川が生まれる前も含めて「昔」。なぜなら、生まれる前のことも「心」は思い描くことができるからね。
 で、どこまで「心」は思い描けるか。引き寄せることができるか。いいかえると、どこまで行ってしまえるか。

ビッグバンまで

 「ビッグバン」は宇宙のはじまり。谷川のすぐそばにはいつでも「宇宙」がある。それも見上げる宇宙、観測する宇宙ではない。いっしょに生きている宇宙。
 宇宙ということばをつかうとき、谷川は宇宙を思い描いているのではなく、宇宙に「なっている」。谷川はいつでも「宇宙」に「なる」詩人なのだ。「宇宙」とは「ありとある」生き物の動く世界である。
地球へのピクニック (ジュニアポエムシリーズ 14)
谷川俊太郎
銀の鈴社
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峯澤典子『ひかりの途上で』

2013-09-11 10:53:13 | 詩集
峯澤典子『ひかりの途上で』(七月堂、2013年08月20日発行)

 峯澤典子『ひかりの途上で』は、ことばがていねいに動く。たとえば「初冬」。

寝台そばの
枯れかけた野菊を
わたしの…、と呼ぶと
花はもうそこにはいなかった
わたしの、と告げたのも
もはやわたしではなく 薄い霧の声
窓の外では
刈り残された花首が耐えられる分だけ
風が冷たくなっていた
けれど野には まだ何も訪れてはいない

 ここに何が書いてあるか。ここだけでは、わからない。そして、ここだけではわからなということは、実は前後を読んでもわからないということである。わからなくてもストーリーはつくれるから(ストーリーを捏造してそれなりになっとくできるから)、わかろうがわかるまいが関係はない--と書くと峯澤のことばに対して失礼かもしれないけれど……。
 けれど、ことばというのはストーリーに従属するものではないから、ストーリーはわきにおいておいていい。「意味」はあとから形になるまでうっちゃっておけばいい。
 ストーリーはわからないが、それでも「花(野菊)」と「わたし」のことばにならなかった何かがそこにあることがわかる。「…」としか書くことのできなかったもの(こと)がそこにあり、その「…」のなかにあるものに近づいていく感じはわかる。ことばが、その「…」を大事に追っている。
 そういう「ていねい」な動きと、その果てに、我慢できなくなってあらわれる「花首」という強いことば。「…」は「花首」そのものではないが、「花首」につながる何かなのだ。意識がそれをつないでいる--と書いてしまうと、都合のいい解説になるのだが、私は「意識」といわずに、「ことばの肉体」(ことば自身の運動)と呼んでいる。ことばのなかにはことばの肉体があり、それがていねいに動くことで作者(峯澤)を乗り越えて(峯澤からはみだして)、瞬間的に遠くにあることばをつかんでしまう。これをインスピレーションと呼ぶこともできるのだけれど、そういう瞬間に、詩がある。
「…」から「花首」に、ことばが変わる瞬間--それは峯澤には制御できないなにごとかである。だから、それを私は詩と呼び、「ことばの肉体」に還元して、つかみとりたいと思う。

 「袋」という作品はストーリーとことばのていねいさがとてもしっかりかみあった、わかりやすい作品である。ある外国の学生寮。そこでは学生たちが窓の外にビニール袋をぶら下げている。

部屋まで案内してくれた学生が言った
各階の共用の台所には冷蔵庫もあるが
バターやミルクなどは 密かに誰かにつかわれやすい
だから 共用を避けるひとは
ああやって自分の窓の外に下げ
冷たい空気に当てておくのだと

 そういう「習慣」を聞いたあと、峯澤は駅の売店でかった水やオレンジを袋から出すと、

からの袋を
外の格子に結びつけると
たやすく風になびいた

それから
マットレスがむき出しになったベッドのうえに
荷物をひとつひとつ解いていった
窓の外の
誰とも共有していないこころが
どこかに飛んでゆこうとする音を聞きながら

 その土地の「習慣」をていねいにことばでととのえ直しながら動くことば。そのことばが、最後に「共用」から「共有」に変わる。そしてそのとき「バターやミルク」といった「もの」は「こころ」に変わっている。
 「もの」と「こころ」が不思議な具合にすれ違い、まじりあう。
 その瞬間の、「ことばの肉体」の不思議な力。
 これはことばを乱暴に動かすときには生まれない力である。しずかに、ゆっくり、「ことばの肉体」の内部の筋肉や骨や神経を解放しながら動かすとき、ふいにその奥から肉体の外まで噴出してくる力である。
 「誰とも共有していない心」「どこかに飛んでゆこうとしている」ということばは、哀しみとセンチメンタルを誘うけれど(抒情を誘うけれど--そして、それは抒情でもいいのだろうけれど)、そういうストーリーに逃げ込まずに、「共用」「共有」ということばのなかで動く連絡にことばのすべてをあずけてみると、
 うーん、
 峯澤の「肉体」に触れたような気持ちになる。
 私のものではない「肉体」がそこにある、と気づき、どきどきするのである。

 「運ばれた花」は花屋の店先で見かけた薔薇を次のように描写する。

器から大きくこぼれ
手折られた苦しみの形を
乱暴に 解いてくれる風を待っていた

 このことばの動きが、公園で見かけた男の姿と重なる。そのまま公園で見かけた男を描写することばの運動になっていく。「ことばの肉体」はひとつだから、どうしても同じように動くしかないのである。マラソンランナーはいつでもマラソンランナーとして走るのであって、突然走り高跳びの助走のようにしては走らない。そんな具合に「肉体」は動かない。
 で、

少し波打った白髪まじりの髪と痩せた首筋
湿った長い手足を
雨上がりの匂いにさらし
手折られた姿で 風を聞いていた

 「手折られた」と「風」はそのまま繰り返される。反芻される。そのとき、もちろんことばはそっくりに見えて、ほんとうは微妙に違っているのだけど。
 違っているからこそ、ことばは、その違いを感じながら、次のように変化する。

視線を合わせるのも そらすのも
こうして花に姿を重ねるのも、不遜、と知りながら
目はなぜ瞬時に識別するのか
底に満ちる孤独を
底が深ければ深いほど
見つめたあとは すべもなく離れるしかないというのに

 「孤独」。この使い古された「詩語」が、しっかりした肉体であらわれてくる。センチメンタルな抒情(既製の、流通抒情)をおしのけて、静かにたたずむ。
 これはすべて、峯澤のことばが「ていねい」に動くからである。「ていねい」な動きの力である。




詩集 水版画
峯澤 典子
ふらんす堂
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谷川俊太郎『こころ』(46)

2013-09-10 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎『こころ』(46)(朝日新聞出版、2013年06月30日発行)

 「シミ」という作品も「自画像」である--と書いてしまうと、谷川俊太郎の「罠」にはまってしまうかもしれない。谷川は、そのつど自分ではないだれかに「なる」。だから、どんなに谷川らしく書かれていても、それは「自画像」ではない。
 むしろ、それは読者の「自画像」である。そこで読者は自分自身の「こころ」をととのえている。

妬みと怒りで汚れた心を
哀しみが洗ってくれたが
シミは残った
洗っても洗っても
落ちないシミ
今度はそのシミに腹を立てる

 ほら、思いあたるでしょ?
 「思いあたる」ことを思い出しながら、おぼえていることを思い出しながら、そのとき、私たちは自分が自分になったのか、それとも谷川になったのかわからない。区別がつかなくなる。
 「なる」ということのなかで重なってしまう。
 で、このままでは、なんだか落ち着かない。
 自分であることはちょっと面倒くさい。自分ではなくなりたい。自分ではできないことを、谷川のことばを借りて、やってしまいたい。つまり、ほんとうに谷川になってしまいたい。谷川が谷川をことばでととのえるように、自分もととのえられたい。
 大丈夫、谷川は最後まできちんと私たちを導いてくれる。ことばをきちんと動かして、知らなかったところへ連れて行ってくれる。あ、こんな道があったのか、こんなととのえ方があったのかと誘ってくれる。

真っ白な心なんてつまらない
シミのない心なんて信用できない
と思うのは負け惜しみじゃない
できればシミもこみで
キラキラしたいのだ
(万華鏡のように?)

 突然の「キラキラ」と「万華鏡」。それは、すぐには何のことかわからない。いや、わかるけれど、自分のことばで言いなおすことができない。谷川が見せてくれた「キラキラ」と「万華鏡」を見つめるだけである。そうか、これが「キラキラ」か。これが「万華鏡か」という感じ。
 で、この不思議な誘いが誘いとして成立(?)するためには、それまでのことばは、「ありとある生き物」の「自画像」でなくてはならない。普遍--というより、平凡と言っていいかもしれない。そういうことばをとおって(おぼえていることばを思い出して)、それから突然、ふっと飛躍する。

キラキラ
万華鏡

 それは、それまでの「シミ」につながる「意味」からふっきれている。無意味の「キラキラ」「万華鏡」という「もの/こと」。
 そこで見るのは「過去の自画像」ではなく、「未来の自画像」でもなく、まだ生まれていない「自画像」である。まだ「生まれていない」から、だれもが谷川といっしょに「生まれる」ことができる。

クレーの絵本
パウル・クレー,谷川 俊太郎
講談社
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ロバート・ワイズ監督「ウエストサイド物語」(★★★★★)

2013-09-10 15:38:09 | 午前十時の映画祭
監督 ロバート・ワイズ 出演 ナタリー・ウッド、リチャード・ベイマー、ジョージ・チャキリス、リタ・モレノ

 この映画を見るのは何度目だろう。はっきりしない。以前に見ているから、とぼんやり見ていたら、思いがけないことが起きた。
 「クラプキ巡査」がすごく早い段階で歌われ、「クール」曲がいつまでたっても始まらない。あれっ、この映画は短縮版? そう思っていたら、決闘でシャーク団とジェット団のリーダーが死んだ後に「クール」が始まった。えっ、「クール」ってここだっけ? 「クラプキ巡査」と入れ違っていない? 別バージョンの映画?
 でも、そんなことないよなあ。「クラプキ巡査」が決闘のあとだったら、ジェット団のリーダーが歌えるはずがないから。うーん、でもなぜそんな記憶違いが起きたのかなあ。
 記憶と言うか、脳みそと言うものは自分の都合のいいようにものごとを処理するからなあ。
 唯一思い当たるのは、「クール」は決闘の後に歌うにしては、あまりにもストーリーにぴったりしていて物足りない感じがするということかなあ。もっと小さないざこざのとき「クール」、大事件のあとは事件から飛躍した(無関係に近い?)「クラプキ巡査」の方が劇的に迫ってくると思うのだが、どうだろう。「クラプキ巡査」の明るい感じが、決闘の後、流血の後の方が、未熟な人間の暴力をあらわすようで、おもしろいと思うのだが。また、バーブラ・ストライザンドがどこかで「クラプキ巡査」を歌っていて、これが私は「ウエストサイド」では一番好きなのだが、そういうこともクライマックス(?)でこの曲を聴きたいという気持ちを生み、そのために私がかってに曲順をかえてしまったのかなあ。

 それは別にして。
 やっぱりいいねえ。ニューヨークは巨大な都市だが、その大きさが青春の「重荷」になっていない。巨大を吹き飛ばす若さ、肉体の躍動がある。ビルの高さよりもよりもジョージ・チャキリスの振り上げたつま先のほうが空に近いという感じ。ビルは動かないけれど、人間は動くことで限界を超える。いまのダンスから比較すると洗練の度合いが低いかもしれないが、そのぶん、はみ出すエネルギーがある。筋肉の力を感じる。ナタリー・ウッドもリタ・モレノも丸々とはいわないけれど、健康な「太さ」がある。ナタリー・ウッドがターンするときスカートがふわりと浮き上がり、肉付きのいいももがスクリーンにあふれるなんて、うーん、いい時代だったなあ。いまはもっと露骨に肉体があらわれるけれど、最初から見せるためのものだからねえ・・・。

ウエスト・サイド物語 (コレクターズ・エディション) [DVD]
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20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
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白井知子「雌型(めがた)」

2013-09-10 10:01:28 | 詩集
白井知子「雌型(めがた)」(「幻竜」18、2013年09月20日発行)

 白井知子「雌型(めがた)」を読みはじめるとき「雌型」がわからなかった。雌のタイプ? 女のタイプ? 読みはじめると白井が(と、私は私小説ふうについつい読む)母親を介護している。母親が昔住んでいた家のことを思い出している。

一匹ずつ連なったブニシジミ蝶が幻夢をよぎり 門から 過ぎた年月の奥行きへと遁れていく

 という魅力的な行もあるのだけれど……介護というのは似ていて、個性的なことはあまり起こらない。で、私は、そういうのは詩とは違うなあと思うのだ。たとえ同じことであっても、それまで動かなかったことばが動かないことには詩ではないと思うのだ。などと、生半可なことを考えていると、後半、びっくりする。
 介護していたはずの白井がふいに消えて、母と娘の血のつながりが突然噴出してくる。血のつながり--と私は簡単に書いたが、これは間違いであって、私は「逃げている」のである。とりあえず血のつながりと書いて、驚いた自分をととのえている。
 つながり、というのは、私には実は見えない。
 血が噴出していて、その血が見分けがつかない。どれが母親? どれが白井? 混じりあうのでもない。「ひとつ」なのだ。そういうことを、私は感じ、そういうことをもっと論理的に(?)書いてみたいと思うけれど、
 うーん、
 ただ詩を、白井のことばを読めばいいか。転写するだけでいいか。

二人の間 とうに約束はできていた
そのときがきたら デスマスクができるまで見とどけること
あなたの顔面に
わたしの表情を石膏液とし
縛られるように 押さえつけ 型をとる
雌型となったわたしの顔が固まってきたら すぐ離れる
あなたの肉体に棲みついてきた膨大な血族の先端である 硬直をはじめたあなたの顔を
いまいちど 思い切り伏せさせる
ながれやまぬ涙がカリ石けんのように塗り込まれていく雌型に--
型を外す段になったら
激痛がはしるだろう
わたしの皮膚に罅が入り 奇妙な割れ方をするかもしれない
きれいに分たれることもあるだろう
いずれにしても わたしの素顔は 娘の罰として
永遠に欠落することになる

 「雌型」はデスマスクをつくるための石膏の型。--ようやく、私は中学生のとき、レリーフをつくったときの手順を思い出して、あ、あれが雌型だったかと気づくのだが、そんな思い出をたたき壊して、雌型とデスマスクの「激闘」が始まっている。感情の激闘。母と娘が互いをみつめる決闘。
 男の私にはちょっと思いつかない。私はたしかに母から生まれた。もちろん、おぼえていないけれど、そういうことになっている。--と、「頭」で考える。納得している。でも、女は違うのだと知らされる。
 あらゆる瞬間に、母と娘は「ひとつ」なのだ。この「ひとつ」が実感できないから、私は「血がつながっている」(血でつながっている)と簡単に書いてしまう。そういうとこは医学的、科学的に「証明」できる、頭で整理して受け入れることができるからだ。
 でも、女にとって、それは「血がつながっている」というものではなくて、「肉体」そのものが食い入るように張りついている、ということなのだ。分離できない。引き剥がせば、もうそれは「顔」ではなく、血が滲む皮下脂肪であり、なまなましい筋肉であり、骨であり、引き剥がした部分にたとえば指が触れれば、指は突然あらわれた「肉体」の粘着力にからみとられて、世界が反転するような感じになる。むき出しに触れたのではなく、むき出しが指をつつむように飲み込んで「肉体」全体になる。
                        
 母が死んだら、娘は欠落する--というのは抽象的な「関係」を言っているのではない。母がいるから娘という呼称が成り立つというような「文法」の定義を言っているのではない。呼称の問題なら、別の呼称を考えればいいだけである。
 そうではなくて、母が死んだら、白井のなかに母が新しく生まれるのである。白井は母から生まれたが、母が死んだら白井が母を妊娠するのである。それはおそろしいことに、けっして出産できない胎児なのだ。その胎児は白井の内部から、白井を食い破るようにして表情にまで育ってきて、その表情の皮膚さえも破り捨てて顔をあらわすのだ。
 それがわかっていても、白井は、「雌型」になる。
 「雌型」になりながら、「雌型」とはどういうことかを実感する。母はまた白井の「雌型」だったのだから。母という「雌型」を引き剥がして白井は誕生したのだから。母もきっと娘が「独立」して育ちはじめたとは実感していないのである。娘が成長するたびに「雌型」である自分(母)の肉体を内側からたたき割っているということを肉体で感じている。娘は娘ではなく、母そのもの、母が「おぼえている」女そのものなのである。凶暴なのである。凶暴な破壊だけが愛なのである。

 ここには、私のことばでは手に負えない「必然」がある。こんな「必然」があることを、私の「肉体」は「おぼえていない」。
 「おぼえていない」のに、どきどきするような感じで、それに突き動かされる。「知らない」と言い切ることができない。読んだ瞬間に、読んだことが「肉体」のなかに入り込み、「おぼえる」にかわるのだ。読んだときから「おぼえている」がことばと同時進行で動く。--圧倒される、とはこういう感覚である。で、その絶対的な恐怖のようなものを忘れるために「凶暴な破壊だけが愛なのである」というようなデタラメをことばにしてごまかしてしまうのである。ことばに逃げてしまうのである。

 この詩は、私にとっては「大事件」である。


地に宿る
白井 知子
思潮社
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谷川俊太郎『こころ』(45)

2013-09-09 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
 「鏡」は谷川俊太郎の「自画像」。誕生日に書いたもののよう。

なるほどこれが「私」という奴か
ちんこい目が二つありふれた耳が二つ
鼻と口とが一つずつ
中身はさっぱり見えないが
たぶんしっちゃかめっちゃかだろう
とまれまた一つ歳を重ねて
おめでとうと言っておく

 そうか、「ちんこい目」か。私は二度谷川に会ったことがある。会いに行った。たしかに目は小さい。しかし、私には小さいよりも、丸い、という印象が強い。まん丸い。だから「ちんこい」か……。
 耳、鼻、口に「特徴」は書いていない。谷川自身、目が他の人と違っていると感じているのだろうか。
 でも、そういう外見のことを書きたかったわけではないね。この詩は。
 その書きたいことは後回しにして。

 なぜ、人間は自画像を書くとき「目」にこだわるのだろうか。(ゴッホのように耳にこだわった画家もいるけれど。)4行目に「見えない」ということば、目につながる動詞が出てくるのも、興味深い。
 人間の思考の「定型」が、そのまま自然に谷川のなかにある、ということだろうか。

 で、その「定型」は、谷川の場合、次のような変奏をともなう。

お日様は今日も上って
富士山もちゃんとそびえているから
私も平気で生きていく
もちろんあなたといっしょに
ありとある生き物といっしょに

 最初の2行は、日本人の「定型」かな。「あなたといっしょに」というのは、祈りのようだ。幸福は自分ひとりではありえない。「あなた」がいてこそ。
 ここまでは、「定型」だと思う。
 でも、最後の1行は違う。
 「ありとある」が、何気なく書かれているけれど、谷川にしか書けない。谷川のキーワードだ。
 谷川は、この詩集のなかで少女になったり、女になったりしている。それは、しかし、単に文法の問題ではないのだと思う。「主語」を少女にしたり、女にしたりして書いているのではなく、少女になったり女になったりしている。歳をとった谷川ではなく、別の人間になって書いている。「ありとある」人間に谷川は「なる」。
 そんなことは書いていない。谷川は「いっしょに」と書いているだけである。だから谷川は「少女といっしょに」「女といっしょに」書いている、といった方がいい--という見方(読み方)があると思う。たしかに、そうとらえた方が、いいのかもしれないが。
 でも、その「いっしょに」というとき、谷川には「自他の区別」というものがない。そもそも谷川は何かを区別するという意識がないのかもしれない、と私は思っている。「ありとある」ものが谷川である。谷川は「ありとある」ものであり、「ありとある」ことである。区別がない。
 これが、もしかすると谷川のことばが平気で「定型」を動く理由かもしれない。「定型」を平気で書いてしまう理由かもしれない。
 「ちんこい目」と谷川は書いている。たしかに谷川の目は小さいとは思うけれど、その小ささは、かといって特別なものではない。人間の顔として不自然ではない。区別していうほどのものではない。区別など、ないのだ。「ありとある」目は、見るときに働く。見るということをするのが目であるという点では「ありとあるもの」が同じである。少女も女も、きっと動物も「ありとある」ものが谷川と同じように目をつかって生きている。目をつかって何かをつかみとるとき、谷川は谷川ではなく、「ありとある」ものになる。
 そのとき「定型」は「原型」になる。何の「原型」か。「生き物」の「生きる」の「原型」であると思う。
 「ありとある」という表現に戻ってみるべきかもしれない。谷川は「ありとあらゆる(すべての)」ではなく「ありとある」と書いている。その「ある」とは「生る(ある)」である。「生き物」とは「生きている物(もの)」というよりも「生まれてくるもの」、この世に「あらわれる」ものである。それは英語で言えばbe動詞のbeである。
 さっき私は、谷川は少女や女に「なる」と書いたけれど。
 「なる」と「ある」は、どこかで同じものである。だからハムレットの有名な台詞は、

なすべきかなさざるべきか、それが問題だ
生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ

 という具合に、同じ「be」がまるで違ったことばのように訳されもする。「なる」と「なす」は違うという指摘があるかもしれないが、「なした」結果が「なる」(なった)である。「なる」「ある」「生きる」が谷川の肉体のなかでは区別がない。それは、あるときは「なる」、あるときは「ある」、そしてあるときは「生きる」という具合にことばをかえてあらわれるが同じものである。
 「ある」と谷川が感じているもの、それはすべて谷川の「自画像」である。
 「ちんこい目」というのは、他人が見つめたときに見える谷川のひとつの形にすぎない。そうわかっているから、谷川は平気で「定型」を書くのだ。
 「ありとある」詩があつまったときにだけ、谷川の「自画像」があらわれる。








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詩人アリス「夜の国のアリス」

2013-09-09 10:10:10 | 詩(雑誌・同人誌)
詩人アリス「夜の国のアリス」(「ココア共和国」13、2013年08月01日)

 詩とは何か。かけ離れたものの出会い。秋亜綺羅なら、そこに「偶然」ということばを入れる。私はしつこい人間なので、かけ離れたものの出会い(接続)に、日常との切り離し(切断)をつけくわえる。詩には接続と切断が同時に起きている。
 で、たとえば手術台の上のこうもり傘とミシンはかけ離れたものの、突然の、そして偶然の出会いだけれど、それが出会うときこうもり傘もミシンも日常から切断されている。これは「こと」をどうとらえるかという視点の違いの問題のようだけれど。それだけにすぎないようだけれど。
 それでも私がわざわざ「切断」ということをことばにしたのは、「接続」に出会ったとき、人は「切断」をあまり意識しない。接続にひっぱられてしまう。だから詩の定義も「かけ離れたものの出会い」となってしまう。「接続していたものの切断」とはいわない。「切断」は一般的に「笑い」と言われる。警官がバナナに滑って転ぶとだれもが笑う。それは「権力」をもった人間がバナナで滑ってころぶとき、その権力が無意味に切断されているからである。ところが警官が銀行強盗に射殺されたときだれも笑わない。権力はそのとき死んで、ひとりの警官から切断されてしまうのだが、だれも笑わない。そういう切断もある。
 あ、かなり余分なことを書いてしまったが……。

 詩人アリス「夜の国のアリス」を読んでいて、「接続と切断」ということを書いてみたくなったのだ。

そこには銀白色の結晶が日曜の午後の少年の背中に流れる森の生き物の気配が漂う
海水は混濁して到達する前の巨大な飛行昆虫が水蒸気に放出する
黄昏時に濡れた翼の少年はアモルファスの風花を食べて内分泌器官を欠落する
こうして声を失った少年は神殿の終わりに第三の太陽を破壊させる神風となった

 1行目にはいろいろなことばが「接続」されている。助詞が何でもつないでしまう。「銀白色の結晶」は汗だろうか、汗が乾いてできた塩の比喩だろうか。それが「日曜」を引き寄せ、「午後」を引き寄せ、「背中」を引き寄せる。この運動は、透明な、一種のメルヘンの「接続」である。このときことばは「ことば」を引き寄せているだけではなく、「メルヘン」をひそかに引き寄せている。だんだん濃密になってきて、ちょっと息苦しくなるくらいである。このとき「切断」されているのは、「メルヘン」から遠い「日常」である、と書いてしまうと、ぜんぜんおもしろくないね。あたりまえすぎて。
 私が書きたいのは(指摘したいのは)次の行。その最後の方。

飛行昆虫が水蒸気に放出する

 この強引な文体。「水蒸気を放出する」という言い方はあっても「水蒸気に放出する」という表現はない。あえていえば「水蒸気になって放出される」が可能である。

 水蒸気に放出する
 水蒸気を放出する
 水蒸気になって放出される

 この違いは? ことばを「助詞」を基本に動かすか。あるいは「動詞」を基本に動かすか--というか、助詞を中心にしてことばを取り込むか、動詞を基本にしてことばを意味に変えるか、ということが無意識的に要求されている。
 読者は、助詞か動詞かをいったん捨て去って、詩人アリスのことばと向き合うことを要求されている。「接続」の方に目が向いてしまうが、ほんとうに求められているのは「流通文法」からの離脱(切断)である。
 3行目の最後の「内分泌器官を欠落する」も同じである。「内分泌器官を欠落させられる(内分泌器官が機能しなくなる、くらいの意味か)」か「内分泌器官が欠落する」か。前者の「内分泌器官を欠落させられる」は「内分泌器官が欠落させられる」ともいう。(水「が」のみたい。水「を」のみたい、の違いのようなものである。九州では、水「を」のみたいとしかいわないみたいだが……。)
 この文法の「切断」は強引な「接続」をともなっているので、文法をことばの「肉体」と考えたとき、その「切断/接続」は「脱臼」のように感じられる。「脱臼」して肉体の動きがぎくしゃくする。そのとき「肉体」はそこが「痛い」はずなのだが、生身の肉体と違ってことばの「肉体」の「脱臼」はなんだかくすぐったいところがある。「笑い」に通じるなるかがある。心底おかしいのではなく、肌の表面に引き起こされる違和感、肉体の反応(生理の反応)としての「笑い」。

 こういう「生理の反応(切断と接続)」を軽く感じさせるために何が必要か。
 あらゆることばが明晰であること、だれもが聞いてわかること、軽いこと、が必要である。知らないことばが切断と接続にまじってくると、それが切断であり、同時に接続であるということがわからない。「ことば」そのものの「意味」につまずいてしまう。意識そのものがことばから「切断」されて、どこかで調べ物をしてこないといけなくなる。
 詩人アリスは、こういう処理の仕方において、秋亜綺羅に非常に似ている。だれもが知っていることば(名詞、動詞)しかつかわない。だれもが「おぼえている」ことばしかつかわない。「おぼえている」ことばを動かすから、「おぼえている」文法が切断され、強引に接続されたと感じるのである。
 私たちの意識は、名詞、動詞に向かいやすい。「助詞(てにをは)」は無意識に動いている。その無意識を詩人アリスは「脱臼」させる。あえて言えば「切断」させる。
 「切断」や「脱臼」は痛みをともなう。だから一般的にはそういうことをしない。けれども詩人アリスは、その痛みを自身で引き受けて「脱臼」の新鮮をつかみ取っている。そのつかみ方が、スピーディであり、軽快だから、それが楽しい詩になる。




季刊 ココア共和国vol.13
秋 亜綺羅,谷内 修三,小林 坩堝,高橋 玖未子,海東 セラ,葉山 美玖,金子 鉄夫,詩人アリス
あきは書館
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