ゲルトルート・コルマル『沈黙するものたちのことば』(藤倉孚子訳)(書肆半日閑、2013年11月01日発行)
ゲルトルート・コルマルは1894年ベルリン生まれのユダヤ人。1943年02月13日にアウシュビッツに移送され、その日に死亡したという。私ははじめて読む。はじめて読む人の、はじめての作品はとても印象的である。まったく新しい人、見知らぬ人が目の前にあらわれてくる。
「哀歌」という作品から、私はゲルトルート・コルマルに出会う。
少年のカールした髪をまさぐりたかった。
生まれなかった少年。
私の菫のように青く花咲き、
私の鷲のように飛べずに遠い。
まったく知らない人なのに、会ったことがあるような、見たことがあるような気がする。それは1行目に「髪をまさぐる」というしぐさが出てくるからだ。理由もなく、ただこどもの髪に触る。さわりながら指を動かす。髪に触っているのか、髪に触られているのか。あいまいな感じのなかで、少年と母親の「肉体」がひとつになる。
「肉体」の触れ合いが生み出す「安心感」のようなものがそこにある。それは、私は「母」ではないし、「女」でもないのだが、わかる「何か」である。その「わかる」何かがあるから、会ったような気がする。そして、実際、そういう「動詞(まさぐる)」をとおして、私はゲルトルート・コルマルに触れている。
これが少しずつ変わっていく。1連目で、すでに「生まれなかった少年」ということばで、その「まさぐる」が現実ではないことがわかるが……。
朝まだき少年はベンチの上に
そっとやってきた、私の隣に。
「お母さん……」あんなに幼かった、
そのあと薄闇が沈んだとき、
少年は両腕を私の身体にまわし、
やさしく凭(もた)れて横たわった、
朝が、赤みがかった金色の線が
明るんでいく雲の上に引かれているように、
少年は実際には存在しない。けれどゲルトルート・コルマルは少年を感じている。こどもが母親のところにやってきて、体ごとあまえる。抱きついて(両腕を身体にまわして)もたれて、横たわる。--そこには、何か普遍的な母とこどもの世界がある。それをゲルトルート・コルマルは母としては体験していないが、こどもとして体験したことがある。そのことを肉体は覚えているので、それが肉体のなかから「幻のこども」として蘇り、ゲルトルート・コルマルの「幻の母」の肉体に触れてくる。
ていねいに描かれた肉体の動き(動詞)が、肉体を「幻」ではなく「現実」にする。そこに少年がいなくても、ゲルトルート・コルマルの「肉体」のなかに少年がいて、その少年はゲルトルート・コルマルの「肉体」からあふれてきて、ゲルトルート・コルマルの「肉体」に触れる。
まるで、ゲルトルート・コルマルの産んだこどものように。
ゲルトルート・コルマルには産むことができなかったこどもがいて、その子は、今「少年」なのだ。
それから少年は影の湖を泳いだ、
私は少年を乗せてあげるボートになった。
きらめく雪のなかの島々では
畑の深いところからパンが育った。
「私は少年を乗せてあげるボートになった。」この1行は鮮烈だ。とても美しい。少年は「泳いだ」。これは少年の「肉体/動詞」。それから、少年はボートに「乗る」。それをゲルトルート・コルマルは見るだけではない。ボートに乗る少年を見るとき、ゲルトルート・コルマルはボートに「なる」。なっている。
あ、これが母親なんだ、と驚く。
母親はこどもを見ているだけではなく、常に「接している」。「肉体」が直接「つながっている」。
ここに書かれている少年とボートは「現実」ではなく、夢である。夢であるだけに、いっそう、そこにゲルトルート・コルマルの欲望(本能/正直)が強く浮き出ている。あふれている。ゲルトルート・コルマルは常にこどもと直接結びついていたかったのだ。
岸にいて、少年がボートに乗っているときでさえ、彼女は岸にいるのではなくボートになっていっしょに湖に浮かんでいる。それくらい強い結びつきがある。
だから。
第1連、第1行の「まさぐりたかった」は単に「触りたかった」ではないのだ。「触ることで結びつきたかった」なのである。「触る/結びつく」ことで、少年をもう一度自分の「肉体」のなかに取り込むのだ。自分の「肉体」のなかで「守る」のだ。
ちょうど、ボートになって、少年を湖から「守る」ように。
少年は成長せず、そのままだった
--おお薄茶色の花の顔よ!--
親しげに私を見て愛した
けれども歳月は私を愛さなかった、
盗人のように祭りから抜け出した、
がらくた部屋をからにしたあと。
屋根には凍りついた巣が貼りつき、
そこには決して鳥は帰ってこない。
この最後の2連は、とても苦しい。「少年は成長せず」は少年の死を意味するだろう。そして、このことはまた詩人の死をも意味するだろう。なぜなら、少年はもともと生まれていないのだから--少年がもしも生まれていたら、という仮定で詩人は少年と自分との触れ合いを描いている。その仮定はゲルトルート・コルマルが生きているかぎり有効である。生きているかぎり、「いま少年は○歳」と思いつづけることができる。ゲルトルート・コルマルの成長にあわせて少年は成長する。その成長が止まるとしたら、それは彼女の生がそこで止まるからだ。
親しげに私を見て愛した
けれども歳月は私を愛さなかった、
これは
「少年は」親しげに私を見て愛した
けれども「私の」歳月は私を愛さなかった、
ということだろう。「私の歳月」(私に許された人生の年月)は、私を愛さない、私を見捨てて、ここで終わってしまう。
その結果、少年の(こどもの)肉体をもう一度自分自身の「肉体」に取り戻すということはできない。
鳥は「少年の肉体」である。
少年は「生まれなかった」。そして、そのときに「死んだ」のではなく、たとえこどもが生まれなくてもゲルトルート・コルマルの「肉体」のなかでは生きている。生きて成長しつづけている。(これは、こどもを亡くした母親すべてに共通することだと思うけれど……。)もし少年が死ぬことがあるとするならば、それは母親自身が死ぬときなのである。母とこどもは「一体」だから、母が死ねば少年も死ぬしかないのである。
そういう関係(つながり)をゲルトルート・コルマルは「まさぐっている」。ただ少年の髪に触れているのではない。触れながら、そうした「女の生きたか(母の生き方)」をまさぐっている。
私は女でも母でもない。またアウシュビッツにつながる恐怖と絶望を体験したわけでもない。それでも、なぜか、ゲルトルート・コルマルの「肉体」を強く感じる。目の前にゲルトルート・コルマルがいて、彼女が少年を肉体として感じている、触れているというのが伝わってくる。
「動詞」が、そういう印象を引き起こすのだが、(動詞というのは、あらゆる「肉体」にとっての共通言語であり、そこを通ればからなず、その動きをする「肉体」の内部にあるものに触れることができると私は信じているのだが……)、動詞だけでは、この強い印象は生まれない。
動詞が強く迫ってくるのは、逆説的な言い方になるかもしれないが、
私の菫のように青く花咲き、
私の鷲のように飛べずに遠い。
たとえば、この2行が私にはよくわからないからである。(ほかに触れてこなかった行も、実は正確にはわからない。--詩に「正確」や「正解」があるとは思わないけれど。)
少年が「菫のように青く花咲き」というのは少年の美しい瞳の描写(比喩)と受け取ることができる。けれど、その少年が「鷲のように飛べず」と否定形で語られる部分で、私は、とても悩んでしまう。いろいろなことを思ってしまう。飛べないのは、アウシュビッツの惨劇が待っているから? 「飛べずに遠い」ってどういう意味? 「遠くへは飛べない」という意味なのだろうか。「遠い」が、何と結びつくのか、この訳からではわからない。なにかしら不安定なものが、このことばのなかに残る。
不安定なもの、不明確なものが、不安定・不明確なくせに(?)、その「存在」だけは別個に独立して見えてしまう。
朝が、赤みがかった金色の線が
明るんでいく雲の上に引かれているように、
朝の空があざやかに描かれている。でも、その美しさは「無意味」である。母親と少年と、どうつながっているのかわからない。そういう「わからないもの」が、母と少年の関係という「わかるもの」といっしょに存在する。
「世界」が「わかるもの」だけで統一されるのではなく、そこに「わからないもの」も存在する。その「わからないもの」をもゲルトルート・コルマルは「正確に」描いている。「正確に」というのは--非情にということかもしれない。つまり「リアル」に描いている。感情にそめあげてセンチメンタルにしないで、「事実」として描いている。そういう強靱さがある。そういう強靱さを感じる。
それが、母とこどもの、「肉体」のあり方を、とても生々しいものにする。