詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西脇順三郎の一行(7)

2013-11-24 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(7)

 「カリマコスの頭とVoyage Pittoresque」

しかしつかれて

 2行目にあらわる。あざやかなイメージとはまったく逆。そこには何もない。ただことばを前の行から次の行へ引き渡すだけの役割をしている。
 まわりには、イメージの新鮮なことばがたくさんある。きらきらまぶしすぎるかもしれない。 その反動で、この1行が目立つのか。そうかもしれない。きっとそうなのだろう。
 でも、少し、それにつけくわえたい。
 し「か」しつ「か」れて。「しかし」の二音目、「つかれて」の二音目。「か」の音の繰り返しが、単語の二音目で重なる。さらに「し」も「か」も、実際に口に出してみるとわかるとおもうけれど、母音がとても弱い。私は、「しかし」の「し」も「つかれて」の「つ」もほとんど母音を発音せずにこのことばを読む。閉鎖的な音だ。それが次の「か」で一気に解放される。
 その音楽に、私はひかれる。
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ゲルトルート・コルマル『沈黙するものたちのことば』(藤倉孚子訳)

2013-11-23 11:07:52 | 詩集
ゲルトルート・コルマル『沈黙するものたちのことば』(藤倉孚子訳)(書肆半日閑、2013年11月01日発行)

 ゲルトルート・コルマルは1894年ベルリン生まれのユダヤ人。1943年02月13日にアウシュビッツに移送され、その日に死亡したという。私ははじめて読む。はじめて読む人の、はじめての作品はとても印象的である。まったく新しい人、見知らぬ人が目の前にあらわれてくる。
 「哀歌」という作品から、私はゲルトルート・コルマルに出会う。

少年のカールした髪をまさぐりたかった。
生まれなかった少年。
私の菫のように青く花咲き、
私の鷲のように飛べずに遠い。

 まったく知らない人なのに、会ったことがあるような、見たことがあるような気がする。それは1行目に「髪をまさぐる」というしぐさが出てくるからだ。理由もなく、ただこどもの髪に触る。さわりながら指を動かす。髪に触っているのか、髪に触られているのか。あいまいな感じのなかで、少年と母親の「肉体」がひとつになる。
 「肉体」の触れ合いが生み出す「安心感」のようなものがそこにある。それは、私は「母」ではないし、「女」でもないのだが、わかる「何か」である。その「わかる」何かがあるから、会ったような気がする。そして、実際、そういう「動詞(まさぐる)」をとおして、私はゲルトルート・コルマルに触れている。
 これが少しずつ変わっていく。1連目で、すでに「生まれなかった少年」ということばで、その「まさぐる」が現実ではないことがわかるが……。

朝まだき少年はベンチの上に
そっとやってきた、私の隣に。
「お母さん……」あんなに幼かった、
そのあと薄闇が沈んだとき、

少年は両腕を私の身体にまわし、
やさしく凭(もた)れて横たわった、
朝が、赤みがかった金色の線が
明るんでいく雲の上に引かれているように、

 少年は実際には存在しない。けれどゲルトルート・コルマルは少年を感じている。こどもが母親のところにやってきて、体ごとあまえる。抱きついて(両腕を身体にまわして)もたれて、横たわる。--そこには、何か普遍的な母とこどもの世界がある。それをゲルトルート・コルマルは母としては体験していないが、こどもとして体験したことがある。そのことを肉体は覚えているので、それが肉体のなかから「幻のこども」として蘇り、ゲルトルート・コルマルの「幻の母」の肉体に触れてくる。
 ていねいに描かれた肉体の動き(動詞)が、肉体を「幻」ではなく「現実」にする。そこに少年がいなくても、ゲルトルート・コルマルの「肉体」のなかに少年がいて、その少年はゲルトルート・コルマルの「肉体」からあふれてきて、ゲルトルート・コルマルの「肉体」に触れる。
 まるで、ゲルトルート・コルマルの産んだこどものように。
 ゲルトルート・コルマルには産むことができなかったこどもがいて、その子は、今「少年」なのだ。

それから少年は影の湖を泳いだ、
私は少年を乗せてあげるボートになった。
きらめく雪のなかの島々では
畑の深いところからパンが育った。

 「私は少年を乗せてあげるボートになった。」この1行は鮮烈だ。とても美しい。少年は「泳いだ」。これは少年の「肉体/動詞」。それから、少年はボートに「乗る」。それをゲルトルート・コルマルは見るだけではない。ボートに乗る少年を見るとき、ゲルトルート・コルマルはボートに「なる」。なっている。
 あ、これが母親なんだ、と驚く。
 母親はこどもを見ているだけではなく、常に「接している」。「肉体」が直接「つながっている」。
 ここに書かれている少年とボートは「現実」ではなく、夢である。夢であるだけに、いっそう、そこにゲルトルート・コルマルの欲望(本能/正直)が強く浮き出ている。あふれている。ゲルトルート・コルマルは常にこどもと直接結びついていたかったのだ。
 岸にいて、少年がボートに乗っているときでさえ、彼女は岸にいるのではなくボートになっていっしょに湖に浮かんでいる。それくらい強い結びつきがある。
 だから。
 第1連、第1行の「まさぐりたかった」は単に「触りたかった」ではないのだ。「触ることで結びつきたかった」なのである。「触る/結びつく」ことで、少年をもう一度自分の「肉体」のなかに取り込むのだ。自分の「肉体」のなかで「守る」のだ。
 ちょうど、ボートになって、少年を湖から「守る」ように。

少年は成長せず、そのままだった
--おお薄茶色の花の顔よ!--
親しげに私を見て愛した
けれども歳月は私を愛さなかった、

盗人のように祭りから抜け出した、
がらくた部屋をからにしたあと。
屋根には凍りついた巣が貼りつき、
そこには決して鳥は帰ってこない。

 この最後の2連は、とても苦しい。「少年は成長せず」は少年の死を意味するだろう。そして、このことはまた詩人の死をも意味するだろう。なぜなら、少年はもともと生まれていないのだから--少年がもしも生まれていたら、という仮定で詩人は少年と自分との触れ合いを描いている。その仮定はゲルトルート・コルマルが生きているかぎり有効である。生きているかぎり、「いま少年は○歳」と思いつづけることができる。ゲルトルート・コルマルの成長にあわせて少年は成長する。その成長が止まるとしたら、それは彼女の生がそこで止まるからだ。

親しげに私を見て愛した
けれども歳月は私を愛さなかった、

 これは

「少年は」親しげに私を見て愛した
けれども「私の」歳月は私を愛さなかった、

 ということだろう。「私の歳月」(私に許された人生の年月)は、私を愛さない、私を見捨てて、ここで終わってしまう。
 その結果、少年の(こどもの)肉体をもう一度自分自身の「肉体」に取り戻すということはできない。
 鳥は「少年の肉体」である。
 少年は「生まれなかった」。そして、そのときに「死んだ」のではなく、たとえこどもが生まれなくてもゲルトルート・コルマルの「肉体」のなかでは生きている。生きて成長しつづけている。(これは、こどもを亡くした母親すべてに共通することだと思うけれど……。)もし少年が死ぬことがあるとするならば、それは母親自身が死ぬときなのである。母とこどもは「一体」だから、母が死ねば少年も死ぬしかないのである。
 そういう関係(つながり)をゲルトルート・コルマルは「まさぐっている」。ただ少年の髪に触れているのではない。触れながら、そうした「女の生きたか(母の生き方)」をまさぐっている。

 私は女でも母でもない。またアウシュビッツにつながる恐怖と絶望を体験したわけでもない。それでも、なぜか、ゲルトルート・コルマルの「肉体」を強く感じる。目の前にゲルトルート・コルマルがいて、彼女が少年を肉体として感じている、触れているというのが伝わってくる。
 「動詞」が、そういう印象を引き起こすのだが、(動詞というのは、あらゆる「肉体」にとっての共通言語であり、そこを通ればからなず、その動きをする「肉体」の内部にあるものに触れることができると私は信じているのだが……)、動詞だけでは、この強い印象は生まれない。
 動詞が強く迫ってくるのは、逆説的な言い方になるかもしれないが、

私の菫のように青く花咲き、
私の鷲のように飛べずに遠い。

 たとえば、この2行が私にはよくわからないからである。(ほかに触れてこなかった行も、実は正確にはわからない。--詩に「正確」や「正解」があるとは思わないけれど。)
 少年が「菫のように青く花咲き」というのは少年の美しい瞳の描写(比喩)と受け取ることができる。けれど、その少年が「鷲のように飛べず」と否定形で語られる部分で、私は、とても悩んでしまう。いろいろなことを思ってしまう。飛べないのは、アウシュビッツの惨劇が待っているから? 「飛べずに遠い」ってどういう意味? 「遠くへは飛べない」という意味なのだろうか。「遠い」が、何と結びつくのか、この訳からではわからない。なにかしら不安定なものが、このことばのなかに残る。
 不安定なもの、不明確なものが、不安定・不明確なくせに(?)、その「存在」だけは別個に独立して見えてしまう。

朝が、赤みがかった金色の線が
明るんでいく雲の上に引かれているように、

 朝の空があざやかに描かれている。でも、その美しさは「無意味」である。母親と少年と、どうつながっているのかわからない。そういう「わからないもの」が、母と少年の関係という「わかるもの」といっしょに存在する。
 「世界」が「わかるもの」だけで統一されるのではなく、そこに「わからないもの」も存在する。その「わからないもの」をもゲルトルート・コルマルは「正確に」描いている。「正確に」というのは--非情にということかもしれない。つまり「リアル」に描いている。感情にそめあげてセンチメンタルにしないで、「事実」として描いている。そういう強靱さがある。そういう強靱さを感じる。
 それが、母とこどもの、「肉体」のあり方を、とても生々しいものにする。





静かなざわめき―詩集
藤倉孚子
花神社
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西脇順三郎の一行(6)

2013-11-23 00:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(6)

 「皿」

模様のある皿のなかで顔を洗つて

 模様のある洗面器(?)に水を張って顔を洗う--ということなのかもしれないけれど。水のなかで目をあけて、皿(洗面器)の模様を見ている感じがする。
 眠りから覚めて、水のなかで目を覚まそうとして、もう一度見る「現実の夢」。
 あるいは、水をすくいながら、水底の「模様」を掬い取ろうとする「現実の夢」。
 いずれにしろ、「洗面器」ではなく、「皿」であること--現実を叩き割るような、ことばの「まちがい」が輝かしい。「模様のある洗面器」ではつまらない。「ちゃわん」という長い音ではなく「さら」という短い音も、この「まちがい」には効果的だ。「まちがい」は長くなると嘘になる。
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北川朱実「自由研究」

2013-11-22 09:35:00 | 詩(雑誌・同人誌)
北川朱実「自由研究」(「CROSS ROAD」2、2013年11月16日発行)

 北川朱実「自由研究」は夏休みの宿題が終わっていない向かいの家の少年のことから書きはじめて、

子供のころ
川の多い町に住んでいた

大きな夜明けを抱いて
海が流れ込んだ川は

何かから逃れるように
理由もなく枝分かれした先で澱み
手足をほどいていた

 この川の描写に、うっとりとしてしまう。海へ流れ込んだ川ではなく、「海が流れ込んだ川」。満ち潮で海が川を上ってくる。その流れとぶつかり、川はいく筋にもわかれる。そしてあるところでは澱んでいる。--私はそれを見たわけではないが、そしてそういうものが見えるかどうかはっきりとはわからないが、北川のことばをとおして、それを見る。その「枝分かれ」を北川は「手足をほどいて」と書く。そうか。何にもできなくて、ほんとうは海へ流れていくはずなのに、海に逆に押し寄せられて、ぼんやりしている感じ。そんなふうに、人間の時間も何かに押し寄せられて(ちょうど夏休みが終わるという「時間」に押し寄せられるように)、どうしていいかわからないなあ、ひとまず休憩(何をしたい、何をするという目的をほうりだして)、ぼんやりする。放心する。あれは「手足をほどく」というのだな……。そんなことを思い出す。
 川が人間の「肉体」になったのか、それとも人間の「肉体」が川になったのか。比喩は、そのあたりを厳密にはしない。どっちでもいいように、人を引き込んで行く。
 だからこそ、それは入り交じって、

(人の足は
(なぜ前へ前へ進む形につくられたのですか?

 これは、

(川の流れは
(なぜ海へ海へ進むようにつくられたのですか?

 とゆったりと溶け合う。
 溶け合ったまま、北川は、ちょっと変わったことを書く。

今ならわかる
背後は
見てはいけないものでいっぱいなのだ

 この3行は、私には、わからない。わからないのだけれど、わからないものはわからないままにしておいて読み進むと(放心とはそういうなりゆきまかせのところがある)、最後の3連が、なんだかうれしい。

始業の朝
少年は
飼い犬を連れて登校した

<先祖はオオカミ>
一万年前の作品を引っぱり
引っぱられて
校門をくぐっていく

足を前に出して

 飼っている犬--それが「宿題」の答え。自由研究で犬の歴史を調べた。犬は1万年前はオオカミだった--それを「文字」ではなく実物で示す。
 こういうことを、少年はほんとうにやったのか。これは現実なのか。それとも北川の空想なのか。--このわからなさが、また、いい。わからないといいながら、私は現実の方を選んで、なんだかわくわくしている。
 川の水と海の水がぶつかり、とけあい、その瞬間にそこから「人間の手足」の比喩がうまれたように、何かが融合するとき、そこに「いま/ここ」にないものが噴出する。放心のなかへ、それまで見落としていたものが「無意味」のままするりと溶け込んでくる。「無意味」が勝手に動いて、何か豊になった気持ちになる。
 1万年前から、たぶん、人間は「足を前に出して」、ただ歩いたのだ。前へ前へと。
 そんなことが、ぼんやりと納得できる。いや、それを納得したがっている私がいる。
 そうやって進むとき、その背後には「見てはいけないものがいっぱい」かどうか、私はわからないが、ただ前へ進む。何かにぶつかり、進めなくなったら、そこで「手足をほどく」、そして「澱む」。それでいい。宿題ができなければできないでいい。でも、前へ前へと進む、学校へ行く。それでいい。
 1万年に比べれば、「いま/ここ」はほんの一瞬。

 不思議な広さが、この作品にはある。「ほどかれた」広さがある。

 「夕暮れのはなし」は吉行淳之介、安岡章太郎、開高健の鼎談を古い文芸誌でみつけたことを書いたあと、動物園の動物をへて、

地中深く
はるかな時代を通過してきたのだろう

地下鉄に吹く風は
微かに腐臭がして

 としめくくられる。ここには「1万年」のかわりに「はるかな時代」が出てくる。北川は「いま/ここ」を遠い過去(時間)と結びつけてみている。それは、過去と結びつけるということだけではなく、「いま/ここ」を「ほどく」ことでもある。「いま/ここ」を支配している「時間」をほどいて、もう一度「過去」と「いま/ここ」をかきまぜることでもある。
 川と海が出会い、混ざるように。水が互いをかきまぜるように。


ラムネの瓶、錆びた炭酸ガスのばくはつ
北川 朱実
思潮社
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西脇順三郎の一行(5)

2013-11-22 00:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(5)

 「眼」

白い波が頭へとびかゝつてくる七月に

 波の描写、波が高いということはわかる--と書いたら、それは実感とは違う。私は波の高さを実感していない。「とびかゝつてくる」という動詞に、波のいきいきした動きを見ている。そのときは波を高いとは思わない。波を危険とは思わない。
 たとえば防波堤で、あるいは岩場で、波がたたきつけてくるしぶきを頭から浴びる。そのとき、「わああっ」と声を出して、私は喜んでいる。おもしろくてしようがない。
 そういう明るさがある。輝きがある。
 「白い波が頭へ」ということばのなかでは、また「白い波頭」ということばも動いている。
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山村由紀『青の棕櫚』

2013-11-21 10:37:57 | 詩集
山村由紀『青の棕櫚』(港の人、2013年11月03日発行)

 山村由紀『青の棕櫚』は、にわかれているが、の方が私にはおもしろかった。いちばん印象に残ったのは「夏ねむり」。

真夏のひるさがり
物置をあけると
土鍋が暗がりに
ひとつ

ふたは重くぴたりと閉じて
ビニイル袋がかかっている
夏の土鍋のなかはからっぽ? いいえ
ふゆのくうきが入っています

土鍋は
ふゆ産まれるこどもを宿したははおやと同じ
夏はまるくうとうとしながら
くりかえし夢みるのです

ふゆになれば ふゆになれば と

 2連目は、かなり「理屈っぽい」。土鍋のなかに冬の空気が入っているなんて、非現実的。「頭」で作り上げた世界。--と思っていたら、3連目、4連目と動いていき、それが「理屈」ではなくなる。
 土鍋ではなく、自分の体験を書いている。それも女でないと体験できないことを書いている。そこに「肉体」が入ってくる。
 冬になれば活躍できる--とほんとうに土鍋が思うか、土鍋は人間ではないのだからそんなことを思うわけはないのだが、一方、冬になれば赤ちゃんが産まれる、冬になれば赤ちゃんがおなかから出てくると思う母の気持ちは「空想」ではない。また「考え」でもない。つまり「頭」で考えて、そう思うわけではない。「頭」を経由しないで、「肉体」そのものでそう思っている。そして、また祈っている。
 土鍋を書きながら、土鍋がテーマのはずなのに、「こどもを宿したははおや」は比喩であるはずなのに(……「と同じ」という語法をとおして比喩であることが明白なのに)、その比喩の方が主役の土鍋を突き破ってしまう。「ははおや」が主役になってしまっている。
 この、自然な変化がいいなあ。
 男が土鍋を書くと、どんな比喩をつかおうときっと最後まで土鍋が「主語」である。途中で、比喩が(別の存在が)、土鍋を叩き割って自己主張するということはないだろう。しかも、その主語の交代に「肉体」が関係してくるということはないだろう。
 冬にこどもを産んだことのある女性が、その実感(肉体がおぼえていること)が、無意識にここにあらわれている。「記憶」として思い出しているとをとおりこして、「記憶」が「いま/ここ」を生きている。冬に子供を産むということを実感として感じ、ことばを動かしている。「肉体」「論理」にぴったりとくっついている。そして、「論理」を「肉体」が突き破って動いているという感じだ。
 この「密着感」は、そして、2連目からはじまっている。

夏の土鍋のなかはからっぽ? いいえ

 質問(疑問)と答えが1行におさまっている。1行のなかでつづいている。「1字あき」はあるけれど、これは表記の問題。意識はつながっている。
 もし質問(疑問)と答えを明確に対比するなら、

夏の土鍋のなかはからっぽ? 
いいえ ふゆのくうきが入っています

 の方が対比が明確である。けれど山村はそうは書きたくないのだ。書けないのだ。おなかのなかにいるこどもを実感しているから、その実感が「からっぽ」ということばを即座に否定するのだ。
 否定して、それから少し時間をかけて(改行して)、ことばを考えはじめる。
 「ふゆ」を思い、頭で「ふゆのくうきが入っています」と言っておいて、また、考え直して(連をかえて)、頭で考えたことを「肉体」で乗り越えていく。
 この「呼吸」はいいなあ。美しいなあ。
 「銀木犀」も美しい。

うす曇り
月が灰色にかすんでいる
疲れた瞳
写真に収まる祖母の顔

銀木犀の香りを
夜が運んでくる
鳥は眠ると
木に溶ける

冷たい足先を
両手でさする
少しずつ
うしなわれてゆくものが
ある

十月
わたしは
窓際に迷い込んだ
小さな銀の花をまるく集め
音のない
おはじきをする

 死んだ祖母の思い出。死ぬと、足先から体温が失われていく。それを手で覚えている。手が覚えていることのひとつに、祖母と遊んだおはじきもあるのだろう。そういうことが静かに書かれている。
 2連目の後半「鳥は眠ると/木に溶ける」もとても印象に残る。「溶ける」は「溶けて一体になる」ということ。書かれていないが「一体になる」という感じが山村の「肉体」にはある。
 おはじきをするとき、山村は祖母と「一体になる」。

 で、そういう「一体感」から、先に引用した「夏ねむり」の最後の行にもどると、とてもおもしろいことがわかる。
 ははおやの実感からすれば、

ふゆになれば ふゆになれば こどもがうまれる

 ということだろう。いまは自分の「肉体の内部」に動いているいのち。「一体」のいのち。それが出産を契機に、「ひとつ」ではなく「ふたつ」の肉体になる。「一体」が「分離」する。
 おはじきをすることで山村と祖母が「一体」になったのに対し、出産すると山村とこどもが分離する。あれっ、山村の「一体感」はどこに?
 と、考えるのは--これは「頭」の運動。
 こどもを産んだははおやは、うまれきてたこどもを自分とは「分離」した肉体とは思いはしないのだ。土鍋の主語を母親の比喩が突き破って主語になってしまったように、こどもが産まれた瞬間から、こどもは母親を突き破って「主語」になる。母親は述語。母親は母親であることを捨てて(と書いてしまうと、ちょっと矛盾してしまうが)、産まれてきたこどもと「一体になる」。もう、産まれてきたこどものことしか考えられない。産まれてきたこどもを見ることで、いっそう「一体感」が強くなる。
 「夏ねむり」には、その瞬間のことを書いていないけれど、私は、それを強く感じてしまう。冬になれば生まれるはずのいのちが、まだ生まれていないはずのいのちが、ことばのなかではもう生まれてしまって、主語として母親を引っぱって行っている。
 これは、おもしろいなあ。美しいなあ。

青の棕櫚
山村由紀
港の人
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西脇順三郎の一行(4)

2013-11-21 00:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(4)


 「太陽」

カルモヂインの田舎は大理石の産地で

 私は「カルモヂイン」がどこにあるか知らない。知らないけれど「田舎」はわかる。田舎というのは、たぶんどの国へいってもおなじようなものだろう。日本の田舎がどこでも似ているように。「田舎」ということばが知らない国の、知らない地名を「肉体」に近づける。それはまた「田舎」ということばに何らかの「肉体」があるためだ。そこに暮らしている人の「肉体」とことばの「肉体」がひとつになっている。
 カルモ「ヂ」イン、「だ」いりせき、さん「ち」の「た(だ)行」。これに「田」舎という「田」がくわわるおかしさ。「カ」ルモヂイン、いな「か」の「か行」。あかるい「あ」の母音の響き。--それも楽しい。
西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店
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リドリー・スコット監督「悪の法則」(★★★)

2013-11-20 22:48:24 | 詩集
監督 リドリー・スコット 出演 マイケル・ファスベンダー、ペネロペ・クルス、キャメロン・ディアス、ハビエル・バルデム、ブラッド・ピット、ブルーノ・ガンツ



 ひどく豪華なキャスティングである。主役の4人以外にもブルーノ・ガンツなんかも出てくる。こんなに登場人物が目立ってしまうと映画にならないぞ、と思ってしまう。そして実際にマイケル・ファスベンダーとペネロペ・クルスのセックスシーンではじまり、それにつづいてペネロペに浮気された格好のハビエル・バルデム(あ、虚構と現実をごっちゃにしている?)とキャメロン・ディアスが山猫(?)をつかってウサギ狩りをしているシーンへと飛躍すると--なんだ、これは、と思ってしまう。それぞれに、それなりに濃密な映像であるだけに、こんなことをしていては映像が瞬間瞬間に目の前にあるだけで、ほかは何もない映画になってしまうぞと心配になってしまう。
 そして、実際に、そのとおりになる。どのシーンもしっかりと映像になっている。余分な説明はなく、映像の情報量だけで迫ってくる。これは製作者の意図でもあるらしく、映画の上映の前に「スペイン語のシーンがあるけれど、製作者の意図により、字幕なしの部分がある」と予告される。映像を見て、それでストーリーを判断すればいい。映像だけで映画は成り立つのだ--では、しかし、ないんだね。これは一種のいいわけというか、レトリックというか、嘘っぱち。
 私は、途中で、「えっ」と叫んで座席から飛び上がりそうになった。そして、その瞬間に、この映画が「実感」できた。
 麻薬組織に狙われて、ハビエル・バルデムが逃げる。そのとき追手のリーダーが「殺すな」というのだけれど、手下が殺してしまう。それも頭を銃弾が貫く。手足を撃って、逃げられないようにして、さらに拷問をくわえてハビエル・バルデムから「情報」を引き出す--というのが追手の目的なのだから、ここで殺してしまったら何にもならないだろう。何やってるの、この映画……。
 ではなくて、これがこの映画の真骨頂。
 「ストーリー」というのは世界の見え方を整理したものだが、その世界の見え方というのは、一人一人が完全に違う。特に、悪の道に踏み込んでしまった人間には、いままでの世界というのは存在しない。悪事をすれば、つかまって、とっちめられて、謝罪し(うまくいけば生き延びて……)というのはありえない。(そういうことが、映画のなかで何度か台詞として語られる。--マイケル・ファスベンダーが助けを求めていった人間に、そういうことを、詩をまじえて聞かされる。)
 私たち(まあ、主役の、はじめて悪に手をそめたマイケル・ファスベンダーのような人間)には想像がつかないけれど、そこはストーリーを超越した世界なのである。悪事をする人間にとって、世界は自分ひとり。自分のやりたいことに役だたない人間なんか、どうだっていい。どころの騒ぎではなくて、それは「別世界」なのだ。
 「別世界」だからこそ、ブラッド・ピットだって、映画の最初に語られる首を締めつけるワイヤの道具で、ロンドンの街中で頸動脈を切断されて死んで行く。ペネロペ・クルスは壊れたマネキンのようにごみ捨て場に捨てられる。--非情に見えるかもしれないが、そこには情など最初からないのだ。
 ほほう。
 いやあ、そういう意味では、ブラッド・ピットがロンドンを逃げるシーンなど、なかなかいいんだなあ。緊張している。でも、あまりうろうろしない。目立つからね。動きを小さくしながら、それでも警戒する感じ、ぴりぴり感が伝わってくる映像がなかなかいい。マイケル・ファスベンダーの逃亡の、最初のホテルのシーンなんかも。ペネロペ・クルスが駐車場でつかまる短いシーンも。あ、これは危険、逃げなきゃ……という気づいて行動がはじまるタイミング、その変化が、これが映画という感じでいいなあ。

 でもねえ。

 まあ、苦情は、ひとつだけなんだけれど。
 私の苦情というのは、先に少し書いたのだけれど、悪の道に踏み込んだ人間には世界が違ったものになる、ということがことばで語られること。いままでの世界はもう絶対に取り戻せない。踏み込んだ別世界で手に入れるものがどんなに称賛を浴びるものであったとしても、人がうらやむものであったとしても、そのことで悪が「救済」されるわけではない。--この比喩として語られるのが、妻を失った詩人がすばらしい詩を書いた、その詩が称賛されるけれど、詩人はそれによって救済されるわけではない云々とういうような台詞による説明。
 これはこれで「説得力」があるのだけれど。ことばで語ってしまえば、それは「映画」ではなく「小説」の世界。肝心要の「哲学」がことば(小説スタイル)で語られたのでは、映画が台無し。
 この部分は、映画にはならない。どうしたって小説でしかない。ことばを読んで、ことばで納得するしかない。そうすると、その瞬間、映像のもっているそれまでの情報がすべてことばで洗い流されてしまうことになる。
 これは映画ファンとしてはつらい。いやだなあ。
 せっかく、下水処理のタンクをつかってドラッグを運び、ついでに裏切り者(?)の死体を死んだ後も糞まみれにしつづけるというような、一般人にはわからない「ストーリー」を映像化しているのだから、悪と一般の境目、そこを踏み出すことではじまる「哲学」もきちんと映像にしないとね。
 マイケル・ファスベンダーがメキシコかどこかの貧民街のアパートで暮らすしかないという結末、キャメロン・ディアスが大金を手にして上海に逃走するという結末の対比では、途中の長々しい「悪の法則」の「哲学」がうるさいだけ。
 私は読んでいないが、「哲学」が好きなら「小説」を読んだ方がいい。映画が好きなら、台詞のシーンは居眠りをしていた方がいい。
 ことばで語る「情報」を少なく感じさせるために豪華キャストをつかう、瞬間瞬間の映像の情報量を増やすなどという「眼くらまし作戦」は嫌いだなあ。バイク展示場でバイクの車体の高さを測るなんて、おいおい、そんな目立つことはせずに、どこか街角に止まっているバイクで調べろよ、あるいは、怪しまれないようにバイクを買って、持ち帰ってから測れよ、それくらいの金は「経費」だろう、とちゃちゃを入れなくなってしまうじゃないか。嘘っぽくて、いやでしょ? 観客をばかにした映像情報でしょ?
                       (2013年11月20日、天神東宝5)

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石川逸子「鳥の音」

2013-11-20 11:02:10 | 詩(雑誌・同人誌)
石川逸子「鳥の音」(「兆」160 、2013年11月01日発行)

 石川逸子「鳥の音」には「メシアン「世の終わりの四重奏曲・第三楽章」」というサブタイトルがついており、作品の斎賀には「2013・7・27「コントラスト」演奏を聴いて」という注がついている。演奏を聴いたときの感想を詩にしたものだ。

囚われの身で はばたいた 心
たった一つの楽器 クラリネットに託した 願い
出だしは かすかに 胸のうちからこぼれ出た吐息のよう
そら耳だったか と疑うほどに

やがて 吐息は 次第に大きく 力強く
憂いをおびつつ さまざまな鳥となって
てんでに鳴き はばたき
枝々から飛び立ち

零下二十度 指も凍りかけ
雪のなか 演奏を聴く 囚われびとたちは 軍服の所員も
ふと大気を飛びまわる
鳥になって いっとき 微笑み わらった

わたしは ツグミ
わたしは コジュケイ
わたしは ナイチンゲール
どこまでも 飛んで行くんだ

 一つの音からはじまり、それが聴く人を鳥にかえていくまでの動きがどきどきするくらい美しい。
 「かすかに 胸のうちからこぼれ出た吐息のよう」というのは、二重の形容のようにみえるが、そうではなく、言いなおさずにはいられないこころの動きをつたえている。「かすかに」では伝えられない。言いなおしたい。それが「胸のうちからこぼれ出た吐息のよう」と動いていく。
 この動き、言いなおさずにはいられない思いは、「疑うほどに」「飛び立ち」という形で、連から連へ渡っていく。
 「かすかに」と「胸のうちからこぼれ出た吐息のよう」のあいだに1字空き(空白)があったが、その空白を飛び越えてことばが動き、深まるように、連と連とのあいだにも空白(1行空き)があり、それを飛び越えて心は動く。飛び越えることによって、動きが強くなる。
 「疑うほどに」「飛び立ち」という連を完結させない形が、ここではとても大きな力になっている。
 きのう読んだ大橋愛由等「むじか」では連から連へ切れずにつながっていったが(連続を求めてことばは動いていったが)、石川のことばは、「切れずに」というよりは、「いま」を踏み台にして、振り切って、という感じがする。
 「いま」を振り切るのだけれど、きちんと切断する時間も惜しくて、ともかく飛躍するのだという急いでいる感じが、わくわくさせる。ときどきさせる。
 大橋愛由等「むじか」では「粘着力」として動いたことばの力が、石川の場合は逆に働く。切断し、離れていく。離れることで、強くなる。
 そして、その「離脱」の力のなかで、とんでもないことが起きる。

囚われびとたちは 軍服の所員も

 対立する側の人間の区別がなくなる。演奏は囚われているユダヤ人のためのものだが、その音のなかへ囚人たちが誘われて動くとき、それを聴いている看守たちも動く。同じように「いま/ここ」を離脱してしまう。
 動詞は、人間の区別をなくしてしまう。
 動詞のなかには、人間を区別するものはない。
 動詞を生きる「肉体」は一つなのである。
 動詞のなかで、人間はつながるのである。
 「切断」(分離)を超えて、「粘着力」とは違った形で--つまり分離したまま、個を保ったまま、人はつながってしまう。

わたしは ツグミ
わたしは コジュケイ
わたしは ナイチンゲール

 それぞれが別々の鳥になればなるほど、ひとは「鳥になる」という運動(動詞)のなかで、ひとつの「いのちになる」。
 3連目から4連目への飛躍のとき、連の終わりが「わらった」と完結しているのも、とても的確な、運動をそのまま、きちんと伝える。1連目、2連目は、「いま」を切断する間(時間)もおしく、いそいで動くのに、3連目では、「よし、ここだ」という感じの決断をして、すぱっと「いま/ここ」を切り離す。
 そして飛び立つ。
 「いま/ここ」とは無関係になる。ツグミ、コジュケイ、ナイチンゲール。みんなばらばら。ばらばらだけれど、飛びながら歌いながら、という「動き」のなかで「ひとつ」になる。
 それまでの「いま/ここ」は完全に叩きこわされ、空を飛ぶ自由、歌いたい歌を歌う自由が広がる。

かじかむ指 こわばる唇を だまし だまし
ユダヤ人奏者は 強く ひたすら強く
吹きつづける 吹きつづける
壊れよ! 捕虜収容所! あとかたもなく壊れよ!

 ことばは繰り返される。ことばを、肉体が反復しているのである。肉体をことばが描写し、その描写をことばではなく肉体そのものが反復する。新しい肉体を誕生させているのだ。
 その新しい肉体は、必然的に、「いま/ここ」を新しい世界にする。
 「肉体」が誕生するとき、「世界」も誕生する。

あ 高い塀はとっぱらわれ
かしこに見えるぞ
うすむらさきいろの空 に かかった
はでやかな 虹

 「かしこ」がいいなあ。新しい肉体は「かしこ」を呼び寄せるのだ。「いま/ここ」を「かしこ」にしてしまう。
 人間の運動、そのリズム、音楽が、人間を作り替え、世界を作り替えていく。その瞬間に立ち会っている幸福が、いきいきとつたわってくる。
 この幸福は、「まぼろし」かもしれない。現実は、それを許さないかもしれない。それでもいい。私たちは、その「まぼろし」を見る力をまだ持っている。

やがて 再び 音はしずまり
飢えた 囚われびとたちの肩に つもる雪
クラリネットから かすかに こぼれる 消えない 望み
やせこけた 囚われびと 作曲家の 肩にも つもる雪

定本 千鳥ケ淵へ行きましたか―石川逸子詩集
石川 逸子
影書房
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千人のオフィーリア(61-80 )

2013-11-20 07:44:38 | 連詩「千人のオフィーリア」
                                     61 橋本 正秀
そのとき
娑婆が蠢いて
汚い声が
汗の匂いが
淫らな声が
噂話が
オフィーリアの呟く涙とともに
転生をはじめる
その苦しみの声
その苦汁の匂い
その苦難の嬌声
その苦別の噂らが
娑婆に充満する

                                     62 金子忠政
群れ群れに
凍土のような手のひらを
そっと差し出す
オフィーリアの指先は
いかづちの雫、
脣の暗黒を断裂し
声をひかりにする

                                      63 市堀玉宗
冬の雷いくたび母を犯せしか

                                       64 山下晴代
白鳥を捕へてみればゼウス神

                                       65 小田千代子
レダの眼に翼に降れる霧ふかし

                                       66 谷内修三
駐車場におきざりにされたアルファロメオの
赤い塗料が水銀灯の光にぬれる。
真昼に飛翔したハイウェイの興奮を眠らせて。
でも
私がほしいのはメカニックな涙ではないのよ、
ましてや後部座席ですねている子犬の縫いぐるみでもないわ。

                                      67 金子忠政
アルファロメオも、その赤い塗料も
子犬の縫いぐるみも
線量に占拠され
途方もない時間が
忌避へと溶解していく
犬たちの 
牛たちの
馬たちの
野花たちの
身もだえに哀しく歯軋りする
オフィーリアが言う
「あなた方は決して大地をじかになぞらない」
雹に打たれたわけでもないのに 
水蜜桃が畑のすみで腐爛する
刺すような酸い香りを発しながら 
地におちた鳥のむくろのように
捨てられる哀しみが崩れ熟れる
「うずくまるかぐわしさに寄れ」

                                       68 市堀玉宗
狼の嗅ぎゆく処女の血の滴山河やぶれし月の寒さよ

                                        69 小田千代子
蒼き森ふいに魔物が眼をさまし眠れぬ女は胸抱くばかり

                                    70 山下晴代@ロンドン
魔物はロンドン塔に収め、
スイートテムズ、スイート、スイートテムズ、
オフィーリアはどこかへ消えてしまった

                                         71 谷内修三
ことばは流れてぶつかり音を立てる
オフィーリアよ それはテムズの流れよりも複雑にこだまする たとえば
「この愛が唯一の答えと誓ったときでさえ裏切りははじまっている」と言ったとしても
「この愛が唯一の答えと誓ったときでさえ裏切りははじまっている」と同情した
「この愛が唯一の答えと誓ったときでさえ裏切りははじまっている」と拒絶した
「この愛が唯一の答えと誓ったときでさえ裏切りははじまっている」と侮蔑した
「この愛が唯一の答えと誓ったときでさえ裏切りははじまっている」と笑った
「この愛が唯一の答えと誓ったときでさえ裏切りははじまっている」とウィンクした
「この愛が唯一の答えと誓ったときでさえ裏切りははじまっている」とほざいた
「この愛が唯一の答えと誓ったときでさえ裏切りははじまっている」と批評した
「この愛が唯一の答えと誓ったときでさえ裏切りははじまっている」と戯れた
「この愛が唯一の答えと誓ったときでさえ裏切りははじまっている」と信じた
「この愛が唯一の答えと誓ったときでさえ裏切りははじまっている」と抗議した
「この愛が唯一の答えと誓ったときでさえ裏切りははじまっている」と講義した
「この愛が唯一の答えと誓ったときでさえ裏切りははじまっている」と涙した
ねんねじゃあるまいし、オフィーリアよ
あんた、あの子のなんなのさ、じゃなかった、
オフィーリアよ、あんた、いったい何を教わってきたの

                                       72 市堀玉宗
なきがらに寄り添ふ愛のかたちして白鳥は死のしづけさにあり

                                         73 金子忠政

鉞をなきがらの胸に置き
震える舌を
刃先に匍わせ
息を吐きかける
そのひとそよぎが
言葉によって隠されると
凍りつくブナの皮膚のように
オフィーリア、
君は剥き出しになる
オフィーリア、
星を編み込む
清潔な私の庇護者
やがて 
君の身のまわりには
霰が降る

                                         74  市堀玉宗
愛は今剥き出しになり永遠の空はゆたかにかなしかりけり

                                        75. 小田千代子
永遠の愛をさがして深き森霧ふかくしてああ狂ひける

                                         76 山下晴代
「霧ふかし闇ふかしマッチ一本掌に擦るのみ。寺山です。オフィーリア役の役者を探しています。条件は、体重が100キロ以上の処女。誰かいたら、教えてください。『オフィーリアの犯罪』という芝居をお茶の水のアテネフランセで上演します」

                                        77 金子忠政
 「私はデブ子ではなく
 新人のデブコです。
 仮面剥がしゲームの果てに
 たどり着きました。
 どうぞお見知りおきを」

                                          78橋本正秀
仮面剥がし貸し剥がし
おのれ恥ずかしこの縁(よすが)
身の置き所はここよ
とばかりの罪と科
引っ提げぶうらり
舞台の
袖の
リングの
まぶしさの
あやかし仮面の
テフコはここよ


                                        79 市堀玉宗
枯野ゆくいのちがそこにあるやうに主役不在の愛憎劇の

                                         80.小田千代子
ここにもいるわ リング脇
仮面剥がし貸し剥がし
今も剥がせぬこの縁
私もテフコ 贅肉を
重ねる今の罪と科
増えるばかりの哀しさを
持て余しつつ温めて
雲ひとつない青空を
見上げて渡る大川の
流れに溶かす罪深さ

夢にみたひと やっといま
逢える歓び胸抱き
あたしあの人逢いにいくのよ
 
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西脇順三郎の一行(3)

2013-11-20 00:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(3)

 「雨」

青銅をぬらした、噴水をぬらした、

 引用しながら、1行目の「南風は柔い女神をもたらした。」にすればよかったかなあ、「南風(なんぷう)」という音が、そのまま「柔い」という用言と結びつく。「南風は柔い」でひとつのイメージになりながら音も美しい。書き直そうかなあ、と迷っているのだが。
 でも……。
 昔を振り返ってみると、私は「噴水をぬらした、」に驚いた。噴水は水。ぬれている。なぜ、ぬれるのか。雨にぬれる前に、噴水自体の水にぬれている。わざわざ、「ぬれる」という必要がない。
 当然のことだが、そのころ私はギリシャを知らない。しかし、ギリシャが地中海の明るい国と思っている。そして、この雨は、太陽が輝きながらふる「晴れ雨」のようなものだと感じた。
 矛盾--それが驚きとなってあらわれる。
 「青銅」と「噴水」の音の対比は、「南風」ほどの驚きはないのだが。
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大橋愛由等「むじか」

2013-11-19 12:24:51 | 詩(雑誌・同人誌)
大橋愛由等「むじか」(「エクリ Oct」1 、2013年11月発行)

 「エクリ Oct」1 には大橋愛由等、高谷和幸ら4人の作品が発表されているが、一つのルールをもっている。一つの断章が 140字以内で書かれている。ツイッターで書かれたのかどうか知らないが、ツイッターの投稿ルールにのっとっている。そのせいか全員の作品が似通った傾向にある。 140字を一文として、そのなかで文脈がねじれる、ゆらぐという感じなのである。 140字のなかで複数の文章(複数の句点「。」)をもっているのは高谷の書いているものだけであり、他の人は 140字が一文なのである。--うーん、これではおもしろくない、というのが私の第一印象である。ことばの粘着力というのは、長い文章なら出てくるというものではないだろう。初期の中上健次は短文を積み重ねて、そこに若い精液のような粘着力をあふれさせた。そういうものがあってもいいし、短い文章でことばのことばの空間が多い文体もあっていいのではないか。そういう不満を、まず、書いておく。

 大橋愛由等「むじか」の作品は4人の作品のなかではいちばん印象に残った。それは最初に読んだからかもしれない。大橋の文を読んだ後、他の3人のことばを読むと、あ、また 140字で一文か……と思ってしまうのである。
 でも、ほんとうは、違うのである。たしかに大橋の作品は他の 3人の作品と比べるとおもしろい。しかも、それを証明(?)するのに、他の作品を引用しなくてもいいのである。

1★廃墟となったその家にはシャガールの複製画とイディッシュ語のメモが遺されていて誰かに読んでもらうために置かれたのかもしれないしそうでもないかもしれないと思いなすうちに夏の夕方は暮れてゆき”Beimir bist shone ”かどこからともなく聴こえてきそうでそうでなさそうで

2★少女がこもる部屋からはビリー・ホリデーとコルトレーンの”Speak low ”が交互に流れてきて「絶望は友達」という名前のブルーブラック色のインクで手紙を書き続けていて午前4時ちょうどに投函しなきゃ効果はないのと云うのだがこの街の郵便ポストは深夜になると眠ってしまい<口>を閉じるのだということは知らない少女

 1の断章が完結していないのである。しかも、その末尾は2の断章につながっていない--のか、つながっているのかよくわからない。「1★」「2★」という個性的な区切りを考慮するならつながっていないと考えるのが自然かもしれないが、飾り(?)を無視して綱いてしまうと、前の文章とのつながり具合がそれほど不自然ではないのである。つながると同時に何かが重複して世界がふくらんでいく。多層構造になっていく。
 これは、どういうことだろう。
 ことばは「意味」を追いかけていないのである。「意味」などどうでもよくて、ただことばがどこまでつながるか--ということを確かめているのだ。というよりも、世界はどこまでも「ひとつ」であるということを確かめているというべきか。
 「つながる」という関係性(運動)だけが「意味」なのであって、つながったもの同士は「意味」ではなく、「意味」を浮き彫りにする「もの」なのだ。
 いま、私は無意識に「もの」ということばをつかったのだが、何かと何かが「つながる」とき、「何か」とは「もの」であり、「つながる」は「こと」である。世界には「意味」はないが、「こと」はある。
140字のなかにある「こと」は、そのまま 280字、 420字とつづいていって、そのまま「こと」でありつづけていいのである。
 でも、それでは、なぜ「1★」「2★」というような区切りを入れたのか。断章を強調する形にしたのか。それは「断章」であると強調した方が、これはつづいていますよ、と主張するとき「衝撃」が大きくなるからである。そういう衝撃を呼び込むために、大橋は「わざと」「1★」「2★」という区切りを挿入するのだ。(ツイッターの書き込みが 140字に限定されることを逆手にとって、区切りを飛び越えていくのである。)
 方法論として、大橋ははっきり「持続」というものを意識している。その意識の強さの分だけ、他の3人よりも浮き立って見える。
 でも、こういう「わざと(方法論)」だけを指摘して、それが感想になってしまうというのはなんだかさびしいなあ。詩を読んだ喜びがない。私の読み方は間違っているのだろう。

 ちょっと違うことを書いてみようかな。

 こういう長い文体、うねる文体では、たぶんことばの響き、リズムが重要なのだと思う。大橋のことばには、響き・リズムが複数ある。それも 140字のなかで複数ある。「1★」でいえば、「シャガール/複製画/イディッシュ」という子音の強いことばがある一方で、「かもしれないしそうでもないかもしれない/聴こえてきそうでそうでなさそうで」という母音がだらだらした感じの繰り返しの音がある。「思いなすうちに夕方は暮れてゆき」という肉体を刺戟する音のうねりもある。これでは、ちょっと「ムジカ(ミュージック)」に身を任せる感じにはなれないんだけれどなあ。--私はなれないんだけれどなあ。
 こういうことも、「わざと(方法論)」だけが印象に残る原因かもしれない。
 あ、違うことを書くつもりだったが、同じことを書いてしまったか。

 高谷和幸を読んでみる。「八つの方位からの声の無性格さについて」。

言葉が語る。十月の海がいくつもの息をしているように、言葉が語る、その
イマージュを海底に沈んだ石に来らしめ、従聴するかぎりにおいて、「言
葉が語る」を聞かない権利でしか聴かないようにと、その聴方法のみをたよ
たりに-言葉が語る-。その傷痕の声を抱きすくめんと、「石が言葉を語
る」ことがありえるだろうか?

 「言葉が語る」と「言葉が語る」。このとき最初の「言葉」は語っているのか。「語る」ということを別の言葉が語るのか。「言葉が語るのを聴かない」ということを「聴か ない」--とは「聴く」ことである。という具合に要約すると、いや、それは違うと誰かがいうだろう。ことばは「便宜上」のことしかあらわせないから、いつでも「違う」という異議は入り込む。それは「八つの方位」つまりあらゆる角度(視点のある位置)から聴こえてくるが、どんなに「違う」という「位置」が違っても「違う」という異議においては「ひとつ」。つまり、個別性がない。普遍である。いいかえると「無性格」である。
 と言っていいのかどうか。--と書いてしまうと、高谷の文体からも句点「。」は消えてしまうなあ。どこまでも「切断」なくつづいていくなあ。高谷の「。」は大橋の「1★」のようなものなのだ。
 あ、また同じことを書いてしまう……。

 4人が同じ形式で書いているのではなかったら、きっと違った感想になった。4人一緒だから面白いと思う人がいるかもしれないが、私には逆に作用したみたいだ。


群赤(ぐんしゃく)の街―句集
大橋 愛由等
富岡出版
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西脇順三郎の一行(2)

2013-11-19 00:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(2)

 「カプリの牧人」

我がシヽリヤのパイプは秋の音がする。

 なぜ「シシリヤ」なのか。わからないけれど、その「清音」のつながり、シの繰り返しが「我が」の「が」の音によっていっそう透明なものになる。同じ濁音でも「ぼくの」では違うなあ。「私の」でも違う。何か「間のび」してしまう。「我が」は音が短く、すばやい。そのすばやさが「シシリヤ」を加速させる。
 ところで、「パイプの音」というのはどういうものなのか。私は煙草(パイプ)を吸わないので知らない。
 知らないので、よけいに抽象的な、透明な「音」を聞いてしまう。「シシリヤ」のように子音と母音が最小限で構成された「サ行」の音を思い浮かべる。
西脇順三郎詩集 (現代詩文庫 第 2期16)
西脇 順三郎
思潮社
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リュック・ベッソン監督 マラヴィータ(★★)

2013-11-18 10:41:57 | 映画
リュック・ベッソン監督 マラヴィータ(★★)

監督 リュック・ベッソン 出演 ロバート・デ・ニーロ、ミシェル・ファイファー、トミー・リー・ジョーンズ

 ロバート・デ・ニーロは二つの顔をもっている。暴力的な顔(マフィアの顔)と人懐っこい顔。マフィアが人懐っこくても、もちろんかまわないし、人懐っこさを武器に人のなかに押し入っていくというのは、暴力においては効果的である。
 この映画は、マフィアのボスがFBIの保護のもとに庶民の暮らし(一般人)の暮らしをしながら逃亡するというストーリー。組織を裏切ったために追われている。で、流れ流れて、フランスの誰も知らない田舎町までやってきた。そこでのドタバタ。ブラック・コメディー。
 監督がリュック・ベッソンなので、どうしても味付けがフレンチ。何もすることがないロバート・デ・ニーロが「自叙伝」を書く。この「ことばを書く」というのが、どうにもフレンチなのである。「文学」してしまう。まあ、そのロバート・デ・ニーロの「文体」がハードボイルドなのはアメリカ感じさせていいのだけれど、映画のなかで、そのことばの批評までやってしまうのは、いやだなあ。トミー・リー・ジョーンズまでまきこんで文体批評までやっている。
 で、これがロバート・デ・ニーロだけで終わるならいいんだけれど。
 このことばへのこだわり、執着が、子供のアメリカン・ジョークにまでいってしまうとなあ。ロバート・デ・ニーロの子供が学校で英語でジョークを書け、という宿題を出された。そのジョークにマフィアの会話をそのままつかった。それが学校新聞に掲載され、その新聞紙が包装紙につかわれ、アメリカにまで渡って、たまたま刑務所にいるボス(ロバート・デ・ニーロに裏切られた男)の目に触れて、ロバート・デ・ニーロ一家の隠れ家がわかる……。
 よくできたプロットなのだけれど、なんだか嫌み。どうもすっきりしない。途中にミシェル・ファイファーがフランスのバターとイタリアのオリーブ油の違いを語るシーンがあるが、まるでフランスのバターのように映画の体内に残って気持ちが悪い。
 水道から茶色い水が出る、ということに怒る暴力の爆発(配管工と、化学工場の社長の2回--2回と繰り返しているところが味噌)なんかロバート・デ・ニーロの人懐っこい顔があってとても生きているのになあ。ロバート・デ・ニーロを「肉体」として活用しているのになあ。
 マフィア映画を語るというとんでもないパロディーもロバート・デ・ニーロの顔を生かしきっている。
 クライマックス(?)の銃撃戦も、アメリカ映画とは違って、なんだか人情味(?)があって--映像のひとつひとつの切れが脂肪つきの体のようにもったりしていて(まあ、これはやくざ映画ではなく、コメディーなのだからかもしれないけれど)、あ、フレンチ味だと思いながら楽しめるのだけれど。
 だからこそ、ロバート・デ・ニーロの作家(ことばへのこだわり)→息子のアメリカンジョーク→学校新聞→刑務所でその新聞を読む→居所がわかるという絵空事の核心が「ことば」であるというのがなあ。フレンチ味はフレンチ味だけれど、胃にもたれる。ご都合主義はいいんだけれど、そこにフレンチ味が入っていることが、どうも落ち着かない。
 まあ、この映画が好き--という人は、私が嫌いと書いた部分が好きなんだろうけれど。
                        (2013年11月17日、天神東宝6)

リュック・ベッソン監督作品集 DVD-BOX
クリエーター情報なし
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン
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池田瑛子『岸辺に』

2013-11-18 09:52:25 | 詩集
池田瑛子『岸辺に』(思潮社、2013年10月31日発行)

 池田瑛子『岸辺に』は「ことば」を「声」そのものとして書いた作品が印象に残る。「記憶の雫」は狩野探幽の屏風絵を寄贈した人のことから書きはじめて、

驚いたことに 寄贈したのは
実家の町の老舗呉服店<丸久>さんのご主人
先代は亡くなった父の親友だったから
生前父は見たことがあるかもしれない
いつだったか 縁側に腰かけて
--丸久さんの庭は落ち着いたえぇ庭やがのう--
見てきた庭を重ねるように
しみじみ 呟いていた姿が
ふいに蘇る 声そのままに

 「ことば」を思い出しているのだが、それは「意味」というよりも「声」なのだ。肉体の感情なのだ。それにのみこまれるようにして、父が見たことがあるかもしれない屏風を見る。

見たことのないその庭の
高く大きく深く繁ったであろう樹樹が
風を通らせ
雪見灯籠や息づく苔に
揺れる光と翳を
降りそそいでいるのがみえる

 屏風は消えて、庭が見える。屏風の絵が、父の見た庭になる。これは「目」で見るというよりも「耳」で、「耳」に残る父の「感嘆の声」が肉体を刺戟する力で見る風景である。しみじみとした父の「声」が池田の肉体のなかで「蘇る」とき、池田は父になってしまうのである。父は絵を見たかどうかはわからないが、庭は見た。だから、その庭が絵に侵入し、絵を作り替えてしまう。
 「声」から他人になる。
 「声」から、「いま/ここ」ではない何かを蘇らせる、というのは「らふらす」も同じである。池田は「意味」ではなく「音/声」を覚えている。
 富山弁では消防車を「らふらんす」という。(私は聞いたことがないが、それは私の住んでいるところでは消防車がなかったからである。)池田はずーっとそれを覚えていた。いまはそれを覚えている人は少ない。夫も知らないという。ところが、

何気なく読んでいた新聞
とやま弁大会の記事にあった
大正時代に富山市に初めて導入された消防車は
外国のラフランス社製だった
ラフランスは富山弁で消防車を指すと
やっぱり<らふらんす>と呼んでいたのだ
心のなかで
  ら
  ふら
  ん す
迷子だったやさしいこ言葉が
昔の町へ帰っていった
赤い消防車になって

 「音/声」が「視覚」ととけあって「世界」が落ち着く。池田は「声/音」の人である。
 「風鈴」も印象的である。

若いお嫁さんだった頃
父と妹が我が家へ時節の挨拶にきた
帰り道
「あれは泣いた顔だったね」
ばーっと涙をこぼす父に
どう対処すればいいのか困ったわよ
四十年経ってはじめて聞いた
父が亡くなってからでも
二十七年経っているのに
「詩は書いているのか」
唐突に尋ねたのは優しい言葉のつもりだったのか
ほどかれてゆく記憶に
風鈴が鳴っていた

 池田の正直(肉体/記憶)が「声/音」といっしょにあるからこそ(声/音に反応するのもだからこそ)、最後の一行「風鈴が鳴っていた」が自然に落ち着く。



岸辺に
池田 瑛子
思潮社
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