詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野仲美弥子「風の鳴る音」

2014-03-25 11:16:43 | 詩(雑誌・同人誌)
野仲美弥子「風の鳴る音」(「幻竜」19、2014年03月20日発行)

 野仲美弥子「風の鳴る音」は、夫を亡くし、さらに納骨式を終えたあと、「夫愛用の椅子」に座りテレビを見る、というはじまり。

チャンネルを合わせる間
テレビは何時も通り従順だった
けれど いざ番組が始まると
待ちきれないとばかりに切れたのだ
大型花火の後のように
画面は真っ暗になった

真っ暗な夜はずっと続いた
押しても引いても 明けても閉じても
びくともしない真っ暗な夜
頑固に押し黙った不機嫌な
救いようのない夜

どうして? 何故?
寿命にはまだ間があり
故障のきざしもなかったのに

夫のせいだ
わたしにはピンときた

 なんでもないようだけれど、「夫のせいだ/わたしにはピンときた」がいいなあ、と思う。それまでの連は、ことばがまだるっこしい。故障したテレビの様子が長々と書いてある。私は、一度途中を省略して引用したのだが、省略したのでは、その長々しい、くだらない描写のくだらなさがわからないと思い、省略をやめて引用しなおした。--しかし、これは意地悪でそうしているのではなく、「夫の……」の2行のおもしろさを語るためである。
 それまでの行と、どこが違うか。
 それまでの描写はテレビの描写にすぎない。テレビの「できごと」、テレビに何が起きたかということしか書いていない。これは、どんなに書いてもつまらない。テレビが突然映らなくなった以上のことは「起きていない」。
 これに対して「夫の……」は野仲の「こころ」のなかに起きたことである。これが、おもしろさの理由だ。
 こころのなかだから、他人には何が起きたのかわからない。けれど「ピンときた」という表現に思い当たることはある。野仲の「ピンときた」と私が肉体でおぼえている「ピンときた」は実際には重ならないのだが「ピンときた」という変化、動きの感覚は重なる。理由はないけれど、何か「肉体」のなかに、「頭」ではどうすることもできない「ほんとう」があざやかに見える。「これだ」と思う。
 で、何が野仲のこころのなかで起きたか。こころのなかで起きていることは何か。それが次の連からはじまる。

テレビをこよなく愛した夫
晩年 お気に入りの椅子に座り
テレビを見ることが
唯一の楽しみだったのだ

骨になっても 部屋の片隅から
テレビを見ていたに違いない
みたいチャンネルをわたしが廻さないのに
地団駄を踏みながら
(略)
明日からテレビのない暗闇の世界に
行かなければならない
耐えきれなくない哀しみが爆発し怒りになって
残されたわたしにぶつけられたのか
お前も見るな と

 こころのなかで起きたことは「誤読」である。野仲のかってな「解釈」である。それがテレビの故障という「物理」とほんとうに関係しているかどうかはわからない。関係していないというのが「現代物理」の世界観だが、そういう「現象」はどうでもいい。
 テレビの故障をきっかけに、こころのなかで死んでしまった夫が動く。
 その夫の動き、夫をそういう人間として見る(思い出す)という「こと」が起きている。ここには野仲のこころの「できごと」が書かれている。
 こころのなかでは、夫は気に入りの椅子に座っている。テレビを見るのを楽しみにしている。生きているときはチャンネルを渡さなかった。チャンネルを渡さないと怒ったのだ。いま、夫はチャンネルを切り換えることができない。きっと地団駄を踏む。さらにもうテレビが見られないとわかるとカンシャクを起こし、「お前も見るな」と理不尽な要求をぶつける。
 ここに描かれている「夫像」に目新しいものはないかもしれない。けれど、その目新しくないものが、現実に動くのではなく、野仲のこころのなかで動く--それは、野仲にとってはじめてのことである。いつも経験してきたことの繰り返しに似ていても、それははじめて。
 そして、それは、野仲の夫への気持ち。
 あ、こんなふうに愛していたのか、こんなふうに愛されていたのか。
 テレビのチャンネルの奪い合いなんて、愛とは関係がないようだけれど、いっしょにいて、そこに「できごと」が起きるなら、そこにはやっぱり「愛」も動いている。それに気がつかないだけである。--と、書いてしまうと、センチメンタルなドラマになってしまうが……。
 それでも、この詩がセンチメンタルな流通詩になっていないのは、「夫のせいだ/わたしにはピンときた」の2行があるからである。その2行は、一見、それこそ「流通言語」に見えるけれど、そして「流通言語」であるという理由で詩には書きにくい表現なのだけれど。ここに、不思議な力がある。なまなましく、「こと」が起きている。「ピンときた」としか言いようない「こと」の存在を教えてくる。
 この2行をそのままにして、あとの部分を切り詰め、15行前後に整理すると、きっと谷川俊太郎の書いているような詩になる。「こと」をこころのなかに起きたことにしぼって書く、とてもおもしろいものになると思う。

 「夫の……」以下で書かれていること、「こころのなかのできごと」は、繰り返しになるが、「誤読」である。現実的な正しい世界に対する解釈とは言えない。死んだものの「思い」が物理に働きかける(物理がそういうものの影響を受ける)というのは、間違っている。
 でも、その「間違い」のなかに不思議な欲望がある。正しい欲望がある。本能がある。それは野仲が夫を愛していた、そして夫が野仲を愛していたと「わかる」正しさだ。人を愛するというのは、それがどんな形をとるにしろ「正しい」ものを含んでいる。そんなテレビはおもしろくない、こっちの方がおもしろいんだと我を張ることさえ、自分の欲望をさらけだして生きるという「ほんとう」を含んでいる。その「ほんとう」を受け入れてほしいという「絶対的な欲望」が動いている。
 こころのなかに起きている「こと」を書けば、それが詩なのだ。「愛している」という気持ちではなく、テレビのチャンネルを奪い合ったというような「こと」、思い通りにならないと地団駄を踏んだ、怒りを爆発させたという「こと」を、そのまま「こと」として書くとき、そこに「愛」が生まれてくる。
 あ、野仲と夫は仲がよかったんだ、と「わかる」でしょ? 「仲が悪かった」と野仲が言い張ったとしても、仲がよかったんだとつたわってくるでしょ? それが「愛」なんだろうなあ。「愛し方」が「わかる」と言いなおせばいいのかな?
 「ピンときた」ということばが、そういう「こと」のすべてを引き出すきっかけになっている。

野仲美弥子詩集 (新・日本現代詩文庫)
野仲 美弥子
土曜美術社出版販売
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(2)

2014-03-24 23:59:59 | カヴァフィスを読む
カヴァフィスを読む(2)               

 「老人」はカフェの片隅で机にうつぶせになって居眠りしている老人を描いている。

老人は思う、強く賢く見目よかった時を、
楽しまずに過ごした歳月の多くを。

 「見目よかった」という言い回しに、私は「老人」の本質を感じる。「美しかった」「美男子だった」では、何かが欠けている。「肉感的」な感じが欠けてしまう。「見目よかった」には見る/見られるという往復する運動がある。見られることによって、見られていることを意識することによって、見られているものが美しくなっていくような響きがある。目の、肉体の動きがある。それが生々しく、私の肉体に響いてくる。
 「美しかった」「美男子だった」では、そのことばは「頭」のなかで「論理」として整然と動く。しかし、「見目よかった」は視線の交錯を感じさせる。
 こういう肉体の感覚を思うとき、あ、これは男色の詩だなと感じる。

「分別」が自分を愚弄した。老人は思う、
バカだった。いつも信じた あのごまかし。
「明日しよう。時間はまだたっぷり。」

思い出す。衝動に口輪をはめた。喜びを犠牲にした。
失ったせっかくの機会がかわるがわる現れて
今あざわらう、老人の意味なかった分別を。

 「分別」ゆえに男色に手を出さなかった。喜びを犠牲にした。あのときああすればよかった、と後悔している。その後悔の、「明日しよう。時間はまだたっぷり。」が非常になまなましい。分別というような、はっきりした「意味」を超えるなまなましさがある。
 なぜだろう。
 「時間はまだたっぷり。」という表現のなかに秘密がある、と私は思う。この一文は、きちんとした文章にすると「時間はまだたっぷりある」になると思う。「ある」という動詞が省略されている。そのために、なまなましくなる。「ある」という表現をつかわなくても、老人(若い時代の彼)には「ある」はわかりきっている。わかりきっているので「ことば」にする必要がなかった。
 「時間」とか「分別」ということばは、それをことばにしないかぎり何をさしているかわからない。しかし、「時間がたっぷり。」と書くとき(言うとき)、それが「ある」ということは老人にはわかりいっていた。「頭」でわかっているというより、「肉体(頭以外の感覚)」でわかっていた。
 この若い肉体感覚を、中井久夫は「ある」を省略することで、なまなましく再現する。「見目よかった」と作用し合って、「肉体」が輝いている姿がそこに浮かび上がる。
カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
みすず書房
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タケイ・リエ「山鳥」

2014-03-24 10:37:12 | 詩(雑誌・同人誌)
タケイ・リエ「山鳥」(「ウルトラ」15、2014年03月20日発行)

 タケイ・リエ「山鳥」は、不思議な気持ちになる。

「猟犬をたくさん放して、ひよりが良くなったら山鳥を撃ちに行こうよ」

からだからいっせいに猟犬を放ってそれが
弾丸に変わってゆくときのきもちよさが
あなたにもわかるだろうと言われてもわからないのです
わたしはどちらかといえば山鳥なのでわからないのです

撃ち落とした山鳥から内臓をずるずるずるずる引き出して
猟犬に食わせることなどなんでもないとあなたは言います
でもわたしはどちらかといえば山鳥なのでとうてい賛成できない
百舌鳥がはやにえのショウリョウバッタを食べそこねては死ねないように

 ここには「あなた」と「わたし」がいる。でも、その「あなた」と「わたし」は明確に違うのだろうか。
 1行目は書き方が違っている。カギ括弧のなかに「あなた」のことばが入っている。独立している。ところが2連目からは「あなた」の言ったことばは「と言われても」「とあなたは言います」ということばのなかに組み込まれてしまっている。「わたし」のことばと接続している。
 切断しているのはと「と」ということばと「言う」と動詞。しかし、その「と」と「言う」は同時に「接続」でもある。「と/言う」は「切断」しながら「「接続」している。--あ、これは今書いたばかりのことの繰り返しか……。何か、ごちゃごちゃしてきたなあ。矛盾したことを書いているなあ。
 矛盾のなかには、大事なことがからみあっている。そのからみあいが、ごちゃごちゃ。だから、ごちゃごちゃを言いなおそう。
 「切断」と「接続」がごちごちゃになるのには理由がある。
 「切断」と「接続」のキーワードとなる動詞は、「言われる」「言う」という形で変化しているが、このとき変化しているのは「動詞」だけではない。「主語」が変化している。「わたしは・言われます」「あなたは・言います」。「主語」がすりかわって、動詞の活用を変化させてしまっている。
 こういうことは無意識におこなわれることなのだろうけれど、無意識だからこそ、そこに詩人の本質のようなもの(この詩の本質のようなもの)が浮かび上がる。
 だれかのことばを聞く。そこには「話者」の「思い」があるのだけれど、それを自分のことばで反復するとき、自分の「思い」が紛れ込む。
 紛れ込んで。
 最初は「わからないのです」と反発するのだけれど--これは、ほんとうに反発? もし絶対にいやなことならことばを反復などしないかもしれない。ていねいに反復してしまうのは、そこに何かしら惹きつけられるものがあるからかもしれない。
 あるいは、「あなた」は「わたし」が「わからない」という形で拒絶する、その拒絶をみたくて、わざとそんなことを言ったのかもしれない。そういう「かけひき」のようなものが、「あなた」のことばのなかにはないだろうか。(こういう「かけひき」が成り立つのは、「わたし」と「あなた」がある程度ねんごろなときである。)そういうことを「わたし(タケイ)」は感じ取ってはいないだろうか。つまり、反発しながらも(切断しようとしながらも)、反発(切断)より先に、何かが「接続」していないだろうか。「肉体」の「接続」がありはしないだろうか。
 タケイがどう感じたかは無視して、私は「あなた」の言っていることがとてもおもしろく感じられる。とても「肉感的」に感じられる。私はタケイも知らなければ、当然タケイの「あなた」も知らないのだが、「あなた」のことばから「肉体」の「誘い」を感じてしまう。「からだ」という表現があるからだけではない。
 「からだからいっせいに猟犬を放ってそれが/弾丸に変わってゆく」というのは、時系列が錯乱しているように感じられる。銃を撃つ。弾丸が飛び出す。山鳥が落ちる。それをみて猟犬が走りだす--というのが時系列かもしれないが、そういうことを繰り返しているとだんだん時系列の間隔がつまってきて、すべてが同時に起き、同時に起きることは順序が逆になっても違いはないような感じになる。そこに一種の陶酔感がある。それは「きもちよさ」に通じるのだと思う。この陶酔感にとっては時系列の切断と接続の順序はどうでもいい。どんな順序でおきようと、かまわない。
 これが、なぜか「わかる」。わかってしまうので「わからない」と言うことで自分の感覚を守ろうとする。「あなた」から「わたし」を引き離して(切断して)、自分を守ろうとする。
 でもね、「と言われて」「と言います」ということばで「接続」してしまったのは、タケイの方なのである。「接続」してしまったら、もう、その「接続」を生きるしかない。「賛成できない」というのは「ことば」の表面的な「意味」であり、「ことばの肉体」は「あなたのことば」とセックスしてしまっている。同じ方向へむかって動きはじめている。
 この官能(ことばの肉体のよろこび)が、不思議な長さの、ひらがなが多くて「ずるずるずる」としか感じのなかで動く。
 そして、最終連。(途中は省略。)

山ふかく走る猟犬たちの目がキラキラしている昼下がりに
しろいけむりがいくすじも流れてくるのをじっと見ている
春よりもあたたかい血のにおいがずっと消えないことを知って
うれしいようなうらめしいような気になるのはどうしてだろう

 「うれしい」と「うらめしい」が同列(区別のつかないもの)になる。「あなた」と「わたし」の区別がつかないように。初めての体位でセックスし、それが思いもかけないよろこびをうみだしたとき、それがうれしいような、うらめしいような、というのに似ているかな?そういう「記憶」(体でおぼえたこと)は、ずっと消えない。
 セックスのことなどどこにも書いていないのだけれど、ことばの動きが、セックスを感じさせるなあ。
                          

まひるにおよぐふたつの背骨
タケイ リエ
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(1)

2014-03-23 23:59:59 | カヴァフィスを読む
カヴァフィスを読む(1)               2014年03月23日(日曜日)

 中井久夫訳『カヴァフィス全詩集 第二版』(みすず書房、1991年04月25日発行)を読み返してみる。「壁」。(引用ではルビは省略した。)

こころづかいも あわれみも 恥さえなくて
私のまわりを高い壁で囲んだ奴等。

今は腰をおとし ただ絶望する私。
ひたすら考える、魂をさいなむこの悲運。

そとでやりたいことは 山ほどあった。
壁をきずかれて気づかなんだ 迂闊な私。

だが気配すらなかかった。音ひとつせなんだ。
こっそりと私を外界からしめだした奴等め。

 「壁」に閉じ込められている。壁は現実の壁か、象徴としての壁か。どちらにしろ外界と遮断されて、あれこれと思っている。「奴等」に対する怒り、自分自身に対する後悔がいりまじっている。絶望もまじっている。
 この詩で私がいちばんひかれるのは、「壁をきずかれて気づかなんだ 迂闊な私。」という行の「気づかなんだ」という口語の調子である。同じ口調は「音ひとつせなんだ。」というところにもある。
 「気づかなかった。」「音ひとつしなかった。」と訳しても「意味」は同じだが、受ける印象はまったく違う。「気づかなかった。」「しなかった。」ということばでは「文章」という印象がする。きちんとしすぎている。「気づかなんだ」の「ん」の音、母音の欠落が、ことばにスピードを与えている。思いが「肉体」のなかで一気に動いた感じがする。「文章」にする暇がなかったという感じがする。
 このスピードと、たとえば「迂闊な私。」では、スピードがまったく違う。「迂闊な」ということばは、どこか「頭」を経由してきたという感じ、自分だけのことばではなく、ひとが話していることば(流通している正式なことば)という印象がある。「迂闊」というとき、そこには何か「意味」の共有を求める意識があって、そのことばを選んでいる感じがする。「恥」や「絶望」もそうである。他人に何かを伝えようとしている。
 けれども「気づかなんだ。」「せなんだ。」には、他人と共有しようとするものがない。ただ、「私」のなかだけで起きたことを、「私」にだけ向かって言っている。そのためにことばは最短距離を動く。「ん」という母音を欠落した口語を動く。
 このことばの緩急が、そこにいる「私」の思いの乱れのようなものをそのまま具体化している。
 中井久夫の訳は、描かれているひとの「こころ」のできごと、こころのなかで何が起きているかを、ことばのリズムとして再現している。

カヴァフィス全詩集
コンスタンディノス・ペトルゥ カヴァフィス
みすず書房
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那珂太郎『現代能 始皇帝』再読

2014-03-23 15:06:41 | 詩集
那珂太郎『現代能 始皇帝』再読(思潮社、2003年10月01日発行)

 03月20日に岡本章演出の「現代能 始皇帝」を見た。その感想はきのう書いた。「能」の台本(脚本?)として書かれたものなので、舞台を見ることでこの詩は完結するのだが、読み返してみた。
 登場人物は始皇帝、徐福、兵馬俑(コロス)の3人、正確には始皇帝の亡霊、徐福の後裔とあわせ5人なのかもしれないが、そして兵馬俑の兵士はひとりではないのだから、もっと多いというべきなのかもしれないが--、登場人物は私には「3人」でもなお多い感じがする。数え方としては「3人」ではなく「1人」なのだと思う。「三位一体」というのはキリスト教の「数え方」だが、それに似た感じ、「3人」だけれど「1人」。状況に応じて3人になったり、5人になったりするが、それは「ひとり」の人間の変容のように思える。(これは能の印象と通い合う。コロスという集団のなかから始皇帝も徐福もあらわれ、また還っていくという感じだ。)
 
 では、その「1人」に統合する力は何か。能の場合は、「声(肉体)」が大きな役割を果たしていたが、詩の場合、ことばのもうひとつの要素「意味」が大きな役割を果たす。3人は「同じ」意味、「一つ」の意味を語る。ことばは「一つ(結論)」に収斂していく。
 46ページに「亡霊」のことばがある。(本文は正字で書いてあるのだが、引用はすべて略字)。

徐福は不老不死の仙薬を求むると称し
巨額の費用を請求し蓬莱島へ去れり
されど彼は再び帰ることなし、消息すら伝えず
彼は秦国を逃れ 亡命を図りしにあらずや
あらざる仙薬をわれに信ぜしめんと、欺きしにあらずや

 「信じる」と「欺く」という「動詞」が出てくるが、もうひとつ「あらずや」ということばに隠れて「疑う」という動詞もある。(動詞であるから「肉体」にも通じるのだけれど、「意味」にしぼってことばを動かしてみる。)
 この三つの動詞の関係は、「信じる」を中心にからみあう。偽りを信じると、欺かれる。欺かれないためには、信じる前に「疑う」必要がある。偽りを信じさせることを「欺く」という。
 「偽り」を中心にして、能動と受動が交錯する。「三つ」の動詞が、結局「一つ」のことを言っている気がする。

 このほかに「動詞」がはいり込む余地はないだろうか。ことばの「意味」を動かす動詞は、ほかにはないだろうか。
 徐福のことばが興味深い。47ページ。

われは皇帝を欺きたるに非ず
秦国を逃れて蓬莱国に来れるに非ず
われ蓬莱の島に来りてより、切に不老不死の仙薬を求めんと
或は剣山を攀じ幽谷に入り、或は人跡未踏の洞窟を探れども
つひにこれを見出すを得ざりしなり
されどわれは知りたり
仙薬を求むることの空しきことを  
       (注 「剣山」の「けん」は「山ヘン」に「験」のツクリ。代用した)

 「知る」という「動詞」がある。「信じる」と「知る」は違う。「信じる」は「真偽」があいまいなときの人間の態度である。「知る」は、そのあいまいを確かめ、どちらかに決めてしまうことである。
 そしてこの「知る」は「空しい」というところにたどりつく。先の三つの動詞は「知る」という動詞によって、「空しい」という「一つ」にたどりつく。たどりついたところは「知」である。動詞「知る」を名詞化すると「知」になる。

 この「知」はしかし、また、ややこしいものを含んでいる。引用が前後するが、始皇帝と徐福の二人の時空をこえた対話の前に、コロスのことばがある。44-45ページ。(一部省略)

この世の何れが悪にして
何れが善なるやを知らず
われは世の理非善悪をすべて信ぜざるなり
この世に絶対的なる真はあらず、絶対的なる善はあらず
されば、何事をもまた悪とする能はざるなり
善と做せば則ち善、悪と断ずれば則ち悪
善悪を決するは力あるのみ
さればこそ、われは力のみを恃み、絶対的権力者たらざるべからざるなり

 「知」は絶対ではない。「善悪」というような「もの」ではない何か、抽象的なことがら(知の対象)が「一つ」であることを許してくれない。「一つ」は「複数」にわかれていく。破壊され、分割されていく。「真理」もまた「絶対(一つ)」ではない。「絶対」は存在しない。
 「絶対」が存在しないなら、何が存在するのか。
 「信じる」「疑う」「欺く」というような、何かをめぐる「動詞」が存在する。名詞は存在しないが動詞は存在する。「肉体」といっしょに動く何かが存在する--と書きたいのだが……。

 「絶対」が存在しないなら、何が存在するのか。「間違い」が存在する--と書いてしまうと、これは那珂太郎の考えではなく、私の考えになってしまうのだが。
 書いてしまっておこう。書かないと、ことばが動かない。
 私は世の中に存在するのは「間違い」だけだ思う。「間違うという欲望」だけが存在する。たとえば始皇帝は不老不死という「間違い」を求めた。人間が死なないというのは間違いだけれど、そういう間違いを求めてしまうのが人間である。
 そして、この間違いはときどきおもしろいことを引き起こす。たとえば人間は飛べない。けれど、その「間違い」を飛行機をつくりだすことで乗り越えてしまう。初めて空を飛んだライト兄弟は、その瞬間、興奮したと思う。「肉体」を忘れてしまったと思う。けれど、その「間違い(技術)」が確立されてしまったあと、私たちはなんの興奮もなく飛行機に乗って空を飛んでいる。人間は鳥ではないので飛べないという「真実」をねじまげて、「間違い」を「真理」にしてしまっている。その「間違い」と「真理」のあいだには、「技術」という変なものがはいり込んでいるのだが、これは「物理」の世界だから。
 「間違い」を「物理」ではなく「心理」の世界にあてはめて考えると、物理の「技術」に対応するものはなんだろうか。
 「ことば」になるかもしれない。「語る」--その「文体」が「技術」に相当するかもしれない。
 ことばの組み合わせ方、動かし方、つまり「文体」が、「間違い」を「真理」に変えてしまう。
 あれ、そうするとそれは「欺く」とどう違う? 「欺かれる」とどう違う? 「間違い」を「信じる」と「欺かれる」ということになるのだが、「欺かれた」ひとにとっては、その「間違い」は「真実」だったからこそ「欺かれる」のである。
 人間はややこしくて、「嘘」と知っていてもわざと「欺かれる」ということもある。それは、わざと「間違える」のである。人間は「間違える」ことが好きなのである。「間違えて」でも、その瞬間に何かを味わいたいという本能のようなものがあるのかもしれない。

 脱線しすぎたかもしれない。

 端折って(飛躍して)、「文体」について書いておく。
 ことばは「一つ」をめざして動いていくが、同時に「複数」へ還っていくという往復運動をする。その往復運動が可能な「文体」が、ことばを存在させるのかもしれない。
 その「文体」にはふたつの側面がある。一つは「知/論理」という側面。それは「語り」のなかでは「ストーリー」という形で具体化する。この「始皇帝」という作品に則して言えば、始皇帝(徐福)が不老不死の仙薬を探し求めるが、「空しさ」という「知」にたどりつくというもの。
 もう一つは「音」。この詩では「漢文体」のことばの動き、その動きがつくりだす音。音を調和させながら、ことばが動く。「一つ」の音が全体に響きわたり、一つという印象を生み出す。
 「文学」の批評は、たいてい「論理(意味)」に偏っている。「論理(ストーリー)」を「思想」としてとらえるが、ことばは「論理」だけでは動かない。「知」では動かない。むしろ、自分の好きなことば、その「音」によって動いていくときがある。(この作品では、そういうことを指摘するのが難しいが……。)
 「論理」を「頭」とするなら、「音」は「肉体」--そういう感じが、那珂太郎の作品にはあるのではないだろうか。ある「論理(結論)」へ向けてことば動くけれど、同時にそのことばは、ことばの「音」そのものにあわせてくれる別の「音」を探している。「音」と「音」が重なり合って「和音(音楽)」になることを求めて動いてもいる。
 飛躍した言い方になるが、始皇帝、徐福が兵馬俑(コロス)のなかから生まれ、コロスに還っていく。コロスの夢なのか、始皇帝の夢なのか、あるいは徐福の夢なのかわからなくなるのは、その「音」が同じもの(同じ漢文体の響き)で動いているからである。論理だけではなく音楽としても動いている。

 飛躍の多い、「メモ」になってしまったが、ことばの「音楽」と「論理」の問題を融合させて、一つの作品にするということも、「始皇帝」では試みられているのではないのか。(別の機会に、また書いてみたい。)
現代能 始皇帝
那珂 太郎
思潮社
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錬肉工房公演・現代能「始皇帝」

2014-03-22 11:11:41 | その他(音楽、小説etc)
錬肉工房公演・現代能「始皇帝」(国立能楽堂、2014年03月20日)

 原作・那珂太郎「始皇帝」。演出岡本章。始皇帝、その亡霊(コロス)観世銕之丞、徐福(コロス)山本東次郎、徐福の後裔(コロス)宝生欣哉。

 10年ほど前、朗読だけの「始皇帝」を見た。今回の公演は、能の衣装をつけて、能役者が実際に動く舞台。ストーリーは不老不死を求めた始皇帝と、始皇帝の不死の夢を利用して生きる徐福の欲望が交錯する。徐福はほんとうに不老不死の薬をもとめて日本へ渡ったのか。それとも始皇帝の権力を逃れて日本へ渡ったのか。--というストーリーが兵馬俑の兵の声の間で展開する。兵馬俑もまた始皇帝の不死の夢の別の形である。(那珂太郎の詩は兵馬俑に触発されて書かれたもの。)
 能は大きくわけてふたつの部分からなる。(能の用語ではもっと簡単に言えるのかもしれないけど、私は能は初めてなので、自分のことばで「わかる」ことだけを書く。)
 そのふたつの中間点(折返点)、始皇帝が死んで、霊があらわれる転換(?)の場で、私はびっくりした。那珂太郎の「始皇帝」にはないことばが突然割り込んでくる。「始皇帝」にはないことばといっても那珂太郎の作品ことばである。「鎮魂歌」からの引用。それは「始皇帝」のストーリーのなかにあったものだが、「始皇帝」のなかにはいり込んで、違和感がない。いや、違和感がないというより、その乱入(?)によって、「始皇帝」の本質が深くえぐりだされるという感じである。「音楽」の愉悦が大展開する、という感じなのである。
 「音楽」の大展開のことはあとで書くことにして、まず、違和感(衝撃)のことから先に書いておく。この突然の「音楽」の乱入は、私には前衛劇(アングラ劇)の「音楽」のつかい方に似ていると思った。鈴木忠志の芝居や唐十郎の芝居の途中に、突然大音響で鳴り響く「歌謡曲」のような感じ。突然の違和感と、違和感でありながらなつかしいような、安心するような感じがする。やっていることは違うけれど、何か共通するものがある。鈴木忠志のギリシャ悲劇を題材にした芝居に、突然オーヤンフィフィの歌が流れると、「意味」を破壊しながら、「情念」が共通のものとして突然きらめく。「意味」ではなく、情念が人間を動かしていることが、本能的にわかる。その本能の目覚めのようなものが、「鎮魂歌」の挿入によって起きた。別なことば、そのことばの「音楽」が「始皇帝」の奥にある「音楽」を攪拌し、目覚めさせていく--そういう感じなのだ。
 この「音楽」の乱入の前には「意味」が非常に整然と動いていた。

 芝居はまず兵馬俑の兵士の声から始まる。「群読」のときと同じように、全員の一種のコーラスがある。ギリシャ悲劇のコロスである。コロスが「事件の背景」を語る。兵馬俑は始皇帝の不死の夢によってつくられたもの、幻が具体的な形となって実現されたもの。--そういう「群声」のなかから、徐福の末裔があらわれ、物語を動かしていく。集団の声のなかから「個人」が生まれてくる。始皇帝も、当然、そのコロスから生まれてくる。そういう関係をみていると、どんな偉大な声もまたコロス(集団/庶民?)の声である、一般のひとの声であるということなのか、それとも偉大な個人の声は集団のなかに広がり、広がりながら欲望を巨大にしていくということなのか……よくわからないけれど、コロスの声と個人の声は切り離せないということがよくわかる。声(意思)は集団という支えがあって動く。本物になる。
 この声の関係は、舞台と観客の関係にも似ている。舞台で生まれる声はストーリー(役者)の声だが、その声はまた観客のなかにある声だろう。あるいは役者の声が観客のなかに溶け込み、観客の肉体を刺戟し、観客に、この声は自分の声だと錯覚させるのか。いずれにしろ、観客は自分の肉体のなかにある声しか聞きとることはできない。(本を読んだとき理解できるのは自分の知っていること、自分のおぼえていること、わかっていることだけと同じである。)
 この個人の声、集団の声の融合と分離(独立)の関係がとても刺激的である。10年前の群読のときは、それぞれの個人が独立して動くわけではないので、分離の関係が「理知的」であったけれど、実際に役者が動くと、声が独立して「肉体」になる感じがする。明確であると同時に、非常に具体的で、刺激的だ。「頭」を刺戟してくるものより、肉体その藻を刺戟してくる感じがする。
 その群読と独立してくる声を聞きながら、私は、また別のことも感じていた。
 能の声、それは歌舞伎の声にも似たところがあるから、日本人の声と言えばいいのかもしれないけれど、その発声方法と声の広がり方は独特である。西洋のオペラのように肉体から出て、そのまま空間に広がっていくという感じではない。のどに圧迫感がある。声の出だしがつまっている。のどが解放されきっていない。その声を聞いていると、のどにせき止められ、外に出ていく声と同時に、肉体の内部に引き返す声があることがわかる。肉体の内部で声が響く。そして、その肉体の内の声と肉体の外部の声(外に出ていった声)が互いに呼応しあって、区別をなくす。境界がなくなる。では、それでは肉体が消えるのかというとそうではなく、肉体はそこにある。声が肉体になった、という感じがする。オペラでは、声は空間になり、観客をつつみこむが、能の声は、観客に触れてくると同時に、舞台の上で肉体のまま存在している。「声の肉体」と向き合っている感じがする。
 そういうことを感じながらも、私は、前半ではまだ「意味」を追っていた。ストーリーを追っていた。
 最初の群読、集団から個人が独立して声になるとき、そこにはまず「意味」があった。その「意味」はストーリーとしっかり絡みついていた。不老不死というのは人間に共通の夢である。その欲望にとりつかれた人間(始皇帝)とそれを利用して安楽の世界へ旅立った徐福、始皇帝は何を信じ、何を疑い、何にだまされたのか--というようなことを巡るストーリーを私は追っていた。
 ことろが、「鎮魂歌」の乱入によって、私は、そのストーリーから解放されて(?)、まったく別のことを感じるようになった。体がふるえるような興奮のなかで、その別のことのなかにのみこまれていった。
 「音楽」に。

 ことば、声には不思議な力がある。ことばは「意味」をもっている。意味というのはしっかりしたものである--か、どうかは簡単に言えないけれど、まあ、意味を中心にしてことばう動いているし、何かを理解するとは意味を理解することとほとんど同義である。
 けれど那珂太郎のことばを読むと(聞くと)、ことばには意味以外の何かあることがわかる。人間は論理(意味/ストーリー)とは違ったものによっても動かされていることがわかる。たとえば、実際に能のなかでつかわれたことば、「鎮魂歌」のなかのことばで言えば、「いろどり」ということばは鮮やかなイメージだが、その音はどこかで「どろどろ」という汚い(?)ものとも重なり合う。「意味」ではなく、音そのもの、その音を出すとき(発声するとき)、「いろどり」と「どろどろ」が混じり合う。これを不快と感じるひとがいるかもしれないが、私は一種の愉悦を感じる。「肉体」のなかに愉悦が生まれてくる。
 この愉悦はそれは「音楽」である。「意味」ではなく、「音」そのものの音楽(音の楽しみ)、音が自分で楽しんでいるのが肉体につたわってくる、その愉悦。

 で、「ことば」を「声」にするとき、「意味」とは別に「音」というものが動いているということを考えたとき、ふと、思い出したことがある。能役者の声の出し方は日常の声の出し方とはまったく違う。それはたとえば「兵(へい)」を標準語では「へえ」と発音するが、能役者たちは「へ」「い」と明確な音にするということ関係するのかもしれないが……能役者はことばを「意味」というよりも「音」そのものとして出していることがわかる。ことばというのは「音」がつながって、一塊になって「意味」になるが、能役者はひとつながりの音を、個別に、独立させて発声しているように私には聞こえる。まるで「意味」を分解して、「音」のなかに、ことば本来のもっている「意味」とは違うものを見つけ出そうとしているように感じられる。「音」そのものの力、美しさを解放しようとしているように感じられる。
 その印象が「鎮魂歌」の部分で、兵馬俑の描写ではないけれど、むくむくとことばのなかからあらわれてきたような印象があった。人間を(ことばを)動かしているものは「意味」ではない。ことばになる前の何か、「音(声)」、肉体から出て行く何か、肉体から生まれ出てしまう何かなのではないか、という感じがむくむくと動く。
 始皇帝の不老不死を求めるという欲望も、「意味」だけでは成立しない何かである。人間は誰もが死ぬということを知らない人間はいない。それでもその不可能を求めるというのは何か間違っているのだが、そういう間違いを誘い出すものが、人間の歴史を動かしている。人間は何かから逸脱し、そのために苦悩も愉悦も味わい、そのなかで生きている--その感じが、むくむくと動く。「音楽」のように、わけのわからないまま(意味にならないまま)、ただ強烈に動く。
 このときからあと、私は、能役者のことばを聞きながら、もうほとんど「意味」を追うことをやめていた。ストーリーは詩を読んで知っているからと言えばそれまでなのかもしれないけれど、能(芝居)にストーリーは関係ないような気がしたのである。
 「声の肉体」そのもののなかに、ストーリーを超える「意味」(意味と言っていいかどうかわからないが、何か大切なもの、能でしか表現できないもの)--そういうものがあるのではないかと思った。

 「声」が「ことば(意味)」ではなく「音楽」になったとき、その「音楽」にあわせて「舞」が始まる。私は正面席にすわっていて、「声」が右方向に座り、脇正面へむけて発せられているため、それまでの声とは違って聞こえることも、私の印象に影響しているかもしれないが。つまり、声は、人間の奥から肉体を突き破ってあらわれるというより、空気としてそこにあり、その声(音楽)のなかで肉体が陶酔して動いている、その陶酔が「舞」なのだと感じた。
 これに独特のリズムがくわわる(あるいは、「意味」ではなくリズムが肉体を動かしていく、という感じがする。)。能のリズムは、頭に拍があるのではなく、後ろに拍がある。歩くときの足の動きを見るとわかりやすいが、摺り足でうごいた足が最後につま先を挙げてそれからとんと下ろす。ツートン、という感じ。静かに動いてきたものが最後の瞬間爆発する感じ。そして、その「ツー」がだんだん詰まってきて、それが詰まるにしたがい爆発が大きくなる感じ。
 これに拍車をかけるのが、笛の「息」であり、太鼓、鼓の拍子である。群詠(コロス)が脇に座り、その声が正面からぶつかってこないかわりに、舞う役者の背後から、その肉体を突き破るようにして、息とリズムがあらわれる。息とリズムを拡大(増幅?)させてはっきり認識できるようにしたものが笛の音、鼓の音なのだ。
 ツーーートン、ツーートン、ツートン、ツトン、ットン、トン、トントン。
 (ひょーーーっ、ひょーーっ、ひょーっ、ひょろ、ひょ、ひ、ひ、ひひ)
 後ろにあった拍が前にせりだし、トントントンとつながると逼迫していく。陶酔が頂点に達する。
 このとき、私の体は自然に動く。能役者が足をドンと踏みならすとき、自然に足が動いてしまう。あっ、音をたててはいけない、と緊張しながら、その動きに酔ってしまう。
 その瞬間、「場」が消える。そこがどこなのか、忘れる。国立能楽堂なのか、始皇帝の霊がさまよう墓の近くなのか、そんなことは忘れる。ことばも消える。意味が消える。
 そして、「肉体」を発見する。
 はじめてそこに肉体がある(能役者がいる)ということに気づいたみたいにして、そこに「肉体」がある思う。
 ことばは「意味」から声になり、声は音になり、音は音楽になり、その音楽にあわせて動くとき肉体になる。
 声のなかに「肉体」があり、それが「人間」の「肉体」になって、あらわれている感じだ。意味が消えた声が音楽なら、その音楽によって生まれた肉体は舞(ダンス)だ。
 肉体の動きがダンス(舞)、声の動きが音楽。
 声の音楽(歌)から、音楽の肉体があられわて、舞いはじめている--その舞は、始皇帝の霊の舞であると同時に、コロスの舞でもあるのだと思った。
 群読からひとりの人間があらわれて動くように、コロスの声のなかからひとりの人間があらわれて舞う。それは始皇帝であると同時に、コロスの肉体のなかにいる純粋な人間のあり方である。
 そこにある、意味ではない力、何かが生まれてくる力そのものに、完全に酔ってしまうなあ。
 「幽玄」ということばがある。能を表現するのにしばしばつかわれるのだが、私は、無教養なので、そういうものは感じなかった。ただし、この陶酔が澄み渡ると「幽玄」になるのかもしれないと思った。「幽玄」とは、澄み渡った陶酔のことだろう。

 あらゆる「意味」が死に、そのあとに「意味」になろうとして動いた力が、声と肉体の幻のようにして、幻なのだけれど、くっきりと存在している。
 舞台が終わったあと、舞台にはだれもいない。けれど、そこには肉体の面影がある。生きて動いた、その動きが舞台に残っている。舞台の上で、その舞を真似してみたくなる。腕を振り上げて怒りに酔い、足を踏みならして苦悩に酔ってみたい衝動に駆られる。



 能の感想とつながるかどうかわからないのだが……。
 「始皇帝」のなかに「信じる」ということばが出てくる。「疑う」ということばも出てくる。始皇帝は徐福の不老不死の薬を見つけてくるということばを信じた。そして、徐福が帰って来ないので、彼のことばを「疑った」。疑いながら死んでいった。そこに、また「欺く」ということばもあった。
 「信じる」を中心に、一方に「疑う」があり、他方に「欺く」がある。それは三つあわさって「ひとつ」の「肉体」になっている。
 こういうことを那珂太郎は「知(知る)」ということばで「世界」にまとめる。那珂太郎には「疑う-信じる-欺き」という運動が世界を動かしていることがわかっている。それで、その関係を始皇帝と徐福の関係として再構成する。そういう「知」の世界の一方で、「音楽」の陶酔の世界がある。
 ことばは「意味」であると同時に「音楽」である。そして、もしかすると知(意味)よりも音楽の方が力を持っている。音楽の力を解放すると、世界が陶酔のなか(無秩序のなか)で動き、まだそこに存在しない「未生」のものを生み出す。
 そんなことも考えた。感じた。



現代能 始皇帝
那珂 太郎
思潮社
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佐々木安美「途方流木」

2014-03-21 10:36:06 | 詩(雑誌・同人誌)
佐々木安美「途方流木」(「生き事」8、2014年春発行)

 佐々木安美「途方流木」は、私の知らない葬儀の様子が書かれている。「集まったすべてのタマシイ、すべての人がひとつにつなが」る数珠回しが終わり、御詠歌が始まる。何番までやるかと喪主(たぶん)の母が聞かれる。

「18番まで」と母は答え、「あっ、やっぱり17番まででいい」と言いなおす。最上三十三観音。最初に親の長子さんが「となえたてまつる もがみかんのんだいいちばん鈴立山若松寺のごえいかに」と言うと、みないっせいに「かかるよにうまれあうみのわかまつやおいにもたのめとこゑひとこゑ」と唄い終わると鈴をチリーン鉦をチーンと鳴らして、「となえたてまつる もがみかんのんだいにばん宝珠山千手院のごえいかに」「みほとけのちかひはおもきりうしやくじねがいふこころはかろくありとも」とこんなふうに続く。

 へええ、と思いながら、なぜこのことばをおもしろく感じるのか考えてみた。知らないことが書かれているのがおもしろく感じる理由だけれど、知らないことなら世の中にいろいろある。そのなかで私が関心を持ったり(おもしろいと思ったり)、つまらないなあと思ったりする理由は何なのか。佐々木のことばのどこにおもしろさを感じたのか。

こんなふうに続く。

 その、「続く」に、私はそうか、と思ったのだ。それがおもしろいと思ったのだ。「続く」のは「続ける」人がいるからだけれど、佐々木は、ここでは「続ける」ということを書いてるのだな。
 御詠歌に限らず、人が死んだら葬式をする。葬式をするということを「続ける」。葬式を続けるなどとふつうは思わないけれど、そういう儀式を続けるということが「暮らし」のなかにある。そして、その「続ける」は実際に、その「続ける」に参加しないことにはわからないものがある。
 「続ける」に自分が参加するというのは、そして人が参加するというのは、そこに何かしら「個人的」なものを持ち込むことでもある。この詩の最初に、父の遺影の近くに「繁子」の遺影があると佐々木は知らされる。繁子というのは増水した川に流されて死んだ学年がひとつ下の知人である。たまたま父の命日と重なり、その家が寺の本堂に飾ってある。そういう「偶然」が持ち込まれる。無関係(?)であってもいいものが、「つながる」。
 「続ける」(続く)というのは、とこかで「つながる」。で、そういう感覚が「南無阿弥陀仏」の合唱をしながら数珠をまわすと、わけがわからないまま、あれやこれやがつながる。「つながり」のなかに「タマシイ」が「つながる」。
 ふーん。
 だから、「もがみかんのんだいいちばん」「もがみかんのんだいにばん」と「つなげていく」と、何かがつながる。それは客観的には「続く」(外側からみれば、「続く」)なのだが、その「続く」の内部に入る(参加する)と「つながる」という感じにかわる。
 外側から内側への、この変化が、どういえばいいのかなあ。区切りがない。それが、とてもおもしろいのだ。

 こんな書き方は「宗教的」になってしまうので、どうしようかなあと悩むのだが、葬儀を行なう(葬儀の伝統が続く/続ける)というのは、葬儀をとおして、いま/ここにいない人間と「つながる」ことだね。

 で、その「つながる」とき、とても大事なのか「声」。人が肉体のなかから息とともに吐きだす音。音をあわせる。音がことばになる。意味になる。--のだけれど、その「意味」以前に、声をあわせる(声がつながる)瞬間の、不思議な陶酔。それが「続く」という感じがする。
 佐々木の書いている「こんなふうに続く」の「こんなふうに」は、どうも私には、そういうもののような気がする。「御詠歌」に「意味」はあるのだろうけれど、「意味」を明確に意識しながら歌う(読む?)というより、声をあわせることで、その声をあわせるという行為のなかで生まれてく「つながり」の強さ、「つながり」に酔ったような感覚。それが「こんなふうに」の奥にあるように思える。
 「御詠歌」を佐々木はおぼえているかどうかわからない。詩の末尾に「引用」を明記しているから、それはおぼえているものを再現したというよりも、「本」を手本に筆写したということ(おぼえていなかった)ということになるだろう。「御詠歌」そのものはおぼえていない。すぐにはおぼえらもない。けれども、いっしょに「御詠歌」を歌ったということ、そこに誰がいたかということを佐々木はおぼえている。
 これだね、この詩の「本質」は。「ほんとう」は。
 「意味」がわからなくても「おぼえられる」ことはある。「意味」がわからなくても、それをすることができる。そして、そのことを「した」ということ、声を出してことばを言ったということは、「おぼえて」、忘れられない。
 肉体で「おぼえて」、肉体のなかに取り込んだもの、肉体を動かすもの--それが「思想」だ。肉体で再現できるものが「思想」だ。
 佐々木は、いま/ここで「御詠歌」を暗唱できるわけではないが、葬儀のとき、再び「御詠歌」を歌うことがあれば、それを歌うことができる。もちろん暗唱ではなく、本を見ながらの唱和(合唱)ということになる。合唱というのは不思議なもので、わけがわからなくても、他人にリードされる形で、自然とつながっていく。他人にリードされると、声がそれにあわせて出てくる。まるで「肉体」がつながったみたいに。そして、実際に「肉体」がつながっているのだと思う。
 で、このとき。(ここから、私は「飛躍」するのだが。)
 そういう「つながり」のとき、ひとはなぜか、そういうことが上手なひとにリードされて動いていく。下手なひとは上手なひとにリードされて、「正しい」何かにかわっていく。これは不思議なことだが、こうの不思議さがあるからこそ、ひとは他人といっしょに何かをしなければならないのかもしれない。
 父が死ぬ。そのとき葬儀がある。葬儀なんて、どうやっていいかわからない。わからないまま、それを経験したひとの動きにあわせて動く。その動きに、自分の動きを「つづける/つなげる」。そのと、そのひととひとの関係は一対一に見えて、それを越える。いま/ここにいないひとの世界へまでつながる。
 「肉体」ではなく「タマシイ」がつながるのか。
 私は、でも「タマシイ」ではなく、「肉体」がつながるのだと思う。「肉体」だけがつながる。「声」がつながるのだと思う。「声」を出すときの、「肉体」の動かし方がつながるのだと思う。

 で、とまた「飛躍」してしまう。
 きのう書いた松岡政則「土徳」は佐々木のこの詩とどこかで「つながっている」と私は感じる。
 「声(聲)」でつながっている。
 その土地で繰り返された「声(聲)」をひとは繰り返す。「御詠歌」であることもあれば、「長生きしすぎるとバチがあたるんじゃが」であることもある。また、「川」を「「川」としか呼んだことがなあ」「学がなあけぇ知らんのよ」ということにもなる。「知らない」ことでも「わかる」から、それでいいのである。「声(聲)」をとおして「わかる」。それを生きているひとと「つながる」。
 佐々木が「耳」を生きている人間だと、私は、この詩で気がついた。
 ことばを「聲(音を聞く)」という形でつかみ取っているひとの詩は、不思議な落ち着きとやさしさ、美しさがあるなあ。


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松岡政則「土徳」

2014-03-20 10:34:30 | 詩(雑誌・同人誌)
松岡政則「土徳」(「交野が原」76、2014年04月01日発行)

 松岡政則「土徳」。「土徳」というのは地名かなあ。それとも「土地の徳(いいところ)」という意味かなあ。そんなことばがあるかどうか知らないが、私は勝手に考える。辞書は、引かない。他人のことばで何かを「知る」よりも、自分で考えることの方が私は好きだ。あ、これは「考える」ではなく、「事実をでっちあげる」こと、意味を捏造すること、ことばを「誤読」すること--なのかもしれないけれど。でも、「その土地のいいところ」と考えたいなあ、そういう思いを揺さぶる詩だなあ。

ばあさまが莚にすわって
干したぜんまいを撚っている
ぼくもしゃがんでまぜてもらう
みな平地人になりたがって、
いまは同行も当番もなあ安気なものよ、という
長生きしすぎるとバチがあたるんじゃが、と笑う
土くれ相手の
せきららな聲だ
ここでしか生きられない聲だ

 「みな平地人に……」からの3行、土地のことばがまじった会話が何を意味しているのか、よくわからない。「同行」とか「当番」とか、わからないまま、これってお遍路の路の界隈? そんなことを思うのは「長生き」とか「バチ」ということばの影響だが、「長生きしすぎるとバチがあたるんじゃが」という「思想」は強いなあ、「肉体」そのものだなあ、と感じる。「長生きして苦しむよりも、適当なところ(?)でぽっくり死んでしまうのがいいなあ」とお年寄りがよく言う「口調」が、わからないことをすべて吹き払う。死ぬことを、こんなふうにして人間は納得していくのである。自分ひとりであれこれいうのではなく、仲間とあって、無駄口をたたいて、そのなかで少しずつ「自然」を納得する。人間だから、死にたいわけではない。でも死ななければならない。その死をどうやって受け入れるか。受け入れられるはずがない。だから、何度も繰り返して語り、何かを納得するんだろうなあ。
 哲学は死の練習といったのはソクラテス(あるいはプラトン)だが、そんなややこしい「定義」をしないまま、ひとは練習している。生きることのすべてが死ぬことの練習。生きているひとは、みんな知っている。
 「せきららな聲」の「せきらら」は「赤裸々」なのだろうけれど、こんな意味剥き出しの表記ではなく「せきらら」がいいなあ。「きらら」が明るく反射している。「せき」も「せせらぎ」の透明さが凝縮している。
 土地のばあさまが話す強い哲学(形而上学なんて必要としない哲学)に、意味が洗い流されて、「いのち」の絶対純粋(?)とでも呼ぶべきものになっている。

ここでしか生きられない聲だ

 は逆な言い方をすれば、「ここ」でしっかり生きてきた聲(ことば/哲学/思想)である。人間は、何もほかの土地へ行く必要はない。生まれてきたところで生きればいい。ほかの土地、他人を侵略して「生きる」のではなく、「いま/ここ」を生きる。生きている。その実感が聲(ことば)を鍛えている。
 そういう聲に比べれば、よそからやってきた松岡の聲は、なんの力も持っていない。ほかの土地では有効かもしれないが、ばあさま相手にはまったく無効である。無力である。自分のことばが無力であるということ、自分の思想(肉体)とは違う聲があると知ることだけが、自分を鍛える方法である。--あ、何か、論理が飛躍ししてしまったね。
 詩にもどる。

背戸のほうで
むだ吠えするのがいて
ひとりといっぴき
ないものはない自侭なくらし
あみだ仏ただ一仏をおがんできた
だれがこの土地を蔑むのか
なんで藍がまじるのか
川のなまえをたずねると
「川」としか呼んだことがなあ、という
学がなあけぇ知らんのよ、と笑う

 「なんで藍がまじるのか」はわからないが、そのあとの「川のなまえ」からのやりとりが楽しいなあ。ものにはなまえがある。でも、必要がないときもある。「川」だけで十分。川が一本だからだろう。ほかの川と区別する必要がない。それが「土地」に生きることである。
 松岡はいつでも「聲」を聞きとる。松岡は「声」ではなく「聲」と言う「耳」を含んだ文字をつかうが、そのこだわりにも「耳」を生きているという意識があるからだろう。「耳」で「ことば」の奥にあるものを聞きとる。そうやって聞きとった「ことば(思想)」が「聲」である。
 「学がなあけぇ知らんのよ」は「学」は必要ない、そんなものがなくても生きていける(生きて来れた)という宣言である。「せきらら」な「学」に対する批判である。この批判に答えられる思想(哲学)は、たぶん、ない。生きるのに必要なことは、生きている「土地」を知ることだけだろう。その「土地」に生きてきたひとの、その生き方を知れば、生きていける。そうやって生きてきた。
 この生きたかはたしかに「徳」(正しい道)と言えるだろう。

再稼働とか
バスの時刻とか
どうでもよくなってくる
柿の木のまたに
うんどう靴が干してあって
おかしくて哀しかった
あんなふうに還れたらとおもった

 ここにもわからないことはたくさんある。「あんなふうに」という最後のことば何をさして「あんなふうに」と言っているのかはっきりしない。はっきりしないから、ばあさまたちの「肉体」を思う。「長生きしすぎるとバチがあたるんじゃが」というときの顔を思い浮かべる。「「川」としか呼んだことがなあ」とあきれる顔。「学がなあけぇ知らんのよ」と開き直る顔。
 どこまで開き直れるか--「土地を正しく生きている人(土地の徳を体現する人)」は問うのだが、これに答えるのは難しい。答えられないのは「おかしい」し、また「哀しい」。こたえられないと「わかり」、その「わかる」なかに、何かを松岡はつかんでいる。だから、ことばを動かし、それを「つかんだ」という経過を書く。
 何をつかんだか--それは書けない。しかし、「つかんだ」と感じたときに動いたものをていねいに書く。そのとき聞いた「聲」を大事に書き留め、そこに残しておく。それが松岡の詩の方法である。

口福台灣食堂紀行
松岡 政則
思潮社
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山田兼士「小野十三郎邸界隈徘徊」

2014-03-19 10:32:31 | 詩(雑誌・同人誌)
山田兼士「小野十三郎邸界隈徘徊」(「交野が原」76、2014年04月01日発行)

 山田兼士「小野十三郎邸界隈徘徊」は読むのがめんどうくさそうな感じではじまる。

小野邸を探して
阿倍野区界隈を徘徊
僅かに残された路面電車
松虫駅と地下鉄昭和町駅の間の
下町の住宅街の片隅に
小野十三郎邸は
あった

 私がめんどうくさいなあと感じるのは、漢字が多いからだ。窮屈な感じがする。それがめんどうくさい。「徘徊」と体言止めの2行目もつらいなあ。私はことばを動詞でつかまえるので、こういう動詞派生の名詞は苦手。ちゃんと動詞にしてくれると肉体の動きがわかるのだけれど、これでは山田がどんなふうに町を歩いたのかわからない。肉体の動きがわからないまま、名詞だけが並べられている。
 まあ、山田にしてみれば、事実を「頭」できちんと整理して報告している、ということかもしれない。私はこういう「整理された頭」と向き合うのが苦手である。

お世辞にも
豪邸とは言えない
二軒長屋の左側の家である
もちろん小野さんがいるわけではないが
表札はかかったままである
いまにも下駄履き姿の
詩人が出てきそう

 ここで、ことばがちょっとかわる。4行目の「小野さん」が、やさしい。「小野(十三郎)邸」と書いていたときは何か距離のようなものがある。小野十三郎を特別視している感じがする。「小野さん」によって親近感のあるものになる。その前の「二軒長屋」、あとに出てくる「下駄履き」という「特徴」よりも、「小野さん」という無意識が気持ちがいい。そうか、山田は小野十三郎と知り合いなんだ。下駄履き姿を見たことがあるんだ。あったことがあるんだ、とわかる。(直接会っていないかもしれないけれど、会っているといえるくらい親近感を感じていたんだな、と想像できる。)

昭和十年から
平成八年に死ぬまで
詩人はこの家に住んでいた
詩人のすべてはテクストの中にあると
信じる者にとってこの場所は聖地
にして禁域だがその拘りも
既に消えていた

 ここで、ことばはさらに変わる。「昭和十年から/平成八年に」ときちんと言えることが、いいなあ。よく知っているのだ。小野のことを。きっと何度もこの家を訪問しているんだなあ。1連目の地名とは違った感じ、具体的な「年月」が見える感じがする。
 で、ここまできて、この「手触り」までたどりついて振り返ると1連目の「抑制」が静かでいいなあと、やっと気づくのだが。
 それよりも、

平成八年に死ぬまで

 この行の「死ぬ」がとても温かい。小野と親しかったことがわかる。「亡くなるまで」だったら、冷たい感じがする。「他人」という感じがする。「死ぬ」だから、ぐっと身近になる。「肉親」の感じだなあ。
 山田は「平成八年」だけではなく、何月何日まで言えるのだと思うけれど、そこをぐっと抑えているところもいいなあ。
 「詩人のすべては……」以下は、どういえばいいのかな、小野の住んでいた家とはあまり関係がない。どこに住んでいた。どこに家があるということとは関係がない。ここに突然山田の詩に対する向き合い方のようなものが書かれているのだが、それを書かずにはいられない。そういう変化を引き出すのが小野の家なんだねえ。
 説明しようとすると、どう書いていいのかわからないのだが、このめんどうくささは1連目について苦情を書いためんどうくささとはまったく逆。言いたい。このめんどうくささに踏み込んでゆけば、山田が「肉体」として見えてくるし、小野も「肉体」として見えてくる。山田の「肉体」と小野の「肉体」が触れ合い、混じり合い、離れてまた出会うというような「ことばのセックス」のようなものが見えてくるだが、
 うーん、
 詩人とテクストの関係にちらっと触れるだけでは、わからない。
 「ことばのセックス」のなかへ参加できないもどかしさがあるね。山田にとって、それは大切すぎて、簡単には書きたくないということかもしれない。

詩人が通った喫茶店で
珈琲を飲みつつ見上げると
相田みつをのカレンダーが目に入る
小野十三郎カレンダーがあってもいいのにな
と思いながら店を出たら
秋の日はとっぷりと
暮れていた。

 これはいいなあ。この連はいいなあ。小野の家を見て、そして小野が「死んだ」ということをあらためて確かめて(肉体で実感しなおして)、そこで小野を探す。小野がいるはずの場所に相田みつをがいる。--そう思うのは、山田の勝手なのだが、その「勝手」がいいなあ。山田の「肉体」がくっきりとみえる。「思想」が「肉体」の形でカレンダーをみつめている。
 「暮れていた。」の句点「。」が印づけているように、7行ずつ逆三角形の「定型詩」はここで終わっていいはずなのだが、「暮れていた。」で十分余韻があるのだが、それだけではまだ物足りない。
 山田の気持ちがおちつかない。
 気持ちが、まだ、ことばになってあふれる。

あべの筋に
出て見回しても
詩人が通ったパチンコ屋は
今は もう
ない

 逆三角形の「形」は守っているが、ここだけ5行。で、4連目で「小野十三郎」という名前が出てきて、ぐっと盛り上がったのに、また「詩人」という距離のあることばに変わる。その距離のなかに、「今は もう/ない」パチンコ屋が見える。「ない」を見るとき、そこに「小野十三郎」が「ない」というのも見える。

 山田の「気持ち」の変化が、ことばの変化といっしょになっている。
 これはさびしくて、いい詩だなあ。山田の感じているさびしさ、小野がいなくてさびしいという「肉体」が小野の家のまわりを歩いて、それから山田に帰っていく「肉体」が見える、いい詩だなあ。

羽曳野―詩集
山田 兼士
澪標
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細見和之「スピノザの『エチカ』をめぐって」

2014-03-18 09:52:56 | 詩(雑誌・同人誌)
細見和之「スピノザの『エチカ』をめぐって」(「交野が原」76、2014年04月01日発行)

 細見和之「スピノザの『エチカ』をめぐって」はタイトル通りスピノザの『エチカ』が出てくる。講演を依頼されて、

思いついた講演タイトルは「『エチカ』はどこまでエッチか?」
頭はもう現代詩モードに入ってもどらないのでした

 という状態になる。
 でも、「現代詩モード」って、何?
 岩波文庫から『エチカ』を引用しながら、妄想する。そのまま引用すると面倒なので、ちょっとスタイルを変え、省略しながら転写してみる。

「人間身体を組織するうち固体のうち、あるものは流動的であり、あるものは軟らかく、最後にあるものは硬い。
(略)
「硬いもの」が「軟らかい部分」に絶えず突き当たっているというようなイメージが
私にはとてもエロティックに感じられてくるのでした

 「現代詩」とは「ことば」を暴走させることである。「軟らかい」「硬い」は『エチカ』に書かれている。もちろんほかの文章にも出てくるだろう。そういうことばを読むと、人間の軟らかいもの、硬いものが思い浮かぶ。そこからセックス連想してしまう。
 これは、中学生の感覚だね。国語辞書にある「性器」ということばに反応して勃起する思春期の男子。数学をやりながら、「括弧の中にXを入れる」の「入れる」にさえ反応して、くすくす笑ってしまう。ことばを、それがつかわれている文脈から切り離し、自分の知っている「セックス」のことばとしてつかってしまう。ことばを、ある文脈から解放し、それを暴走させると「現代詩」。特にエロスへ暴走させると「現代詩」になるらしい。まあ、そうだろうね。
 こういうのは楽しいね。

そう思っていると、こんなことも書いてあります
「もちろん馬も人間も生殖への情欲に駆られるけれど、馬は馬らしい情欲に駆られ、
人間は人間らしい情欲に駆られる。」(同上、二三二頁)
こう書いてあると、もう私の頭のなかには
馬のような情欲に駆られて咬み合い交わっている愛しい人間の様子がありありと浮かんでくるではありませんか

 これもいいなあ。
 でも、私は「欲張り」なので、「馬のような情欲に駆られて咬み合い交わっている愛らしい人間」が、あまりおもしろくない。物足りない。なぜ「馬のような情欲に駆られて咬み合い交わっている愛しい私」ではないのかな? 「人間」という誰でもない存在なのかな?
 気取ってない?
 私は、馬のような情念に駆られたい。馬になりたい。これって、男根主義なんだけれどね。馬のペニスの巨大さ。男の能力をペニスの大きさで判断するというのは男根主義にほかならないのだけれど、男はバカだから、誰だって馬のペニスに憧れ、あの巨大なペニスのなかにはどんな情念が詰まっているのだろうと考えてしまう。きっとあんなに大きいと情欲に振り回されてしまうんだろうなあ。振り回されたいなあ。
 細見は、「咬み合い交わっている」姿を「愛しい」と呼んでいるけれど、つまらないね。馬が交合しているのは「愛しい」かもしれないけれど、自分が馬になってセックスするなら「愛しい」じゃないだろうなあ、と思う。せっかく、馬になったんだから、もっと暴走してほしいよ。こんなところでやめちゃうの? 「現代詩」になっていないんじゃない? そう言いたくなってしまう。
 とっても、おもしろいのに。
 でも、細見は言及していないのだけれど「人間らしい情欲」って何だろう。
 うーん、私は、馬と人間をごっちゃにするような情欲こそ「人間らしい」と思う。というのも、きっと馬は人間のセックスを見ても欲情しないだろうと思うから。(馬じゃないから、わからないけれどね。)
 自分ではないもの、無関係なものに、ふっとひきずられ、その「情欲」を生きるなんて、人間にしかありえないと思うなあ。
 そして、これは、ちょっと考え直してみると、ある文脈の中のことばを、別の文脈のなかで暴走させる「欲情」をもつというのも、「人間」ならではのことなんだろうなあ、と思う。スピノザは、真面目に「哲学」している。その哲学から「硬い」「軟らかい」だけをひっぱりだしてきて、セックスに書き直すというのは、「人間の情欲」なんだと思う。そうすると「現代詩」は「人間の情欲」にあふれている言語、ということになるなあ。おもしろいなあ。

 で、これは細見が作品のなかで実際にやっていることなのだけれど、そういう視点から『エチカ』を読み直すと、どこかに「人間の情欲」が暴走した部分はない? 見つかるんじゃない。あるんですねえ。細見によれば「嫉妬」について触れた部分。

愛するものの表象像を他人の恥部および分泌物と結合せざるをえないがゆえに愛するものを厭うであろう。」(同上、二〇六ページ)
この「分泌物」ってもちろん精液のことですね
「恥部」の原語はpudentum--辞書には医学用語で「女性の外陰部」とありますから

 あ、細見はスピノザに負けてるじゃないか、スピノザの方が「現代詩」してるじゃないか、と思ってしまう。「哲学」を男と女のセックスの関係で言いなおしている。いや、ちがった。セックスを「哲学用語」で書いている。ポルノ(?)をやっている。他の文脈でつかれている言語を引っぱってきて、独自の「意味」を持たせて世界を語り直す--そういうことをもうスピノザはしてるじゃないか。細見はスピノザに、負けてしまっている。 なぜ、あとからやっても(後出しじゃんけんでも)負けてしまうのか。
 やっぱり、馬の部分で「馬のような情欲に駆られて咬み合い交わっている愛しい人間」と書いてしまったせいだな。自分を出さずに、客観的を装ってしまった。これが失敗。スピノザは逆に「哲学」という「客観(?)」を書くふりをして自分を出している。男を出している。男根主義を丸出しにしている。「馬の情欲」「分泌物(精液)」ということばが端的にそれをあらわしている。馬ではなく「兎の情欲(ペニスが小さい言われている)」を選んでいたら、『エチカ』はきっと違ったものになっただろうねえ。



 最後に、ちょっと脱線(?)。
 きのう、川田果弧「ピアノフォルテ」の作品に対する感想を補足する形で、定型詩と「緩急」の問題について少し書いた。口語とセンチメンタル流通言語のぶつかりあいでは「緩急」が甘くなりすぎる。もっと異質なものがほしい、というのが私の願望だけれど、というようなことを書いた。
 で、細見の詩を読みながら、あ、これだね、と思った。
 口語と哲学用語のぶつかりあい。それを定型詩にすると、おもしろいだろうなあ。細見が書いている『エチカ』と「エッチ」、哲学用語にセックス言語をぶつけ、加速させる。それを「自由詩」ではなく「定型詩」で書く。これは、きっとおもしろい。
 エッチ、セックスというのは「枠」をはずした瞬間におもしろくなる。「哲学用語」はあくまで厳密に「枠」を外れないことが論理の基本。「意味」をきちんと踏まえるのが「論理」。その論理の運動にセックスが割り込み、なおかつ、体裁そのものは「哲学(定型)」というのは、いいだろうなあ。


闇風呂 (〈1〉)
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川田果弧「ピアノフォルテ」(追加)

2014-03-17 09:57:19 | 詩集
川田果弧「ピアノフォルテ」(追加)(「現代詩手帖」2014年03月号)

 きのう川田果弧「ピアノフォルテ」について書いた。そのとき書きそびれたこと。定型詩は、どうしてもことばに無理がかかる。不要なことばが入って間延び(?)したり、逆に凝縮せざるを得なくて窮屈になったり。
 その緩急を川田は口語とセンチメンタル流通言語でバランスをとりながら動かしていた。私にはセンチメンタル言語が目につきすぎて、おもしろいと思う気持ちがだんだん減って言った。
 で、この緩急について考えるとき。
 杜牧「江南春絶句」(岩波文庫)がおもしろい。

千里鶯啼緑映紅 千里 鶯啼いて 緑紅に映ず
水村山郭酒旗風 水村 山郭 酒旗の風
南朝四百八十寺 南朝 四百 八十寺
多少楼台烟雨中 多少の楼台 煙雨の中

 三行目の「四百八十寺」。これは寺が多いことをあらわしているのだと思う。実際に四百八十の寺があったというわけではないだろう。で、その寺が多いという言い方はたくさんあると思うけれど、「四百八十寺」という文字に出会ったとき、私は驚いた。一行が七字なのに「四百八十」で四文字もつかっている。四文字つかいながら、それがあらわすイメージはひとつ。「千里」とかわらない。あるいは「鶯啼」と変わらない。「鶯啼いて」にはまだ「動詞(動き)」がある。「緑映紅(緑紅に映ず)」にはふたつの色、「映ずる」という動詞がある。情報量が多い。「四百八十寺」は、情報量が少なすぎる。
 少なすぎるのだけれど。
 ここが、この詩のいちばん不思議なところ。盛り沢山のイメージ、ひしめき合う運動が、この「四百八十」ですっきりする。それまでの凝縮していたことばが、風で吹き払われたように広々とする。ここには「緩急」の「緩」がある。この「ゆるんだ」広がり(それを想像するとき、そんなに想像力を必要としない)があって、ことばがおもしろくなっている。
 定型詩から吸収しなければならないのは、こういう緩急だろうなあ、と思う。
 俳句にもこういう緩急があるね。(具体的に思い出せないけれど、何か、異質なものがぶつかり、そこに広がりがあるものが……。)
 川田の作品は、その「緩」の部分を口語で表現しようとしていたのだと私は思っているのだが、その口語の「緩」に対抗する「急」がセンチメンタルでは、全体が甘くなる。もっと異質なことばがぶつかれば、定型詩としていっそうおもしろくなったと思う。
現代詩手帖 2014年 03月号 [雑誌]
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ジャン=マルク・バレ監督「ダラス・バイヤーズ・クラブ」(★★★)

2014-03-17 09:55:19 | 映画
監督 ジャン=マルク・バレ 出演 マシュー・マコノヒー、ジャレッド・レト

 この映画について書くとき、どうしても触れなければならない問題がある。演技と肉体の関係である。マシュー・マコノヒー、ジャレッド・レトはHIVのキャリアを演じるために大変な減量をしている。これを、どう評価するか。肉体そのものをリアルに再現しているのだが、私は、役へのこうした接近が好きではない。かつてロバート・デニーロは「レイジングブル」で体重を増やしておちぶれたボクサーを演じたが、それも好きではない。ここまでやったんだ、という演じ方が好きではない。それは演技とは違うものではないか、と思ってしまう。
 ハリウッドでは、これに似たことがしばしば行なわれる。実在の人物を演じるとき顔(体つき)を本物に近づける。「そっくりさん」に扮する。
 体重を増やしたり減らしたりするのも、その「そっくりさん」と同じやり方だ。「そっくり」を演技だと思っているのかもしれない。でも、演技は、「肉体」がそっくりということではなく、肉体をとおしてあらわれてくる何か(精神、と書いてしまうと、これもちょっといやなのだけれど)が、「ほんもの」と感じられるとき、それがおもしろいのではないだろうか。
 映画は残酷な表現媒体であって、肉体の細部を拡大してみせる。そのためどうしても肉体そのものに視線があつまり、肉体の表面(外観)がそっくりであるかどうかが、演技と勘違いされる。これは、いやだなあ。肉体として動いている何かではなく、肉体そのものだけで役者を評価するようで、どうも落ち着かない。

 と、長い前置きになってしまったが。
 前の方の、激しくやせたマシュー・マコノヒーの演技は、私は好きではない。あまりにも肉体が露骨にさらされる。ジャレッド・レトもかなりやせてスクリーンにあらわれて、これではまるで減量合戦だぞ、と思っていると。
 マシュー・マコノヒーがメキシコに行き、治療薬(だけではないのだが)を大量に仕入れるあたりから少し状況が変わってくる。30日で死ぬはずが死なずに生き延びて、薬を売って金を稼ぐところから少し様子が変わってくる。たぶん最大に減量するまえに撮影したのだろうけれど(映画の中の時系列と撮影の時系列は逆なのだろうけれど)、表情もいきいきしている。生きていて、何が悪い、とでも言うように、エネルギーにあふれている。HIV感染者であることを忘れてしまう。余命30日と宣告された人間であることを忘れてしまう。
 そして、これが私の言いたいことなのだが。
 このマシュー・マコノヒーがHIV感染者であると忘れてしまうこと、観客に感じさせないこと--これこそが、この映画のテーマである。彼がHIV感染者であるのはたまたまのことであり、この映画のテーマは「生きる」ということ。どんな病気であるかがテーマなのではなく、どんな病気であろうとそれにめげずに生きてやろうとする貪欲な意欲。それも他人に頼って生きるのではなく、自分にできることを探して生きる。そのことに、夢中になってみてしまう。
 どうでもいいようなシーンなのだけれど、たとえばHIVキャリアとわかってから女とセックスするのを避けていた(セックスできないようになっていた)マシュー・マコノヒーが、「バイヤーズ・クラブ」にやってきた女とセックスするシーンがある。トイレに女を連れ込み、他人に声を聞かれるのを気にせずに、セックスする。この無軌道さというか、無秩序さというか、これがすばらしいね。他人がなんと思おうが関係ない。生きたいように生きる。
 で、マシュー・マコノヒーは、戦う相手が「病気」ではなく、だんだん「社会」そのもであることに気がついていく。FDR(だったっけ? なんでもいいんだけれど)、薬剤を取り締まる国家、「安全」を旗印に国民に薬剤を選択する自由を与えない国家こそが敵なんだと発見していく。
 このあたりになると、マシュー・マコノヒーは、もう完全に健康な人間とかわらない。彼はHIVと闘うふりをして、本当は国家と闘っている。健康な人間にもできないことを、いきいきとやっている。彼がHIVを忘れ、国家と闘うとき、私もマシュー・マコノヒーがHIVのキャリアであることを忘れる。
 このとき。
 「平等」というものが動いている。「差別」が消えている。
 HIV感染者であるということだけを描くと、そこにどうしても「差別」(同情)がはいり込む。でも、国家と個人の闘いになると、そこに病気があっても、一瞬、忘れてしまう。(ほんとうに忘れてしまってはいけないんだけれど。)「病気」の存在を乗り越えて、マシュー・マコノヒーと観客の「共闘」がはじまる。「連帯」がはじまる。
 こんな政治的メッセージを映画は強く打ち出しているわけではないが、それを感じる。押し付けではなく、楽しい感じで、その「共感」が動く。

 だからこそ、と言っていいのかどうか、わからないが。
 20キロも減量して「肉体」をHIVキャリアに近づけなくてもいいのだ。だいたいマシュー・マコノヒーはやせている。そのままHIVキャリアと言ってしまえばよかったのだ。「平常のマシュー・マコノヒー」を多くの観客は知っている。そういう観客は30日しか余命のない人間を演じるのにマシュー・マコノヒーはいつもと同じ肉体をしているじゃないかと思うかもしれないが、そんなことは一瞬のこと。肉体が動き、ことばが動けば、観客は「動いているもの」に集中する。動かない「外形」なんか関係がない。
                     (KBCシネマ1、2014年03月16日)

マジック・マイク DVD
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川田果弧「ピアノフォルテ」

2014-03-16 11:22:49 | 詩(雑誌・同人誌)
川田果弧「ピアノフォルテ」(「現代詩手帖」2014年03月号)

 川田果弧「ピアノフォルテ」は「新人作品」の一篇。「定型詩」である。

誰も乗らない観覧車が回り続ける海沿いの町
にせものの野望を見透かされてしまったので
ちょうど逃げようと思ってたところだったの
嘘をつくのは得意だけれど今度ばかりは本当

 行のそろった4行がこのあともつづいていく。
 こういう「定型」を見ると、ちょっとごまかされる。ごまかされるというと川田に申し訳ないが、読んでいるとき変なことが起きる。簡単に言ってしまうと、「ふーん、よく行をそろえたなあ」という感想がふっとはいり込んでしまう。どの行を読んでも、気持ちが半分、ことばではなく「形」の方へ行ってしまう。
 そして、たとえば「ちょうど逃げようと思ってたところだったの」の「ちょうど」と「の」という口語の係り結び(?)みたいな口調の甘さは、この「定型」を守ろうとして生まれたんだな、と感じる。「思っていたところだった」ではなく「思ってたところだったの」なのは、同時に「定型」を内部から崩してみせる口調なのだな、とも感じる。「定型」にしばられてるのではなく、口調という肉体にしたがっているふりをしてみせているのだとも感じる。巧妙だなあ。ずるいなあ、という感じ。
 「嘘をつくのは得意だけれど今度ばかりは本当」という体言止めの1行も、形を守りながら、形の内部で「文語」ではなく「口語」が動く。
 さて、これをどう読むか。
 言い換えると、騙されてみるか、という気持ちになれるかどうか。ごまかされてみる気持ちになれるかどうか。--これは、言い方をかえると、いい年をしたおじさんが、若い女にたぶらかされるときの感じだね。「意味(愛)」を楽しんでいるのではない。「愛」なんてないと知りながら、そこにある「欲望」(甘ったるい感じの、自分の失ったもの、自分をもう一度感じさせてくれるもの)を、いま、ここで味わえばいい。あとはどうなってもかまわない、という感じでことばを読み続けられるかどうか……。
 まあ、誘いにのってみるのも、悪くはないね。

店の片隅でピアノにおずおずと手を伸ばして
愚かな指先にじゃれつく音を夢想する終演後
この店の誰もが私を酔っ払いだと思っている
そのほうが好都合なので否定はしないけれど

 「愚かな」とか「じゃれつく」とか、口先だけの自己観察としまりのない口語。口ぶり、と言った方がいいかな? そこには、もちろん「意味」があるのだけれど、「意味」以上に、口語の「思わせぶり」が充満している。「肉体」が裸で動いている。
 1連目では「思ってた」と書かれていた動詞が、2連目では「思っている」と「い」がきちんと書かれ、その「きちんと」を踏まえて、「そのほうが好都合なので否定はしないけれど」という「投げやり」を、あたかも「客観的(冷静な判断?)」と思わせる小さな小さな工夫--うーん、うまい。
 でも、3連目。

ちょっとした悪戯のつもりで鳴らす不協和音
見知らぬ酔客が上着の釦をかけちがったまま
グラスの割れる音と同時に左足から店を出た
それが古い言い伝え通りの手順だったなんて

 こうなると、どうかな? 「定型」の内部を崩して「定型」を否定していた「甘ったるい口ぶり」が「文語」の「甘さ(雰囲気?)」にすりかわっていない? それとも、最初からこの文語(意味)の甘さを輪郭(定型)で隠すことが目的だったのかな?

 ことばは、何かをあらわすと同時に何かを隠すものだから(ひとつのものを指し示すとき、ほかのものは一瞬除外されるものだから)、どっちでもいいのかもしれない。

 しかしね、

バド・パウエルになれず調教師になった父と

青いライトのステージはさながら深い海の底
人影のまばらなフロアに探すのはも会えぬ人

 こうなってしまうと、「歌」だ。
 「口語」が「文語」を借りて、歌を歌っている。それも何というのか、若い女の歌ではなく、おじさんのセンチメンタルをくすぐる、昔の若い女の歌。私は、ちょっと身構えてしまう。誘われてもいいかな、騙されてもいいかな、と思っていた「すけべ心」が消えてしまう。
 なんだよお、こんなふうに騙すつもりなのか。「すけべ心」を見透かして、「定型」と「口語」をミックスさせてみせたのか、と気持ちが覚めてしまうなあ。

 あ、だんだん、最初に書こうとしていたことと違うことを書いてしまう。
 最初は「定型」を利用しながら、その内部で「口語」をちらつかせる文体が刺激的でおもしろい。その「口語」にセンチメンタルをまぜあわせ、おじさんを騙す手口が老練(年増女みたい)でおもしろい、と書こうとしていたのだけれど、書いているうちに「年増女」が、古くさい女、嫌いになってしまった女のように思えてきたのだった。
 私の感想は、いい加減だねえ。



 「新人作品」のもう一篇。福田臨未「臨月」。

春先、突然殴られるような空気のなかで
話し方を忘れたい
落とし穴みたいな月の下
ティッシュ配りのバイトにまぎれて詩を配る
戦争も告白も着てしまう時代だ
夢中で聞いたバンドはすでに解散していた
大学校内という春画
精も卵も拡散する
あなたたちの恋愛に共鳴もコーヒーもない
牛丼屋の紅生姜に与謝野晶子の気配
使い古された世界の終わりで
本日も存在がゆらぎだす
一九六八の夕日に刺される
あのこはこういうこと、興味ない

 あ、この「口語」の方が新鮮でいいなあ。「定型」に頼らずに「文体」になっている。文体は、やっぱり外側にあるのではない、ことばを内部から突き破る力が生み出すものなんだと思った。「与謝野晶子」はいやだなあと思ったが、すぐに「使い古された」ということばで洗い流していくから、まあ、いいか。





現代詩手帖 2014年 03月号 [雑誌]
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ガシュペル・ビウシェク「おばあちゃん」(管啓次郎訳)

2014-03-15 10:35:47 | 詩(雑誌・同人誌)
ガシュペル・ビウシェク「おばあちゃん」(管啓次郎訳)(「現代詩手帖」2014年03月号)

 ことばを読むとき、人はどういうことをしているのだろう。ガシュペル・ビウシェクはスロベヴェニアの詩人。どういうことばで書いているのか、私は知らない。私は管啓次郎の訳(日本語)で「おばあちゃん」を読む。そのとき、私は、ことばをどう読んでいるか。

 おばあちゃん、あなたは管理人であり認識の門番、悪い報せを伝えるトランジスタラジオ、救いがたいメランコリーに囚われて、臓器の機械、すべてを育てる人、満月の人。

 おばあちゃんの姿が見えてくる。その姿が見えてくるとき、たとえば「管理人」「認識の門番」はそのまま「管理人」「認識の門番」ではない--というのは、変な言い方だが。私は「管理人」をそのまま「名詞」としてつかみ取っていない。「(アパートの)管理人」が住人にあれこれ注意している姿を思い浮かべる。「泥道を歩いてきたまま、エレベーターにのったら困ります。靴の泥を落としてからのって」と注意する、こごとを言う、そういう「動詞」としてつかみとって、「あ、そういう人いるなあ」と思う。「認識の門番」も「あんたの言うことは間違っているよ」とぶつくさ批判するというような「動詞」としてつかみとって、「お年寄りは、自分の知っていることにこだわる。がんこだよあな」と思う。頑固に自分を主張するという「動詞」として「おばあちゃん」に近づいていっている。
 おばあちゃんはが知らせるのは、いつも悪いニュースばっかり。悪いニュースを伝えるという「動詞」がおばあちゃん。「胃が痛いんだ。あした死んでしまうよ」と内臓(肉体)のあれこれに不平をいいながら、くらい顔をしている。トランジスタラジオという比喩からはおばあちゃんがちっちゃい、体が小さいということがわかるが、そういう「姿」よりも、おばあちゃんの行動が「わかる」。この「わかる」は誤解かもしれないけれど、私の知っている老人の行動に共通するものがある。
 形よりも行動(動詞)が似ている。動詞が共通する。
 私はことばをつかむとき、いつも「動詞」でつかんでいるのだと気がついた。いろいろな名詞にはわからないものがあるが、「動詞」にはわからないことばがない。どんな外国語でも「動詞」は「わかる」。それは「肉体」でなぞりなおすことができる。
 アパートの管理人が住人に文句を言っている。そんなことをされたら私の仕事が増えるばっかりと苦情を言っている。その具体的な苦情の内容はわからなくても、管理人が住人に何かを言う。そのときの、声の出し方、体の動かし方--そういうものから、「苦情を言っている」ということが「わかる」。私は「ことば」を正確に反復できるようになる前に、「動作(動詞)」で、そのひとの「思い」をつかみとる。これは私だけではなく、あらゆる人間がすることだと思う。赤ちゃんは、ことばがわからないまま(自分では反復できないまま)、それでも親のいうことが「わかる」。他人のしていることが「わかる」。子供は「知らないことば」を聞きかじりながら、そのことばといっしょに動いている人間の、その動きを見ながら、徐々に「意味」をつかみとるのと同じだ。
 で、詩には、そういう「動詞」があると、とても親しみやすいもの、あ、この詩はいいなあ、好きだなあという気持ちになる。
 そういう気持ちになって、その細部をみていくと……。

すべてを育てる人、

 おばあちゃんは「育てる」人なのだ。「管理人」「認識の門番」というのは、単に住人に苦情を言っているのではない。自分の知っていることにこだわり我を張ることではない。「おばあちゃん、そういう認識(考え方)は古いよ、まちがっているよ、いまはこうなんだよ」と反論しても、あるとき、あ、おばあちゃんの言っていたのはこういうことだったのかと「わかる」ときがある。それは、おばあちゃんのことばを聞いた人が、それが「わかる」までに育ったということなのだ。おばあちゃんは、自分以外の人を育てる。悪いニュースを知らせるのも、(そしていっしょに悲しむのも)、体が痛いよ死んじゃうよと訴えるも、不平を言っているだけなのではない。それは、やっぱり子供を、孫を、そして近所の人を「育てる」のだ。やがて、だれもがおばあちゃんのようになる。おばあちゃんになれるよう、おばあちゃんは人間を「育てる」。
 そして、

満月の人

 夜を明るく照らす。暗いとき、ひとの支えになる。その「支える」もまた、おばあちゃんは人に手本を見せ、見せることで他人を「育てる」。
 人は「育つ」ために何をしなければならないのか。

紙でいったい何を包んでいたの。秘密の抽き出しに整理して。花や傷ついた動物たちの世話係、夢のねずみとり、知ったかぶりでお天気予報、猫の目占い師、世界のブランコ、血管の浮き出た手。鋤があなたの顔を耕した。杖をもち、不死身。夜を徘徊する昔話の亡霊、子供の目にはバウバヴ(おばけ)。錠剤好き、民間療法も。

 なんでもしなくてはならない。秘密を抽き出しに隠すことも。動物や花の世話をすることも。「する」ことが「育つ」ことである。「した」ことだけ、人は「育つ」。しなかったことは「肉体」に跳ね返って来ない。
 鋤で畑を耕す。その苦労が、肉体に跳ね返って、顔の皺になる。畑(大地)という「無情/非情」に働きかけ、それがおばあちゃんの「肉体」の「情(表情、顔の表にあらわれた感情)」になる。苦労が皺を育てる。畑を育てるということは自分が「育つ」こと。
 「育つ」ために「育てる」。

あなたの言葉は魔法の世界の薬。被害妄想の反キリスト、羊歯の異教徒、浄火の炎に焼かれる魔女、この煙は稲妻のさきぶれ、農場を守る。子供時代なんかなかった人、青年時代だってなかった人、慈悲もなく、戦争の恐怖におののく、無名墓地の墓守、悪い血の生き証人、溌剌とした体の犠牲者。即興のお針子。士官のコートから結婚衣装を縫ってみせる。

 ここに書かれているのはスロヴェニアのできごと。日本のできごとではない。けれど、そこに書いてあることが「わかる」。「わかる」のは、こういうことばにたどりつく前に、何度も何度も「動詞」を私が潜り抜けるからである。「動詞」を潜り抜けながら、だんだん「おばあちゃん」になり、その「おばあちゃん」を書いているガシュペル・ビウシェクになる。おばをちゃんを見ながら「育った」ガシュペル・ビウシェクになっているからである。
 そして、そこにおばあちゃんと孫、人間と人間の関係、育て、育てられ、学んで生きるという「動詞」が見えてくるからである。
 私はいつでも「動詞」を読む。「名詞」ではなく。



現代詩手帖 2014年 03月号 [雑誌]
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谷川俊太郎「春」

2014-03-14 11:21:38 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「春」(「谷川俊太郎のポエメールデジタル2014年2 月28日発行 vol.16 )
(谷川俊太郎公式ホームページ『谷川俊太郎.com』:http://www.tanikawashuntaro.com/)

 谷川俊太郎「春」は、何でもないことが書かれている--誰もがふと口にするようなことが書かれている。1連目は、子供がよく言う「論理」まがいの表現に似ている。

何もしていない
息だけをしている

 経験あるでしょ? 「何してる」「何もしていないよ」「うそつけ、息してるじゃないか」。ちょっと反論できないけれど、「息している」って、それは「していること」? たぶん「していない」こと。そして、このときの「している/していな」「する/しない」は「意思」の問題だね。息はしようとしてしているのではない。肉体が自然にしている。息を意識的に動かすのは、レントゲンで胸の写真をとるときとか、水中に潜るときとか、限られている。
 というようなことは、書きはじめると、ただうるさいばかりだ。
 こういうことは、書かずに、あ、そういうことがあるね。そういう反論があるね、というくらいの、軽いお喋りだ。
 ただし。
 このお喋りは軽く見すごしてはいけない。ここには、深い深い「意味」がある。「意味」というのは、私の考えでは、まあ、でっちあげたもの。どうにでもなるのものだけれどね。という前置きをして、私は、強引にこんなふうに言う。
 これは軽いお喋り。で、そういう軽いお喋りをするとき、人は相手と「軽い何か」、たとえば「軽い空気」のようなものを共有する。「いっしょにいる」という「気楽な感じ」。それを人は共有する。「意味」なんか考えないけれど、考えないまま、「いっしょにいる」ということがわかる。「いっしょにいる」というのは、そして不思議なことだけれど、「いっしょ」ではないものも、ある、ということ。
 あ、少しずれてしまったかなあ。
 それはたとえば、何もしていない(随意筋)で体を動かしているのではないけれど、肉体のなかには随意筋のほかに不随意筋があって、それは「意識」とは無関係に肉体を維持するために動いている、という感じとちょっと似ている。意識しないものがいっしょにあって、その働きによって、いま/ここに自分がいるという感じに似ている。
 ほんとうの友達(気の置けない友達)というのは、ちょっと「不随意筋」に似ている。無意識によりそっていて、たいていのときは気がつかないのだけれど、「何もしていない」「息をしているじゃないか」というような軽いお喋りの形で、ふっとそこに「いる/ある」ことがわかってくる。
 そういう「深い意味」が、実は、ここにあるわけなんです。

 まあ、いま書いたのは、「息しているじゃないか」という「反論」のように、一種の「じゃれあい」の哲学だね。「じゃれあい」の思想だね。重要じゃない。けれど、私はこういうものを大切にしたいという気持ちがある。
 また脱線した。

 さて、2連目。その最初の2行。

手は何かしたがっている
足はどこかへ行きたがっている

 書かれていることは「わかる」。「わからない」ことばが何一つない。
 でも、この「わかる」を、じゃあ、どんなふうにわかったかと説明しようとすると難しい。手におえない。
 「随意筋/不随意筋」ということばを利用して考えると、「手は何かをしたがっている」というのは「手の随意筋」の思い? 「不随意筋」の思い? 「不随意筋」というのは「意思」とは関係ないから、何も思わないのだから、それが何かを「したい」と思うわけがない。では、手の中の「随意筋」? 
 うーん。違うなあ。
 何かをしたいと思うのは、あくまでも「人間」。手も「人間」の一部だけれど、手が何かをしたがるわけではない。
 あ、でも、そうとも言えないなあ。
 美しい絵の具を見る。それをどこかに塗りたくりたい。手が、そうしたがっている。新しい機械がある。手が、機械を動かしたがっている。そう感じるときがある。いちいち「頭(意思)」をつかうのではなく、「意思」をほったらかしにして、まず「手が動きたい」と思うときがある。
 足も同じ。広い野原。太陽がいっぱい。走りたい。それは「意思」(随意筋を動かすという意識)とは関係がない。「意思」は逆に走るな、と言っているかもしれない。けれど、足は走りたいと叫んでいる。そんな感じのときがある。
 これ、「わかる」ね。
 「わかる」けれど、じゃあ何がわかったのか、ことばじゃ言えない。ことばではなく、手や足、つまり「肉体」が反応しているのかもしれない。「肉体」でわかることがあるのだ。

 ここで、私がいつも引き合いに出す例をまた書いておこう。
 誰かが道に倒れて腹を抱えて呻いている。あ、腹が痛いんだ、と「わかる」。他人の痛み、他人の肉体の痛みなのに、「わかる」。「肉体」が反応するのだ。共感するのだ。何かを共有するのだ。
 そういう「肉体の共有する何か」に触れてくることばというものがある。
 谷川のことばには、そういう不思議な力がある。

 2連目の、残りの2行。

頭は考えたがっている
心はなかなか空っぽにならない

 うーん。
 ほんとうに、うーんと唸るしかない。
 「頭」と「心」っ、どう違う?
 これも、説明しようとすると、うまく言えない。でも、

心は考えたがっている
頭はなかなか空っぽにならない

 とは、このとき、言わないねえ。「頭が空っぽになる」という表現がないわけではない。衝撃的なこと、うれしいことがあると「頭が空っぽ」になることがある。そのとき「心は空っぽになる」とは言わない。
 なぜだろう。
 「心が空っぽ」になるというのは「無心」ということかもしれない。「空(から)」と「無」がどこか重なり合う。
 「頭が空っぽ」はどうかな? 「頭が真白になる」「頭が空白になる」とは、言うなあ。そのときの「空白」の「空」は、「無心」の「無」? 「真白」というのは「色がない」という意味でもある。そのときの「ない」は「無心」の「無」?
 厳密に考えると「わからない」。でも、きっと通い合うものがあるんだろうなあ。

 その通い合うものを、ぱっとつかんできて、

頭は考えたがっている
心はなかなか空っぽにならない

 すーっと読んでしまう。その通りと思ってしまう。このとき、私は「考えている」のではない。「無意識」だ。「無意識」に何かを谷川と「共有」している。それは、人間の誰もが「不随意筋」と無意識に生きているのに似ている。
 と書いてしまうと、ちょっと、強引?

 谷川の、この「春」という詩は、とりたてて何か新しいことが書いてあるという感じはしない。ふと感じることをそのまま書いているように思える。でも、なぜ、こんなふうに誰もが思うこと(私がふと思うこと)がそのまま谷川のことばとしてそこにあるのか。そのことを考えると、何を言っていいかわからない、変な気持ちになる。
 自分で書いたのなら、それでいい。そう思うことがあるのだから。でも、なぜ、谷川が私のふと思うこと、無意識で思うことをことばにしている?
 おかしいよね。
 おかしいけれど、それは考えはじめるとおかしいのであって、詩を読んでいるときは、あ、「わかる」。これと同じことを思う、という感じ。「共感」しているだけ。何かを「共有」している、という感じ。

 あ、こんなこと書かずに、「谷川のこんどの詩は春の気持ちがいい感じで書かれている」とだけ言えばよかったのかもしれないなあ。
 (詩には、私が引用していない部分、後半があります。ポエメールを購入して読んでください。)


自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)
谷川 俊太郎
岩波書店
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