野仲美弥子「風の鳴る音」(「幻竜」19、2014年03月20日発行)
野仲美弥子「風の鳴る音」は、夫を亡くし、さらに納骨式を終えたあと、「夫愛用の椅子」に座りテレビを見る、というはじまり。
なんでもないようだけれど、「夫のせいだ/わたしにはピンときた」がいいなあ、と思う。それまでの連は、ことばがまだるっこしい。故障したテレビの様子が長々と書いてある。私は、一度途中を省略して引用したのだが、省略したのでは、その長々しい、くだらない描写のくだらなさがわからないと思い、省略をやめて引用しなおした。--しかし、これは意地悪でそうしているのではなく、「夫の……」の2行のおもしろさを語るためである。
それまでの行と、どこが違うか。
それまでの描写はテレビの描写にすぎない。テレビの「できごと」、テレビに何が起きたかということしか書いていない。これは、どんなに書いてもつまらない。テレビが突然映らなくなった以上のことは「起きていない」。
これに対して「夫の……」は野仲の「こころ」のなかに起きたことである。これが、おもしろさの理由だ。
こころのなかだから、他人には何が起きたのかわからない。けれど「ピンときた」という表現に思い当たることはある。野仲の「ピンときた」と私が肉体でおぼえている「ピンときた」は実際には重ならないのだが「ピンときた」という変化、動きの感覚は重なる。理由はないけれど、何か「肉体」のなかに、「頭」ではどうすることもできない「ほんとう」があざやかに見える。「これだ」と思う。
で、何が野仲のこころのなかで起きたか。こころのなかで起きていることは何か。それが次の連からはじまる。
こころのなかで起きたことは「誤読」である。野仲のかってな「解釈」である。それがテレビの故障という「物理」とほんとうに関係しているかどうかはわからない。関係していないというのが「現代物理」の世界観だが、そういう「現象」はどうでもいい。
テレビの故障をきっかけに、こころのなかで死んでしまった夫が動く。
その夫の動き、夫をそういう人間として見る(思い出す)という「こと」が起きている。ここには野仲のこころの「できごと」が書かれている。
こころのなかでは、夫は気に入りの椅子に座っている。テレビを見るのを楽しみにしている。生きているときはチャンネルを渡さなかった。チャンネルを渡さないと怒ったのだ。いま、夫はチャンネルを切り換えることができない。きっと地団駄を踏む。さらにもうテレビが見られないとわかるとカンシャクを起こし、「お前も見るな」と理不尽な要求をぶつける。
ここに描かれている「夫像」に目新しいものはないかもしれない。けれど、その目新しくないものが、現実に動くのではなく、野仲のこころのなかで動く--それは、野仲にとってはじめてのことである。いつも経験してきたことの繰り返しに似ていても、それははじめて。
そして、それは、野仲の夫への気持ち。
あ、こんなふうに愛していたのか、こんなふうに愛されていたのか。
テレビのチャンネルの奪い合いなんて、愛とは関係がないようだけれど、いっしょにいて、そこに「できごと」が起きるなら、そこにはやっぱり「愛」も動いている。それに気がつかないだけである。--と、書いてしまうと、センチメンタルなドラマになってしまうが……。
それでも、この詩がセンチメンタルな流通詩になっていないのは、「夫のせいだ/わたしにはピンときた」の2行があるからである。その2行は、一見、それこそ「流通言語」に見えるけれど、そして「流通言語」であるという理由で詩には書きにくい表現なのだけれど。ここに、不思議な力がある。なまなましく、「こと」が起きている。「ピンときた」としか言いようない「こと」の存在を教えてくる。
この2行をそのままにして、あとの部分を切り詰め、15行前後に整理すると、きっと谷川俊太郎の書いているような詩になる。「こと」をこころのなかに起きたことにしぼって書く、とてもおもしろいものになると思う。
「夫の……」以下で書かれていること、「こころのなかのできごと」は、繰り返しになるが、「誤読」である。現実的な正しい世界に対する解釈とは言えない。死んだものの「思い」が物理に働きかける(物理がそういうものの影響を受ける)というのは、間違っている。
でも、その「間違い」のなかに不思議な欲望がある。正しい欲望がある。本能がある。それは野仲が夫を愛していた、そして夫が野仲を愛していたと「わかる」正しさだ。人を愛するというのは、それがどんな形をとるにしろ「正しい」ものを含んでいる。そんなテレビはおもしろくない、こっちの方がおもしろいんだと我を張ることさえ、自分の欲望をさらけだして生きるという「ほんとう」を含んでいる。その「ほんとう」を受け入れてほしいという「絶対的な欲望」が動いている。
こころのなかに起きている「こと」を書けば、それが詩なのだ。「愛している」という気持ちではなく、テレビのチャンネルを奪い合ったというような「こと」、思い通りにならないと地団駄を踏んだ、怒りを爆発させたという「こと」を、そのまま「こと」として書くとき、そこに「愛」が生まれてくる。
あ、野仲と夫は仲がよかったんだ、と「わかる」でしょ? 「仲が悪かった」と野仲が言い張ったとしても、仲がよかったんだとつたわってくるでしょ? それが「愛」なんだろうなあ。「愛し方」が「わかる」と言いなおせばいいのかな?
「ピンときた」ということばが、そういう「こと」のすべてを引き出すきっかけになっている。
野仲美弥子「風の鳴る音」は、夫を亡くし、さらに納骨式を終えたあと、「夫愛用の椅子」に座りテレビを見る、というはじまり。
チャンネルを合わせる間
テレビは何時も通り従順だった
けれど いざ番組が始まると
待ちきれないとばかりに切れたのだ
大型花火の後のように
画面は真っ暗になった
真っ暗な夜はずっと続いた
押しても引いても 明けても閉じても
びくともしない真っ暗な夜
頑固に押し黙った不機嫌な
救いようのない夜
どうして? 何故?
寿命にはまだ間があり
故障のきざしもなかったのに
夫のせいだ
わたしにはピンときた
なんでもないようだけれど、「夫のせいだ/わたしにはピンときた」がいいなあ、と思う。それまでの連は、ことばがまだるっこしい。故障したテレビの様子が長々と書いてある。私は、一度途中を省略して引用したのだが、省略したのでは、その長々しい、くだらない描写のくだらなさがわからないと思い、省略をやめて引用しなおした。--しかし、これは意地悪でそうしているのではなく、「夫の……」の2行のおもしろさを語るためである。
それまでの行と、どこが違うか。
それまでの描写はテレビの描写にすぎない。テレビの「できごと」、テレビに何が起きたかということしか書いていない。これは、どんなに書いてもつまらない。テレビが突然映らなくなった以上のことは「起きていない」。
これに対して「夫の……」は野仲の「こころ」のなかに起きたことである。これが、おもしろさの理由だ。
こころのなかだから、他人には何が起きたのかわからない。けれど「ピンときた」という表現に思い当たることはある。野仲の「ピンときた」と私が肉体でおぼえている「ピンときた」は実際には重ならないのだが「ピンときた」という変化、動きの感覚は重なる。理由はないけれど、何か「肉体」のなかに、「頭」ではどうすることもできない「ほんとう」があざやかに見える。「これだ」と思う。
で、何が野仲のこころのなかで起きたか。こころのなかで起きていることは何か。それが次の連からはじまる。
テレビをこよなく愛した夫
晩年 お気に入りの椅子に座り
テレビを見ることが
唯一の楽しみだったのだ
骨になっても 部屋の片隅から
テレビを見ていたに違いない
みたいチャンネルをわたしが廻さないのに
地団駄を踏みながら
(略)
明日からテレビのない暗闇の世界に
行かなければならない
耐えきれなくない哀しみが爆発し怒りになって
残されたわたしにぶつけられたのか
お前も見るな と
こころのなかで起きたことは「誤読」である。野仲のかってな「解釈」である。それがテレビの故障という「物理」とほんとうに関係しているかどうかはわからない。関係していないというのが「現代物理」の世界観だが、そういう「現象」はどうでもいい。
テレビの故障をきっかけに、こころのなかで死んでしまった夫が動く。
その夫の動き、夫をそういう人間として見る(思い出す)という「こと」が起きている。ここには野仲のこころの「できごと」が書かれている。
こころのなかでは、夫は気に入りの椅子に座っている。テレビを見るのを楽しみにしている。生きているときはチャンネルを渡さなかった。チャンネルを渡さないと怒ったのだ。いま、夫はチャンネルを切り換えることができない。きっと地団駄を踏む。さらにもうテレビが見られないとわかるとカンシャクを起こし、「お前も見るな」と理不尽な要求をぶつける。
ここに描かれている「夫像」に目新しいものはないかもしれない。けれど、その目新しくないものが、現実に動くのではなく、野仲のこころのなかで動く--それは、野仲にとってはじめてのことである。いつも経験してきたことの繰り返しに似ていても、それははじめて。
そして、それは、野仲の夫への気持ち。
あ、こんなふうに愛していたのか、こんなふうに愛されていたのか。
テレビのチャンネルの奪い合いなんて、愛とは関係がないようだけれど、いっしょにいて、そこに「できごと」が起きるなら、そこにはやっぱり「愛」も動いている。それに気がつかないだけである。--と、書いてしまうと、センチメンタルなドラマになってしまうが……。
それでも、この詩がセンチメンタルな流通詩になっていないのは、「夫のせいだ/わたしにはピンときた」の2行があるからである。その2行は、一見、それこそ「流通言語」に見えるけれど、そして「流通言語」であるという理由で詩には書きにくい表現なのだけれど。ここに、不思議な力がある。なまなましく、「こと」が起きている。「ピンときた」としか言いようない「こと」の存在を教えてくる。
この2行をそのままにして、あとの部分を切り詰め、15行前後に整理すると、きっと谷川俊太郎の書いているような詩になる。「こと」をこころのなかに起きたことにしぼって書く、とてもおもしろいものになると思う。
「夫の……」以下で書かれていること、「こころのなかのできごと」は、繰り返しになるが、「誤読」である。現実的な正しい世界に対する解釈とは言えない。死んだものの「思い」が物理に働きかける(物理がそういうものの影響を受ける)というのは、間違っている。
でも、その「間違い」のなかに不思議な欲望がある。正しい欲望がある。本能がある。それは野仲が夫を愛していた、そして夫が野仲を愛していたと「わかる」正しさだ。人を愛するというのは、それがどんな形をとるにしろ「正しい」ものを含んでいる。そんなテレビはおもしろくない、こっちの方がおもしろいんだと我を張ることさえ、自分の欲望をさらけだして生きるという「ほんとう」を含んでいる。その「ほんとう」を受け入れてほしいという「絶対的な欲望」が動いている。
こころのなかに起きている「こと」を書けば、それが詩なのだ。「愛している」という気持ちではなく、テレビのチャンネルを奪い合ったというような「こと」、思い通りにならないと地団駄を踏んだ、怒りを爆発させたという「こと」を、そのまま「こと」として書くとき、そこに「愛」が生まれてくる。
あ、野仲と夫は仲がよかったんだ、と「わかる」でしょ? 「仲が悪かった」と野仲が言い張ったとしても、仲がよかったんだとつたわってくるでしょ? それが「愛」なんだろうなあ。「愛し方」が「わかる」と言いなおせばいいのかな?
「ピンときた」ということばが、そういう「こと」のすべてを引き出すきっかけになっている。
野仲美弥子詩集 (新・日本現代詩文庫) | |
野仲 美弥子 | |
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