詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(155)(未刊2)

2014-08-24 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(155)(未刊2)   2014年08月24日(日曜日)

 「クローディアス王」は「ハムレット」を下敷きにしている。

甥が王を殺した理由
どうも合点がゆかぬ。
王に殺人容疑をかけたが、
疑惑の根拠といえば
何と! 古城の戦闘城楼を散策して
幽霊と会って話をしただけ。
幽霊の話が王にたいする確実な告発と
王子は思ったとさ。

 カヴァフィスがシェークスピアを好んでいることは、その詩が演劇的(芝居的)なことからもうかがえる。どの詩も芝居の一シーンのようだ。ストーリーを分断して(ストーリーはみんなが知っている)、その場面だけを取り出す。そうしておいて、そこに登場人物の「主観」を繰り広げる。ストーリーが背後に隠され、説明されないので、その「声」の強さ、響きだけが印象に残る。「声」が印象に残るように、カヴァフィスは書く。
 いま引用した部分には、しかし、その「声」はあまり強く感じられない。かろうじて「思ったとさ」の「さ」という中井久夫の訳にそれを感じるくらいである。

幻覚の発作にちがいない。
眼の錯覚だあ。
(王子は極度の神経過敏。
ウィッテンベルク大学の学友は皆、
あいつはキチガイじみたと言うよ)

 「眼の錯覚だあ」の「だあ」という口語の調子を借りて、中井久夫が苦労して「声」を拾いあげようとしている。そういう「口調」をもった誰か、そういう人間を動かそうとしている。しかし、成功しているとは思えない。
 たぶん、詩が長すぎるのだ。
 カヴァフィスは演劇的な詩を書くが、演劇そのものは書かない。ここがシェークスピアと違う。複数の「声」を聞く耳を、カヴァフィスもシェークスピアも持っているが、カヴァフィスは、その「声」を一対一のなかで繰り広げる。シェークスピアのように多数の人物を登場させ、「声」を書き分けるというとはない。
 ひとりの「声」を聞きたいのかもしれない。そのときそのときの「声」にあわせて違う世界へ入り込みたいのかもしれない。ある意味では、カヴァフィスの方が欲張りかもしれない。ひとりひとりと「情」をかわしたいという欲望があるのかもしれない。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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小松弘愛「矮鶏」

2014-08-23 11:23:52 | 詩(雑誌・同人誌)
小松弘愛「矮鶏」(「兆」163 、2014年08月01日発行)

 小松弘愛「矮鶏(ちゃぼ)」を読む。


鏡川の上流へと自転車を走らせる
山裾の竹藪の前でブレーキをかける
数年前 ここには捨てられた雄の矮鶏がいた
あたり一面に散り敷いて
晒されたように白くなった竹の葉の上に

あの
矮鶏はどこへ行ったのだろう
人間に拾われ
ペットにされた? 食べられた?
それとも餌もなくなり……
あるいは野良犬に……
いずれにせよ
もうこの世の鶏(とり)ではあるまい

 ここまで読んで、その「もうこの世の鶏ではあるまい」という行に、なぜか、胸を打たれた。
 「鏡川の上流」にどんな用事があるのか。自転車で葬儀にゆくということはないだろう。法事か何かかもしれない。「いずれにせよ」と私は小松の一行を真似て考えるのだが、「いずれにせよ」何か人間の死と関係のあることのために行くのだろう。数年前も、そういう用事で行ったのだろう。そういう用事でもないと行かないところなのだろう。だからこそ、数年前のことがきのうのように思い出される。「年月」がぱっと甦る。
 そして、ここで、こころが動いてしまう。私の、ではなく(私も、なのだけれど)、小松のころが……。

 竹藪に捨てられし鶏刻(とき)を告げ川面の靄の晴れてゆくなり

即席の
「矮鶏をしのぶ歌」一首を作り
竹藪の一画
人間の墓に供えられた黄色い柚子(ゆず)に目をやった後

ふたたび
川沿いに自転車を走らせる
前方三キロほどの所だったか
葛の花が咲いていた岸辺には
名古屋コーチンの雄鶏(おんどり)が捨てられ
赤茶色の首を傾(かし)げていたこともあった

 うーん、何かおかしい。おかしいというと語弊があるかもしれないが、妙に、こころがひっぱられる。
 なぜ「矮鶏をしのぶ歌」なんて、わざわざ作らなければならないのか。作る気持ちになったのか。理由を書いていないのだが、書いていないから、ふっと、そのことばにならなかったものの方へこころが誘われていく。
 「人間の墓」の「人間の」ということだわり、供えられた柚子、その供え物という感じが、また、人間を思い起こさせる。誰かをしのぶ気持ちが動いている。
 「鏡川の上流」は小松にとっては大事な場所なのだ。どんなに大事かを(そこに何があるのかを)小松が書かないのは、それは小松にはわかりきったことだからである。そして、そのわかりきったことを書きはじめると、きっとことばがいくらあっても足りない。だから省略してしまう。書かずに胸の奥にしまう。
 そうすると、また「余分」なことがあふれてくる。3キロ先の、いつのことだかわからない思い出が浮かんでくる。思い出してしまう。「矮鶏をしのぶ歌」を作ったように、なぜ思い出さなければならないのかわからないが、どうでもいいことが思い浮かんでくる。そんなことで時間をつぶしているくらいなら、自転車をこいで「鏡川の上流」へ行ってしまえばいいのだが、なかなかそうはいかない。こうやって、無駄なこと、余分なことをすることが「鏡川の上流」へ行くということなのだ。「目的地」にたどりつくだけではなく、目的地に「行く」という、その動詞(行く)が大切なのだ。行かなければならないのだ。普通ならば行かなくてもいいのだけれど、きょうは行かなくてはならない。そして、その大事な「動詞」のなかに、「時間」がいろいろまじりこみ、「時間」をリアルにする。
 最後の4行は、「矮鶏をしのぶ歌」よりも、もっと余分、もっとどうでもいいことだけれど、そこに「思想/肉体」がある。矮鶏は、矮鶏が捨てられていた場所へ来て思い出したことだが、名古屋コーチンの雄鶏は、その場所にもたどりついていないのに思い出している。そんなことを思い出す必要など何もない。必要もないのに思い出すから、それが美しい。何か「純粋な時間」とでも言うべきものがある。雄鶏が首を傾げているなんて、まったく無意味な情景である。無意味であるから、何か「いま」を洗い流してくれる。そうういう美しさがある。
 「余分」(むだ)「しなくてもいいこと」というのは、きっと「純粋な時間」に属している。「流通時間」には属していない。それが、詩というものかもしれない。
 「鏡川の上流」というのがどこにあるのか私は知らないが、私は私の知っている「川の上流」への道を思い出す。山の奥へと通じる道。そういうことろへわざわざ行くのは、やっぱり葬式(法事)のときくらいしかないなあ。そして、葬式や法事というのは、なぜか「生きている」ことを感じさせる。「いま」ここに生きているものを感じさせる。
 矛盾なのだけれど。
 そういう矛盾が、この詩には、とても自然な形で動いている。
 葬式や法事に行くというのは楽しいものではないけれど、小松のように自転車に乗って、ぶらぶらと「源流」へ帰ってみるのもおもしろいかなあ。道すがら、私は何を思い出すかなあ。美しい思い出、無意味な思い出ってなんだろう。無意味だから、実際にそこに行ってみないと思い浮かばないだろうなあ。
 あ、そうすると、ここには小松の「ほんとう(正直)」が反映されているのだ。「無意味」こそ、ほんとうの「思想/肉体」なのだ。
 捨てられた矮鶏と雄鶏か……と考えるとちょっと気が滅入るが、何をするでもなくぼんやりと竹藪、川の岸辺を歩いている(つったている)鶏と、そのまわりの光景というのはなんとなく光があふれていていいなあ、と思う。風景が自然と浮かんでくる不思議におもしろい詩だった。








どこか偽者めいた―詩集
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禿げ頭のピカソが

2014-08-23 11:21:32 | 
禿げ頭のピカソが



禿げ頭のピカソが砂に絵を描いている
半ズボンから禿げ頭と同じ輝きの筋肉がはみ出る
太い腕、太い指でペニスのように太い棒をつかんで円を描く
強靱な輪郭からぎょろりとした眼が飛び出してくる
太陽よりもまっすぐな視線でにらみ返し角をつけくわえる

荒々しくえぐられる砂の奥のきのうの影
乾いて透明に駆け抜けるあしたの光
砂はいつまでおぼえているだろうか、その絵を
幾千幾万の中から選ばれて極彩色よりも強い線になったその日を

打ち寄せる夕暮れの波が消したのか
疲れを知らない沖からの風が消したのか
子どものやわらかな裸足が踏み荒らしたのか
永遠を拒絶した禿げ頭のピカソの自画像
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(154)(未刊1)

2014-08-23 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(154)(未完1)   2014年08月23日(土曜日)

 「ユリアノスと神秘」は若いユリアノスが地下で「物の怪」に会う。思わず十字を切ると物の怪は消える。そして周りのギリシャ人に「奇蹟を見たか」という。「私が聖なる十字を切るのを見たら/魔はたちどころに消えたな」と。これに対してギリシャ人は笑った。そんなことを言うな。

わが栄光のギリシャの大御神々が
殿下のおん前に立ち現れたもうたのですぞ!
よしんば神々が立ち去りたもうたとしても
十字をこわがられてではありませぬ。
殿下があのいやしい野暮ったい印を
お切りになるのをごらんになられてのこと!
高貴な神の本性。当然嫌悪なされて
殿下をさげすみ 捨てなされたわけで」

 ここにはソフィストの「詭弁」がある。そこで起きた現象については、どうとでも言える。「十字架を恐れて消えた」のかわりに「十字架を信じるやつを見捨てて立ち去った」と言い換えることは簡単だ。「理由(意味)」というのはいつでも自分の都合のいいように捏造できるのである。さらに、「理由」に「神はユリアノスを蔑んだ」ということばを追加することもできる。「理由」は、こういう侮蔑によって説得力を持つようになる。
 ここまでなら詩の「声」はまっすぐでわかりやすいのだが、そのあとが難しい。

こう言われ このアホウは
ギリシャ人の涜聖のことばに説得されて
せっかくの祝福さるべき聖なる畏怖から立ちなおった。

 「このアホウ」はだれが言ったことばなのか。ユリアノスを笑ったギリシャ人(ソフィストや哲学者)なのか。それとも詩人カヴァフィスなのか。
 「ギリシャ人の涜聖のことば」があいまいである。儀式(?)をせずに、簡単に「神々」ということばを出し、またそのことば(理由)」が捏造だというのか。そういうことががギリシャの神々を冒涜しているというのか。
 「せっかくの祝福さるべき聖なる畏怖」と「立ち直る」の関係も難しい。神を実感するときの畏怖、それを簡単に忘れてしまったというのか。
 たぶん、宗教体験というのは「畏怖」を除いてはありえない。畏怖は常に感じなければならないのである。「涜聖のことばに説得され」るというのは、矛盾である。「聖なる畏怖から立ちなお」るというのも矛盾である。
 ふたつの矛盾が、矛盾のまま放り出されて、ここに存在している。そして、そこに「アホウ」というような「口語」がそのまま動き輝いているのがおもしろい。これがカヴァフィスなのだ。矛盾と、その矛盾といっしょにある「声」のなまなましさが。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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渡辺めぐみ『ルオーのキリストの涙まで』

2014-08-22 11:43:21 | 詩集
渡辺めぐみ『ルオーのキリストの涙まで』(思潮社、2014年07月25日発行)

 渡辺めぐみ『ルオーのキリストの涙まで』を読みながら、ことばを統一する音楽を感じた。ことばが「意味」というよりも「音楽」で結ばれている。ことばが呼びあって、生まれる前の「音」のまま互いの「音」を発し、そして聞いている。
 「冬 ひらく」の書き出し。

約束が剥がれてゆくときの
燃える痛みをこらえて
空が青い

 「意味(ストーリー)」を探そうと思えば探せる。あるいは、捏造できる。誰かと会う約束をしている。けれど、その約束は果たされない。約束したという「記憶」だけが残って、「会う約束」は渡辺の肉体を剥がれていく。肉体の、たとえば爪を剥がされるときの燃えるような痛み、肌を傷つけられ剥がされるような燃えるような痛み--「会う約束」は渡辺にとっては「肉体」そのものだったのだ。その痛みに耐えて、来ない人を、それでももう少し待ってみる。もうあきらめようと言ってみる。そのとき、冬の空のなんと青いことか……。
 だが「意味」よりも、私はそのときの空気の冷たさ(冷たいがゆえに燃えるような感じさえする風の鋭さ)、冬晴れの青と、その青から青が剥がれて、雪にでもなりそうな、透き通った何かを感じる。雪の結晶以前の結晶のようなものを。そして、それが動くときの沈黙の音楽を感じる。
 渡辺のことばには「余分」というものがない。「流通言語」の「余分」を削ぎ落とし、ことばのなかの「沈黙」を聞き取り、それを差し出す。ただ「ことば」を捨てるために、ことばを書く。ことばを捨てたあとの「沈黙」が、「音」として聞こえてくる。「音」はないのに、「音」のように感じてしまう。
 そうすると、その「沈黙」のなかに私のなかの何かが誘い出されていく。そうして「沈黙」が私のなかからあらわれてくる。「沈黙」を聞く--とは自分のなかにあるうるさいものを捨て去って、自分のなかから「沈黙」があらわれてくるのを待つことなのだと気づかされる。
 こういう状態のとき、私は、渡辺と私が「一体」になっているのだと錯覚する。
 渡辺は渡辺のことばを書き、渡辺の「沈黙」を凝視しているのだが、その動きのなかに私が飲み込まれていく。そのために、たとえば書き出しに私自身の過去を重ねてストーリーにしてしまう。ストーリーのなかで「沈黙」はかすかな旋律になる。
 存在しない「音楽」が、「存在しない音楽」になる。「音が存在しないことが生み出す音楽(沈黙の音楽)」になる。ただし、その「沈黙」には旋律がある。--こんなことを書くと、まるで「矛盾」にしかならないが、そういう感じがするのだ。あ、この「沈黙の音楽」をもっともっと聞きたい、その「沈黙の音楽」と一体になりたいと思う。

 これでは、あまりにも抽象的だなあ……。

 渡辺の「沈黙の音楽」について書きたい--でも書けない。私のことばではたどりつけない。

寒かった ただ寒かった
あの日々の
非常口を開けておく
行き交う車も歩行者も
つながれた犬でさえ
見上げることを忘れていた雲の果て

 その「雲の果て」で「約束」が剥がれていく。「約束のひと」は「雲の果て」にいる。遠いところで「約束」は剥がれていくかもしれない。けれど、渡辺は「約束」がふいにやってくるかもしれないと願い、「約束」のために「非常口」を開けておく。いつでも入ってきていいよ。それは「一日」のことではなく「日々」のことである。
 渡辺は、そうやって「約束」につながれた「犬」のように、そこから動けない。寒い寒いと感じながら、「約束」がやってこない道を眺めている。車や人を見ている。そして、ふと目を挙げると、遠く、「雲の果て」にある空が「青い」。そんな青に気がつく必要はないのに、渡辺は気づいてしまう。
 あ、そうなのだ。
 ひとは、ある瞬間、気づく必要のないことに気がついてしまう。「約束」のひとが来ない。そのとき、ひとは「約束」のひとが来なかったということだけに気がつけばなんでもないのに、その「約束のひとが来なかった」を「約束」が自分の肉体から「剥がれてゆく」と気づいてしまう。--そんな言い方は誰もしない。流通言語では、そんなことは言わない、あるいは言えない。誰も言わなかった何かに気づいてしまう。それから「痛み」に気づいてしまう。「余分」に気づき、それが「ことば」になってしまう。それが、詩。
 さらに「空が青い」ということに、その「青さ」に気づいてしまう。「約束」がやってこようとこまいと、その日の空は「青い」。そんな、「約束」とは無関係なことに気づいてしまい、それが「ことば」になって、まだ「ことば」にならず、「肉体」のなかで「沈黙」のままで動いている「ことば」に、この「音」に「和音」をつけてと誘っている。「肉体」は、その「沈黙」と響きあう「和音」を懸命に探している。
 
 このときの、懸命さ、切実さ……そういうものが、渡辺のことばの全体を統一している。



 私の、こうした感想では、渡辺は「繊細」なだけの詩人のようになってしまうが、渡辺は、なにかしら「骨太」のものも持っている。「動じない」エネルギーを持っている。
 「四月の死角」の、たとえば次のような部分。死んだ祖母のことを書いている。

あなたの尊顔は
家に戻られても
旅立たれても
今も宇宙港に向けて
首をずり落としたまま
あの病床群の中に
残っているのではないですか

 「首をずり落としたまま」が強い。「ずり落とした」という「音(音楽)」が一オクターブも二オクターブも下の旋律のように、「肉体」の奥を揺さぶる。「宇宙港」という、どれだけ高いところをわたっていくかわからない「輝き」のようなものと、暗闇よりも暗い「存在する力」が向き合っている。
 渡辺の「沈黙の音楽」は振幅が大きい。オクターブの幅が広い。
 いつか、また、このことについて書いてみたい。



ルオーのキリストの涙まで
渡辺 めぐみ
思潮社

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(153)

2014-08-22 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(153)        

 「一九〇八年の日々」は、その年に出合った二十五歳の青年のことを描いている。仕事がなくてカフェでカードをして稼いでいる。しかし勝負事は稼ぐよりも「借り」が増えていくものである。金に困って、どうするか。借りを帳消しにするにはどうするか。方法はかぎられている。
 そういう惨めな生活の合間の、ほんの短い時間。

一週間かそこらだった。も少し長かったか。
あの子があのぞっとせぬ夜になんとかおさらばして、
プールで朝早く泳いで身体のほてりを冷やせたのは--。

 その、ほんの短い時間に、「きみ」はあの子を見た。

きみの眼の底に残るあの子は
あの貧相な上衣を脱ぎ捨て、
つぎの当たった下着をかなぐり捨てて、
すっくと素裸で立った姿だ。
一点の非の打ちどころのない美しさ。まさに奇蹟。
櫛の入らない髪を後ろに流し、
朝ごと浜とプールで裸になった報いの軽い陽灼けの腕と脚。

 この最後の描写に私は驚く。「一点の非の打ちどころのない美しさ」という表現は、繰り返し読んできたカヴァフィスの男色の相手を描写することばそのままに具体性に欠けている。ただし、貧相な上衣(色の抜けた肉桂色のスーツ)、つぎの当たった下着とは対極にあることはわかる。そして、そのあと、突然「櫛の入らない髪を後ろに流し」という具体的な描写が出てくる。
 あ、初めてだ。カヴァフィスは、ここではじめて自分の愛した男を具体的に描写している。忘れられないのだ。
 そのあとの「朝ごと浜とプールで裸になった報いの軽い陽灼けの腕と脚。」もカヴァフィスにしては非常に具体的な描写である。日焼けした腕と脚。それも、朝素裸で泳ぐということを繰り返したためにできた日焼け。ふつうの、日盛りの浜やペールでつくる日焼けとは違うのだ。
 「きみ」が、つまりカヴァフィスが「あの子」の普通の日々の姿を知ったのは、詩に書かれている順序とは逆に、そのあとなのだろう。美しい姿を見たあとなのだろう。
 「たしなみのよいきみ」は、「あの子」の日常を知らなかった。
 しかし、知ってしまってからも、あるいは知ってしまったからなのか、よけいに「あの子」を忘れられない。詩集の最後を、その思い出で閉じているのも、そこに強い思い入れがあるからだろう。
 誰にでも忘れることができない恋がある。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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秋亜綺羅『ひよこの空想力飛行ゲーム』(4)

2014-08-21 10:45:40 | 詩集
秋亜綺羅『ひよこの空想力飛行ゲーム』(4)(思潮社、2014年08月12日発行)

 秋亜綺羅『ひよこの空想力飛行ゲーム』については、もう書くこともないと思っていたが、詩は読み返すたびに書くことが出てくるものである。まあ、先に書いたことの繰り返しが多いのだけれど、詩人の方だって同じことを繰り返しかいているのだから読む側が繰り返し同じことを書いても文句はないだろうと思う。
 「かわいいものほど、おいしいぞ」のじっちゃんとスズメ。
 秋亜綺羅は論理的な人間なので、私と違ってきちんと「結論」を書く。その「結論」の部分の導入部、「一か月」という「同じ時間」をかけて、じっちゃんがスズメにやるコメを焼酎にしたし続けた部分は先に引用したとおり。
 で、そのあとなのだが。

 だが、じっちゃんがスズメを長い間かわいがってから、食べたのはどうしてだろう。
 そういえば、スズメの焼き鳥をわたしにくれたとき、じっちゃんは確かに言った。
 「スズメっこ、めんこいがら、うめぇぞ」。
 近所のドブですくったドジョウにでも、庭でとらえたヘビにでも、長い時間じっちゃんは無言で話しかけているように、幼かったわたしにはおもえた。
 農家の人たちはコメや野菜を、豚や牛を、ほんとうにかわいがって育てる。動物の赤ちゃんがかわいいのは、天敵に同情させ襲わせないためではないか、という学者がいたけれども、わたしはそうはおもわない。かわいいことは、おいしい証拠なんじゃないか。赤ちゃんは肉がやわらかくておいしいよ、というわけだ。

 「動物の赤ちゃんがかわいいのは、天敵に同情させ襲わせないためではないか、という学者がいたけれども、」という部分は「意味」を共有させておいて、それを否定するという秋亜綺羅の詩の「仕掛け」をそっくり踏まえている(秋亜綺羅が書いているのだからあたりまえだけれど)。
 でも、これだけでは「かわいがる」と「食べる」の関係がよくわからない。
 少なくとも野生の動物は、食べる動物をかわいがるとは私には思えない。「かわいがって、育て、食べる」という感じはまったくない。
 ここの部分は、「論理好き」の秋亜綺羅にしては、なんとも変な感じ。「論理」が破綻している。
 「かわいがる」と「かわいい」の関係を秋亜綺羅は見落としている。
 「かわいい」は最初から「かわいい」のではなく「かわいがる」という気持ちがあってはじめて「かわいい」になる。「かわいい」は生まれてくる。育ってくる。
 これを説明するのは、またまためんどうなので、秋亜綺羅が書いていることを引用してごまかそう。(ちょっと「論理」をずらして書いてみよう。)最終連。

 とにかくじっちゃんは、いのちほど大切な焼酎を、かわいいスズメたちと分かち合ったのだった。

 「とにかく」というのは「根拠」を省略して「結論(?)」を言うときに使われることが多い。途中を省略するけれど、「とにかく、……なのだ。」ここにも秋亜綺羅の「論理」優先のことばの動かし方を見ることができるけれど、と書くと脱線するので、ここまでにして。
 最後の最後の「分かち合った」(分かち合う)という「動詞」。ここから「かわいい」が生まれてくる。何かを分かち合わないと「かわいい」は生まれて来ない。じっちゃんは焼酎を「分かち合う」。それだけではない。「時間」を「分かち合う」。「時間」を「共有」するのだ。
 農家の人たちもコメや野菜、牛や豚を育てるとき、実は「時間」を「分かち合っている」、「共有」している。自分のもっている何かを、コメや野菜、牛や馬に、分け与えている。それは「大きく育てる」という技術(ノウハウ)かもしれないけれど、何かを与え、それを自分以外のものと「共有」できたとき、そこから「かわいい」が生まれてくる。手間をかけただけ反応(手応え)がある。それが「かわいい」という喜び。自分のなかの何か名づけられないものが「かわいい」を照らす。「かわいい」が反射してきて、喜びのなかに明かりがついたような感じ。相互作用だね。

 「時間」をかけて、「時間」そのものを「共有」する。そこから「かわいい」が生まれる。「かわいがる」ことなしには、「時間」をかけないことには「かわいい」は生まれて来ない。「時間」をかけて、「同じ」になる、なろうとする。「同じ」になってくるものを、ひとは「かわいい」と言うのである。そして、自分自身もひそかに「かわいい」になるのだ。

 で、ここから、私は飛躍する。
 私は一度(昨年)、秋亜綺羅が詩を朗読するのを見た(聞いた)ことがある。それを見ながら、あ、秋亜綺羅はずいぶん自分の詩をかわいがっているじゃないか、と思った。これは、別なことばで言うと、「自己陶酔」しきって朗読しているじゃないか、ということと同じなのだが「自己陶酔」よりも「かわいがっている」という印象が強いのは、やっぱり詩をかわいがっているからだろうなあ。自分の詩を「かわいい」と思っているんだろうなあ。
 それはどういうところにあらわれているかというと、裸足。舞台のうえで、秋亜綺羅は裸足だった。舞台と肉体を直に接触させている。そして、詩を床にまで「共有」させようとしている。「声」が床に届くかどうかはわからない。しかし「肉体」(足裏)の変化は床に伝わる。そこから「肉体」はビル全体に伝わる。そうやって、「詩」を伝えようとしている。
 あるいは、練習。「勉強は好きじゃない」と秋亜綺羅は書いているが、それは、まあ父親に反抗する「方便」のようなものであって、秋亜綺羅はどうみても「勉強が嫌い」なタイプではない。どちらかというと「対象」と「時間を共有する」ということが大好きな人間である。「時間」を「共有」し、「かわいがる」ということが大好きな人間である。だから、突然朗読するのではなく、きちんとリハーサルをする。自分の「声」がいっしょにパフォーマンスするひと(音楽を演奏するひと、踊るひと)に「共有」されるように、この詩の「ここがかわいいんだよ」(ここをかわいがってそだてたんだよ)ということが「共有」されるためにリハーサルする。ときには、同じ舞台に立つひとが「そこよりも、私はこっちの方がかわいい」という反応をするかもしれない。そういうことも確かめ、それを取り込みながら、詩を、朗読にふさわしいように「かわいがる」(時間をかけて、育てる)。

 まず自分自身にとって「かわいい」ものにする。そうすると、それが「おいしくなる」。他人(読者/聴衆/観客)にとって「おいしい」詩になる。
 シェフが「おいしい」と感じるものだけを客に出すのと同じ感覚である。
 本作りも同じだ。秋亜綺羅自身が納得できるまで「かわいがる」。そして「かわいい」ものにする。つまり「おいしい」ものに。「おいしい」ものはおいしく食べてもらえる。「かわいい」ものは、かわいがってもらえる。そこから新しい「時間」がはじまる。秋亜綺羅の手を離れて、詩がよりいっそう「かわいがられ」「かわいい」ものになる。
 「かわいい」の共有は「かわいがる」をとおして、そのときはじまる。
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(152) 

2014-08-21 10:36:16 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(152)        

 「紀元前二〇〇年」は何を書いているのだろうか。

「フィリッポス王の子アレクサンドロスおよびギリシャ人、ただしスパルタ人を除く……」

ようくわかる。
スパルタ人はこの文句を全く気にしなかった。
この「スパルタ人を除く」を。
むろんだ。スパルタ人は高等小使じゃない。
命令されてあちこち連れまわされる人間じゃない。
さらにだ、スパルタ王の率いない全ギリシャ遠征軍なんて
お笑いだ。
むろんだ、だから「スパルタ人を除く」なのさ。

 ギリシャを勝利に導く「スパルタ人」こそ「ギリシャ人」。わざわざ「スパルタ人」という必要はない。だから「スパルタ人を除く」を気にしない。
 ギリシャ人はギリシャ人で、これを逆手にとって「ギリシャが勝ったのだ」という。「スパルタ人が」とは言わない。戦そこで「スパルタ人を除く」というおふれが出る。「スパルタ人」はギリシャ人だ。
 スパルタ人は、その「論理(屁理屈)」を気にしない。人が自分のことを「スパルタ人」と呼ぼうが「ギリシャ人」と呼ぼうが関係がない。「スパルタ人」こそが戦争を勝利に導いている、戦争を勝利に導くのが「スパルタ人」であるという自負かあるのだろう。
 だが、それをいいことに、次々と戦争に勝ちながら「スパルタ人を除く」を繰り返す。そして世界が「ギリシャ語」に制覇されていく歓喜に酔う。世界をギリシャ語が支配していく喜びに酔う。

我等の一頭地を抜いた覇権、
正義のもとに統合された柔軟な政策、
我等の共通ギリシャ語、
こういうものをバクトリア、インドまで運んだ我等。

こうなったらスパルタ人など、誰が問題にするか!

 その果てに、突然、「スパルタ人を除く」が消えてしまう。「スパルタ人」がいなくなってしまう。すべてがギリシャ語を話すがゆえに「ギリシャ人」になってしまう。しかし、そうなるとこんど戦争があったときはどうなるのだろう。誰がギリシャを勝利に導くのか。ここに、敗戦の「予兆」のようなものが書かれている。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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秋亜綺羅『ひよこの空想力飛行ゲーム』(3)

2014-08-20 10:53:19 | 詩集
秋亜綺羅『ひよこの空想力飛行ゲーム』(3)(思潮社、2014年08月12日発行)

 この詩集には「エッセイ」が2篇含まれている。「エッセイ」として書いたのだけれど、知人が

--秋亜綺羅さん、あれ、詩だよ
とつぶやいてくれたので、詩になりました。

 と「あとがき」に書いている。
 まあ、そうですね。
 読んだ人が「詩」と呼べば、それは詩に「なる」。だから、逆も起りうる。「詩ではない」と呼べば詩では「なくなる」。
 これは、何を詩に「したい」かという欲望と関係している。

 などというのは、いい加減な、いつもの私の「感覚の意見」。

 なかなか、書き進むことができないが……。その「エッセイ」か「詩」か、どっちでもいいけれど、「秋葉和夫校長の漂流教室」ということば。そのなかに、とても気に入っている部分がある。私が「詩」を感じるのは、

「大学へなぜ行くのか、ぼくにはわからない」と切り出したのは、わたし。
「行きたくないのか?」
「勉強は好きじゃないし、大学出たヤツが偉いとも思わない。大学に行かなくたって、やりたいことはやれるし、大学は必要ないと思う」
「行きたくなければ行かなくていいぞ。でもな、大学行かないヤツが、大学は必要ないなんて偉そうなこと言っても、な。行けないから負け惜しみで言ってる、くらいにしかおもわれないだろ。大学をちゃんと卒業して、それで大学は必要ないと言えば、みんな納得するだろ」
 うーむ。詭弁だ、明らかに。

 この引用部分の最後の「うーむ。詭弁だ、明らかに。」の、この1行が私はとても好きだ。そこに詩を感じる。そこが詩に「なっている」と感じる。
 どうしてか。
 この「説明」は難しい。
 強引に言ってしまえば、そこには「リズム」がある。ことばが、スピードにのってはじけている。勝手に動いている。
 私が秋亜綺羅の詩に共感するのは、いつもその「リズム」である。書かれている「想像力の暴力」ではない。「意味の否定ごっこ」ではない。
 で、この「リズム」は、つぎに、

 だけどこの父の詭弁をこそ、わたしは待っていたのかもしれなかった。

 という具合に、ぱっと飛躍する。
 この身軽な変化--ほんとうに「大学に行かなくたって、やりたいことはやれるし、大学は必要ないと思う」と信じているのだったら、「詭弁」に反論できる。反論できないのは、ほんとうに思っていないからである。考え抜いたことばではないからである。
 それなのに、それを「うーむ。詭弁だ、明らかに。」ということばの軽さで、ごまかしている。好きだなあ、この軽さ。

 秋亜綺羅は、簡単に言えば、自分の考えを否定されたかった。それだけのことである。「大学に行かなくたって、やりたいことはやれるし、大学は必要ないと思う」を否定する「ことば」がほしかっただけなのである。だから「詭弁」であると一種の「否定的な批評」をつけくわえながら、そのことばに乗ってしまう。「否定的な批評」をつけくわえれば、自分の「正当性」が担保できたと人に証明できると思い込んでいる。
 この嘘つきめ。
 で、私は、その秋亜綺羅の「嘘つき」の部分が好きなのである。

 だいたいねえ……。
 「大学へ行かなければならない」というごくふつうの「意味(親のものの見方)」があって、それに対して「大学出たヤツが偉いとも思わない。大学に行かなくたって、やりたいことはやれるし、大学は必要ないと思う」という「大学の否定(意味の否定)」そのものが「詭弁」である。
 「詭弁」の定義は難しいが。
 簡単に「こじつけ(論理のねじまげ)」と思って、私は言うのだが、何の根拠も挙げずに「社会に流通している事実」とは違うことを「思う」だけで、「社会に流通している言説」とは違うことばを「言う」だけで、それが「事実」になるということが「詭弁」なのである。
 ことばにすれば、そのことばが「事実」に「なる」と言うのが「詭弁」なのである。

 と、書くと、そこにふいに「詩」がまぎれこむ。
 何か、そこに存在しないものをことばにする。そうすると、そのことばが「事実」になる。この、ことばのなかにしか存在しな「事実」を「詩」と呼ぶとき、「詩」は存在になる。--こういう「論理(?)」を秋亜綺羅は「詭弁」とは呼ばないだろうが、私に言わせれば、そんなものは存在したように「頭」に思い込ませているだけのことである。自己陶酔の一種だ。誰かに「わからないよ」と否定されれば、ただのことばの「くず」になりさがる。そういう危険をもっている。詭弁ではなく、危険、ね。

 あ、書いていることがだんだんめんどうな領域に入ってきた。
 丁寧に書かなければいけないのだけれど、丁寧に書こうとすれば、どこまで書いていいかわからない。
 秋亜綺羅のことばに戻って言いなおそう。

 うーむ。詭弁だ、明らかに。
 だけどこの父の詭弁をこそ、わたしは待っていたのかもしれなかった。

 軽い軽いことば、スピード感あふれることばのあと、「改行」して「だけど」と「理由(論理)」をかたることばを利用して、ことばを動かしていく。--「論理」の偽装なのか、「論理」そのものへの信頼なのか、どう呼べばいいのかわからないが、この「論理依存」とことばの軽さ、リズム、論理のリズム化という部分に秋亜綺羅の詩の本質があると私は感じている。
 「論理のポップミュージック」という感じでもあるなあ。そして、その「論理音楽」にはかならず、逆説というか、否定の構造が隠れている。「……である、だけど」の「だけど」のようなものが。

 奇妙な奇妙な「逆説論理」嗜好は、秋亜綺羅がアパート火事を起こし、警察に連れて行かれたときのことを書いた部分にもある。秋を父親が引き取りに来た。

 身元引受けのサインをする父の右腕が、とんでもなく震えていた。サインができず、父は右手を左手で押さえた。わたしは、涙が止まらなかった。悲しいとか、悔しいとかじゃなくて、父の顔を見たことの、うれし涙ではなかったろうか。いや。豪傑なはずの教師が、息子の起こした事件のために、腕の震えが止まらない。その姿を見たわたしの脳が、勝手に涙を作ったのだ。

 前半のリアルな父親の肉体の描写。そのあとの秋亜綺羅の感情分析(?)。そして、そのあと、「いや。」という「否定」のことばをはさんで秋亜綺羅のことばは加速する。「論理」を暴走させる。

わたしの脳が、勝手に涙を作ったのだ。

 私は、わっと叫んで、笑いだしていいのか、感動していいのかわからなくなった。「涙」をわざわざ「脳」なんてもので説明するなよ。
 傑作でしょ?
 脳で説明できないもの、説明を突き破って、説明より先にあふれてくるものが涙でしょ? 泣いたあとで、涙の説明をして何になるんだろう。だれを慰めているんだろう。だれに同情しているんだろう。
 この傑作なことばの動きを「詩」と呼ばないで、いったい何と呼べばいいのかわからない。
 詩はその瞬間を否定する絶対的な無意味である。
 「絶対的に無意味な何か」がここにある。「絶対的に無意味な論理」、ことばの勝手な暴走--何の役にも立たない、笑うしかない新しい運動がある。この運動が、いつ「事実」や「真実」に「なる」のかわからないけれど。
 私以外の人にとっては「真実」(普遍にたどりついた論理)かもしれないけれど。

 何と言っていいのかわからないのだが、「否定(逆説)」を利用した、この絶対的な「軽さ」「軽いリズム」は、秋亜綺羅のことばの力だ。秋亜綺羅のつくりだす「逆説の意味」には私は関心がないが、その「リズム」には関心がある。
 変かな?

 で、この「リズム」だけれど。
 こういうものは、もって生まれたことばの感覚、「肉体の性質」のようなものなのだが、それ以外のものもある。
 それは何かと考えたとき(つらつらと、秋亜綺羅の詩を読み返したとき)、もうひとつのエッセイ「かわいいものほど、おいしいぞ」の、次の発見が手がかりになる。スズメをつかまえるのに焼酎をしみ込ませたコメを食べさせて酔っぱらわせる--そういう工夫をしたおじいちゃんのことを書いていて……。

 あ! わたしは気づく。一か月! じっちゃんは無毒のコメをスズメたちに一か月ものあいだ与えつづけている。それと同じ一か月という時間だけ、台所の戸棚でコメは焼酎に漬けられていたのである。

 「時間」をかけている。秋亜綺羅は何かをするときに「時間」をおしまない。手間隙をかけるのである。たとえば詩集の扉の色をきめるにも、一度塗りではなく二度塗りをする。時間(手間)をかけることで生まれる変化をみせる。このときのポイントは「同じ」ということ。(「それと同じ」と秋亜綺羅が書いている「同じ」がポイント。)二度塗りをするのは「同じ色」。じいちゃんがついやしたのは「同じ一か月という時間」。何かをするための準備を「同じ」ということばでくくってしまう感覚のなかに、秋亜綺羅の「肉体/思想」がある。
 あ、説明が変? 非論理的?
 うーん、これは、なかなか説明ができないぞ。でも、私は強引に説明してみる。
 何かをするときに「準備」する時間は、たいていの場合実際の行動の時間に比べると短いのだが、それを秋亜綺羅は「同じ」と考えている。実際にスズメをつかまえるのは一分か二分くらいの時間だが、その背後には「一か月」の準備があって、それは別の行動と「同じ」時間であり、それは「時間の表/裏」なのだ。
 うーむ。これでは、変か。
 秋亜綺羅は、ある「時間」の裏に「同じだけの裏の時間」を見ていて、そういう「二重の時間」をかけるということをおしまない。「二重の時間」をかけながら、「準備」をみせない。そういうことをしている。
 何かと「同じ時間」だけ準備していて、その蓄積が「リズム」を鍛えている。
 おじいちゃんがスズメを軽々とつかまえることができたのは、そのつかまえ方が軽々としていたのは「時間」のなかで「時間」にならないものを鍛えてきたからなのだ。それがあって、はじめて「軽々としたリズム」になる。
 こういうことを秋亜綺羅は「暮らし」のなかで、「肉体」として、つかみ取っている。ここには、秋亜綺羅の「頭」が入り込んでいない。「リズム」は「頭」では作ることができない。「論理」ではないのだから。

 別な言い方をしてみようか。
 秋亜綺羅は寺山修司の天井桟敷にいた。芝居というのは公演の前に長い準備(練習)がある。その練習の「長い時間」と上演の「短い時間(1時間-2時間)を「同じ」にする。「長い時間」が「短い時間」のなかで「同じ」になるとき、そこに「軽快なリズム」が生まれる。
 この変な「理屈」は「詭弁」ではなく「矛盾」というものだが、秋亜綺羅はそういう「矛盾」を私たちの知らないところでやっている。やっていることが、私には感じられる。「リズム」の背後に、素早くも軽くもない「しつこさ」があって、その持続が、秋亜綺羅のことばを軽くしている。
 「勉強は好きじゃない」と秋亜綺羅は書いているが、「嫌い」とは書いていない。「好きじゃない」が「する」のである。私なんかは勉強は嫌いだから、しない。しないから、「好きじゃない勉強をしてしまう」秋亜綺羅を、こうやってからかって、いじめている。ガリ勉をからかっている意地悪な子供みたいだけれど、「勉強しない」私には、秋亜綺羅と向き合うには、それくらいしか方法がない。

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中井久夫訳カヴァフィスを読む(151)

2014-08-20 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(151)        2014年08月20日(水曜日)

 「古代ギリシャ系シリア人魔術師の処方によって」は奇妙な詩である。薬草を蒸留したエキスを飲むと過去が呼び戻せるのだという。ドラッグの類のことだろう。
 では、どんな「過去」を呼び出すのか。

そう、返ってくるのだ、二十三歳の日が。
当時二十二歳だった友も、
その美も、その愛も。

 若い時代の愛の記憶。そのエロスの美の記憶。おもしろいのは単に過去とは言わないところだ。私(カヴァフィス?)が二十三歳、そのとき相手は二十二歳だった。「その美」「その愛」よりも、この明確な「年齢」こそ、カヴァフィするの呼び出したいものだったのだろう。美も愛も抽象的なことばだが年齢は具体的である。
 自分の年齢を言ったあと、「当時二十二歳だった友も、」と書いているのは、いまカヴァフィスが二十三歳ではないのと同様に、友も二十二歳ではないからだが、わざわざそう書いているのは、その友といっしょにドラッグをやろうとしているということかもしれない。「きみも二十二歳の日に返れるんだよ」と、いうわけである

何とすてきなエキスの発見。
古代ギリシャ系シリア人魔術師の処方だ。
返ってくるのだ、過去への回帰の一部として
私たちがふたりきりで過ごしたあの小部屋までが--」

 こでも書かれていることは相変わらず抽象的に見えるが、少し違う。ふたりで過ごした部屋を「あの部屋」と呼んでいる。「あの」には意味がある。「あの」がわかる相手がいる。カヴァフィスは「あの」友にドラッグをやろうと誘っている。「あの」部屋と言えるのは、ふたりは「その」部屋だけをつかったのだろう。あちこちの部屋を、その日そのときでつかったのではなく、愛を交わすなら「あの」部屋と決めていたのだろう。
 ふたりの思い出はいろいろいあるだろう。ふたりの過去はいろいろあるだろう。しかし、カヴァフィスは「あの部屋」こそ「過去」だと感じている。「過去への回帰の一部として」というもってまわった複雑な表現が、カヴァフィスのこだわりを明確にしている。「あの」思い出、というわけだ。
 そして、この詩が、

さる通人の話です。

 という一行ではじまるのも、とてもおもしろいと思う。自分のことだからこそなのか、それともドラッグを書いているからなのか、自分のことではないように装っている。よほどの思い入れがあるのだろう。二十三歳の日々に。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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秋亜綺羅『ひよこの空想力飛行ゲーム』(2)

2014-08-19 09:53:12 | 詩集
秋亜綺羅『ひよこの空想力飛行ゲーム』(2)(思潮社、2014年08月12日発行)

 ことばの「意味」を裏切ると詩になるのか。詩が生まれるのか。「意味」を破壊する自由、暴力が輝くのか。
 逆かもしれない。
 それは単に、ことばの「意味」を共有していたということの確認にすぎないかもしれない。「意味」をひっくりかえす、「意味」という権力をひっくりかえすことができたとき、詩は反権力になり、暴力になるというのは、悪質なデマかもしれない。
 「意味」をひっくりかえすとき、「意味」をつかっていない? 人が無意識に「共有」している「意味」や「方法」や「論理」をつかっていない? それは「意味」から「意味」への渡り歩きになっていないだろうか。
 こんな例を出すのが適切かどうかわからないけれど、最近、世間にあふれている安倍首相の「集団的自衛権」の前提としている論理。「もしどこかで戦争が起きて、アメリカ海軍の船が日本人を救出しているのに、日本の自衛隊がその支援・応援をできないのはおかしい。」これは何人もの人が指摘しているように、「意味」の「前提」がおかしい。不自然。戦争が起きたらアメリカ軍はアメリカ人を救出することを優先する。日本人なんか、アメリカ人の救出が終わるまでするはずがない。考えてみるべきは、そういうとき「救出しなければならない人数はアメリカ人の方が多い。アメリカ人の方が経済的に世界を動かしている。まずアメリカ人を救出するために、日本の自衛隊も参加すべきである。それが集団的自衛権、世界の平和を確立するための優先順位である」とアメリカが言って来ないかどうかである。
 「意味」は、いつでも、どういう具合に人を動かしたいか、という意思といっしょにある。「意味」は人を説得させ、動かすためにある。人を支配するためにある。
 だからこそ、まあ、秋亜綺羅は、その「意味」を簡単にひっくりかえして、ほら、こんなふうに暴力的になってみよう、自由を手に入れてみようというのだろうけれど。(それだけではない、と秋亜綺羅は言うだろうけれど。)

 私は、ことばに「意味」がなくてもいいと思う。ことばは「無意味」であっていいと思う。「無意味」こそが「詩」なのだと思う。「意味」を放棄して、ただ、そこにある「ことば」。そこにある石や木や、そこに立っているだけの見知らぬ人のように、ある瞬間、自分とはまったく無関係に、そこに、それがそうしてあるということが、もしかしたら詩というものではないだろうかと思う。
 どこからやってきたのかわからない。でも、そこにある。何の関係もないのだけれど、というか、関係は、そこからつくっていくしかない。そういう存在が「詩」であると感じている。
 --こんな抽象的なことは、いくら書いてもしようがないのだが。



鳥が鳥かごに飼われるのは
鳥は空を飛べるからだ             (「ひよこの空想力飛行ゲーム」)

 この「言い回し」。
 ふつうは、こういう言い方をしない。「鳥を取りかごで飼うのは、そうしないと鳥は飛んで逃げるからだ。」補足すれば、「鳥は空を飛べるからだ」ということになるのかもしれないが、いちばんの違いはどこ?
 秋亜綺羅は「鳥を飼う」というときの「主語」について語っていない。鳥は鳥かごで「飼われる」ものではない。「鳥かごで(人間が)飼う」ものである。「飼う」というのは「逃げないようにする」ということでもある。そういう「主語」の問題を放り出しておいて、鳥と鳥かご、空と飛ぶを持ち出してきたって、「意味ごっこ」にすぎなくなる。
 鳥との信頼関係(?)ができたとき、ひとは鳥を鳥かごに入れずに飼うこともできる。鳥が空を飛べても、かごにいれずに飼うことができる。
 鳥は空を飛ぶ、鳥は飛んで逃げていく--その「逃げていく」を「共通の認識」として前提にしておいて、秋亜綺羅はことばを動かしている。
 そういう感じがどうしてもしてしまう。

鳥が飛ぶことをやめてしまえば
だれも鳥かごに閉じ込めたりはしない

飛ぶことをあきらめてしまえば
そこには、自由が待っている!

 鳥が飛ぶことをやめなくたって、鳥かごを必要としないときもある。また、鳥かごは鳥を逃がさないというだけではなく、鳥を猫が襲わないようにするためということもある。鳥かごは鳥の安全を守る。安全があってこそ、鳥は自由だ、ということもできる。
 「意味」なんて、みんな、嘘である。自分の欲望を貫くために考え出した「方便」である。
 そう知っていて、それでも「意味」をひっくりかえしてみせる。こんな具合に「共有認識」にしばられているのが現実なんだと言ってみせる--ということなのかもしれないけれど。

きみとぼくが息を殺して
殺していたのはなんだったろう     (「来やしない遊び友だちを待ちながら」)

 ここでは「息を殺す」という常套句が取り上げられている。そのとき「共有」ものはなんだろう。すぐには言えないね。難しいね。「鳥を鳥かごで飼うのは、鳥が飛んで逃げると困るから」という具合には簡単に言えない。
 そういうふうに簡単に言えないものがあるということを、この2行は教えてくれるが、秋亜綺羅はその「なんだったんだろう」を「何」と考えているのかな? 詩は「答え」を出す必要はないが、そうだったら

オモテは裏にとってみれば
裏なのかな                     (「ひとは嘘をつけない」)

 では、なぜ「答え」を暗示するようにことばを動かしてみたのだろう。

 あ、また、変な具合にことばが動いていってしまうなあ。
 あしたは違うことが書けるかな?



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中井久夫訳カヴァフィスを読む(150)

2014-08-19 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(150)        2014年08月19日(火曜日)

 「世話をやいてくださっていたら」には下卑た「声」が満ちている。

しかし私は若くて健康。
ギリシャ語はペラペラ。
アリストテレスとプラトンを読みに読んだ。
詩人、雄弁家、いや何でも濫読さ。
軍事も少しわかる。
傭兵将校に友だちがいる。
行政の世界にも足がかり。

 ここには、いろいろな自慢が書かれているが、自己というものがない。「傭兵将校」「政治の世界」に、友だち(顔見知り)がいる。接近の方法がある。それは「私」自身で道を切り開いていくというよりも、誰かのひきあいで、その世界へ入っていくということだろう。「下卑た」感じがしてしまうのは、「他者頼み」の印象が強いからだろう。

まずザビナスに接近だ。
あのアウホが私を高く買わぬなら、
あいつの敵のグリュポスだ。
あの鈍物がおれに地位をくれぬなら、
その足でヒュルカノスさ。

 この詩の登場人物は、彼自身の「理想」をもっているわけではない。何かがしたいわけではない。--いや、したいことはある。「地位」を手に入れたい。「地位」が手に入るなら、何をしてもいい。
 「あのアホウ」「あの鈍物」という評価をしながら、「地位」だけを欲しがっている。こういう「欲望」が「下卑ている」。
 だが、それがどんなに下卑ていようとも、そういう「声」はたしかにある。そういう「声」もカヴァフィスにはしっかり聞こえた。そして、聞こえただけではなく、何かしらの魅力も感じていたのだと思う。その場限りの欲望がむき出しになった「声」。その「声」を発するものの「肉体」。それが見えたのだろう。

誰を選ぶか、気にしない。
おれの良心は痛まぬよ。
三人ともシリアの害虫。同等さ。

 「良心は痛まぬ」、なぜなら「三人とも害虫」だから。--そのあとの「同等」がなまなましい。三人が「同等」なら、そのときの「私」もまた「同等」である。この「同」は「同性愛」の「同」と同じである。「同じ」ものが互いを呼びあい、必要としている。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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秋亜綺羅『ひよこの空想力飛行ゲーム』

2014-08-18 09:39:12 | 詩集
秋亜綺羅『ひよこの空想力飛行ゲーム』(思潮社、2014年08月12日発行)

 秋亜綺羅『ひよこの空想力飛行ゲーム』の感想を書くのは難しい。
 理由は……
(1)書いていることはわかる、そしてその「わかる」は「意味」が裏切られたということがわかるのであって、そこに書いてあることが「わかる」ということではない。そういう言い方(ことばの動かし方)は、いままで知っていた「意味」と違っているけれど、それなりに「意味」になっているということが「わかる」にすぎない。
(2)いや、「意味」が裏切られたとき、その瞬間に「詩」があらわれるのであって、「詩」はそれまで存在していなかったのだから、「わかる」というのは錯覚であって、「わからない」にならないと詩ではない。(「現代詩は難解である」とかつて言われたけれど、「難解」は「解り難い」であって「わからない」ではない。どこかに「わかる」が含まれるから、「わからない」にならないと「詩」ではない--と秋亜綺羅は言いたいのだと、私は、秋亜綺羅を「理想化」した眺めている。そうなってほしいなあ、といつも思っている。)。
 と、理由を書きつづけていこうとしたら、めんどうになる。

 具体的に読んでいこう。たとえば、

I(わたし)を0(ゼロ)にしてしまえば
LIVEはLOVEになる                     (「自傷」)

 ここに書いてあることは、「文字」の見かけと「意味」の問題である。しかし、0(ゼロ)とO(オー)は違った文字であり、L(エル」0(ゼロ)V(ヴィ)E(イー)はラブ(愛)ではない。
 そして、秋亜綺羅は「LIVE(ライブ)はLOVE(ラブ)になる」とはどこにも書いていないので「LIVE(ライブ)はLOVE(ラブ)になる」と読むのは読者の勝手、読者が勝手にそう読むことで「詩」を感じている。読者の勝手なんか、秋亜綺羅にとっては知ったことではない、ということになる。LIVE(ライブ)→LOVE(ラブ)の変化(?)なんて、「詩」とは無関係である。
 また、LIVEのIが0(ゼロ)になったからといって、LIVEがLOVEになるということは現実にはありえない。(活字はゼロとオーをきちんと区別してつくられている。手書きでも、必要があれば識別できるようにして書くのが一般的である。)ありえないのに、そういうことが起きたと一瞬思ってしまう。何かが、「文字」の操作で「意味」が変わってしまうと思ってしまう。この「思う」瞬間、「I(わたし)を0(ゼロ)にしてしまえば/LIVEはLOVEになる」というときの、「ゼロ」と「オー」の類似が秋亜綺羅と読者の間に共有され、その「共有」が「わかる」ということでもある。「LIVE(ライブ)はLOVE(ラブ)になる」ということよりも、「ゼロ」と「オー」がそっくりであるということが共有されたにすぎない。
 こんなふうに書いてくると、なぜ、秋亜綺羅が、こういうことを書かなければならないのか、書きたかったのか、書くことで何を欲望しているのか、書くことでどんなふうに秋亜綺羅自身を変えてしまいたいと欲望しているのか、それが「わからない」。(その「わからなさ」を、私はいつか探しにゆきたい。探し当てたい。その「わからない」こそが秋亜綺羅の詩だと思っているので……。)
 自分を変えてしまいたいという欲望など秋亜綺羅にはない--と秋亜綺羅は言うかもしれない。そう読んでしまった読者(私)のなかにある欲望を自分で突きつめればいいだけである。勝手に錯覚してしまう読者(私)が勝手に見つけ出した「詩」について秋亜綺羅はどんな責任もない。
 まあ、そうなんだろうね。おっしゃるとおりです、はい。

 次の2行は、どうだろう。

こんど会ったら
吻接(すき)だよといって抱っこしよう

 接吻をキスと読ませ、その文字をひっくり返して「吻接(すき)」と読ませる。あ、ここにキス(接吻)が隠れている--と思うのは読者の勝手。
 たしかにそうだけれど、そういうことを書くのは、秋亜綺羅が「接吻=キス」という意識で「文字」を読むこと、「接吻」という「文字」を読めば「キス」を思い浮かべることを知っていて書いている。「接吻=キス」という「意味」を読者が「共有」していることを知っていて、なおかつ「吻接(すき)」と書けば「接吻」をひっくり返したのではなく「キス」をひっくり返したのだと「共通認識」としてもつことを知って書いている。読者の「意識の動き」を「わかって」いて、それを裏切るというか、利用するというか、ことばをいつもとはちょっと違う形にして、その瞬間に「詩」があるんだよ、それは自分の思っていることが瞬間的に「意味」を失って、「意味」になる前の「こと(もの)」に出合っているんだよ、と告げる。「キスって好きだからするんだよ」「好きだからキスをするんだよ」「いや、違う、キスをすれば人を好きになるんだよ」。
 「わかる」けどねえ。

 「わかる」けれど、それって、あまりに「一方的」じゃない? 「ことば」の出発が、最初から「意味」でできていない?
 秋亜綺羅は勝手に「ことば」に「意味(共通認識)」を与えておいて、それを裏切ってみせているだけじゃない? その「共通認識」って、一方的な暴力じゃないかな? 「裏切り」という「想像力」よりもはるかに暴力的で、権力的じゃないだろうか。
 そういう疑問をもってしまう。
 たとえば、

オモテは裏にとってみれば
裏なのか                      (「ひとは嘘をつけない」)

 ほんとうに、そう思う? そう思って書いている?
 秋亜綺羅の「都合」で、そう思っているふりをしていない?
 言い換えると(説明すると……)、この2行を書いたとき秋亜綺羅は「オモテ(表)」と「裏」に「平面」という「意味」をあらかじめ与えていないだろうか。詩が印刷されているA4判の紙の「表/裏」のようなもの。そこでは「裏」の「裏」は「表」になる。「表/裏」は人が勝手につくりだした「概念(意味)」にすぎない、それに気づいてほしいと秋亜綺羅はいうのかもしれない。
 でも、ほんとう? 
 たとえば秋亜綺羅と私が裏/表について語るとき、私と秋亜綺羅の間に詩が印刷されているA4判の紙ではなく、人を殺してしまったひとの問題があったとする。ひとはなぜ殺人をするかがテーマとしてあったとする。つまり「こころ」の問題があったとする。
 「こころ」の「表」で思っていることの「裏(裏側)」は反対の思いが渦巻いている。で、その「裏の心」の「裏」は「表」と言い切れる? そうではなくて、「心の裏側(裏)の裏側(裏)」は、思っていた以上に混乱していて、収拾がつかなくなっている。闇よりも深い闇ということもあるかもしれない。「裏の裏」は「さらなる裏」ということがあるかもしれない。
 そう考えると、秋亜綺羅のことばの裏切り方は、自分で用意した「意味」を裏切っているだけという感じがしない?
 ことばは、人と人がいっしょにいるときにはじめて動く。その動き方は、ひとりが一方的にきめる問題ではない。

 秋亜綺羅は、どこかで「意味」を想定しておいて、それをくつがえしてみせるだけ。「意味」を想定している秋亜綺羅は、ことばがどんなふうに動いていっても少しもかわらない。立体的なことばの世界を「仕掛け」で「平面的」にしてみせ、変化を簡略化し、わかりやすく装っているだけ、という気がどうしても拭えない。
 いや「立体」としての「ことば」を仕掛けによって、さらに立体的なものとしてみせるということもあるんだろうけれど。

 ことばは、そのことばの「意味」を裏切ると詩になる。「意味」を裏切るとき、ことばのなかからまだ名づけられていないものが生まれる、それが詩である--その「主張(論理)」は論理としてとてもよくわかるけれど……。

 でも、ことばに「意味」なんて、ないんじゃないのかなあ、と秋亜綺羅の書いたものを読み終わったあと、私は反論したくなるのだ。
 秋亜綺羅は、「意味」を裏切らないと、「意味」はなくならない(あるいは新しい「意味」は生まれない)と思っていないだろうか。
 「意味」というのは、ことばが抱え込んでいるものではなく、そのことばをつかう人と、それを読む人が出会ったとき、自然に生まれてくるもの。それに、ひとはことばをつかうとき「意味」なんか伝えようとはしていない。「意味」をひっくりかえそうともしていない。「ことば」に「意味」なんか、ない。「ことば」にあるのは「肉体」そのもの。「ことば」と「肉体」は同じもの。--というのは、私の書き急ぎだけれど。

 「意味」は、人が人を動かす(支配する)ときに利用するもの。「こうした方が合理的/わかりやすい」という方便。「合理的」「わかりやすい」方向へ他者を動かしていく。いつも、私はそこにたどりついてしまう。何を書いているのか、わからなくなってきたなあ。
 あしたまた感想を書くかも。


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中井久夫訳カヴァフィスを読む(149)

2014-08-18 09:36:16 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(149)        

 「彼は品定めをした」は小物を商う店を通ったとき、ふと店員の顔を見て、その姿にひかれて入っていく。売り物のハンカチの「品定め」をするふりをしながら、店員の「品定め」をしている。「品定め」というより、愛の交渉と言うべきか。

「このハンカチの品質はどうかね。
いくらする?」。声がのどに詰まる。
灼けつく欲望が言葉をかすれさせる。
返って来た答えの感じも似ていた。
気もすずろなるうわずった声。
口にこそ出さね、同意の色。

 男色の詩はいろいろあるが、この詩は少し変わっている。「声」がきちんと描写されている。いつものように容姿は省略されているが、「声」は書き込まれている。「のどに詰まる」と「かすれる」は似ている。「うわずった」は逆に声(のど)の抑制がうまくいかない感じだが、この微妙な変化はカヴァフィスの「嗜好」をあらわしている。詩人は「声」を生きている。ことばが声になり、相手にとどく。それが返ってくる。
 カヴァフィスの詩は登場人物の「主観」をいきいきと描いているが、それは「ことばの論理」として再現しているだけではなく、「声」そのものとして再現しているということだ。だから、「口語」が頻繁に出てくる。その「口語」の調子を、中井久夫は肉体の動きそのものとして具体化している。

商品問答を続ける二人。
その目的はただ一つ。ハンカチ越しにつと手が触れはせぬか。
ひょっとして顔が、唇が近づきはしないか。
腕や脚が一瞬ぶつからないか。

 これは、実際は、ハンカチ越しに手を触れさせ、顔を近づけ、腕や脚をぶつけ、ひょっとすると唇も触れあったのかもしれない。なぜなら、

その素早さ。人目を避ける巧みさ。
奥に座った店主には
まったく気づかれずじまいだった。

 と書いているからだ。「声」は欲望を伝えあい、ことば(意味/内容)は、そこで動いている欲望を隠し、ごまかす手段になっている。店主にはハンカチの品定めをしていると信じさせて、耳に情報を与えることで目をゆだんさせて、その隙に愛を確認している。
 「声」と「ことば」を巧みにつかいわけて動いているカヴァフィスの独特の姿が、この詩に見える。

リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
クリエーター情報なし
作品社
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リテーシュ・バトラ監督「めぐり逢わせのお弁当」(★★★★)

2014-08-17 23:26:04 | 映画
監督 リテーシュ・バトラ 出演 イルファン・カーン、ニムラト・カウル、ナワーズッディーン・シッ



 この映画テーマは「待つ」である。
 弁当の誤配からはじまる恋を描いている。弁当が配達され、そのシステムにのって手紙が配達される。手紙をとおして、「恋」も配達される。気持ちが「配達」され、恋が育っていく、という感じだが……。そして、映画の中では、「間違った電車に乗っても、やがては目的地に着く」というようなことが語られるので、間違いからはじまったことも最終的には目的地へつく(恋が成就する)という印象があり、「配達」がテーマであるように見えるのだが。(列車は客を目的地へ「配達する」。)
 この「配達」の不思議なところは、「主役」は自分では動かないということである。「配達」するのは「他人」。当人は、ひとつの場所にとどまり、「配達される」のを「待っている」。この「待つ」が、この映画の描いていることである。

 女と男は、互いに自分の気持ちを相手に届けようとするというよりも、相手からの「手紙」を待っている。自分の気持ちをいうよりも、相手が何を言ってくるかを「待つ」。待っている。
 待っているから、そこに「時間」というものが生まれる。待たなくても「時間」はあるのだが、「待つ」ときの方が「時間」が明確になる。そして、その「時間」のなかに、「待っていないこと(もの)」がいろいろ紛れ込んでくる。「暮らし」が紛れ込んできて、いままで気がつかなかったことを知らせてくれる。ほんとうはただ相手からの手紙を「待つ」ことだけに専念したいけれど、女の「時間」には夫の浮気という不機嫌なことがまぎれこみ、男の「時間」には仕事を引き継ぐはずの男のあれこれが紛れ込んできて、「現実」を印象づける。そしてそれが手紙をいっそう魅惑的なものにする。
 さらには、女の上の階にすむおばさん、女の母親の「待つ」も描かれる。ふたりは昏睡の夫、死にかけた夫と暮らしている。ふたりは、冷酷な言い方になるが夫が死ぬのを「待っている」。「時間」のすごし方はおばさんと母親では対照的だが、死を待っている、死が「時間」の区切りになることを知っている。ふたりに死を運ぶ(配達する)ことはできない。死がくるのを「待つ」ことしかできない。
 だれもが経験したことのある、この「待つ」ということ、「待つ」という時間を丁寧に描いているのが、この映画のおもしろいところである。見ていて、とてもわくわくしてしまう。

 で。
 この映画のハイライトは、「待つ」が崩れた瞬間にやってくる。女は「待つ」ことができなくなる。
 そのときひとはどうするか。気持ちを「配達」してくれるのを「待つ」、「配達」されるのを「待つ」のではなく、「自分自身」を「配達」してしまう。自分で動いて、相手に会いに行く。そこでも相手が「来る」のを「待つ」には待つのだが、それは「手紙」をやりとりしていたときとは状況が違う。
 相手を思いやるというよりも、自分の欲望の方が優先する。
 男の方も「待つ」に違ったものがまぎれこむ。男は自分の年齢に気づき(列車では席を譲られる--他人から見れば、年寄りなのだ)、女の若さにも気づく。年の差に気づいて、待ち合わせの場所にいっても会うことを避け、遠くから女を見ているだけである。嫌われるかもしれないと恐れたのだ。
 そんなふうに二人が「待つ」ことをやめ、相手のことを思いやるよりも自分の欲望を優先した瞬間、この恋は、そこで破綻する。
 映画は、恋を破綻させることで、それまでの「時間」の充実をより強調する。あの、「待つ時間」はなんと美しかったのだろう。なんと人を輝かせたのだろう。「待つ」を利用して、女は料理に腕をふるい、男は過去の思い出、死んだ妻との充実した時間を女に語りかける。男と女は、美しい時間をすごせるはずだと語った。あの「待つ」は、なんとすばらしい思い出なのだろう--というわけである。「過去」の美化、恋のノスタルジーの美化である。(主演の女の少し太め?の、大柄な風貌が、この古風な味の映画にぴったりである。)
 映画は、その「待つ時間」の充実を強調するだけではなく……。
 映画なので、そのあと、「ブータンで待つ」という「夢」が、思い出としてもう一度でてきて、それが「希望(ハッピーエンディング)」の形で描かれるが、それはあくまで「希望(観客の映画の見方)」に任されている。

 これはこれで、とてもいい映画なのだと思うのだが。
 一方で、私は何となく、うさんくさいなあ、とも感じてしまった。
 「待つ」ことの美しさを感じてしまうのは、私の現実が「待つ」ということからかけ離れているせいではないのか。「待つ」ということに対してノスタルジーを感じているからではないのか。
 たとえば、この映画にもEメールは出てくるが、主役の女と男は使わない。メールを書いて、すぐにメールの返信を要求するというようなわずらわしい現実がない。カフェでの待ち合わせも、いまなら携帯電話や携帯メールで即座に連絡し確認できるが、このふたりはそういうことをしない。
 何か「待つ」がもっているノスタルジックでロマンチックな視点で映画が統一されているようで、それがなんとも気持ち悪くも感じられる。同じことが日本やアメリカ、ヨーロッパで起きるだろうか。韓国や中国でも起きないだろう。インドを嘘のために利用してはいないだろうか。それが気がかりだなあ。
 インドの列車の混雑、街の喧騒、弁当配達の様子さえ、インドの匂いがしない。いや、インドの匂いがするのかもしれないが、そのフレームはどうもヨーロッパ的である。ヨーロッパの映画の影像の切り口にとても似ていると感じる。うーん、こういう影像はインド人以外に撮れないぞ、と感じさせるシーンがない。
 ノスタルジックがあまりにもヨーロッパ的である。


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