詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『詩に就いて』(25)

2015-05-24 19:06:53 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(25)(思潮社、2015年04月30日発行)


小景

テラスのテーブルに
チャイのポットと苺が出ている
古風な静物画のような構図
音楽は言葉を待たずに
キャベツ畑を渡っていく
音楽がどこへ行くのか気になって
言葉は立ち止まってしまう

「詩みたいなものを書いた」と男が言う
「やめてよ」と女
気まずい沈黙が詩とかくれんぼしている
「どこだっけここは」男が言う
「知らない」と女
言葉はみな意味に疲れ果てている
部屋の奥で着信音が小さく鳴った

 この作品から三つ目の章になる。
 いままで読んできた作品と大きく違う点がある。女が登場し、男と対話している。登場人物が二人いて、「対話」している。ひととひとの哄笑がある。
 「朝」にも「私の「おはよう」に無言の微笑が返ってきて」という一行があり、そこにも「対話」があると言えば言えるけれど、その「対話」は「小景」のように「対立」していない。
 「小景」では「対話」が「対立」している。逆なことばで言えば「調和していない」。「朝」の「無言の微笑」は「調和」である。
 音楽に「不協和音」という言い方があるが、谷川がこの詩で書いているのは「不協和音」のようなものかもしれない。ふつうとは違う和音。ことばの響きあい。
 そのとき、そこに「詩」は存在しているのか。
 男は詩を書き、女は詩を拒絶している。このとき、詩は存在しているのか。それとも存在していないことになるのか。存在しているけれど、それが拒絶されているだけなのか。詩人と詩人ではないひとが対話し、その対話のなかで詩が否定されたとき(拒絶されたとき)、詩人は、どういう存在なのだろう。否定されても詩人か、それとも詩人ではなくなるのか。詩はそのとき「どこにある」のか。

 最初から読み直してみる。
 一連目は、いわゆる「詩」である。二連目で男が「詩みたいなものを書いた」と言うが、その「詩みたいなもの」が指しているのは一連目である。
 「テラス」「テーブル」が出てくるので、思わず詩集の巻頭の「隙間」を思い出してしまう。「詩の靄らしい」ものが「うっすら漂っている」光景は、「小景」の世界を先取りしていっているような気がする。それくらい、一連目は「詩っぽい」(詩みたいなもの)。「古風な静物画のような構図」と谷川が書いているが、「構図」が「詩っぽい」。さらに「音楽は言葉を待たずに/キャベツ畑を渡っていく」が谷川の「音楽好き」をそのまま浮かび上がらせて、とても「詩っぽい」。「言葉を待たずに」と「言葉」が無視されているのも詩を逆手にとって(ことばを突き放すことによって)、より深い詩を感じさせる。「言葉が存在しない」ときに「詩」がいちばん美しい形で存在する。また、「音楽がどこへ行くのか気になって/言葉は立ち止まってしまう」という保留の感じ、ためらっている感じが、感情が肉体のなかにたまってくるようで、おもしろい。最初から最後まで、すべてのことばが「詩」になっている。
 これを男は「詩みたいなもの」と言う。「詩」と断定していない。なぜだろう。「謙遜」か。あるいは、詩は読まれてこそ、誰かにとどいてこそ詩であって、それまでは「詩みたいなもの」に過ぎないということか。
 これに対して女は「やめてよ」と言う。それを私に読ませる(聞かせる)のはやめて、という意味だろう。女は男が書いた「ことば」を受け取ることを拒絶している。
 ここが、微妙だ。
 女は「ことば」を拒絶したから、「詩みたいなもの」がどんなものか知らない。けれど、男(谷川?)は知っている。また、この作品を読んでいる私も知っている。女のところまではとどかず、立ち止まってしまったことばを知っている。一連目の最後の部分と微妙に重なる。「対」になる。
 詩(詩みたいなもの)は男と読者の意識(内部)には存在する。しかし女がそのことばを拒絶したために、男の「外部」には存在しない(ことに、この詩ではなっている)。
 これは谷川がつかうことばを借りて言えば、「未生のことば」が生まれようとするのを、反対側(?)から見つめたような感じだ。
 「言葉」はもう「未生」のものではない。けれど、それは女が拒絶したために「外部」に「生まれ出る」わけにはかいかない。しかし、引き返そうにも、引き返せない。「未生の言葉」にはもどれない。「言葉は立ち止まってしまう」。
 こういうことを、谷川は

気まずい沈黙が詩とかくれんぼしている

 と書いている。魅力的で、刺激的で、ことばを誘われる。この行について何か書きたい、という欲望を刺戟される。
 「沈黙」の奥に「詩」が隠れているのではない。
 「沈黙」と「詩」が、対等の感じで「かくれんぼ」している。互いが「鬼」であり、互いが「子」である。「対」になっていないと「かくれんぼ」は成立しない。
 「未生のことば」は「未生」であるけれど、そこに存在しているということが意識されないかぎりは「未生のことば」ではない。意識される(感じがある)けれど、それが「外部」に形となって出て来ないのが「未生」という状態。「胎児」のようなものだ。「生きている」、存在している。けれど「外部」に出てきて「自立」しているわけではない。
 このとき「詩みたいなもの(未生のことば)」は男のものだが、「沈黙」はだれのものだろう。男のもの? 女のもの? それとも男と女のあいだにあるもの? だれのものでもなく、もうひとつの「未生のことば」のように存在している。「沈黙」自体が「未生のことば」となって、それが「詩みたいなもの(未生のことば)」と響きあっている。
 これが、この作品の「不協和音」だ。
 「ふつうの和音」(?)は一連目。「詩(みたいなもの)」。世界がことばとなって表出され、そのことばが互いに響きあって、テラスの情景を描き出している。そこには、そこにいるひとの「感情(情緒)」が反映されている。そこにも「沈黙」はあるだろうけれど、その「沈黙」はことばによって静かにととのえられている。あるいは「沈黙」は、生まれてくることばが美しく響くように、沈黙自身をととのえている。
 けれど二連目では「沈黙」と「詩」がぶつかりあって、「ことば」を沈黙させ、「沈黙」をざわつかせる。「詩」が聞こえず、「沈黙」が聞こえる。会話は声にならないまま、男と女の肉体のなかでざわめいている。その「声にならない沈黙」は一連目の「言葉」のように立ち止まりはしない。「沈黙」は自己主張して、詩が隠れたままでいるようにしている。出てきたら(見つけたら)、つかまえてしまうぞ、と騒いでいる。
 どうすればいいのだろう。
 男の方は隠れつづけていることが退屈になって出て行く子どものように、わざと自分の姿をあらわすのだが、女の方はかくれんぼをしていたことさえ否定するように知らん顔をしてしまう。「沈黙」で男と「詩(みたいなもの)」を圧倒してしまう。

「どこだっけここは」男が言う
「知らない」と女

 高等な駆け引き、「人事」。
 それは、しかし、こんなふうに書かれてしまうと、それはそれで「詩」として姿をもってしまう。「不協和音」が「和音」の位置を締めてしまう。つまり、「描写/情景」としてはっきり読者に迫っている。こういう「対立」(気まずさ)のようなものを、架空のものとしてではなく、自分の「肉体」が覚えていることとして思い出すことができる。
 この不思議な手触り、「現実感」をつたえることばに比較すると、一連目は「絵空事(詩みたいなもの)」になってしまう。二連目が「詩」であり、一連目は「空想」になってしまう。
 「不協和音」は「リアリティ」を別なことばで言ったもののよう思えてくる。忘れていた「リアリティ」が動くので、それを「事実」と思い、そこに「ほんとうの詩/詩のほんとう」を感じてしまう。

 この「不協和音」を谷川は、別な表現で言いなおしている。

言葉はみな意味に疲れ果てている

 「意味」が「不協和音」である。「意味」が引き起こす「疲れ」が「不協和音」である。「どこだっけここは」は「意味」である。それが「どこ」であろうと、そういうことと無関係に人間はすでにそこに存在している。「知らない」も「意味」である。どこであろうと人間は存在していると言うこと自体が「意味」なのだ。
 「詩みたいなもの」にも「意味」がある。「意味」をつたえようとして(あるいは、世界はこういうふうに見れば美しいという「意味/見方」をつたえようとして)書かれている。そこにはととのえられた「意味」がある。
 そういう「意味」に女は疲れ、疲れている女を見ることに男は疲れている、という「意味」がさらに加わるかもしれない。

 最後の一行は、それまでのことばとは無関係である。つまり「無意味」な一行である。「意味」から解放されているがゆえに、その一行こそがこの作品では「詩」として存在していることになる。
 騒がしい「不協和音」に向き合って、「小さく鳴った」その音。


詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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嵯峨信之を読む(68)

2015-05-23 12:03:33 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(68)

115 空へ消える

手でそつとぼくに触れてみた
ぼくは昨日のぼくと全く同じものだ
一つつきりだ
ぼくに加わつたものは今日のこの顔ばかりだ

 最初の三行は、特に変わったことが書いてあるわけではない。誰もが自分の肉体は一つであり、それがきのうからつづいていると思う。けれど四行目はどうだろうか。「顔」も「一つ」。かわならない。けれど嵯峨は「ぼくに加わつたもの」と書く。わからない。
 わからないから、誘われるようにしてつづきを読む。

かなしいときに
うれしいときに
一日を静かに通りぬけていくこの顔だけだ
しかしいま何も持つていないぼくがどんなにそれに堪えているか

 「顔」が「肉体」を通りぬけていく?
 ふつうは「顔」を悲しみやうれしさ、つまり感情が通りぬけていくと言うと思う。悲しいときに悲しい顔になり、うれしいときにうれしい顔になる。
 しかし、「ぼく」には「かなしい(とき)」や「うれしい(とき)」がない。「何も持つていない」。感情がない。
 そして、無表情で「顔」の存在に堪えている。
 「それに堪えている」の「それ」を、そんなふうに読んでみた。

 何の説明もないのだが、そんなふうに読むと、この詩の「ぼく」も嵯峨自身のことではなく、死んでいった友のことを書いたものように感じられれる。
 朝起きて、自分のからだに触れる。そして、あ、まだ生きていると感じる。きのうと同じように生きている。きょうが、またやってきた。けれど、病床にあって、何もすることがない。感情も長い闘病のなかで使い果たしてしまった。それなのに「顔」がある。感情をつたえるための「顔」がある。感情のなさに苦しみながら、生きているひとの切なさを感じる。
 感情の起伏は肉体に響く。だから興奮したりしないようにしているのかもしれない。「静かな感情」に堪えている。
 二連目の三行は、さらに死んでいった友のことを連想させる。

だが時には青白い空をたぐりよせて
ひねもすぼくをそれに縫い合せて
それから空の中へひと羽搏きはばたいて消え去つてしまうことがある

 「青白い空」は「空」に出てきた「白い空」であり、それは病室の窓から見える。「垂れさがつた」空である。その空へ帰っていくというのは「方向」のなかに出てきた「鳥」である。「鳥」になって、「遠い世界」へ飛び立っていく、という気持ちになっている。そういう友にかわって詩を書いている。


嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(24)

2015-05-23 09:10:40 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(24)(思潮社、2015年04月30日発行)


木と詩

 木というこの言葉が、目の前の現実のこの木とは似ても似つかない、と知り
ながら、私たちが言葉で目指すものは何だろう。木は私たちの外部に存在して
いるのだが、それを木と呼んだときから、木は私たちの内部にも存在する。
 では、木ではなく詩だったらどうか。詩というこの言葉が、目の前の現実の
この詩とは似ても似つかないということはあるだろうか。しばしばあると私は、
いや私でなくても断言する人は多いだろう。
 木は木という言葉に近づこうなどとは思っていないが、詩は詩という言葉に
近づこうとして日夜研鑽に励んでいる、のは私に限らない。詩という言葉と、
木という言葉はどうしてこうも違うのだろうか。
 しかし木が詩になることがある。言葉というもののおかげで、それが可能に
なるのだ。詩になることで木は倒れ朽ち果てたあとも、記憶に残る。しかしそ
れは絵や写真として残った木とはまた違っていて、本物の木とは似ても似つか
ないからこそ言葉上の木になっているのだ。
 木と詩、事実の世界では全く違う二つの存在が、人間の心の世界では相即の
関係にある。詩もまたそこで生まれる。

 散文で書かれている。テーマは「言葉とは何か」、あるいは「言葉と詩の関係はどこにあるか」。木を媒介にして、そのことが考えられている。「木という言葉/言葉の木」「木という現実/現実の木」。「現実の木」は「私たちの外部に存在する木」、「言葉の木」は「内部に存在する木」と言い換えられている。「内部」とは「意識」でもある。「外部=現実」「内部(意識)=言葉」という「対」が第一段落で書かれている。
 これが第二段落では、「木」を「詩」に置き換えて、考え直されている。「現実の詩=外部に存在する既成の詩」と「内部の詩=私が詩と思っているもの(意識が理想とする詩)」が対比され、それは「似ても似つかない」という「考え」で整理し直されている。
 第一段落では、「現実の木(外部に存在する木)」と「言葉の木(内部に存在する木)」は「似ても似つかない」と断定的に書かれている。「似ても似つかない」と「知っている」と書かれている。第二段落では「現実の詩=外部に存在する既成の詩」と「内部の詩=私が詩と思っているもの」が「似ても似つかない」ことも「しばしば」ある、と書かれている。ということは「似ている」ということも、ありうるということだ。
 この微妙な「違い」の方へ、谷川は思考を動かしていく。「詩」の方に寄り添うようにして、「現実の詩=外部に存在する既成の詩(書いてしまった詩)」と「内部の詩=私が詩と思っているもの」が「似ても似つかない」とき、その「似つかない」ものを修正し、「内部の詩=私が詩と思っているもの」に近づこうと「研鑽する」。「書いてしまった詩」を「意識が理想とする詩」に近づけようと推敲する。「詩」というものが「私の内部」で動くのに対して、「木」というものは「私の内部」とは無関係な「外部」に最初から存在しているので、「近づく」ということがない。
 動く(近づく)のは、あくまで「言葉(意識=内部)」の「述語」であって、「木」の「述語」ではないのだ。
 「木が詩になる」とは「現実の木」に対して「言葉(意識=内部)」が近づいてゆき、近づく力で「木」を「人間の内部」に取り込み、「木」そのものに育てる。「現実の木/外部の木」はそこにあるだけだが「内部の木」は「言葉」が近づくこと、「言葉」で描写すること、その運動の中で「木」そのものを少しずつととのえ、ととのえることで「内部の木(意識の木)は「木」らしく(木に似たものとして)「育つ」。「外部の木」と「木と思っているもの/こと」が「言葉」のなかで重なり、それが「内部で木になる」。何が「木になる」かといえば「(私が)思っていること」が「木になる」。だから、それは「私が木になる」ということでもある。「木が詩になる」とは「木が私になる/私が木になる」がしっかり結びついて、区別がつかない状態のことである。「木が私/私が木」であるからこそ、それは「記憶(肉体の内部)」に「残る」。それは写真や絵と違って「現実の木」とは「似ても似つかない」からこそ詩(言葉上の木)になっている。
 この「木が私/私が木」のことを谷川は「相即」と呼んでいる。「木即私/私即木」ということが起きているのが「詩」であると言っている。詩は「木即私/私即木」という「場」で「生まれる」と言っている。
 この考え方は、私にはとてもよくわかる。というか、とても納得できる。私は「木即私/私即木」という「一元論」こそが詩であると感じはじめていて、それを何とか自分のことばで言いなおしたい、と思いつづけている。だから、これは私の「誤読」からもしれない。自分の言いたいことを言うために、谷川の詩から自分の考えに都合のいいところだけを抜き出して利用しているだけかもしれないのだ。
 また、この詩集を読みはじめたとき(最初に「あとがき」について触れたとき)、「詩に就いて」の「就いて」は「即」かもしれないと書いたが、いまこの詩を読みながら、あ、やっぱりそうなのだと確信したのだ。「あとがき」に触れたとき、私はまだこの詩を読んでいなかった。谷川は「ついて」と書かずに「就いて」と書く。その「漢字」のなかに「即」がひそんでいる。その予感が、この詩を読んで「的中した」という感じだ。だが、だからこそ、私はまた、これは「強引な誤読」とも感じる。こんなに都合よく私がうすうす感じていたのと同じ「即」が出てくるのは、どこかで私が間違っているのだとも思う。
 「論理」というのはいつでも「自分勝手」というか、「自分の都合」にあわせて「事実」をねじまげていく。ねじまげた「こと」を「事実」と信じ込んでしまう。「脳(頭)」は自分自身に対して「嘘」をつく。都合のいい「現実」をつくりあげる。

 こんなこと、私がいま書いていることを信じてはいけない、と私の直観は言う。

 だから、違うことを書いてみる。私はいま谷川の「論理」を追ってきて、それは私の考えている「一元論」の「詩論(?)」をそのまま代弁してくれているように感じ、また、そう呼んでしまい、酔ったような気分になってしまったが……。
 その「論理」を追う前、私は谷川のことばに激しくつまずいたところがある。

 木というこの言葉が、目の前の現実のこの木とは似ても似つかない、

 そうなのだろうか。
 私は実は「木という言葉」と「現実の木」が「似ても似つかない」とは、自分からは意識したことがない。谷川がそういうので、確かに「木という言葉」には木の形、色、匂い、手触り、音(風に揺れたり、叩いたりしたときにでる音)、味(葉っぱを齧ったときに感じる)がないと思う。しかし、そういうことを言えば「絵や写真」にしても同じである。絵や写真は「形/色」を「似ている」ものとして表現しているが、それを「似ている」と勘違いするのは人間だけかもしれない。猿は絵に描いた木に上ろうとするだろうか。犬においかけられた猫は写真の木を攀じ登るだろうか。そんなことは、とうていありえない。そうだとすると、絵や写真の木も、一種の「言葉」であって、人間がかってに「内部」に存在させているものに過ぎない。絵や写真の木はたいていは現実の木よりも小さい。それを私たちは勝手に拡大して、現実の木を想像している。それは「木という言葉」を聞いて現実の木を想像するのと差がない。「視覚」に頼って木を想像するかどうかの違いがあるだけだ。
 ここで踏み止まって、「ことば」とは何かということを考え直さないといけない。きっと、ここに「つまずきの石」がある。

 余分なことを、もうひとつ書いておく。
 私は何度か谷川は「定型」からことばを動かしはじめると書いたことがある。この詩でも、

 木というこの言葉が、目の前の現実のこの木とは似ても似つかない、と知り
ながら、

 というのは「定型」である。「木という言葉」は、絵や写真のように「現実の木」とは似ても似つかない。「形」が似ても似つかない。「似る」という「動詞」を考えるとき、多くの人は「視覚」で「似る」を判断してしまう。音が似ている、匂いが似ている、味が似ているという表現もあるはずなのに、「現実の木とは似ても似つかない」と聞いた瞬間に「視覚」を動かして、谷川のことばを信じてしまう。私たちが情報の多くを「視覚」に頼っている証拠である。谷川は、こういう人間の認識の「定型」をすばやく掴み取って利用する。
 ただし、その「定型」をそのまま動かしつづけるのではなく、それを途中で叩き壊して別なところへ動いていく。この詩も「形」が「似ても似つかない」と出発しながら、「形」を超えた次元で「相即」ということばを動かしている。
 だから、感動してしまう。
 この感動の中にとどまれば、それは詩を楽しむことになる。
 この感動が人間とどんな関係にあるか、この感動が人間をどんなふうに動かし、ととのえていくのかを考えるとき、それは詩の「批評」になる。





詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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嵯峨信之を読む(67)

2015-05-22 12:25:39 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(67)

114 方向

眠くなると
どの部分かが鳥のように冷えてくる
それは少しずつ人間の制約からはなれて
大空へ帰るのだろう

 二行目の「鳥のように冷えてくる」という比喩がわからない。「鳥」は私には「温かい」ものという「記憶」しかない。鶏、鳩、雀……手につかむとみな温かい。雛の場合、それは体温の温かさ以上に、心情的に温かいものを含む。「冷えてくる」は、とても不自然に感じられる。
 しかし、「鳥のように」という比喩は四行目の「大空へ帰るのだろう」と結びつくと、とても自然だ。
 不自然と、自然のあいだで、よくわからないまま、わからないのだけれど何か人間の生きていることの不思議さのようなものを感じる。わからないから、そこに「魅力」を感じ、そのことばに誘い込まれる、と言えばいいのだろうか。

 さて、この詩は何を書いてあるのだろうか。

 「鳥」と「大空」のあいだに挟まった「それは少しずつ人間の制約からはなれて」をどう読めば、不自然が自然にかわるのだろう。
 「人間の制約」ということばがむずかしい。一連目だけでは、わからない。
 ひとは大事なことは何度でも言いなおす。きっと、どこかに言い直しがあるはずと思いながら二連目を読む。

自分をとらえているものからはなれて
はじめて人間は大きな世界を知ることができる
死がふかくかくしもつている遠い世界に触れるのだ

 「人間の制約」は「自分をとらえているもの」と言いなおされている。「自分をとらえているもの」とは「肉体」だろうか。それとも何かに対する「固執」だろうか。「死」ということばが重い。
 「眠くなると」を「意識がなくなると」と考えるならば、何か対する「固執」が消えて、自分を超えた「大きな世界」を知ることができる、といっているように感じられる。「意識なくなる」をさらに「死ぬ」と考えて読むべきなのか。死ぬことによって、人間は大きな世界に触れると言っているのか。

 「比喩」は、たぶん、論理だけでは説明できないものを含んでいる。その説明できないものを、感じたまま、感じた瞬間へ帰る(あるいはその瞬間に立ち戻る)ようにして、ことばを読まないといけないのかもしれない。

眠くなると
どの部分かが鳥のように冷えてくる
それは少しずつ人間の制約からはなれて
大空へ帰るのだろう

 三行目の「それは」というのは、先行する何かを指して「それ」と言っている。文法上は「どの部分か」を指していると思う。「鳥のように」という比喩をいったん省略して読むと、「どの部分かが冷えてくる。そして、その冷えた「どの部分か」が少しずつ人間の制約からはなれて」ゆく。
 けれど、私は、そんな具合に「論理的」には読んでいない。
 書き出しの四行は、

眠くなると
自分のなかのどの部分かが冷えてくる
それは少しずつ人私を間の制約から解放してくれる
その結果、私は人間の制約をはなれて(人間ではなくなって)
鳥のように大空へ帰っていく

 嵯峨の書いている「論理」を無視して、目に飛び込んできたことばを自分の納得できる「論理」で並べ替えてしまう。こんなふうに読むと、空を飛ぶ鳥の気持ちよさが広がってきて、「眠り」が心地よくなる。
 しかし、「私の論理」で読むと、「嵯峨の論理」が衝突して、「変だぞ」と何かが声を上げる。
 どう見ても、嵯峨は私の読んだようには書いていない
 この不一致の瞬間にこそ、私は嵯峨と出会っているのだと思うが、どうしていいのかわからない。
 「私の論理(読み方)」は、どうなおしていけばいいのだろう。
 「不一致」を抱えたまま、私は「私の論理」に固執して先を読む。

自分をとらえているものからはなれて
はじめて人間は大きな世界を知ることができる
死がふかくかくしもつている遠い世界に触れるのだ

 「死」ということばが異様に見える。「眠る」は「永眠」、つまり「死」のことを書いていたのだろうか。
 そうならば「人間の制約」とは「いのち」のことである。「肉体」のことである。死ぬと「肉体」は「冷える」。「鳥のように冷えてくる」と嵯峨が書くのは、嵯峨には死んでゆく鳥を掌で抱いていたことがあるからかもしれない。鳥は死んで冷えていきながら、鳥の制約(羽で飛ばなければならないという制約)をはなれて、翼をつかわずに大空へ帰っていく--それが、鳥の死。
 一連目の「人間の制約」は、実は「鳥の制約」だったのだ。
 嵯峨は、永眠しようとする人を「鳥」という「比喩」のなかで動かしていたのだ。
 ひとは死ぬと、人間は飛べないという人間の制約をはなれて、そういう制約から自由になって、つまり「鳥」になって、大空へ帰っていく。
 そう読むことができる。
 二連目の「自分をとらえているもの」、つまり「人間の制約」のひとつに「飛べない」ということがある。空高くから世界を見ることができない、ということがある。しかし、想像力で「鳥」になって考えると、地上を歩いているときとは違った「大きな世界」を見ることができる。「自分」を離れないことには「大きな世界」は見えないということかもしれない。

 その想像の「鳥」のように、「死」を想像してみる。
 そうすると、生きていることに固執していたときには見えないものが見えてくる。「死」が隠し持っている「遠い世界」が見えてくる。それは「遠い」と同時に「大きな世界」でもある。
 この詩には、その「大きさ」「遠さ」は具体的には書かれていないが、「現実」よりも自由な世界として、「大きさ」「遠さ」が思い描かれている。

 これは嵯峨が嵯峨自身の「死」を見つめながら書いた詩ではない。死んでゆく友に向かって書いた詩である。「きみは鳥のように大空へ帰るのだ、大きな世界へ帰るのだ」と安心させるための作品だ。それは、同時に、嵯峨の祈りでもある。

椅子に腰かけていて
時計のかすれたように鳴るのを聞く
彼はふいに立ちあがる
そして彼はみずからに案内されて消えていく
音の中に
彼の中に
死の中に



嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(23)

2015-05-22 09:26:10 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(23)(思潮社、2015年04月30日発行)


脱ぐ

服を脱いで
あなたは裸になる
裸を脱いで
あなたはあなたになる
野良猫があなたを見つめる

あなたを脱いで
あなたはいなくなるが
それは言葉の上だけのこと
栃の木の葉が風に散っている

言葉を脱いでもあなたはいる
そんなあなたを呼ぶのは詩
渚で蛤が息をしている

脱ぎ捨てられた言葉をかき集めて
詩が思いがけないあなたになる

あなたはセーターを脱ぐ

 この作品でも「言葉」は「表現」と同じ意味をもっている。二連目の「言葉」を「表現」と置き換えてみると、そのことがよくわかる。

あなたを脱いで
あなたはいなくなるが
それは「表現」の上だけのこと

 「あなたを脱ぐ」ということがすでに「表現」である。「ことば」だけで可能なことであり、現実に「あなた」が「あなた」を「脱ぐ」というようなことは、そのままでは実行できない。その「実行」というのは、一連目の「服を脱いで/あなたは裸になる」との比較でいうのだが……。
 
 最初から読んでみる。「服を脱いで/あなたは裸になる」というのは「表現」であると同時に、現実にそういうことができる「事実」でもある。「裸」というのは「肉体」であり、その「肉体」は表面上は何も「隠していない」。「裸」ということばは「肉体」をあらわすと同時に、「裸=隠さない」という「表現/ものの見方」としても「定型」的につかわれる。
 この「定型」を利用して、「裸を脱いで/あなたはあなたになる」とことばがつづけられるとき、私たちは「肉体」が隠しているものを脱いで、その「奥」に存在するものを「見せる」という動きを感じ取る。「裸」を脱いだあとの「あなた」は「肉体」ではなく、「肉体」の奥の「精神/感情」ということになる。「裸の肉体の裸を脱いで/あなたは裸の精神としてのあなたになる」。「裸の下」に隠れている、目に見えない「こころ/魂」としての「あなた」を見せる。むき出しの「あなた」に「なる」。
 ここからさらに「あなた(精神/感情/こころ/魂)」を脱ぎさることはできるか。「精神/感情をあらわす「定型の言葉」を脱ぎ捨てる、「無心」になる。「無心」とは、ある意味では「心」が「ない」と同時に「あなた」がないということでもある。「心=ひと」という「論理」にもとづけば。
 でも、こうしたことは、あくまでも「表現」の上だけのことである。「表現」として、そう言いうる。そう考えることができる。「表現」は「ものの見方」であり「考え方」でもある。「考え」というものは「ある」ものだけではなく、「ない」についても考えることができるので、なんだか、ややこしい。「矛盾」のようなものが、どこかで動き、人間をつまずかせる。
 それで、三連目「言葉を脱いでもあなたはいる」ということになるのだが、これは「表現(ものの見方)」を捨て去って「無心」になったとしても「無心のあなた」がいるということか。そして、その「無心のあなた」を「詩が呼ぶ」と「論理」を進めていくと、なんだかかっこいいのだが、かっこよすぎてうさんくさい。
 また「言葉(表現=精神、感情の存在形式)を脱いでも、今度は逆に肉体(もの)そのもののあなたはいる(肉体がそこにある)」。精神/感情をもたない無意味な存在(人間の価値は精神や感情の価値として語られることが多い)、いわゆる「無意味な肉体」の、その「無意味」が詩を呼ぶ。詩は無意味。肉体の無意味と詩の無意味が共鳴して、世界が始まる。--あ、これもかっこよすぎる。うさんくさい。

 少し引き返す。「言葉を脱いでもあなたはいる」。三連目で「あなた」は「いる」という「述語」で描写されているが、それまでは「あなたは裸になる」「あなたはあなたになる」「あなたはいなくなる」と「なる」という「動詞」で描写されていた。
 「なる」と「いる」は違う。「いる」は「ある」とも言いなおすことができる。けれど「なる」をそのまま「ある」とは言いなおせない。
 「なる」というのは「変化」をあらわす。「変化」するというのは、ある意味では以前存在したもの(ある)がその存在ではなくなることであり、「以前の存在の不在(ない)」が「なる」を「ある」に変える。「裸になる」は「裸の状態として、あなたはある」という意味だ。さらに「裸を脱いで/あなたはあなたになる」とは「裸」という「比喩/表現」さえも脱ぎ捨てて、さらに肉体の奥に存在する、目に見えない「精神/感情」としての存在になり、「こころの状態として、あなたはある」という意味だ。
 二連目の「あなたを脱いで/あなたはいなくなる」と一連目の「裸を脱いで/あなたはあなたになる」は「対」になっている。「対」になりながら、「なる(なって、そこにある)」を「いない」という「矛盾」で浮かび上がらせている。しかし、こういう「矛盾」はあくまで表現(ことば)の上で起きていることであって、現実には、三連目の「言葉(表現)を脱いでも(肉体としての=無心としての)あなたはいる(ある)」ということになる。
 「肉体」と「無心」がここでイコールになってしまうのなら、なぜ一連目で「裸を脱いで」というようなことが書かれるのか。「裸を脱いで」というのは、あくまで「比喩(思考の定型)」であって、それは「ほんとうの裸」ではないからだ。「肉体」も「無心」も「表現(言葉)」だから、どんなふうにでも「論理」を捏造できてしまうのだ。「論理」というのは「ことばの定義」を少しずつずらして(少しずつ正確にして、というひともいるだろう)、どこまでもごまかせるものである。
 「かっこよすぎてうさんくさい」と書いたのは、そういうことを指している。

 さて、三連目「言葉を脱いでもあなたはいる」とどう読めばいいのだろう。「裸を脱いで/あなたはあなたになる」「あなたを脱いで/あなたはいなくなる」という行と「対」になっている、とだけわかればいいのだろう。その「対」について何か語ろうとすれば、いろいろな言い方ができるが、それが「論理」を目指して動くとき、それはどう動いてもうさんくさくなる。散文はうさんくさい。

 視点を換えて、突然出てきた「詩」について考えてみる。
 「言葉を脱いで/無心になって/肉体だけになった」あなたを呼ぶのは「詩」。その「詩」は「渚で蛤が呼吸している」という一行となって、三連目では書かれている。
 「あなた」とはまったく無関係の、そして私がこれまで書いてきたこととはまったく無関係の「描写」。
 この一行は「野良猫があなたを見つめる」(一連目)、「栃のこの葉が風に散っている」(二連目)と「対」になっている。「脱ぐ」という「あなた」の行為とはまったく無関係という共通性をもっている。こういう、それまでの「論理」(ことばの動かし方)を切断し、「無関係なことばの動かし方」を接続することが詩。それぞれの連の最終の一行そのものが詩であるというよりも、そういう行でそれまでの世界を破壊し、あらたなものを接続させるということが詩なのだ。
 切断と接続という変化そのものが詩。
 こう書いてしまうと、これも、うさんくさい。

 四連目は、それまでの連で書いてきたことを、反対側から見つめたものである。反対側からことばを動かしている、つまり「論理」を展開していることになる。
 「脱ぎ捨てられた言葉」というのは、この作品の中では、具体的にいうと各連の最終行のことである。「あなた」と「ことば」のことを考えてことばを動かしていた。そのとき「野良猫」だの「栃」だの「蛤」というのは「論理」に関係してこない。「脱ぐ」「脱がない」という意識からさえも捨てられてしまっていたことばである。
 それをかき集めてみると、そこに「あなた」が現われてくる。あ、「あなた」は野良猫に気がつくひとなのだ。栃の木の葉の動きを見るひとなのだ。蛤の息にこころを動かすひとなのだ。そういうことがわかる。それは「思いがけない」ことかもしれない。なんといっても「あなた」が無意識にこころを動かし、肉体を動かしてつかんでいる「世界」だから。そういうものが、「あなた」に「なる」。「あなた」は「裸を脱ぐ」「あなたはいない」「あなたはいる」というようなことを考えていたが、そういう考えを離れ、突然、思いがけない「あなた」と「なる」。
 そのあと、一行あいて「あなたはセーターを脱ぐ」ということば。これは書き出しの「服を脱いで」と似ているけれど、違う。「服」が「セーター」と少し具体的になっている。詩は、こんなふうに人間を少し具体的にととのえてくれるものなのだ。


詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(22)

2015-05-21 08:54:40 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(22)(思潮社、2015年04月30日発行)


まぐわい

「私は何一つ言っていない
何も言いたいとは思わない
私はただ既知の言葉未知の言葉を
混ぜ合わせるだけだ
過去から途切れずに続いている言葉
まだ誰も気づいていない未来にひそむ言葉が
冥界のようなどこかで待っている
そんな言葉をまぐわいさせて生まれるのは
私が書いたとは思えないもの」

<でもそれが詩ですよ>と
誰が言うのか

 「私を置き去りにする言葉」には「つるむ」ということばがあった。ここでは「まぐわい」。(「まぐわる/まぐわう(?)」という「動詞」があるかと思ったが、広辞苑には載っていない。)谷川は、つかいわけているのだろうか。そのつかいわけに、どんな違いがあるのだろうか。
 「つるむ」の方は「言葉」は「つるみ始めている」という具合につかわれて、自分から「つるむ」という行為をしている。「言葉」という「主語」が自分から動いている。「まぐわい」は「言葉をまぐわいさせて」と「使役」の形でつかわれている。このとき「主語」は「私」。「私を置き去りにする言葉」では「言葉」が「生き物」であり、自分で動いたのに対し、「まぐわい」では自分で動かない分だけ「生き物」の「度合い」が少なくなっている。「私を置き去りにする言葉」では「言葉」の方から「詩」に近づいていったが、「まぐわい」では「私」の方から「言葉」を「詩」に近づさせている。
 ただし、「私は何一つ言っていない/何も言いたいとは思わない」という二行は、「言葉」がかってに動いているのであって、「私」はその動いた「結果」に対して責任をもっていない。「意味」を問われても困る、と言っているように聞こえる。「詩の妖精1」の書き出しの二行を言いなおしたもののように聞こえる。
 その二行については保留しておいて、「私」が「言葉」にどう働きかけているか。谷川は「言葉」をどのように見ているか、というころから、この詩を読んでみる。

 「言葉」を「私(谷川)」は二つにわけている。「既知の言葉」と「未知の言葉」。それはさらに言いなおされている。「過去から途切れずに続いている言葉」と「未来にひそむ言葉/冥界のようなどこかで待っている言葉」。それは「既知の言葉=定型の言葉」と「未知の言葉=未生の言葉」と言いなおすことができるかもしれない。

既知の言葉=過去から途切れずに続いている言葉=定型の言葉
未知の言葉=未来にひそむ言葉/どこかで待っている言葉=未生の言葉

 こういう「対」ができる。それを「混ぜ合わせる」と書いて、次に「まぐわいさせる」と言いなおしている。「混ぜ合わせる」とき、それは「動かないもの/名詞」でも可能だが、「まぐわいさせる」には「動かないもの/いのちのないもの」では不可能である。
 「混ぜ合わせる」から「まぐわいさせる」と「私」の「動詞」を変えるとき、谷川は「言葉」の「性質」を微妙に変化させている。「言葉はもの(名詞)」ではなく「言葉は動くもの/生きているもの(動詞)」であると、定義しなおしている。「私を置き去りにする言葉」にでてきた「言葉」の方へ近づけていっている。
 で、「言葉」が「生き物/いのちをもっているもの」であるからこそ、それが「まぐわった/交接した/セックスした」(私は、動詞としてつかいたい)とき、そこから「新しい言葉」が生まれる。
 ただし、この「生まれる」は「新語」が生まれるというのとは違うだろう。「言葉」がいままでとは違う動きをするものとして生まれる、新しい動き方をするということだろう。「既知の言葉=過去から途切れずに続いている言葉=定型の言葉」が「未知の言葉=未来にひそむ言葉/どこかで待っている言葉=未生の言葉」の影響を受けて、いままでとは違った動きをする。あるいは「未知の言葉=未来にひそむ言葉/どこかで待っている言葉=未生の言葉」が「既知の言葉=過去から途切れずに続いている言葉=定型の言葉」に誘い出されて、ひそんでいたところから出てくるということだろう。ともに「新しく動く始める」「いままでとは違った動きをする/いままでとは違った意味(内容)を語りはじめる」ということだろう。
 これは「言葉」を「表現」と言いなおしてみると、さらにわかりやすくなる。

既知の表現=過去から途切れずに続いている表現=定型の表現
未知の表現=未来にひそむ表現/どこかで待っている表現=未生の表現

 「表現」とは「表に現われてくるもの」。
 「新しく生まれる」のは「名詞(新語)」ではなく、「言葉そのもの」でもなく、「表現」なのだ。「表現」とは「言葉」と「もの」の関係だ。「あるもの(存在)」をどう見つめるか、「見つめ方」をつたえるのが「表現」だ。「存在」と人間の「関係の変化/見つめ方の変化/見つめられ方の変化」が、そこに「生まれてくる」のである。「ものの見方」が「かわる」。この変化を「生まれる」ということばで谷川は書いている。

 そういう「言葉の運動(新しい関係をつくりだすこと)/表現」を、谷川は「私が書いたとは思えない」という。谷川にとって、それは「思いがけない」(「あなたへ」の最終行)もの、意識して導いた「結論」ではないという。
 意識してつくりだしたものではないからこそ「私は何一つ言っていない」という。冒頭の一行は、「私が書いたものとは思えない」ということばで言いなおされている。

 ここでは谷川は、「私を置き去りにする言葉」と同様に、ことばの力(ことばの生きる力/ことばの肉体/ことばの本能)を肯定しているのかもしれない。「ことば」には新しい表現(ものの見方)を生み出してゆく本能/欲望がある。谷川は、そういうことばの力、生まれて生きていく力を信じ、いわば「ことばの産婆」になろうとしている。詩は、谷川にとって「ことばの産婆術」なのだ。
 「既知の言葉」と「未知の言葉」をセックスさせて「生まれてきた言葉(表現)」。それは、誰のものか。谷川(詩のなかの「私」)は、所有権(?)を放棄している。「私が書いたものとは思えない」ときっぱりと言っている。
 谷川のつかっていることばで言いなおすと、谷川は「産んだ」のではない。それは「生まれた」のである。赤ん坊のいのちが、母親や父親のものではなく赤ん坊自身のものであるように、「生まれた言葉」は「生まれた言葉のもの」である。そうやって、「言葉」自身が動き、生きていくとき、それが詩なのだ。

詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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嵯峨信之を読む(66)

2015-05-20 20:40:58 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(66)

113 空

 三連から構成されている。

どんな小さな窓からも空は見える
どんな大きな窓からも空は見える

 この書き出しは、視線を空へ引き寄せ、肉体を部屋のなかから解放する。しかし、嵯峨はこの空を「白い空」と書き、「一つの大きな心のように」わたしを閉じこめている、と二連目で書く。
 「空」ということばから私が連想することとはかなり違っているので、とまどってしまう。
 詩は、三連目で大きく変わる。

しかし わたしになにか気にいつたことがあると
青いいきいきとした小さな空が
わたしの心のなかの遠くに見える
その空はきつとわたしが生れた日の空だ
もしそうでなければ
その遠い空をながめていると
きゆうにこう眠くなるはずがない

 ここでも、私はかなりとまどう。
 「心のなかの遠くに見える」「小さな空」。それは「気にいつたことがある」と見えるというのだけれど、なぜ「遠く」なのだろう。なぜ「小さな」なのだろう。
 悲しいとき、つらいときにそれを思い出すようにしてみるというのなら、自然に読めるのだが、「気にいつた」と「小さな」「遠い」が私の感覚ではなじまない。「青いいきいきした」は「気にいつた」とこころよく結びつくけれど……。
 しかし、そのあとの、最後の四行は、読んでいて何かあたたかいものがある。「生まれた日の空」と思って、こころのなかの空をながめていると、急に眠くなる。安心して眠ることができるしあわせがある。
 しあわせというのは、生まれてくるということと、しっかり結びついているのだと実感できる。
 「心のなかの遠くに見える」空、「小さな窓」「大きな窓」から見える空。その違いに気をつけて読み直さなければならないのかもしれない。
 「窓から」見る空、というとき人は室内にいる。一連の詩は死がテーマになっている。「窓」は「病院の窓」なのかもしれない。空が「閉じこめている」のではなく、病院が、あるいは病気が「閉じこめている」のかもしれない。
 病院、病気がわたしを閉じこめている。わたしの「肉体(からだ)」を閉じ込めている。しかし、それは「心」の動きまでは閉じ込めることことはできない。「心」はいつでも、遠くに、青くいきいきとしたそらを思い描く。それはわたしを苦しめる「大きな」病気、病院とは違って「小さい」。けれど、「大小」を超えて、あたたかい。安心を誘う。
 そんなふうに読むと、この詩のなかの「わたし」は嵯峨自身ではなく、死んでゆく友人であり、嵯峨はその友人のこころを代弁しているように思える。


嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(21)

2015-05-20 12:26:31 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(21)(思潮社、2015年04月30日発行)



私を置き去りにする言葉

私が眠っているとき
言葉はうずくまっている
私のからだのどこかに
そして他の人々の言葉と
つるみ始めている
私に見えない夢の中で

言葉はペニスのように
硬くなり尖り
言葉は涎のように口元に垂れ
言葉はもう眠る私を置き去りにして
詩になろうと●きながら
愚かな人波に揉まれている
                   (谷内注=●は「足」偏に「宛」。もがく)

 この詩には「詩」ということばが一回だけ出てくる。この「詩」も「内容/意味」が説明されない。谷川が「詩」と思うもの、くらいの意味である。読者が、各自かってに「詩」と思い込んでいるものを、その「詩」に重ねて読むしかない。
 一方、「言葉」は何度も出てくる。繰り返されている。しかし、その「言葉」はみんな同じ「言葉」だろうか。
 たとえば二連目、

言葉はペニスのように
硬くなり尖り
言葉は涎のように口元に垂れ
言葉はもう眠る私を置き去りにして

 この「言葉」は「同じ」ものか。「ペニスのように/硬くなり尖り」と「涎のように口元に垂れ」は私には「同じ」には思えない。ペニスと口元では「肉体」の部分として離れすぎている。ペニスも涎のようなものを垂らしはするが、それはあくまで「垂らす」であり、「垂れる」ではない。似ているが、「動詞」の動いていく「方向」が違う。
 けれど、ペニスも涎も口も組み合わさって「一つ」の肉体を感じさせる。「一つの肉体」がペニスも涎も口ももっている。「肉体」でつながっている「別の器官」としての「言葉」。
 「言葉」を「私」と置き換えてみる。さらに「私の肉体」と言いなおしてみる。そうすると、その三つがまじりあって、つながって見えてくる。私のペニスは硬くなり、私は涎を垂らす。それは別々の「私の肉体」だけれど、すべて「私の(一つの)肉体」。「言葉」は「私の肉体」なのだ。
 その、つながって、まじりあって、全体としての言葉(の肉体)/肉体(としての言葉)が「眠る私を置き去りにする」。「私の肉体」が私を置き去りにする。--こういう感じなら、私(の肉体)は覚えているなあ。「私の肉体」を「私の本能/欲望」を言いなおすと、それがもっとはっきりする。「私の本能/欲望」は「私(の精神/理性)」を置き去りにして、夢のなかで淫乱に動いている。ペニスは勃起し、涎も垂らしている。そのペニスは「肉体」であり、「私」であり、「言葉」だ。そして「本能」であり「欲望」でもある。
 谷川の「言葉」という表現は「ひとつ」だが、「主語」としては微妙に違っていて、その微妙な違いによって「動詞」も違ってくる。違ってくるけれど、その違いがあるから「全体」として「一つ」になる。

 最初から読み直して「言葉」について考えてみる。
 最初の「私が眠っているとき」とは「私に意識がないとき」ということか。「意識がない」といっても完全な無意識ではない。意識が何かを積極的に制御することがない、というくらいの意味になるだろう。そして何を制御できないかといえば、「言葉(無意識の肉体/欲望/本能)」を制御できないのである。
 「私(精神/意識)」が眠っていて(機能していなくて)「言葉(肉体/本能/欲望)」を制御できないとき、「言葉」はうずくまっている。おとなしく、精神にあわせて眠ったふりをしているが、その「ふり」に隠れて動いている。人間が眠っているとき、その「外形」は動かないが「肉体」の内部では心臓が動いている。神経も動いている。同じように「言葉の肉体」も動いている。
 どんなふうに?

言葉はうずくまっている
私のからだのどこかに
そして他の人々の言葉と
つるみ始めている

 このことばの展開はとてもおもしろい。
 「私の言葉(無意識の肉体/欲望/本能)は私のからだのどこかにうずくまっている。ただし、じっとしているのではなく、私の言葉は他人の言葉とつるみ始めている。」こんなふうに、文法上は(意味上は)、「私の言葉は他人の言葉とつるみ始めている」ということになるのだろうけれど、私は「言葉」を「無意識の肉体/本能/欲望」と感じはじめているので、「私のからだ(のどこか)が他人の言葉とつるみ始めている」というように感じてしまう。さらに言いなおすと「私のからだ(本能/欲望)が他人のからだ(本能/欲望)とつるみ始めている」というように読んでしまう。
 このとき「他の人々の言葉」はどこにあるのだろう。「他の人々のからだ」のなかにあると考えるのがふつうだが、そうだとすると「他の人々のからだのなかにあ言葉」と「私のからだのなかにうずくまっている言葉」が「つるむ」というのは、少し無理がある? できない?
 「論理的」にはできないのだろうけれど……。
 私は、ふと、こんなことを思う。誰かが道に倒れて腹を抱えてうめいている。何も話せない。見た瞬間、あ、このひとは腹が痛いのだと思う。感じる。他人の肉体の痛みなどわかるはずがないのに、「わかる」。ことばをつかわず、「肉体」がかってに「肉体」と「肉体のことば」を交わしてしまうのだ。自分の肉体のなかにある「痛み」が他人の肉体の動きに誘われて甦ってきて「痛い」というのだ。その声を聞いてしまうのだ。そのとき、その声は自分の声であると同時に他人の声だ。
 そういうことが「現実」におきるならば、「夢の中で」、自分が覚えている「他人の言葉(肉体)」と「自分の言葉(肉体/本能)」が交流する(つるむ)としても別に不自然なことではない。
 一連目の最終行は、そう言っているように見える。
 そう「見える」けれど、谷川は「私に見えない夢の中で」と書いている。
 困ってしまう。「見えない」なら、なぜ、わかる?

 こんなふうにことばを動かしながら、私はさらに困ってしまう。

 「路上で倒れて腹を抱えてうめいている人を見た」ときの例と重なるかもしれないが……。
 「見えない(見ていない)」のに「わかる」ということは、日常ではたくさんある。子どもが隠れてオヤツを食べる。見ていない。けれど、「わかる」。あの人とこの人はセックスをしている。肉体関係がある。「見えない/見ていない(聞いていない)」のに、「わかる」。浮気している。「見えない/見ていない」のに「わかる」。
 それは「意識」が判断するのではなく、むしろ「肉体(からだ/無意識/本能/直観)」が感じ取るのだ。「感じる」を「わかる」と言い換えることがある。特に「からだ」が関係することには「からだ(肉体)」が反応してしまう。
 そういう「肉体」そのものとして、谷川は「言葉」を掴み取っている。「言葉は肉体」なのだ。「言葉の肉体」が、「私が眠っているとき(私が意識で制御できないとき)」にかってに動き回っている。つるみ始めている。快感のために? あるいは、あたらしいことばを生むために?
 どう説明すればいいのかわからないが、「からだ(肉体)」と「言葉」がセックスしている、「谷川の言葉」は「肉体」になってしまって、「他人の言葉」とセックスをする。谷川は「言葉は肉体である」と感じている--そう思ってしまう。

 これは「誤読」なのか、それとも私がいつも感じていることを谷川の詩を利用して、言いなおしているだけなのか。
 見極めるのが、とてもむずかしい。

 もう少し余分なことを書いてみる。
 二連目の、「詩」ということばが出てくる直前の、「言葉はもう眠る私を置き去りにして」。この「置き去りにして」を「離れて」と読み直すと、「もののあわれから遠く離れて」(「いない」)、「詩は体を離れ星々に紛れてゆく」(「詩の妖精1」)と重なり、その「離れた」先に詩があるということとも重なる。
 「言葉の肉体(からだ)」と「言葉の肉体」がセックスをして、人間がセックスをしたとき、その最高潮で「エクスタシー(私から脱出してしまう)」ように、言葉も言葉の肉体とセックスをしたとき、それぞれの言葉の肉体を離れて(同時に谷川の肉体からも離れて)、どこかへ行ってしまう、ということか。
 でも、「星々に紛れる」のではなく、この作品では「愚かな人波に揉まれている」。
 「詩の妖精」と「人間の肉体(からだ)」の違いが、ここに書かれているのか。
 そうだとして、最後の「愚かな」は、どういうことだろう。「意味」はどう読めばいいのだろう。

詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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嵯峨信之を読む(65)

2015-05-19 10:33:09 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(65)

112 小さな灯

 死んでゆく友との最後の瞬間か。

対いあつていても
別々に離れていることが感じられてくる
眼をつむると
遠い星のひかりのようになつかしい

 「対いあつて」は「むかいあって」と読むのだと思う。「対」という漢字がつかわれているのは、「私ときみ」が二人で「ひとつ」の存在であるという意識が強いからだろう。「対」でなければ、私でもきみでもない。
 でもまた「対」は「ひとつ」ではないからこそ「対」なのである。そこには「隔たり」がある。
 「対」が失われていく。それを痛切に感じている。すぐそばにいるのに「遠い星」のように感じられる。ただ、それが「悲しい」ではなく「なつかしい」。
 友が死んでゆく。その友との日々を思い出す。思い出は「なつかしい」が、こういうときに、ふつうは「なつかしい」とはいわずに「悲しい」という。でも「悲しい」を通り越して「なつかしい」。この「悲しい」を通り越してしまうところに「実感」がある。「実感」をあらわすことばというのは、どうしても「ふつう」をはみだしてしまう。
 そのはみだしてゆくものを、どうやって、はみだしたままの形でことばにするか。これが、むずかしい。「常識」の方がことばをととのえてしまう。その力に抗い、「常識/ふつう」を突き破り、超えると、それが詩になる。
 読んだとき、ふつうとは違う。ふつうは、こうは言わない。けれど私の言いたかったのはこれだ、と思ったとき、そのことばこそが詩。あたらしいことばを発見し、それを自分の「感情」にする瞬間が、詩。いままであったことばが新しくなる瞬間が、詩。

だが明日はもうどちらかがこの世にいない
たれもかれも孤独のなかから出てきて
ひと知れず孤独のなかへ帰つてゆく

 「明日はもうどちらかがこの世にいない」はとても奇妙なことばである。友が死んでゆく。嵯峨は生き残る。「この世」から出てゆくのは、常識的に言えば「友」であって嵯峨ではない。「どちらか」ということではない。
 でも、嵯峨は「どちらか」と、あたかも嵯峨が死ぬ可能性があるように書いている。なぜだろう。「きみ」がいない世界は嵯峨にとっては「この世」ではないからだ。「この世」の「定義」が常識とは違っている。違っているけれど、それを説明しない。そんなことは嵯峨にはわかりきっているので、説明を省略してしまうのだ。
 説明を省略されたことばのなかに、その詩人の「本質/思想/肉体」がある。
 詩の最後にも、そういうことばが出てくる。

また一つ小さな灯が消えた
それをいま誰も知らない

 友が死んだ。「それをいま誰も知らない」というのは、間違っている。嵯峨はそれに立ち会い、それを知っている。だから、最後の一行は

「私(嵯峨)以外の人間は」それを誰も知らない

 と書かれるべきものなのだ。けれど、「私(嵯峨)以外の人間は」というのは、嵯峨にはあまりにもわかりきっていることなので、そういうことを書かない。そんなことばの寄り道をすれば、ことばは「実感」と違ってきてしまう。
 「実感」のことばは「合理的に」、最短距離を進むものなのだ。
 友の死んだ場所が病院ならば、そこには医師や看護婦がいるから、「私(嵯峨)以外の人間は」それを誰も知らない、というのも間違っているが、友の死に立ち合っている言えるのは、友と「対」になっている嵯峨だけである、という意識(思想)が、ここでは省略されて書かれている。
 医師や看護婦は、友とむきあっているかもしれないが、その友は「病気の友」、つまり「病気」と向き合っているのであって、嵯峨が友に「対」を感じるようには向き合っていない。友が死ぬとき、この世から去っていくのは友ではなく自分かもしれないと感じるようには向き合っていない。

 詩を読むとは、「省略されたことば」(行間)を読むことなのだ。

嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(20)

2015-05-19 09:22:09 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(20)(思潮社、2015年04月30日発行)



詩の妖精2

子どもの肩に詩の妖精がとまった
子どもはゲームに夢中
妖精は一休みしてモンゴルに向かう
子どもがふっと顔をあげた

母親は玉葱をみじん切りにしながら
子どもの未来を思い描くが
どうしても死が想像出来ない
ゲームに飽きて子どもは立ち上がる

机の上の地球儀を回してみる
何か感じるがそれが何か分からない
詩の妖精がもう帰ってきている
モンゴルの丘からの風に乗って

 この作品のなかの「詩の妖精」は、いかにも「妖精」っぽい。「妖精」を物語(童話)などにでてきそうな感じ。「モンゴルに向かう」「モンゴルの丘からの風に乗って」とは想像力で思い描いた情景だ。「現実(部屋にいて地球儀を回している」と「モンゴル」という「想像」の離れ方と、くっつき方が「詩」なのかな? 妖精といっしょに「モンゴル」も「丘」も「風」も見える。いや、「妖精」は見えないけれど、「モンゴル」と「丘」と「風」が見えるいま、ここにない何かが「見える」。そう感じさせてくれたのは、きっと「詩の妖精」。
 でも、この作品で、谷川は詩の「何に」ついて語っているのだろうか。

 「詩の妖精1」で書いたことのつづきを書いてみる。谷川の詩の特徴のひとつは、「主語(登場人物/主役)」が次々に変わっていくこと。この詩でも一連目は「子ども」、二連目は「母親」が「主役」。三連目は? 書いていない。詩人・谷川だろう。この作品の一、二連目を書いたひとだ。
 その「主語(主役)」と「詩の妖精」との関係が書かれている。そのときの「述語」は?
 一連目。「子ども」は「詩の妖精」に気がつかない。ゲームに夢中である。何にも気づかない。けれど、詩の妖精が立ち去ったとき「ふっと顔をあげた」。何かに気がついた。何かが去って行ったことに気がついたのだ。
 二連目。「子どもの死が想像出来ない」。わからない。死があることは確実なのだが、実感出来ない。ここには直接「詩の妖精」は出て来ないが、「子どもは立ち上がる」と書くことで、母親が子どもを見て何かを感じたことがわかる。何かに気がついたから、それをことばにしているのだ。
 一連目の子どもが、詩の妖精が立ち去ったことに気づいたが、立ち去ったのが何か想像出来ない。わからない。「気がつかない/想像ができない/わからない」という動詞は、二連目の母親のなかで、そんなふうにつながっている。
 三連目。

何かを感じるがそれが何か分からない

 一連目と二連目で書いてきたことが言いなおされている。子どもは何かを感じた。けれど、それが「妖精が立ち去った」ということとは「分からない」。二連目では母親が、子どもの未来を思い描く。当然、そこに「死」があることは知っている(わかっている)のに、「子どもの死」が何であるか、「分からない」。どういうことか「分からない」。「理論(?)」と「実感」が矛盾してしまう。その不安定な感じのなかで「子どもが立ち上がる」のを見て、何かを感じる。「わからない」けれど、何かを感じる。
 三連目では「詩の妖精」が帰ってきている。でも、「詩の妖精」と認識できるわけではない。「分からない」が「感じる」。そういうものが、詩であるとするならば……。
 「分からない」が詩ならば、「想像出来ない」も詩である。「気づかない」も詩。言いなおすと「分からない」ことが「ことば」になったとき、それが詩。「想像出来ない」ことが「ことば」となって動いたとき、それが詩。「気がつかない」ことが「ことば」となって動いたとき、それが詩。
 この「詩の妖精2」に書かれている「ことば」が「分かる/知っている」。知らないことばはない。「意味」を説明しろと言われたらこまるけれど、そこに書かれているのは「知っていることば」。その「知っていることば」が気づかなかったものを気づかせてくれる。「気」を導いてくれる。想像できなかったことを「想像」を導いてくれる。
 人間をととのえ、育ててくれる。

 こんなめんどうくさいことを書かずに、私がいちばん詩を感じた部分について書けばよかったのかもしれない。「詩の妖精」にこだわりすぎたのかもしれない。
 この詩のいちばん感動的な部分は、私にとっては、

子どもの未来を思い描くが
どうしても死が想像出来ない

 の二行である。私は「母親」ではないのだが、この二行を読んだ瞬間「母親」になってしまった。「誤解」(誤読)かもしれないが、そうなのか、母親は子どもの死というものを想像ができない、子どもといっしょに生きることしかできないかの、とびっくりし、自分の母のことを思った。母はそんなふうに私を見てくれていたのだと突然気づいた。うれしくなった。
 子どもだった私は「ゲームに飽きる」ように「母の愛情に飽きて」、母のそばから立ち去ったけれど、母から見れば「立ち去った」ということはありえないのだな。自分の「肉体」として、いつもいっしょに動いている。
 それは「思いがけない真実」である。谷川のことばといっしょに、それが私の肉体のなかで動いた。



詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(19)

2015-05-18 09:10:05 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(19)(思潮社、2015年04月30日発行)


詩の妖精1

この詩で何が言いたいんですかと問われたから
何も言いたくないから詩を書くんだと答えてやった
悪戯坊主のような顔で彼は笑う
空中でホバリングしている詩の妖精は
またどこかへ詩人をからかいに行くらしい

詩の妖精には名前がない
詩の妖精は意地悪だ

突拍子もない言葉がどっかから湧いて
誰も見ていないのに彼女は顔を赤らめる
手帖に書き留めてもいいものかしら
本当は今年銀婚式のはずだった
独りになって出来心で手帖を買った

詩の妖精には言葉がない
詩の妖精は光速だ

何故まだ詩が浮かんでくるんだ
木の香も新しい棺の中で
死んだばかりの老詩人が訝っている
もう喋れないし書けないから
詩は体を離れ星々に紛れてゆくだけだ

 この詩はとても変である。変と感じるのは、「詩の妖精」というタイトルが変に感じられるからである。
 「詩の妖精」が詩を運んできてくれる、というのは、あまりにも「詩的」すぎて、どうも「詩の定義」とはあわないなあ、と感じる。こういう言い方は差別的かもしれないが、「詩の妖精」というのは「女子中学生」が言いそうなことばである。「現代詩」を書いている詩人がつかうことばではない。だいたい谷川は「詩の妖精」なんて、ほんとうに「いる」と信じている? 信じていないけれど、「世間」でつかわれているから、つかってみた? 「詩の妖精」ということばをつかって何がかけるか、ことばがどう動いていくか、試してみた?
 どうも、わからない。
 視点を換えて見る。
 この詩には、「詩は詩の妖精が運んできてくれる」という定義以外に、「定義」は書かれているだろうか。「何も言いたくないから詩を書くんだ」は「定義」かもしれない。「何」を「意味」と読み替えてみる。「意味」を言いたくない。「意味」を否定したい。「無意味=詩」という「定義」を何度か作品の中で読み取ってきた。「言いたくない」は「無意味」よりも積極的な感じがする。でも、これでは、いままでの「定義」の繰り返しから、あまり変わっていない。
 なぜ、「詩の妖精」を登場させたのかな?

 もう一度、読み方を換えてみる。
 一行目。「この詩で何が言いたいんですかと問われたから」は「誰が」「誰から」問われたんだろう。私は「谷川が」、「学校の先生(か、だれか、読者)」から問われたと思って読んだが、違うのだ。「谷川の」答えに対して、三行目「悪戯坊主のような顔で彼は笑う」とある。「彼」から問われたのだ。
 「彼」って、誰? 「詩の妖精」だ。この作品も「詩の妖精」が詩人(谷川)に問いかけることから始まっている。
 で、その「問いかけ」を谷川は「からかい」と書いている。「詩の妖精」が詩人に詩を運んでくるのは、「からかい/悪戯」なのだ。
 この「からかい/悪戯」は二連目で「意地悪」と言いなおされている。詩をひらめかけさせておいて、「この詩で何が言いたいんですか」なんて、ほんとうに意地悪だ。「妖精」に誘われて書いたのだから、「書かなければならないこと」は「妖精」が知っているはず。それなのに「何が言いたい」と問いかけてくるのは「試験」ではないか。(ついでに書いておくと、「名前がない」は「彼」と「対」になっている。だれかわからない、自分ではない「存在」が「彼」。)
 大事なことは、ひとは何度も繰り返す。詩人も同じ。谷川も同じ。
 「詩の妖精」が「悪戯/からかい/意地悪」であることは、三連目で繰り返される。今度は「彼女」のところへやってきて「突拍子もない言葉」をささやいた。それに「彼女」は顔を赤らめている。女の人を恥ずかしがらせるのだから、スケベなことばなのかもしれない。彼女は「銀婚式」を迎える年齢。でも、いまは「独りになって」いる。男と別れて、セックスから離れているのに、セックスを思い出させることばだったのだろう。
 それは、しかし「詩の妖精」がささやいたのではなく、単に「彼女」が思いついただけのこと。「言葉がどっかから湧いて」きたと書いているが、「彼女」の「肉体」から湧いてきたのであって、「詩の妖精」がささやいたのではないかもしれない。四連目の「詩の妖精には言葉がない」は、「妖精」がささやいたのではないよ、という「意味」にもなる。--そう思わせるのも「悪戯/からかい/意地悪」である。こういう「思い」はぱっとあらわれ、ぱっと消える。それが「光速」ということばが言いたいことだろう。
 「悪戯/からかい/意地悪」は五連目でも繰り返されている。「死んだばかりの老詩人」にも「詩の妖精」はささやきかける。詩を思い浮かばせさせる。「もう喋れないし書けない」。どうすることもできないのに、なぜ、そんなことをするのか、わからない。
 最後の一行の「詩」は、この「二部の作品群」(私はかってに「三部」にわけて読んでいるのだが……)の「詩」の特徴をあらわしている。「定義」抜きの、「詩」という存在。どんな「詩」なのか、その「内容/意味」が一切書かれていない。谷川が「詩」ということばで信じているもの、読者が「詩」ということばを思いつくときの「定義」を持たない、ただの「詩」。「未生の定義」のまま納得(?)している「詩」だ。
 その「詩」が「体を離れ星々に紛れてゆく」というのは、「いない」という作品の「もののあわれから遠く離れて/空の椅子に座っている」を思い出させる。「体を離れて」の「離れる」という「動詞」を思い出させる。「ここ(体/肉体)」から離れ、「ここ」には「ない」けれど「空/星々(のあるところ)」に「ある」。「光速」で、そこまで飛んで行ってしまったのだ。
 そう読むと「詩の妖精」とは「詩」そのもののことであるようにも読める。「詩」を「定義」して「詩の妖精」と言っていることになる。「定義」していないのが「二部」の「詩」の特徴であると書いたのとは矛盾するけれど……。

 この作品には、また谷川の作品の特徴がくっきりとあらわれている。
 五連から構成されている。一連目の主人公は「この詩で何が言いたいんですか」と問われた「詩人(谷川を連想してしまう)」。二連目は「彼女」。銀婚式だから五十代くらいか。三連目は「死んでしまった老詩人」。連が進むにしたがって「主語(主人公)」が変わっていく。
 けれども、その「主人公」の「述語」が変わらない。(テーマがが変わらない。)「主人公」たちは、「詩の妖精」から働きかけられる。そして、ことばを「思いつく」。つまり「詩」を思いつく。そういう「運動(動詞/動き)」のなかで、個人が個人を超えて、普遍的な「人間」になる。「人間」というのは、「詩の妖精」に働きかけられて、ふと「ことば」を思いつく生き物なのだ。「ことば」と「人間」の、何か変わらない「関係」が、「述語(動詞)」として、作品全体のなかを動く。
 こういう動きを書くことで、谷川は「詩の定義」を書き直している。

詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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グザビエ・ドラン監督「Mommy マミー」(★★★)

2015-05-17 22:40:59 | 映画
監督 グザビエ・ドラン 出演 アンヌ・ドルバル、スザンヌ・クレマン、アントワン=オリビエ・ピロン

 私は、カメラがあからさま演技をする映画は好きになれない。この映画ではほとんどのシーンが「正方形」のフレームで描かれる。横長のスクリーンを見なれた目にはとても窮屈である。そして、その窮屈がそのまま登場人物の窮屈を代弁している。
 手抜きじゃない?
 シネマスコープサイズであろうと、窮屈を感じさせなければ、それは映画として映像が不完全であるということ。
 最初にスクリーンのサイズが押し広げられるは、少年がスケートボードで走り、それを母親と向かいの家の母の女友達が追いかけるシーン。少年がスクリーンのわきを、ぐいと押し広げる。少年のこころが広がる様子がスクリーンの大きさに反映される。あまりにもばかばかしい。
 次に、少年を入院させるために母親が車を運転するシーン。運転士ながら、母親は少年が行動障害を克服し、大学へ進学し、結婚し……という夢(希望)を思い描く。もし、そうであったなら、彼女のこころはスクリーンのように広いのだ。こころののびやかさがそのままスクリーンに反映されるという点で、最初のシーンと同じ。心象を代弁している。これも、あまりにもばかばかしい。
 どうせなら、最後の最後。少年が脱走を試みるシーンをこそ拡大スクリーンで展開すべきなのだ。そうすれば、最初の少年のこころと、次の母親のこころが、最後にひとつになって「自由」を獲得するという、観客の「夢(希望)」と重なる。母親の「愛情よりも希望を選んだ」ということばも、最後の脱走シーンが正方形のままでは、自己弁護になってしまう。「ことば」にこめた思いを「映像」にして見せないことには「映画」とは言えない。
 「現実」はあまくない、ということなのだろうが、「架空の法案」をつくって「架空」の話にし、冒頭の施設の「水浸しの廊下」で「架空」を強調しているのだから、(それとも、この法案はほんもの? カナダの事情に詳しくないのでわからない)、これでは「映画」にする意味がない。
 「現実」を描くなら、最初からふつうのサイズのスクリーンで、その映像の内部を濃密にしないといけない。母と少年、それから言語障害に苦しむ教師という三人の変化を見せることに徹すればいい。アップの濃密さを正方形に閉じ込める必要はない。三人の力演が、正方形の画面と、それを一瞬だけ拡大して見せるという小賢しい技法のために死んでしまった。
 文句ばかり書きながら★3個なのは、主役三人の演技がすばらしかったから。少年がカラオケ歌うシーンなど、周囲の情報をしっかりとりこんでいて(情報量が多いのに、すべて有機的に表現されていて)、とてもすばらしい。これがふつうのスクリーンで展開されていたのなら★5個を超える大傑作。
                      (2015年05月16日、KBCシネマ2)






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谷川俊太郎『詩に就いて』(18)

2015-05-17 14:33:30 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(18)(思潮社、2015年04月30日発行)


いない

私はもういないだろう
その岬に
この部屋にも
けれど残っているだろう
着古した肌着は
本棚にカーマスートラは

私はもういない
この詩稿に
どんな地図にも
夜の不安を忘れ
もののあわれから遠く離れて
空の椅子に座っている

 死後のことを書いている。想像しているのか。
 一連目の「だろう」の繰り返しは推定である。
 「その岬」とどこの岬か。わからない。わからないけれど、広い海と、広い空を想像する。明るい光も。谷川の、思い出の岬か。理想の岬か。
 「この部屋」もわからないけれど、谷川が詩を書いている部屋を想像する。
 空想から「現実」にもどってきて、「いない」と「対」になっている「残っている(ある)」を推定している。「着古した肌着」の「肌着」の「現実感」が「岬」の「空想」と「対」なっている。書いてはいないのだが、「肌着」から谷川の「体温」がそこに残っていると想像してしまう。「体温」は「肉体」。だから、そのあとの「カーマスートラ」がとてもスムーズに浮かんでくる。「残っている(ある)」がよくわかる。
 二連目には「だろう」がない。「だろう」は一行目、私はもういない「だろう」、最終行、空の椅子に座っている「だろう」と補うことができる。でも、そうしないで、谷川は「断定」している。
 「推定」(想像)と「断定」(現実)はどう違うのだろう。
 「推定」を繰り返すと「確定」になる。ひとは何度も考える。同じことを考える。同じことを考えると、その同じことがだんだん整理されてきて、自分にとっての「確かな」ものになる。実感として「確定」。「実感」の「実」は「現実」の「実」である。
 二連目は、したがって、谷川が何度も何度も繰り返し考えた結果、たどりついた「実感」なのである。「実感」だから「断定」している。
 死んでしまえば、いま書いている「この詩稿」、つまり、ことばのなかにも私(谷川)は「いない」。「地図」や「不安」は「現実」のもの。「もののあわれ」も「現実」というものがあってはじめて成り立つ。「現実」には、「もういない」。そう「断定」している。
 この「いない」が、最終行で「座っている」と「いる」という動詞に変わっている。
 これは矛盾?
 どうして矛盾したのかな?
 「空の椅子」を「そらの椅子」と読むと、なんだか、天上の「神」になって座っている。「神」になった谷川を想像してしまうが、これは、違うなあ。死んだら「現実」にはいないが「神」になって空にいるというのでは、なんとなく傲慢。あきれてしまう。
 「いない」から「いる」に、どうして変わったのか、それをもう一度見てみる。
 「いない」を谷川は言いなおしていないだろうか。

もののあわれから遠く離れて

 「遠く離れて」が「いない」なのだ。「離れる」が「いない」なのである。「ここ」から「離れる」。それは「移動」であって、存在そのものがなくなるわけではない。
 どんなに「ここ」から離れても、人間は自分から離れることはできない。
 この詩でも、「私はいない」と考える私が「いる」。「ない」を思考する私が「いる」。
 ここから、さらに「ない」を考える思考が「ある」、という具合にことばを動かしていくとどうなるだろうか。谷川の詩から離れることになるかもしれないが、少し考える。「ない」を考える。そうすると「ない」が考えのなかに存在する(ある)。考えというのは、ことばで残すことができる。「考え」という「名詞」ではなく、「考える」という「動詞」もの、そのことばのなかに残すことができる。それは、いつもことばがあるかぎり「ある」。
 この、ことば、とは何か。
 いや、問いの立て方が間違っていたかな?
 「空の椅子」とは何か。私は見たことがない。
 「そらの椅子」なのか「くうの椅子」なのか。それもわからない。
 わかるのは、谷川が、ここに「空の椅子」と書いた「ことば」が「ある」ということだけである。
 それなら「空の椅子」を「ことば」と読み替えてみればいいのではないだろうか。
 「空の椅子」が「ことば」なら、それは「詩」ではないのか。なぜ、谷川は「詩」に座っている、と書かなかったのか。「私はもういない/この詩稿に」と書いたことと矛盾するから?
 私は、その矛盾を超えるために、こんなふうに考える。
 「この詩稿」は、あくまで「この」という限定された詩、ことば。
 けれど「空の椅子」という「ことば」は「限定」を受けない「ことばそのもののエネルギー/あるいは運動としての動詞」。限定された「ことば」になるのまえの「未生のことば」のようなものなのだ。そこから何にでも変化してゆける「ことばの力」。
 そういうものになっている。
 何度も何度も詩を書いてきた。繰り返すと、それはだんだん「空想」ではなく「現実」(確信)になる。それと同じように、何度も何度も繰り返し書いているうちに、ことばはだんだんことばは「本質」になっていく。「ことば=もの」という「対」ではなく、「ことば=運動(考える/感じる)」と「対」になって、エネルギーそのものになる。
 そうなれば、私(谷川)は「いない」でちっともかまわない。
 谷川がいなくても、「ことばの力」が「人間」を育てていく。ととのえていく。そういう「ことば」さえ「あれば」、それでいい。

空の椅子に座っている

 この「座っている」の「主語」は「私(谷川)」でもなければ、「谷川の書いた詩」でもない。「ことば」そのものなのだ。
 「ことば」そのものが「ことば」に座って「いる」。「ことば」そのものが「ことば」のなかに「いる」。「ことば」そのものが「ことば」に「なる」。そして「ことば」として「ある」。
 禅問答みたいな、同義反復のような。

 この作品は「詩に就いて」というよりも「ことばについて」書かれている。「ことば」という表現は出て来ないのだけれど。
 「ことば」ということばが出て来ないのは、私の考えでは、「ことば」こそが谷川のキーワードであり、谷川は人間と「ことば」の関係についていつも考えつづけているために、ついつい「ことば」と書くのを忘れてしまうのだ。省略してしまうのだ。


詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(17)

2015-05-16 09:56:34 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(17)(思潮社、2015年04月30日発行)


家と私

夏の終わりに家を壊した
古い手紙の束が出てきた
硝子戸を古物商が持って行った
敷地が更地になってぺんぺん草が生えた
表札は捨てたが番地は残っている

新しい家を建てたい
平屋がいい
広いワンルームの片隅にベッド
仕事机と禁欲的な椅子
庭に一本の樹木

更地になった敷地に雪が積もった
この白に詩が書けるか と
道に佇んで自問する
私はこれでいい だが他の人々はどうか
この国のこの星の未来は

夢を見た
新しい家が出来上がった夢
だが私はどこにもいない
夢の中で私が私を探している
地面が揺れて目が覚めた

 詩の「定義」は難しい。私は何度か「詩は無意味である」、あるいは谷川のことばを借りて「未生のことばが詩である」というようなことを書いた。
 この作品に一回だけ出てくる「詩」ということば。それに、いま書いた「定義」はあてはまるか。どうも、あてはまらない。降り積もった雪。誰の足跡もない。そこに詩が書けるかと自問する。そのとき詩はきっと定義されていない。「美しい詩」「真実に触れる詩」「ことばの響きがおもしろい詩」「感動的な詩」「意味を破壊する詩」「形而上学的な詩」。そういう「修飾語」を抜きにして、ただ「詩」と考えている。「内容/意味」を考えずに、ただ「詩」を思っている。「無意味」でさえない「詩」、どんな「定義(修飾語)」も持たない「詩」が、ぽんと書かれている。
 これはやっかいだなあ。
 詩は、谷川にとっては、谷川が住む「家」のようなものかもしれない。「家と私」というタイトルだが、そして実際に家を壊し、家を建て直す夢のことが書かれているのだが、この「家」は「詩」かもしれないなあ。
 詩を壊した。すると、その詩のなかのことばから「古い手紙」のことばが出てきた。古い(?)硝子戸のような一行を愛好家が「ください」といって奪って行った。貴重なものがなくなった意識の領域(詩の敷地?)に、ことばをつていでゆく「てにをは」のようなものが動いている。
「詩のタイトル」も消してしまったが、詩を書いたという「記憶」は消えずに残っている。そんなふうに読むこともできる。
 古い詩は捨て去って、「新しい詩」を書きたい。それが二連目になる。平屋のように、簡単な詩、部屋は広くて、ベッドと、机と椅子という必要最小限のものだけでできた詩。けれど、それだけではなくて、庭には木があってそこには小鳥もやってくるというような「余分」もどこかにあるような詩。
 でも、詩を書いてしまうと、そこには「私」がいない。「詩」というものがあるだけで、「私」は見当たらない。--それが四連目。
 これは、しかし、考えすぎ、読みすぎかもしれないなあ。

 違う読み方をしてみる。
 「詩」ということばは一回しか出て来ない。これに対して「夢」ということばは三回出てくる。しかも最終連に集中して出てくる。「夢」は何を言いなおしたものだろう。ひとは大事なことを繰り返すものである。(逆に、大切が身にしみついていて、本人にはわかりきっているので一度もことばにならないこともある。)
 最終連より前に「夢」は描かれていないか。

新しい家を建てたい

 この「……したい」は「願望」、つまり「夢」だ。「平屋がいい」は「平屋が理想だ」。つまり「いい」も「夢(理想)」をあらわしている。そのあとのことばには「いい」が省略されているが「いい」が含まれている。
 二連目全体が「夢」なのである。それは眠っているあいだに見る夢ではなく、目を覚ましながら見る「夢」だけれど。
 「夢」と「対」のことばに「現実」というものがある。夢に二種類あるとしたら、「現実」も二種類あるかもしれない。無意識(意識が眠っている)ときに見る「現実」と、意識が目覚めたときに見る「現実」。
 一連目は、どちらになるだろう。
 私は、家を壊すことによって目覚めた意識が見た「現実」だと思う。「古い手紙」や「硝子戸」に何か価値があるとは思っていなかった。そんなものにこころが動くとは思っていなかった。それが存在することすら忘れていた。(無意識のうちに、存在を消し去っていた。)けれど「無意識」が解体されてしまうと、その奥から突然あらわれた。無意識から目覚めて、その存在に気がついた。
 このときの「意外な驚き」。それは、無意識から覚めて見る「夢」ではなく、「詩」かもしれない。「意外性」がさらに、「夢」を覚醒させ、意識にはりついてくる。「表札は捨てたが番地は残っている」という行は、そういう瞬間に見る「幻覚」のように生々しく肉体を揺さぶる。
 詩の「定義」は難しいが、「表札は捨てたが番地は残っている」という行を読んだ瞬間、あ、詩だと思うでしょ?
 これに比較すると二連目はすでに書いたが、目覚めながら見る「夢(理想)」。そしてそこには、ある種の「ととのえ方」がある。「理想の家の形」をととのえながら、谷川は自分の生き方をととのえている。
 で、また一連目にもどると、それは「理想の生き方」を夢見る(ととのえる)というよりは、いままで自分を縛っていた生き方(無意識のうちの、生き方のととのえ方)を壊して見る。何を隠して(抑制して)、自分をととのえていたのかな、と振り返った姿にも見える。
 「古い」と「新しい」、「壊す」と「建てる」、「記憶」と「未来」が「対」になりながら、動いている。二連目の「禁欲的な」というのは自己規制のようなものだが、その「夢」が一連目の「ぺんぺん草が生えてきた」ということばのなかにある「野放図な/暴力的な」という「対」になっているところなど、谷川の詩の感性のいちばん魅力的なところだ。こんなふうに、人間のことばは「奥深く」でつながっているのか、と気づかされる。そして、あ、こういうつながりが動き出すのが詩なのだなあと思う。私は何度も谷川の詩の構造が「対」を踏まえていると書いてきたが、こういう「対」は谷川以外にはなかなか書けない。
 「家」と「詩」、「現実」と「夢」がどこかで「対」になりながら、絶妙な感じで動いている。それが「私(谷川)」という存在なのか。

 とりとめもなく書いてしまうが……。
 三連目にもどってみる。
 ここに書かれている「詩」と「対」になっているのは何だろう。「詩」ということばではなく「書く」という動詞に目を向けると、違ったものが見えるかもしれない。
 一連目、二連目は、谷川の「書いた詩(の一部)」である。雪の白の上に「詩が書けるか」と自問するとき、そこには「詩」はまだ存在していない。存在しないものを「書く」とき、その「書く」という運動のなかに詩は姿をあらわす。
 一連目。家を壊した。そのことを書くと、その「書く」に釣られて「古い手紙の束が出てきた」ということばが動く。「古い手紙の束」は意識の中では存在しなかった。二連目。「平屋」も「広いワンルーム」も「書く」ことで存在する。それまでは形になっていない。
 「書く」ことが「現実」も「夢」も、同じように存在させる。その存在のさせ方(ととのえ方)を詩というのかもしれない。詩は「名詞」ではなく、世界のととのえ方の、その「ととのえる」という「動詞」のなかにある。
 で、

私はこれでいい だが他の人々はどうか
この国のこの星の未来は

 この唐突な(私には、唐突に感じられる)二行は、どう読めばいいのか。私は、それに「書く」という動詞を補って読んでみる。

私はこれでいい だが他の人々はどう「書く」か
この国のこの星の未来は 「どう書かれるのか」

 ことばによって「未来」をととのえる。それを「未来を書く」という。
 谷川はことばを「書く」。ことばで自分の過去と未来と現実を「ととのえる」。そうやって、ととのえられ、書かれたものを、私たちは「谷川の詩」と呼んでいる。
 その谷川が「他の人々はどう書くか」と心配している。それはもちろん人に対する心配がいちばんなのかもしれないが、ことばに対する心配かもしれない。ことばは「どう書かれるのか」。ことばは、どうなるのか。
 四連目の「新しい家」は、谷川の夢見た二連目の家ではないかもしれない。他人がつくった新しい夢(ことばのととのえ方)かもしれない。そう「誤読」するとき、他人の詩の中でとまどう谷川の姿が見える。他人の書いたことば(詩/家の夢)なのだから、そこに谷川がいなくてあたりまえかもしれないが、それはたぶん間違っている。ことばは常にひとと共有されて動いているから、ことばのなかにはいつでも「あらゆる人間」がいるはずである。ことばは、それがつかわれてきた(書かれてきた)時間とともに生きている。ことばのなかに「私」がいない、というのは、何かおかしい。ことばが「断絶」してしまっているというのは、おかしい……。

 私の「誤読」は脱線しすぎているかもしれない。

 別なことも、私は考えた。
 四連目の「私はどこにもいない」はどういうことだろうか。「私がいない」を「私」はどうやって知ったのか。「家のなかに私がいない」なら、「私は家の外にいる」。一連目を思い出すとはっきりする。家を壊した。その壊すことによってできた「家がない(敷地)」を、私は「家があった場所の外(三連目の「道」)」から見つめている。
 「いない」人間が「いない」を認識することはない。(というのは「我思う、ゆえに我あり」の受け売り。私は、実は「二元論」を信じていない。「方便」で書いている。)
 「いない」はことばによってつくりだされた状況、現実のととのえ方なのだ。「ない」ものは「ない」はずなのに、人間はことばによって「ない」を「存在する/ない」と考え、そこからことばの動きをととのえるということもできる。
 そんな動きとも、詩はどこかでつながっている。

詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(16)

2015-05-15 09:07:03 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(16)(思潮社、2015年04月30日発行)



笑顔

真面目であることの値打ちが減少したので
笑顔が氾濫する羽目に陥った
詩も真面目を避けて笑顔になる
哄笑は困難なので苦笑しながら
詩は世間へ出て行く
タブレットを抱えた小学教師が挨拶する
ゴミ袋を破っている烏は知らん顔
霞んでいる遠い山系は憂い顔
詩は自転車的な速度で教科書を通過する

逃げている訳ではないのに追っ手がかかる
詩は地下にもぐるが汚れない
雲に乗るが落ちない
追っ手はいつまでたっても詩を逮捕しない
多分泳がせているのだろう
そのうち詩の笑顔が薄れてくる
素顔を見せるくらいならいっそ死にたい
というのは建前で詩は実は不老不死を狙っている
大河小説をヨットで遡る気なのだ
               
 詩ということばが何度も出てくる。しかし、それが「定義」として有効かどうか、よくわからない。

詩は地下にもぐるが汚れない
雲に乗るが落ちない

 この二行から、詩は何にも汚れない、詩は天を飛翔する、という「意味」を読み取ることができる。そしてそれは、詩は美しい、絶対的、真理であるというような「意味」に読み替えることもできる。
 しかし、そのまま、それを「鵜呑み」にはできない。
 この二行は、一連目の

詩も真面目を避けて笑顔になる
哄笑は困難なので苦笑しながら
詩は世間へ出て行く

 と、どこか「対」になったようなところがある。
 先に引用した二行は「世間」とは無関係な「定義」。「世間」のなかでは、そういう「定義」は通用しない。「世間」では「笑顔」を装わないといけない。
 で、この「笑顔(笑い)」なのだが……。
 一行目に出てくる「真面目」の反対語(「対」になったことば)が「笑顔(笑い)」なのか。
 真面目の、単純な「反対語」は不真面目である。不真面目なものはときに「笑い」をさそう。それで不真面目の変わりに「笑顔」と書かれているのか。不真面目=笑い、なのか。
 だが不真面目だけを考えると、それに対応する感情は、「笑い」ではなくて「怒り」のときもある。不真面目な人間に対して、「笑っている場合か、真面目にやれ!」と怒りを爆発させることがあるでしょ?

 真面目←→不真面目=笑い
 真面目←→不真面目=怒り

 どっちが正しい?
 さらに、

 笑い=真面目←→不真面目=怒り

 という関係も成り立つ。真面目すぎておかしい(ばかみたい)。
 「定義」、あるいは「説明(論理)」というものは、全く正反対のものにもなってしまう。とてもいい加減なものなのだ。どの「論理」を選ぶかは、そのとき、そのとき。「世間」というものの「正しさ」は、そこにある。「論理」(結論)をひとつに決めてしまわない。「論理」に縛られない。「自由」な選択の、その「自由」さで、あらゆることを乗り越える。
 作品の一行目、その冒頭に「世間で」を補ってみるとよくわかる。「減少したので」とは変化をあらわす。「世間」は変化するものなのだ。その「変化」を「自由」というのだ。

 詩の後半には「笑顔」の「対」のことばに「素顔」が選ばれている。
 「素顔」は、次の行に出てくる「建前」ではなく、その「対」の「本音」ということになるかもしれない。「建前(世間へ出て行くときの顔)」として「笑顔」があり、その「対」になっているのが「本音(素顔、世間向けの顔ではなく、自分のほんとうの気持ち)」か。
 「本音」は二連目では「不老不死を狙っている」と書かれているが、これと「対」になっている一連目のことばは? 「哄笑は困難なので苦笑しながら」の「苦笑しながら」かな? 「笑顔」を装いながら、それが偽りだと気づいているこころ。それが「本音」か。
 真面目をつかって、もう一度図式化してみると……

 真面目=素顔←→笑顔
 素顔=真面目=本音←→建前=笑顔(偽装された笑顔)

 わかったようで、わからない。論理的にきちんと分類しようとすると、うまくいかない。何かが「論理」を超えてしまう。「論理」を逸脱していく。
 谷川は書いてはいないのだが、次のような図式も展開できるだろう。 

 バカ=素顔=真面目=本音←→建前=笑顔(偽装された笑顔)=利口

 この「論理」をつくってしまうと

 真面目=利口←→バカ=不真面目

 という古い(?)論理/価値観が成り立たなくなる。

 さて、いま書いてきたいくつかの図式の、どこに「詩」をあてはめ、それを「定義」にする?
 わからないねえ。
 いや、わかりすぎるのかなあ。きっと「具体的」な状況、つまり「世間」のなかを動くときは、図式をてきとうにやりくりするのだ。都合がいいようにするのだ。

追っ手はいつまでたっても詩を逮捕しない
多分泳がせているのだろう

 この二行は、「定義」なんか、しない、ということを言いなおしたものかもしれない。「定義」するというのは、「逮捕して」その「罪状」を明確にし、社会的な「位置づけ」をするということだが、そんなことに「時間」(労力)をつかわない。
 むだなことをしないというのが「世間」の流儀なのだ。

 詩の、ほんとうの「対」(反対)は「世間」なのだ。--というのは、「詩の定義」ではなく「世間の定義」だね。それも詩から見た世間の定義。谷川は「世間の定義」を、しているのだ。
 でも、それなら作品の冒頭に「世間で(世間では)」を書けばよかったのに……。そう思う? 思うでしょ? でも、これは私に言わせれば、谷川の意識のなかで「世間は」という「主語」は自明のことなので、ついつい省略してしまったのだ。作者の肉体にしみついていることは省略されてしまう。それこそが「キーワード」であるというのは、私の基本的な考え方だが、「世間」について語るということが、谷川の意識のなかでわかりきっていたので、ついつい省略されてしまったのだ。

 ところで、詩で世間を定義するのでも、詩を定義するのでもなく、逆に世間から詩を定義するとどうなるか。

タブレットを抱えた小学教師が挨拶する
ゴミ袋を破っている烏は知らん顔
霞んでいる遠い山系は憂い顔
詩は自転車的な速度で教科書を通過する

 こんな感じ。何が起きても、あ、そう。気にしない。「自転車」に乗る感じで、教科書に出ている詩を読んで、まねして、書いてみて、「うん、詩は読んだこともあるし、書いたこともある」。それで十分。
 こういう世間に対して、そうだねえ。詩は「素顔=本音」は見せられないかもしれないなあ。「素顔=本音」を見せずに、「世間」という「大河小説」を生きていくと決意するのが詩なのかな? それとも、これは「真面目(本音)」を装った、もうひとつの「苦笑」なのかなあ。


詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

コメント
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