谷川俊太郎『詩に就いて』(25)(思潮社、2015年04月30日発行)
この作品から三つ目の章になる。
いままで読んできた作品と大きく違う点がある。女が登場し、男と対話している。登場人物が二人いて、「対話」している。ひととひとの哄笑がある。
「朝」にも「私の「おはよう」に無言の微笑が返ってきて」という一行があり、そこにも「対話」があると言えば言えるけれど、その「対話」は「小景」のように「対立」していない。
「小景」では「対話」が「対立」している。逆なことばで言えば「調和していない」。「朝」の「無言の微笑」は「調和」である。
音楽に「不協和音」という言い方があるが、谷川がこの詩で書いているのは「不協和音」のようなものかもしれない。ふつうとは違う和音。ことばの響きあい。
そのとき、そこに「詩」は存在しているのか。
男は詩を書き、女は詩を拒絶している。このとき、詩は存在しているのか。それとも存在していないことになるのか。存在しているけれど、それが拒絶されているだけなのか。詩人と詩人ではないひとが対話し、その対話のなかで詩が否定されたとき(拒絶されたとき)、詩人は、どういう存在なのだろう。否定されても詩人か、それとも詩人ではなくなるのか。詩はそのとき「どこにある」のか。
最初から読み直してみる。
一連目は、いわゆる「詩」である。二連目で男が「詩みたいなものを書いた」と言うが、その「詩みたいなもの」が指しているのは一連目である。
「テラス」「テーブル」が出てくるので、思わず詩集の巻頭の「隙間」を思い出してしまう。「詩の靄らしい」ものが「うっすら漂っている」光景は、「小景」の世界を先取りしていっているような気がする。それくらい、一連目は「詩っぽい」(詩みたいなもの)。「古風な静物画のような構図」と谷川が書いているが、「構図」が「詩っぽい」。さらに「音楽は言葉を待たずに/キャベツ畑を渡っていく」が谷川の「音楽好き」をそのまま浮かび上がらせて、とても「詩っぽい」。「言葉を待たずに」と「言葉」が無視されているのも詩を逆手にとって(ことばを突き放すことによって)、より深い詩を感じさせる。「言葉が存在しない」ときに「詩」がいちばん美しい形で存在する。また、「音楽がどこへ行くのか気になって/言葉は立ち止まってしまう」という保留の感じ、ためらっている感じが、感情が肉体のなかにたまってくるようで、おもしろい。最初から最後まで、すべてのことばが「詩」になっている。
これを男は「詩みたいなもの」と言う。「詩」と断定していない。なぜだろう。「謙遜」か。あるいは、詩は読まれてこそ、誰かにとどいてこそ詩であって、それまでは「詩みたいなもの」に過ぎないということか。
これに対して女は「やめてよ」と言う。それを私に読ませる(聞かせる)のはやめて、という意味だろう。女は男が書いた「ことば」を受け取ることを拒絶している。
ここが、微妙だ。
女は「ことば」を拒絶したから、「詩みたいなもの」がどんなものか知らない。けれど、男(谷川?)は知っている。また、この作品を読んでいる私も知っている。女のところまではとどかず、立ち止まってしまったことばを知っている。一連目の最後の部分と微妙に重なる。「対」になる。
詩(詩みたいなもの)は男と読者の意識(内部)には存在する。しかし女がそのことばを拒絶したために、男の「外部」には存在しない(ことに、この詩ではなっている)。
これは谷川がつかうことばを借りて言えば、「未生のことば」が生まれようとするのを、反対側(?)から見つめたような感じだ。
「言葉」はもう「未生」のものではない。けれど、それは女が拒絶したために「外部」に「生まれ出る」わけにはかいかない。しかし、引き返そうにも、引き返せない。「未生の言葉」にはもどれない。「言葉は立ち止まってしまう」。
こういうことを、谷川は
と書いている。魅力的で、刺激的で、ことばを誘われる。この行について何か書きたい、という欲望を刺戟される。
「沈黙」の奥に「詩」が隠れているのではない。
「沈黙」と「詩」が、対等の感じで「かくれんぼ」している。互いが「鬼」であり、互いが「子」である。「対」になっていないと「かくれんぼ」は成立しない。
「未生のことば」は「未生」であるけれど、そこに存在しているということが意識されないかぎりは「未生のことば」ではない。意識される(感じがある)けれど、それが「外部」に形となって出て来ないのが「未生」という状態。「胎児」のようなものだ。「生きている」、存在している。けれど「外部」に出てきて「自立」しているわけではない。
このとき「詩みたいなもの(未生のことば)」は男のものだが、「沈黙」はだれのものだろう。男のもの? 女のもの? それとも男と女のあいだにあるもの? だれのものでもなく、もうひとつの「未生のことば」のように存在している。「沈黙」自体が「未生のことば」となって、それが「詩みたいなもの(未生のことば)」と響きあっている。
これが、この作品の「不協和音」だ。
「ふつうの和音」(?)は一連目。「詩(みたいなもの)」。世界がことばとなって表出され、そのことばが互いに響きあって、テラスの情景を描き出している。そこには、そこにいるひとの「感情(情緒)」が反映されている。そこにも「沈黙」はあるだろうけれど、その「沈黙」はことばによって静かにととのえられている。あるいは「沈黙」は、生まれてくることばが美しく響くように、沈黙自身をととのえている。
けれど二連目では「沈黙」と「詩」がぶつかりあって、「ことば」を沈黙させ、「沈黙」をざわつかせる。「詩」が聞こえず、「沈黙」が聞こえる。会話は声にならないまま、男と女の肉体のなかでざわめいている。その「声にならない沈黙」は一連目の「言葉」のように立ち止まりはしない。「沈黙」は自己主張して、詩が隠れたままでいるようにしている。出てきたら(見つけたら)、つかまえてしまうぞ、と騒いでいる。
どうすればいいのだろう。
男の方は隠れつづけていることが退屈になって出て行く子どものように、わざと自分の姿をあらわすのだが、女の方はかくれんぼをしていたことさえ否定するように知らん顔をしてしまう。「沈黙」で男と「詩(みたいなもの)」を圧倒してしまう。
高等な駆け引き、「人事」。
それは、しかし、こんなふうに書かれてしまうと、それはそれで「詩」として姿をもってしまう。「不協和音」が「和音」の位置を締めてしまう。つまり、「描写/情景」としてはっきり読者に迫っている。こういう「対立」(気まずさ)のようなものを、架空のものとしてではなく、自分の「肉体」が覚えていることとして思い出すことができる。
この不思議な手触り、「現実感」をつたえることばに比較すると、一連目は「絵空事(詩みたいなもの)」になってしまう。二連目が「詩」であり、一連目は「空想」になってしまう。
「不協和音」は「リアリティ」を別なことばで言ったもののよう思えてくる。忘れていた「リアリティ」が動くので、それを「事実」と思い、そこに「ほんとうの詩/詩のほんとう」を感じてしまう。
この「不協和音」を谷川は、別な表現で言いなおしている。
「意味」が「不協和音」である。「意味」が引き起こす「疲れ」が「不協和音」である。「どこだっけここは」は「意味」である。それが「どこ」であろうと、そういうことと無関係に人間はすでにそこに存在している。「知らない」も「意味」である。どこであろうと人間は存在していると言うこと自体が「意味」なのだ。
「詩みたいなもの」にも「意味」がある。「意味」をつたえようとして(あるいは、世界はこういうふうに見れば美しいという「意味/見方」をつたえようとして)書かれている。そこにはととのえられた「意味」がある。
そういう「意味」に女は疲れ、疲れている女を見ることに男は疲れている、という「意味」がさらに加わるかもしれない。
最後の一行は、それまでのことばとは無関係である。つまり「無意味」な一行である。「意味」から解放されているがゆえに、その一行こそがこの作品では「詩」として存在していることになる。
騒がしい「不協和音」に向き合って、「小さく鳴った」その音。
小景
テラスのテーブルに
チャイのポットと苺が出ている
古風な静物画のような構図
音楽は言葉を待たずに
キャベツ畑を渡っていく
音楽がどこへ行くのか気になって
言葉は立ち止まってしまう
「詩みたいなものを書いた」と男が言う
「やめてよ」と女
気まずい沈黙が詩とかくれんぼしている
「どこだっけここは」男が言う
「知らない」と女
言葉はみな意味に疲れ果てている
部屋の奥で着信音が小さく鳴った
この作品から三つ目の章になる。
いままで読んできた作品と大きく違う点がある。女が登場し、男と対話している。登場人物が二人いて、「対話」している。ひととひとの哄笑がある。
「朝」にも「私の「おはよう」に無言の微笑が返ってきて」という一行があり、そこにも「対話」があると言えば言えるけれど、その「対話」は「小景」のように「対立」していない。
「小景」では「対話」が「対立」している。逆なことばで言えば「調和していない」。「朝」の「無言の微笑」は「調和」である。
音楽に「不協和音」という言い方があるが、谷川がこの詩で書いているのは「不協和音」のようなものかもしれない。ふつうとは違う和音。ことばの響きあい。
そのとき、そこに「詩」は存在しているのか。
男は詩を書き、女は詩を拒絶している。このとき、詩は存在しているのか。それとも存在していないことになるのか。存在しているけれど、それが拒絶されているだけなのか。詩人と詩人ではないひとが対話し、その対話のなかで詩が否定されたとき(拒絶されたとき)、詩人は、どういう存在なのだろう。否定されても詩人か、それとも詩人ではなくなるのか。詩はそのとき「どこにある」のか。
最初から読み直してみる。
一連目は、いわゆる「詩」である。二連目で男が「詩みたいなものを書いた」と言うが、その「詩みたいなもの」が指しているのは一連目である。
「テラス」「テーブル」が出てくるので、思わず詩集の巻頭の「隙間」を思い出してしまう。「詩の靄らしい」ものが「うっすら漂っている」光景は、「小景」の世界を先取りしていっているような気がする。それくらい、一連目は「詩っぽい」(詩みたいなもの)。「古風な静物画のような構図」と谷川が書いているが、「構図」が「詩っぽい」。さらに「音楽は言葉を待たずに/キャベツ畑を渡っていく」が谷川の「音楽好き」をそのまま浮かび上がらせて、とても「詩っぽい」。「言葉を待たずに」と「言葉」が無視されているのも詩を逆手にとって(ことばを突き放すことによって)、より深い詩を感じさせる。「言葉が存在しない」ときに「詩」がいちばん美しい形で存在する。また、「音楽がどこへ行くのか気になって/言葉は立ち止まってしまう」という保留の感じ、ためらっている感じが、感情が肉体のなかにたまってくるようで、おもしろい。最初から最後まで、すべてのことばが「詩」になっている。
これを男は「詩みたいなもの」と言う。「詩」と断定していない。なぜだろう。「謙遜」か。あるいは、詩は読まれてこそ、誰かにとどいてこそ詩であって、それまでは「詩みたいなもの」に過ぎないということか。
これに対して女は「やめてよ」と言う。それを私に読ませる(聞かせる)のはやめて、という意味だろう。女は男が書いた「ことば」を受け取ることを拒絶している。
ここが、微妙だ。
女は「ことば」を拒絶したから、「詩みたいなもの」がどんなものか知らない。けれど、男(谷川?)は知っている。また、この作品を読んでいる私も知っている。女のところまではとどかず、立ち止まってしまったことばを知っている。一連目の最後の部分と微妙に重なる。「対」になる。
詩(詩みたいなもの)は男と読者の意識(内部)には存在する。しかし女がそのことばを拒絶したために、男の「外部」には存在しない(ことに、この詩ではなっている)。
これは谷川がつかうことばを借りて言えば、「未生のことば」が生まれようとするのを、反対側(?)から見つめたような感じだ。
「言葉」はもう「未生」のものではない。けれど、それは女が拒絶したために「外部」に「生まれ出る」わけにはかいかない。しかし、引き返そうにも、引き返せない。「未生の言葉」にはもどれない。「言葉は立ち止まってしまう」。
こういうことを、谷川は
気まずい沈黙が詩とかくれんぼしている
と書いている。魅力的で、刺激的で、ことばを誘われる。この行について何か書きたい、という欲望を刺戟される。
「沈黙」の奥に「詩」が隠れているのではない。
「沈黙」と「詩」が、対等の感じで「かくれんぼ」している。互いが「鬼」であり、互いが「子」である。「対」になっていないと「かくれんぼ」は成立しない。
「未生のことば」は「未生」であるけれど、そこに存在しているということが意識されないかぎりは「未生のことば」ではない。意識される(感じがある)けれど、それが「外部」に形となって出て来ないのが「未生」という状態。「胎児」のようなものだ。「生きている」、存在している。けれど「外部」に出てきて「自立」しているわけではない。
このとき「詩みたいなもの(未生のことば)」は男のものだが、「沈黙」はだれのものだろう。男のもの? 女のもの? それとも男と女のあいだにあるもの? だれのものでもなく、もうひとつの「未生のことば」のように存在している。「沈黙」自体が「未生のことば」となって、それが「詩みたいなもの(未生のことば)」と響きあっている。
これが、この作品の「不協和音」だ。
「ふつうの和音」(?)は一連目。「詩(みたいなもの)」。世界がことばとなって表出され、そのことばが互いに響きあって、テラスの情景を描き出している。そこには、そこにいるひとの「感情(情緒)」が反映されている。そこにも「沈黙」はあるだろうけれど、その「沈黙」はことばによって静かにととのえられている。あるいは「沈黙」は、生まれてくることばが美しく響くように、沈黙自身をととのえている。
けれど二連目では「沈黙」と「詩」がぶつかりあって、「ことば」を沈黙させ、「沈黙」をざわつかせる。「詩」が聞こえず、「沈黙」が聞こえる。会話は声にならないまま、男と女の肉体のなかでざわめいている。その「声にならない沈黙」は一連目の「言葉」のように立ち止まりはしない。「沈黙」は自己主張して、詩が隠れたままでいるようにしている。出てきたら(見つけたら)、つかまえてしまうぞ、と騒いでいる。
どうすればいいのだろう。
男の方は隠れつづけていることが退屈になって出て行く子どものように、わざと自分の姿をあらわすのだが、女の方はかくれんぼをしていたことさえ否定するように知らん顔をしてしまう。「沈黙」で男と「詩(みたいなもの)」を圧倒してしまう。
「どこだっけここは」男が言う
「知らない」と女
高等な駆け引き、「人事」。
それは、しかし、こんなふうに書かれてしまうと、それはそれで「詩」として姿をもってしまう。「不協和音」が「和音」の位置を締めてしまう。つまり、「描写/情景」としてはっきり読者に迫っている。こういう「対立」(気まずさ)のようなものを、架空のものとしてではなく、自分の「肉体」が覚えていることとして思い出すことができる。
この不思議な手触り、「現実感」をつたえることばに比較すると、一連目は「絵空事(詩みたいなもの)」になってしまう。二連目が「詩」であり、一連目は「空想」になってしまう。
「不協和音」は「リアリティ」を別なことばで言ったもののよう思えてくる。忘れていた「リアリティ」が動くので、それを「事実」と思い、そこに「ほんとうの詩/詩のほんとう」を感じてしまう。
この「不協和音」を谷川は、別な表現で言いなおしている。
言葉はみな意味に疲れ果てている
「意味」が「不協和音」である。「意味」が引き起こす「疲れ」が「不協和音」である。「どこだっけここは」は「意味」である。それが「どこ」であろうと、そういうことと無関係に人間はすでにそこに存在している。「知らない」も「意味」である。どこであろうと人間は存在していると言うこと自体が「意味」なのだ。
「詩みたいなもの」にも「意味」がある。「意味」をつたえようとして(あるいは、世界はこういうふうに見れば美しいという「意味/見方」をつたえようとして)書かれている。そこにはととのえられた「意味」がある。
そういう「意味」に女は疲れ、疲れている女を見ることに男は疲れている、という「意味」がさらに加わるかもしれない。
最後の一行は、それまでのことばとは無関係である。つまり「無意味」な一行である。「意味」から解放されているがゆえに、その一行こそがこの作品では「詩」として存在していることになる。
騒がしい「不協和音」に向き合って、「小さく鳴った」その音。
詩に就いて | |
谷川 俊太郎 | |
思潮社 |