詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(64)

2015-05-14 10:23:26 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(64)

111 春雨

 この詩の「ぼく」と「あなた」はどういう関係にあるだろう。

ぼくが消えてしまうところが
この地上のどこかにある
死は時の小さな爆発にあつて
ふいに小鳥のようにそこに落ちてくるだろう

その場所はどんな地図にも書いてない
しかし誰かがすでにそこを通つたようにおもわれるのは
その上に灰いろの空が重く垂れさがつていて
ひとの顔のように大きな葉のある木が立つているからだ

あなたは歩みを早めて木の下を通りかかる
そしてなにかふしぎな恐れと温かな悲しみを感じる
ぼくの死があなたの過去をゆるやかに横切つているのだろう

 「あなた」は「ぼく」の友人か。恋人か。「あなた」は「ぼく」の死を思い、恐れと温かな悲しみを感じる。そうあってほしいと願っているのか。そうかもしれないが、そういうことを他人に願うのは少し自己陶酔が強いかもしれない。
 「ぼく」と「あなた」を入れ換えてみるとどうだろう。
 「あなた」はなぜ突然、小鳥が空から落ちるように死んでしまったのか。木の下を通りながら、「あなた」を思い出す。人は誰もが死んで行く。そのことをも思う。この木の下で、誰かが「ぼく」と同じように誰か(自分にとって「あなた」と言える人)を思った。思い出した。
 なぜ、木の下なのか。それは、わからない。小鳥の死、小鳥が空から落ちて死ぬと書いたから、その連想かもしれない。空と大地のあいだ。それを結ぶ木。そこにとまって休む小鳥。人生を、そんなふうに思い描いたのかもしれない。
 どんな思いだったにしろ、その「木」の大きさが「ふしぎな恐れ」(生きつづけていることへの畏怖)と「温かさ」(木の温み)を感じさせる。そして木が温かいからこそ「温かな悲しみ」ということばも動いているように思う。
 「あなた」が死んだのは悲しい。けれど「あなた」を思い出すと温かな気持ちにもなる。「あなた」は大きな木の中を走る樹液のように「ぼく」のなかに存在している。
 その「あなた」と「ぼく」の一体感(さらに、それに木も加わった一体感、木によってうながされた一体感といった方がいいのかも)の上に春の雨が降る。

春雨がしめやかに降り出した

 たしかに「しめやか」でなくてはならない。

嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(15)

2015-05-14 09:54:50 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(15)(思潮社、2015年04月30日発行)


死んで行く友に代わって言う

君は見たはずだ
ぼくの右の目尻から
涙が細く一筋流れているのを

悲しみではない
悔いでも未練でもない
自分を哀れんでもいないし
自分に満足もしていない

ただぼくは深く感動していたのだ
自分の一生がそのとき
詩と化していることに

 「死んで行く友に代わって言う」のだから「君」が「谷川」で「ぼく」が「死んで行く友」になる。友はもうことばを話せない。だから代わりに言うのだが、その「言っている意味(内容)」がとても複雑だ。
 最終行の「詩」とはどういうものを指して言っているのか。
 「感動していた」だから、「美しい」? 肯定的な内容? でも「満足もしていない」と二連目に書いてある。詩ということばで私たちが一般的に想像する「美しい」「正しい」「真実に満ちたもの」など肯定的なものなら、「満足していない」がどうも落ち着かない。「不満」とも書いてないのだから、なお、どうとらえていいのかわからない。
 これまで見てきた「詩の定義」を思い出すと、詩は「未生のことば」。あるいは「無意味」。
 「未生のことば」は、まだ肯定的な要素があるかな? これから「生まれる」のだから、そこには何か「生まれるだけの価値」がある。でも、「死んで行く」と「生まれる」は、どうも合致しない。「矛盾」が詩なのだけれど、死んで行くときに新しく何かが生まれるのに感動するというのだったら、それは「満足」につながる感じがするなあ。
 そうすると、ここに書かれている「詩」とは「無意味」? 無意味となっていくこと、無意味と化すことに感動していた。
 そう読むと、びっくりしてしまう。
 死んで行く本人がそういうなら、まだわかるけれど、それを見つめる谷川が、死んで行く友人に代わって、「自分の一生が、無意味になっていくことに感動していた」と言い切ってしまうところに、「何か恐ろしいような気がする」。これは、この作品の前に置かれている「涜神」に出てきたことばだけれど……。
 「自分の一生が、無意味になっていくことに感動していた」と言ってしまうと、何かそれは、人が生きるということを完全に「否定」している感じがする。この「否定」は「涜神」の表現を借りて言えば「神を信用していない」というときの「否定」に似ている。そこに「神」が「ある(いる)」を前提として、「神を信用していない」というように、そこに「人間の人生がある」を前提として、なおかつそれが「無意味となってゆく」。「人生の意味信じない」、「自分の信じてきた人生意味よりももっと違う意味がある、それに比べたら自分の人生は無意味だとわかった」、つまり「人生」とは違った次元に到達したと感動しているのか。無意味になっても、なおその無意味を支える巨大な何かがあると発見して感動しているのか。

 「あなたへ」の最終連にあったことばも思い出す。

あなたは生きていける
俄雨とともに入道雲ともに
その他大勢の誰かただ一人とともに
死が詩とともに待ってくれている
その思いがけない日まで

 「死」と「詩」がともに(いっしょに)待っている。
 「死」はたいていの場合、人間にとっては「否定すべき」ものである。その「否定」と、「詩」という肯定的なもの(美しい、真実、真理)がいっしょとはどういうことだろう。死は詩(肯定的な価値)を無意味にするのか、死の否定的な要素を詩が肯定的なものに変えるのか。「追悼文」などというのは、後者の部類だなあ。そのひとの生涯を肯定的にとらえ、その人を惜しむ。でも、どうも谷川の書いていることは、一般的な意味とは逆だなあと感じる。
 詩は死を無意味にする。巨大な無意味で死をつつみこんでしまう。死さえも無意味にするのが詩というものか。

 この詩集は特に章を立てて作品を区別しているわけではないが、目次を見ると作品群のあいだに一行空きがある。そして三つにわかれている。「隙間」から「あなたへ」までが最初の部分。「十七歳某君の日記より」から「木と詩」までが次の部分。「小景」から「おやおや」までが最後の部分。
 最初の部分の作品群は詩をいろいろな形で「定義」しようとしているように思える。真ん中の部分は(まだ三篇読んだだけだが)、「定義」しようとはしていない。すでに「定義」はすんでしまった。いや、詩は「定義」などできることではない。詩には「定義」からはみだすものもある。それをただ「詩」ということばでほうり出す。読者がかってに考えてくれればいい、そう言っているようにも見える。
 この作品の、最後の「詩」を自分のことばでどう定義しなおし、谷川のことばと向き合うか。そのことが問われている。




詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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ヨアンナ・コス=クラウゼ、クシシュトフ・クラウゼ監督「パプーシャの黒い瞳」(★★)

2015-05-13 20:53:50 | 映画
監督 ヨアンナ・コス=クラウゼ、クシシュトフ・クラウゼ 出演 ヨビタ・ブドニク、ズビグニェフ・バレリシ、アントニ・パブリツキ

 ポーランドのジプシー(いまも、こういうのだろうか)の女性詩人の生涯を描いている。予告編で少しだけ声で語られる詩が神話的で興味をそそられた。鳥の群れが飛び立つシーンも、鳥が大地と空をつないでいる感じがおもしろくて、とても期待した。
 期待が強すぎて、期待外れという感じになってしまった。
 私は詩人の「ことば」をもっと聞きたかった。彼女が森や原野を旅することを、どんなふうに肉体化するのか、それが見たかった。鳥が大地と空をつないで生きるように、ジプシーたちは土地から土地へ歩き回ることで、その離れた土地をどうつないでゆくのか。ふつうのひとの暮らし(定住)をどうやって切断し、彼女のなかで土地(自然)そのものを広げてゆくのか、それを見ることができたらなあと期待していた。
 映画はジプシーの思想(詩のありか)を浮かび上がらせるというよりも、ジプシーの迫害の歴史を克明に描いている。ユダヤ人と同様、ナチス(ヒトラー)に迫害された歴史を描いている。その歴史の中に、詩人の生涯が埋もれるような形になっている。監督の意図は詩人の生涯というよりも、詩人をとおして、「時代」そのものを描くところにあったのだろう。
 定住を強いられることで、こころの豊かさ(ことばの豊かさ)、こころと大地の結びつきを逆に断ち切られてしまう--それがことばにどう反映しているのか、ことば(詩)の比較がないとわからない。「事実」なのかもしれないが、狂気に簡単に頼っていて、苦悩への過程がよくわからない。
 あ、ここにこのような人間の歴史があったのか、と知るという意味では、学ぶところがあったが、詩が生まれる瞬間の力がどうも伝わってこない。迫害によって、詩が変わっていったのか。それとも、以前と同じように詩を書きつづけたのか。それがわからない。
 彼女を発見した男と、その男と出会うことで変わってしまった女の人生。それが詩にどう反映しているのか、その部分がよくわからない。だから、男の「ずるさ」のようなものも、ちょっとあっさりしている。「迫害された」歴史はわかったが、「迫害した」歴史の方は、すこしあいまい。「迫害」の問題を、ジプシー社会の内部問題のように描いている点も、それが事実としても、なんだかなあ。ヒトラーの「時代」にたよりすぎているかも。
 唯一、興味深かったのは、女性の詩人が「ことば」の魔力を信じきっていることが描かれていたところ。結婚相手が好きになれない。そのために、「どうか子宮をふさいでください」と祈る。それがそのまま「肉体」に跳ね返ってきて、実際に子供を産むことがない。「ことば」が何か「ほんとう」とつながっている。その気持ちが彼女に詩を書かせているのだと、その瞬間にわかる。そういうシーンをもっと見たかったなあ。
                     (KBCシネマ2、2015年05月10日)




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谷川俊太郎『詩に就いて』(14)

2015-05-13 09:38:39 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(14)(思潮社、2015年04月30日発行)



涜神

突然アタマの中が無人になった
みんなどこかへ出て行ってしまったのだ
誰もいない空間
でも木の床がある
背景のようなものもある
舞台……と言ってもいいかもしれない
人影はないけれどそこに詩がある
いやむしろ誰もいないからこそ詩があるのかもしれない
だがそう考えるのは何か恐ろしいような気がする
涜神ということばが思い浮かぶ
神を信用していないのに

 人がいない。「無人」「誰もいない」「人影はない」「誰もいない」と言いなおされている。「けれど詩がある」。「(だから)こそ詩がある」と言いなおされている。
 詩は、人とは無関係である、ということになる。人とは無関係に詩は「ある」。
 では、人がいるとき、そこには何があるのだろう。詩でなければ、散文か。人とものとの関係、あるいは人と人との関係。人との関係は詩ではないのか。
 また、人がいないとして、それでは、たとえばそこにある「木の床」「背景」「舞台」というものは、どうやって認識されるのか。それが「ある」となぜ言えるのか。「人がいない」は「この作品を書いている詩人以外はいない」「谷川以外の人はいない」ということになる。孤独で、ただ「もの」と向き合っている。そういう「孤独」と「もの」との「関係」が詩であるということか。
 だが、ここには「孤独」というものもない。「谷川」を含めて「人」の気配がない。「孤独」とは、ことばとは裏腹にひどく「人」の匂いのするものである。
 では、ここにあるのは、何か。
 「ない」と「ある」の関係だ。
 「人がいないとき、そこに詩がある」という「関係」。「無」と「有」の、「関係」がある。
 しかし、この「無」と「有」の関係というのは、詩というよりも哲学的なテーマという感じがする。ギリシャの昔、「無」が「ある」と考えたのは誰だったか。「無」が「ある」ということを考えられるのはなぜだろうか。
 こういうことを考えると、詩ではなく、散文になってしまうかな? 「論理」を考えはじめると「散文」になってしまうかな?
 谷川は「論理」を突きつめずに、ふっと、違う「場」へ動いてしまう。
 「そう考えるのは何か恐ろしい」。「何か」はあいまい。「おそろしい」は「論理」というより感情か。
 そして突然、

涜神ということばが思い浮かぶ
神を信用していないのに

 矛盾したこころの動きを書いている。
 おもしろい(?)のは、「神がいる(ある)」を前提としたことば「涜神」が最初にあらわれることである。(「神がいない」ならば、「神を冒涜する、涜神する」ということも不可能だから。)
 前半では「人はいない(ない)」けれど「詩はある」。
 いまは「神はいる(ある)」が「信用していない」と「ある」が先にきて「ない」があとにくる。
 どうして「ない」と「ある」の順序がかわってしまったのか、わからないが、この変化ために前半から後半への飛躍がいっそう大きなものになって感じられる。いままで書いてきたことをまるごと否定する、壊してしまう。無にしてしまう。そのあとで、違う「場(次元)」へ飛躍してしまったという感じになる。
 その突然の変化のなかで……。
 「神がいる(ある)」の「主語」を「詩」に変えると、「詩がある」になる。「詩がある」、けれど「人はいない」。前半を、そんなふうな順序にすると、きっと、それこそ何か恐ろしい感じがする。
 
 また「涜神という言葉が思い浮かぶ」の「言葉」の存在もおもしろい。「言葉がある」。だから、思い浮かんだ。谷川が「神」を信じるかどうかではなく、「神」という「言葉」があったために、「涜神」という「言葉」もあり、それが谷川のこころを動かしている。
 こころが動いて行って「言葉」をつくるのではなく、「言葉」が先にあって、人をつくる。
 最後の三行が、何か恐ろしい「詩」に感じられるのは、そういう「言葉」と「人」の「関係」を語っているためだろうか。
 「言葉」が「人」をつくる。
 「言葉」にそういう力があるなら、「言葉」で書かれた詩もまた「人」つくる。
 これは谷川の、究極の「詩論」だ。

 こんな「結論」めいたことばは、保留しなければならない。
 保留のために、少し、逆戻りして余分なことを書いておく。
 書き出しの「無人」を「誰もいない空間」と言いなおしたあとに、谷川は

でも木の床がある

 と書いている。何でもない表現のようだが、「木の床」の「木」が谷川らしい「癖」だと思った。「木」には何か温みがある。自然を思い起こさせる。懐かしさがある。こういう感覚は「日本人」に共通するものかもしれない。谷川は、こういう「共通感覚」のようなものを詩の導入部の「定型」としてつかう。「定型」を動かして行って、最後に「定型」を壊す。「涜神」というのは、日本の伝統的な神々に対しても言うかもしれないが、私の印象ではキリスト教のような「絶対神」に対してつかうことばのように感じられる。
 思考、あるいは感性が、前半は「日本的」なのに、最後の三行は西洋的。こうした切断と接続も、最後の三行の印象を強くしているように思う。



詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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江代充『現代詩文庫212  江代充詩集』(2)

2015-05-12 11:13:45 | 詩集
江代充『現代詩文庫212  江代充詩集』(2)(思潮社、2015年04月30日発行)

 「悲しみ」(『梢にて』)という短い作品。

その日のうちに二度通りすぎた山裾へ近付き
そのときもまた傍らへ行き過ぎようとしていたが
過去の日にその山肌へ向かい
地を這って目前を移動する蛇を見たことや
裾には岩があり
上るに連れておい繁る草の種類の見分けのつかぬまま
岩を経たおなじ蛇が
ささやかな茎の合間を縫っていたそのありさまが
わずかのあいだ
わたしをここに留まらせることを知るようになる

 奇妙な文体だと思う。そして、その奇妙さを強調するのが「繰り返し」である。「二度通りすぎた」の「二度」、「また傍らへ行き過ぎようと」の「また」は繰り返しである。さらに「過去の日に」ということばも「いま」と重なるので繰り返しになる。
 繰り返して、どうなるのか。
 なかほどに「おなじ」ということばがある。「岩を経たおなじ蛇が」という形になっているが、この「おなじ」は「繰り返し」である。「繰り返す」というのは「おなじ」確認することなのだ。
 しかし、ふつうは「おなじ」とは言わない。さっき岩を上っていた蛇が、いまは草を茎を縫っている。「時間」の前後を書くことで、そこに「違い」を書くことはあっても、「おなじ」は書かない。
 「この蛇、さっき岩を上っていた蛇かね」
 「そうだと思う。おなじ蛇だと思う」
 というような「確認」のためなら「おなじ」をつかうことはあるかもしれないが、ずーっと蛇を見ていて、それを「おなじ」とはわざわざいわない。ことばの不経済だ。
 どうも江代のことばは「不経済」なのである。
 「その日のうちに二度通りすぎた山裾へ近付き」という行動が「不経済」であると同時に、そのことを書くことばも「不経済」である。「繰り返す」ことじたいが、とても「不経済」である。
 現代は、おなじことを繰り返さない。繰り返さずに先へ進む。江代のやっていることは逆である。同じことを繰り返し、先へ進まない。先へ進むことを拒絶している。
 繰り返すことによって最初の行為と次の行為のあいだに「間」をつくる。その「間」は長いか、短いか。判断がむずかしいが、繰り返していると、その「間」がどんなに長くても短く感じる。知っていることだけが繰り返されるので、ひとは「認識」を省略してしまう。だから短く感じるのだろう。
 終わりから二行目の「わずかのあいだ」は、そうやってできた「繰り返し」の「間」ではないのかもしれないが、繰り返すことによって余裕のできた「間」のように感じられる。何度も何度も繰り返しているので、繰り返しの部分は無意識でできる。そのぶん、意識に余裕ができて、それに「間」が生まれる。「余裕」が「間に」になるともいえる。
 だからそれは「繰り返し」がつくり出してしまう「長さ」と言い換えることもできる。で、そう言い換えてしまうと、先に書いたことと「矛盾」する。先に私は「繰り返し」が「短さ」をつくると書いた。--これでは「繰り返し」は「短さ」と「長さ」を同時につくり出すという矛盾が起きる。
 この矛盾を江代は「なる」という変化のなかで言い切ってしまう。それが、非論理的、非散文的で不思議。「非散文的」だから「詩」なのか。
 前回書いた感想のつづきでいえば、「繰り返し」が「ある」。「繰り返すこと」が「ある」。その「ある」が「間」を生み出す。それは、「繰り返し」そのものが「なる」を作りだすようにも感じられる。
 その「なる」なのだが、

わたしをここに留まらせることを知るようになる

 この最終行が、また、不思議。
 ことばの経済学からいえば「わたしをここに留まらせるようになる」で十分なのだが、そこに「ことを知るように」という奇妙なことばが差し挟まれる。「なる」を「知る」。認識する。
 あらゆることを「動詞(肉体の動き)」ではなく、「認識(名詞)」にして世界を把握する。どうしても、そういう感じがしてしまう。「認識(名詞)」にして「ある」という世界を把握するのだが、その「ある」を「あるになる」という感じで江代はとらえているように思える。
 なんだか面倒くさいことを書いているが……。
 江代のことばを借りて言いなおせば「ある」と「なる」の「わずかのあいだ」に留まって、江代の世界を「知る」ことが、江代の詩を読むことになるのか。
江代充詩集 (現代詩文庫)
江代充
思潮社

*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
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購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
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リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
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2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
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谷川俊太郎『詩に就いて』(13)

2015-05-12 09:56:27 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(13)(思潮社、2015年04月30日発行)



十七歳某君の日記より

菱形の日
詩が落ちていた。拾ったら泥だらけだった。洗ったら生っ白くなった。振って
みた、乾いた良い音がした。箱に入れてはいけないような気がした。私有しな
いで誰かに渡そう。リレーみたいに詩が次から次へ続いて行くといい。

輪の日
輪は環じゃない、もちろん和ではない。吾の<わ>は一人称にも二人称にも使
われたということだ。わたしとあなた、おんなじ人間だよ、おんなじ哺乳類だ
よっていうことか。幼い頃、物陰に隠れていて誰かを脅かすとき、「わっ」っ
て叫んだのは懐かしい思い出。

土の日(土曜日ではない)
商店街の真ん中よりちょっと南寄りに、新しい店が開店するらしい。
客が五人も入れば一杯になるだろう。ワイングラスが六つほど、逆さにぶら下
がっているから、何か飲ませたり食べさせたりするのだろう。
百円ショップやスーパーや保険の代理店に挟まれて、それはなにか寂しい句読
点のように見える。他の店が散文なら、その店は詩だ、とぼくは言いたい。
でも開店してしまえば、それもすぐに散文化する。それは分かっているのだけ
れど。

小石の日
ひとり言を言いながら歩いて来る人がいる。すれ違うとき「そういうことでは
ない」という言葉が聞こえた。前後に何を言っていのたかは分からない。
その一行で始まる詩を書きたいと思った。頭の中でその言葉を繰り返している
と、だんだんおまじないみたいになってきた。これを祈祷の言葉に変換出来る
かどうか。

ゴブラン織りの日
ヴァレリーは詩の特質として<宇宙的感覚>をあげている。詩的状態、或いは
詩的感動は世界のすべての関係を音楽化し、相互に共鳴し合うものにするのだ
と。不正確な引用かもしれないが。

なんでもない日
雪女がいるのなら、詩女がいてもいいじゃないか。詩女は人見知りでいつも物
陰に隠れているけど、性質は暗くない。むしろ明るくておっちょこちょいだ。
そして意外かもしれないが無口だ。言葉を口に出すまでに時間がかかるので、
苛々せずに待っていなければならない。

紙屑の日
毎日何か書いては紙を捨てている。つまり言葉を捨てているんだ。言葉は石油
や石炭と違って無尽蔵だから、いくら捨ててもかまわないと分かっているのだ
が、捨てた言葉がゾンビになるのではないかと心配。
文学者の墓はあっても、言葉の墓はない。言葉は死ねないのだ。

雲の日
ぼくはいつ詩に捨てられるのだろう。捨てられたら松の木の見え方が変わるだ
ろうか。女のひとの見え方が変わるだろうか、もしかすると海の見え方も、星
の見え方も。

 さまざまな形で詩が語られる。谷川のことばに合わせて、少しずつ思ったことを書いていく。
 「菱形の日」。落ちていた詩。振ると「乾いた音がした」の「乾いた」と「音」に谷川を感じる。「好み」が谷川らしいと思う。「リレーみたいに詩が」「続いて行くといい」は谷川の夢/願いだが、「意味」が強すぎる。
 「和の日」。最後の思い出がおもしろい。「わっ」と叫ぶ。そこには「音/声」がある。「意味」が消えて「音/声」だけがあるというのは、谷川らしい。

 「土の日」。開店前の店を「寂しい句読点」と呼ぶ。この「比喩」がおもしろい。「句読点」は「ことば」そのものではない。だから「散文」のように「具体的(論理的)意味」を持たない。ただし息継ぎ、意味を切断するという「文体」の「肉体的な意味」は持っている。「意味」にはなりにくいけれど、それがないとちょっと困る。それを谷川は「詩」と読んでいる。「意味」にならないけれど、「意味」をととのえる「空白」のようなもの。
 「開店する前の店」を、谷川の詩に何度も出てくることばをつかって「未生の店」と言い換えることができるかもしれない。「未生の店」は「未生のことば」でもある。「句読点」は「未生のことば」。ことば以前のことばなのか。あるいはことばをこえてる特権的な「ことばの肉体」なのか。「意味」ではなく、「肉体」の動き、存在感のような感触がある。それに「詩」を感じている。
 「意味を持つ」ことを「散文化する」と呼んでいる。「散文化」しないものが「詩」である。

 「小石の日」。「前後に何を言っていたのか分からない。」とは、脈絡がわからない/脈絡がないということ。つまり「意味」がない。「無意味」。そこから始まる詩を書きたいとは、「無意味」だけれど「具体的」なのものから詩を書きたいということだ。
 「ゴブラン織りの日」。「意味」がとても強い。そのなかにあって、「音楽化」「共鳴」という「音(音楽)」登場するところが谷川らしい。もっとも、これは「ヴァレリーらしい」というべきなのかもしれない。そうだとしても、ヴァレリーから音楽を引き継ぐところが谷川らしい。「論理性」を引き継いでもいいのだが、「論理」よりも「音楽」を優先し、「論理」については「不正確な引用かもしれない」とはぐらかしている。ヴァレリーについて語るなら「散文」を取り上げてもいいのだが、谷川は「詩」にしぼって言及している。

 「なんでもない日」。「詩女」ということばを先行させて、それから、詩について思いめぐらしている。「詩女」というのは、存在しない。存在しないもの(嘘/虚構)を想定し、そこへ向けてことばを動かしていく。
 これは谷川の詩では、かなり珍しい、と思う。
 最後に「ことばを口に出すまで時間がかかる」という表現が出てくるのがおもしろい。「ことば」になりにくい。それが詩なのだ。そういうことを言うために「詩女」というものを想定している。

 「紙屑の日」。「言葉を捨てる」。でも、捨てても捨てても「無尽蔵」に存在する。これは「ほんとう」のことなのか、私にはよくわからない。
 谷川の言いたいことは「言葉は死ねないのだ。」に集約されている。「死なない」ではなく「死ねない」。それが、ことばだ。「苦笑い」の冒頭のホロコーストを生き延びる詩とは、結局、「言葉が死ねない」ということ。アウシュビッツのあと詩を書くことは「野蛮」なのか、それとも詩をかかないことが「野蛮」なのか。人間の悲しみ、苦しみ、怒り、絶望を語らず、それを強いるものを許すことの方が「野蛮」かもしれない。

 「雲の日」はとても変わっている。詩に選ばれた谷川だけが書けることばだろう。詩を捨てたら(詩を書くことをやめたら)ではなく、詩に捨てられたら、と谷川は書く。詩の方が谷川よりも力があって、谷川を支配している。詩は、谷川の力を超えて存在し、谷川をととのえている。
 谷川は書くことで谷川自身(暮らし)をととのえている、と私は何度か書いたことがある。けれど谷川に言わせれば逆なのだ。詩が先にやってきて、谷川をととのえていく。谷川は詩にととのえられるままに生きている。
 この「実感」はすごい。




詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(12)

2015-05-11 09:53:00 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(12)(思潮社、2015年04月30日発行)




あなたへ

亡くなった祖父の懐中時計が十二時を指している。昼か夜か分からない。規則
正しいヤモリの鳴き声。朝刊にはまた俗耳に入りやすい美談が、一面に載って
いることだろう。と、ここまでは空想。事実としては雨が降っていて、私は机
の前に座っている。ここから詩を書き始められるかどうか、そう思った時には
もう詩がどこにあるのか、どこにもないのか分からなくなっている。以上をレ
シタティーヴのようなものと思ってもらえるかな。

行と行間にひそんでいる
耳に聞こえない音楽が
意味を巷の騒音から
あなたの心の静けさへと
ルバートしていきます

古今のさまざまな言葉で
誦されまた書かれた詩句は
なかば忘れられながら
前世からの記憶のように
あなたの心に木霊しています

日々の感嘆符と疑問符
それらの間隙を縫ってあなたは
感じるのではないでしょうか
自分が世界と一体であると
言葉の胎児の心音とともに

あなたは生きていける
俄雨とともに入道雲とともに
その他大勢の誰かただ一人とともに
死が詩とともに待ってくれている
その思いがけない日まで

 「あなたへ」の「あなた」とは誰だろう。書き出しの部分に「私」ということばがあるが、「私」を対象化して人間、つまり「私のなかのもうひとりの私」(私の別称)かもしれない。「あなたの心」ということばが二回出てくるが、「あなた」と「心」をひとつに結びつけて言ってしまっているところに、「私」と「あなた」の近さが感じられ。「私」と離れた人とは考えにくい。
 「私」は詩を書こうとしている。けれど、詩がどこにあのか、どこにもないのか分からなくなったとつづけて、それをそのまま詩にしている。「亡くなった祖父」ということばからはじまっているので、「詩はなくなった」(どこにもない)という意識の方が強く、そこから「ある」を探している印象がある。「あとがき」にあったことばを借りて補うと「詩作品(ことば)」を書こうとしたが、「詩情」がどこにあのか、ないのかわからなくなった。その結果、死も亡くなった感じがする。どこに「ある」のかわからない。けれど、そういう「分からない」というところから、詩はどこにあるのだろうと切実に考えながら「ことば」を動かしている作品、と言えるだろう。
 私がとてもおもしろいと思うのは、こういうことを書くのに、「レシタティーヴ(叙唱)」「ルバート(テンポを変えながら演奏する)」という音楽用語がつかわれていることである。谷川の音楽好きがあらわれている。そして、その「音楽」が突然出てくるのではなく、その前に「俗耳」というように「耳」があらわれて、肉体を「音」の方へ近づけていく。途中に出でくる「雨」も「雨音」から判断して雨と言っている。(「朝刊には……だろう」と推測しているので、詩のなかの「いま」が深夜だと想像できる。雨は見えないが、聞こえる。)こうしたことば運びのていねいさが谷川の詩の「わかりやすさ」の魅力になっている。またその「わかりやすさ」が何かを隠して、そのために「わかりにくく」していると思うときもある。
 二連目以降、四連目までは「詩はどこにあるのか」を思い出しながら書かれている。「ない」ようにみえるけれど、どこかに「ある」。それを探している。「ない」ところから始めるところが、この詩を深くしている。
 その二連目も「音楽」があらわれる。その音楽を中心とした「対」が、また魅力的だ。「耳に聞こえない」(ここるも「ない」がある)と「音楽」が矛盾していて、その矛盾ゆえになにか「理想の音楽」を想像させる。そして、その矛盾と理想(聞きたいという欲望を刺戟する)の部分に詩があるといえるだろう。「耳に聞こえない音楽」が「詩(詩情)」であり、それと「対」になっているのが「意味」と「騒音」である。「意味」は「詩(情)」を消してしまう「騒音」である。「待つ」という作品に「沈黙は騒がしい無意識に汚染されている」という行があったが、「騒がしい無意識」とは「意味」を求める「声」であり、それは「騒音」である。ここから「詩」とは「意味」とは反対のもの、「意味を持たないもの」という定義を引き出すことができる。そして、この「騒音」は次の行の「静けさ」とは「対」になっている。「耳に聞こえない音楽」が「心の静けさ」のなかでテンポを変えながら動いていく。その「音楽」の「無意味」。「意味にならない」なにか。そこに「詩」がある。
 それは「行間」にひそんでいる「ことば」である。ことばになっていない、ことばである。この「ひそんでいる」から「詩よ」の「まばらな木立の奥で野生の詩は/じっと身をひそめている」という行を、私は思い出す。「耳に聞こえない音楽」は「野生の詩」なのだ。
 三連目も詩のありかを語っている。ここでも「耳(音楽)」が詩を発見する手がかりとなっている。「誦された」言葉とは「声になった言葉」、それは「木霊している」。「音」がある。「書かれた詩句」と「文字」も出てくるが「木霊する」のは「音」である。三連目には「沈黙」も「静けさ」も書かれていないが、「木霊する」という表現が「沈黙/静けさ」をを呼び寄せている。「沈黙(静けさ)」がないと「木霊」もない。「音」と「沈黙」の対比のなかで、谷川は詩を感じている。「音」のなかに沈黙を聞き、「沈黙」のなかに「音」を聞いている。
 四連目にも「胎児の心音」と「音」が出てくる。谷川にとって「音(音楽)」は詩にとって欠かすことのできないものであることが、こういう細部からわかる。また「間隙」ということばは、この詩集の巻頭の「隙間」を思い起こさせるし、「言葉の胎児」という表現は「詩人がひとり」の最終連にでてきた「言葉の胞衣」や「子宮」を思い起こさせる。この詩には、いままで読んできた作品のなかに書かれていた「詩に就いて」のさまざまな部分が響きあっている。響きあいながら、詩は「ない」ように感じられるが、きっとどこかにあるのだと、言いなおしている。
 詩は意味のない沈黙(静けさ)のなかにある。意味は騒がしい無意識であり、騒音である。意味になる前の、未生の言葉。それこそが詩であり、それは人間と世界が「一体」であると感じたときに生まれる--そういうようなことを、谷川は感じているのだろう。
 そう感じながら、谷川は谷川のなかの「あなた」、「詩人」に向かって話しかけているのだ。「あなたは生きていける」と。それが最終連だ。「死」がやってくるまで、あなたは生きていける。死はいつやってくるか、わからない。「詩」と同じように「思いがけない」ときにやってくる。この「思いがけない」は「坦々麺」では「思いがけず」という表現になっていた。詩も死もおもいがけないからこそ、「真実」なのだ。突然やってきて、それまでの連続を断ち切ってしまう「無意味」だから「真実」なのだ。
 無意味の美しさ(真実)のなかで、自分(谷川/あなた)と世界が一体になる。生まれ変わる。そのときの、「言葉の胎児の心音」。それは誰の心音か。谷川の心音か。谷川のまわりに生き続けた言葉の心音か。世界の心音か。区別がつかない。わからない。この「ない」こそが、詩であると思う。




詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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長田弘『長田弘全詩集』

2015-05-10 21:27:28 | 詩集
長田弘『長田弘全詩集』(みすず書房、2015年04月30日発行)

 長田弘が亡くなった。『全詩集』は長田が自分自身で目を通した最後の詩集になるのだろう。「結び」に、

 詩集十八冊、詩篇四七一篇を一冊に収める『長田弘全詩集』を編んで気づいたことは、時代を異にし、それぞれまったくちがって見えるそれぞれの詩集が、見えない根茎でたがいにつながり、むすばれ、のびて、こうして一つの生き方の物語としての、全詩集という結実に至ったのだという感慨でした。

 と書いている。「一つの生き方としての物語」に長田の詩への思いがこめられている。長田は「生き方」をたしかめるために詩を書いた。詩を書くことで「生き方」をととのえたのだと思う。ととのえるために、ゆっくり、着実に、ことばを選び抜く。
 そういう「ことば」の歩き方、歩かせ方がとてもよくあらわれた詩が、「花を持って、会いにゆく」。長い作品だが、全行引用する。

春の日に、あなたに会いにゆく。
あなたは、なくなった人である。
どこにもいない人である。

どこにもいない人に会いにゆく。
きれいな水と、
きれいな花を、手に持って。

どこにもいない?
違うと、なくなった人は言う。
どこにもいないのではない。

どこにもゆかないのだ。
いつも、ここにいる。
歩くことは、しなくなった。

歩くことをやめて、
はじめて知ったことがある。
歩くことは、ここではないどこかへ、

遠いどこかへ、遠くへ、遠くへ、
どんどんゆくことだと、そう思っていた。
そうではないということに気づいたのは、

死んでからだった。もう、
どこへもゆかないし、
どんな遠くへゆくこともない。

そう知ったときに、
じぶんの、いま、いる、
ここが、じぶんのゆきついた、

いちばん遠い場所であることに気づいた。
この世からいちばん遠い場所が、
ほんとうは、この世に、

いちばん近い場所だということに。
生きるとは、年をとるということだ。
死んだら、年をとらないのだ。

十歳で死んだ
人生で最初の友人は、
いまでも十歳のままだ。

病いに苦しんで
なくなった母は、
死んで、また元気になった。

死ではなく、その人が
じぶんのなかにのこしていった
たしかな記憶を、私は信じる。

ことばって、何だと思う?
けっしてことばにできない思いが、
ここにあると指さすのが、ことばだ。

話すこともなかった人とだって、
語らうことができると知ったのも、
死んでからだった。

春の木々の
枝々が競いあって、
霞む空をつかもうとしている。

春の日に、あなたに会いにゆく。
きれいな水と、
きれいな花を、手に持って。

 読みながら、私は、こうやって長田に会いにゆくのだと思った。詩を読むことで、長田に会う。
 詩の終わりの方に「話すこともなかった人とだって、/語らうことができると知ったのも、/死んでからだった。」という三行があるが、会ったことのない詩人とも、こうやって語らうことができる。そういうことを長田の詩を読みながら思う。
 そして読みながら、「死ではなく、その人が/じぶんのなかにのこしていった/たしかな記憶を、私は信じる。」という長田のことばを言いなおしてみる。「長田が私のなかに残していったたしかな記憶を、私は信じる。」長田の書いたことばが私のなかに残る。そのことばを、私は信じる。

ことばって、何だと思う?
けっしてことばにできない思いが、
ここにあると指さすのが、ことばだ。

 この三行には、長田の「いのり」がこめられている。
 長田の書いたこと、それは長田の思いを完全にあらわしているわけではない。そういうことはできない。書いても書いても書き切れない何か、それが「ある」ということをことばは指し示す。暗示する。その指し示そうとするときの正直さ--それを私は信じている。
 ことばを書きながら「けっしてことばにできない思いが、ここにある」と書く。その苦しさ、その矛盾。そこに「正直」を、私は感じる。「正直」だけがたどりつく「矛盾」というものがある。
 「矛盾」だけが正しい--というのは、

この世からいちばん遠い場所が、
ほんとうは、この世に、

いちばん近い場所だ

 連をわたって書かれたこの三行。「破綻」を承知で書くこの三行の「遠い場所」と「近い場所」という「矛盾」の結びつきにあらわれている。
 この「矛盾」を、長田は「正直」と呼ばずに「ほんとう」と書いているのだが、そういう「矛盾」が「ほんとう」になるのは、私たちが「この世」に生きているからだ。「この世」というのは、「論理の整合性」だけでできているのではない。「この世」を生きる私たちの「思い」は「矛盾」している。だからこそ、その「矛盾」と正直に向き合い、自分をととのえていく必要がある。「矛盾」のなかで、自分がどの方向に歩くべきなのか、ことばにして確かめる(ことばを動かしてたしかめる)。自分にとっての「ほんとう」を探しつづける。

 かつて私は長田の『詩は友人を数える方法』(講談社)について、長田はことばを捨てるためにことばを書いている、と感想を書いたことがある。(『詩を読む 詩をつかむ』思潮社)いろいろな詩を読みながらアメリカを旅する。そうして、そこで読んだことばを捨てて、自分のなかに残るシンプルなものを最後に取り出す。そういうことをしていると思った。
 この「花を持って、会いにゆく」という詩を初期の作品と比較すると、そこに書かれていることばの「数」の少なさが印象的だ。たくさんのことばを読み、引用し、同時に、それを捨てる。捨てても残るシンプルなことばを少しずつ積み上げ、言いなおすことでととのえながら、この作品は書かれている。何度も同じことばが繰り返され、そのたびに、ことばが指し示すものがしぼられてくる。そういうととのえ方が、この作品そのものを成り立たせている。そして、それがそのまま長田の「生き方」に見えてくる。
 長田は書きながら、少しずつ「ほんとうの長田」になっていく。
 「ほんとう」ということば、長田にとってのキーワードなのだと思う。

この世からいちばん遠い場所が、
ほんとうは、この世に、

いちばん近い場所だ

 この三行の意味は、そこに「ほんとうは」ということばがなくてもかわらない。でも長田は「ほんとうは」と書かずにはいられなかった。「ほんとう」を書きたかったのだ。
 この詩には、あらゆるところに「ほんとうは」を補うことができる。「ほんとう」は長田の「肉体」にしっかりとしみついている「思想」なのだ。
 あらゆることが「ほんとうは」なのである。だけれど、一度だけ、そう書きたかった。書かずにいられなかった。
 一か所だけ、「ほんとうは」を補って読んでみる。そうすると長田が「ほんとうは」と書かずにいられない気持ちがわかる。

病いに苦しんで
なくなった母は、
「ほんとうは」死んで、また元気になった。

 死んだ人が元気になるというのはありえない。そういうことが起きれば「矛盾」である。けれど、それが起きる。それが、「この世」を生きている私たちのこころの、ほんとうである。
 死んでしまった人間はもう二度とは死なない。いつも元気だった姿でこころに甦る。記憶に甦る。その甦ってくる母が長田にとって「ほんとう」の母である。信じられる母である。そして、その元気を母を思い出すのが長田のこころの「ほんとう」である。
 長田がそうやって母に会うように、そしてまたなつかしい友に会うように、私は長田の詩集を読み返しながら、一度も会ったことのない長田に何度でも会う。何度でも「ほんとう」の声を聞く。長田は「うるさい」と叱るかもしれないが、こうやって「対話」を試みる。
 長田が最後に長田自身の手で『全詩集』を残してくれたことに感謝したい。合掌。

長田弘全詩集
長田 弘
みすず書房

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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谷川俊太郎『詩に就いて』(11)

2015-05-10 19:35:23 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(11)(思潮社、2015年04月30日発行)


苦笑い

詩はホロコーストを生き延びた
核戦争も生き延びるだろう
だが人間はどうか

真新しい廃墟で
生き残った猫がにゃあと鳴く
詩は苦笑い

活字もフォントも溶解して
人声も絶えた
世界は誰の思い出?

 一行目はアドルノの有名なことば「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」を思い起こさせる。でも、人間は苦しみや悲しみを語らずにはいられない。苦しみや悲しみを語ることが生きる方向性を示すこともある。だから詩は書かれつづけている。核戦争の後も生き延びるだろう。東京電力福島第一原発の事故の後も詩は書かれている。人間が生きているかぎり詩は書かれる。もしそれが「野蛮」なことだとしたら、「野蛮」なことも好きなのが人間というものなのだ。
 だがほんとうに核戦争が起きたなら、人間は生き延びることができるだろうか。
 二連目の「真新しい廃墟」とは何か。私は一連目の「核戦争」ということばから、核戦争後の廃墟を想像した。まだ誰も見ていない「真新しい」廃墟。そこには人間がいない。でも猫がいる。そして「にゃあ」と鳴いている。この「にゃあ」は「詩/ことば」なのか。詩に残された「ことば」は猫の「にゃあ」だけなのか。詩は苦笑いしている。
 この「苦笑いする詩」とはなんだろう。私たちの意識のなかにある「詩」というものか。概念としての詩か。詩という概念が人称化されて(比喩となって)、苦笑しているのか。
 三連目。各戦争後の「真新しい廃墟」には活字もない。フォントもない。それを使いこなす人間がいない。人間がいないのだから、人声がないのは、もちろんである。文字も声もない、ことばを伝達する手段がないから、当然、詩(作品)も存在しない。核戦争で人間はみんな死んでしまったのだから、そのとき「世界」というものは「誰の思い出」になるのか。思い出す人がいないのに世界が存在するとき、思い出はどうなるのか……。
 でも、これはほんとうかどうかわからない。核戦争後のことを誰も知らない。核戦争前に、そういうことを想像している。観念が思い描いた詩である。誰もいないのに世界が存在するとき「思い出」とは一体何なのか、というのは「問い」としては「詩的」だが、それは「観念」にとって詩的ということであって、そういう考えは、まあ、空想だなあ……。
 しかし三連目だけ、「詩」ということばがないのはどうしてだろう。

 こういう作品にはどう向き合えばいいのか。この作品から「詩について」何を語ることができるか。つまり、谷川とどんな対話ができるのか、私にはよくわからない。
 私が最初に思ったのは、一連一行目の「詩」と二連三行目の「詩」は同じものかどうかということである。またどうして三連目にだけ「詩」ということばがないのか、ということである。ひとは大事なことは何度でもことばを変えながら繰り返す。言いなおす。それがふつうなのに、ここではそういう繰り返しがない。三連目だけ、「詩」ということばが消えている。
 「詩」についてもう一度考えてみる。「詩」ということばを中心に読み直してみる。
 一連目の「詩」は現在私たちが読むことができる作品。現実に存在する詩。ことば、である。「野蛮」と言われながらも、生きている。書かれている。そういう詩。この「苦笑い」もその一篇である。
 でも二連目の「詩」は具体的な作品を指してはいない。「詩」というもの、「詩の概念」をあらわしている。「苦笑い」という詩が、猫が「にゃあ」と鳴くのを聞いて「苦笑い」するわけではない。「苦笑いする詩」という概念が想像されているだけだ。「苦笑いする」という「動詞」があるために(谷川は「詩は苦笑い」と体言で表現しているが、用言として私は読み直した)、「概念」が何か抽象でなくなっている。
 このことを少し考え直してみる。
 「詩は苦笑い」とは詩が苦笑い「する」こと。詩はことば。ことばは苦笑い「しない」。苦笑い「する」のは人間である。詩が「ひと」という比喩、苦笑い「する」という「動詞」を通ってきている。「詩は苦笑い」ということばを読むと、そこにどうしても「人間」を重ねて読んでしまう。「苦笑いする」という「動詞」と「人間」が動いて見える。「人間」の「動き」が見えると、それは「概念」ではなく「具体」に感じられる。
 「待つ」という作品では「詩」は「鬼っ子」「師父」という「人間」をあらわすことばで書かれていた。「詩人がひとり」では「胞衣」「子宮」ということばのなかに「胎児」となって隠れていた。「詩」はいつでも谷川にとっては「人間」である。そうであるなら、二連目の「詩」は「詩人」であり谷川であるとも言える。二連目の最終行は

詩人(谷川)は苦笑いする

 と書き直すことができると思う。
 「詩はひとである」という視点から、さらに作品を見つめなおす。
 一連目の「詩」は「人間(詩人)」と置き換えても成り立つ。「人間(詩人)はホロコーストを生き延びた」。だから詩を書くこともできる。(アドルノに言わせれば、アウシュビッツを生き延びるとき、人間の何かが奪われた、生き延びたのはアウシュビッツ以前の人間/詩人とは違う人間/詩人である、ということになるのかもしれないが……。)「詩」を「人間」と同一視するからこそ、三行目に「人間はどうか」という疑問が出てくる。「人間」と「詩」の区別をしないのが谷川なのである。
 二連目。「新しい廃墟」には人間はいない。猫がいるだけ。人間がいないということは、もう詩を共有するひとがいないということ。詩を共有するひとがいないのに、ひとり「詩人(谷川)」だけがいる。だから「苦笑い」している。詩を共有するひとがいないのに、詩人である必要はない。「え、私は必要ないの? なのにここにいるの?」と気づいたときの人間の苦笑いに似ているかなあ。「猫がにゃあと鳴いた」とことばにしても、それを受け止める「人間」がいない。「ことば」が「人間」と「人間」のあいだを動いていかない。
 三連目に「詩」(詩人)は登場しない。けれど「人声」ということばが出てくる。「人間」が「詩」と同一である、「人間」が「詩」が「人間」を代弁するのなら、「人声」、「人間の声」は「詩人の声」であるはずだ。「人声が絶えた」は「詩人が絶えた」「詩が絶えた」と言い換えることができる。
 そうであるなら、「世界は誰の思い出?」の「誰」を「詩人(谷川)」と読むことができるし、また「詩」と読むことができる。二連目で、谷川は「詩人」から「人」を省略して「詩」となっている。(人は自分にとって自明なことは「省略」してしまう。そうやって「ことばの経済学」を生きるというのが私の基本的な考え方である。省略されたことばこそ、キーワードであると私は考えている。)三連目は、そうした谷川の意識が引き継がれている。だから最終行は、

世界は詩の思い出?

 と読み直すことができる。私には、そういうふうに聞こえてくる。
 谷川はたくさんの詩を書いた。核戦争後、人間が滅んでしまうと、その詩の思い出として存在することになるのか。
 あまりにも虚無的で、あまりにも美しい。美しいと感じてはいけないのかもしれないけれど、このセンチメンタルなことばの運動は美しいと私は思ってしまう。
 そして多くのことばが相互に入れ代わることが可能なことを考えると、その行はまた、

詩は世界の思い出?

 と疑問の形で語りかけているようにも聞こえる。
 世界は人間のことばによって描かれ、思い出になる。いつでも思い出せるものになる。(私は、これを「肉体になる」というのだが、そう書いてしまうと谷川の「詩について」の考えとは違ってくるかもしれないので、保留。)そして「詩/ことば」は同時に世界の思い出にもなる。世界がことばを思い出し、世界自身をととのえる--そんなふうに世界が見えてくることがある。
 人間とことばと世界が、相互に「自分」になりながら動く。それが「詩」なのだと直感的に思う。
 「詩」がなくなるというのは「人間」がいなくなるとこ、「ことば」がなくなること。人間がいるかぎり、ことばがあり、ことばがあるかぎり世界がある。

 「あとがき」で谷川は「詩情」と「詩作品」をわけて書いていた。そして、そこには「詩人」ということばが書かれていなかった。そのことを考えてみたい。
 「詩情」とは「詩/情/こころ」である。「詩作品」「詩/ことば」である。「詩人」は「詩/人」である。「詩」ということばで「こころ/ことば/人」が引き寄せられながら、どこかで交錯する。「人(人間)」を中心に考えると、「人間」には「こころ」がある。何かを感じる力がある。そして「人間」は「ことば」をつかうことができる。「ことば」をつかって、まだことばになっていない「感じ」を生み出すことができる。まだ形になっていないものに、形を与えることができる。そうやって誕生するのが「詩(作品)」ということになる。
 「詩に就いて」、谷川はそういうことを繰り返し書いているのではないか。


詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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スジョイ・ゴーシュ監督「女神は二度微笑む」(★★★★)

2015-05-10 00:50:32 | 映画
スジョイ・ゴーシュ監督「女神は二度微笑む」(★★★★)

監督 スジョイ・ゴーシュ 出演 ビディヤ・バラン、パラムブラト・チャテルジー

 脚本が巧みにできている。妊婦が事件解決に取り組むというのはコーエン兄弟の「ファーゴ」のよう。妊婦はふつうの女性より動きにハンディがある。男に比べて、もちろんハンディがある。そこにどうしても目がいってしまう。意識が集中してしまう。これを巧みに利用している。
 疾走した夫が宿泊していたから、という理由で安ホテルに泊まる。事件を追うだけなら、別に泊まる必要はない。調べるだけ調べたらちゃんとしたホテルに泊まって体調をととのえながら調べればいいはずなのだが、そうしない。
 汚いホテルだからせっせと掃除をする。そういうことはホテルの従業員にまかせておけばいいのだが、「家でもそうしていたから」と気にしない。「ほこりに弱い」のだと言う。それならなおさら高級ホテルに移るべきなのだが……。
 で、これが最後に、実は「指紋を消していた」ということにつながる。女はただの妊婦ではない。ただ疾走した夫を探しに来たのではない。ある事件を捜査し、その犯人の殺害を目的に動いていたのだ。犯人を殺害した後、女が殺したということがわかる。その女は誰なのだ。指紋を採取しろ、ということになったら困るので、毎日せっせと指紋を拭き取っていたのだ。こういうことをするためには、高級ホテルでは駄目。まずホテルが汚れていない。さらにルームサービスがしっかりしていて、客が自分で掃除をするなどということはありえない。だから、部屋の掃除などしていたら、この女はおかしい。何か隠している、と観客に気づかれてしまう。
 安ホテルでも掃除をしていれば変だと思われるが、妊婦が自分の体調、さらに生まれてくる子供への影響を考えて掃除をしていると言われれば、どうしたって信じてしまう。そこにはまだいない「子供」の存在が、あらゆる想像力を「正しい」と思わせるのである。いやあ、すごいねえ。この観客を誘導する巧みさ。
 「不在」を利用する。不在の方が想像力を刺戟し、信じさせる力がある。「存在」しているものは、「存在感」が必要だが、「不在」のものにはせ「存在感」が必要ではない。一般的に「存在感」は「役者」が表現するものだが、「不在」の「存在感」は観客がかってに作り上げてしまう。
 で、この「不在/存在」の交錯は、映画全体のテーマともなっている。「夫」はほんとうにいるのか。「夫と顔の似た男」はほんとうにいるのか。もしかすると二人は「同一人物」なのではないのか。舞台となっているコルカタでは人は「二つの名前」をもっている。そうであるなら「夫」が二つの名前をもっていて、その一方だけを妊婦につたえていたということもありうる。(妊婦/妻はコルカタに暮らしているのではなく、イギリスから夫を探しにきた、という設定である。)
 で、最後の最後。その「不在/存在」のテーマは、あっと驚くことをやってのける。妊婦と思っていたら、妊婦ではなかった。「胎児」は、そのときはいなかった。女には妊娠の経験はあるが、コルカタで捜査をしているときは妊娠していなかった。変装していたのである。まわりの人間を騙す/信用させるためである。「妊婦」を前面にだすことで、女自身の任務を不在にさせていた。隠していた。
 あ、やられたね。
 唯一の「疵」を言えば、女が「夫」を探すふりをしているときの写真。夫の職場を訪ね、たった一枚の写真を職場の人事担当にみせる。その写真をそこに忘れていく。人事担当はその写真をあらためて見直して、「あの男だろうか」と思い出す。この「思い出し」そのものは変ではないのだが、女がたった一枚の写真を忘れていったのに、そのことを気にしていない。それが、あれっと思わせる。夫が映っている大事な写真。コルカタで夫の「存在」をひとにつたえるたった一枚の証拠。それを忘れていって、なぜ平気? 人事担当が忘れていった写真を取り上げ、ふと過去を思い出した瞬間、私は一瞬、あれっと思ったのだが、この人事担当はすぐに殺されてしまうので、その瞬間に疑問も忘れてしまった。

 「不在/存在」の交錯、という点で、この映画は「シックスセンス」のテーマを引き継いでいるかもしれない。インド人の「想像力」には「不在/存在」の関係が強く影響しているのかもしれない、とも思った。
                      (KBCシネマ1、2015年05月08日)


「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
アラジン 不思議なランプと魔人リングマスター [DVD]
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嵯峨信之を読む(63)

2015-05-09 11:08:08 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(63)

110 鎮魂歌

 詩はいつでも矛盾のなかにある。不可能のなかにある、ということもできるかもしれない。

あのひとはさつきから横たわつたまゝです
花々の匂いすら もうあのひとを起こすことができないのです

 死者は再び目覚めない。分かっていても「花々の匂いすら もうあのひとを起こすことができないのです」という不可能な行を美しいと思う。不可能なことばのなかに祈りがあるからだ。できない。できないから、祈る。もう一度目を覚ましてくれたなら、と。矛盾を超えたいという熱い思いがそこにある。矛盾を言ってしまう熱い思いが詩なのだろう。
 また「祈り」とは違う形の矛盾もある。(矛盾ということばは正しくないかもしれないが……。)

(たえず滅ぶものにとりかこまれてひとは生きている)
と 云つていたあのひとは
いまたれの周りで亡くなつているのでしよう

 ことばを「論理」的に追っていくと、追いきれないものがある。それをとりあえず「矛盾」と呼んでみるのだが。
 「あのひと」は生前、人間は「たえず滅ぶものにとりかこまれてひとは生きている」と言っていた。それは彼の「思想」である。そのことばを嵯峨はきちんと聞いていたつもりである。聞いていたからおぼえているのだが、そのときは「あのひと」が死ぬということは想定していなかった。生きているから、滅ぶもの(死んでいくもの)を認識し、それ死者に取り囲まれていると言うことができる。死んでしまったら、そういうことは言えない。言えないのだけれど、彼のことばが「真実」なら、彼はまた誰かを囲む死者のひとりとなって誰かを囲んでいるはずである。
 だれを囲んで?
 嵯峨を囲む死者のひとりになって、いま、そこにいる。
 それを実感しようとする。しかし、実感したくない。死んだとは思いたくない。--この気持ちが「矛盾」。彼の「論理」を彼が生きているときは「正しい」と思った。感動した。けれど、いま彼が死んでしまうと、その「論理」を信じたくない。そういう「矛盾」が生まれてくる。

あのひとは自分のこころに書きつけていたものを 全部もつていつてしまいました
まだそれがあのひとにとつて用でもあるように

 彼は自分のこころのなかに思っていることをすべて語って死んだのではない。そういうことのできるひとはいない。だれでも何かをいい残したまま(こころに書きつけることしかしなかったことを残したまま)、それを全部持っていってしまう。
 これは本当かな?
 違うと思う。たとえば、嵯峨は、「たえず滅ぶものにとりかこまれてひとは生きている」と彼が言ったことをおぼえている。そのことばは、彼が死んだあとも生きている。嵯峨のこころに残っている。
 「全部」を持っていくわけではない。
 それなのに、そういうものが残っているからこそ「全部もつていつてしまいました」という思いが生まれる。ほかに、もっともっと、こころに書きつけられていたことばがあったはずだ、という思いが「全部」という表現になっている。
 「全部」という表現は「論理的」には間違っている。しかし「心情的」には正しい。こういう「矛盾」なのかに、詩が生きて、動いている。

嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(10)

2015-05-09 10:51:50 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(10)(思潮社、2015年04月30日発行)


詩人がひとり

詩人がひとり高みから大地に身を抛って
この世を中座した
その報を聞いてもうひとりの詩人は
言葉に縋るしかなかった

烏が鳴き続けている曇天の午後
言葉は滞っている
どんな言葉も彼の死と無関係でないが
どんな言葉も彼の死に関われない

そして詩は
言葉の胞衣に包まれて
生と死を分かつ川の子宮に
ひっそりと浮かんでいる

 わかるところ(わかったつもりになるところ)と、わからないところがある。
 一連目は「詩人」が投身自殺をした。それを聞いて「もうひとりの詩人(谷川)」が驚き、自分を落ち着かせる、あるいは死んだ詩人を追悼するために詩を書こうとした、という具合に読むことができる。
 二連目は、詩を書こうとしたのだが、なかなかことばが動かない。「彼の死に関われない」というのは、彼(彼女かもしれないが)を思って動くことばは、生きている彼につながることばだけである。思い出せるのは生きている彼であって、彼の死そのものを思うわけではない、ということだろうか。知らせが急であり、驚いたので、ことばが動いてくれないのかもしれない。そのため「烏が……」という死を連想させることばがまず動いているのかもしれない。
 三連目は、彼の死というよりも、詩そのものについて書いているような、とても奇妙な、わかりにくい四行である。私はに投身自殺した詩人というのがだれのことかわからないが、一、二連目まではまだその詩人が詩のなかに姿をみせていた。しかしここでは完全に姿を消してしまっている。死んだ詩人を思い浮かべるためのことばがない。死んだ詩人を思い浮かべることができない。
 これはいったい何を書いている四行なのだろうと、不思議な気持ちになる。何のために書いたのだろう。

 どんなふうに読み直そうか。

 各連に共通して出てくることばに「言葉」がある。しかし、その「言葉」は同じものとは思えない。
 一連目の「言葉」は「詩」と言い換えることができるかもしれない。「言葉に縋る」は「詩に縋る」「詩に頼る」ということのように思える。詩を書くことで、彼を追悼する。それ以外に谷川にできることはなかった。そして、このとき「追悼する」とは「中座した」詩人のいのちのつづきを詩のなかにつなげることである。詩のなかで生きている詩人ともう一度出会うということになると思う。詩に縋って、詩の力で、死んだ彼を甦らせるということだろう。
 二連目は、谷川の気持ちと、実際に書かれる「言葉(詩)」とのあり方を書いている。詩を書く(言葉に縋る)が、その言葉は滞って動いていかない。つまり詩になってくれない。この詩になってくれない言葉を「滞っている」と表現し、さらに「彼の死に関われない」と言いなおしている。「関わる」ためにはことばは対象の方へ近づいていく、先へ進まないといけないが、進まない。滞っている。だから関われない。
 ただし、その「関われない言葉」と「彼の死とは無関係ではない」、つまり「関係がある」とも書かれている。彼を思い出しながらことばは動くのだから、そこには「思い出す」という意識の深い部分での関係がある。全くの「無関係ではない」が、「関われない」。この「対」になった「矛盾」が複雑だ。
 「言葉」をもう一度読み直す。
 「言葉は滞っている」の「言葉」は、一連目の「言葉に縋るしかなかった」というときの「言葉」と同じものである。「詩」と言い換えることができる。「もうひとりの詩人/谷川」の「言葉」である。
 ところが、そのあとの「どんな言葉も彼の死と無関係でないが/どんな言葉も彼の死に関われない」の「言葉」は「谷川の言葉」であると同時に「谷川の言葉」ではない。「誰の」ということのできない「言葉一般」を含んでいる。自殺した詩人の書いてきた「言葉」もそこには当然含まれる。「言葉一般」はひとの暮らしのまわりに存在する。だから、それはすべてひとの生と関係がある。生と関係がある以上、死とも関係がある。「無関係ではありえない」。けれど、どの「言葉」を選べば、どの言葉を「谷川の言葉」にして、「追悼」すればいいのか。その選択ができない。選択に悩んでしまう。どの言葉も「谷川の言葉」になってくれない。「滞っている」とは、「言葉」が「谷川の言葉」にならないという意味だ。
 「詩」は書かれない。書くことができない。このとき、「詩」はどこにあるのか。それについて書いたのが三連目になるだろう。「言葉に縋るしかなかった」と一連目で書かれていた「言葉」は、三連目で「詩」という表現になって登場している。
 この三連目に書かれていることばのすべてを追っていくと、どうにもわからなくなるので、わかる部分を中心に三連目を読んでみる。「詩(谷川が縋ろうとした言葉)は」「言葉の胞衣に包まれて」「子宮に」「浮かんでいる」。「胞衣」は胎児をつつむ膜、胎盤。それは「子宮」と「対」になっている。呼応している。このとき「胎児」は「詩になる前の詩」のこと、「詩として生まれる前の詩」のことかもしれない。谷川の「肉体」のなかで動いている「詩」ということになる。「詩」は胎児のまま、「子宮」に「滞っている」のだ。
 「詩」というのは「言葉」だから、「未生の言葉」が「言葉」につつまれて、「子宮」のなかで動いている(滞っている)ということかもしれない。詩は、まだ生まれていない。けれど胎児のようにすでにいのちをもって動いている。そう書いているのだろう。
 詩は、簡単に書けるものではない。詩は、簡単に誕生するのものではない。詩は、詩になろうとして、いつでも動いているが、誕生までには時間がかかる。そういう意味だろうか。
 そうだと仮定して、私は、「生と死を分かつ川」につまずく。「生と死を分かつ川」というのは「三途の川」を思い起こさせる。死ぬために渡らなければならない川。そこに「詩の胎児」が生きている。しかも、「胞衣」とか「子宮」とか、「肉体」を強く感じさせることばといっしょに生きている。肉体を感じさせるということはいのちを感じさせることと同じだが、それが「死」を強く連想させる「三途の川」というのが、私には何とも理解できない。不可解である。では、どこの「川」ならいいのかと問われたら、どんな答えも持っていないのだけれど……。
 なぜ、ここに「死」を連想させることばが出てくるのか。「詩人が死んだ」ということが影響しているのか。そうかもしれない。死んだ詩人がわたっていく川、そこに「詩」がことばになる前のことば、詩になる前の形で生きている。そう感じるのだが、それを具体的な詩にできずに、抽象的な形で書いている、ということなのか。

 わからないことだらけなのだけれど、谷川が「詩」を「言葉の胞衣に包まれて」とか「子宮」という比喩で、胎児を連想させていることには注目すべきだと思う。「未生のことば」が「詩」そのものである。生まれてきたことばよりも、未生の段階の方が「詩」なのである。三連目は「詩は」ということばで、それ以後の三行が詩の定義であることを語っている。この連だけ「言葉」とは別に「詩」という表現もつかわれている。

 この詩は、とても抽象性の強い作品だが、三連目の「生と死を分かつ川(三途の川)」と同様、少し不思議なことばがある。二連目の「烏が鳴き続けている曇天の午後」という具象。具象なのだけれど、「烏」は死を連想させる。「鶯」だったら、この作品は奇妙な感じになる。ことばを動かすとき、谷川は、かなり頻繁に、こういう「定型」をつかう。「烏」が死を引き継ぎ、それにつづく「曇天」が次の行の「滞っている」をスムーズに引き寄せる。「晴天」だったら「滞っている」がやってこない。そういうことばを利用しながら、谷川は「抽象」的思考へと読者をスムーズに移行させている。抽象的なことばの前には、具象と意識/感覚を結びつける「定型」の踏み切り台があり、それを通過することでスムーズに抽象的思考へ移行できる。谷川の詩の具象と抽象の関係が象徴的にあらわれている。



詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(9)

2015-05-08 19:52:02 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(9)(思潮社、2015年04月30日発行)



待つ

詩が言葉に紛れてしまった
言葉の群衆をかき分けて詩を探す
明示の点滅が目に痛い
含意がむんむん臭う
母語の調べに耳が惑う
詩はどこへ向かおうとしたのだろう
疲れて沈黙に戻ろうとするが
沈黙は騒がしい無意識に汚染されている

待っているしかないと観念して
固い椅子に背筋を伸ばして座っていると
山鳩が鳴いて日影が伸びてゆく
詩よ おまえは言葉の鬼っ子なのか
それとも言葉の無口な師父なのか

 詩を書こうとしている。書き始めた。でも、行き詰まった。そういうときのことを書いているのだろう。
 一行目「詩が言葉に紛れてしまった」は「詩の言葉」が「ふつうの言葉(詩ではない言葉)」に紛れてしまった。区別がつかなくなった、ということだろう。「紛れる」は、「見えなくなった」「消えた」「失われた」とも言い換えることができる。
 「詩の言葉」が「ふつうの言葉」に紛れてしまうのは、「詩の言葉」よりも「ふつうの言葉」の方が数が多いからだ。で、この「数が多い」という感じが二行目の「群衆」という比喩になる。多数の、ふつうの言葉のなかから、数少ない「詩の言葉」を探す。
 「詩の言葉」も「ふつうの言葉」も「ひと」ではないが、谷川はここでは「ひと」のように扱っている。それが最後に「鬼っ子」「師父」という「ひと」のあり方となってもう一度あらわれている。
 この「言葉はひとである」という比喩はこころに留めておいていいと思う。この「意識」があるからこそ、

山鳩が鳴いて日影が伸びてゆく

 という「ひと」ではない自然の描写がとても新鮮に見える。新しい世界が、何かを突き破ってあらわれてる感じになる。「ひと」と無関係の自然(山鳩)、宇宙の動き(日影の変化)の登場によって「ひと」が、それまでと違った存在に見えてくる。「鬼っ子(親に似ていない子)」「師父(父親のように尊敬できる師」という「ひとの性質/本質」が問われることになる。

 詩が消えたとき、どうするか。ただ待つしかない。谷川は、そう書いている。そういう「意味」ではなくて、この作品のなかにある「動き」、あることばと別のことばがどういう関係にあるかを見ていく。
 詩を探すとき、谷川は「目が痛い」「(鼻が)臭う(臭いを嗅ぐ)」「耳が惑う」と肉体(五感)をつかっている。この「動詞」は二連目の「背筋を伸ばして座っている」と「対」になっている。前者の肉体は動く。けれど後者は動かない。そういう対比がある。そして、その「動かない」を強調するために「固い椅子」という動かないものが結びつけられている。この「固い椅子」ということばがあるために、「目で探す」「鼻で探す」「耳で探す」という「動詞」と、その「動詞」に結びついている「肉体」が「やわらかく」感じられる。「やわらかい」ということばは書かれていないが「固い」ということばが「対」の形で「やわらかい」を呼び出していることが分かる。ことばの順序から言うと逆で、書かれていない「やわらかい」が「固い」を呼び出しているのだが。
 こういう「対」のなかには「意味」だけではなく、ほかのものもある。「対」が呼び出す存在の音楽というようなものがある。ことばの音楽というと、どうしても「韻」(ごろあわせ)のようなものを考えてしまうけれど、ことばが含む感覚の響きあい(調べの共通性)がある。目、鼻、見は動くが背筋は動かない。背筋を「伸ばす」という「動詞」は「動き」であるはずだが、「伸ばす」ことによって「動かない」という形になる。そういう不思議な響きあいがおもしろい。

 「対」が呼び出す存在の音楽と言えるかどうかわからないが、「調べ」と「沈黙」の向き合い方にも、そういうものを感じる。
 目、鼻、耳と動いてきた肉体(感覚)。その最後の耳は「調べ」を聞く。その耳と「聞く」という動詞の結びつきが「詩はどこへ向かおうとしたのだろう」という一行を挟んで「沈黙」ということばを呼び出す。この「沈黙」がとても自然なことばに感じられるのは、その前に「調べ」を聞く「耳」があるからだ。
 この「意味」から考えると(感じると)、「沈黙」の反対のことば(対のことば)は「調べ」であるはずなのだが、谷川は「調べ」へ戻るのではなく「沈黙」を「騒がしい」ということばと「対」にさせ、さらにそれを「無意識」と結びつけていく。この急激な変化は二連目の「山鳩が鳴いて……」の変化のように、とても刺激的だ。そうか……と思わず立ち止まって考えてしまう。
 「沈黙」が「調べ」「耳」と連続し、その「沈黙」がその肉体の連続を断ち切って、「騒がしい」「無意識」という肉体以外のものへ移行する。その接続/切断の感じが、急で、有無を言わせない。批評を拒絶している。そこにある「絶対」としての何か。それに詩を感じる。

 最後の「鬼っ子」「師父」については、「群衆」について書いたとき触れたが、詩を「ひと」としてあつかっているのが、谷川の「本質」をあらわしていると思う。谷川にとっては「言葉」は「ひと」であり、「詩」は「ひと」である。
 「師父」につけられている「無口な」という修飾語は「沈黙」と「対」になっている。詩は語らない。だから、聞きに行かなければならない。ことばになる前のところまで。
 一連目の「詩はどこへ向かおうとしたのだろう」という問いの答えは、この「無口」にあるかもしれない。ただし、その「無口」は「鬼っ子」のように「騒がしい無意識」の別称かもしれない。「師父」と「鬼っ子」、「無口」と「騒がしい」はかけ離れた存在なのか、それともぴったりとくっついた表裏なのか。
 どっちがあらわれてもいいと「観念して」向き合うのが詩かもしれない。

詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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江代充『現代詩文庫212  江代充詩集』(1)

2015-05-08 09:30:15 | 詩集
江代充『現代詩文庫212  江代充詩集』(1)(思潮社、2015年04月30日発行)

 江代充の詩は、感想を書くのがむずかしい。書かれていることが、「直接的」であるというより、「間接的」である。「間接的」に感じられる。そして、それが「間接的」であるにもかかわらず、「存在感」がある。「抵抗感」がある。「間接的」なら、直接かかわってくるわけではないから半分無視してもいいのに、無視することを拒む力がある。
 この「文体」の力はどこから来ているのか。
 私は今回はじめて『公孫樹』の詩篇を読んだ。そして、そこに江代の「文体」の原点を見たように感じた。
 「2」の部分。

夏に朽ちる木がある
おんなのひとと遊んでいると
庭を隔てた壁に蛇がしずかに這うことがある
壁のむこうの神社にはひともとの公孫樹があって
そのまわりに人だかりのすることがある
夏に朽ちる木がある
祖母の死をおもって啼くことがある
おんなのしとと遊んでいると
庭を隔てた壁に蛇がしずかに這うことがある

 「おんなのひとと遊んでいると」という行と「おんなのしとと遊んでいると」という行の、微妙なずらしに目を奪われてしまう。「ひと」「しと」の交錯に「江戸っ子訛り」を感じ、そういうことを書きたくなるが……。
 そのことに目をつむると違うものに気がつく。
 「動詞」のつかい方がとてもかわっている。
 「おんなのひとと遊んでいると」「おんなのしとと遊んでいると」の二行には「遊んで+いる」という動詞があるが、その他の行は「ある」という動詞で統一されている。ほんとうはこの二行も「ある」でしめくくりたかったのだろうと思う。しかし、このときの江代には、そのことができなかった、ということだろう。
 「ある」という動詞は、動詞といいながら「動かない」。江代は、世界を「動かない」状態で把握している。世界を「名詞」の組み合わせで把握している。動詞を排除して把握している。そのために、読んでいて何かが迫ってくるという感じがない。直接的に自分にかかわってくるという感じがしない。世界が「視覚化」されて、固定されている。その「固定化」が強固すぎて、うーん、どうすれば打ち解けることができるかなあ、と困った感じになってしまう。
 世界を「名詞」で把握している、ということを別の言い方で表現すると、世界を「名詞化」することで把握するということだ。「動詞」をそのまま書いてしまうのではなく「動詞」を「名詞化」する。
 たとえば、「庭を隔てた壁に蛇がしずかに這う」ならば、這う「ことがある」と、「こと」をつけくわえることで「名詞化」する。この方法は他の行でも「することがある」「啼くことがある」という具合に繰り返されている。
 江代は「名詞(こと)+ある」という「状態」として世界を表現する。「庭を隔てた壁に蛇がしずかに這う」は、ある意味では(ほんとうは?)「庭を隔てた壁に蛇がしずかに這う」+「のを(私は)見た」かもしれない。「私」が見ないかぎり、その世界は存在していたとしても、存在の意味を持たない。だが、江代はそうは絶対に書かない。だから、この「名詞化+ある」という文体は、「私」を消しながら、世界だけを存在させる文体(表現方法)だと言えるかもしれない。「私」を消しながら、しかし、「私が見た」ということを読者に意識させるという入り組んだ構造が、なにかしら「抵抗感」となって読者に響いてくる。あ、読者と書いたけれど、私だけに限定されることかもしれない。
 このことから逆のことも言える。一行目には「こと」がない。「こと」を補うと「夏に木が朽ちることがある」というのがいちばん簡便な文かもしれないが、そう書かないのは、江代はそう考えていないからだ。「夏に朽ちる木になることがある」。たぶん、そう考えているのだ。「木が、木になる」、「木」をそんなふうに「動詞」として考えている。(これは、説明ができない。私は直感的に、そう感じている。)「名詞」には「名詞」+「に+なる」という「動詞」が含まれている。短縮して言うと、「名詞」は究極の「動詞」である。そしてそのことから考えるならば、ここに書かれていない「私」も「私になる」という形で隠れて存在している。

おんなのしとと遊んでいると



おんなのしとと遊んでいる「私になると」と

 と読み直すと江代の世界にのみこまれてしまう。「私になると」の「私」が「江代」ではなく「読んでいる私(読者)」の体験のようになまなましくなる。

 「動詞」のつかい方も変わっているが、「名詞」のつかい方も、とても変わっているのだ。「動詞」は「名詞」、「名詞」は「動詞」という、変わった「文体」が、江代のことばを「間接的」に感じさせるのだ。

 ところで、どうして「おんなのひとと遊んでいると」「おんなのしとと遊んでいると」の二行だけ、「こと+ある」と書けなかったのだろう。書かなかったのだろう。「おんなのひとと遊ぶことがある そのとき」という具合に書けるはずなのに書かなかった。
 なぜだろう。
 一つは、このときはまだ江代の「文体」は確立途上であったということがあるかもしれない。私はこの時代の江代の作品を知らなかったので、この作品を読むことができなのは江代を理解する上でとてもよかった。
 もう一つは、先に書いたことと関係するが、「おんなのひとと遊んでいると」には「私が」という主語が省略されていることが影響しているかもしれない。「私」というのは「ひと」。「ひと」については「ある」という「動詞」のかわりに「いる」をつかう。その日本語の習慣に影響されていると言える。このとき、まだ江代は「江代語」ではなく「日本語」で詩を書いている。そんなことも感じさせる。この「いる」がやがて「なる」に変わる。「日本語」が「江代語」に変わる。


江代充詩集 (現代詩文庫)
江代充
思潮社

*

谷川俊太郎の『こころ』を読む
クリエーター情報なし
思潮社

「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
作品社

「リッツオス詩選集」も4400円(税抜、送料無料)で販売します。
2冊セットの場合は6000円(税抜、送料無料)になります。
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嵯峨信之を読む(62)

2015-05-07 16:36:21 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(62)

109 永遠の目盛り

 生と死を見つめつづける嵯峨。「永遠の目盛り」にも嵯峨の思想が書かれている。

たれも自分の生命の終りについて知つていない
その計量できない全時間のなかで
ひとは遅すぎもせず早すぎもしない仕事をつづけている
村びとが熟れた麦の刈入れをいそぐのを眺めながら
あるものは大きな樹陰の道を歩いて行く

 最初の三行は、抽象的な表現である。ひとはたしかに自分の一生の終わりを知らない。知らないまま、日々の仕事をつづける。「遅すぎもせず早すぎもしない」という表現に、嵯峨がそのすべてを対等なものと見つめている視線を感じる。それぞれがそれぞれの時間に合わせて仕事をしている。
 そのあと、ことばが転調する。抽象的な表現から具体的な描写にかわる。変わるのだけれど、それは「調子」が変わっただけで、基本的なメロディーラインは同じである。
 「いそぐ」と「いそがない」が対比されている。「いそがない」という表現はつかわれていないが、一方に「日差し」(このことばも書かれているわけではないが)のなかで刈り入れをする村人がいて、そのひとたちは「いそいでいる」。他方に「樹陰」を「のんびりと」(このことばも書かれていないが)歩く「村びとではないひと」(旅人だろう)が描かれる。その対比が「遅すぎもせず早すぎもしない」と呼応する。「旅人」もまた「仕事」なのである。
 どういう「仕事」かというと、働いているひとに「旅人」の生き方もあると知らせる「仕事」である。
 そう書いたあとで、詩は再び「転調」する。

一つの生命は豊かな稔りを収穫し他の生命は何処ともなく道を急いでいる

 最初の「生命」は「村びと」。それは麦の「稔りを収穫し」ている。あとの「生命」は「旅人」。彼は「何処ともなく」、つまり「目的」が明確ではないまま「道を急いでいる」。
 私は先に旅人の歩みを「のんびりと」とことばを補って読んだが(村びとの労働と対比して、そう読んだが)、嵯峨はその「のんびり」を「急いでいる」と書き直している。涼しい「緑陰」を「のんびり」歩いているが、それは日差しのなかで刈り入れを「いそいで」いる村びとから見ればそう見えるというだけのことであって、旅人には旅人のせっぱつまった思いがある。歩かなければならない思いがある。旅人から見れば、村びとの姿は、みんなで楽しくいっしょに刈り入れをしているという姿に見えるかもしれない。自分は目的も分からないまま、分からないがゆえに、分からないものに向かって急いでいる、苦しんでいるということになるかもしれない。
 この一行を境にして、詩は、再び「抽象」のことばを動いていく。

すべての日常の殻の中にそつと這入りこむ
そしてまた何かの種子となつて四方に飛び散つて
つつましく匂やかに大地を富ましている
たれもがそれぞれの生命をふかめ熟れさせる
すべてが永遠なるものの目盛りとなつて刻まれるのだ

 「一粒の麦死なずば……」ということばを連想させる。だが嵯峨は「麦」のことだけを書いているわけではない。最終行の「すべて」は、詩のなかのことばで言いなおせば「村びと」と「旅人」である。互いに立場が違う。違うものであっても、それぞれが他者に対して何らかの「印象」を残す。立場の違う人を見ながら、ひとは何かを感じる。その「感じ」が「人生の目盛り」なのだ。その「目盛り」が増えるほど、人生(大地)の「時間」は「富み」、その生命の「稔り」は「ふかまり」「熟れる」。人生の「時間」の内部が豊かになる。すべての存在は人生の時間の内部を豊かにするために存在する。
 詩も、詩のことばも、と嵯峨は祈りをこめて書いている。


嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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