詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

 谷川俊太郎『詩に就いて』(8)

2015-05-07 10:22:04 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(8)(思潮社、2015年04月30日発行)

私、谷川

十代の私は何も考えずに書いていた
雲が好きだったから雲が好きだと書いた
音楽に心を動かされたらそれを言葉に翻訳した
詩であるかどうかは気にしなかった
ある言葉のつながりが詩であるのかないのか
そんなことは人が勝手に決めればいい
六十年余り詩を書き続けてきて今の私はそう思う

この一説は私のただの述懐に過ぎないのかそれとも
散文に変装して詩に近づこうとする言葉の策略なのか
虚構を排して可能な限り自分を正確に述べようとして
この文体は間違っていたと気づく
詩に近づこうとしてはいけない 詩に跳びこまねば!
こうして私、谷川はますます詩から遠ざかる
於台北詩歌節 二〇一四年一〇月二七日

 この作品は、谷川の自画像と詩の定義を書いたものである。
 この作品にも「対」の構造を読み取ることができる。一連目は「詩」、二連目は「散文」がキーワードになっている。
 そのことはあとで書くことにして(書くつもりだが、書いているうちに気が変わるかもしれない)、私は一行目をとてもおもしろいと思った。

十代の私は何も考えずに書いていた

 ここには「主語(私)」と「述語(書く)」はあるが、「目的語」がない。「目的語」がないけれど、それは「詩」であることが推測できる。(四行目に「詩」はやっと登場する。)なぜ「詩」であると推測できるかというと、谷川が詩人であること(詩を書く人であること)を私が知っているからである。
 でも、なぜ谷川は「詩を」ということばを省略したのか。
 これは私の考えでは、「詩」というものが谷川の「肉体」にしっかりと結びついてしまっているからである。谷川は「省略した」という気持ちがないままに書いている。「省略した」ことについて気がついていない。こんなふうに「肉体」にしみついてしまったことばを私は「キーワード」と呼ぶのだが、「省略した」ことに気づいていないということは、また「何も考えずに」書いているということでもある。「坦々麺」には「思いがけずに」という表現があったが、「思いがけずに/無意識に」書いてしまったものが「詩」であるなら、この一行こそが「詩」というものである。省略されたことばが、省略されたまま説得力をもつとき、説明が不要なとき、それは詩である。というのは、私の「定義」であって、谷川はそう「定義」するかどうかはまた別の問題。
 谷川自身は、この、省略された「詩」というものを、言いなおしている。ひとは大事なことは何度でも言いなおすものである。「肉体」にしみ込んでいて、自分自身にはわかっているけれど、わかっていながら言いなおさずにはいられないことがある。大切なこと、というのがそれに当たる。「詩」は谷川の「肉体」にしみ込んでいる。そして、それはとても大切なものである。だから、言いなおす。
 好きなものを好きと「書く」ことが詩を書くこと。そして「書く」ということは、「心を動かされたとき(好きになったとき)」、「心を動かしたもの(好きなもの)」を「書く」ということ。「言葉に翻訳」するということ。「好き」というもの「心が動く」ことだが、「心が動いている」とき、それはまだ「言葉」になっていない。それを「言葉」にする。
 その「言葉にする」行為を「翻訳(する)」と谷川は言いなおしている。これはどういうことか。「心が動いたとき、そこにはまだ言葉はない」と私は書いたが、実は「言葉」はある。谷川の意識はそれを感じている。「未生の言葉」が「感動」の瞬間、心のなかにある。その「未生の言葉」を、「流通している言葉」に「翻訳する」。「書く」とは、「流通している言葉」をつかって書くということなのだから。
 最初の三行に「詩」ということばは出て来ないが、これは詩を定義した三行である。詩で書かれた定義である。「詩で」とことわったのは、繰り返しになるが、「詩」ということばが省略されている、つまり「詩」というものがその三行にしっかり絡み付いていて、詩とは意識されないものになっているからである。谷川は、この三行を詩で詩を定義しているとは思っていないだろう。
 こういう「無意識」を言いなおすと、「詩であるかどうかは気にしなかった」ということにもなる。大事なことは、こんなふうにして繰り返されるのである。
 で、そのあと谷川の考える「詩の定義」が書かれる。「詩であるのかないのか/そんなことは人が勝手に決めればいい」。つまり、ひとりひとりが勝手に決めればいいことであって、谷川自身は「詩を定義しない」と言っている。ここにも、最初の三行が詩の定義になっていることに対する「無自覚」が見てとれる。
 「定義」というのは谷川の「無意識」では「散文」で書かれるものなのだろう。だからこそ、二連目は「散文」に徹して詩を定義し直そうとする。一連目のことばを「散文に変装して」と批判して、「詩に近づこう」としたものだと続ける。「詩に近づく」とは「詩の定義に近づく(詩の定義を試みる)」ということだろう。
 そう考えるときの「散文」とはどういうものか。「散文」を定義すると、どうなるか。「虚構を排して可能な限り自分を正確に述べようとして」に、「定義」を読み取ることができる。散文は「虚構を排して」事実を「正確に」書くもの。「自分を」のかわりに「事実を」を補うと「散文」の定義になる。ここで谷川が「自分を」と書いているのは、ここに書かれているものが「自画像」だから「自分」ということばが動くのである。その「自分」ということばを「事実」に置き換えると、一般的な「散文の定義」そのものになる。
 そうして「散文」に徹しようとして(「散文」的に詩を定義しようとして)、

この文体は間違っていたとと気づく

 という「結論」に達する。これは、一連目で書いていることは「詩を定義したことにならない」という意味であり、また一連目は詩になっていない、という意味でもある。私は冒頭の三行を無意識に書かれた詩と定義して読んだが、谷川はそれを含めて詩ではない(詩として間違っている)と言っていることになる。間違っていることにどこかで気づいていたから「詩」ということばを省略していたのだ。
 こんなふうに、最初に書いたことを途中で変更してしまうのは私の癖だが、こういう書き方を「いい加減」過ぎて「論」になっていないという声がどこからか聞こえてきそうだ。だが、書いているうちに何かに気づくというのは私に言わせればふつうのことであり、最初から最後まで「考え」が変わらないとしたら、それは考えていないからだと思う。考えれば、考えはどんどん変わる。私の大好きなソクラテス(プラトン)は、対話篇の中で考え(知っていると思っていること)が変わるということだけを書いているし、谷川自身もこの作品の中で、「間違っていたと気づく」と書いて、そのあと詩を定義しなおしている。「書く(ことばを動かす)」ということは「考え」が変わることなのだ。「考え(ものの見方)」を変えるためにことばは書かれるのだ。

詩に近づこうとしてはいけない 詩に跳びこまねば!
こうして私、谷川はますます詩から遠ざかる

 この二行は「間違っていた」ことを言いなおしたもの、つまり詩を定義しなおしたものである。「詩に近づく」とは「詩を定義する」こと。「詩とは何であるか」をことばで説明しようとすること。それでは詩はつかめない。逆に詩から遠ざかることになる。詩にとって必要なことは「詩に跳びこむ」こと。詩にどっぷりつかって、それが詩であるか、詩でないか、考えないこと。「何も考えないこと」。そこにあることばをただ繰り返すこと。繰り返して自分の「肉体」のなかにいれてしまうこと。「考え」を省略する、というより、「考え」を捨ててしまう。「自分のこころ」を捨てて、「無心」になって、そこに書かれていることばそのものになる。
 ここで最初の一行にもどってしまう。
 「何も考えずに書いていた」。それが詩。そこに「詩を」ということばは省略されていたが、詩と考えなかったからこそ、それは詩だった。省略されたものだけが「本当」なのである。本当にその人に身に付いている、「肉体」になってしまっていることなのである。「何も考えずに詩を書いていた」では「嘘」になってしまうのだ。
 「詩は定義できない」というのが「詩の定義」になる。詩はただ「味わう」だけのものである。--ということは、私は、こんな文章など書いてはいけない、ということにもなるのだが……。


詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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嵯峨信之を読む(61)

2015-05-06 19:45:34 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(61)

108 鈴木俊光の死

 「生と死」の「死がさけられぬ」と知った友とは、鈴木俊光のことだろうか。私は嵯峨のことも鈴木俊光のことも知らないのだが、友と鈴木が同一人物の人間であると思って読んだ。
 その前半、

なにも考えてはいけない
また悲しんではならない
君はどこか遠くへ旅立たねばならなぬ
君を容れていた器はもう用をせぬようになつている
今日まで君を安んじさせていた器をじつと瞶めながら撫でてみる
それはすでに案じる以上にいけなくなつている
その中に満ちていたものがいまではじかに君に触れる

 「君を容れていた器」とは「肉体」の「比喩」である。この「比喩」が成り立つとき「君」とは何だろうか。「君の精神/君の感情」そういうものが考えられる。「肉体」は「器」であり、「精神」が本質である、というようなことが考えられる。
 だが、そう読んでくると、

その中に満ちていたものがいまではじかに君に触れる

 これは、どうなるのだろうか。
 「その中」とは「器の中」であり、「満ちていたもの」とは「精神/感情/君の本質」ということになる。それが「いまではじかに君に触れる」。君の精神が「君に触れる」とはどういうことだろう。
 直前に「器をじつと瞶めながら撫でてみる」とあるが、私はこれを「ぼく(嵯峨)は 君の器である肉体をじつと瞶めながら撫でてみる」と読んだ。「撫でてみる」は「触る」である。そうして、触っていると、

その中に満ちていたものがいまではじかに「ぼく」に触れる

 というのなら、わかる。
 「肉体」はもう触っても何の意味もない。そこには「君」はもういない。「肉体」はすでに用をなさない「物体」になってしまっている。しかし、まだ「精神」は生きている。「肉体」が死んでしまったあと、君の肉体に触ると、その奥から「君の精神」があらわれてきて、それに直に触っている感じがする。
 私は文脈から、無意識にそんなふうに読んでいたのだが、実際は違う。嵯峨は「君に触れる」と書いている。
 これは、どういうことだろう。書きまちがいだろうか。書きまちがいなら、なぜ書きまちがえたのか。書きまちがえでないなら、どう読めばいいのだろうか。

 冒頭にもどってみる。

なにも考えてはいけない
また悲しんではならない

 この二行には「主語」が省略されている。「主語」は何だろうか。「君」か「ぼく」か。三行目には「君はどこか遠くへ旅立たねばならなぬ」とある。「君は」の「は」は対比をあらわしているのだろう。そうだとすると、前の二行は「ぼくは」が省略されているということになるかもしれない。「ぼくはなにも考えてはいけないし、悲しんではならない」。なぜなら「君は遠くへ旅立つ」。悲しめば、君の旅立ちを邪魔することになる……というような「意味合い」がそこには含まれていると思う。
 なぜ、こんなことを書いたかというと……。
 ひとはときどき「わかりきったこと」を省略してしまう。無意識のうちに、私たちはことばを省略しながら、意識をすばやく動かしている。すばやく動かすために、ことばを省略しているとも言える。そのとき省略されるのは、発話者にとって、それが自明のことである。冒頭のに二行で「ぼく」という主語が省略されたのは、「ぼく」が自明のことだからだ。友の死に直面している「ぼく」。「ぼく」が友の死に直面していることはわかりきっている。だから省略した。省略することで、そこで起きていることの中へすばやく入っていくのである。大事なことであればあるほど、ひとはことばを省略して、すぐに動いてしまう。ことばを動かしている時間がもったいない。
 問題の行でも、「主語=ぼく」が省略されているのである。
 もしそうであるなら、
 
その中に満ちていたものがいまではじかに君に触れる

 には「ぼく」はどんなことばといっしょに、どこに省略されていることになるだろうか。
 私は次のように補って読む。

その中に満ちていたもの(君の精神/君の本質)が、いまでは君の本質を隠していた「器」を突き破って表面に出てきている。そこに君の本質があらわになっている。その君の本質に(=君に)、ぼくはじかに触れる。ぼくは、じかに君(の本質)に触れる。

その中に満ちていたもの(君の精神/君の本質)が(露出しているので)、いまでは(ぼくは)じかに君(の本質である精神/感情)に触れる

 「ぼく」にとって「君=鈴木俊光」の「本質」は「肉体」ではなく「精神」である。それは自明のことである。だから「精神」ということばが省略された。「君」と「精神」は同じことばなのだ。その精神に触れるとは、君に触れることである。君に触れるのは「ぼく」である。自明のことだから、ことばが省略され、そのため一行だけを取り出すと「文法的」にはおかしなことばになっているのである。
 嵯峨は君の死を悼んでいる。それは君の精神の死を悼んでいるということである。しかし、肉体は滅んでも精神はことばとなって残る。だからこそ、嵯峨は最後に、次のように書く。

ああ ぼくには見える
自画像を高く掲げようとよろめいている君を背後からそつと支えている一つの大きな手を……

 「自画像」とは「精神/本質」のことである。「大きな手」は、いわゆる「神の手」のようなものを想定することもできるが、私は、これを嵯峨自身の手と読みたい。君は死んだ。しかし君が掲げた精神の運動(ことば)/君自身を支える一つの手になりたいと嵯峨は決意を語っていると読みたい。
 ここでも「ぼく」という「主語」は省略され、見えにくくなっている。そういう「決意」を語ることは差し控えたいので「一つの大きな手」と、「神」を連想させることばで「ぼく」を隠していると言えるかもしれない。
 そのとき「君」と「ぼく」は精神的には「一つ(一体)」になっている。その「一体感」からひるがえって問題の行を読むとどうなるだろう。

その中に満ちていたもの(君の精神/君の本質)が(ぼくに触れ)、(その反映として)いまでは(ぼくは)じかに君(の本質である精神/感情)に触れる

 「人」という文字が互いに支えあって成り立っているように、「一体」になった嵯峨と鈴木は、君(鈴木)がぼく(嵯峨)に触れ、ぼくが君に触れるという具合に、「触れる」という「動詞」なのかで出会っているのかもしれない。「触れる」という「動詞」のなかで「君とぼく/ぼくと君」は省略された形で「一体」になっているのだろう。

嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(7)

2015-05-06 12:41:33 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(7)(思潮社、2015年04月30日発行)



坦々麺

何もかもつまらんという言葉が
坦々麺を食べてる口から出てきた
俺は本当にそう思ってるのかと
心の中で自問自答してみるが
詩人の常ではかばかしい答えはない
言葉は宙に浮いている でなきゃ
地下で縺れている
俺はそれを虚心に採集する
何もかもつまらんもそういう類いか
本心も本音も言葉の監獄につながれて

いち足すいちはにいいと言わせて
みんなの口角に微笑の形をつくらせる
笑みが本心であろうとなかろうと
無邪気な言葉に釣られて筋肉が動く
ひとり仏頂面でspontanceousの訳語を
頭の中でいじくり回してる奴が俺だ
そんな昔の記念写真が脳裡に浮かんで
思いがけず口から飛び出した言葉が
真偽を問わず詩を始めてしまう
坦々麺を食べながら詩人は赤面する

 「あとがき」によれば、この詩集は「詩を対象にして詩を書く」という作品群である。「詩に就いて」考える、思考の詩集。「論」の詩集。
 「論」といっても「散文」とは違う。「散文」は「事実」をひとつずつ積み上げて結論へ向かって動いていく。詩はそういうことをしない。
 何をするか。どうするか。
 谷川が多用するのは「対句」である。ことばを「対」の形で動かす。ことばというのは「現実」のすべてを表現できない。「現実」の一部しか表現できない。その「一部」で「いいたいこと」をあらわしてしまうのはむずかしい。「一部」を拡大する、あるいは「一部」をさらに精密に細分化する。その拡大化や細分化の運動(方向性)の中に、言いたいことが抱えている方向性(運動)を重ねる。「対」のなかにどんな運動、どんな方向性が見出せるか。「結論」ではなく、「結論」ヘ向かう「動き」読む必要がある。
 この詩にも「心の中で自問自答してみる」「頭の中でいじくり回してる」という「対句」が存在するが、ただし「対」の振幅が少ない。というよりも、「対」をつかわずに、「散文」形式で、この詩は書かれている。
 少し余分なことを書きすぎたかもしれない。こんなことを書かずに、「坦々麺」という詩について書きはじめればいいのだろうが、余分なことを書かずにいられないのは、実はこの詩についての感想が書きにくいからである。私の中にある余分なことば(これまでの作品を読んできた印象)を捨てないと、向き合えない。だから、「対」について少し書いたのである。
 「対」の運動はこの詩にもある。けれど、それとははっきり違う運動がある。「対」を構成するものを「ぶつけ合う」ことで、そこから生まれてくる何かを読者にまかせるというよりも、谷川は、この詩では自分の考えを「論理的」に語っている。「散文的」に語っている。「事実」を積み上げながら、「真実(結論)」を掴み取ろうとしている。
 書き出しの二行「何もかもつまらんという言葉が/坦々麺を食べてる口から出てきた」は「事実」である。虚構、創作かもしれないが、そうであったとしても「論」を進めるための出発点として書かれた二行である。そこには「思考」が入っていない。「思考」が排除されている、という意味で「事実」である。
 この「事実」に対して、「俺は本当にそう思ってるのかと/心の中で自問自答してみる」というのが「思考」であり「論理」である。(ここから「事実」と「思考」という「対」を読み取ることもできるが、今回は「対」はすこしわきに置いておいておく。)
 そして、その「論」というのは「本当にそう思ってるのか」ということばが端的に語っていることだが「本当(真実)」を目指して動く。「本当(真実)」をめざす動きというのは、ソクラテス(プラトン)の時代から「疑う」という運動から始まる。「信じる」まえに「疑う」。ここでは「何もかもつまらん」という「言葉」が、「俺」の「本当に思っている」かどうかを疑う。自分で言ったことばを、自分で疑う。「自問自答」。この自問自答を「心の中で」とことわっているのは、「何もかもつまらん」ということが「心」の発した声だと思うから、「心の中で」疑うのである。もし、2+3=7が「正しい」かどうか疑うとしたら、それは「心」で疑うのではなく、きっと「頭」で疑うだろう。「何もかもつまらん」は「客観的事実」ではなく「心の事実(主観的事実)」だから、心の中で自問する。
 しかし、「主観的事実(心の事実)」に「本当」はあるのか。「本当」があるとして、それは誰のためにあるのか。自分のためにあるのなら、そんなものは「論理的」に説明したり、証明したりしなくてもいいだろう。「論理的」ということは「客観的」とほぼ同じ意味である。「主観的事実」を「客観的」に語るというのは、なにか、とんでもないまちがいというか、「道」を踏み外している感じがする。
 そういうことがあるにしろ、ともかく谷川は、ここでは「論理的」にことばを動かしながら、そのことばがどこへ動いて行けるのかを探っている。考えている。そして「自問自答」してみると、

詩人の常ではかばかしい答えはない

 と、「詩人」が登場する。「俺」ということばが「詩人」ということばに変わっている。「俺(谷川)」が「詩人」であることを私は知っているが、ここで「俺」が「詩人」に変わらなければならない「理由」はあいまいである。
 そのことを考えたい。
 「俺」と「詩人」が「対」をつくっている。先に「対」はわきに置いておいて……と書いたのだが、どうしても「対」が気になるので、やはり「対」について考えながらことばを追うことにする。
 「俺」と「詩人」。「俺」から「詩人」への変化。何が「俺」を「詩人」に変えたのか。「自問自答」が「俺」を「詩人」に変えた。さらにいうなら「何もかもつまらん」が「心の声」かどうかという「自問自答」が「俺」を「詩人」に変えた。「心」にとって「本当とはなにか」と問うことが「俺」を「詩人」に変えた。「心」のことを考えるのが「詩人」なのだ。
 逆は可能だろうか。「詩人」が「書いた言葉」が本当かどうか、詩人自身が「自問自答」するとき、「詩人」は「俺(谷川)」に変わるか。たぶん、変わらない。「詩人」が「書いた言葉」が本当かどうか、詩人自身が「自問自答」するとき、「詩人」は「別の詩人」になる。「次元の違った詩人」になる。流行のことばをつかっていうと「メタ詩人」になる。そして、そこから始まる詩は「メタ詩」になる。そういう意味では、この詩は「メタ詩」なのだが……。
 脱線した。
 「詩人」を「言葉が心の本当をあらわしているかどうか自問自答するのが詩人」と定義しながら(無意識的に定義しながら)、その直後に、また「俺」が出てくる。「メタ詩人」ではなく、「俺」にもどっている。「詩人」が「俺」に変わっている。この「俺」は「メタ詩人」であるかもしれないが、谷川は「俺」ということばをつかっている。何が「詩人」を「俺」に変えたのか。
 「俺はそれを虚心に採集する」。「採集する」という動詞が「詩人」を「俺」に変えた。「採集する」は「疑う」ではない。それがひとつのポイント。「虚心に」というのは、二連目に出てくる「無邪気に」と「対」になっているが、それは「疑うことをせずに」という意味であり、「虚心に」は「採集する」という「動詞」を強調していることになる。
 もうひとつのポイント。「それ」とは何か。何を「採集する」のか。「宙に浮いている・言葉」「地下で縺れている・言葉」(ここに「宙(空)」と「地下」という「対」がある)の「言葉」を「採集する」のが「俺」である。「詩人」は「言葉を採集」しない。「言葉」を「採集する/採集している(現在進行形)」ときは「俺」なのだ。「詩人」は「言葉」が「本当/本心」であるかどうかを問題にし、「疑う」が、「俺」は「言葉」が「本当/本物/本心」であるかどうかを問わずに「虚心に」(心を無にして?)、ただ「採集する」。
 そうであるなら、そのあとの二行「何もかもつまらんもそういう類いか/本心も本音も言葉の監獄につながれて」は誰のことば? 「俺」のことばか。そうではない。「俺」はあくまで「言葉を採集する人間」である。「そういう類いか」と「疑っている」。「疑う」は「詩人」の特権である。疑った結果、ここではいったん「本心も本音も言葉の監獄につながれて」という「結論」が出されている。この「結論」の「意味」は、私にはわからない。わからないけれど、そこに「本心/本当の心」ということばがあることがおもしろいと思う。「本当の心」のことを思っているから、これは「詩人」の「声」なのだと、私は感じる。「何もかもつまらん」が「宙の言葉」なのか「地下の言葉」なのか明記されていないが、「採集」されて「監獄につながれて」いると評価している。「評価」は「疑い」のあとの「判断」にあたる。だから「詩人」の仕事になる。
 「言葉の監獄につながれて」は「詩よ」のなかの「檻の中で詩が共食いをしている」を思い出させる。「詩/本当の心」は「流通する言葉の監獄のなかで、流通する言葉を共食いしている。その結果、詩は存在しない/何もかもつまらない」と言っているのだろうか。わからないまま、私は、そんなことを考えた。

 一連目と二連目は、「心の中」と「頭の中」ということばを中心にして「対」になっていると読むことができる。
 一連目のことばは「言葉」と「心/本心/本音(心で本当に思っていること、その声)」の関係が「自問自答」されていた。二連目では「心」と「表情(顔の言葉)=肉体(筋肉、ということばが出てくる)」の関係が問われている。「自問自答」しているのは「心」ではなく「頭」である。
 「にいい」とことばを発すると、「本心」とは無関係に、口(肉体)の形は「笑み」の形になる。その「形」を人間は「笑み」と判断してしまう。このときの「肉体(筋肉)の動き」とそれがつくり出す「表情(表現/肉体の言葉)」の関係を、「頭」は「spontanceous」という英語(?)で理解している。そして、それを何とか「日本語」にしようとしている。「無意識的、自然な、自発的……」。どうも「無関係」とは、うまくつながらない。「意識とは無関係に」くらいの意味なら落ち着くだろうか。
 辞書を引きながら、そんなことを考えたが、谷川は「spontanceous」を、その三行あとで「思いがけず」と訳している。「にいい」というと「思いがけず」、顔は「笑み」の表情になる。「思いがけず」とは「思いを裏切って」でもある。「裏切って」ということは「本当の思いとは違って」ということである。そういうことを「昔の記念写真」を見ながら「頭」は思い出している。
 そして、その「思いがけず」には「思いがけず」という「本当」があることを発見し、谷川は驚いている。「思いがけず」何かをしてしまうとき、そのしてしまったことは「心」をあらわしてはいないが、「思いがけず」という運動そのものの中には、人間の意思(こころ? 頭?)では支配できない何かが動いている。それは「心の真偽」とは違った何かである。
 そして、詩は、そこから突然始まってしまう。詩は、そういうものだ。意図して始めるのではなく、「思いがけず」ことばが飛び出してはじまる。
 「何もかもつまらんという言葉が/坦々麺を食べてる口から出てきた」ということばから、この詩がはじまっているように。
 「思い掛けずに」ということばが「発見されている」。それは「生み出されている」と言ってもいいかもしれない。
 この作品に書かれていることばが、すべて「思いがけずに」という一語のなにか吸収されていくように感じる。
 --と書いて、私は急に書くことがなくなった。
 まだ何か書こうとしていたのだが、忘れてしまった。「結論」というのは、こんなふうに突然どこからともなく、--それこそ「思いがけずに」やってくる。




詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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嵯峨信之を読む(60)

2015-05-05 12:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(60)

107 生と死

 生きている嵯峨と、死んでしまった友。死んだ友を思いながら、生きていることについて考えている。その冒頭の四行。

ずつと川かみの急流だつた
波もなく 音もしない まるで油を流したような目もくらむ急流を
夕方
ただひとりで泳ぎわたつた

 川の上流の急流。急流なら波があり、音もあると思うが、嵯峨は「波もなく 音もしない」と書いている。そして「まるで油を流したような」とその滑らかさを描写している。これは、思い描くことはできるが、私の知っている急流のどれとも結びつかない。そのために、私は、異様な感じをおぼえる。知っていることを突き破って、知らない何かが動いているのを見るような、まるで夢を見ているような感じになる。
 その急流を渡り切った「生(生きる力)」について書いているのだが、あまりに異様な急流なので、それはもしかしたら「死の急流」だったのかもしれないと感じてしまう。死の危険があった、というよりも、その急流には死そのものが流れている。そういう感じがする。
 そういう体験をした嵯峨が友の死と向き合っている。

死がさけられぬと知つてから友はふしぎな落ちつきをました
あるとき蟻地獄の話をしながら
「いまぼくは 透明な大きな円錐型の底にひきこまれようとしている一匹の蟻の
 ようなものだ」
といつて
しずかな笑いを顔にうかべたことがある

 嵯峨は急なもの(激しいもの)を乗り越えた。友は「急(激しい)」とは対極にある「静かさ」と向き合っている。「生」を「死」に向けて、静かに動いている。
 嵯峨と友の違いが、そこにある。
 嵯峨は死と向き合って生き抜いた。友は生と向き合って、その生をまっとうしようとしている。
 友が死んでしまったあとの次の三行がとても印象に残る。

屋上の水槽に水を汲みあげる電動機(モーター)の音が急に高くなつた
その震動で炎えあがるような葉鶏頭がふるえ
窓硝子から長椅子にかすかな微動が伝わつてくる

 急流や蟻地獄が「比喩」なのに対して、ここには「現実」そのものが書かれている。そして、それが「現実」であるだけに、友の死もまた現実だと知らされる。



嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(6)

2015-05-05 08:53:52 | 谷川俊太郎「詩に就いて」

詩よ

言葉の餌を奪い合った揚げ句に
檻の中で詩が共食いしている
まばらな木立の奥で野生の詩は
じっと身をひそめている

華やかな流行の言葉で身を飾って
人々が笑いさざめきながら通り過ぎる
中には詩集を携えている女もいる
物語を見失ってしまったらしい

活字に閉じ込められた詩よ
おまえはただいるだけでいいのだ
何の役にも立たずにそこにいるだけでいい
いつか誰かが見つけてくれるまで

 「対」の構造から読んでみる。
 一連目は前半の二行と後半の二行が「対」になっている。「詩」と「野生の詩」が対になっている。「詩」の方は「流通している詩」と言い換えると「野生の詩」との対比が明確になるかもしれない。
 「(流通している)詩」は「言葉の餌」を奪い合っている。共食いをしている。同じことばを奪い合い、それを食べているということだろうか。「流通している」ものとは「同じもの」ということでもある。「同じ」を出ることができない。「野生」に対して「檻の中」で飼われている詩ということになるかもしれない。「檻の中」と「野生(木立の奥)」が、やはり「対」になっている。
 「野生の詩」は「流通していない」。「木立の奥で」「身をひそめている」。ひとに知られていない。

 三連で構成されているが、二連目は、私には一連目の前半の二行と「対」になっているように思える。言いなおしているように思える。三連目は、一連目の後半の二行と「対」になっているように思える。
 言葉の餌を奪い合い、共食いしている詩を「流通している詩」と私は言い換えてみたが、その「流通している」は二連目では「流行」という表現になっている。「流行の言葉で身を飾って」は「流行の言葉を奪い合って」とも、「流行の言葉の檻に閉じ込められて」とも読みええることができるだろう。「流行」とは「同じもの」を奪い合い、共食いすることでもあるだろう。
 二連目の後半の二行は、一連目の後半の二行と向き合っているようにも見えるが、そこに書かれている「詩集」は「野生の詩」とは違うと思う。この「詩集」は「流行の言葉」のひとつの「形式」である。「流行の物語」ではなく「流行の詩集」を「着飾るもの」として携えているということだろう。「詩集」と「物語」が「対」になっているのだが、「対」になっているということ以上のことは、はっきりとはわからない。(私には読み取れない。)

 三連目は二連目の「詩集」について語っているようにも見える。また「閉じ込められた」という表現から「檻の中」を連想してしまうので、「共食いしている詩」のようにも見えるが、後半の三行は「野生の詩」の定義と重なる。「木立の奥で」「身をひそめる」ようにして、「ただいるだけでいい」。「身をひそめている」かぎりは「何の役にも立たない」。けれど、誰かが自分の役に立つと思ってくれる。見つけてくれる。そうやって見つけられた詩は「流行」はしないかもしれないが、つまり多くのひとに共有される(奪い合われる/共食いされる)ということにはならないが、しっかりとひとりの人間の役には立つ。
 詩は、ひととことばの「一対一」の関係を生きればそれでいいのだ、と言っているように思える。

 この詩には二連目の「詩集」と「物語」のように、ことばとしては向き合っているらしいのに、どう向き合っているのか(「対」になっているか)わかりにくいものがある。意味がひとつにしぼられていないということかもしれない。
 一行の中にも、意味が複数にとれることばもある。
 書き出しの「言葉の餌を奪い合った」という表現も意味が取りにくい。「言葉という餌を奪い合っている」のか、「言葉が食べる餌(言葉のための餌)を奪い合っている」のか。前者なら「主語」がどこかにある。後者なら「言葉」が「主語」である。二行目に「詩」という表現がある。この「詩」を「主語」にして、詩が「言葉という餌を奪い合っている」と読むと、意味が通りやすい。ただし、そうすると「詩が共食いしている」の「共食い」が論理的ではなくなる。「共食い」とは「詩」が「詩」を食うときを指す。「詩」は「言葉という餌」を奪い合っているのであって、詩を奪い合って食べているわけではない。だから、ここでは「詩」をもう一度「言葉」と置き換えて「言葉が言葉を食べている/言葉が言葉を餌として奪い合っている」と読んだ見た方が意味が通じる。
 「言葉」はあるときは「詩」と書かれ、「詩」もあるときは「言葉」と書かれている。その視点で二連目のことばを入れ換えるとどうなるだろうか。

華やかな流行の詩で身を飾って
人々が笑いさざめきながら通り過ぎる
中には言葉を携えている女もいる
物語を見失ってしまったらしい

 三行目の「言葉」は「詩にならなかった言葉」ということになる。「詩という物語(流行装置)」にならなかった「言葉」。もし、そう読むことができるなら、それは「野生の詩(野生の言葉)」とも読むことができる。
 そう読むと一連目の前半の二行と二連目の前半の二行が「対」になり、一連目の後半の二行と二連目の後半の二行が「対」になる。
 読み方によって、詩はどんどん変わっていってしまう。

 これは変なことだろうか。私の読み方が間違っているのだろうか。
 私は私の読み方が「正しい」と言い張るつもりはないが、こんなふうにして読む度に違ってしまうのが詩なのではないかと思っている。「論理的」になろうとしても「論理的」にはなりきれない。何か、「論理」からはみ出したものにぶつかり、そこでつまずいて、「書かれていること」よりも、「自分の考えていること」の方へことばがふらついてしまう。「自分の考えていること」が書かれていることば(詩)に誘い出されて、知らなかった方向へ動いていく。
 こういう瞬間の、わけのわからない迷路をさまよっているような時の方が、私には「結論」に到達できたときよりも、詩に近づいているような気がする。詩といっしょにいるような気がする。
 詩は散文と違って、何かが「わかる」ためのことばではなく、逆に何かが「わからなくなる」ためのことばのようにも思える。
 「結論」に到達できない私の自己弁護かもしれないが。
詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社
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ミシェル・アザナビシウス監督「あの日の声を探して」(★★★+★)

2015-05-04 19:47:17 | 映画
監督 ミシェル・アザナビシウス

出演 ベレニス・ベジョ、アネット・ベニング、マキシム・エメリヤノフ、アブドゥル・カリム・ママツイエフ

 ストーリーの根幹はチェチェン難民の少年をベレニス・ベジョが助けるというものだが、その難民を生み出した原因のロシア兵の描き方がとてもいい。いいというと変だが、キューブリックの「フルメタル・ジャケット」のロシア版のよう。マリフアナを吸っているのを見つかり、「刑務所に行くか、志願兵になるか」と青年が迫られる。「志願兵」を選ぶのだが、そこで体験するのは非人間的なことばかり。そのなかでだんだん人間性を失ってゆき、人を人と思わなくなる。人を殺すことに対して何も感じなくなる。死者からビデオカメラを奪い取ると戦場を写しはじめる。チェチェンの無抵抗の農民を射殺するシーンを平気で撮影するようになる。この映画のラストシーンが、映画の冒頭へとつながってゆくのだが、その繰り返し(循環)が映画で起きていることを整理し直す。「無関心」がチェチェンの悲劇を生んだと告発する。
 しかし、まあ、こういうストーリーはどうでもいいなあ。
 スクリーンから迫ってくるのは、チェチェンを侵略したロシアの主張する「正義」を、実際に戦場で戦っている兵士が感じていないという「矛盾」。テロからロシアを守るために戦っているとは思っていない。兵役はいやだ、死ぬのはいやだ、軍隊はきらいだ、と思っている。それが、だんだん理不尽な暴力の受けているうちに変化して、ただ暴力をふるいたい、という気持ちに変わってゆくのが何ともいえずリアリティーがある。
 そういう理不尽な暴力(正義を装った暴力)がチェチェンの難民を生み出す。難民のチェチェンのひとはなぜ自分が難民になるかわからない。そのわからなさを、登場するひとりひとりが、具体的に体現する。ロシア兵が軍隊といいながらひとりひとりが孤立している(少なくともマリフアナ青年は孤立している)のに対し、チェチェン難民は互いに助け合っていると対比されるとき、ロシアの暴力がいっそう鮮明になる。
 さらに国際機関の対応が描かれる。国連もEUも職員を派遣し、それぞれに努力しているが、その「現場」を離れると事情がかわってくる。ベレニス・ベジョはやっとつかんだ「報告発表」にいさんで出発するが、その会場ではだれも真剣に聞いていない。遅れて会場にあらわれ、知人と握手、雑談をするのが壇上から見える。「無関心」がチェチェンの悲劇を拡大しているのだ。
 この冷淡が描かれるからこそ、両親を射殺され、幼い弟を見知らぬ家の玄関に置き去りにした少年の苦悩が鮮烈になる。さらに、少年の苦悩のすべてを知らないまま一対一の関係をはぐくんでゆくベレニス・ベジョとの触れ合いがあたたく響いてくる。少年が、言いたくなかったこと、弟を置き去りにしてきたことを告げるシーンは胸が痛くなる。
 そして、最後に姉と再会するシーンも、そのきっかけが人間と人間の触れ合いがキーワードになっている。姉はいったん難民収容所を離れようとする。けれど駅で子供の姿をみかけ、自分の仕事は子供たちに寄り添うことだと決意し、収容所に戻る。そこで主人公の少年と再会できる。
 他人の苦悩がわからないとき、ひとはまず寄り添うことが必要なのだ。寄り添い、私はあなたの味方である、ということだけが人を「暴力」から救うのだろう。

 評価の★1個は、ロシア兵の描き方に対して。これがないと、どこかで見たようなヒューマンストーリーになってしまうだろう。
(2015年05月03日、KBCシネマ2)



アーティスト [レンタル落ち]
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嵯峨信之を読む(59)

2015-05-04 14:41:03 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(59)

106 ひとの世ということ

 「ひとの世ということ」という章の最初の作品。

それがひとの世というものです
いくつもいくつも夢を重ねながら
それが雲のように消えてしまうことが

 この書き出しの「いくつもの夢」とは何だろうか。嵯峨は次のように言い換えている。
どこか遠くへ翔びたつ鳥の羽音をきいた夕もあれば
山奥のひそやかな湖に木の実の落ちるかすかな音をきいた朝もありましょう

 「夕」と「朝」は一回だけではない。何回も繰り返される。これが「いくつもいくつも」ということ。そして、たとえば「どこか遠くへ翔びたつ鳥の羽音をきいた」「山奥のひそやかな湖に木の実の落ちるかすかな音をきいた」が「夢」。現実にもそういうことがあるかもしれないが、それは「日常生活」そのものとは直接かかわってこない。なにかしら「美しい」印象を与えるできごと。それが「夢」。「夢」だから、それは入れ換えも可能である。

山奥のひそやかな湖に木の実の落ちるかすかな音をきいた夕もあれば
どこか遠くへ翔びたつ鳥の羽音をきいた朝もありましょう

 入れ替え可能だから、なおさら「夢」のように思えてくる。あれは「現実」だったのか、それとも何かを知らせるための「夢」だったのか。
 そして、「夢」はつぎのようにも言い換えられる。


なにかしら果もなくひろがつているものの端を
誰か見知らぬひとがそつと持つているように感じながら……

 これを読んだ瞬間に、さっき読んだ二行が違ったものに見えてくる。
 繰り返される朝、繰り返される夕。繰り返されながら朝、夕とひとつのことばで表現される時間。それは「時計の時間」では毎日繰り返されるだけれど、「宇宙」の時間では繰り返しではなく、広がりつづけるということかもしれない。同じ「朝」はない。毎日違った「朝」になる。その「違い」が、一日が一週間に、一週間が一月にというような「計算できる区切り」を超えて、「永遠」につづいてゆく。その「永遠」という時間の中に「どこか遠くへ翔びたつ鳥の羽音をきいた」や「山奥のひそやかな湖に木の実の落ちるかすかな音をきいた」が繰り返される。
 「永遠」の「端」を誰かが押さえていて、その「端」と「端」の「あいだ」にさまざまなことが起き、それが「朝」となり、「夕」となり、刻まれていく。私たちが日常感じている「時間の流れ」とは逆に、「両端」が最初にあって、それが両端から「朝」と「夕」を刻む。ただしそれは等間隔というよりも、アトランダムに、あるところが「朝」になり、別のところが「夕」になる。「朝」と名づけられたところが次の瞬間には「夕」と名づけられたりする。それは水平の方向(線上の方向)に刻むというよりも、その両端を結ぶ線の内部、両端のあいだを濃密にする感じ。
 私たちの生は「端」を超えることができない。「端」にまでたどりつくこともできない。ただ「端」と「端」の「あいだ」を生きるだけだ。「あいだ」を濃密にしながら生きるだけだ。あるときは「どこか遠くへ翔びたつ鳥の羽音」を聞き、あるときは「山奥のひそやかな湖に木の実の落ちるかすかな音」を聞きながら。
 「対」は「端」と「端」の内部(あいだ)を濃密にする方法なのだ。「翔びたつ」と「落ちる」という動詞は「対」になって動き、「もの(対象)」だけではなく動詞も「内部」(あいだ)を濃密にするものだと教えてくれる。




嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(5)

2015-05-04 09:54:20 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(5)(思潮社、2015年04月30日発行)

跛行

窓の外でポプラが風にそよいでいる
眼は世界の美しい表面を見る

詩が白い紙の上を跛行してゆく
耳は世界の底知れない奥行きを聞く

テーブルの上の白紙の束
湯気をたてている午後の紅茶

不完全なこの世を支えている
完全で非情な宇宙

言葉になるはずのないものが
いつか言葉になる……だろうか

 谷川の詩には「漢詩」でいう「対句」のようなことばが頻繁に出てくる。この詩では一連目と二連目に、それが複雑に絡み合っている。
 「眼」と「耳」が「対」になって、そこに書かれている世界を広げている。「眼で見る」と「耳で聞く」という「構造」が「対」になっている。このとき「対」とは「世界」を広げると同時に濃密にする。「眼で見た」ものに「耳で聞いた」ものを重ねるとき、その眼と耳をもっている人間と、人間の向き合っている世界が立体的になる。
 その「眼で見る」のは「表面」であり、「耳で聞く」のは「奥行き(内部)」である。さらに「表面」は「美しい」が、「奥行き(内部)」は「底知れない」という「対」をつくり出す。
 この「美しい」と「底知れない」は、よく見るとさらに複雑な「対」を構成している。「美しい」は「風にそよぐ」のに対して「底知れない」は「跛行してゆく」。
 この「底知れない」と「跛行してゆく」の組み合わせに、私は、どきりとしてしまう。
 ことばが書かれた順序にしたがって見つめなおすと、「跛行してゆく」を谷川は「底知れない」と言い換えていることになる。「風にそよぐ=美しい」に対して「跛行してゆく=底知れない」である。「底知れない」は「美しくない/不気味」でもあるだろう。しかし簡単に「美しくない」と言い切れないものがある。何か「不気味」ということばでは言い切れないもの、「美しさ」に通じるものをふくんでいる。そのために「底知れない/奥行き」ということどはが動いている。
 「跛行してゆく」は、いまは使わなくなってしまったことば「ちんばをひいて行くこと」(広辞苑)である。歩き方が普通のひとと違っている。美しくない。醜い。けれど、そこには「いのち」の底知れない力が動いている。形としては美しくなくても、歩ける。そこには可能性としての「美しさ」、いのちの奥深い強さという底知れなさがある。それは、歩くというときに「美しい」とはどういうことかと問いかけてくるものがあるということだ。「いのち」にとって美しさとは何か。なぜ「跛行してゆく」動きを「美しくない」と言えるのか。「美しくない」と言える権利(?)が、誰にあるというのか。「可能性の強さ」と言いなおすべきではないのか……。
 こういう「倫理」の問題に谷川が踏み込んでいるわけではないが、そういう世界にまで触れていることを感じさせることばである。そのことに、私は、どきりとする。こんな複雑なことを書かなくても「対」はつくり出すことができるはずなのに、あえて複雑に、濃密にしている。そのことに谷川の、詩人の不思議な「強さ/底知れなさ」を感じ、私はうなってしまう。
 谷川は単に詩の論理(詩の技法/美の形式)にのっとって「対句」をつくっているわけではないのだ。

 この「対句」のことばを読みながら、私はまた、「耳は/聞く」という「動詞」のなかに谷川の「本質」のようなものを感じた。谷川は「視覚型の詩人」というよりも「聴覚型の詩人」なのだと思った。それは「跛行してゆく」を視覚(姿)ではなく、「跛行してゆく」を「足音」と耳でとらえていることからもわかる。「足音」ということばは詩では書かれていないが、書かれていないということは、音が谷川にとって肉体にしみついていて書く必要がないからでもある。音は谷川にとっては「肉体」そのものになっているのだ。
 聴覚で「矛盾した本質/視覚だけではとらえられない本質」をまるごとつかみとる。「視覚」でも世界をとらえるが、聴覚の方が「世界の混沌とした内部/うまく整理できない内部」を「未整理」のままつかみとるときに強く働くのだと感じた。眼はあくまで「表面」を整理する。それに対して耳は「内部(奥行き)」をつかむ。
 このとき「内部/奥行き」とは、そのまま「耳の穴」の「奥」、つまり「鼓膜の奥」、鼓膜から始まる人間の「肉体の内部/奥」につながっていかないだろうか。耳をすまして世界の「音」を聞くとき、「耳の穴の奥/人間の肉体の内部」で動いている「音」もいっしょに聞きとらないだろうか。「内部の音」、たとえば「鼓動」を外の音と勘違いして聞くことはないだろうか。「鼓動」が「雑音」なのか、外部の「音」が「雑音」なのだろうか、それがあいまいになるときはないだろうか。

 余分なことを書きすぎているだろうか。
 「対句」にもどって、詩を読み進めることにしよう。
 「技法」にかぎって「対句」を見直しておけば、先に書いた部分以外に、たとえば「窓の外」に対して、二連目の冒頭に「部屋の内では」ということばを補って「対」を考えることができるし、「白い(紙)」に対しては「(みどりの)ポプラ」という「対」が考えられる。「ポプラ(現実)」はまた「詩(ことば)」とも「対」になっている。「表面」は先に「奥行き」と対比させたが、「紙の上」とも向き合っている。
 三連目では「白紙」が二連目「白い紙」を引き継ぎながら、「跛行してゆく」と書かないことで、そこには詩(ことば)が不在であることを告げる。これは「眼で見る」という一連目の動詞を引き継いでいるとも言える。「湯気をたてている午後の紅茶」は「眼で見る」世界のようでもあるが、「たてている」ということばが「音をたてている」(紅茶を入れる前のやかんの状態)を呼び起こし、そこには「耳で聞く」世界があるとも言える。三連目の二行は、それぞれ一連目と二連目の世界を引き継いでいると言える。
 しかし。
 この二行は、とても変な感じがする。一連目、二連目が「対」が非常に複雑に絡み合った濃密な世界なのに、この三連目はあっさりしすぎている。文体が違いすぎる感じがする。
 そう思っていると、四連目で、文体はさらにかわる。それまで書かれていたことばが「ポプラ」「白い紙」「紅茶」と具体的だったのに、四連目には具体的なものは出てこない。「この世」「宇宙」ということばが出てくるが、これは「総称」であって個別な感じ、肉体(眼/耳)に直接触れてくるというよりは、「頭」に触れてくることばである。「頭」で考えることばである。
 この四連目にも「不完全な/この世」「完全な/宇宙」という「対」があるが、この世が不完全であり、宇宙が完全であると、私たちは目や耳で知っているわけではない。頭で考えることができるだけである。
 この世には「跛行」という「不完全な歩行」の形がある。その不完全が存在するのは、不完全を支える完全な何か(宇宙/真理)があるからだと考えると「論理的」である。(論理がそこに成り立つ。)だから、「頭」はそう考えるだけである。そして、宇宙は完全であるからこそ、「跛行」を「不完全」と「非情」にも言ってしまうことができる。「頭」はそう考えるのである。
 しかし考え方次第では、どんな存在形式(運動形式)であっても、それが実際に存在しうる世界が完全なのであり、そういうものを許さない「完璧主義の宇宙」の方が不完全であるということもできるはずである。
 だいたい「完全で非情な宇宙」ということが、どうして「わかる」のか。

 ずいぶん脱線してしまった気がするが、この抽象的なことばを書くためには、一連目、二連目の濃密な世界を一度洗い流す必要があったのだと思う。そのために一度、三連目でことばをあっさり(?)したものにしたのだ。四連目のことばの動きをスムーズにするために、あえてことばをあっさりしたものにしたのだ。一、二連目と同じ濃密さで四連目を書くには、ことばはもっと「論理的」に濃密にならなければならない。きっちりと構えた散文にしないと、「論理」は書けない。「論理的」であろうとすると散文になってしまう。「こころ/肉体」で感じていることが「頭」で考え直したことになってしまう。
 濃密な論理の詩は、なかなかむずかしい。
 最後の連は、そうやって書いてきたことば、詩を読み直しての「総括」ということになるのかもしれない。谷川が「言葉」と書いている部分を「詩」と書き替えてみると、そのことがわかる。

詩になるはずのないものが
いつか詩になる……だろうか

 「詩になるはずのないもの」とは、「不完全なこの世を支えている/完全で非情な宇宙」というような散文的な認識(論理)のことだろう。
 これに対して「詩になる」のは、たとえば「窓の外でポプラが風にそよいでいる」というような情景である。そこには詩情がある。それを詩情と呼ぶのは、単なる文学上の「定型」だが。
 そして、この視点から、二連目の「詩が白い紙の上を跛行してゆく」を読むと、なんだか私の考えは堂々巡りになる。
 「詩」とかかれているのは、この作品の場合、何になるのか。一連目そのものを指していないか。「窓の外でポプラが風にそよいでいる/眼は世界の美しい表面を見る」という二行は、いわゆる「詩」らしい感じがする。しかし、それは不完全な詩であり、不完全であるがゆえに、紙の上を「跛行してゆく」。これを完全なものにするためには何が必要か。一連目のことばに、何が欠けているのか。「不完全なこの世を支えている/完全で非情な宇宙」というような「認識」、あるいは「論理」かもしれない。
 そう考えて谷川は四連目を書いたのかもしれない。

 詩は、どういう形が「完成」なのか、考えるときりがなくなる。
詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社
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嵯峨信之を読む(58)

2015-05-03 19:35:12 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(58)

104 菖蒲の花

暗い水の中から
あの大きな菖蒲の花は咲きでる
命をそろえて紫いろに重く咲きでている
問いはそのまま誰にも向けられず
打ち倒された死者の冠となる

 「命をそろえて」の「そろえる」という動詞が強い。何本も並んで咲いている状態を「そろえて」と言っているようにも見えるが、それだけではない。水の中から茎を伸ばし、葉を伸ばし、つぼみをつけ、花を広げるという「命」の「動き」をそろえている。整えている。「命をそろえる」は「命の動きをそろえる」なのだと思う。「咲く」という「動詞」をそろえるのである。
 その直前の「あの」ということばが、また強い。「あの」というのは先行する名詞があって、それを指し示すのが普通だが、ここでは先行する菖蒲の花は書かれていない。「あの」は、読者が思い出すことを想定して「あの」と読んでいる。
 「思い出す」というのは、そこにないものを「思い出す」ということ。直接見えないものを「思い出すこと」。そういう意識の働き、意識の動きが、やはり直接眼では見えない「命の動き」を見つめ、そこから「そろえる」という動詞を掴み出している。
 「あの」は何気なく書かれているように見えるが、「あの」がないと視点は一点に集中しにくい。「あの」によって一点に集中し、その集中力が「命」の動きを見てしまうのだ。
 ここには「命とは何か」という問いが隠されている。「命とは、何かをそろえて(ととのえて)動く」ものなのだ、という答えも隠されていることになるかもしれない。「命とは何か」という問いがあるからこそ、「死(者)」ということばもひっぱり出されてくる。「命」と「死」をむすぶことばとして「重く」ということばも動くのだ。
 暗い水中と明るい地上、命と死という「対」が固く結びついて、菖蒲の花を印象的にしている。

105 箴言

愛はある周辺から始まるが
死は直接その中心にむかつてやつてくる。

 「対」になったことば。「愛」と「死」が「対」になり、「周辺」と「中心」が「対」になっている。
 二行目の「その中心」の「その」とは何だろうか。「人間の」だろうか。「命の」だろうか。そうであるなら一行目の「ある周辺」の「ある」は「人間の」「いのちの」ということになるだろう。
 死が「(人間の)中心にむかつてやってくる」なら、愛は「(人間の)周辺から、さらに広がっていく(自分から出て行く)」ということになるのだろうか。
 この二行は次のように言い換えられている。

愛は所有のたえざるくりかえしだが
死は所有そのものをしずかに所有する

 愛は、周辺から広がってゆき(手を伸ばして)、対象を手に入れようとする。所有しようとする。--この三行目は、そういうふうに読むことができる。
 では、四行目は?
 「所有そのものを」「所有する」。この、同義反復のようなことばは、むずかしい。自分以外のものに手を伸ばし「対象」を所有するのではなく、自分がすでに持っている「命」だけを所有する。死は、自分だけのものである、という意味なのだろうか。
 自分の持たないもの(対象)と自分の持っているもの(命)が「対」になっているのだろうか。
 「対」に意識が向いてしまうと、どうしても「名詞」の「対」を考えてしまうが「所有する」という「動詞」に目を向けて「対」を考えるとどうなるだろうか。
 愛とは自分以外の存在(対象)に向かう動き。「自分の周辺」を拡大し、相手を自分の「領土(?)」のなかに取り込み、一体になる動き。「外」を「内部」にする動き。
 一方、死は「外部」には手をつけない。ただ自分の「内部」だけを問題にし、「外部」には向かわない。
 周辺からさらに外に向かう動きと、周辺から中心へ向かう動き。その反対の動きが「対」になっている。

愛は死に奉仕しながらその中でゆき暮れる
死は愛に近づきつつ遠ざかる
そして人間はその二つのものの唯一の通路である

 これは先の四行をどう言いなおしたものだろうか。「愛は死に奉仕しながらその中でゆき暮れる」はむずかしい。いったん、「意味」を保留しよう。
 「死は愛に近づきつつ遠ざかる」とは、誰かを愛したとき、死を忘れてしまうということかもしれない。自分がやがて死ぬことを忘れてしまって(意識から遠ざけてしまって/これは詩の意識が遠ざかると同じ意味になる)、ただ愛に夢中になるということか。
 そうなら「愛は死に奉仕しながらその中でゆき暮れる」は人間はやがて死んでしまう運命にあるのに、その運命(目的地?)を忘れてしまうということだろうか。
 ここにも、明確なことばにはしにくいけれど「対」がある。そしてその「対」は人間という「ひとつ」の「通路」でつながっている。最終行は、そう書いているのだろう。「対」と私が呼んでいるものを嵯峨は「二つのもの」と書いている。二つのものとは「愛」と「死」である。

嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(4)

2015-05-03 10:27:25 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(4)(思潮社、2015年04月30日発行)



朝陽

小さな犬が
大きな人間のうしろについて
ちょこちょこと歩いて行く

犬にも人間にも
名前を代入せずに
その情景を傍観して
詩が成立するかどうか
考える

詩は常に無言で存在している
それに言葉を与えるのが人間

小さな犬が
大きな人間のうしろについて
ちょこちょこと歩いて行く

朝陽が眩しい

 一連目と四連目は同じことばでできている。これはリフレインなのか。なぜ、同じことばを書いたのか。一回読んだだけではわからない。二度読んでもわからない。何度読んでも、ただ読むだけではわからない。考えないといけない。
 でも何を考える? なぜ考える? 詩は考えなくてもいいものではないだろうか。考えて、意味をつくり出さなくてもいいものではないのか。そんな疑問がふと湧くのだけれど、考えてしまう。そうすると、一連目の、ごくありふれた犬と人間の散歩の風景に対して書いている二連目が気になる。
 谷川は詩について考えている。この詩集は「詩について」書かれている。だから谷川が詩について考えるのは必然なのだけれど……。
 それは前に書いた三行の情景についての考えなのか。それとも三行のことばについての考えなのか。これは、ちょっとむずかしい。判断に困る。
 さらに谷川の考えていることが、その対象が、情景とも三行のことばとも違っていることが問題を複雑にしている。情景には詩(情)がある。その詩(情)をどうことばにしたら詩(作品)になるのか。そのことばの問題を「名前」に限定して考え直している。「名前」を「代入」しなくても「詩が成立するかどうか」を考えている。
 一連目には、犬にも人間にも「名前」がない。この状態でも、この三行は詩(作品)なのか、あるいは詩情を書いただけで詩には達していない(詩)情景なのか。
 その「問い」に対して三連目で谷川はひとつの「答え」を書いていることになるのだが、それを読む前に、二連目に書かれていることを私なりに考えてみたい。谷川が問題にしている「名前」について考えてみたい。
 「名前」とは固有のもの。固有名詞のことだろう。犬なら、たとえばネロ。人間なら、たとえば谷川俊太郎。
 固有名詞が書かれていない一連目を読むとき、私は、どこかで見かけた名前を知らない犬と人間の姿を思い浮かべる。「一般名詞」として思い浮かべる。「一般名詞」というのは「名詞」であるけれど「名詞」に重点が置かれているのではなく、その「名詞」といっしょに動いている「動詞」に重点が置かれているのだと感じて、そこに書かれていることを読む。「うしろについて/ちょこちょこ歩いて行く」という関係(人間が前/犬が後ろ)と動詞(歩いて行く)を思い浮かべる。
 一連目を読んで、名前を知っている犬と飼い主を思い浮かべたとしても、そこから「名前」をとりさって、犬と人間の「歩き方」を思い浮かべる。そこに「名前」が書かれていないのだから、わざわざ「名前」を「代入」しようとは思わない。
 そして「名前」がなくても情景が浮かぶのだから、私は「名前」を「代入」しなくてもことばは成立していると考える。ことばが成立しているなら(ことばが情景/詩情をつたえることができるのなら)、そこには詩(作品)も同時に存在していると考える。
 「名前」とは個人的な思いが濃厚に存在する対象を意味する。個人的な思いが強いとき、どうしても対象を「名前」で呼ぶ。そういう強い思いも詩であるかもしれないが、この谷川の作品では「対象」そのものではなく、犬と人間の「関係」を描いている。詩人と対象との関係ではなく、そこにあある(いる)対象(意味)と対象(人間)の関係を書いているのだから、そこには「名前」は必要がない。「名前」をつけると、対象と対象の関係ではなく、対象と谷川との関係になってしまう。
 対象(犬)と対象(人間)の関係を書こうとしているからこそ、「小さな」ということばと「大きな」ということばの「対比」が描かれる。関係を浮かび上がらせる(明確にする)ことばが動く。さらに「うしろ」と書くことで「後ろ」と「前」の「対比」が描かれ、「ちょこちょこ」と書くことで「ちょこちょこ」と「ちょこちょこではない」対比が描かれる。「対」が明確にされる。
 そんなふうに、ていねいに「対」という「詩の論理」を登場させながら、なぜ、谷川は二連目の「問い」を書いたのか。三連目の「答え」を書くために、わざと「問い」を書いたのだ。

詩は常に無言で存在している
それに言葉を与えるのが人間

 これが谷川の、「詩に就いて」の「考え」だ。詩は「無言」である。その「無言」にことばを与え、無言ではなくする。無言の状態から引き出す。それが詩人。詩人は、ことばで詩を生み出すのである。
 この二行を

詩(情)は常に無言で存在している
それに言葉を与えるのが(詩人という)人間
そして、その言葉が詩(作品)

 と書き直してみると谷川の考えていることがよくわかる。
 そう考えた上で、私はまた別のことも考える。
 ここにでてきた「無言」。これは「名前」と対になっている。
 「名前」を持たないものが「無言」。「無名」を谷川は「無言」と言い換えている。「名前」は自分から「名乗る」もの。名乗らないかぎり(無限であるかぎり)無名。ということは「無名」のものは「名前」を持たないということになる。
 「名前」はまた一方で「名づける」ときにも存在する。「名前」を持たないというのは、詩人が「名づけなかった」ということ。詩人とどんな「関係」も持たないということ。「関係」があれば、その「対象」には「名前」がある。
 そう考えるとき、ちょっとした矛盾が生まれてくる。もし、詩人が「無言」のものに「言葉を与える」なら、その瞬間に「無言の対象」は「名前」を持つことになるのではないのか。「言葉」は「名前」のかわりに与えられた「愛情(愛着)」のようなものである。「名前」と呼ばれないだけで、「言葉を与え」ることは「名前」を与えたことと同じ意味働き)を持つのではないのか。それならばいっそう簡単に「名前」を与え、「名づける」と「言葉を与える」の関係をひとつにしてしまえばいいのではないのか。「名前」をつけない(代入しない)ままでも、それは「言葉を与えた」ことになるのか。そういう疑問が生まれる。眩暈のような矛盾が生まれてきてしまう。
 「犬」と「人間」に「名前」を与えないかぎり、確固とした詩にならないのか。詩は成立しないのか。疑問は二連目に戻ってしまう。循環してしまう。
 この矛盾を、谷川は四連目で、一連目を反復することで乗り越えようとしている。独特の「弁証法」で二連目、三連目の「矛盾」を「止揚」しようとしている。

小さな犬が
大きな人間のうしろについて
ちょこちょこと歩いて行く

 犬にも人間にも「名前(言葉)」を与えていない。しかし、その三行は「詩」として書かれている。谷川は何に「言葉」を与えたのか。
 一連目の三行の「構造」について書いたとき、すでに触れてしまったのだが、谷川は「関係」に「言葉を与えた」のである。犬と人間に「小さな」と「大きな」という「言葉を与え」、その関係を明確にした。さらに「うしろ/前」「ちょこちょこ/ちょこちょこではない」という「言葉を与えた」。「前」「ちょこちちょこではない」ということばは直接的には書かれていないが、それを読んだひとは無意識にそれを思い出す。だから「言葉を与えた」といってもかまわない。
 そこにある「存在」の「関係」に「言葉を与える」ということは、そういう「関係」と谷川のあいだに「関係」がつくり出されるということでもある。犬を「小さな」と認識する「関係」、人間を犬よりも「大きい」と認識する「関係」。--こういうことを「関係」ということばでは表現しないのが一般的かもしれないが、私は「関係」と呼びたい。「うしろ/前」も「ちょこちょこ/ちょこちょこでない」という識別の仕方、それが谷川がこの情景との「関係」なのだ。

 四連目を読むとき、どうやって読むか。ここで、飛躍して、私の読み方を書いてみる。四連目は一連目の繰り返しである。読まなくても「わかる」。読まなくても「わかる」のだから、私は、この四連目を「ことばを排除して」読む。
 つまり。
 ことばではなく、犬、人間、うしろ、ちょこちょこ、歩くということばではなく、直接、自分の肉体がおぼえている「情景」そのものを見る。実際、そういう情景を、私はことばに頼らずにおぼえている。無意識という感じでおぼえている。
 谷川のことばを読んだら、その情景、私がおぼえている情景が、おぼえているままの形であらわれた。その情景は谷川の見た(書いている)情景と同じではないが、つまり、私は谷川といっしょに同じ情景を見たことはないのだが、ここに書かれている情景はこれだと思ってしまう。
 他人のことば、谷川のことばが、そのとき谷川のことばではなく、私自身のことばになって肉体に直接働きかけている。この「直接性」が、きっと詩なのである。
 さらにまた別の読み方もしてみる。谷川の書いている犬と人間から、私の実際に知っている犬と人間を思い出してみる。まろ(チワワ)と原田さん。わん太と私を見ると、まろは走ってきてわんわん吠える。「来るな、来るな」と警告する。そして原田さんに呼ばれると大急ぎで戻って行く。うしろをちょこちょこと歩いていく。「名前」を与えながら、私は谷川の書いていることを、私の「個人的」な生活に変えてしまう。そして、いま書いたように、そのことばが実際の生活のなかで動くことを確かめながら、それが自分のことばになっていくのを感じる。谷川は消え、ことばと私が「直接」結びついて、そのことばが私の生活を整えていくのを感じる。
 ことばの「直接性」の体験。
 そういう「直接性」のなかで、谷川が消えるというのは、ことばが消えてしまうということでもある。実際、四連目を読むとき、その一行一行を意味を点検しながら読まないでしょ? すでに読んだ一連目を思い出しながら、ぱっと読みとばすでしょ? ことばは書かれているが、ことばは消えている。「情景」のなかに完全に消えてしまう。そうすると「情景」も突然、消えてしまう。「情景」が「肉体」のなかに入ってしまう。いままでことばで追いかけてきたことがすべて消えてしまう。ことばが「肉体」になってしまうといってもいいのかもしれない。
 そうすると、ことばが、生まれ変わってしまう。

朝陽が眩しい

 突然、別の情景が、ことばとなって動く。いままで書かれてこなかった詩(情)が詩(作品)として噴出してくる。
 谷川の詩には、こういう「場面転換」のような描写が多いが、それは、それまで書いてきたことばがそこで終わっているからなのだ。

詩に就いて
クリエーター情報なし
思潮社
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嵯峨信之を読む(57)

2015-05-02 11:58:18 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(57)

102 こおろぎ 1

子供よ
子供よ
荒寥とした長堤をひた走る子供よ
夜明けまでそこの草むらで鳴いていたこおろぎは死んだ
太陽がのぼるとともに死んだ
草むらのしげみにナイフの切尖きがするどく光つている

 最終行の「ナイフ」が何かを象徴しているのかもしれない。それが何を象徴しているかを探すのが批評というものかもしれない。
 しかし、私はそれよりも「子供よ」ということばが三回繰り返されているところにこころが動く。なぜ三回も繰り返す必要があったのか。最初は「子供よ」とだけ繰り返され、三回目には長い修飾語がついている。
 この「子供」は嵯峨の幼い日の自画像かもしれない。自分に向かって語りかけている。「死」はおとなにとってもよくわからないものだが、子供にとってはもっとわかりにくい何事かである。わかりにくいけれど、子供の方が直観で正確につかみとってしまうかもしれない。
 長い堤を走っていたとき、こおろぎが鳴いているのが聞こえた。それは次の日(次の朝、あるいは昼に)来てみれば、もう鳴いていない。
 その突然の断絶。そういう「断絶」があるということを、子供は「事実」として受け止めてしまう。「意味づけ」をしない。「意味づけ」できない。
 嵯峨は、子供のように、いま、誰かの死と直面した。「意味づけ」できない「断絶」と出会った。そして、その「断絶」の厳しさに、ふと子供だったときのことを思い出したのかもしれない。あの「断絶」をおぼえている子供よ、子供よ、子供よ、呼びかけながら「子供」にもどろうとしている。
 そんなふうに読むことはできないだろうか。
 このとき「ナイフの切尖き」は「いま/そこにある死」を切り取って(切断して)、嵯峨を子供時代へかえしてくれる「いのり」のようなものを含んでいるかもしれない。「無垢ないのち」をもう一度生きることができたなら、「死」を「無垢な死(意味づけされない死/全体的な存在)」として受け入れることができたならと思いながら、いま/ここにある死と向き合っている。

102 こおろぎ 2

すべての友がつぎつぎにぼくを裏切つていつた
夜明けまで大きな車輪の下ですすり泣いていたこおろぎよ
太陽がふたたび登りはじめたときに
こおろぎは車輪の下で全く死んでいた

 「ころおぎ 1」と対になっている詩なのかもしれない。「こおろぎ」ということばのほかに「夜明け」「太陽」「のぼる(登る)」「死んだ(死んでいた)」ということばが重複する。「鳴いていた」「すすり泣いていた」は似ているが、かなり違う。
 「2」の「ぼく」は「1」の「子供」と同じひとだろうか。同じかもしれないが、「年代」が違うと思う。「2」の「車輪の下」はヘッセの小説を思い起こさせる。「ぼく」は思春期。いっぽう「長堤をひた走る子供」はそれよりも幼い。
 「子供」は、書いてはないのだが、泣きながら走った。泣きながら、走りながら、こおろぎの鳴くのを聞いた。このときこおろぎは「泣いていない」。子供に同調しない。この「断絶」が「死」を絶対的なものとして受け入れるときの、子供の「許容力(受容力)」を育てていると思う。子供は直感的に「断絶」を認識するのである。
 一方、「2」の方でも、「(思春期の)ぼく」が「泣いている」とは書いてはないのだが、こおろぎが「すすり泣いていた」と書かれるとき、そのこおろぎが「泣く」という動詞が人間(ぼく)を引き込んでしまう。「ぼく」は泣いていた。そのためにこおろぎが「鳴く」ではなく、「泣いている」と感じたのだ。「ぼく」と「こおろぎ」は同調している。その同調に「車輪の下」ということばが重なり、同調を強くする。
 「2」で「死んでいた」のは「(思春期の)ぼく」だろう。「ぼく」が「こおろぎ」になって「死んでいる」。友の裏切りによって、自分のなかの何か(友情とか、友人を信じる気持ち)が死んでしまう。この「死」は、「1」の子供が感じた「死」とは違って、「ぼく」に接続している。切ろうにも切れない。「断絶」がない。いつまでも「ぼく」についてくる「記憶(感情)」である。

 「断絶」と「接続」の違いが「1」と「2」の違い、「非情な(強い)美しさ」と「センチメンタルな(弱い)美しさ」の違いを産んでいるように感じられる。
 現実には(これは私の想像なのだが……)、思春期時代の学校の友達とは違って、嵯峨を裏切ることなどなかった無二の親友が死んだ。その死に直面して、嵯峨は自分が経験してきた「子供時代の死(こおろぎ/他人の死)」と「思春期の死(自分の精神的な死)」を思い出し、二つの思い出のなかで、死とはなんだろうかと思いながら友人の死と向き合っているのだろう。そう理解してもなお、しかし、私には「1」の方が絶対的な美しさに触れているように思える。


嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(3)

2015-05-02 09:41:09 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(3)(思潮社、2015年04月30日発行)



 詩と論理(散文的なことばの動き)はどんな関係があるのか。詩のなかには、どんな論理(ことばの運動)があるのか。



言葉に愛想を尽かして と
こういうことも言葉で書くしかなくて
紙の上に並んだ文字を見ている
からだが身じろぎする と
次の行を続けるがそれが真実かどうか

これを読んでいるのは書いた私だ
いや書かれた私と書くべきか
私は私という代名詞にしか宿っていない
のではないかと不安になるが
脈拍は取りあえず正常だ

朝の光に棚の埃が浮いて見える
私の「おはよう」に無言の微笑が返ってきて
それが生身のあなたであることに驚く
一日を始める前に言葉は詩に向かったが
それは魂のささやかな楽しみの一部だ

 一行目と二行目に「言葉」ということばが繰り返される。それは「同じ」ものなのか、「違った」ものなのか。「同じ」に見えるが、「違っている」のか。
 二つの「言葉」を区別しているのは「書く」という「動詞」であると思う。「書く」とは何かを反復することである。「言葉に愛想を尽かして」というときの「言葉」は何かを繰り返していない。つまり「対象」そのものである。ところが、それについて「書く」というとき、その「言葉」は対象ではなく、繰り返す運動そのものである。
 バラの花があり、それを描くとき、最初のバラ(実物のバラ)が「対象」であり、描かれたバラは「絵」である。バラとバラの絵。そういう「対象」と「表現」では「名詞」と「名詞」の比較になってしまう。そうではなくて、「対象」のバラを「絵のバラ(表現)」にするときの、鉛筆、絵の具、そしてそれを動かす「腕」、「腕」といっしょに動いている「目」--そうした「肉体」の「動き」(動詞)のなかで繰り返されるものが、「書く」という動詞のなかに動いている。「言葉」を「書く」、そこから生まれてくる「書かれた言葉」ではなく、「動詞」のなかで動いているものがある。「過程」といえばいいのか、「過程」を実現するエネルギーといえばいいのか。
 「言葉」で「書く」のだが、ほんとうに動いているのは「言葉」ではなく、「肉体」。「書く」という「動詞」のなかで、エネルギーが動いている。形にならないもの(書かれる前の言葉)が形のあるもの(書かれた言葉)に「なる」ときの推進力(エネルギー)そのものとしての「動詞/ことばの肉体」。それは人間の「肉体」とどこかで重なっているのだが……。
 でも、これは、なんだか、よく見えない動きだ。「書く」という「肉体」の動きははっきりとは見えない。認識できない。
 そのかわりに書かれたことば、バラの絵のようなもの、つまり「紙の上に並んだ文字」が見える。その「文字」を見ながら、「肉体」がどう動いたのか思い出そうとする。繰り返そうとする。そのとき「肉体」のなかで何かが動くのを感じ、「肉体」が反応する。「からだが身じろぎする」というのは、こういうことかもしれない。
 「言葉」は「文字」であり、「書かれる」。「言葉」は「文字」であり、書くことができる。「書く」というのは、ことばの勝手な運動(ことば自身の運動)ではなく、それを書く人間の「肉体」の運動である。だから、どうしても「からだ」に何かが跳ね返ってくる。ぶるっと、からだが揺れる。身じろぎ。その「肉体」の動きを、「みじろぎする」ということばで繰り返す。つまり「続ける」。
 五行目の「続ける」は「書く」という「動詞」を別なことばで言いなおしたものである。「次の行を続ける」は「次の行を書く」と言いなおすことができる。
 このことばと「肉体(動詞)」の関係を追うとき、そこに「ことば」と「肉体」の「論理」が見えそうになる。何かを繰り返し、言いなおすとき、どうしてもそこに「道」のようなものが生まれてくる。この「道」のようなものを、ひとはときに「真実」と読んだりする。論理的である、というのは真実である、ということと同じ意味で語られることがある。
 けれど、そうやってできた「論理」が「真実」であるかどうか。谷川は、疑問として、そのことを書いている。「書く」「書きつづける」。繰り返す、言いなおす。そのとき、「嘘のことば(真実かどうかわからないことば)」も続けることができる。
 一連目のことばは散文的だが、散文を書きながら、谷川はこんなふうにしてことばを続けることができる散文に対して「うさんくさい」と言っているようにも見える。

 二連目は一連目の、かなり奇妙な言い直し、繰り返しである。読んだ瞬間、「書いた」「書かれた」、「読む」「書く」ということばが交錯して、「論理」が錯乱する。つまり、何が書いてあるのか、わからなくなる。ことばのひとつひとつは全部知っている、わかっているのに、「論理」がわからなくなる。
 でも、そこには「論理」はあるはずなのだ。
 ひとは大事なことは何度でも繰り返して言いなおす。言いなおすことで、大事なことを「論理的」にしようとする。「論理」は「理性」によって他人と共有できるからである。他人と共有できる理性が「論理」と呼ばれるからである。
 ゆっくり読み直してみる。
 「これを読んでいるのは書いた私だ」の「これを」は「一連目を」と言いなおすことができる。「一連目を読んでいるのは、一連目を書いた私だ」。これは「言葉を読んでいるのは、言葉を書いた私だ」と言いなおすこともできる。一連目の冒頭の「言葉」が、この一行で反復されている。
 おもしろいのは、その次の「いや書かれた私と書くべきか」。「一連目を書いた私」ではなく、「一連目に書かれた私」。書くことによって存在してしまった言葉。書くことによって存在してしまった「書かれた私」。そういうものが、「一連目を書いた私」とは無関係に動き出して、ことばを「読んでいる」。そういうふうに「書く」ことができる。
 二連目二行目の「書く」は一連目二行目の「書く」と同じ「動詞」だ。一連目では「言葉で書くしかない」のだが、二連目では「言葉で書くべきか」自問している。「書くしかない」と「書くべきだ」は、いわば「反対」の動きだが、一連目を二連目で繰り返すとき、そういう「違い」が入り込んでしまう。「繰り返す」時、どうしても何かが違ってくるのである。この「違い(ずれ)」の拡大を「世界が広がる」とも言いなおすことができる。「論理」はいつでも「後出しじゃんけん」のようなもので、最後につけくわえられたものが「正しい結論」になってしまう。ことばが動いていってできる「道」が「論理」と呼ばれるからである。そこには「論理」を生み出す「論理の肉体/論理のエネルギー」のようなもの、「論理の本能」のようなものがあるのだが、そのことには深入りせず、谷川は、ただそうしたことがあるのだと書いている。
 「紙の上に並んだ文字(書いた私/書かれた私)を見ている」。そうすると「私は私という代名詞にしか宿っていない/のではないかと不安になる」。その「不安」で「からだが身じろぎする」。そう読むと、二連目が一連目の繰り返し、言い直しであることが、さらにはっきりとわかるだろう。もちろん、こういう「解釈」が「真実かどうか」、それはわからない。ことばが動く瞬間、その動きは全部「論理」になり、「論理」が動きを止めたとき、それは「結論」になる。「論理」は、ことばをつないでみせれば、そこになんとなく「存在」して見えてしまうものである。うさんくさいものである。
 その特徴があらわれているのが「私は私という代名詞にしか宿っていない」という一行だと言えるかもしれない。この一行の断定は論理を装っている。「書いた私/書かれた私」の「書く」という「動詞」が「私」をかってに動かしてしまう。たしかなのは「私」とという「代名詞」があるだけである。そう言うことができる。
 この「できる」、つまり「可能性」が「論理」の秘密かもしれない。それはあくまでもことばの上での「可能性」であり、それを人間の「肉体」が確かめられるかどうかは問題ではない。こういうことを考えるとき、ひとはついつい「肉体」のことを忘れて、頭のなかでことばを動かしてしまう。
 しかし、この断定は「真実かどうか」。真実ではないのではないかと「不安になる」。そう書いたあと、「脈拍は取りあえず正常だ」と谷川のことばは突然逸脱する。この逸脱が、とても谷川らしい。谷川の「特徴」がここにあると思う。
 頭が混乱するような複雑な(あいまいな?)論理を追い、精神を不安にさせておいて、突然、健康な肉体へと動いていってしまう。形而上学の「不安」から肉体の「健康」への移動、転換が、いままでの「論理」を内部から破壊してしまう。この「暴力」の強さ、美しさが谷川の特徴だ。
 この断定は「真実かどうか」。真実ではないのではないかと「不安」--それは「言葉」「書く」「私」というもことばを追ってきたからそう感じるだけのことである。一連目には「からだが身じろぎする」という行がある。その「からだ」と「脈拍」はきちんと呼応している。私が追ってこなかったことばが、きちんと繰り返され、言いなおされている。「肉体の論理」が「形而上学的論理(精神の論理/頭の論理)」の一方でしっかり動いているのだ。
 谷川俊太郎のことばの強さは、「形而上学的」に動いているように見えるときでも、それだけではなく、「肉体」も動いていることによる。「頭」だけでことばが動くときは、「論理」は精密になるかもしれないが、「肉体」は不健康に追いやられ、動くことができない。論理的にはそうかもしれないが、実際に「肉体」で生きることのできないということが起きたりする。谷川のことばは、そういう窮屈なところへは入っていかない。
 これは「現代詩」の書き手のなかでは「特異」なことであると私は思う。多くの「現代詩・詩人」は「肉体」を置き去りにして、「頭」のなかへどんどん動いている。「頭のなか」を動くことばの「可能性」を追いつづける。

 三連目。ここでは、ことばは何を反復し、何を言いなおしているのだろうか。
 「朝の光に棚の埃が浮いて見える」は誰もが目撃する日常の風景かもしれないが、誰もが目にするだけに、何か美しい。「脈拍は取りあえず正常だ」と同じように健康で、美しい。
 一、二連目のことばが「夜の思考」だったのに対し、三連目は「朝の肉体」の目覚めがある。一、二連目が「言葉」「書く」という表現で窮屈だったのに対して、三連目は「無言」があらわれて、すべての「言葉」を吹き飛ばしていく。形而上学的論理ではなく「生身」の肉体が「私」を驚かせる。目覚めさせる。
 だから、そのあとの「一日を始める前に言葉は詩に向かったが」の「言葉」は一連目、二連目の「言葉」とはまったく違ったふうに動いて見える。それは「書く」という「動詞」とは無関係である。「書かれない」。「朝の光に棚の埃が浮いて見える」と書かれているが、それは繰り返されない。言いなおされない。そこで中断し、そこへ「向かった」ことだけでやめている。
 これが、詩なのだ。
 繰り返して「論理」をつくってしまわない。「論理」を生み出すことを拒み、その前で立ち止まる。その、何と言えばといいのか、「論理」あるいは「散文」への裏切りのような瞬間。私は「魂」というものがあるとは考えていないが、この瞬間的な喜び、どんな結論(論理の果)とは無縁の楽しみを、谷川は「魂」のものと考えているようだ。そういうものを、最後にぽんとほうり出す。

詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社
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谷川俊太郎『詩に就いて』(2)

2015-05-01 09:55:06 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(2)(思潮社、2015年04月30日発行)

 「論理」というのは言い直しの積み上げ、ひとつのことを少しずつ変化させて繰り返し、その変化のなかにひとつながりの「道」のようなものをつくることである。その「道」の到達点、あるいは目指しているものによって、「論理」そのものの「価値」が判断されたりする。そしていったん到達点(目標)の「価値判断」が確立されると、もう「道(論理の過程)」はたどりなおされることはなく、「到達点」だけが共有されてしまうということがおきる。「過程」をそれぞれが自分で歩いてみないことにはそこにほんとうに到達できるかどうかわからないのに、到達してしまった気持ちになる。「論理」の落とし穴だ。「論理」は、「到達点」の評価(価値判断)とは別に、「過程」そのものを追いなおして、そこに何がおこなわれていたかを見なければならない。
 「論理」は言い直し、繰り返し。ということは、言い直しや繰り返しがあるなら、そこに「論理」があるということにもなる。詩は「リフレイン」のようなあまりにも明確な繰り返しがあるが、それとは別に少しずつことばを変化させ、説明するという言い直し、繰り返しがある。そこには「論理」と意識されないかもしれないが、「論理」がある。
 谷川は、そういう「論理」を動くことが多い。



台が要る

机が要る
テーブルが要る
椅子でもいい
何か台になるもの
紙を載せるためのもの
黄ばんで破れかかって
詩らしい文字が認めてある紙
真新しい印刷されたばかりの紙も
載せておかねばならない
出来合いの机に
でなければテーブル
でなければ廃材で作られた不格好な台に
むしろ海とか空そのものに
詩を載せる
一篇二篇三篇でいい
もしかすると空のテーブルには
始めから載っているのかもしれない
詩が
無文字の詩が
のほほんと

 この詩のなかの「論理」を追ってみる。
 「机」は「テーブル」と言いなおされる。一枚の板が上にあり、その下に脚がついている家具。それが「椅子」とさらに言いなおされる。机からテーブルの言い直しは、ほとんど変化がない。ところが椅子は違う。ひとは基本的には机やテーブルには座らない。しかし椅子には座る。こういう違ったもののなかをことばが動くとき、何もしないと、「意味」がわからない。
 おいおい、机(テーブル)が要るのか、椅子が要るのか、どっちだ。
 だから谷川は、椅子を説明しなおし、同時に机、テーブルも言いなおす。「台」と言いなおす。必要なのは「台」である。台とは何か。台とは何かを「載せる」道具。「載せる」という「動詞」で説明し直す。そうすると「載せる」という「動詞」が机、テーブル、椅子、台をまっすぐにつなげる。「道」ができる。これが「論理」というものである。
 「載せる」ために「台」になるようなものが必要である。
 ここからまた別の「論理」が動きはじめる。台の上に何を載せるのか。「紙」と書かれ、「黄ばんで破れかかって(いる紙)」と言いなおされ、さらに「詩らしい文字が認めてある」と言いなおされる。「黄ばんで破れかかって」いる紙は、「真新しい印刷されたばかりの紙」と対比される。古い紙と新しい紙。その「対」のあいだに「文字(詩)」「印刷」が、もうひとつのつながり(道)を浮かび上がらせる。古い、新しいという区別を超えて、文字/詩が浮かび上がる。詩の書いた紙を載せるために台が必要だ、と谷川は言っている。
 こういうことを言うために、谷川は同じようなことば(机、テーブル)を繰り返し、それに異質なもの(椅子)をぶつけて、余分なものを削ぎ落とす。そしていくつかの名詞をつないでいる共通の動詞「載せる」を浮かび上がらせる。「詩(文字)」を浮かび上がらせるときも古い紙と新しい紙をぶつけて、反対なのに共通するものを探し出している。ここに詩の探し方の「論理」がある。
 このあと、谷川はもう一度、いま書いたことを繰り返す。繰り返すことで別な世界へ入っていく。書き出しの「机」は「出来合いの机」に言い換えられる。「台」は「廃材で作られた不格好な台」と言い換えられる。繰り返しのなかに、いままでなかったものが紛れ込んでくる。これは繰り返しによって「意味」が固定されてしまうのを防ぐためだ。詩を「載せる」ための台では、台の「意味」が限定されておもしろくない。「論理」になりすぎる。その「論理」を破るために、「出来合い」とか「廃材で作られた」ということばが動く。そういうことばに出会うと、一瞬、「載せる」という動詞がひきつれている手近なものがふっと消える。修飾語によって意識が撹拌される。「論理」が一瞬ゆるむといえるかもしれない。「出来合いの」「廃材で作られた不格好な」ということばは、意識を論理から積極的にずらしていく、論理を砕くための表現である。そういうことばで谷川はいままで追ってきた論理とは別なところへ視線を動かそうとしている。
 そうやって、視線を揺さぶって、意識をゆるませておいて

むしろ海とか空そのものに

 という行が突然出てくる。「海」も「空」も「台」とは無関係である。机もテーブルも椅子も台も人間が作ることができるものである。海、空はつくれない。そんなものが机、テーブル、椅子、台の代わりになるものとして突然出てきては「論理」が破綻する。「論理」にならない。
 「論理」にならないはずなのだけれど、谷川は「論理」にしてしまう。

詩を載せる

 「詩」という名詞、さらに「載せる」という動詞によって、そこに書かれていることを最初に書いたこととつないでしまう。
 強引だが、こがおもしろい。こういう強引さと、海、空ということばが結びつくところが谷川のひとつの特徴だと思う。 たれでも知っているもの(ことば)をつかって強引さを隠しているところがある。
 「詩」「載せる」ということばで「論理」をつなぐと同時に、それを「切断」してしまう。ひっくりかえしてしまう。言い直し、繰り返し、つないできた「道」を叩き壊して、別な世界を展開する。「論理」の否定が詩ということになる。

もしかすると空のテーブルには
始めから載っているかもしれない

 詩は空のテーブルに載っている。テーブルは必要がない。「机が要る/テーブルが要る」と書き出したのに、違うことを言っている。「矛盾」している。あるいは「脱線」してしまっている。「論理」のたがが外れて、谷川の「肉体」のなかに動いていたものが暴走している感じだ。
 しかし、この変化を「矛盾」とか「脱線」という前に、私は驚いてしまう。暴走にうれしくなってしまう。「海とか空」ということばが出てきたときにびっくりしたが、ここでは「空のテーブル」ということばを読んだ瞬間、空がテーブルに見えたし、そこに詩が載っているというのはいいなあと思ってしまう。それまでの「論理」を忘れて、論理にならないものに(論理では追いきれないものに)、我を忘れてしまう。「我を忘れる」と「論理を忘れる」が区別がつかなくなる。こういう「めちゃくちゃ(論理にならないところ)」に詩(情)がある。
 何に感動しているのかな? 自分自身を見つめなおしてみる。「空のテーブル」という突然のことばにびっくりしている。それから「始めから」ということばにも驚いている。「始めから」とは、「黄ばんだ紙」とか「真新しい紙」というような変化とは関係のない「本質」のことなのだろう。「本質」として空のテーブルには詩が載っているのだ。
 詩、といいながら、谷川はそれをさらに否定してみせる。

無文字の詩

 最初の方には「詩らしい文字」「印刷されたばかり」の文字が出てくるが、ここでは「無」文字になっている。このとき「無」は何もないということとは違うかもしれない。何もないなら詩もない。何かあるのだけれど、まだ、世間で流通している「文字(ことば)」になっていない、という状態を「無文字」と呼んでいるのだろう。その存在に気づき、それをことばにする。そうするのが詩人。そうやって生まれてくるのが詩ということになる。
 「出来合いの」移行の繰り返しと脱線(暴走)のなかに「論理では」(散文では)汝切れない詩があると思う。

詩に就いて
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嵯峨信之を読む(56)

2015-05-01 06:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(56)

100 言葉

ひとすじに遠く言葉をつたえながら
いたるところで数々の世界がつくられる

 「遠く」とは、そのことばがまだ届かないところだろう。あるいは、そのときことばはまだことばになっていないかもしれない。「遠く」、遠いところにあることばを聞き取り、それを自分のなかで言いなおすと読むと、それは詩との出会いになるかもしれない。
 そんなことを思うのは、次の四行があるからだ。

さつきまでたれかが腰掛けていた揺り椅子が
廊下のはずれでまだ静かに揺れている
そのひとはふいにある言葉をおもいついて外へ出ていつたのだ
それつきりどこかで別の世界がひらけはじめたのだろう

 「遠く」は「廊下のはずれ」と言いなおされている。そこで誰かが「ことば(声)」を聞いた。それに誘われて出ていった。聞いたことばなのだが、自分で「おもいついた」と言い換えてもいいような密着感がある。
 詩のインスピレーションのようなものだ。
 そのことばから「別の世界」(新しい世界)が始まる。

101 旅情

ぼくにはゆるされないことだつた
かりそめの愛でしばしの時をみたすことは
それは椅子を少しそのひとに近づけるだけでいいのに
ほんとうにそんな他愛もないことなのに

 三行目の具体的な描写、椅子ということばが落ち着いて聞こえる。椅子に座っている。動かない。動かない距離の近さがある。
 この距離の近さの喜びと不安は二連目で水車小屋の風景にかわる。

ぼくたちは大きく廻る水車をいつまでもあきずに見あげた
いわば一つの不安が整然とめぐり実るのを
落ちこんだ自らのなかからまた頂きにのぼりつめるのを

 そのとき二人は座ってみているのだが、この「座る」と一連目の「椅子」は、しかし、わたしにはしっくりこない。水車小屋の前で座るとき、そこに「椅子」はあるのだろうか。実際の体験ではなく、架空のことを書いたために、ことばが通い合わなくなっているのだろうか。




嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社

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