谷川俊太郎『詩に就いて』(8)(思潮社、2015年04月30日発行)
この作品は、谷川の自画像と詩の定義を書いたものである。
この作品にも「対」の構造を読み取ることができる。一連目は「詩」、二連目は「散文」がキーワードになっている。
そのことはあとで書くことにして(書くつもりだが、書いているうちに気が変わるかもしれない)、私は一行目をとてもおもしろいと思った。
ここには「主語(私)」と「述語(書く)」はあるが、「目的語」がない。「目的語」がないけれど、それは「詩」であることが推測できる。(四行目に「詩」はやっと登場する。)なぜ「詩」であると推測できるかというと、谷川が詩人であること(詩を書く人であること)を私が知っているからである。
でも、なぜ谷川は「詩を」ということばを省略したのか。
これは私の考えでは、「詩」というものが谷川の「肉体」にしっかりと結びついてしまっているからである。谷川は「省略した」という気持ちがないままに書いている。「省略した」ことについて気がついていない。こんなふうに「肉体」にしみついてしまったことばを私は「キーワード」と呼ぶのだが、「省略した」ことに気づいていないということは、また「何も考えずに」書いているということでもある。「坦々麺」には「思いがけずに」という表現があったが、「思いがけずに/無意識に」書いてしまったものが「詩」であるなら、この一行こそが「詩」というものである。省略されたことばが、省略されたまま説得力をもつとき、説明が不要なとき、それは詩である。というのは、私の「定義」であって、谷川はそう「定義」するかどうかはまた別の問題。
谷川自身は、この、省略された「詩」というものを、言いなおしている。ひとは大事なことは何度でも言いなおすものである。「肉体」にしみ込んでいて、自分自身にはわかっているけれど、わかっていながら言いなおさずにはいられないことがある。大切なこと、というのがそれに当たる。「詩」は谷川の「肉体」にしみ込んでいる。そして、それはとても大切なものである。だから、言いなおす。
好きなものを好きと「書く」ことが詩を書くこと。そして「書く」ということは、「心を動かされたとき(好きになったとき)」、「心を動かしたもの(好きなもの)」を「書く」ということ。「言葉に翻訳」するということ。「好き」というもの「心が動く」ことだが、「心が動いている」とき、それはまだ「言葉」になっていない。それを「言葉」にする。
その「言葉にする」行為を「翻訳(する)」と谷川は言いなおしている。これはどういうことか。「心が動いたとき、そこにはまだ言葉はない」と私は書いたが、実は「言葉」はある。谷川の意識はそれを感じている。「未生の言葉」が「感動」の瞬間、心のなかにある。その「未生の言葉」を、「流通している言葉」に「翻訳する」。「書く」とは、「流通している言葉」をつかって書くということなのだから。
最初の三行に「詩」ということばは出て来ないが、これは詩を定義した三行である。詩で書かれた定義である。「詩で」とことわったのは、繰り返しになるが、「詩」ということばが省略されている、つまり「詩」というものがその三行にしっかり絡み付いていて、詩とは意識されないものになっているからである。谷川は、この三行を詩で詩を定義しているとは思っていないだろう。
こういう「無意識」を言いなおすと、「詩であるかどうかは気にしなかった」ということにもなる。大事なことは、こんなふうにして繰り返されるのである。
で、そのあと谷川の考える「詩の定義」が書かれる。「詩であるのかないのか/そんなことは人が勝手に決めればいい」。つまり、ひとりひとりが勝手に決めればいいことであって、谷川自身は「詩を定義しない」と言っている。ここにも、最初の三行が詩の定義になっていることに対する「無自覚」が見てとれる。
「定義」というのは谷川の「無意識」では「散文」で書かれるものなのだろう。だからこそ、二連目は「散文」に徹して詩を定義し直そうとする。一連目のことばを「散文に変装して」と批判して、「詩に近づこう」としたものだと続ける。「詩に近づく」とは「詩の定義に近づく(詩の定義を試みる)」ということだろう。
そう考えるときの「散文」とはどういうものか。「散文」を定義すると、どうなるか。「虚構を排して可能な限り自分を正確に述べようとして」に、「定義」を読み取ることができる。散文は「虚構を排して」事実を「正確に」書くもの。「自分を」のかわりに「事実を」を補うと「散文」の定義になる。ここで谷川が「自分を」と書いているのは、ここに書かれているものが「自画像」だから「自分」ということばが動くのである。その「自分」ということばを「事実」に置き換えると、一般的な「散文の定義」そのものになる。
そうして「散文」に徹しようとして(「散文」的に詩を定義しようとして)、
という「結論」に達する。これは、一連目で書いていることは「詩を定義したことにならない」という意味であり、また一連目は詩になっていない、という意味でもある。私は冒頭の三行を無意識に書かれた詩と定義して読んだが、谷川はそれを含めて詩ではない(詩として間違っている)と言っていることになる。間違っていることにどこかで気づいていたから「詩」ということばを省略していたのだ。
こんなふうに、最初に書いたことを途中で変更してしまうのは私の癖だが、こういう書き方を「いい加減」過ぎて「論」になっていないという声がどこからか聞こえてきそうだ。だが、書いているうちに何かに気づくというのは私に言わせればふつうのことであり、最初から最後まで「考え」が変わらないとしたら、それは考えていないからだと思う。考えれば、考えはどんどん変わる。私の大好きなソクラテス(プラトン)は、対話篇の中で考え(知っていると思っていること)が変わるということだけを書いているし、谷川自身もこの作品の中で、「間違っていたと気づく」と書いて、そのあと詩を定義しなおしている。「書く(ことばを動かす)」ということは「考え」が変わることなのだ。「考え(ものの見方)」を変えるためにことばは書かれるのだ。
この二行は「間違っていた」ことを言いなおしたもの、つまり詩を定義しなおしたものである。「詩に近づく」とは「詩を定義する」こと。「詩とは何であるか」をことばで説明しようとすること。それでは詩はつかめない。逆に詩から遠ざかることになる。詩にとって必要なことは「詩に跳びこむ」こと。詩にどっぷりつかって、それが詩であるか、詩でないか、考えないこと。「何も考えないこと」。そこにあることばをただ繰り返すこと。繰り返して自分の「肉体」のなかにいれてしまうこと。「考え」を省略する、というより、「考え」を捨ててしまう。「自分のこころ」を捨てて、「無心」になって、そこに書かれていることばそのものになる。
ここで最初の一行にもどってしまう。
「何も考えずに書いていた」。それが詩。そこに「詩を」ということばは省略されていたが、詩と考えなかったからこそ、それは詩だった。省略されたものだけが「本当」なのである。本当にその人に身に付いている、「肉体」になってしまっていることなのである。「何も考えずに詩を書いていた」では「嘘」になってしまうのだ。
「詩は定義できない」というのが「詩の定義」になる。詩はただ「味わう」だけのものである。--ということは、私は、こんな文章など書いてはいけない、ということにもなるのだが……。
私、谷川
十代の私は何も考えずに書いていた
雲が好きだったから雲が好きだと書いた
音楽に心を動かされたらそれを言葉に翻訳した
詩であるかどうかは気にしなかった
ある言葉のつながりが詩であるのかないのか
そんなことは人が勝手に決めればいい
六十年余り詩を書き続けてきて今の私はそう思う
この一説は私のただの述懐に過ぎないのかそれとも
散文に変装して詩に近づこうとする言葉の策略なのか
虚構を排して可能な限り自分を正確に述べようとして
この文体は間違っていたと気づく
詩に近づこうとしてはいけない 詩に跳びこまねば!
こうして私、谷川はますます詩から遠ざかる
於台北詩歌節 二〇一四年一〇月二七日
この作品は、谷川の自画像と詩の定義を書いたものである。
この作品にも「対」の構造を読み取ることができる。一連目は「詩」、二連目は「散文」がキーワードになっている。
そのことはあとで書くことにして(書くつもりだが、書いているうちに気が変わるかもしれない)、私は一行目をとてもおもしろいと思った。
十代の私は何も考えずに書いていた
ここには「主語(私)」と「述語(書く)」はあるが、「目的語」がない。「目的語」がないけれど、それは「詩」であることが推測できる。(四行目に「詩」はやっと登場する。)なぜ「詩」であると推測できるかというと、谷川が詩人であること(詩を書く人であること)を私が知っているからである。
でも、なぜ谷川は「詩を」ということばを省略したのか。
これは私の考えでは、「詩」というものが谷川の「肉体」にしっかりと結びついてしまっているからである。谷川は「省略した」という気持ちがないままに書いている。「省略した」ことについて気がついていない。こんなふうに「肉体」にしみついてしまったことばを私は「キーワード」と呼ぶのだが、「省略した」ことに気づいていないということは、また「何も考えずに」書いているということでもある。「坦々麺」には「思いがけずに」という表現があったが、「思いがけずに/無意識に」書いてしまったものが「詩」であるなら、この一行こそが「詩」というものである。省略されたことばが、省略されたまま説得力をもつとき、説明が不要なとき、それは詩である。というのは、私の「定義」であって、谷川はそう「定義」するかどうかはまた別の問題。
谷川自身は、この、省略された「詩」というものを、言いなおしている。ひとは大事なことは何度でも言いなおすものである。「肉体」にしみ込んでいて、自分自身にはわかっているけれど、わかっていながら言いなおさずにはいられないことがある。大切なこと、というのがそれに当たる。「詩」は谷川の「肉体」にしみ込んでいる。そして、それはとても大切なものである。だから、言いなおす。
好きなものを好きと「書く」ことが詩を書くこと。そして「書く」ということは、「心を動かされたとき(好きになったとき)」、「心を動かしたもの(好きなもの)」を「書く」ということ。「言葉に翻訳」するということ。「好き」というもの「心が動く」ことだが、「心が動いている」とき、それはまだ「言葉」になっていない。それを「言葉」にする。
その「言葉にする」行為を「翻訳(する)」と谷川は言いなおしている。これはどういうことか。「心が動いたとき、そこにはまだ言葉はない」と私は書いたが、実は「言葉」はある。谷川の意識はそれを感じている。「未生の言葉」が「感動」の瞬間、心のなかにある。その「未生の言葉」を、「流通している言葉」に「翻訳する」。「書く」とは、「流通している言葉」をつかって書くということなのだから。
最初の三行に「詩」ということばは出て来ないが、これは詩を定義した三行である。詩で書かれた定義である。「詩で」とことわったのは、繰り返しになるが、「詩」ということばが省略されている、つまり「詩」というものがその三行にしっかり絡み付いていて、詩とは意識されないものになっているからである。谷川は、この三行を詩で詩を定義しているとは思っていないだろう。
こういう「無意識」を言いなおすと、「詩であるかどうかは気にしなかった」ということにもなる。大事なことは、こんなふうにして繰り返されるのである。
で、そのあと谷川の考える「詩の定義」が書かれる。「詩であるのかないのか/そんなことは人が勝手に決めればいい」。つまり、ひとりひとりが勝手に決めればいいことであって、谷川自身は「詩を定義しない」と言っている。ここにも、最初の三行が詩の定義になっていることに対する「無自覚」が見てとれる。
「定義」というのは谷川の「無意識」では「散文」で書かれるものなのだろう。だからこそ、二連目は「散文」に徹して詩を定義し直そうとする。一連目のことばを「散文に変装して」と批判して、「詩に近づこう」としたものだと続ける。「詩に近づく」とは「詩の定義に近づく(詩の定義を試みる)」ということだろう。
そう考えるときの「散文」とはどういうものか。「散文」を定義すると、どうなるか。「虚構を排して可能な限り自分を正確に述べようとして」に、「定義」を読み取ることができる。散文は「虚構を排して」事実を「正確に」書くもの。「自分を」のかわりに「事実を」を補うと「散文」の定義になる。ここで谷川が「自分を」と書いているのは、ここに書かれているものが「自画像」だから「自分」ということばが動くのである。その「自分」ということばを「事実」に置き換えると、一般的な「散文の定義」そのものになる。
そうして「散文」に徹しようとして(「散文」的に詩を定義しようとして)、
この文体は間違っていたとと気づく
という「結論」に達する。これは、一連目で書いていることは「詩を定義したことにならない」という意味であり、また一連目は詩になっていない、という意味でもある。私は冒頭の三行を無意識に書かれた詩と定義して読んだが、谷川はそれを含めて詩ではない(詩として間違っている)と言っていることになる。間違っていることにどこかで気づいていたから「詩」ということばを省略していたのだ。
こんなふうに、最初に書いたことを途中で変更してしまうのは私の癖だが、こういう書き方を「いい加減」過ぎて「論」になっていないという声がどこからか聞こえてきそうだ。だが、書いているうちに何かに気づくというのは私に言わせればふつうのことであり、最初から最後まで「考え」が変わらないとしたら、それは考えていないからだと思う。考えれば、考えはどんどん変わる。私の大好きなソクラテス(プラトン)は、対話篇の中で考え(知っていると思っていること)が変わるということだけを書いているし、谷川自身もこの作品の中で、「間違っていたと気づく」と書いて、そのあと詩を定義しなおしている。「書く(ことばを動かす)」ということは「考え」が変わることなのだ。「考え(ものの見方)」を変えるためにことばは書かれるのだ。
詩に近づこうとしてはいけない 詩に跳びこまねば!
こうして私、谷川はますます詩から遠ざかる
この二行は「間違っていた」ことを言いなおしたもの、つまり詩を定義しなおしたものである。「詩に近づく」とは「詩を定義する」こと。「詩とは何であるか」をことばで説明しようとすること。それでは詩はつかめない。逆に詩から遠ざかることになる。詩にとって必要なことは「詩に跳びこむ」こと。詩にどっぷりつかって、それが詩であるか、詩でないか、考えないこと。「何も考えないこと」。そこにあることばをただ繰り返すこと。繰り返して自分の「肉体」のなかにいれてしまうこと。「考え」を省略する、というより、「考え」を捨ててしまう。「自分のこころ」を捨てて、「無心」になって、そこに書かれていることばそのものになる。
ここで最初の一行にもどってしまう。
「何も考えずに書いていた」。それが詩。そこに「詩を」ということばは省略されていたが、詩と考えなかったからこそ、それは詩だった。省略されたものだけが「本当」なのである。本当にその人に身に付いている、「肉体」になってしまっていることなのである。「何も考えずに詩を書いていた」では「嘘」になってしまうのだ。
「詩は定義できない」というのが「詩の定義」になる。詩はただ「味わう」だけのものである。--ということは、私は、こんな文章など書いてはいけない、ということにもなるのだが……。
詩に就いて | |
谷川 俊太郎 | |
思潮社 |