詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

近藤久也「おんなと釦」

2015-12-21 10:50:24 | 詩(雑誌・同人誌)
近藤久也「おんなと釦」(「ぶーわー」35、2015年10月20日発行)

 詩を読んでいると、感想がすぐにことばになって動き出す詩と、なかなか動き出さない詩がある。あ、おもしろいなあ。でも、これをどう言えばいいのだろう。よくわからない。そういう詩。近藤久也「おんなと釦」は後者である。感想が書きたいのだけれど、書けない。まあ、書かなくても、別に困るわけではないのだが。詩は感想を言わなくたって、何か問題が起きるわけでもないのだが。

おんなの留守にこっそりと
裁縫箱ひっぱりだして
釦ひとつ
つけてみた
四十八年ぶりに
だから出鱈目だ

 うーん、「こっそり」か。なぜ、「こっそり」なのかな? 書いてないから、わからない。「おんなの留守に」だから「こっそり」なのはわかりきっているのに「こっそり」。うーん。なんとなく、ひきこまれるなあ。「こっそり」がないと、ただの釦つけだが、「こっそり」のために釦つけが釦つけではなくなっている。
 釦つけ以外の「こっそり」も、そこに入ってくる。「こっそり」としたあれこれが、私の「肉体」のなかで動きだす。
 「四十八年ぶり」か。ここにも引きつけられるなあ。「四十年」とか「五十年」という大雑把な区切りではない。よく「四十八年」なんて覚えているなあ。忘れられない何かがあるんだな。
 何があったのかな?

シャツ着て鏡の前に立ってみた
釦の位置が微妙にずれて
肝心なとき、靴ひもほどけているように
へんな糸の止め方が恥ずかしそうだ
(軍隊ではやったが刑務所はどやろ)
ふわふわと
死んだ父がそう言っていた

 わざわざシャツを着て、釦の位置を確かめているのがおかしいなあ。ほんとうに、そこまでするかな? 「四十八年」にこだわるくらい、きっちりしている人なので、こだわるのか。
 「へんな糸の止め方が恥ずかしそうだ」。うーん、微妙。「糸」は人間ではないから「恥ずかしい」なんて思わないだろう。糸に感情移入しているのか。いや、自分が恥ずかしいのを糸に押しつけている。
 そのあと、突然、父親のことばが出てくるのだけれど。
 この飛躍の仕方が、とてもいい。「糸」という自分以外のものに「感情移入(?)」したあと、そこからさらに自分以外のものへと動いていく。突然父が出てくるのではなく、その前に「糸」というクッション(?)がある。跳躍台がある。しかも、そこでは「糸が恥ずかしい」と思うという、常識の切断がある。
 というようなことを、思う間もなく。
 えっ、近藤の父親って「刑務所」に入ったことがあるの? 私は、そんなことを考えてしまう。もしかすると、それは四十八年前? 刑務所に入る前に「刑務所に入ったら釦つけも自分でするんだろうか」などと言ったのだろうか。刑務所で釦つけをしている父を思い出したんだろうか。想像したんだろうか。
 私は思わず、近藤になって、四十八年前の父親の姿を見る。近藤も、その父親を見ている。
 見ながら……。(父を思い出しながら……。)
 近藤は釦つけをしている父に自分を重ねている。釦つけをする「肉体」を重ねている。近藤の父親が刑務所で釦つけをしたかどうかはわからないが、軍隊で釦つけをしたことだけはたしかである。その、誰の助けも借りずに自分ひとりで釦つけをするときの、「こっそり」とした「肉体」に、近藤は自分の「肉体」を重ねている。軍隊での仕事は「こっそり」ではないかもしれないが、誰かにやってもらうわけではない、ひとりですることなので「こっそり」につながる部分がある。そのとき父はやはり「糸の止め方」を気にしただろうか。ほかのひとの釦のつけ方と比較して「恥ずかしい」と思っただろうか。
 「ふわふわと」は父がそう言ったときの雰囲気をあらわしているのか。「刑務所」に「ひとり」で入る不安感のようなものが「ふわふわ」とした声の響きになって聞こえたということか。そうかもしれないし、そのときの父の姿を「ふわふわと」した感じで、近藤が思い出したということかもしれない。糸が恥ずかしそうだ、というのに似ていて、「主語」が微妙にずれているように感じる。「ふわふわと」は何をあらわしているか、なんて、文法は気にせずに、どっちでもいい感じで受け止めるしかないなあ。
 このときおんな(父親の妻、近藤の母)は、どうしたのかなあ。やはり留守だったのかなあ。おんなのことは書かず、父だけを思い出しているのが、とてもおもしろい。このとき、近藤は思い出しているというより父になっている。「ふわふわと」、そういう状態になっている。父親の「ふわふわ」になっているのだ。
 で。

なじまぬ学校で習って以降
やった事のある奴とない奴と
だから出任せだ
死ねば死にきり
誰にも言わずこっそりと
やった事のある奴とない奴と

 前の二連のように「事実」が書かれているわけではなく、「思ったこと」が「ふわふわと」書かれている。「主語」とか「述語」がはっきりせず、「やった事のある奴とない奴と」ということばが繰り返されている。
 あらゆることが、たぶん、そうなのだ。「やった事のある奴とない奴と」がいる。
 そして、その「やる事」というのは「釦つけ」のようなこと。たいしたことではない。しかし誰かがしないと困ること。
 そこに「こっそり」が、また登場してきている。

 「こっそり」がキーワードなのだなあ。「こっそり」が、この詩の近藤の「肉体/思想」なんだなあ、と感じる。
 ひとには「こっそり」することがある。
 「こっそり」は「誰にも言わず」であり、したがって「誰にも知られず」なのだが。
 ほんとうかな?
 ちょっと、違う。
 「ことば」で「誰にも言わ」なくても、「肉体」が語ってしまうものがある。
 釦つけ。その糸のへんな止め方、恥ずかしそうな止め方。それを見れば、釦つけをしたのが誰だかわかる。男の手でしたのか、(なれない手がしたのか)、おんなのなれた手がしたのか。
 「こっそり」は隠せない。

やった事があるのにやっていないと
やった事もないのにやってしまったと
生きているみたいに
ひらひらと
言の葉あやつる奴は
たちの良くない
与太だ

 これは、何の感想だろうか。
 父は釦つけを軍隊でやったと言った。でも、やっていないように暮らしてきた。(おんなが、妻が、釦つけをしていた。)ほんとうだろうか。父は「やった事はない」。しかし、何かの都合で「やってしまった」と言った。そのために刑務所に入った。でも、その言い分はほんとうか。
 よくわからない。
 しかし、たしかにひとは「やった事があるのにやっていない」と言うときもあれば、「やった事もないのにやってしまった」と言うこともある。その「嘘」のなかには、何か「こっそり」した真実がある。そのひとにしか知らない「事実」がある。
 それは「言の葉(ことば)」でつきつめてもしようがない。ことばにしてしまえば「与太」になってしまう。
 「ことば」にしないとき、その「こっそり」は詩になる。「こっそり」は、それぞれの「肉体」のなかにしまいこまれて、恥ずかしそうに生きていく。

 もっとほかのことも考えたのだが。たとえば「こっそり」と生きている近藤は、表立って「これこれのことをやった」と主張して生きているひとに対して怒っている。それがこの詩のことばの動きを支えている、というようなことも感じたのだが、うまくことばにならない。ことばにしなくてもいいのかもしれない。私のことばは、どっちにしろ「与太」なのだから。



オープン・ザ・ドア
近藤久也
思潮社

*

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北川透「海象論B」(追加)

2015-12-20 22:17:17 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「海象論B」(追加)(「KYO響」9、2015年12月01日発行)

 北川透「海象論B」で書いたことの追加。(目の調子が悪く、本がなかなか読めない。前回書いたことの追加を書いておく。体調が悪いと、ことばはどうしても抽象的に動いてしまうが、どんなふうに抽象的になるのか、見つめなおすことができるかもしれない。)

あれは波の音ではない
貝の泣き声でもない
光る海の切っ先たちの穏やかな孤独
われらに神もけだものもなく
嵐を孕む海の感情の盛り上がりもないが

 この部分について、私は、ここには「区別/区別する」ということが省略されていると考えて、次のように補足した。

あれは波の音(として「区別」できるもの)ではない
貝の泣き声(として「区別」できるもの)でもない

 この「区別/区別する」を、「分節/分節する」ということばで言い直したが、これをさらに補足すれば、

あれは波の音である。しかし、波の音として分節はしない
貝の泣き声である。しかし、貝の泣き声として分節はしない

 ということになる。
 「流通言語」なら「波の音」「貝の泣き声」として「分節」される。(「貝の泣き声」の方は比喩であるが……。)そう認めた上で、「波の音」「貝の泣き声」という表現にとらわれずに「世界」に向き合うということ。
 そのとき、その冒頭に出てきた「あれ」が問題になる。
 「あれ」とは何か。
 「あれ」は「あれ」でしかない。「あれとは何か」という問いの形でしか存在しない、存在のありようである。「あれ」と言ったときに、そこにすべてが含まれてしまう。含まれている。
 「あれ」と言ったとき、詩は始まり、詩は完成している。
 などと書いてしまっては、感想にならないかもしれないが、実際に、北川は「あれ」と書いた瞬間に、もうその詩完成させていると思う。そのあとにつづくことばは「分節」をめぐる行ったり来たりである。
 こんなことを書いていると禅問答か一元論のあれこれみたいで、にっちもさっちもいかなくなる。そこで私は、前回は、「分節」ということばに逃げ込んだ。

 そのとき書いたことの補足。
 井筒俊彦は「分節/無分節」という表現をつかっている。
 「無分節」とは「分節されていない状態」であり、「混沌」であり、「エネルギーの場」のようなものだ。そこから、たとえば「波の音」が「分節」されてくる。「波の音」ということばと同時に、「波の音(現実)」があらわれてくる。
 「無分節」→「分節」という運動がある。
 こういう「運動」に、もし「無」そのものをあてはめると、どうなるか。「無」を「分節する」とどうなるか。「無」ではなく「空」になると、私は思う。「無分節」の「無」が混沌としたエネルギーの塊のようなものであるのに対して、「空」はそれが純粋に結晶化されたようなもの。完璧に概念化された抽象のようなもの。「空」は「完璧/全存在」のことである。
 「無/混沌(全存在)/矛盾/不完全」であるのに対して「空/完璧/全存在」。「無」が「分節」されて「空」になる。
 この「無-分節-空」という運動が、私には、少し「美しすぎる数式」のように思えて不安である。「頭」のなかだけでことばが動いている感じがして、私の「実感」にはならない。
 それで、私は「無分節」ということばを避けている。「分節」についてもう少し考えたいことがある。「分節/無分節」ということばをつかうかぎり、井筒俊彦の考えをふまえないといけないのだが、私は井筒俊彦の考えを理解しているとは言えない。著作も読んでいないので、「分節/無分節」ということばから離れたいという思いもある。
 私は「分節」という名詞を「分節する」という「動詞」に読み替えることができるかどうか、から考えはじめた。「分節する」という動詞に読み替えることが可能だと私は思う。「動詞」であるということは、そこに「肉体」が入り込む余地がある。「分節する」という運動を「精神的/頭脳的(概念的)」な運動と考えることもできるが、どんな概念的な運動であっても、最初は「肉体」を動かすと思う。
 森田真生は『数学する身体』のなかで、人間はまず肉体(手足や指)をつかって数を確かめ、計算をし、それを積み重ねることで、「肉体」をつかわずに「頭」で数字を動かすようになると書いていた。同じように、世界に向きあったとき、最初に「動く」のは「肉体」だろうと私は考えている。

あれは波の音ではない

 このことばから考え直してみる。
 「あれは波の音ではない」と、ことばが動くとき、「耳」が動いている。「耳」というのは手のように何かを選り分ける力がない(「選り分ける」に「分節する」の「分」ということばが入り込んでいる)。「耳」に入ってきたものを受け入れるだけである。だから「分ける/分節する」という動詞になじまないような気がするかもしれないが、やはり「分けている」のだと思う。むかし聞いた幾つかの音と比較しながら識別/区別を繰り返し、「あれは波の音」であると「聞く」。それが「分節する」ということ。そのうえで、「あれを波の音として分節しない」と北川は書いている。これは、いま「聞こえている」音を「波の音」として「聞かない」ということである。「波の音」と呼ばれるよりも「前」にもどって、そこにあるものをつかみなおそうとしている。つまり「分節」しようとしている。ほかのものを「聞き」取ろうとしている。
 「分節する」ということばでは「抽象的」になり、そこに「肉体」が入り込む余地が見当たらないが、「分節する」ということばのかわりに「聞く/聞かない」という動詞をつかって言い直すと、そこに「肉体/耳」がしっかりと組み込まれる。
 「肉体」が組み込まれると、そこに書かれていることを、「自分の肉体」で確かめることができる。「波の音」が「聞こえてくる」。しかし、それを「波の音」とは「聞かない。「波の音」とは言わない。そうではないもの、まだ「ことば」になっていない何かであると「聞き」とろうとする。こういう「肉体」と「意識」のあり方なら、想像できるだろう。「あれは波の音ではない」と書いたとき、「波の音」であると「聞き」、またそう書くことができるのだけれど、そう「書かない」、そう「聞き取らない」北川がそこにいる、と「肉体」の存在としてつかみとることができるだろう。
 それでは「あれ」とは何なのか、と言えば……。
 私なら「あれは私だ/あれは私の肉体だ」と言ってしまいたいのだが、それでは北川の詩ではなくなるかもしれないから、いまはそこまでは書かない。「あそこにあるものは、私の肉体そのものであり、それが波の音と呼ばれることを拒絶している。なぜなら、それは波の音ではなくて、私の肉体(存在)そのものであるから」とは、書いてしまってはいけないと思う。(書いているのだけれど……。)北川のことばを追いかけながら、私が「肉体」でつかみとったのは、そういうことである。

 もう一度、「分節する」という動詞に引き返す。
 「分節/無分節」に動詞(肉体)を関係づけることで、「無分節」を「未分節」に書き換えられないか考える。「分節する」とき「肉体」がなんらかの形で動いている。

あれは波の音ではない

 そう書くとき、そこに「耳」という「肉体」が「聞く」という動詞といっしょになって動いている。「波の音」という「流通言語(流通する分節)」によって表現されているものに対して「肉体」が違和感を感じている。その「違和感」をことばによって表現しようとしたものが詩。生まれてきたことばが詩。言い換えると、このとき北川は「流通言語(流通分節)」とは違った形で世界を作りなおそうとしている。新しく「分節」しようとしている。「波の音ではない」と書くことで、世界を新しく生み出そうとしている。
 そういう仕事は「分節された世界」そのものの中ではできない。いったん「分節以前」にもどらないといけない。「あれは波の音ではない」と書くことで、北川は「波の音」という具合に分節された世界を拒絶するだけではなく、「分節以前」に戻ろうとしている、と私は考える。
 「詩」は、詩人が「分節以前」にもどって、そこから詩人の「肉体」をつかって、もう一度世界を「分節する」ときに生まれる。そういうとき、とりあえずの「出発」は「あれは……ではない」という形をとるのだと思う。既成の「分節」を否定する。あれは、「波の音」として「聞こえる」。しかし、「耳」を「流通する常識」から解き放して、世界に向き合う。「耳」を常識から解き放つために、まず「波の音ではない/波の音として聞かない/波の音として書かない」という運動がある。
 そうすることで「分節以前」に戻る。「無分節→分節」と進むのではなく、「分節」から「分節以前」に戻ってみる。私たちは生まれたときから(「肉体」をもって、この世界に入り込んだときから)、「分節」された世界と向き合っている。「無分節」というのは、出発点として想定するのは、とても難しい。(と、私は感じている。)
 で、この「分節以前」を「無分節」ではなく、ほかのことばで言いなおすとどうなるだろうか。
 「以前」というのは「過去」。その「過去」を起点にして考えると「分節された世界」というのは「未来」かもしれない。「分節以前」が「未来」に「分節」になる。その「未来」とは、どういう意味か。「未だ、来ない」。その「未だ」をつかって、「分節以前」を「未だ、分節される前」と言い直すことができるのではないだろうか。
 ここから、私は「未分節」ということばを思いついた。「未だ、分節していない世界」。そして、何によって未だ分節されていないかというと、「肉体」によって未だ分節されていないということ。「私の肉体」によって未だ分節されていないということ。
 これは別な言い方をすると、「肉体」とともに「分節」がはじまるということでもある。人間は「肉体」をもって生まれてくる。その「肉体」が世界を「分節」する。もちろん他者のつくりだす「分節」の世界に向き合い、その世界が絶対的に大きいのだけれど、それでもその大きさに対抗するように自分自身の「肉体」で「分節」をこころみ、自分の世界と他人の世界を合致するようにかえていくのだと思う。そうやって生み出されたのが「詩」。
 ある「音」を耳で、聞く。その音を、周りの人が「波の音」と呼ぶ。波の音は波が岸辺(岩や何か)にぶつかる音だから、それは「岩の音」でもありえるのだが、「波の音」と「分節する」のが、世界にとっては「合理的」なのだ。そういうことを「肉体」でととのえていく。「波」を見て、「波」に触って、というような「肉体」による体験を積み重ねて、自分の世界と他人の世界を合致させる。
 「肉体/動詞」が「未分節(分節以前)」を「分節」にかえていく。私は、そう考えている。「未分節」を「分節する」のが「肉体/動詞」であると私は考えている。だから、「動詞/肉体」にこだわって、「ことば」がどう動いているかを追いかける。「波の音」なら「耳/聞く」が「分節する」と木の「主語」と「動詞」になる。そう把握した上で、その「動詞/肉体」を追いかけると、私自身の「肉体」が「ことば」を書いたひとの「肉体」に重なる。この瞬間、私は「わかる(わかった)」と感じる。「誤読」かもしれないが、私自身は「わかった」つもり。
 「あれは波の音ではない」。「波の音」と呼ばれているが「波の音」として「耳」は聞かない。「聞かない」ということは、別の「音」として「聞き取る」方へと「肉体(耳)」動かしていくことである。その「耳(肉体)」を動きを思うとき、私は私の「肉体」が北川の「肉体」と重なったように「錯覚」する。「一体」になったように「錯覚」する。北川の「肉体」といっしょになって、世界を「分節しなおそう」としているように「錯覚」する。詩の体験である。
 その「錯覚」のなかで、私は「無分節」「分節」「空」というような世界(概念)があるのではなく、「肉体」だけが「世界」であるとも考えている。
 このとき「肉体」というのは、もちろん「私の肉体」ある。「この世界にあるのは私の肉体だけ」。こう書くと、私は「自己中心的な存在」になってしまうが。
 しかし、私はときどき、街路樹を見ながら、あの木のところまでが「私の肉体」と感じるときがある。そこに「木」という「私以外のもの」があるのではなく、「あそこに私の一部が木として立っている」と感じることがある。そこまで行って、木に触れると、ふっと力が抜ける。あるいは力が満ちる。
 それは生きものではなく、無機物に対しても感じることがある。
 たとえば道に迷いながらフィレンツェを歩く。ドーモを目指す。屋根が見える。その瞬間、自分がドーモとつながった感じになる。そうすると、それから先は私が歩いてゆくというよりも、そこにある「肉体」が私の「ほんとう」であって、その「ほんとう」に誘われ、導かれて、「ほんとう」になりにゆく、という感じ。
 こんなことを書くと、個人の「肉体」のひろがりは限定的であり、世界の広さと比較するとありまりにも小さい。「世界」すべてを「肉体」に一元化してとらえるのは絶対無理である、と言われそうである。「私」を超えるところに、「私」の知らない(わからない)何かが動いている、と。しかし、ひとり、私「一個」の「肉体」にしたって、そのすべてを把握して私は生きているわけではない。こうやってワープロを打っているときは、手と目はつかっているが(無意識に声を出して、声帯を動かしてもいるだろうが)、意識しないまま動いている「肉体」もある。心臓とか。「わからない/知らない」ものはある。それでも「世界(肉体)」は存在している。「わからない/知らない」からこそ、その「わからない/知らない」部分を少しずつ「肉体」で「分節」してゆくのである。

 だんだん書いていることが抽象的になり、どんどん北川の詩から遠ざかってしまったかもしれない。抽象的なことばは、どうしても、こんな具合に暴走する。だが、前回、抽象的に書きすぎたので、どうせなら抽象を暴走させてしまっておいた方がいいだろうと思って、追加した。私はこの日記でしきりに「肉体/動詞」という表現をつかうが、その理由も少し説明しておきたかった。私の書いていることを伝える参考になるかもしれないと思って。


なぜ詩を書き続けるのか、と問われて
北川透
思潮社
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J ・J ・エイブラムス監督「スター・ウォーズ フォースの覚醒」(★★)

2015-12-20 20:52:58 | 映画
監督 J ・J ・エイブラムス 出演 デイジー・リドリー、ハリソン・フォード、キャリー・フィッシャー、アダム・ドライバー

 期待外れ。
 「スター・ウォーズ」の魅力は、結局「ダス・ベーダ」だったのだ。悪役が弱いとまったくおもしろくない。で、その悪役がハン・ソロとレイヤ姫の息子。父と息子が「愛憎」のなかで出合うなんて、安っぽいメロドラマ。
 悪役がハン・ソロとレイヤ姫のあいだの息子なら、主人公(?)のレイはルークとだれかのあいだの子ども? 次の作品では、そういうことが描かれる? そんなもの、見たくないなあ。
 第一作の登場人物(キャラクター)が「ヨーダ」「オビ・ワン・ケノビ」をのぞいて出てきて、「復習」をかねたつくりになっているのだけれど、おもしろみにかける。新キャラクターが、ボール型ロボットだけというのも、つまらない。
 主人公の「フォースの覚醒」がストーリーといえばストーリーだけれど、こんな見え透いたタイトルも興ざめ。いきなりダークサイトの騎士と対面し、そこで覚醒するというのも「紙芝居」。
 つじつまを合わせようとしすぎている。
 唯一おもしろいと思ったのは、白いヘルメットの兵士の最初のシーン。仲間が倒れる。その体に触れる。血が流れている。その血が兵士のヘルメットに三本、指の跡となって残る。あ、「スター・ウォーズ」って、血を描いてきたっけ? 宇宙での戦闘が中心で、もっぱら宇宙船が壊れるだけ。ライトセーバーをつかってのルークとダス・ベーダの戦いだって、腕が切られても血は出なかったように思う。出ていたかもしれないが、今回のように、「血」としてくっきり見えるようには描かれていなかったと思う。(思い出せない。)で、あ、今回は血(肉体)がリアルに描かれるのか……と期待したのだが、そうではなかった。
 やっぱりダークサイトとフォースという「精神面」の戦いが主流。
 でもさあ。
 ダークサイトとフォースの戦いというのは、結局、人間の「成長物語」だね。何を悪と判断し、それをどう乗り越えていくか。精神の葛藤。だからこそ、そこに「父/子」の対立というか、「父」を乗り越えていく「息子」というストーリーが必要になってくる。一種の「神話」だね。
 それが、今回のように遠い記憶(少女が泣いている)のような形でぽつんと出されてもねえ。これでは、「神話」のはじまりというよりも、捨てられた少女(両親がだれが、描かれていない)の「トラウマ」の克服にすぎない。まあ、次回で、いろいろ見せてくれるのかもしれないけれど。
 主役を女性にかえ、脇役にアフリカ系を登場させるというのは、「現代風」のアレンジなのかもしれないが、わざとらしい「新味」だなあ。背景も、砂漠も、森も、海も、宇宙も……と舞台も総花的で、これといった見どころがない。あ、これは私が、もう「宇宙ものの特撮」になれてしまったということかな? 特撮よりも、途中に出てくるチープな酒場(ごちゃまぜのキャラクター)の部分に「手作り」の味を感じ、こっちの方がおもしろいのに、と思った私はあまのじゃく?
 気になったのが、主人公の少女が持っている「長い棒」のようなもの。最初と、最後は大事そうに持っていたけれど、途中はほったかし。次回からの「ライトセーバー」?

                   (天神東宝スクリーン1、2015年12月20日)



「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
アート・オブ・スター・ウォーズ/フォースの覚醒
フィル・スゾタック,リック・カーター
ヴィレッジブックス
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梁川梨里「溢れる」ほか

2015-12-19 12:07:25 | 詩(雑誌・同人誌)
梁川梨里「溢れる」ほか(「 a calm 」3、2015年12月発行)

 梁川梨里「溢れる」の書き出し。

注いだ水が溢れ出す頂点で膨らんだ
針の先で突けば雪崩る、その表面の
ぷるぷると揺れる様が、肉を帯びている

 「肉」か。その「肉」はどこからきたのかな? 「筋肉」とは違う感じ。筋肉なら、ぷるぷるとは揺れない。「筋」を持っていない、もっとやわらかい何かだ。

骨がない不安定な揺らぎは
焼き場から立ち上る煙ほどに
地球の大気を沸騰させた

 梁川は「筋」がないとは言わずに「骨がない」と書く。このとき「肉」と「骨」は、では何でつながっているのか。よくわからない。そのあとの「焼き場……」は、「骨がない」の「ない」からつづいていく「喪失感」を書いているのだろうけれど、ちぐはぐな感じがする。「沸騰させた」というような比喩は抽象的、おおげさだなあ。

海も盛り上がった姿をして引き摺り込もうとしている
身投げ寸前の魂の切れ端を

 この二連目は、一連六行を言い直したものだろう。「水」は「海」、表面張力でふくらんだ形は「盛り上がった」と言い直され、さらに表面張力がくずれ(雪崩れ)ていく様子をに波が重ねられ、「引き摺り込む」(ひとをまきこむ)という「動詞」が重なる。そこから、「死」が引き出されるのだが、これは「焼き場(死)」の言い直しである。
 わかるのだけれど(わかるからかもしれないが、といってもこれは私の「誤読」だが)、どうもしっくりこない。「肉」の「比喩」がどこかへ消えてしまっている。
 そう思っていると、「死」をさらに言い換えた三連目のあと、つまり四連目に、突然「肉」が復活する。そこから、詩はおもしろくなる。

回帰する。
胎内の坂道を一気に駆け上がり
盛り上がったぴんく色の肉で行き止まりだった
はずの場所に穴が空いている
ドクンドクンと揺れる壁の闇を抜けた
安堵が歪ませた水晶体の縁に沿って
押し上げる水の、ふくよかな丸み

ああ、ここはわたしのまな裏か、
涙がなみなみと注がれ、零れる寸前で停止している

 「注いだ水」が「涙」にかわっている。「海」が「なみなみ(波波)」に変わっている。それが「頂点」にまで達し、零れようとしている。
 何か悲しいことがあって(それは「死」ということばで象徴される喪失感のようなものだろう)、その悲しみが涙という「もの」に具体化されて、「肉体」から溢れる、その寸前の不安定な恍惚感が書かれている。
 で、そういう「意味」ではなくて、私は、ここに出てきた「肉」がとてもおもしろいと思った。
 「胎内」ということばを手がかりにすれば、「坂道」の先の「行き止まり」は「子宮の壁」かもしれない。男の連想というものは、こんなふうに「定型」を動くだけなのだが、そんなことを思っていると、「穴が空いている」ということばが出てきて、びっくりする。えっ、「穴」って「膣」? そこから子宮へと坂道を駆け上ってきたのじゃなかったのかい? 混乱するのだが、その「穴」は、実は「まなこ」。目。
 子宮と目は直接つながっている?
 たぶん、梁川にとっては、そうなのだ。
 そしてその「直接」を「肉」と言い換えると、もっと正確になるのかもしれない。子宮と目(涙/感情)は「ぷるふぷる揺れる/肉」によってつながっている。あいだに「骨」が入ることはない。「骨」は「感情」の揺らぎを支える「理性」かもしれない。
 こういう「誤読」の仕方も、男の思考の「定型」にすぎないのだと思うが、「定型」だとしても、このとき、私の「定型」は一度破壊されている。
 女の「穴」を「膣」と見て、それが「子宮」につながっている、というところまではどんな男でも「連想」する。そういう連想しかない。けれど、梁川はその「穴」を「膣」とは反対方向(?)のところに見つけ出している。「目」につないでいる。「子宮」から「目」までは、物理的に(肉体的に?)かなり距離があるが、その距離を無視して「直接」つないでいる。膣から女のなかに入り込んだペニスは、どんなにがんばってみても、目にまでは到達しない。精子だって、そんなことろまでは遠征しない。だから、男は子宮の、膣とは反対側の「穴」が「目」であるとは考えないし、それを「肉」というひとことでつないでしまおうとも思わない。
 そうか、女にとって(梁川だけかもしれないが……)、「肉」とは「ひとつ」であり、区別されないものなのだ。手の「肉」、足の「肉」、内臓の「肉」というような区別はなくて、全部が「肉」なのだ。「肉体」、からだ、なのだ。
 私は「肉体」ということばをよくつかう。そして、そのとき「肉体」のなかで目とか耳とか手とか足とか、つまり視覚、聴覚、触覚などが融合する「場」があると考えているのだが、女(梁川)はそんなめんどうなことを考えず、すべてを「直接」むすびあっているものと感じている、すべては融合してしまっていて、区別なんかする必要がないと感じているのかもしれないなあ。
 そうか、そうなのか。

あふれる先を知らぬまま消される意識もまた溢れだし
溢れたものたちが犇くわたしの中で
小さな、わたし、が消えたり点いたりして回っている

 「犇くわたし」(複数)と「小さな、わたし」(複数のうちのひとつ)。これは、「涙(感情)」と「意識(精神/理性?)」の関係を言い直したものだろうか。 「小さな、わたし」に対して「大きな、わたし(全体としてのわたし)」があり、それを「肉」と、梁川は呼んでいるのかもしれない。



 麻生有里「缶の行方」は小説のように、人間の行動と心理を描いている。

その夜カイさんが
土砂降りの雨の中に立っていた
轟音の中で髪もシャツも水浸しだ
カイさん と声をかけると
何も答えずこちらを見てにっと笑い
空き缶を足元に置いて
勢いよく蹴り飛ばした
(あ、そうか隠れなきゃ)
反射的に思って
わたしは雨粒の陰に身を隠した
轟音が響いて止まない
雨と汗とで全身がずぶ濡れて
いつもとは違ったカイさんの笑い方が痛い

 「笑い方が痛い」の「痛い」というようなつかい方は、最近「口語」でよく耳にするが、「痛い」ということばをつかわずに「痛い」と書いてくれると、「(あ、そうか隠れなきゃ)」から「身を隠した」までのことば、「缶蹴り遊び」と現実の交錯が、より強くなると思った。

 深町秋乃「まちかど」は、世界と内面の「断絶」が、逆に世界と人間の「接続」を覚醒させるという感じの作品だが、私にはカッコのつかい方が記号的すぎるように思える。カッコをつかわずに書かれた断絶と接続の交錯を読みたい。

詩誌「妃」17号
仲田 有里,管 啓次郎,鈴木 ユリイカ,田中 庸介,マチュー マンシュ,梁川 梨里,広田 修,長谷部 裕嗣,月読亭 羽音,後藤 理絵,瓜生 ゆき
妃の会 販売:密林社

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
B5版、50ページのムックタイプの詩集です。
非売品ですが、1000円(送料込み)で発売しています。
ご希望の方は、
yachisyuso@gmail.com
へメールしてください。

なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
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宇佐美孝二「手のひと」

2015-12-18 10:00:54 | 詩(雑誌・同人誌)
宇佐美孝二「手のひと」(「アルケー」11、2015年12月01日発行)

 宇佐美孝二「手のひと」はレストランでのひとこま。ガラス戸越しに赤ん坊と出会う。

児の小ちゃな手がガラス戸にのびた
妻が手を差し出すと、児もおずおずと手を合わせてきた
透明なガラスをはさんで手と手が触れあった

児の手にはすでに生命線と呼ばれるものが刻まれていた
手の中にこの児の未来が隠されている

 手を「合わせる」、手が「触れあう」。それは直接の接触ではない。二重の意味で直接ではない。ガラス戸越し、赤ん坊の手と「触れあう」のは妻の手。宇佐美の手ではない。だが「合わせる」「触れあう」という「動詞」のなかで、宇佐美の手は妻の手になる。そして、また赤ん坊の手になる。
 ここから詩が(ことばが、思想が)動きはじめる。
 赤ん坊の手のひらに「生命線」を認めたとき、赤ん坊は、もう赤ん坊ではない。隠された「未来」を、そして「時間」を宇佐美は見ている。

児は成人になり、河口に向かうように老いてゆくだろう
川の流れはほかの流れと合流し、やっとひとつの道すじをつくるだろう

 これはしかし、ほんとうに赤ちゃんの「未来」だろうか。そうではなくて、宇佐美の「過去」ではないのか。
 その「過去」のなかに、とてもおもしろい「ことば」がある。

合流

 このことばのなかには、先に読んできた「合わせる」の「合」の文字が出てくる。
 この「合流する」は、「合流した」あと、変化する。「ひとつの道すじをつくる」。
 ひとは「ひとり」では「道すじ」をつくれない。だれかと会って、そのひとと「手を合わせて」、その結果、「ひとつの道すじをつくる」。
 宇佐美は妻と出会い、こうして生きている、という「過去」を思い出している。
 自分の「体験」から、赤ん坊の「未来」を想像している。
 それだけではない。
 赤ん坊の「未来」を想像することをとおして、自分自身の「過去」をととのえているのだ。いま、自分の生きていることが「ひとつの道筋をつくっている」としたら、それは妻と出会い、手を合わせて、いっしょに生きてきたからだと、ことばで「時間」をととのえている。
 「過去」は、こんな「比喩」になって、宇佐美の前にあらわれる。

木の葉の堆積によって
あるいは雨季や乾期によって
川は流れをさまざまに変えるだろう
そこに出会いがあればなお、川は可変性に満ちた川になりえるのだ
児の手の中を流れる川

 ここにも「出会い」と「あう」という動詞が出てくる。そのあとの「可変性に満ちた川」とは、出会いによって、川の流れは必ず変わり、変わることが「ひとつの道筋をつくる」ことだと言い直されていることになる。
 ここまでは、いわば宇佐美の「経験」。静かに語られた「人生」。
 このあと、ことばが突然飛躍する。

川には一艘の舟が浮かんでいる
くらい空の、誰ひとり乗っていない、
水を漕ぐための櫂さえもたない舟は、天空の星をいっぱい湛えた川とともに流れていく

 ほーっと、声が漏れた。美しいイメージだなあ。
 一呼吸おいて、考えた。
 「川」が「舟」に「主役」の座を譲っている。
 「舟」はなんだろう。どうしても赤ん坊を思い浮かべてしまうが、赤ん坊は「川」という「比喩」ではなかったか。いや「川」は「時間」の比喩であって、赤ん坊の比喩ではなかったのか。
 うーん。
 こういうことは、厳密に「論理」にしてはいけないのだろう。
 「川」は赤ん坊でもあり、時間でもある。そして、そういう比喩で語られるとき「川/赤ん坊」は宇佐美自身でもある。
 その比喩に、もうひとつ「舟」という比喩が重なったのだ。
 赤ん坊/川/舟と、瞬間瞬間にことばは変わってしまうが、それはその瞬間に何かが一番前に出てきて、それが「目立つ」というだけのことであって、それは「ひとつ」のもののだ。
 だから、というわけではないが、

舟は、天空の星をいっぱい湛えた川とともに流れていく

 ここに「ともに」という副詞が「ひとつ」を強調するように動いている。副詞は動詞とかたく結びついている。動詞のあり方を鮮明にする。
 川はただ流れるのではない。舟とともに流れる。そして、そのとき、川には天空の星がいっぱいに輝いている。川は天空の星とともに流れる。つまり、このとき川は天空の星とも一体(ひとつ)なのだ。
 舟を乗せて川は流れ、川の流れは他の川の流れと出会い、「ひとつ」になることで、さらに天空の星(宇宙)そのものにもなる。

 これは、宇佐美の「過去」か。「過去」かもしれないが、「祈り」でもあるだろう。残された人生への「祈り」であり、また、きょうであった赤ん坊のための「祈り」でもある。「あう/合う/会う」とは、こういう「ひとつ」へ向けて、自分自身が変わってしまうことをいうのかもしれない。
 詩は次のことばで閉じられる。

手の
そこから流れ出る日々の
手のひとよ

きみは流れつづけよ。

森が棲む男
宇佐美 孝二
書肆山田

*

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イスラエル・ホロビッツ監督「パリ3 区の遺産相続人」(★★)

2015-12-17 11:00:48 | 映画
イスラエル・ホロビッツ監督「パリ3 区の遺産相続人」(★★)

監督 イスラエル・ホロビッツ 出演 ケビン・クライン、クリスティン・スコット・トーマス、マギー・スミス

 パリ(フランス?)にはなかなかおもしろいシステムがある。不動産を持っている高齢者が住宅を売る。ただし即売というわけではない。売り手は死ぬまでそこにすみつづける権利があり、「年金」を買い手から受け取る。死んだら不動産は買い手のものになる。売り手が早く死ねば買い手がもうかり、長く生きていると買い手が損をする。ときには買い手が先に死んでしまうこともあるらしい。
 そのシステムを利用して、父親がアパートを買った。父親が死んで、息子がそのアパートの相続にパリに来てみたら92歳の老人が、まだ元気に生きていて……というストーリー。そのうち、父親はアパートを買うことが「目的」ではなく、そこに住む老いた女性の老後を支えるために、その「年金システム」を利用したということがわかる。父親と女性はかつては恋人。女性の夫が先に死んでしまったので、彼女の生活を支えるために「年金システム」を購入したのだ。息子は、そんなこととは知らず、アパートを売れば一儲けできるくらいの気持ち。
 で、映画のおもしろさは、そういうこととはあまり関係ない。
 だいたい「人間関係」がややこしく、しかもそれは「秘密」だったことがら。それをせりふで説明するのだから、どうもめんどうくさくていけない。劇的な展開もない。小説なら、きっとおもしろい。自分のペースで「ことば」を読み進み、その瞬間瞬間、登場人物の「心情」を想像し、共感したり、反発したり、じっくりと楽しむことができる。
 映画は、そういう具合にはいかない。役者の演技のスピードにあわせて観客が「感情」を共有しないといけない。なかなか、むずかしい。
 はずなのだけれど。
 これが、なかなか。
 ケビン・クライン、クリスティン・スコット・トーマスがうまいんだなあ。特別かわった演技をするわけではない。ただそこにいて、せりふをしゃべるだけ。よけいなことをしない。その、そこにいるだけ、という感じが古いパリのアパートの感じに非常によく似合っている。
 古いアパート、庭の緑、街並み……が持っている「時間」がある。その「時間」と「同化」する感じで、二人が生きている。ケビン・クラインはニューヨークからやってきたので、ほんとうはパリは知らない街、そこに「衝突」が起きても不思議ではないのだが、小さいころパリにいたという設定。それがなんとも心憎い感じで、パリになじんでいる。「違和感」をときどき出しながらも、基本的にパリに「同化」している。基本は「パリッ子」という感じ。ふるさとに帰って、ふるさとの「時間」を思い出し、ふるさとの人間にかわっていく感じ。
 自分を「取り戻す」という感覚かな。
 この「自分を取り戻す(あるいは自分を発見する)」という感じと、古いパリのなじみ方が、いや、ほんとうにおもしろい。
 人間ドラマなのだけれど、それが「個人的人間」というよりも、パリの人々の生き方のドラマになっていて、ケビン・クライン、クリスティン・スコット・トーマスという「個人」が見えてくるというよりも、パリそのものが見えてくる。「個人的な感情のドラマ」が個人的な「肉体」のなかで浮き上がってくるというよりも、あふれてくる感情が、静かに古いアパートの調度、窓から入ってくる光、空気のなかにひろがって、そこに溶け込んでいく感じ。どんなに感情があふれても、それを受けいれる「空気」がある。その「空気」のなかに、人間が落ち着いてゆく。「空気」のなかで「ほんとうの姿」に戻っていく。
 この「空気」を壊さないように、ケビン・クライン、クリスティン・スコット・トーマスが演技をしている。「空気」にもどっていくのが、当然、自然、という感じの演技をしている。なかなかすごい。
 マギー・スミスもイギリス人の役なのに、パリに長い間すんでいて、もうパリのひとという感じ。パリを生きている。イギリスの「個人主義」では、何と言えばいいのか、家具さえも「聞いていないから秘密は知らない」という感じの独立感(拒絶感)があるのだが、パリでは「聞いていないけれど、みんな知っている(知らないとは言わせない)」という「秘密の共有感」がテーブルや椅子や食器(食事)にまであふれ、「空気」になっていて、そういう感じをマギー・スミスも体現している。(マギー・スミスとクリスティン・スコット・トーマスのクライマックスの会話は、「知らないとは言わせない」という感じの、「秘密」の暴露だよね。イギリスの会話なら、そういうことは知っていても「聞いていないから知らない」という「過去」を無視した展開になる。)
 セーヌ河は出てくるが、特に「名所」が登場するわけでもないのに、いや登場しないからこそなのかもしれないが、パリが美しい。「恋愛」というものは、いつでも美しいと同時に、どうすることもできない「不純」を抱え込んでいるものだが、だからこそ人間の美しさが浮かび上がる。「不純」をつきやぶる「いのち」が美しくなる。そういうことが、パリではいつでも起きる。
 パリにいる気分になってしまう。パリにゆきたくなる映画である。
                      (2015年12月16日、KBCシネマ2)





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浦歌無子『深海スピネル』

2015-12-16 14:48:43 | 詩集
浦歌無子『深海スピネル』(私家版、2015年秋発行)

 浦歌無子『深海スピネル』には四篇の詩が収録されている。どこを、どう読めば浦の「肉体」に接近できるのだろうか。
 手がかりは、「影待駅」の次の部分。

駅前には長い列ができている
長い長い葬列だ
お葬式の最中なのだ
父が遺影を持っている
母が花束を抱えている
姉が手旗を掲げている
葬列が長いのは同じ人間が繰り返し並んでいるからだ
一番先頭の母が持っている花束は青いカーネーション
二人目の母は緑の百合
三人目の母は赤いひまわり
姉たちはみな黒いワンピースを着ている
先頭の姉はシフォン生地のアコーディオンプリーツ
次の姉は繊細なレースのフレアワンピース
その次の姉の胸元にはベルベットの大きなリボンが結ばれている

 特に「葬列が長いのは同じ人間が繰り返し並んでいるからだ」がおもしろい。「同じ」と「繰り返し」が「長い」の理由。「長い」は形容詞だが、私は形容詞を「用言」の範疇でつかみとることにしている。「動詞」の一種だと思う。
 この詩の場合、「長い」は「状態」をあらわすだけではなく「長く+する(なる)」という感じでとらえてみる。

葬列が長いのは同じ人間が繰り返し並んでいるからだ
 ↓
葬列が「長くなる」のは同じ人間が繰り返し並んでいるからだ 
 ↓
葬列を「長くする」のは同じ人間が繰り返し並んでいるからだ
 ↓
同じ人間が繰り返し並ぶことで、葬列を「長くする」

 「長くなる」の「主語」は「葬列」になる。「長くする」の場合は「主語」は「人間」になるか。人間の「動き」なので、それは「肉体」で反芻できる。もし、何かを「長くする」のなら、「同じ」を「繰り返す」とよい。
 私の感想はいつも長いが、それはだらだらと同じことを繰り返し書いているからである。
 「同じ」「繰り返す(繰り返し)」「長くなる(する)」の結びつき(論理)を、浦はこの詩で発見している。いや、この詩に、そういう浦の特徴がくっきり浮かび上がっている(ことばとしてあらわれている)ということであって、浦はいつでも「同じ」「繰り返し」を「つづける」ことで「長さ」を獲得し、その「長さ(ひろがり)」を詩にしていると言える。
 ただし、このときの「同じ」は厳密ではない。「変奏」を含む「同じ」である。
 「母」は「先頭の母」「二人目の母」「三人目の母」と変化している。この変化は、ほとんど意味がない。単に「番号」で「同じ」を識別しているだけである。だから、その三人の母は「青いカーネーション」「緑の百合」「赤いひまわり」という、それぞれ違った花を持つことで識別される。その「花」は種類(色)は違うが、「同じ」花である。そして、それぞれが「ふつうとは違う色の花」という「同じ」要素を持っている。
 「同じ」のなかに「違う」を組み合わせることで、「同じ」は「同じ」でありながら識別できるものとして繰り返され、その結果として「長くなる」。
 「母」のあとに書かれている「姉」が、そのことを説明している。
 この構造は、そのまま「同じ」「繰り返し」であり、その結果として、詩が「長くなっている」。

 これは、どういうことだろう。

 「同じ」を「繰り返す」。そうすることが「ことば」を「長くする」。その結果、その「ことば」が詩になるということである。「変奏」、「変奏の可能性」が詩の重要な要素になる。
 このときの「同じ」は「同じ」という要素で括ることができるが、必ず「違う」ものを含む必要がある。完全に「同じ」であってはそれぞれが識別できず、どんなに数が増えても「ひとつ」のままだからである。「違う」ものを含むことで「ひとつ」が「複数」にわかれてゆく。
 変? 非論理的? そうかな?
 別な詩「眠りは箱のなか」には「あの子」は「複数」のことばで描かれる。けれど「あの子」のままである。「人間」は「ひとり」であっても、その「人間」を描写すると、その瞬間瞬間に「別の人間」があらわれてくる。「複数」の「人間」があらわれてくるが、どんなに「複数」になっても、「ひとり」。「ひとつ」の「肉体」。
 「同じ/ひとつ」の「肉体」が「違うことを繰り返す」。そうすることで「ひとり」の人間の姿が「大きくなる」。この「大きくなる」は「長くなる」とか「広くなる」ということと通じる。葬列を「長くする」のは、実は「ひとり」。そしてその「ひとり」は「母」や「姉」ではなく、「母」や「姉」を「ひとり」でありながら「複数」と認識する「わたし(浦)」なのだ。
 そうなると、問題は、「同じ」のなかに「どんな違い」を持ち込むか、ということになる。
 浦の詩をはじめて読んだのは「骨」を題材にした作品だった。「肉体」のなかにある「骨」。それを固有名詞でとりあげながら、ことばを動かしていた。同じ「骨」なのだが、名称がかわるたびに「骨」ではなくなる。「骨」から逸脱して世界がひろがり、そのひろがりがそのまま浦の「肉体」、浦の「詩」になるおもしろさがあった。
 あの衝撃が大きかったせいが、その後の作品が、なんとなく物足りなく感じてしまう。「詩の方法」が確立されてしまったのかなあ。「先頭の母」「二人目の母」「三人目の母」「先頭の姉」「次の姉」「その次の姉」というような「デジタル」な処理が、ことばを「疑似論理」で整理しすぎているのかもしれない。「わかりやすすぎて」、それが詩から不透明な部分を消してしまうのかなあ……。「青いカーネーション」「緑の百合」「赤いひまわり」は「客観的」すぎて、「わざと」が目立ってしまう。

 うーん。

 いま、「疑似論理」という表現をつかったので、ここから詩集にもどっていくと、先の引用とは違う部分に「疑似論理」があって、それがおもしろい。ここまで書いてくると、このことが書きたかったのだと気がつくのだが、どうやら前置きが長くなりすぎてしまった。

彼の左目には水時計が埋め込まれていて、いつもポタポタと時を告げる
ので、おちおちキスもしていられない。もうあと五分もすれば右耳のシ
シオドシがイカれてくるので、肩胛骨のところについている蛇口をぎゅ
っとしめてやらねばならない。

 「……ので」というのは「理由」をあらわす。こういうことばに出合うと、突然、そこに書かれていることが「論理的」に見えてくる。なんといっても、そこには「理由→結果」のような運動がある。
 これを私が「疑似論理」と呼ぶのは、「論理」を装うことで、他の部分の「非論理」をごまかすからである。
 引用部分で言うと「彼の左目には水時計が埋め込まれていて」。こんなことは「現実」にはありえない。(詩だから現実でなくてもかまわないのだけれど。)しかし、その「非現実」が「……ので」ということばで引き継がれていくと、そこに「論理」が「現実」となってあらわれてくる。「論理」が「現実」をつくり出してしまうということが起きる。「非現実」なのに「論理」がそれを「現実」にしてしまう。
 同じ例を、もうひとつ。(「同じ」を「繰り返す」ことで、ことばを「長くする」というのが、今回の浦の特徴なので……)。

毛細血管で巣づくりをしている小鳥が右心室で水浴びをしようとするの
でくすぐったくて眠れないので心臓がないふりをして黒い箱の中に手を
入れてみたので湖がちかちか光ってわたしを呼ぶのです。

 「小鳥が右心室で水浴びをしようとする」というのは「非現実」だが、もしそういうことがあったと仮定すると、その水が小さく揺れる。その揺れはまるで「くすぐられたとき」の揺れに似ている「ので」、くすぐったい「ので」、くすぐったいと眠れない「ので」……と言うことなのだが、このとき、「くすぐったい→眠れない」が「肉体の論理」を踏まえているので、「小鳥が右心室で水浴び」をするという「非現実」が「現実」になってしまう。
 長くなったので、端折ってしまうが、ここの二か所が、詩集のなかでは、私は一番好きである。なぜ好きかといえば、「疑似論理」と「肉体」のからみあいが絶妙で、そこに「疑似論理」があるということを忘れさせてくれるからである。(葬列の「母」「姉」は「先頭(一人目)」「二人目」「三人目」と「論理」が「概念」になってしまっている。だから「疑似論理性」がより強く感じられる。)
 特に

くすぐったくて眠れない

 この「くすぐったい」と「眠れない」のあいだには、「ので」という「論理」があるのだが、これは「ほんものの論理/肉体で確かめた論理」なので、「ので」は書かれていない。ここがおもしろいのは、あるはずの「ので」が書かれていないからである。浦の「肉体」に「ので」がふかく入り込んでいて、書く必要がないから省略されている。無意識に省略されてしまうこの「ので」こそ、浦のキーワード(思想/肉体)である。
 ここが「小鳥が右心室で水浴びをしようとするので」「眠れないので心臓がないふり」「黒い箱の中に手を入れてみたので湖がちかちか光って」と「ので」をつかっている部分と、完全に違っている。
 「疑似論理」を押し返すようにして、「肉体」そのものの「論理」がことばを動かしている。この瞬間、「論理」ではなく「肉体」が見える。「肉体」を感じる。「くすぐったくて眠れない/くすぐったいので眠れない」のは「わたし(浦)」のはずなのに、私(谷内)自身の「肉体」が「くすぐったくて眠れない」を感じてしまう。そういう感じがあることを「思い出してしまう」。
 「肉体」が重なる。セックスしてしまう。
 こういう「妄想」を駆り立てる装置として、浦は隠れたところで「論理」をつかっている。「頭の論理(疑似論理)」ではなく「肉体の論理」をつかっている。だから、詩が「強い」。

イバラ交
浦 歌無子
思潮社

*

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リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」
ヤニス・リッツォス
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アンドレイ・ズビャギンツェフ監督「裁かれるは善人のみ」(★★★★)

2015-12-15 11:34:10 | 映画
監督 アンドレイ・ズビャギンツェフ 出演 アレクセイ・セレブリャコフ、エレナ・リャドワ、ウラジーミル・ウドビチェンコフ、ロマン・マディアノフ

 暗い映画だなあ。救いのない映画と言えばいいのか。
 男の持っている土地を市長が欲しがっている。売りたくない。モスクワから友人の弁護士を呼び、市長の提案を拒否し、さらに市長を脅そうとするが失敗。逆に弁護士が脅され、モスクワに逃げ帰る。この弁護士が男の妻(後妻)と肉体関係を持ち、男と友人の関係、男と妻の関係もぎくしゃくする。ぎくしゃくするが、男は、友人も妻も許し、現実を受けいれ、そのまま生きていこうとするのだが、妻は自分の行為を気に病み、妻は自殺する。悲しんでいる男に殺人の容疑がかかる。友人と妻がセックスしているのを知り「殺してやる」と口走ったのを、猟銃仲間(?)の警官夫婦が聞いていて、それを警察に告げる。裁判の結果、男は有罪になり、服役する。残された子どもは警官夫婦が引き取る。この警官夫婦には子どもがいないので、男から子どもを奪うために「殺してやる」と言っていたと証言したかもしれない。男が服役しているあいだに、市長は男の家を壊す、リゾート地の工事をはじめる……というところで映画は終わる。
 日本語のタイトルどおり、「善人」である男だけが、どんどん不幸になっていく。その展開の仕方があまりにも「ストーリー」じみているので、逆に「現実」としてせまってくる。「ストーリー」なら、どこかで「善人」を救おうとする「意図」のようなもの、観客の視線を気にして、ストーリーの展開にほころびが生まれる。それが、ない。とても巧みに構成された脚本だと思う。
 特に、警察官夫婦の「殺してやる」と男が言っていたという「証言」の部分には、びっくりしてしまった。憎しみから発作的に「殺してやる」と口走るのは、単なる感情の爆発。本心ではない。そういうことは、人間ならだれでも知っている。特に親しいひとがそう言ったのを聞いたとしても、それが「殺意」とは思わない。むしろ、「共感」の方が大きいだろう。そうわかっていながら、「子どもがほしい」という欲望のために、嘘をつく。子どもには、「ひとりで生きていくのは難しい。うちにおいで」と親切なふりをする。このあたりの無駄のないせりふ、ことばにしない欲望の動かし方が、まさに「現実」。余分なことばがなく、ただ「肉体」だけ、ふとした表情、からだの動きで「欲望」を伝えあう警官夫婦の「共犯ぶり」が、とても怖い。
 弁護士と妻がホテルでセックスするシーンも、非常にリアリティーがある。セックスに至るまでの「手順」(レストランで料理を注文し、できるまでにシャワーをあびてくると男が姿を消し、しばらくして女が部屋にあらわれる。きっと注文は取り消したのだ)が落ち着きはらっている。男から電話がかかってきたとき、妻がホテルのレストランで食事している、と嘘をつくのだが、この嘘は実際にレストランで注文するということがあったから、何のためらいもなく、すーっとことばになる。この絶妙な「嘘のつき方」が、とてもうまい。あ、嘘というのは、こんなふうにどこかに「真実」を含ませると、説得力をもって動く。男は、その嘘に気がつくことはない。こういう「手の込んだ」脚本が、男が追い込まれていく動きをスムーズにしている。
 この、どこまでもどこまでも、「人間の欲望/肉体」に沿ったストーリーが、ロシアのどこかわからないが海沿いの小さな街で展開されるのだが、その自然の荒寥とした感じが、また非情で、美しい。人間を気にしていない。この美しさには、ウオツカの透明なアルコールがよく似合う。何度も何度もウオツカを飲むシーンが出てくる。スコッチやワインのようにアルコールに色がついていては、そこに人間の「思い(情緒)」が入り込みそうだが、ウオツカの水のように透明な色は感傷など拒絶して、ただ肉体だけを酔わせる。酔わせて「感情」を奪い去るのかもしれないなあ。感情なんか気にしていては生きていけない、という「寒さ」(厳しさ)が、この土地にはあるのだ。みんな、自分自身を「温かくする」ことだけで精一杯なのだ。
 ポスターにもなっている海岸の鯨の白骨。このシーンは映像としていちばん印象的だ。なぜ、鯨の白骨がそんなところにあるのか。鯨が死んだ。そして、それをだれもかたづけなかったからだ。そのままにしていたからだ。動物や鳥が食い荒らし、波が腐った肉を押し流す。白骨だけが残る。鯨が死んで白骨になるまでには相当の時間がかかるはずだが、それは放置されつづけ、これかられ放置される。「善人」の男の「放置される」姿にも見えてくる。
                      (KBCシネマ2、2015年12月06日)


「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
父、帰る [監督:アンドレイ・ズビャギンツェフ] [レンタル落ち]
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しばらく休みます。

2015-12-11 09:16:42 | その他(音楽、小説etc)
しばらく休みます。(代筆)
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長嶋南子「犬殺し」

2015-12-10 12:05:43 | 詩(雑誌・同人誌)
長嶋南子「犬殺し」(「Zero」3、2015年12月10日発行)

 詩はいままでつかわれなかったことばといっしょに動いている。新しいことばである。だから、それは「わかりにくい」。「わからない」ことの方が多い。そういう「わからない」ことばを、どう理解するか。「動詞」に結びつけて、自分の「肉体」で反芻するとき、その「意味」のようなものがわかる。
 でも、問題は、それ以前にあるかもしれない。「わからない」ことばといっても、ことばはすでに存在している。存在していないことばは、造語。造語で詩を書く人はいないなあ。(あ、いるかな?)で、何が「わからないことば」、それが「わからない」ということもある。
 たとえば、長嶋南子「犬殺し」。

屋根の修理に杉山さんがきている
母はいつも夕飯を出す
犬殺しだという杉山さん
輪っかにした針金で野犬をとらえ
首をしめる

父を失くしたばかりの母のところに
なんだかんだとすぐにくる
たばこ臭いからだ
流れ者のきょうじょうもち
杉山さん 後家殺し

飼い犬のマルは杉山さんがくると
縁の下に入ってしまう
マルはみそ汁のぶっかけご飯ばかりで
わたしがつくったご飯しか食べない

母の財布からお金をぬきとり
宝来館で映画をこっそり見る
映画のなかの女は男を殺し
お金をいっぱい手に入れる

ジステンバーで死んだマル
たくさん稼いで次のイヌには
いいものいっぱい食べさせてやる
いい寄る男ができたら
いいものいっぱい食べさせてやる
杉山さん 寄っておいでよ

 「きょうじょうもち」が「わからない」かもしれない。あ、私はわからないのだけれど。長嶋もはっきりとわかっていないかも。ひらがなで、音だけ書いているから。だから、これは「わからない」に含めない。(辞書をひけば、それらしいことばが見つかるかもしれないが、気にしない。)こういう辞書をひかなければならない「新しいことば」に「詩」はない。知っているのけれど、知らなかった、そうだったのかと気づかされてくれることばにこそ「詩」がある。
 この詩、「きょうじょうもち」をほうり出したまま、どう読むか。
 先に書いたように、私は「動詞」を中心に読む。「きている(来る)」(飯を)出す」「とらえる」「首を絞める(殺す)」「入る」「食べない(食べる)」「ぬきとる」「見る」「(手に)入れる」「死んだ(死ぬ)」「食べさせて/やる」「寄る」など、いろいろある。
 どの「動詞」がこの詩を動かしているか。詩の「中心の動詞」はどれか。
 「動詞」だけを見ていては、どうもわからない。そこで詩の全体を見渡してみる。そうすると四連目だけ、少し、変。「杉山さん」が出てこない。そこでは「杉山さん」が描かれていない。かわりに「わたし」の「秘密」が書かれている。
 ここに、この詩の「中心」になるものがありそう。
 何かな?
 私は「動詞」とそのものではないが、「見る」の上につけられた「こっそり」が一種の「動詞」のように思えた。四連目に一回だけ出てくることばだが、この「こっそり」は「こっそり/見る」の直前の「ぬきとり」にもつけることができる。「こっそり/ぬきとり」。ひとにわからないように動き時の「動詞」の「わからないように」という動きをあらわしている。
 そして、あ、この詩には「こっそり」がたくさん隠されているのだと気がついた。屋根の修理にきている杉山さんは「こっそり」ではない。けれど、母が夕飯を出すのは「こっそり」だ。

母はいつも「こっそり」夕飯を出す

 別に「こっそり」出さなくてもいいのだが、きっと「こっそり」。だれに対して「こっそり」か。「わたし(長嶋)」に対してではない。「わたし」はいっしょに夕飯を食べるだろうから「こっそり」はありえない。「こっそ」は「世間」に対してである。「世間に知られないように」夕飯を出すのである。
 二連目の二行目も

なんだかんだとすぐに「こっそり」くる

 もちろん、この「こっそり」は夕飯と同様世間にばれているけれど、やっぱり「こっそり」という気持ちがある。
 「後家殺し」といううわさは、もちろん「こっそり」と言われるものである。誰もが知っているが「こっそり」。なぜって、実際に杉山さんが後家とセックスしているところをだれも見たことはない。想像である。想像であるが、確信でもある。「犬殺し」ほどはっきりしていないが、まあ、だれにでもわかっている。野犬を簡単にとらえるように、後家を簡単にとらえて自分のものにしてしまう「能力」へのやっかみもあるかもしれないなあ。うらやましい気持ちを「こっそり」隠しながら「後家殺し」という。
 三連目では「こっそり」は「わたしが「こっそり」つくったご飯」かもしれない。マルはそれを「こっそり」食べるのかもしれない。何かしら、そこには「共犯」のようなものが動いている。家族に知られているけれど、「わたし」とマルは「こっそり」とそうするのである。「こっそり」生きていると互いに感じるのである。

 何度も何度も隠される「こっそり」。これは、何をあらわしているのかなあ。
 欲望だと思う。
 何かをしたい、という欲望というよりも、「こっそり」したいという欲望。することよりも「こっそり」に重きがある。
 後家さんとセックスしたい、新しい男とセックスしたい。「こっそり」と。これは「世間に知られずに」というのとも少し違うかも。セックスしていること(自分の充実)は知られたい。みせびらかしたい。でも、それは相手の「想像力」のなかだけでの「事実」といえばいいのかな? 「こっそり」とということばとはうらはらに、「こっそり」のなかでは「欲望」はあからさまに動いている。「事実」が「こっそり」と、その「欲望」のうしろに存在している。
 「母の財布から(こっそり)お金をぬきとり/宝来館で映画をこっそり見る」の「こっそり」も、そんな「こっそり」は母にばれてしまっている。(こういう「盗み」は多くのひとが体験していると思うが、ばれなかったことなんて、ないでしょ? ばれて、黙認される、でしょ?)ばれない「こっそり」なんて、ない。「こっそり」は、ばれるからこそ「共犯」になる。「共犯」の生々しさというか、美しさがそこにある。「こっそり」という「欲望」がそのとき「共有」される。「こっそり」と「共有」される。
 最終連は、長嶋が「こっそり」思っていること。詩に書いてしまえば「こっそり」ではなくなるった? あ、そんなことはない。「杉山さん」が長嶋の家に寄って、それからいろいろあるかないか、そんなことはだれにもわからない。そのとき、「杉山さん」は「杉山さん」ではないしね。つまり、そこに「秘密」がある。「こっそり」だれかを思っている。

 ほんとうは何が書いてあったのかな?
 気にしない。
 私はここに書かれた「こっそり」がとても楽しいし、こんなふうに「こっそり」が「隠れて」というだけの意味を突き破って動いていることを、この詩をとおして知った。それがうれしい。 
 長嶋は「こっそり」発見した。「こっそり」ということばを新しくした。「こっそり」ということばはだれもが知っている。しかし、その「こっそり」が「欲望」だとは知らなかったし、この詩に書かれているようにあちこちに隠れていることも知らなかった。
 知っているけれど知らなかった--その「詩」がここにある。
 だれもが無意識にそういうつかい方をしているかもしれない。それを長嶋は、だれでもそうだよ、わかるようにした。そこに詩がある。新しさがある。

はじめに闇があった
長嶋南子
思潮社

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

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2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
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北川透「海象論B」

2015-12-09 10:34:30 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「海象論B」(「KYO響」9、2015年12月01日発行)

 北川透「海象論B」は「海の配分(2)」のなかの一篇。

あれは波の音ではない
貝の泣き声でもない
光る海の切っ先たちの穏やかな孤独
われらに神もけだものもなく
嵐を孕む海の感情の盛り上がりもないが

 「ない」が繰り返される。この「ない」は「否定」か。たしかに「否定」に見える。では、何の「否定」か。
 こういう読み方(問いの立て方)は詩を楽しむということとは違うような気がするが、私は詩には興味がないのかもしれない。詩を題材にいろいろ考えているが(そして「詩はどこにあるか」を問題にしているのだが……)、詩であるかどうかよりも、そのことばが人間とどうかかわっているかの方に関心があるので、こういう接近の仕方になる。
 「ない」を二回繰り返したあと「光る海の切っ先たちの穏やかな孤独」という行がくる。これは「ない」を含まない。存在がそのまま受けいれられている。
 それにつづく「われらに神もけだものもなく」には「なく」という形で「ない」が繰り返される。この「われら」と前の行の「孤独」は同じものか。「孤独」を言い直したものが「われら」か。そう読むと、「ない」はずっーと持続されていることになる。
 たぶん「孤独」が「われら」であり、「われら」が海の音を聞いているのだ。そして「……でない」「……でない」と繰り返している。それは自分が思いついたことを、「そうではない」と「否定」しているのか。
 表面的には、そう見えるが、私はつまずく。

われらに神もけだものもなく

 この「なく(ない)」は、前に書かれている「ない」と微妙に違って見える。この行は、私の読み方では、

われらに神もけだもの「の区別」もなく

 となる。そこに「区別」が省略されている。そして、この「区別」をもし前の行に補うとなるとどうなるか。

あれは波の音(として「区別」できるもの)ではない
貝の泣き声(として「区別」できるもの)でもない

 ということにならないか。
 北川は、ここでは「区別」を否定している。書かれていない「区別」こそが、この詩の「肉体(思想)」であると、私は感じる。
 「区別」というのは、いまはやりのことばで言い直すと「分節」になるかもしれない。(私は井筒俊彦を読んでいるわけではないし、井筒が「無分節」と言っていることを、勝手に「未分節」と読み替えていることもあって、「分節」という表現をつかってしまうと、ちょっとめんどうになるので、できるだけつかわないことにしているのだが、いちばん近い「概念」として「分節」を想定するのが便利だと思う。)
 この詩の書き出しで、北川は、海に向かい、そこから海を描写しようとしている。描写するということは、「区別」のないものを「区別」してつかみやすくする(理解しやすくする)ことなのだが、その最初の「区別」するときから、北川は「……ではない」と「区別」を否定する形でことばを動かしている。
 このとき、そこに存在するのは、海ではない。海とともに無意識に思い浮かぶことばではない。無意識に浮かび上がってしまうことばを「否定」する力である。無意識のことば、あるいは「常識のことば」といってもいいのかもしれないが、それを「否定」する。「否定」を通り越して、「拒絶」する。「拒絶」したところから、いままでなかったことばを動かそうとしている。その力が北川という詩人だ。
 「波の音」「貝の泣き声」というような常識的な表現、だれにでも通じることばではなく、違うことばを生み出そうとしている。分節しようとしている。北川にとっては、すでに存在することば(流通することば)は詩に値しない。だから、ここで必死になっているのだと思う。
 この「常識的な区別(分節)」に対する「異議」のようなもは、後半の行から、さらに読み取ることができる。

なにごとも一つに括ろうとするな
赤く血に染まった西方の海に沈んでいく
太陽に祈りを捧げようとするな
港を目指す希望と 地平線の奈落への欲求は
二つに分かつことができない

 北川が「拒絶」しているのは「赤く血に染まった西方の海に沈んでいく/太陽に祈りを捧げ」るという定型化したセンチメンタルということになる。そういうふうに分節された世界に入ってしまうことを「拒絶」している。
 私がこの数行で注目したのは「一つに括ろうとするな」の「一つ」と、「二つに分かつことができない」の「二つ」の違いである。
 「一つに括る」というときの「一つ」は、「一つ」ということばとはうらはらに、「分節するな(分けるな、区別するな)」ということではなく、規定のもの、確立された「一つ」のものの見方に「括ってしまうな」ということである。常識的な「分節」にしたがうな、ということである。たとえば「波の音」「貝の泣き声」というような「一つの分節の仕方」で世界を「括るな」と言っている。
 一方の「二つに分かつことができない」。ここに「分節」の「分」が「分かつ」ということばとして登場する。世界に向き合い、私たちは何かを「分節」しながら、私という存在自体を理解する。しかし、「分節」の仕方はそれぞれで違うはずだから、既存の「分節」では「分節」できないものがあるはずである。個人の「分節」の仕方は、既存の「分節」の仕方とは違う。だから「既存の分節の仕方」で世界を分節し、それにあわせることはできない。そういうことを「二つに分かつことはできない」と言っている。
 「二つに分かつことができない」は「私(北川)の世界への向き合い方は、既存の二つに分かつ方法(分節の仕方)では、分節として表現できない」と言っていることになる。自分のことば、既存のことばを破壊しながら動く自分のことばを、海に向かって動かそうとしていることになる。
 詩とは既存の分節に抵抗し、自分独自の分節を確立することであるという北川の思想(肉体)がここにくっきりと見える。

 歌謡曲なら、ことばは既存の「分節」にしたがって動く。すべてを「一つに括る」ようにして動く。ところが詩は、既存の「分節」を破壊しながら動く。だから、それが「わからない」のはあたりまえである。「わかる」というのは自分がすでに知っていることを確かめることだからである。
 しかし、「わからない」はずの詩なのだけれど、そのことばにつられてことばにならない「肉体」が反応するときがある。あ、ここが好きと瞬間的に思う。それは錯覚かもしれない。「誤読」だろう。その「誤読」をとおって、あ、他人(北川)の肉体に触れたと思う瞬間がある。こういうことを、私は「ことばのセックス」と呼んでいるのだが、そういう瞬間がどこかであれば、それで詩を楽しんだことになるのだと私は思う。
 「海の配分(2)」では、私は「砂の歳」の

記憶裂く 何言ったんだっけ ほら

 という行がとても好き。北川が何を言おうとしているのか私にはわからないが、「何言ったんだっけ ほら」というような口調で他人と会話することがある。そのときの「肉体」そのものを思い出し、あ、ここから北川に接近して行けるかな、と思う。
 これはしかしきょう書きたいことではないので、省略。






なぜ詩を書き続けるのか、と問われて
北川透
思潮社

*

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吉田稀「次に言うことは」

2015-12-08 11:16:09 | 詩(雑誌・同人誌)
吉田稀「次に言うことは」(「ココア共和国」18、2015年12月01日)

 吉田稀「次に言うことは」は小詩集「猫の返事」のなかの一篇。

にばんめの目標の
郵便ポストへ向かうたびに
いのちが少し
なくなってゆく
それは
遠い場所へ宛てた
82円の冒険だ
封筒がポストの底に
落ちたあと
いつもわたしは
言い残したことに気づく

 うーん、感想を書くのが難しい。
 どう言えばいいのだろう。
 気に入った。何が? そうだなあ、リズムだな。
 それから、ことばの微妙なずれ方。
 たとえば「82円の冒険」。「82円」というのは封筒の郵便料金だねえ。はがきではない。次の行に「封筒」と言い直されているけれど、「手紙の冒険」ではなく「82円の冒険」だと、そこに一瞬、意識の断然/飛躍がある。「手紙」と書きたくなかった。でも「手紙」だとわかってもらいたい。伝えたい。
 言いたいことがある。でも「直接」言ってしまうのは、何か、違うと感じている。
 それは書き出しの「にばんめの目標」にもあらわれている。
 「いちばんめの目標」は書かれていない。きっと「手紙を書くこと」だったのだろう。まず「手紙」を書く、それからその「手紙」を出しにゆく。まあ、その前に、「手紙」を封筒にいれる、82円切手を貼る、というようなことがあるかもしれないが、「手紙」を書いたら、「手紙」を出す。
 この「手紙を出す」も「直接」は書かない。「郵便ポストに向かう」。ほかの「動詞」で言い直している。
 「82円の冒険」の方は「主語」を別なものにしてみたということかな? 「手紙を書く」という「私の冒険」、あるいは「手紙の冒険」。その「私/手紙(封書)」を「82円」と言ってみる。「私/手紙」は「私/手紙」にとって重要だし、誰かにとっても重要かもしれない(重要であってほしい)。でも、関係ないひとにとっては「82円」かな? 郵便を配達するひとには「82円」であれば、それでOK。「手紙」の内容なんて、関係がない。
 どこかで、自分をつきはなしている。傷つかないように気をつけている。そんな感じもあるのかな?
 「いのちが少し/なくなってゆく」というのはおおげさだけれど、大事な手紙がどう受け止められるか心配。その心配の気持ちが「いのちを少し」奪ってゆく。おおげさに書くことで、逆に、軽くなる感じもする。「そんなおおげさなものじゃないじょ」という「つっこみ」が軽くするのかも。
 「手紙」を書いて、それを出す。それだけのことなのに、あれこれと考えてしまう。感じてしまう。それが、つづいている。
 で、

いつもわたしは
言い残したことに気づく

 ということばになる。
 この静かな持続(連続)がいいなあ。
 ことばが「深刻」にならずに、どこかふわふわしている。「いのちが少し/なくなってゆく」も、病気で日々いのちが削られていくという感じではない。生きていれば、どうしたって死へ向かって生きることだから、いのちは短くなる、くらいの感じ。これだって、静かな持続だ。

みんな何か言い残して
死んでゆくのだろうか
信じるひとがあったとしても
280円の
速達の切手も貼れずに
言いたかったことも
言わなかったことも
そのまま置いて
わたしもいつか
何か言い残して
死んでゆくのだろう

言えなかったことを
詩のことばに代えて
今日、280円の切手を買った
合計362円の
さらなる冒険を試みる
郵便ポストの向こう
遠い場所にいるひとを信じて
さんばんめの目標の
集荷の車を待つ

 そうか、82円+280円=362円か。そこには「言えなかった」ことばがあるね。それは誰かにつたわるかな? わからないけれど、私はその「言えなかったことば」がそこにあるということが、好きだなあ。わからないからこそ、「言えなかった」ではなく「言わなかった」ことばとして強く響いてくる。280円切手を買い、追加して貼る、というときの「肉体(こころ)」の動きが、ことばをとおりこして直接、聞こえる。

 この詩は、このあともう一連あって、そこに「いちばんめの目標」ということばもある。「いちばんめ」を吉田はきちんと書いているのだが、「いちばんめ」があることを含めて、それは読者に任せた方がおもしろいかなあ、と私は思う。
 私は「いちばんめの目標」を「手紙」と言い直したけれど、これは方便。私のことばを動かすためにしたこと。読者によっては「いちばんめの目標」は「手紙」ではないかもしれない。(そうあってほしい。)
 詩なのだから、「正解」はいらない。
 詩なのだから、そこにあることばに対して、ただ勝手にあれこれと思うというのが楽しい。


遠いお墓―吉田稀詩集
吉田稀
澪標
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秋亜綺羅「死は生のなかにしか存在しないのだから」

2015-12-07 08:50:21 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「死は生のなかにしか存在しないのだから」(「ココア共和国」18、2015年12月01日)

 秋亜綺羅「死は生のなかにしか存在しないのだから」に、

わたしがわたしでしかない可能性と

 という行がある。これは、とてもおもしろい。
 「わたしでしかない」は「わたしである」の強調形である。「わたしであるしかない」その「ある」が省略されているのかもしれない。わたし以外のものでは「ありえない」と言い換えることもできる。
 「ある」を強調するのに「ない」という反対のことばがつかわれるのが、とてもおもしろい。
 で、その強調を読んだあと、

わたしがわたしでなかった可能性は

 とつづけられると、ちょっと錯乱する。この「なかった」はそのまのの「ない」。強調形ではない。
 その二行が対になり、

わたしがわたしでしかない可能性と
わたしがわたしでなかった可能性は

 と並ぶとき、「ない」「なかった」が、「ある」と「ない」の対比ではなく、「現在形(ない)」と「過去形(なかった)」の比較のようにも見えてしまう。
 「意味」を考えると「ない」と「なかった」は「現在形/過去形」の比較ではないことがあきらかだけれど、「音」そのもののなかで、「現在形/過去形」のように響いてしまう。
 で、そう感じた瞬間。
 「音」が秋亜綺羅にとっての「肉体」なのだ、ということがわかる。
 「意味」というのは、ことばが連続してつくりあげるもの。そのことばが連続してつくりあげるものを、連続から開放する。連続を解体する。そのときにあらわれる「無意味」を秋亜綺羅は詩と呼ぶのだが、この「連続を解体する」ものが「音」なのである。
 「音」のなかで、本来の「意味」とは別のものがまじりあい、分かれてゆく。
 ある存在にふれて、たとえば目と耳がぶつかり、入れ替わるように動詞が分かれてゆくときがある。すばらしい「絵」を「目」で見て、その瞬間、音楽が「聞こえる」と感じる。「目」で「音楽」を聞くのだ。あるいは音楽を「耳」で聞いて、美しい風景画「見える」と感じる。「耳」で「風景」を見るのだ。目が目から離れて、「聞く」へ動いていく。耳になる。耳が耳から離れて、「見る」へ動いてゆき、目になる。
 「肉体」のなかで「目」と「耳」の働きが入り交じってしまうように、「音」のなかで別々の意味(反対の意味)が入り交じり、それから違った方へ分かれていく。そういう印象が秋亜綺羅のことばにはある。
 この「音のなかで」というのは、言い直すと「肉体」を介さずに、ということにつながる。
 だから、といっていいのかどうか、まあ、いいかげんなのだけれど。

わたしがわたしでしかない可能性と
わたしがわたしでなかった可能性は

どっちも同じ大きさだったよね、たぶん
どっちにしたって宇宙なんかに閉じ込められて、さ

 ふたつの「可能性」を引き受ける「動詞」に「肉体」がからんでこない。「だった(である)」という「状態」をあらわす「動詞」がそこにあるだけだ。「肉体」がからんでこないので、「わたし」との関係があいまいになる。古人性があいまいになる。個人的な体験による意味ではなく、「一般的な意味(論理)」だけが動く。
 この個人的な体験(肉体)と関係ない「純粋意味」というものは変なもの手ある。
 「わたし(の肉体)」とは関係がないので「どっちも同じ」という感じ、どっちにしたって「わたし(の肉体)」には影響がない。「わたし」の問題なのに、「わたし」の問題ではなくなって、単なる「論理」のうえでの問題になってしまう。
 こういうところで、私は秋亜綺羅の詩につまずいてしまう。
 「ことば」は「論理」の問題だけでいいのか。「ことば」と「肉体」は密接に関係していなくていいのか。「肉体」と無関係なことばを人はどうやって引き受けることができるのか。消化することができるか。そういうことを秋亜綺羅に問いかけたくなるのである。
 「宇宙なんかに閉じ込められて」には「閉じ込められる」という「肉体」に関係することばが出てくるが、受け身の、身動きのとれない「動詞」では、どうにも「肉体」で引き受けようがない。「宇宙に閉じ込められて」も「閉じ込められて」も、「肉体」は少しも苦痛を感じていない。「宇宙に閉じ込められ」る前に、「地球」に閉じ込められている。「宇宙」はその外側。「肉体」ではふれることのできない「概念」になってしまっている。単なる「論理」だから、それがどんな結果になろうと、「どっちも同じ」「どっちにしたって無関係」ということになる。
 「論理」にとっては、「結論」がどっちであるにしろ、どちらが正しい/まちがっている、ということがないのだ。正しかろうが、まちがっていようが「論理」であり「結論」である。
 この「結論」の無責任さについては、私は秋亜綺羅の考えに大賛成なのだが、そこに「肉体」がからんでこないので、その「大賛成」は「頭」がそういっているだけで、「大反対」とかわりがない。「大賛成」も「大反対」も、「どっちも同じ」。
 これは「絶対的な軽さ」と言い換えうるか、どうか。考えてみないといけないが、きっと、わけがわからなくなるだけだな。

 「肉体」のない、「頭」の「論理」ということに、うまくつながらないのだが、そこのとこにつないで読みたい行がある。書き出しである。

臨界に達した、って達しちゃったんだぉね
わたし愛されちゃったかも、ってされちゃったんだぉね

 ここには「動詞」が出てくる。「達した(達する)」「愛された(愛する)」。そして、それは繰り返される。「達した/達しちゃった」「愛されちゃった/(愛)されちゃった」。「愛されちゃった」が繰り返されるとき「愛」が省略されている。省略しようと思えば「達した」は「しちゃった」でいいのだけれど、「達する」の方は、動詞の「語幹」がついている。「愛されちゃった/されちゃった」では「語幹」が消えているのに……。 「愛されちゃった/されちゃった」の繰り返しは「語幹」が消えた分だけ、なんだか「肉体」から切り離されて、暴走している感じがする。これがさらに「音」のなかでの入り乱れ、という印象を強くする。そう感じた。
 もし強引に「肉体」を持ち込んでみると、「達する」「(愛)されちゃった」は「肉体」の個別的な部分(手とか、足とか、目とか)ではなく「肉体」全体である。区分できない全体。「達した」「されちゃった」は「愛」ということばの影響もあって、セックスを想像させるが、そのセックスは性器の結合のことではなくて、「肉体全体」のことである。「どこ」が達して、「どこ」がされちゃったのかは、言えない。個別な部分は無関係。「肉体全体」が「達し、されちゃった」のである。
 個別な「肉体」と、その部分にふさわしい個別の「動詞」をとおさずに、「肉体全体」と「ことば」が交流する。これを「音」が「肉体全体」をつつむ、と言い直すと秋亜綺羅の詩の入り口になるか。
 よくわからないが、そんなことを考えた。

ひよこの空想力飛行ゲーム
秋亜綺羅
思潮社

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小林稔「二、感情の闘争」

2015-12-06 09:19:39 | 詩(雑誌・同人誌)
小林稔「二、感情の闘争」(「ココア共和国」18、2015年12月01日)

 小林稔の名前を「ココア共和国」で見つけたときは、びっくりしてしまった。まさか、あの小林稔ではないだろうと思ったが、あの小林稔だった。あの、というのは「ヒメーロス」の、という意味である。
 小林稔のことばは、とてもめんどうくさい。読みはじめると、丁寧にことばを往復しないといけない。何度も読まないと、私の「肉体」が動いてくれない。やっと動き出してみても、それはほんの一部のことばに対してであって、書かれていることば全部をたどりきれるわけではない。
 まあ、詩なんて、全部わからなくてもいい。わかったところだけわかればいいと私は思っているが、それにしても「わかった」と思える部分、「誤読」できる部分がとても少なく、つらい気持ちになる。
 この感じは秋亜綺羅の詩を読んだときの感じとは正反対。
 秋亜綺羅のことばを読むとき、私は一部がわかれば(共感できれば)、それで満足してしまう。ほかの部分がわからなくても、ぜんぜん気にならない。一部を自分勝手に「誤読」するだけなのだが、それで全部を読んだ気持ちになれる。で、その一部に「ケチ」をつけて、ひとりで満足する。--これが、私の秋亜綺羅の詩に向き合うときの姿勢。
 小林稔のことばに対しては、そんな感じでは向き合えない。
 向き合えないのだけれど、向き合いたい気持ちがあって、何か書いてしまう。私が書くことは、読んだ瞬間に思ったことだけなので、とてもいいかげんなものなのだが、その「いいかげん」を書いておきたいという気持ちを抑えることができない。
 きょう読むのは「二、感情の闘争」。タイトルから推測できるかもしれないが、私が感想を書くのは「記憶から滑り落ちた四つの断片」のうちの「二」の部分である。そして、その「部分」をさらに「部分」にしてしまって、一部だけを取り上げる。
 「概略」として言えば、この作品はゴッホの絵を見たときの小林の感想である。小林は「ゴッホ」と書かずに「ヴィンセント」と書いているが、「ヴィンセント・ファン・ゴッホ」と思って私は読んだ。

彼の見た麦畑はメタファーであり、本質は彼の心の裡(うち)に実在した。彼が覗いた心の風景を私は垣間見た。

 私は何を「垣間見た」のか。麦畑か、彼の心の裡か。
 そう思った瞬間、私の「肉体」は、激しくねじれた。前を向いたまま、真後ろを見るような、何か不可能なものを感じた。このままでは、骨が折れる。神経が切れてしまう。何が、私の「肉体」を一気にねじったのか。その力が一気すぎて(瞬間的すぎて)、私の「肉体」はその衝撃についていっていない。ほんとうはその衝撃のために死んでしまっているのかもしれないが、あまりに早く、そしてその力が強すぎたために、私の「肉体」は「まだ生きている」と錯覚している。そういう感じだ。

彼が覗いた心の風景を私は垣間見た。

 「覗いた」と「垣間見た」というふたつの「動詞」がある。それは厳密に言えば小林が書いているように「ふたつ」だけれど、私は「ひとつ」の「動詞」として感じた。「見る」という「動詞」で言い表せる「動き」であり、その「動詞」の「主語」は「目」であると言えると思う。
 小林は「彼(ヴィンセント)」が「覗いた(見た)」、「私」は「垣間見た(見た)」と書き分けているが、「目」は「見た」と言い換えると、「彼」と「私」は「ひとつ」の「肉体」になる。
 そういう「不思議」がここにある。
 で、その「見た」もの、「対象」は何なのか。「心の風景」と小林は書いているが、それは何を指しているのか。

彼の見た麦畑はメタファーであり、本質は彼の心の裡(うち)に実在した。

 直前の、この文章の中に「見たもの(対象)」が書かれているはずである。しかし、それが何であるか、特定するのは難しい。
 読んだ瞬間、

麦畑?

心の裡(うち)に実在した本質?

 どっちだろう、と思ったのだが、「麦畑」は小林が書いてるままの形で引用できるが「本質」の方は、私の感じたこと、考えたことを言い直そうとするとことばの順序を入れ換えないといけない。これは明らかな私の「誤読」なのだが、「誤読」しないことには、私のことばは動かないし、「肉体」も動かない。
 で、そう書いてしまったのだが。
 あるいは「本質」と「心の裡」は同じものを別な角度から言い直したものかもしれない。同義反復かもしれない。「本質は彼の心の裡である」を言い直したものとも読むことができそうである。
 このままでは、私のことばは動かないので、少し逆戻りをする。別な視点からことばを動かし直してみる。
 つまり、

彼の見た麦畑はメタファーであり、本質は彼の心の裡(うち)に実在した。

 ここに書かれている「動詞」を中心に読み直す。
 まず最初に「見た」という動詞があらわれる。「彼」は「見た」。何を「見た」か。「麦畑」を「見た」。この「動詞」の動きを、私の「肉体」は追認することができる。ゴッホが見たであろう「麦畑」を、私はゴッホの絵を仲介にして「見る」ことができる。絵を見るとき、私の「目」とゴッホの「目」は「同じ麦畑」を見る。つまり、私は絵ではなく、ゴッホの見た麦畑を見ていると感じる。同時に、私が「私の目」だけで「見た」ときは、こんな感じではないのだけれど、「ゴッホの目」をとおせば、こんな絵になると思って見る。
 実在の麦畑-目(ゴッホの目/私の目)-麦畑の絵。
 この「私の目」を「小林の目」と言い直すと、それはゴッホの麦畑の絵を見たときの小林の体験(小林と、ゴッホ、ゴッホの絵)の関係になると思う。
 実在の麦畑-目-絵の麦畑は、別々のものなのだが、つながってしまっていて、切り離せないと私は考えるけれど、この切り離せないものを、小林は切り離す。
 「メタファー」と「本質」ということばを導入することによって。
 私たちがふつうに考える「実在の麦畑」は小林によれば「メタファー(比喩)」である。ほんとうは存在しない。あるいは「存在する場」が「現実」ではなく「概念」であると言い換えるべきか。
 「比喩」とはそこに存在しないものを借りて、対象の本質を語ることである。「彼女ははバラである」というとき、「彼女」の「肉体」は「バラ」ではない。だからこそ「バラ」という「比喩」が成り立ち、その「比喩」は「美しい(抽出した概念)」という「本質」を代弁する。
 小林は、そういう「実在」と「比喩」と「本質」の関係を、独自の方法で読み替えている。
 「本質」とは「ほんとうの麦畑」であり、このときの「ほんとうの麦畑」とは「実在の麦畑」ではなく「本質の麦畑」という全体的な真理のようなもの。ゴッホ自身によって鍛え上げられた意識のよなもの。精神のようなもの。それがゴッホの「心の裡」にあるからこそ、それを絵にしている。そのとき絵としてあらわれた「麦畑」は「実在」ではなく「メタファー」である。「心の裡」にあるものが「本質」であり、「心の外(肉体の外/外界)」にあるのものは、その「本質」を「目」に見えるようにするための「比喩(メタファー)」である。
 うーん。書いていて、だんだんめんどうになってくる。どこかで奇妙にことばが交錯して、ことばがずれていく。
 で、また少しとらえ方を変えてみる。

彼の見た麦畑はメタファーであり、本質は彼の心の裡(うち)に実在した。

 この文章には、「見た」とは別に、「あり(ある)」という動詞と「実在した(実在する)」という動詞が登場する。「ある」と「実在する」は、まあ、「意味」は同じかもしれない。「実在」を「ある」と言い直してみると、私が先に書いたこと、「本質は彼の心の裡にある→本質は彼の心の裡である→彼の心の裡は本質である」という一種の同義反復が動き出すのだが……。
 この「ある」と「実在する」という「動詞」を、小林は何で確かめるかというと「見る」という「動詞」で確かめている。「目」という「肉体」で確かめている。「目」という「肉体」が「ある/実在する」を確かめている/見ている。
 少しことばを変えながら言い直すと「心の裡に実在する本質」は、目で見ることができる「絵」にすることで、「心の外」に取り出すことができる。その「本質」は「麦畑」として描かれる。描かれた「麦畑」は「心の裡に実在する本質」であるけれど、「本質」そのものではなく「麦畑」という「姿」を借りているので、それは「メタファー」と言い直すこともできる。
 だが、そう言い直してしまうと「彼の見た麦畑はメタファーであり」ということばはまちがっていることになる。外界の「麦畑」こそが「メタファー」であるはずだ。
 どうも「メタファー」ということばを中心に、「外界の麦畑」と「心の裡の本質としての麦畑」がつながり、重なるのだが、それを

外界の麦畑-「メタファー」-心の裡の本質(としての麦畑)

 と書いてみると、あれっ、

実在の麦畑-目(ゴッホの目/私の目)-麦畑の絵

 何か似ていない? 同じじゃない?
 端折って書いてしまうと、「メタファー」と「目」が同じものになってしまわないか。何がなんだか、わからない。
 それやこれやで、

彼が覗いた心の風景を私は垣間見た。

 「心の風景」って何なのだ、と思ってしまう。「心の裡の本質としての麦畑」と言い換えうるのかもしれないが、そんな「心の裡」にあるものなんか、「目」では見えないぞ。ことばで「見える」と錯覚させているだけじゃないか。
 なんて、非難は、見当違いだろうなあ。
 「目」に見えないものを「見える」ようにするのが「ことば」であると、小林はいうだけだろう。

 ということを「結論」にして、きょうの感想を終わってもいいのだけれど。もう少しつけくわえて「結論」らしくととのえてもいいのだけれど、私は「結論」というのは「うそ」だと思っているので、その「うそ」をさらにゆさぶって、隠していることを吐かせてみたい気持ちになる。
 先に引用し、あれこれ書いてきた文章につづいて、次の一文がある。

ナイフの刃の跡を画布に走らせる手の動きが見える。

 ここにも「動詞」が幾つか登場する。「走らせる(走る)」「動き(動く)」「見える」。そして、そこに「目」以外の「肉体」だ登場する。「走る」は「足」を呼び起こすが、直接には書かれていない。直接書かれているのは「手」。「手の動きが見える」。この「手の動き」が魅力的である。私の「肉体」を刺戟する。書かれていない「足」は「手」の動きの速さとなって刺戟してくる。力を込めて動かし、その力が動きを速くする。そんなふうに、ことばと「肉体」を刺戟する。
 「心の裡に実在する本質」を「目」に見える「絵」にする。そのとき「手」が「動く」。「絵にする」は「絵を描く」であり、「描く」は「手を動かす」である。
 この「肉体」の動き、「手」の「動き」によって、

ゴッホの外の世界の麦畑-手(の動き)-ゴッホの心の裡の本質としての麦畑

 がつながる。「メタファー」「目」「手」が絡み合う。この絡み合いは、「メタファー」という「概念」を「肉体」に取り戻す、「肉体化する」ための動きのように感じられる。このとき、この動き全体が「絵」として結晶する。「ひとつ」の「もの/こと/じけん」になる。
 実在として「ある」麦畑、ゴッホの心の裡に「ある」本質としての麦畑が、絵としての麦畑に「なる」。「ある」を「なる」に変えるのが「肉体の動き」である。「手」の「動き」である。「動詞」が「存在(ある)」を「なる(事件)」に変える。「ある」と「なる」の変化、生成の「現場」に「肉体」が動いている。
 このあとも、小林のことばは延々と動く。そして、それは概念的なことば、抽象的なことばがどんどん増えることにつながるのだが、それが単に「頭」で動かしていることばではなく、どこかで「肉体」と深くからみあっている感じが伝わってきて、とても刺激的だ。「肉体」とどうからみあっているか、もっと丁寧に読まないといけないのだが、もう時間を超過してしまった。私は40分を超すと、目が疲れて見えにくくなる。考えも、ことばもそれにつれて縺れはじめる。中途半端だけれど、ここでやめておく。




季刊 ココア共和国vol.18
秋 亜綺羅,小林 稔,木下 龍也,岡本 啓,高橋 英司,草間 小鳥子,為平 澪,吉田 稀,新井 弘泰
あきは書館
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大山元『記憶の埋葬』

2015-12-05 10:20:27 | 詩集
大山元『記憶の埋葬』(土曜美術社出版販売、2015年10月30日発行)

 大山元『記憶の埋葬』は具象と抽象(概念)が交錯する。「こころの底」という作品の書き出し。

こころがねむれないのは
声の渦のまぶしさのためではなく

 知らないことばはない。しかし、知っていることばでもない。
 「眠る」という動詞は「私は眠る」という具合につかう。そのときの「私」は「こころ」と限定されていない。これ大山は「こころ」を「主語」にして、限定してしまう。
 「声の渦」というのは「声が渦巻いている/見分けがつかないように動いている」ということだろうか。「声」は「耳」で聞き取る。そのときの「感じ」を用言(動詞の一種であると私は考えている)をつかって言えば「うるさい」あるいは「静かだ」ということになる。大山は、これを「まぶしさ(名詞)/まぶしい(形容詞/用言)」であらわしている。
 「まぶしい」は「目」で感じるものだけれど、大山は、それを「耳」で感じている。「目」のための「用言」が「耳」の感覚を表現するのためにつかわれている。
 「主語」と、それにともなって動く「用言(動詞/形容詞)」がふつうの日本語(学校教科書の日本語)と違う。そのために、そのことばを読むと、私の「肉体」は、奇妙にねじれる。刺戟を感じる。「意味」はだいたい「わかる」が、この「わかる」は「論理的」に「わかる」のではなく、「雰囲気」として「わかる」。
 「誤読」かもしれない。
 「こころ」のなかで「声」が渦巻いている。それが「聞こえる」だけでなく、目を刺戟してくる。目の記憶と耳の記憶が、「肉体」のどこかでつながって、それが「錯覚」を引き起こしている。耳を閉ざしても聞こえてくる「声」がある。それはまぶしすぎる光が目を閉ざしても見えるような感じかもしれない。目をつむっても、まぶしいもをの見たという記憶が網膜の奥に残るように、声が鼓膜にこびりついている。その「こびりついている」感じが交錯し、「声」なのに「まぶしい」と感じるのかもしれない。
 はっきりとは言い切れないが、そういういろいろな「感じ」が「肉体」のなかで動き回る。光がぶつかりあって、さらに光るように、抑えきれない声がぶつかり、うずまき、その衝突する火花が光っている感じかもしれない。
 こういう感じが、このままずーっとつづいていけば、とてもおもしろいと思う。けれど……。

目の前の愛憎に強くあらがうためでもない

 「愛憎」ということばが「種明かし」のような感じで動く。「声」は「愛憎」の入り交じった「声」。
 「わかりやすい」、かもしれない。
 けれど、私は「わからない」と言いたい。私の「肉体」は「愛憎」ということばだけでは抽象的すぎて、動かない。
 「耳/まぶしい」ということばのつながりに反応した「肉体」は、ここでは動かなくなる。かわりに「頭」が動く。
 「頭」では「愛憎」とは「愛と憎しみ/相反する感情」と理解できるが、その「愛憎」の瞬間、大山の「肉体」がどんなふうに動いているか、それがわからない。最初の二行にあったような「耳」と「目」の交錯のような刺戟が「肉体」を突き動かさない。だから「わからない」。私の「肉体」は「愛憎」の「あらがい/あらがう」ということばでは、どう動いていいかわからない。「目の前」と書かれても、その「目」も実感できない。
 うーん。
 いまばらばらに引用した三行を、大山は、つぎのように言い直す。

胸さわぎするかがみのまえにたたずみ
こころの切実なかたまりを伝えるのに
思ったことを喩えでしか言えないためだ

 「こころがねむれない」は「胸さわぎ」のため。このとき、「こころ」と「胸」は通い合う。「胸さわぎ」は「(こころの)声の渦」。それは「具体的」には言えない。「喩え/比喩」でしか言えない。つまり、何か別なものをとおしてしか言えない。
 で、ここからが、大山の特徴。
 比喩は何かを別なものをとおして言うこと。「美女」を「花」と呼ぶとき、その「花」という比喩(喩え)は「美女」とは別のものだね。こういうとき、「比喩」は「花」のように「具体的な存在」であることが多いのだが、大山は「具体的な存在」をつかわない。具体的ではないものをとおる。

喩えは時代の感性に深くまどろむから
情念は時の急な変化にたえられない

 突然、抽象的に「考え」を語ってしまう。「概念」へ行ってしまう。これをさらに

網膜の青空にはっきり見たいこころの底は
直接のことばでしか見えはしない

 「直接のことば」とは「概念」である。「花」とか「目」とか「耳」とかは、大山にとっては「直接のことば」ではない。「時代の感性」とか「情念」とかいう「抽象語」が大山にとっては「直接のことば」なのだ。
 何に「直接」なのか。何と「直に/接している」のか。
 「頭」だね。
 「花」も「目」も「耳」も「頭の外」にある。でも「概念」は「頭の中(内)」にある。大山は「頭の外」にあるものと「頭の内」にあるものを別個に考えている。そして「頭の内」を優先させている。
 「肉体」に邪魔されず(?)、「頭」と直結したことばなら、「こころの底」で起きていることが見える。それは「具体的」なものを借りて語ろうとすると「間違い」になる、と大山は感じているのだと思う。
 これは逆に言い直せば、私たちが肉体(目や耳、手など)でつかみとっている世界は誤謬に満ちている、ということ。そういう世界を「頭(概念/抽象)」で整理し直したものが正しいということ。「頭」が「正しい/間違い」を判断するということになる。
 あ、これは私の要約。
 大山なら、そんなふうに言わずに、概念/抽象のことばで世界を整理し直した方が、世界がわかりやすい。合理的な世界は概念/抽象によって整理されているからこそ、人間になじみやすい。人間は概念/抽象によって世界を整理することで、美しく生きている、ということになるかもしれない。
 「こころ」というごちゃごちゃした世界も、概念/抽象で整理すると美しい「抒情」になる--ごちゃごちゃした「こころ」を概念/抽象のことばで整理し、「頭」とってわかりやすい形にしたのが詩、抒情詩。
 そのとおりにことば実践された作品群であると思う。

 あとは「好き嫌い」の問題。

疲れた沈黙は闇のかがみの裏に落ちる

 という鮮やかな一行もあるけれど、うーん、この一行剽窃してみたいなあという欲望に襲われたりするけれど、一方で、世界を概念/抽象で整理するなんて、古くさくていやだなあとも感じてしまう。
 私の「好み」はもっと「肉体」に結びついたことばである、としか言えない。
 きちんと書かれてるから、わかるし、けっして「嫌い」ではない。でも「好き」とは言えないなあ……。

 いま触れた「こころの底」のような行分け詩のほかに、大山は散文形式の詩も書いている。「ラオ先生」。散文形式は、散文に近いだけあって概念や抽象となじみやすい。事実の本質を抽象化しながら、抽象でしかたどりつけない「論理的結論」をつかむこと、「現実の底にある真理」をつかみ出すことが散文の仕事である。そういうことばの運動の方が、山本のことばを落ち着かせているように感じた。


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大山 元
土曜美術社出版販売

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