詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中本道代「夏の響き」、阿部日奈子「サバ」

2015-12-04 09:27:43 | 詩(雑誌・同人誌)
中本道代「夏の響き」、阿部日奈子「サバ」(「ウルトラ・パズル」25、2015年11月25日発行)

 中本道代「夏の響き」は描写が美しい。

ブルーサルビアが根元から折れている
藍から次第に碧くなっていくくちびるがいくつも
陽の欠片を吐いている
けものが後ろ肢をやわらかく揃えて横たわる

 サルビアの花を「くちびる」に譬え、それが「吐く」という動詞で結びつけられるとき、そこに「ひと」の「肉体」が見えてくる。その瞬間、ブルーサルビアは中本自身の「比喩」になる。その「肉体」は、前の行に戻ると「折れる」という「動詞」ともつながる。何かしらの「力つきた感じ」のようなものがあり、くちびるから息を吐いている。それは苦しい息かもしれない。しかし、それ「陽の欠片」と呼んでみる。「欠片」に「折れる」に似た弱いものがある。弱いけれど「陽の」ということばが、それを傷つきながらも「美しい」ものにしている。中本は彼女自身の「力尽きた感じ」のようなものを「美化」しながら把握している。センチメンタルである。一種の「酔い」のようなもの、「陶酔」がそこに感じられる。「陶酔」というのは傍から見ていると、まあ、どうでもいいのだ。それを承知しているからこそ、中本は「美」への意識がうるさくならないように配慮している。「藍から次第に碧くなっていく」という、意識をこらさないと明確にはつかみとれないようなものを書くことで、読者を、ことばのなかに誘っている。「わからないひとはかまいません」というような、一種の拒否がそこにあるかもしれない。これは「陶酔」の「極致」のようなものではあるのだけれど……。
 このままブルーサルビアの描写がつづくとうんざりしてしまうかもしれないが、「折れる」「吐く」という「動詞」のあとに、「けもの」という「野蛮」が出てきて、「美」を異化している。「折れている」は「横たわる」と言い直されて、「ブルーサルビア」が「けもの」と言い直されて、中本の「肉体」は「比喩」のなかでひろがっていく。手触りのあるものになっていく。ただし「けもの」はあくまで「抽象的」である。「ブルーサルビア」が特定された花であるのに対し「けもの」は固有の姿形をもたない。「なまなましい」けれど、直接的ではない。「前肢」ではなく「後ろ肢」というのは、下半身、性器を想像させる。けれど「やわらかく」というようなことばで、それを抑制している。隠している。
 中本のことばが美しさを保っているのは、拒否と抑制があるからかもしれない。

 この「肉体」(比喩)はさらに言い直される。

夏が割れて
山百合の純白の花弁に斑点が浮き上がる
そりかえり放射されていく斑点が
遠い雷鳴を聞いている

 「割れる」「浮き上がる」「そりかえる」。それは女の「肉体」のセックスの動きをそのまま語っているように思える。「動詞」というのは、いつでも「肉体」が覚えていることを思い出させる。何が「割れる」のか、何が「浮き上がる」のか、何が「そりかえる」のか、その「何が」を言わなくても、「動詞」が「何が」を含んでしまう。
 この四行は、先に引用した四行の「前」のことかもしれない。
 セックスがあって、そのあと、一連目にある「折れる」「吐く」「横たわる」という状態がある。この四行は、横たわりながら思い出している官能である、ということができる。「折れる」は官能が高みまでのぼりつめ、そこで力が尽きたという達成感にかわる。「折れる」と「脱力感」である。
 このあと、

耳鳴り

 ぽつんと一行一連のことばが、ほうりだされている。「遠い雷鳴」と「耳鳴り」が、「肉体」の「外」と「内」を融合させる。「雷鳴」が耳に「内に」入ってきて「耳鳴り」になったのか、「耳鳴り」が「外に」出て行って「雷鳴」になったのか。
 エクスタシー(自分の枠の外に出てしまう)ということから言うと、「耳鳴り」が出て行って、「雷鳴」になったのだろう。それは「遠い」。「遠く」まで行ってしまった。
 いろっぽいね。
 でも、なんだか美しすぎて、こまる。
 いろっぽいのはわかるが、引き込まれない。それでは、なんだか読んだかいがないとも思う。私は欲張りな読者なのだ。



 阿部日奈子「サバ」は短編小説風な散文。そのストーリーを紹介するのは面倒くさいので省略してしまうのだけれど、最後の方。

あなたと知り合う前に、オートバイで事故を起こしたことがあるのですが、深夜に走っていてカーヴを曲がりきれずに転倒し、体が前方へ投げ出されて宙を飛ぶあいだ、目の端に、路面をこすって火花を散らしながら後方へと滑っていくバイクが見えました。どちらが行いでどちらが心だかわからないけれど、一方は宙を泳いで落下してゆき、もう一方は火花をまち散らしつつ闇へ吸い込まれてゆく……

 ここが、とてもおもしろい。
 ことばにできることは何でもことばにしてしまう阿部の強い文体が効果的だ。「宙を飛ぶ体」と「滑るバイク」を「行い」と「心」と言い直している。「宙を飛ぶ体」が「行い」であり、「バイク」が「心」と特定できるわけではなく、「滑るバイク」が「行い」で「宙を飛ぶ体」が「心」かもしれない。「体」が「心」と言ってしまうと、一種の「矛盾」になるけれど、「矛盾」だからこそ「真実」かもしれないなあ。
 わからないけれど、この「正確」を装った文体には飲み込まれてしまうなあ。そんなことを体験すると「痛い」のかもしれないが、この「痛み」には「痛み」を体験したものにしかわからない「見る快感」がある。その快感に陶酔してみたい。バイクで転倒して、宙を飛びながら、遠くへ滑っていくバイクを見たい、そのときの火花の美しさを見たい、という欲望をそそられる。
 中本の作品に比べ阿部のことばの方が、はるかに強いセックスを感じる。セックスをしている気持ちにさせられる。セックスのことを書いていないのに。
 詩は不思議だ。

中本道代詩集 (現代詩文庫)
中本 道代
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*

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佐々木洋一「箒(ほうき)」

2015-12-03 09:13:38 | 詩(雑誌・同人誌)
佐々木洋一「箒(ほうき)」(「ササヤンカの村」24、2016年01月発行)

 佐々木洋一「箒(ほうき)」は一行が一連の形で書かれている。(一行空きの形で書かれている。)

箒が立てかけてある

足元がむずかゆい

ころげた木の実やくちた花びらやかわいた木の葉がくすぐっている

 という具合。
 行空きをとってしまうと、

箒が立てかけてある
足元がむずかゆい
ころげた木の実やくちた花びらやかわいた木の葉がくすぐっている

 となってしまう。
 「意味」はかわらないかもしれない。けれど読んだときの印象が違う。ことばのリズムが違ってしまう。
 一行空きがあると、読む呼吸が違ってくる。ゆったりしてくる。「意味」を追いかけるというよりも、その一行一行で、いったん世界が完結していく感じがする。「意味」がいったん捨てられて、ことばが再び動き出す感じ。
 もし「意味」をつなげるとしたら、書かれていることばを追いかけるだけでは不十分なのかもしれない。一行空きの、間合いの感覚を味わう必要があるのかもしれない。
 その「間合い」に何があるのだろう。

箒が立てかけてある

 これは、「箒が立てかけられている」状態の描写。私は、わざと「立てかけられている」と書き直して説明したのだが、「立てかけてある」と「立てかけられている」は、ほんとうは違う。どちらも「主語」が省略されているのだが、「立てかけてある」というときは、主語は想定されている。「私が」箒を立てかけた、その箒がそのままの状態にある。「立てかけられてある」と「受け身」の場合は、「誰かが」立てかけたのだが、その「誰か」のことは無視して、ただ箒の状態を示している。「誰が」を問題にしないで、ただ「状態」だけを問題にするとき、日本語では「受け身」の形で書くことが多い。(と、私は感じている。)
 なぜ、こんなことにこだわるかといえば。
 この省略された「私が」という主語こそが間合いにあって、それが行と行をつないでいると感じるからだ。つまり、

足元がむずかゆい

 この行の「足元」と関係してくる。誰の「足元」? 私は「箒の足元」と思って読むのだが、同時に、それは箒を見ている「私(佐々木)」の「足元」と重なっている。
 箒は足元を「むずかゆい」と感じるか。感じるかもしれないが、箒はそう語るわけではないので、わからない。その「わからない」ことを佐々木は佐々木の「肉体(足元)」の感覚で語っている。あの状態は「むずかゆい」という「肉体」が覚えている感覚を思い出させる、と。
 そして、そう読み直すとき、その箒は、どうしても佐々木が「立てかけた」ものでないとうまくつながらない。たとえ誰か知らないひとが立てかけたものであっても、その「足元がむずかゆい」と感じたとき、佐々木は箒を「立てかけた」ひとの「肉体」になっている。
 「立てかけた」ひとが意識から除外されているとき、つまり「立てかけられている」と表現がはじまったなら、「足元がむずかゆい」という「肉体」を含むことばは動きにくい。自分の手で箒を立てかける。自分の「肉体」と箒が接触したからこそ(連続したからこそ)、箒の「足元(細かく枝分かれした部分、柄とは反対の部分)」が何かを感じているのがわかる。箒は、その箒をつかったひとの「肉体」になっているのである。
 そういう書かれていないこと(ことば)を感じ取る時間のために、一行空きの間合い、余白が必要だ。
 で、次に

ころげた木の実やくちた花びらやかわいた木の葉がくすぐっている

 ここでは「むずかゆい」が「くすぐっている」ということばで言い直されている。「くすぐっている」の主語は「木の実、花びら、木の葉」であるが、この「くすぐっている」を「くすぐられている」と読み返すと、「くすぐられている」のは「箒の肉体(佐々木の肉体につながっているもの)」になる。
 「むずかゆい」と「くすぐられ、こそばゆい」は違う。違うけれど似ているかもしれないなあ。軽い違和感。不快にまではならない、妙な感じ。からだを動かして(よじって)、その刺激から逃げたい感じ。
 「足元がむずかゆい」のは「足元がくすぐられる」からだ。
 「私」ということばを隠しながら、つまり佐々木の存在を隠しながら、「肉体」の感覚だけは、箒のなかに残している。

「私が立てかけた」箒が立てかけ「たままの状態になっ」て「そこに」ある
「箒の」足元がむずがゆい「のを、箒を立てかけた私が、箒のかわりに感じている」
「箒の足元を」ころげた木の実やくちた花びらやかわいた木の葉がくすぐっている「のだが、その箒の足元が感じることを、私の足元が感じることのように、感じる。木の実や、花びら、木の葉が足に触れるとくすぐられたように感じる。かさこそ。その感じはくすぐったいのだが、なんだかむずかゆいに似ている」

 三行を、省略されたことばをカッコで補いながらしつこく言い直せば、そんな具合になるかもしれない。しかし、こんなふうにしつこくことばにしてしまっては、詩ではなくなるね。だから佐々木は「空白」で余分なものを吹き払って、ことばを簡単にしている。簡単にしているために、何か「論理(意味)」の連続性が弱くなっている。
 ただし。
 その弱くなった部分に「肉体」が隠れるように忍び込んでいるので、書かれていることばが「肉体」のどこかを刺戟する。
 「むずかゆい」「くすぐっている」
 「むずかゆい」「くすぐっている(くすぐられている)」ということばのなかで、そのことばをつなぐ間/間合い(余白)のなかで、箒が箒ではなく、佐々木の「肉体」になる。
 さらに「ころげた」「くちた」「かわいた」という「動詞」が「肉体」を刺戟する。「ころげる」「くちる」「かわく」の「主語」は「私(佐々木)」ではないが、そういう「動詞(動詞派生の修飾語/連体形)」が「肉体」を刺戟する。「動詞」によって、そこに書かれている「もの」がより身近になる。現実になる。
 箒が書かれているのに、感じるのは「肉体」なのである。「肉体」が箒になって、そこで起きている世界を受け止めている。
 こういうことが、さらに言い直されていく。

ついぞ庭先に子どもの声は上がらない

しろ蝶が崩れかけたしら壁に慌てふためく

花は惚(ほう)けてやさしい

惚けてやさしいものはみみたぶのようにかゆい

 「みみたぶのようにかゆい」がいったい何のことか、別のことばで言い直すことは私にはできない。つまり、何を言いたいのか、私にはわからない。わからないのだけれど、わっ、いいなあ。「みみたぶかゆい」というときの「みみたぶ」の感じを思い出してしまう。
 箒に「みみたぶ」なんてないから(足元なら、地面に触れる方を足と読み直すことができるが)、それが箒のこととは思えない。ただ自分の「肉体」の「みみたぶ」で、ここに書かれている「みみたぶ」を感じる。
 つまり、箒なのに、それはもう箒ではなく、私は箒になって、世界を感じているということ。
 まいるね。どう説明していいかわからなくなる。でも、なんだか楽しい。「肉体」が世界を楽しんでいる。
 途中を省略して、最後を引用しておこう。

かしこまった洗濯物

古い竹竿にしがみつく女郎蜘蛛

箒が立てかけてある

立てかけたまま惚けている

足元がまたむずかゆい

惚けたところにひき蛙が二匹隠れている

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坂多瑩子「夕焼け空」

2015-12-02 09:58:23 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「夕焼け空」(「青い階段」44、2015年11月15日発行)

 詩の、どこがおもしろいか、それを言うのはむずかしい。おもしろいと思う部分だけを取り出しても、ぜんぜんおもしろくないからだ。
 坂多瑩子「夕焼け空」は

アイスください
百個ください
千個ください

 この三行で私は大笑いしてしまったのだが、これだけじゃわからないでしょ? そんなに買ってどうする? 冷蔵庫に入らないぞ、腹を壊すぞ。
 で、全体を引用し直すと。

アイスあります
アイスあります
軒下にぶら下がった紙に黒々と
書かれている
アイスちょうだい
そんなものないよ
ハタキかけながら
おばあさんがいった
あっちへ行きな
あたしの顔に斑点があるから
ちがう
ソバカスだらけだから
お前は大きくなると美人になるよ
そういわれて
育ったけれど
アイスなんてないといったおばあさんとこの
ノブちゃん
アイス舐めてた
みんなうそばっか
いまじゃ
ひろい敷地のはしっこに
コンビニができて
アイスください
百個ください
千個ください
夕焼け空は
かわらないけど
どこか とおくで
トタンの屋根がパカパカしている
おばあさんおばあさん
漏斗形の花がまきついているよ

 「みんなうそばっか」。怒っているのだ。大人の言うことは、みんな嘘。「アイスがない」も「ソバカスは美人になる」も嘘。その嘘に怒って、その怒りのあまりに、「百個ください/千個ください」と口走っている。でも、それは実際に声にはしていない。だって、コンビニで「アイス百個ください、いや千個ください」って、言うわけないでしょ?
 で、実際に声に出して言わないからこそ、それは「大声」なのだ。「叫び」なのだ。
 これが、おかしい。これが、おもしろい。
 コンビニでおばさん(坂多はおばさんだと思う。会ったことがないが「美人の若い娘」ではないと思う)が「アイス百個ください、千個ください」と言っていたら、私は少し離れる。それが「大声」だったから、ぱっとコンビニから逃げ出すかもしれない。
 でも「声」に出さず、胸のなかで叫んでいるから、おもしろい。
 「こころのなか」という言い方もできるかもしれないが、「胸のなか」。
 これが大事。
 私がきょう書きたいのは、このことかもしれないなあ。
 「アイス百個ください」の三行を読んだとき、私が笑い出してしまったのは、そこに「意味」ではなく「肉体」を感じたからだ。怒っているという「意味」ではなく、怒っているときの「肉体」。ことばは「声」にはならないが、「声」にならないまま、のどや口が動いている。大声を出すときの、息をいっぱいに吸い込む「肺(胸)」も動いている。手足もばたばたしている。子どもがだだをこねるときみたいに。
 こういうとき、「こころ」って、どこにある?
 私は、「こころ」とか「精神」というものが「ある」と信じていない。「肉体」だけが「ある」と思っているのだが、それは、こういうことがあるから。
 つまり、子どもが「アイスがほしい」とだだをこねているとき、それは「こころ」が主張していること? そのとき、「こころ」はどこにある? 私はばたばたふりまわす手足だとか、めちゃくちゃにくずれる顔だとか、涙だとか、あるいは外からは見えない内臓だとか、そういう「肉体」のすべての場所にあるような気がしてならない。抽象的な場所ではなく、手や足、開く口、動いてしまう「肉体」、それが「こころ」なのだと思う。
 で、「こころ」のなかで叫ぶのではなく、「肉体」、つまり「胸」のなかで叫ぶ。その「胸」とつながっている「のど」が動き、それが手足にまで伝わっていく。
 坂多はおばさんだから、子どものように手足はばたばたさせないだろうけれど、「肉体」は手足をばたばたさせた昔を覚えていて、それを思い出している。
 そういうことを、私は「肉体」で感じてしまう。
 この「肉体」の「共感」を、私は「セックス」と言い直すので、いろんなひとから叱られる。顰蹙をかうのだが。
 でも、「胸のなかで叫んでいる」と感じた瞬間、私の「肉体」は「私の肉体」ではなく、「坂多の肉体」になってしまっている。区別がない。どこからどこまでが「私の肉体」か、どこからどこまでが「坂多の肉体」が言うことができない。これって、最高のセックスでしょ? 「他人の肉体」なのに「自分の肉体」と思ってしまう。「他人の肉体」のなかで「自分の快感」が暴走する。
 で、「そう、ソバカスなのに美人にならなかったのかあ。私もソバカスだらけだった。私は美男子になりました」というような冗談というか、ちゃちゃをいれて、からかいたい気持ちにもなってしまう。
 でも、こういうことは「とおく」で起きていること。終わりから四行目の「とおく」。そして、その「とおく」は「遠い時間/過去」なんだけれど、思い出すたび「いま/ここ」を突き破ってあらわれる「近く」。「近く」を通り越して「いま/ここ」の中心。「近く」と区別できない「とおく」。あるがままの「いま/ここ」。
 だから、「トタンの屋根がパカパカしている」「漏斗形の花がまきついているよ」と、描写が「現在形」。昔「パカパカしていた」のではない。「まきついていた」のでもない。「いま/ここ」に、それが坂多の「肉体」とつながったもの(連続したもの)としてあらわれてきている。
 詩のことばが「連」に分かれずに、全部つながっているのも「肉体」の連続感を強めている。「ハタキをかけながら」ではなく「ハタキかけながら」と助詞を省略する密着感もそれを後押ししている。


ジャム 煮えよ
坂多 瑩子
港の人

*

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谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
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野村喜和夫『久美泥日誌』

2015-12-01 10:22:39 | 詩集
野村喜和夫『久美泥日誌』(書肆山田、2015年11月15日発行)

 野村喜和夫『久美泥日誌』は「くみね」日誌と読む。「くみね」とは「組み寝」らしい。万葉仮名から着想を得ているらしい。私は万葉集も万葉仮名も知らないから、野村がそう書いているからといって、それをそのまま信じていいかどうか、わからない。そうか、と思って読むだけである。私の知っていることを手がかりにして読むだけである。
 「久美」は一般的に女の名前。女は一般的に美しい(「久美」には「美」という文字も含まれている。)。「泥」は一般的に汚い。「久美泥」ということばのなかには美しいものと汚いものがしっかりと結びついている。
 男が女を考えるとき、そこにはどうしてもセックスが入ってくる。「久美泥」が「くみね」であり、それが「組み寝」という意味なら、その「組み」は男と女の組み合った形、それも「寝る」姿で組み合った形なので、どうしてもセックスになる。
 で、この詩集にどんなことが書いてあるかというと、まあ、いろいろ書いてあってそれを全部説明するのは面倒くさい。だいたい私がことばを読むときはいかがわしいことを妄想しながら読む。つまり、セックス描写を探して読んでしまう。だから全部をきちんと書こうとしても、どうしてもセックスにまつわる部分が多くなる。「正確に」読んだことにはならない。
 だから。
 私は最初から開き直って、私がいちばん関心を持ったことだけを書く。
 この詩集で、私は「また」ということばと「あるいは」ということばに気づいた。

われわれは日々刻々、その巌のうえで死んでゆき、また甦ってゆく。
                             (「52」、63ページ)

事後のようにまばらに人が群れている。あるいは、人のようにまばらに事後が群れている。
                             (「81」、96ページ)

 ほかにも「また」「あるいは」は出てくるかもしれないが、詩集の後半に入って、そのことばがくっきりとみえてきた。
 ふたつのことばは少し似ている。
 「また」は「死んでゆく」「甦ってゆく」という反対の運動をつないでいる。つないでいるといっても、いっしょに動くわけではない。どっちでもいい、という「また」である。決定しない。そのための「また」である。
 「あるいは」の方は「群れている」という「動詞」はひとつで、「事後」と「人」が入れ違っている。「主語」が「あるいは」を挟んで反対になっている。
 どこが似ているかというと「反対」のものを同居させているということが似ている。
 野村は、この詩集で「反対」のものを次々に組み合わせているのである。
 「私/野村(男)」と「久美(女)」、「女(美しい)」と「泥(汚い)」。もちろん男と女、美しいと汚いが「反対」のものであるかどうかは絶対的ではない。むしろ組み合わせることで、そういう「既成概念」が絶対的なものではないということを野村は書こうとしている。「反対」と思われるものを結びつけてみると、そのあいだでことばは自在に動く。「あいだ」そのものを解体し、さらに組み立てる形でことばは動きつづける。その「動く」ということが詩である。固定されないことが詩である。
 だから「また」であり、「あるいは」なのだ。
 「81」の「あるいは」を含む文のつづき。

異様とも思える静けさ。二度三度とここに戻ってきたような気がするが、どこといってどこでもない。

 これが詩集の「要約」になるかもしれない。「二度三度」について言い直せば、「ちたちたと脳梁を水がつたってゆく」ということばが「二度三度」出てくる。(何度でてきたか、数え直したくない)。「アントナン・アルトーとジャック・リヴィエールの往復書簡をまとめた薄い本」というようなことばも「二度三度」出てくる。(これも、回数は数え直したくない。)そのたびに「戻ってきたような気がする」。どこへ? どこかわからないが、あ、これは読んだことがあると感じる。その「感じ」へ戻ってくるのかもしれない。「ちたちたと脳梁を水がつたってゆく」と「アントナン・アルトーとジャック・リヴィエールの往復書簡をまとめた薄い本」は、ことばの「見かけ」は違っている。しかし、ほんとうに「違ったもの」であるかどうかはわからない。「違ったもの」であるにしろ、それは「野村のことば」のなかでつながっている。
 そのつながりがあると仮定して、では、それは「また」という構文でつながることができるのか、「あるいは」という構文でつながることができるか。この問題を追いつづければ、この詩集のことばの肉体に触れることができるかもしれない。追いつづけたい気持ちもあるのだが、いまは目が疲れ切っているので、やめておく。追いつづけても「どこといってどこでもない」ということになるだろうなあと感じているからである。
 「二度三度」繰り返せば、それは「どこといってどこでもない」ではなく、徐々に「ここ」という具合に固定化するはずなのだが、野村のことばの運動は、逆。固定化の否定、「また」「あるいは」という言い換えの「本領」としている。
 このことを野村のつかっている動詞を借りて言えば「超える」ということになる。「どこといってどこでもない」とは、「ここ」という特定(固定)を「超える」ということである。超越。逸脱。エクスタシー。「ここ」という枠を「超える」だけではなく、運動そのものをも「超える」。
 これを詩集の最後「82」(97ページ)で野村は、次のように言い直している。

ひとりの女、久美、きみへのアクセスを超えて。何の輪だろう、輪が、ふわっとひろがる。

 「アクセス」は名詞形だが「アクセスする」という「動詞」として読み直すと、「超えて」と中途半端な形で動いている「超える」ものが何であるかがわかる。「超える」のかまたは「破壊する」のか、あるいは「破壊する」のか、よくわからないが、その瞬間、そこに存在するすべては「ひろがる」。中心を失うのではなく、ひろがりが中心になる。うーん、矛盾だ。たぶん、俳句で言う「遠心・求心」のような感じだな。

 で。
 こんなふうに書いてしまうと、ほんとうに「要約」という「誤読」になってしまうので、最後に、私の書いたことをひっくりかえしておこう。
 「82」から「49」(60ページ)へ引き返してみよう。そうすると、「82」が「二度三度」であることが、よくわかる。野村は同じことを「また」「あるいは」で言い直していることがよくわかる。「49」の方が「書く」という詩人の行為を含んでいる(つまり、自画像になっている)ので、「49」を中心に感想を書いた方が「論理的」になるというか「構造的」になるのかもしれないが、まあ、そういうことはほかの人に任せたい。ここに出てくるあからさまな「概念語」を「肉体化」するのは、私にはめんどうくさい。

ぼくは恐れる。書くことによって、ますます久美、きみを見失ってゆくのではないかと。一年ものあいだ、書くことによってひそかにきみとともに在るつもりでいたのだが、錯覚であったかもしれぬ。じっさい、久美という名のまわりに、それと引き合い、また反発し合うさまざまなレベルの言葉を蝟集させるとき、内界と外界との、豊穰と不毛との、生気と死との、驚くほど自在な共謀に担われて、久美、きみそのものはいつしか消失してしまうのではないだろうか。あるいは、久米川辻や久美泥という語以外のどこに久美、きみはいるというのだろう。やがてぼくは、書くことをやめて、どこにいるのだ久美、と叫びながら、夜の武蔵野をさようことになるのかもしれない。

 それに……。
 私はここで大爆笑してしまった。笑いすぎて涙が出てくるくらい。「書くのをやめて」? まあ、ことばが暴走したのだろうけれど、野村が「書くのをやめる」ということは、「また」「あるいは」ということばをつかってしまったかぎり、あり得ないじゃないか。書くことがなくなったとき(書くことにゆきづまったとき)、書くことを邪魔するものを突き破るために「また」「あるいは」はいう「論理の述語」をつかって論理を否定した以上は、その運動は止まりようがない。
 止まることを拒絶したことばの運動(ことばの肉体)を追いつづけても、どこへもたどりつけない。「止まらない運動」であると指摘することしかできない。

久美泥日誌
野村 喜和夫
書肆山田
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