詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鍋山ふみえ「どこかで振り子が」、降戸輝「古の鳥」

2016-04-17 13:09:30 | 現代詩講座
鍋山ふみえ「どこかで振り子が」、降戸輝「古の鳥」(「現代詩講座@リードカフェ」2016年13日)

どこかで振り子が   鍋山ふみえ

どこかで振り子がゆれている

昼間 空気の波動がゆるく伝わってくる

時は規則正しく動いているはず

くだものが熟れて 熱を帯びる

ひかりが発色して立ちのぼる 逆さ立ちの虹

瞬間 そのまえの瞬間 と遡っていけば くだものたちの

かたちを失くす直前の最期のすがたに辿りつける

ぼと ぼと 落下して地面のうえでくずれる

皮が破れつぶれても かたちを失っても 

熟した色は最後まで残るはずだ

わたしのまぶたの奥の残存物 

地下に吸い込まれてなくなったかつて果物だったかたち 

葉っぱ 昆虫 果実

腐葉土を腑分けしていけば 途中でそれらが見つかるだろう

はじめの頃 葉っぱは木の枝に 昆虫は羽化前で 果実は青く硬い種子 

振り子がすれすれに掠っていく 天空を 

遠いところで音がする 

草叢で しゃらしゃらしゃらしゃ 

近くの虫が鳴く 

背後でしきりに落ちる三角錐の小さな草の実 

露の降りはじめ

振り子がゆれている 

 書き出しの「どこかで振り子が揺れている」の「どこか」が、クセモノである。「ここ」ではない。つまり、直接振り子を目撃しているわけではない。そこから始まることばの運動は「描写」を装いながら、「描写」ではない。「現実」があって、それを「ことば」で再現しているのではない。
 こうしたところを、どうとらえる。しかし、そういうことは何もいわず、ただ受講者の感想を聞いてみた。

<受講者1>振り子は動く。波動も動く。その動きが果物が熟れていくことと繋がる。
      時間が動いて、果物が熟れる。
      上昇する、落下する、さらに地下に動いている。
      「天空を」からあとがとても美しい。
<受講者2>振り子は時間を司るイメージ。
      スローモーションや映画で言う早送りのような、自在な変化がある。
      そういうものが組み合わされ、時間が映像のように浮かぶ。
      後半、人間が出て来ない。何か崇高な感じがする。
<受講者3>劇の一幕を見ている感じ。
      振り子が揺れている間の時間。そこにいろんなことがあらわれる。
      時間が流れていく間に、果物が熟れて崩れ、地下に入っていく。
      そこに昆虫が入ってくるところがおもしろい。
      最後の方の「しゃらしゃらしゃらしゃ」は虫の声。
      普通の虫と違っているところがおもしろい。
<受講者4>振り子は時間をあらわしている。
      時間は順接というか、順番に前に進んでゆく。もどらない。けれど
      この詩では逆接というのか、「遡っていけば」と逆の動きも見える。
      果物が熟れる(実る)は順接、それが崩れるというのも順接だが、
      形を失うというのは、喪失感があって順接とは言い切れない。
      形を失いながらも何かが残る。そういう交錯、循環がある。
<受講者5>振り子は、算数で習った「振り幅」を思い出させる。

 「時は規則正しく動いているはず」という行があるせいか、あるいは「時」ということばが出てくるせいか、受講者の感想は、「振り子」から「時間」へ一気に飛躍した。「瞬間」「最後」「途中」ということばも「時間」を連想させるのかもしれない。この「時間」がただ進んでゆくだけではなく、一方で逆方向に流れているという指摘が受講生からあった。そして、それは振り子の往復運動と関連している。
 うーん。
 私はちょっと困ってしまった。
 受講者の感想を聞きながら、いきなり「抽象/意味」が動いている感じがしたからだ。確かに「時間」がテーマになっているかもしれない。しかし、時間の象徴である「振り子」はどこかにあるのであって、「いま/ここ」にはない。見えていない。その「見えない」ものを「見ている」、あるいは「見えない」ものに支配されている感じがしたからだ。
 「時間」がテーマであるにしても、それが「テーマ」である、あるいはそこに「意味」があるとしても、それを発見する前に、何かにつまずいて、それから自分を組み立てなおすということが、私は大事だと考えている。作者の書いた「意味」を発見する前に、まず自分を発見するということがないと、私は作者に出合った感じがしない。まあ、これは私の感じ方であって、読み方はひとそれぞれなのだから、どうのこうのとはいえない。だから、よけいに困ったなあ、と感じた。
 受講者は、この詩のどの行が気に入ったのだろう。

<受講者1>「しゃらしゃらしゃらしゃ」。音が楽しい。音楽みたい。
<受講者2>「振り子がすれすれに掠っていく 天空を」の「天空を」がいい。
<受講者3>「ひかりが発色して立ちのぼる 逆さ立ちの虹」
<受講者4>「瞬間 そのまえの瞬間 と遡っていけば くだものたちの」
<受講者5>「地下に吸い込まれてなくなったかつて果物だったかたち」

 私自身は「はじめの頃 葉っぱは木の枝に 昆虫は羽化前で 果実は青く硬い種子」がさっぱりしていて思わず棒線を引いてしまったのだけれど……。
 作者は、どの行が気に入っているのだろうか。

<鍋  山>「くだものが熟れて 熱を帯びる」

 そうだなあ。一行一行が連になっていて、独立している。それぞれがイメージをしっかりもっている。ここから一行だけ取り出して、自分と作者の間にあるもの、あるけれどまだしっかりとつながっていない「道」を探すのはなかなか難しい。特に、いっしょに作品を読んでの共同作業は難しい。
 脱線するが、ここで「道」という「比喩」をつかうと、「道」という漢字が「意味/ことば」を指し示すことがあることが、なんとなく、わかる。
 で。
 作品全体の「意味」ではなくて、ふと、私は違うことをみんなに聞いてみたい気持になった。

<質  問>「腐葉土を腑分けしていけば 途中でそれらが見つかるだろう」の
      「それら」を別のことばでいうと何になる?
      文法上(?)は、前の行の「葉っぱ 昆虫 果実」だけれど、
      それ以外のことばで言ってみて。
<受講者1>色
<受講者2>色
<受講者3>形
<受講者4>形
<受講者5>? わからない。

 うーん。ちょっと不思議。最初、みんなは「時間」のことを語っていた。詩の感想には「時間」が関係していた。ところが、ここでは、その「時間」が消えて、もっぱらイメージが前面に出てきている。(それとも、時間もイメージなのかな?)

<質  問>いまいったことばを、もう一度違うことばで言い直してみて。
<受講者1>色=におい
<受講者2>色=腐りかけた果実
<受講者3>形=ひかり
<受講者4>形=時間の流れ

 ちょっと「時間」に近づいた。「匂い」は見えない。「匂い」は「果実が熟れる」ときの匂いか、あるいは「腐る」ときの匂いか。生まれる/死ぬという「時間」が動いている。「時間」も見えない。けれど、存在している。
 「腐りかける/変化する」。そこから「時間」が動いていることがわかる。「時間の流れ」とはいうのは、まあ、本題にもどった感じ……。
 「ひかり」は「もの」を存在させる絶対的な力。たぶん「ひかりが発色して立ちのぼる 逆さ立ちの虹」という一行の超越的な存在感が、意味を通り越して、「ひかり」と答えたひとのなかで結びついているのだと思う。
 こういうことを思うとき、何と言えばいいのか。
 「時間」が読んでいるひとのなかで動いている。「意味」ではなく、詩全体のなかをいったり来たりして、「時間」をつくっている。「時間」になっている。「振り子」の「比喩」に便乗して言えば「時間」が「共振」している感じが「わかる」。
 「それら」の「意味」は「葉っぱ 昆虫 果実」だけれど、それに対して果物の熟れる匂い、果物が腐るという変化、存在が放つひかりの全体的真実というものを、繰り返し体験する(肉体で覚える)ことが「時間」が存在するということを感じさせているのだと、なんとなく「わかる」。あ、この受講者は、「時間」を感じるのはこういうときなんだなあ、と「わかる」。感じられる。
 このとき「時間」は「1秒、1分、1時間、1日、1年」というような「単位」ではなく、つまり「計測単位」ではなく、生きている「実感」となって生まれてくる瞬間がわかる。「何時間が過ぎる」というぐあいに計測できる形で動いていく「時間」でないことがわかる。
 ここからもう一度最初の「感想」にもどって「時間とは何だろう」と語り合うと、この詩と受講者の関係はもっと緊密になり、楽しくなるのだけれど、それこそ時間が足りずにそういうことを語り合えなかったのが残念。

 こういうことを話している過程で、「気になることばはなかった?」と質問したら、「腐葉土を腑分けしていけば」の「腑分け」が気になったという声が出た。「腑分け」だと動物を解体するイメージがある、というのである。これは、私にとって衝撃的だった。「腑分け」はたしかに語源的には「臓腑」を「分ける」から来ているのだろう。しかし、私はそういう感じで「腑分け」ということばをつかったことがない。見聞きするけれど、実際につかったという記憶もない。私は「選り分ける」か「分ける」「分類する」しかつかわないような気がする。
 私は実は「わたしのまぶたの奥の残存物」の「残存物」ということばが抽象的な感じがして、はげしくつまずいたのだが、

<受講者4>「残存物」の「存」は「生存」の「存」。生きている。
      残像ではない。

 という指摘があり、あ、なるほどと教えられた。
 ひとりで詩を読んでいたら、とても気がつかなかった。「生きている」ものの「時間」がこの詩を貫いているということになる。

 まとまりのないレポートになってしまったが、最後に、私が気に入ったと書いた行についての補足。「はじめの頃 葉っぱは木の枝に 昆虫は羽化前で 果実は青く硬い種子」を前の行をふくめて見つめなおすと、

地下に吸い込まれてなくなったかつたの果物だったかたち

葉っぱ 昆虫 果実

腐葉土を腑分けしていけば 途中でそれらが見つかるだろう

はじめの頃 葉っぱは木の枝に 昆虫は羽化前で 果実は青く硬い種子

 であり、それは「葉っぱ 昆虫 果実」を言い直したものだとわかる。「それら」は「腐葉土」になってしまっているのだから、「現実」的には腐ったものなのだが、想像力は「現実」を超えてしまう。「腐敗/死」をさらに分類していく。分類していくとは大きなものから小さなものへと細分化していく。微分していくということ。これは「現実/いま」から「過去」へと「原因/要素」を探していくことと似たところがある。
 「いま」は腐っている。けれど、「過去」、つまりそれがはじめて存在したことは違っている。「はじめの頃」は違った存在である。
 詩は、全体として「実る→腐敗する」という「順接」のイメージが描かれるが、ここにははっきり「遡った」イメージが書かれていて、それが「青く硬い種子」という清潔感あふれるものになっているがとても好きなのだ。
 それは熟れて落下してくさっていくというものと対比すると、何か形になる前、生まれる前のもののように感じられる。生まれようとするもの、「未生のもの」と言い換えることもできると思う。
 そしてそれは「果物」のような具体的なものだけではなく、「時間」もまた「生まれるまえの時間」があるのだという気持にさせられる。「時間」もまた「生まれる」、「生まれてくる」のである。
 「時間」はどうやって生まれてくるのか。この詩のなかでは「天空/遠いところ」で「生まれる/生み出される/始まる」と書いているのかもしれない。「どこか」とは「天空」のことだろうと私は思って読む。そこはきっと「青く硬い種子」という「比喩」がふさわしい場所なんだろうなあ、と思う。



 降戸輝「古の鳥」は「海に浮かんだ夕日に恋をした」鳥が主語の詩。鳥の恋は実らず、鳥は海に落ちる。

夜に翼が
波に沈んだ

 三連目に登場する「に」をつかった二行、その対比がおもしろい。                                         
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鍋山ふみえ
梓書院
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坂本孝一「石わらの花」、渡会やよひ「夜の落ち葉」

2016-04-16 10:58:24 | 詩(雑誌・同人誌)
坂本孝一「石わらの花」、渡会やよひ「夜の落ち葉」(「蒐」5、2016年03月31日発行)

 坂本孝一「石わらの花」は、ことばが奇妙な感じでねじれている。

波が積み上げ川水が崩す瀬戸ぎわ
ゆずらないねんげつに明日をおきながら
繋いできた石ににたひとに浜風のくぼみ

 川と海が出合う浜。「風景」として思い浮かべるのは、そういうところだ。川と海は潮の満ち引きにあわせてまじりあう。「ゆずらないねんげつ」というのは、そういうことがつづいてきたということだろう。「繋いできた」にもそういう「年月」が重なる。「明日をおきながら」は、それは明日も変わらないということだろう。
 いちばんひっかかる、というか、つまずくのは「明日をおきながら」の「おく」という動詞だ。「明日」というものは人が「おく」かどうかとは関係なしにやってくる。つながってくる。しかし、これを「おく」と意識しなおす。自分を「明日」の方向へ向かわせる。「明日の自分」を想定し、その「明日」へ向かって動く。「おく」という動詞自体は動かないのだけれど、「明日」があるから「前の方へ」という「動き」がそこにある。動詞が、普通の辞書に書いてある意味とは違った意味を背負わされている。この意味をきちんと定義するのはむずかしいが、なんとなく「肉体」が反応して、感じ取ってしまう。「明日をおく」は「明日へ繋ぐ」という動詞へと変化していくが、その変化を促すものとして「明日」がある。「明日」という名詞は、「明日になる」という「動詞」として存在するのかもしれない。

ひとの泣くまえからそなわって啼く山肌
浅い浸食がまわりを明るくさせ無いことを慣れさせる
静けさが闇の内側を慌ただしくわたり
爪の底を深く割る

 「明日」が「明日になる」だったら、「過去=積み上げた年月」というのは、「動詞」として言い直すとどうなるだろうか。「そなわる」かなあ。「過去の時間がそなわる/過去をそなえる/過去をかかえもつ」かなあ。それは「内側」を「つくる」ということかもしれない。人間の「内側/内部/精神をつくる」。それが「過去」という「名詞」の「動詞的活用(?)」というものかもしれない。
 この二連目の四行を読みながら、私の「肉体」は「泣く」とか「浸食(する/される)」「無い/失う」「慣れる」ということばに反応する。「肉体」は無意識のうちにそういうことばを「肉体の内側」でつなぎとめて、そこに「過去」をつくりだす。長い時間(過去)のなかで、何かを失くし、失くすことにも慣れてしまった。けれど、失くしたことを思い出してしまうと、やはり哀しくなる。思いが乱れ、慌ただしく動く。「泣きたい」気持は、「山肌」さえも啼かせてしまう。一種の共感。
 よくわからないが、そういう「わからないけれど、わかる」という感じのことがらが、交錯して動く「動詞」といっしょに「肉体」のなかに入ってくる。

波にむかう浜昼顔の受け取らない意志のこぼれ
肉厚の葉を地上に浮かせ雨を拾い
低地で拡げた耳は
火のはじまりを密かにかぎわけている

 「むかう」「受け取らない」。「意志」はやはり名詞だが「意志する=肉体を動かす」という「動詞」になると思う。「むかう」「受け取らない」という形で「肉体」を動かす。そのとき、そこから「肉体」ではないものが「こぼれる」。ことばにならない「意志」が、ことばにならないままこぼれる。「受け取らない」ことによって、何かを「失った/こぼした」。そういうものがある。
 「肉体」も「ことば」も「意志」も、みな不完全である。何かを理想の形で実現できない。そのときに、「肉体」のなかに何かが残される。その残されたものを、粘り強くつなぎとめようとすることばの運動がここにあると感じる。
 雨に打たれること、雨にぬれることを、受け身ではなく「雨を拾う」という能動の形で言うとき、そこには一連目の「明日をおく」の「おく」に似た「意志」が感じられる。その「意志」は、「耳」を「拡げ」、「火のはじまり」を「嗅ぐ」という不思議な「動詞/肉体の動かし方」になってあらわれる。「嗅ぐ」なのに「鼻」ではなく「耳」。これは「耳」も「鼻」も「肉体」として連続しているように、「嗅覚(嗅ぐ)」も「肉体の内部」のどこかで「聴覚(聞く/耳)」とつながっているということを語っている。
 「肉体」をまだ「聴覚/嗅覚」に「分節する以前の状態」で動かしていることが、なんとなく感じられる。「未分節」の状況での動きなので、これを「ことば」で説明しなおすのは難しい。ただ、そういうものを感じる。ここから「肉体」そのものの存在が強い手触りとして伝わってくる。
 坂本が書いていることに共感するまでには、もっともっと時間をかけて私自身の「肉体」を動かさなければならない。動かして、それで共感できるかどうか、それはわからないが、「肉体を動かして、ことばを読め」と誘ってくる詩である。



 渡会やよひ「夜の落ち葉」はプラタナス、ホオノキについて書いたあと、三連目で次のように変化する。

夜の落ち葉、プラタナス、
夜の落ち葉、ホオノキ、
そして
無数の落ち葉を踏みしだいて
夜を歩く一枚の落ち葉、つまりワタクシ、
いまだに落ちつづけ
在ることに撞着する
四肢であり皮膚であり爪である
夕空に焦がれる眼であり
寂寥をさがすタマシイである
<消滅するとき記憶はどこに飛び去るのだろう
<意味から剥がれて声は無辺に皺を寄せるのか

 「肉体」が「踏みしだく」という動詞で一瞬あらわれるが、渡会にとって「肉体」は「動詞」であるよりも「名詞」である。「四肢であり皮膚であり爪である」のなかで繰り返される「ある」が渡辺にとっての「肉体」であり、それは、私の「感覚の意見」では「動かない」。渡辺にとって「動詞」の「主語」はきっと「タマシイ」である。「精神」である。「記憶」「意味」というような「精神」が「主語」になる。「肉体」は「動詞」の「主語」にはならない。「ある」も「ある」というよりは「四肢である」と「認定する(認識する)」、「皮膚である」と「認定する(認識する)」、「爪である」と「認定する(認識する)」である。
 「在ることに撞着する」も、そのことを語っている。「撞着する」のは「精神/タマシイ」である。「肉体」はすでに「落ち葉」となって散っている。「撞着する」ことをやめている。
 別なことばで言い直せば、渡会は「精神世界」を描いていることになる。

<消滅するとき記憶はどこに飛び去るのだろう

 この一行に「肉体」ということばを補うと、そのことがよくわかる。

<「肉体が」消滅するとき記憶はどこに飛び去るのだろう

 落ち葉を「肉体」の「死」と受けとめ、そこから始まる「精神世界」を描いている。「記憶」は「精神/タマシイ」である。
 次の、

<意味から剥がれて声は無辺に皺を寄せるのか

 は

<意味「という精神の動き/タマシイの動き」から剥がれて声「という肉体に属するもの」は無辺に皺を寄せるのか

 ということである。「声/肉体」が一瞬出てくるが、これは「主語」にはならない。「皺を寄せるのか」と考えているのは「肉体」ではなく「精神/タマシイ」である。
 「精神/タマシイ」が「主語」となって「動詞」を動かしているので、そのことばには、坂本の作品に濃密に漂う「不透明感」がない。渡会のことばは「透明感」のとなかを動いていくことになる。



途上
渡会 やよひ
思潮社
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沖田修一監督「モヒカン故郷に帰る」(★★★)

2016-04-16 09:00:00 | 映画
監督 沖田修一 出演 松田龍平、柄本明、前田敦子

 松田龍平を見るのは何度目だろうか。「舟を編む」はおもしろかった。今回も、何もしない感じがおもしろい。
 いろいろ好きなシーンがあるが、特に好きなのが父親(柄本明)が指導している中学の吹奏楽部を指揮するところというか、そのあと。ドラムのリズムを変える。そうすると全員が乗ってくる。ロックぽくなる。父親の求めていた音楽になる。肺ガンで闘病中の父親は、それを携帯電話で聞いているのだが、大喜びだ。で、問題の、そのあと。家に帰ってきた松田龍平に、父親が「もっと近くへ来い」と手招きする。顔を近づける松田龍平の頭を柄本明がぱしっと叩く。「おまえ、やったじゃないか」。この、叩かれるために顔、ではなく、実は頭を近づけていく感じと、そのあと叩かれる感じがとてもいい。
 頭を叩くのは怒りではなく、乱暴な祝福。
 こういうことが松田龍平と柄本明の間で何度も何度もあったんだろうなあ、と感じさせる。「うれしいとき、おやじは頭を叩くんだよなあ」。それを知っていて、それを自然に誘う角度とスピードの近付き方。ちょっとうれしくて涙ぐみそうになる。
 これと、少し似ているのが、最初の方の前田敦子とのからみ。松田龍平が家に帰ってくると、前田敦子が寝ている。眉間に皺を寄せて寝ている。その皺を松田龍平が指でそっと伸ばす。一瞬、前田敦子の顔が笑顔になるが、すぐに眉間に皺を寄せた顔になる。繰り返しているうちに、前田敦子が「うるさい」という感じで目を覚ます。怒る。それを見て松田龍平が笑う。前田敦子の肉体がどう動くかを知っていて、それを誘うように肉体で接している。
 この怒りとも、親愛ともつかない感情を誘い出す「肉体感覚」が妙にいい感じなのである。そうだなあ。人間の感情なんて、ひとことではいえないし、あらわし方はひとつではないからなあ。
 海辺で、柄本明のとなりに座り、おにぎりを食べながら、松田龍平が少し涙ぐむシーンもいい感じだ。
 「台詞」が「意味」を語るシーンではなく、ただ「肉体」で演技するシーンがとてもいい。「肉体」そのものが感情になっている。
 で。
 この「肉体」の演技は、もちろん松田龍平だけではなく、柄本明もそうなのだが、エキストラの人たちとの演技ととてもよく融合している。
 舞台は瀬戸内海(広島)の小さな島。(といっても、学校や病院がある大きさの島。)そこでは住民がたがいに知り合い。「肉体」をいつも見て暮らしている。遠くからでも歩き方を見ただけで誰が誰だがわかるような感じで暮らしている。いつも見ているので、ちょっとした肉体の動きで誰が誰であるかわかる感じ。そして、その「肉体がわかる」感じの「つきあい」がある。
 うれしいとき、頭を叩く。人が眠っているとき皺を伸ばして遊ぶ(? からかう?)ことが許される「接触」がある。それが何とも温かい。この温かい感じは、ラストのクライマックスで爆発するのだが、そのシーンよりも、私は、柄本明が知り合いを呼んで家で宴会をするシーンが好きだなあ。松田龍平が連れてきた娘、前田敦子が妊娠していると知る。結婚し、孫ができる、と知って、喜んで知り合いに電話をかける。「宴会をやるぞ」。その呼びかけに知り合いが集まってきて、延々と宴会がつづく。その「飲み食い」のシーンが、とてもいい。演技(映画)ではなく、ほんとうに「宴会」になっている。
 その「宴会」のシーンの、松田龍平が、また、とてもいいのだ。
 柄本明と町民は長いつきあい。けれど松田龍平は長い間島を離れていて、町民(父親の仲間)とはそんなに親しいわけではない。だから、ちょっと「間」がある。松田龍平は「主役」だけれど、そのシーンをひっぱっていくのは(動かしているのは)、松田龍平ではなく、宴会を楽しむ町民。その「楽しみ」のなかに、戸惑いながら引き込まれていく。「自己主張」しないで、のみこまれていく。この「自己主張」のない感じが、すごい。
 いっしょにいる人を、その人の感情を壊さない。
 最初に「何もしない感じ」と書いたが、それはそばにいる人の「感情を壊さない」と言い換えた方がいいのだと、ここまで書いてきてわかった。そばにいるひとの感情が自然に動くのを支える、と言い直してもいいなあ。
 外見は、金髪のモヒカンというアンバランスが、そうした動きをきわだたせている。
      (ユナイテッドシネマキャナルシティ・スクリーン4、2016年04月13日)




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映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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松竹
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自民党「日本国憲法改正草案」を読む(2)

2016-04-15 12:06:12 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党「日本国憲法改正草案」を読む(2)

 先日、

第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。(現行憲法)
第十九条 思想及び良心の自由は、保証する。(自民党草案)

 この二つの条項を比較した。「保証する」について、問題点を指摘した。私は法律の専門家ではないし、専門用語(法律用語)に詳しいわけでもないから、「うさんくさい」と思ったことを書いたといった方が正確だろう。
 そのとき書けなかったことを書く。(私は目が悪くて40分を過ぎると、目が痛くなり書けない。)
 「保証する」ということばのほかに自民党草案に「保障する」という表現も出てくる。それに触れながら「保証する」と「保障する」の違いについて考えてみる。なぜ、自民党草案が「侵してはならない」という表現をそのまま引き継がずに「保証する」と言い直したのか、また別のところで「保証する」ではなく「保障する」と言い換えているのはなぜなのか、そういうことを考えてみた。
 「保障する」は次のようにつかわれている。

第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
                                 (現行憲法)
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
                                (自民党草案)

 これを読むと、自民党草案のどこが問題なのか、「あいまい」になるかもしれない。同じことを言っているように見える。「言論、出版その他一切の表現の自由」が「保障」されているなら、何を書いても大丈夫ということにならないか。心配はないのではないか。しかし、ほんとうか。
 うーん。
 私は、なぜ「保証する」と「保障する」を使い分けたのか、それが気になる。
 現行憲法でも「侵してはならない」を「保障する」と言い換えている。なぜ、現行憲法は「侵してはならない」を「保障する」と言い換え、自民党草案は「保証する」を「保障する」と言い換えている。そのの違いが、気になる。
 「法律」の定義を無視して、私は私の知っていることから「保証する」と「保障する」の違いを考えてみる。
 「保証する」の「保証」がいちばん身近な例は「身元保証人」。これはある人物の「身元が確かであるとうけあう」こと。そして、もし「保証しただれか」が問題をおこしたとき、たとえば借金をつくって逃げたとき、「身元保証人」はその借金の肩代わりをしないといけない。責任がともなう。責任を「うけあう」。だから「身元保証人」になるには、覚悟がいる。慎重でなければならない。
 こういう「責任」、

第十九条 思想及び良心の自由は、保証する。(自民党草案)

 これに現実に起きている「事件」にあてはめると、どうなるか。
 たとえば、イスラム教徒のテロリストに心酔する日本人がいるとする。キリスト教徒は撲滅しなければならないという思想を持っているとする。「思想の自由」を「保証する」と、もしその日本人がテロリストになって事件を起こし、賠償請求をされたとき、日本政府は「身元保証人」として、責任を持って賠償に応じないといけないことになる。ほんとうに安倍政権政府はそんなことをするだろうか。しない。安倍にとって不都合な思想までは「保証しない」。つまり、安倍にとって有益な思想だけ「保証する」。いや、安倍政権にとって都合のいい思想だけ、押しつけてくるに違いない。
 安倍にとって「都合のいい思想」とは、たとえば、

第二十四条 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。(自民党草案)

 「家族が助け合う」というのはあたりまえのことである。このため「思想」と呼ぶとおおげさな感じがするかもしれないが、人は誰でも日常のなかでいろいろな「思い」を抱きながら生きている。そういう「思い」はすべて「思想」である。ほとんど無意識になってしまっている、「肉体」にしみついている「思想」である。
 そういうことを、わざわざ憲法に書くのは、「家族は助け合わなければならない」という「思想」の押しつけ、「倫理」の押しつけである。
 現実生活では、夫婦が不仲になり、離婚するというようなことはどこの社会でも起きる。そういうとき、この条項が憲法にあると、どうなるのか。憲法は国民にどう働きかけてくるのか。国は憲法を利用して国民をどう動かそうとしてくるのか。
 憲法は、国民のけんかする、別れるという権利を守ってくれるのか。けんかして、別れても、普通の日本人として「身元保証人」になってくれるのか。きっと違う。「家族を大切にしろ、夫婦は別れるな」という「生き方」を押しつけてくる。日本的な(?)夫婦のあり方を守っている国民だけを、日本国民として「保証する=身元保証人になる」ということになる。そうしない国民は「憲法違反」であり、「保証」してもらえなくなる。そうなりかねない。
 「日本的な」と書いたのは……、自民党草案の「前文」に

日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するために、

 ということばがあるからだ。
 「良き伝統」と第二十四条の「家族」を結びつけると、「家長制度」が「家族の理想像」として浮かび上がるかもしれない。(夫婦別姓に自民党が反対しているのも、「家長制度」が「理想」だからだろう。)父親が家族を支配し、統合する。そういう「思想」なら「保証する」。父親の言うことを聞かない、男女平等を言い張る夫婦関係を「保証しない」。日本の伝統と違うから、ということになりかねない。
 人は誰でも、自分の害にならないと判断したものだけを「保証する=身元保証人になる」。害に不安がある時は「保証しない=身元保証人にはならない」。
 一方、それでは現行憲法ではどうなるのか。
 日本人がテロを主張するイスラム教徒の主張に心酔し、同じような行動をとったとする。そのとき、その日本人テロリストを守るのか。「身元保証人」になるか。やっぱり、そんなことはしないだろう。
 ただし、そのときの現行憲法が日本人テロリストを断罪する側にたつのは、その「犯罪行為」を断罪するためである。断罪するにしても、その日本人がどのような思想を持っているかということは、断罪するときの判断材料にはしない、というのが、「思想、良心の自由を、侵さない(侵してはならない)」ということなのである。思想、良心というのは完全に個人のもの、国(国家権力)のものではないから、絶対に「侵さない」。同時に、それが完全に個人のものであるから、それがどんな思想であろうと「保証はしない=身元保証人にはならない」、ということが第十九条に書かれていることなのだ。「侵さない」は「身元保証人にはならない」という意味でもある。

 別な角度から、「保障しない」と「保証しない」との違いについて考えてみる。「保障する」ということばの方から考え直してみる。
 「保障する」について「保証人」と同じようになじみのあることばを探してみよう。
 「日米安全保障条約」。これは、日本がある国から攻撃されたとき、アメリカは日本の安全を守るために戦うという条約。「保障する」とは、誰かからの攻撃があったとき、攻撃された人を「守る」ということ。そのために、アメリカは日本に基地をつくり、兵隊を常駐させている。(「安保条約」にともなう「日米地位協定」はアメリカに様々な特権を与えているから、日本を守るというよりも、アメリカが攻撃されないようにする前線として日本を利用できる、というのが「安保条約」の実体だろうと思う。)
 「保障する」は誰かが攻撃されたとき、その攻撃を防ぐ側に回って、攻撃されている人を守る、ということである。
 だから、現行憲法の

集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、「国家権力は」これを保障する。

 は、ある誰かが別の誰かの「出版、言論の自由」を侵害しようとしたとき、国家権力は侵害する人の側ではなく、侵害されたひとの権利を守るのために闘う、侵害された人の権利を守るということなのだ。それがたとえ「国家権力」に不都合であっても。具体的にいえば、その「出版物」が安倍を批判し、攻撃するものであっても、その権利を守る、安倍を批判する権利を侵害しないというのが現行憲法である。
 でも、どんなふうに?
 たとえば国家権力に対し、暴力革命で政権を奪おうという結社の主張したとき、それを誰かが非難、攻撃をする。こういうとき、政権は、クーデターを主張する集団を弁護し、守るか。そんなことはしないだろう。弁護も、守りもしない。つまりクーデター集団の主張を「保障しない」、また「保証もしない=クーデター集団の身元保証人にもならない」。しかし、最低限、その集団がどのような思想を主張するか、その権利は侵害しない。どのような言論も、弾圧しない。現行憲法は「権利を侵害しない」という意味で「保障する」と言っている。「侵害しない=侵害してはならない」を「保障する」という言い方で言い直しているのである。
 第十九条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」と密接に関係しているのである。「思想及び良心の自由は、これを保証する。」と現行憲法が言わないのは、「侵してはならない」と「保証する」がまったく違うからである。「保障する」と「保証する」もまったく違うからである。「侵してはならない/侵害してはならない」が「保障する」と同義であり、「保証する」とは別の考え方なのだ。
 もう一度、自民党草案にもどる。現実に起きていることに、もどる。
 誰かが安倍批判をする。安倍政権が不都合だと感じることを言う。その権利を安倍政権は守るか。守りはしない。逆に弾圧しようとしている。

「安倍政権にとって都合のいい」集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。そうでないものは「保障しない」。

 「その他」に「放送(マスコミ)」をつけくわえてみると、現在起きていることが、よくわかる。「保障しない」だけではなく、逆に「保障する必要がない=弾圧してしまえ」が、自民党草案の意図である。
 安倍政権を批判しないかぎりは、「言論の自由」を「保障する」。放送(マスコミ)が活動するときの「身元保証人」になる。放送することを「認可する」。「安倍政権にとって都合の悪い」ことを言うなら「身元保証人にはならない=保障しない」。その権利を剥奪する。つまり「侵害する」。
 「保障する」は、あくまで「身元保証人」として「保障する」のである。「身元保証人」になれない国民の権利など「保障しない」という意味が自民党草案のなかに隠れている。

 この隠しているものを、さらにわかりにくくするために、自民党草案は、「保障する」の「主語」をあいまいにしている。「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」というのはテーマなのに、それが「主語」であるかのように装い、「国家権力にとって都合のいい」という「表現」の内容を押しつけている。「国家権力にとって都合のいい」集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する、と言っている。

 「国家権力にとって都合のいい」「国家権力とって都合の悪い」ということばを補ってみると、とてもよくわかる例が「信教の自由」の条項。「思想」「良心」の具体的なあり方としては「宗教」がいちばんわかりやすい。(先にイスラム教徒によるテロを例にあげたのは、そのため。)

第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。(現行憲法)
第二十条 信教の自由は、保障する。(自民党草案)

「国家権力とって都合の悪い宗教であっても」信教の自由は、何人に対してもこれを「国家は」保障する。(=どんな宗教を信じていても、その人がその宗教を信じる権利を国家は侵害しない、国家はその権利を侵してはならない。)(現行憲法)
「国家権力にとって都合のいい宗教であるなら」信教の自由は、保障する。(=けれど「国家権力に都合の悪い」宗教を信じるものに対しては、どんな「保障もしない」。=たとえば「靖国」の宗教を信じるひとの「身元」は「保証する」けれど、「靖国」を批判するひとの「身元」は「保証しない」)(自民党草案)

 こう読むことができる。「何人に対しても」を省略した意図はここにある。
 これは、テロリストの例にもどって言うと、自民党草案では、テロリストが、テロ行為を容認する「イスラム教」を信じていた場合、その人の信教の自由は「保障しない」ということ。誰かが、その人はイスラム教を信じているからテロリストかもしれないと批判、攻撃しても、国家はその人を守らないということ。(トランプの「イスラム教徒は出て行け」につながる。)テロという行為を断罪するだけではなく、その延長線上には気に食わない宗教への弾圧がひそんでいる。(いま、実行しなくても、いつか実行するときの「根拠」になる。)
 「日本の伝統」の宗教を信じる(たとえば「靖国神社」の宗教を信じる)ならば、その人の安全を「保障する」けれど、そうでなければ「保障しない」。靖国を参拝するひとの「身元保証人」にはなるが、批判するひとの「身元保証人にはならない」。靖国を批判するひとは、どうなっても国は知らない。権利を「保障しない」ということにつながっていく。

 なぜ、あることばを省略(削除)するのか、あるいはなぜあることばを追加するのか、そういう部分は、新設条項以上に慎重に読まないといけない。
 「何人」ということばを含む条項には、自民党の「意図」が露骨に出たものがある。

第十九条の二 何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。(自民党草案)

 現行憲法にはない条項である。新設条項である。「何人も」「してはならない」と禁じているが、これは国民に対する「禁止事項」。「国家権力」が「主語」の場合はどうなのか。
 「国家権力は」と主語を書き換えるならば、

「国家権力」は、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してもいい。(そうすることが、許される。)

 と暗に語っていないだろうか。「何人も」のなかに「国家権力」が含まれているとは、私にはどうしても思えない。
 そして、もし「国家権力」は、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してもいい。(そうすることが、許される。)」ということなのであれば、それはそのまま「マイナンバー制度」そのものの「活用」である。
 「現実」というのはなかなかことばにならない。ことばになって検討され時には、もう「現実」はとりかえしのつかないところまで来ている。そういうことを安倍は狙っている。「自民党草案」は、すでにいたるところで「現実」として動いている。
 高市の「放送認可を取り消す」発言や、マイナンバーの導入は、その動きのひとつである。

 自民党草案には「第九章 緊急事態」の条項がある。その「第九十八条」「第九十九条」については多くの人が語っている。「第九章」は問題点が多すぎる。そのせいか、そこに視点がひっぱられ、それ以外の部分は「ささいな書き換え」に見えてしまう。
 けれど、ここで麻生の発言を思い出そう。「気づかれないように少しずつ、やりやすいところから変えていくナチスの手法に学ぶべきだ」というようなことを言った。それが、「第九章」以外の部分で行われていることだ。「保証する」「保障する」はどう違う? 言論の自由は「保障する」と書かれているなら、それでいいじゃないか、とだまされてはいけない。
 憲法学者(法律学者)の専門的な目も必要だが、日常の感覚で、ことばをひとつひとつ確かめてみる必要がある。ことばが跳ねかえってく「肉体」は私たちひとりひとりの「肉体」である。誰も、かわってはくれない。そこに書かれていることが「現実」になったら、自分の「肉体」は、どう動くのか。どこまで動かせるかの、そういうことを自分が知っている「動詞」として確かめてみる必要があると思う。



日本国憲法改正草案 自由民主党 平成二十四年四月二十七日(決定)は次のURLに掲載されている。
http://editorium.jp/blog/wp-content/uploads/2013/08/kenpo _jimin-souan.pdf#search='kenpo2013+%5B%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%A8%5D+editorium.jp'
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谷川俊太郎「本当の詩集」

2016-04-15 10:26:02 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「本当の詩集」(「午前」9、2016年04月15日発行)

 谷川俊太郎「本当の詩集」に出て来る「本当」とは何だろう。

これまでに本当の詩集に何度か出会った
郵便で届いたものもあるし
路上で金銭と引き換えたものもある
みな控えめな姿をしていた

 「本当」は「控えめ」ということばに言い換えられているのだろうか。この「控えめ」は二連目で別のことばになる。

本当の詩集の中の言葉が
すべて本当の言葉だとは限らない
ただ手書きの文字や活版の活字の群れに
肉声がひそんでいたのは覚えている

 「ひそむ」が「控えめ」に通じる。それが「本当」であるとしたら、その「本当」は読者が(谷川が)見つけ出すことによって、はじめて「あらわれる」もの、姿を「あらわす」ものである。
 見つけられるのを待っている。
 そうであるなら、「本当」は、逆のものにならないか。見つけ出されないかぎり存在しない。存在していてもわからないなら、それは存在しないに等しい。
 見つけ出すその「視力」(鑑賞眼)が「本当」であり、「言葉」「肉声」は「本当の鑑賞眼」によって「生み出される」、「鑑賞眼」が「本当」を「生み出す」ということになる。
 あ、こんなふうに区別をしてもしようがないかもしれない。「鑑賞眼」が「本当」を見つけ出すのか、「本当」だから見出されるのか、--そこに能動/受動の違い(区別)をもちこんでもしようがない。「本当の鑑賞眼」と「本当の言葉」が出会って、その瞬間に詩が生まれるのだろう。
 で、「控えめ(控える)」「ひそむ」は、もう一度変化する。言い直される。

本に似ていたが本ではなかった
値段がついていたが商品ではなかった
人間が生み出したものが
人間からはみ出そうとしていたのかもしれない

 「本当の鑑賞眼」と「本当の言葉」が出会って、詩を「生み出す」。人間が、「生み出す」。この「生み出す」を、谷川は、

人間からはみ出す

 と、言い直す。
 うーん。
 私は「生み出す」は「生まれる」と対応することばだと思っていたが……。
 そうか、「はみ出す」か。
 「控えめ」にしようとしても「はみ出す」、「ひそんで」いようとしても「はみ出す」。
 その「はみ出す」ものが、「本当」ということなのだろう。
 このとき「何から」はみ出すか。「言葉から」ではなく「人間から」と谷川は書く。ここも、おもしろい。谷川は「言葉以外のもの」を読んでいるのかもしれない

 この詩には、もう一連ある。もう四行ある。

本当の詩集が荒れ地で半ば泥に埋もれている
だが中の言葉は朽ちていない
本当の詩集を誰かが月面に忘れていった
深い静けさのうちにそれは無言で呟いている

 この連のなかで、私はこれまで見てきたのと同じ方法で「本当」を探し出すことができない。
 「控えめ(控える)」→「ひそむ」→「はみ出す」という「動き」をひきつぐ「動詞」を見つけ出すことができない。「埋もれている」では「はみ出す」はずのものが逆戻りしてしまう。
 そのかわりに、とても不思議なことばに出会う。
 最終行。
 ただし、「無言で呟いている」という「矛盾」のことではない。私は「矛盾」のなかに詩があると感じているし、この「無言で呟いている」の「呟き」が「深い静けさ」のうちでさらに「無言=沈黙」の音楽になっていくところに、この詩の「本当」があるといいたい気持ちにもなる。また先に書いた「言葉から」ではなく「人間から」という表現を手がかりに、「言葉からではなく」を「言葉ではないものから/無言から」と読み直したい気持になるのだが……。
 そんなふうに言うと、なんとなくかっこいいしね。
 でも、それは「不思議」というより、妙に「論理的」。私が「不思議」と感じるのは、

深い静けさのうちに「それは」無言で呟いている

 で、ある。「それ」。
 「それ」って何?
 「本当の詩(詩)」、「本当の言葉/本当の肉声」と言い換えることができるだろう。「本当の詩」と言ってしまった方が簡単(?)だろう。「結論」として落ち着くだろう。詩なのだから「結論」はいらないといえば、まあ、いらないのだけれど。
 では、なぜ「本当の詩」と書かなかったのか。
 「書かなかった」のではなく、「書けなかった」のだと思う。「それ」としか、言いようがなかったのだと思う。
 言いたいことは具体的な「ことば」、論理的な「ことば」にはならない。「本当に」言いたいことは、「それ」としか言えないのだ。不完全な「指し示し」でしかあらわせい。
 「本当の詩集」って何? 「それ」。あるいは、「あれ」、または「これ」。知っているもの(覚えているもの)を、ただ指し示すことはできる。どこで出会ったか、それを指し示すことはできる。けれど、明確に別なことばで言い直すと、きっと違ってしまう。
 そういうものが「それ」なのだ。
 「無言」で、つまり言い換える「ことば」を拒絶して、ただ指し示し、反復する形で提示することしかできない、「それ」。ことばを必要としないで伝えあう「それ」。

 よく、気心のしれた相手だと「あれ、どうなった」と言うだけで「意味」が通じることがある。その「あれ」に、この最終行の「それ」は似ているかもしれない。
 「本当の詩集」、その「本当」を体験した人なら「それ」でわかるはず、と言われているようで、私はまごついてしまう。「それ」は意味を超えたことばなのである。

自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)
谷川 俊太郎
岩波書店
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鈴木悦男「雪夜のサラリーマンの蝶蝶」

2016-04-14 08:36:39 | 詩(雑誌・同人誌)
鈴木悦男「雪夜のサラリーマンの蝶蝶」(「銀曜日」45、2016年04月30日発行)

 鈴木悦男「雪夜のサラリーマンの蝶蝶」は「Ⅰ 通勤と昼休み」「Ⅱ 出張」から構成されている。その「Ⅰ 通勤と昼休み」。

新宿まで眠らないように スポーツ新聞の競馬欄を読んでいる
「会ったはずなのに彼女を思い出せない」
車中も「胡蝶の夢」の夢の裡か
身分証明書カードを機械に照らし入る

本を携帯するがページが進まない 食後のカフェーで二行ほど読むと
コーヒーのやすらぎの眠気が頂上に達する
いつ どこにいるのか所在不明の三十分間
「目蓋の裏に湿原が拡がり 小雨がぱらつき」
ふっと 店内に軽音楽が流れているのに気付き 脳の「どこに隠れて
 いたのか」あたりまえであるが
定刻には必ず机を前にするように「指示」が来る

 出勤の電車の中、昼休みのカフェでのことが書かれている。そのなかに、「会ったはずなのに彼女を思い出せない」と「目蓋の裏に湿原が拡がり 小雨がぱらつき」ということばがカッコ「 」に括られて出てくる。なぜだろう。「胡蝶の夢」も「 」に括られているから、先にあげた「 」のなかは本(あるいはスポーツ新聞)からの「引用」かもしれない。「どこに隠れて/いたのか」「指示」も「引用」なのかなあ。
 よくわからない。
 そして、その「よくわからない」の「理由」を考えたとき、文体に差がないからだということに気づく。ただし、この「文体に差がない」というときの「差」とか、そう感じる根拠を説明しようとすると、なんとも難しい。ただ、私がそう感じるだけと言ってしまうと、もう何も言ったことにはならない。
 あえて言えば……。
 「ことばの古くささ」というか、何かしら「いま」というか、「現在」とは少し違う感じがする。「いま/ここ」ではない感じ。「胡蝶の夢」はもちろん「いま/ここ」ではないが、たとえば

身分証明書カードを機械に照らし入る

 これは会社のビルに入るとき、改札機のようなところにIDカードを通さないと入れないシステムのことを言っているのだと思うが、こういうとき普通は「身分証明書カード」とか「機械に照らし」という表現はきっとしないなあ。何かしら、わざと「いま」つかわれていることばを避けている、言い直しているという感じがする。
 「本を携帯する」の「携帯する」というのも、意味はわかるが、そんなふうには「いま」は言わないだろう。「眠気が頂上に達する」や「軽音楽が流れている」「定刻には」も、何となく、「いま」とはずれている。そう思うと「二行ほど読む」の「二行ほど」という言い方さえ、何とはなしに「いま」とはずれている感じがする。
 この「ずれ」は、ことばの「体温」の欠如というのか、「肌触り」がない感覚。
 それが「会ったはずなのに……」「目蓋の裏に……」のことばの「肌触り/体温」の欠如の感じと似ている。「いま」を「本の中の世界」のように、「ことば」そのもので見ている感じがする。「目」や「肉体」で「いま」と触れているというよりも、「ことば」を通して触れている感じがする。

 こんな言い方は「感覚の意見」「直観の断言」のようなもので、ぜんぜん、あてにはならないし、説明にもならないのだが。

 で、飛躍して書いてしまうが、私は「肉体」が感じられる「文体」が好きだし、「肉体」こそが「思想」だとも思うのだが、こういう「無機質(?)」っぽいことば、ことばしかないという感じのことばの運動も、実はとても好きなのである。
 「会ったはずの……」「目蓋の裏に……」は、スポーツ新聞(の小説?)か本のなかの一行なのだろうけれど、それが「いま/ここ」にあらわれてきても、差がない。あるいは、その一行がそのまま「いま」をつくり出してしまう。その区別のなさが、とても好きなのだ。ことばによって、現実の余分なもの(?)がそがれていく。すでに存在していることばの、清潔さによって「いま」が焼きつくされ、透明になっていく感じがする。

 あ、これもまた「感覚の意見」だねえ。

 「Ⅱ 出張」の書き出し。

携帯電話の普及台数が日本人の人口を跳び越え 会社から渡された携
 帯は寒さに震え 雪のすすき野テレビ塔を眺めながら泣いている
と言うことはない 「会議 会席 宴会後の二次会予定---」
スナックのママさんからのメールだ

 ここに出てくる「と言うことはない」。この「否定」が、とてもおもしろい。「携帯は寒さに震え 雪のすすき野テレビ塔を眺めながら泣いている」というのは、「会ったはずなのに彼女を思い出せない」に比べると「詩的」である。「泣いている」が特徴的だが、抒情である。「比喩」が「詩/抒情」をつくりだしていると言える。
 しかし、その「詩的/抒情的」であるところが「詩」から遠い、とも言える。「詩を装っている」だけ、と言えばいいのか。むしろ「詩を装わない」ことが、現代ではむしろ詩になる。「詩」を剥ぎ取ることが、詩になる、と言えばいいのか。
 「地」の部分から「詩を剥ぎ取る」。そうすると、そこに詩が現れてくる。
 あるいは、これは「詩」はすべて、もう書かれてしまったことばにまかせてしまうということかもしれない。

三岸好太郎「標本箱」から飛び起つ「蝶」
(札幌・三岸道立美術館の「絵の蝶」)
ほんのり積もった雪は除雪されているが すべらないで目的の店へ
「蝶よ 案内してくれるかい?」迷いタクシーを手配する

 いいあんばいに現実と「書かれてしまっていることば」が交錯し、詩を装ったり、剥ぎ取ったりしている。さらに、わざと飾ったりもする。ただ、ことばだけが交錯する。
 「歌詞」のない「音楽」を聞いている感じ。

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
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佐々木洋一「地上も」「白鷺」

2016-04-13 10:02:25 | 詩(雑誌・同人誌)
佐々木洋一「地上も」「白鷺」(「ササヤンカの村」2016年05月発行)

 佐々木洋一「地上も」は「死後の道に」とつづけて読んだ方がいいのかもしれない。どちらも「いのちのリレー」について書いてある。でも、「地上も」だけの感想を書く。

しっしっしっしっ
オイカワは行く

 「オイカワ」というのはよくわからないが川魚である。「しっしっしっしっ」は泳いでいるときの様子。すっと動いて止まり、またすっと動く。そういう繰り返しをするのだろう。この動きを「いのちの勢い」と佐々木は呼んでいる。

いのちの勢いを釣り上げると
オイカワのいのちは一足飛びに失われた

川のいのちと
地上のいのちとの交換

 「地上のいのちとの交換」は次のように言い換えられる。

持ち帰った五十匹の死んだオイカワ
母は腸を抉り
死を焼き上げた

死を焼き上げられたオイカワは
貧しい夕餉に一気に跳ね上がった

かつて母が語った
あの時川のいのちにとても助けられたと

 断片的に引用してしまったので、感想が書きにくくなったが、佐々木のことばは、前に書いたことばを少しずつ変化させながら動いている。ことばとことばの間に「脈絡」が動いている。たとえば、

オイカワのいのちは一足飛びに失われた

貧しい夕餉に一気に跳ね上がった

 この二行。「一足飛び」は「一気に跳ね」と重なり合う。「いのちは(一足飛びに)うしなわれた」と「(いのちを育む)夕餉に(一気に)跳ね上がった(=変化した)」が向き合う。「いのちが失われ」、「新たないのちに昇華した(跳ね上がった)」。「失われた」と「跳ね上がった」の製版貝の向きの動きが、とてもあざやかな印象を生む。
 この切断と飛躍を含む、あるいは切断することで飛躍を生み出す「脈絡」がとても気持ちがいい。
 無理がない。
 この「無理のなさ」を佐々木は、

澄みきっていた

 ということばで言い直している。
 いや、この「澄みきったいた」は川の水の描写なので、「脈絡」を言い直したものとはいえないのだが、読んでいると、川の流れではなく「脈絡」の流れの澄みきった感じを語っているように感じられる。
 余分なものが焼きつくされて透明になっている感じ。
 「脈絡」の透明さに引き込まれていく。
 「死」とか「焼き上げる」ということばの「即物的」な感じが、余分な「情緒」を押し流して、さっぱりさせるのだ。

澄みきっていた

しっしっしっしっ
オイカワは逝く

 一連目で「行く」と書かれていたことばが「逝く」と書き直される。「逝く」は「死ぬ」なのだが、そして実際にオイカワは死んで焼かれて食べられているのだが、そのことが死ぬことで生まれ変わって動きはじめるときの「動詞」に見えてくる。
 オイカワを食べて生きる。そのとき、オイカワはオイカワを食べる佐々木の肉体のなかを「しっしっしっしっ」と動くのである。すっと動いて止まり、またすっと動いて止まる。その繰り返し。澄みきった行間に、その動きが見える。

泳いでいたオイカワが川の底でいのちらを絶たれてから
 どれくらいの歳月が経ったか

しっしっしっしっ
黙って

いつか
しっしっしっしっ
地上も
しっ。

 「黙って」。そう、もう語る必要はない。行間の澄みきるのにまかせて、それをみつめるだけでいい。私の書いている感想など、余分なものだ。



 「白鷺」に、「地上も」に出てくる川が出てくる。今度は「突然のゆきの朝/しろくしろく輝く川の中」に白鷺を見たときのことを書いている。白鷺は驚いて飛び立つ。

さあ 白鷺
白鷺の垂直な脚

 これが最終連で

さあ 白鷺
白鷺の水平な白羽

 に変わる。「垂直な脚」から「水平な白羽」。これが、やっぱり「澄みきった行間」を感じさせる。
 そして「地上も」の「澄みきった行間」に「死」「焼き上げる」というちょっと異質なもの、「あく」のようなものがあったが、この作品では、

この前までは
一匹のやわらかな蛇が向こう岸からこちら側へ
 やおら泳いできて
そのひたむきさに一瞬たじろいだ

 という行が、そうした働きをしている。視点が一瞬変化する。それによって、前に見ていたものがよりくっきりと見えるようになる。
 そして、そういうものをふくめて「世界」があるということが、自然と納得がいく。


アンソロジー 佐々木洋一 (現代詩の10人)
佐々木 洋一
土曜美術社出版販売
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鈴木芳子「泣けるたくあん」

2016-04-12 08:16:48 | 詩(雑誌・同人誌)
鈴木芳子「泣けるたくあん」(「きょうは詩人」33、2016年04月08日発行)

 鈴木芳子「泣けるたくあん」の、一連目の後半。 

女友達のダンナが
自分が漬けたという
たくあん一本を持ってきてくれる
うちの若いもんは食べないとぼやきながら

 何でもないようなことばなのだが「うちの若いもんは食べないとぼやきながら」という言い方が気になった。友達のダンナのことばをそのまま書き写したものなのだろうけれど、そこに、何か友達のダンナの「肉体」がふわっと浮いて見える。

いままで見たことのない
奇妙なたくあんである
まず細い 直径が二センチ余り
黒ずんでいて
どこかの国の大王様の髭のよう

これは一筋縄ではいかないと
千切りにして食べてみる
固い固い ひたすら固い
甘くもなく しょっぱくもない

味がないというものは
噛んでいるうちに だんだん
味がにじみでてくる
これはきっと飽きがこないだろう
でも固すぎてそうは食べられない

 たくあんを食べたときの感想が淡々と書いてある。「味がないというものは」から「これはきっと飽きがこないだろう」までの四行は、「意味」が明確。それはそのまま友達のダンナの生き方(思想)とも通じるのだろうなあ、と思って読んでいると。
 次の二連が、突然、飛躍する。

女友達は脳出血で
病院のベッドに横たわったまま
三年目を迎えている
最近少し目が開けるようになった

彼女がこのたくあんを見たら
かすかに開いた眼(まなこ)から
きっと涙を流すだろう

 これも、まあ「意味」なのだが。
 「意味」ではないものが、ふっと、ここによみがえってくる感じがする。一連目の「うちの若いもんは」ということばが、「意味」を「意味」ではなく「現実の手触り」のようなものにする。
 そうか「うちの若いもんは食べない」が、女友達は食べたのだ。
 もしかすると、それはダンナが漬けたものを食べたのではなく、女友達がダンナに食べさせたものなのだ。ダンナは、鈴木と同じように、「ひたすら固い/甘くもなく しょっぱくもない」と苦情を言ったかもしれない。しかし、食べさせられつづけて、「噛んでいるうちに だんだん/味がにじみでてくる」ということを知ったのだ。
 いまダンナは、そういうことを思い出しながら、妻がつくってくれたたくあんをつくってみたのだ。やっとできた。それは「うちの若いもんは食べない」。けれど、妻は食べるだろう。そして、もしかしたら、妻の女友達(鈴木)も食べるかもしれない。代わりに食べてくれるかもしれない。鈴木が食べれば、それは妻が食べることにもなる。そんな思いがあって、たくあんを持ってきたのだろう。
 あ、こんなことは書いていないか。しかし、書いていないから私は「誤読」する。勝手に読む。
 最後、「きっと涙を流すだろう」は、単なる想像ではない。鈴木が実際に涙を流したしたのだ。女友達の代わりに、涙を流したのだ。いや、「かわり」ではなく、そのとき鈴木は友達になって涙を流している。


*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
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「日本国憲法改正草案」を読む

2016-04-11 12:22:46 | 自民党憲法改正草案を読む
「日本国憲法改正草案」を読む


日本国憲法改正草案 自由民主党 平成二十四年四月二十七日(決定)という文書が次のURLに掲載されている。
http://editorium.jp/blog/wp-content/uploads/2013/08/kenpo _jimin-souan.pdf#search='kenpo2013+%5B%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%A8%5D+editorium.jp'

 これを読んでみた。全部に触れる余裕はないので、いちばん短い形で語れる部分を取り上げる。
 私は詩を(あるいは小説や短歌、俳句などの文学を)読むとき、「動詞」を中心にして読む。何が書いてあるかを「動詞」は裏切らない。「名詞」(概念)は何が書いてあるのか、ことばの「豪華さ」にごまかされて、よくわからないことがある。時には「難解だから正しい(自分の知らないことが書いてあるから正しい=自分を新しい知の世界へ導いてくれるから正しい)」と思い込まされることがある。そのことばをつかって何かを語ると、あたかもそのことばを最初につかった人と同じ「知」にたどりついたかのような錯覚に陥ることがある。私はこの概念を知っている、だから「正しい」と錯覚してしまうことがある。
 でも、「動詞」なら、そういうことはない。「動詞」はだれもが同じように「肉体」を動かして「実行」している。そこに「肉体」があるから、ごまかしようがない。自分はそういう行動をできない、となれば、それに従うわけにはいかない。
 たとえば知らない土地(外国)の知らないひとの集まり。コップに透明な液体が入っている。のどが乾いている。飲みたい。でも、飲んで大丈夫かどうかわからない。尋ねたいが、ことばもわからない。けれど誰かが、それを飲んでみせてくれれば、大丈夫。それは、飲める。「肉体」が「飲む」という「動詞」を実行する。それから起きることを「動詞」は裏切らない。

 で、「動詞」を読む。「動詞」「動詞」には「主語」が必要だから「主語」を補って読む。そうすると、そこに書かれていることがよくわかる。
 
第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。(現行憲法)
第十九条 思想及び良心の自由は、保証する。(自民党草案)

 「侵してはならない」を「保証する」と「改定」している。どちらも国民の「思想及び良心の自由」を守っているように見える。
 しかし、違う。
 「犯してはならない」は「禁止」である。「犯すことを禁止する」である。「ならない」というのは「犯す」という「動詞」に説明をくわえたものであり、さっと読むとそこに「動詞」が含まれていないように思えるが、そうではない。「禁止する」という「動詞」が存在している。
 これに「主語」を補うと、

思想及び良心の自由は、「国家権力は」これを侵してはならない(これを犯すことを禁止する)。

 になる。
 「自民党草案」は「これを」ということばを削除している。日本語の文体として「うるさい」感じがするからだろう。しかし、私が主語を補ったように書いてみると、「思想及び良心の自由は」「国家権力は」と「主語」が二つになってみえてしまう。だから、最初の「思想及び良心の自由は」というのは「主語」ではなくて、「主題」(動詞をともなって動かない)であることを明確にするために、「これを」と「目的語」のようにして言い直しているのである。
 憲法は、国家権力に対する禁止事項をまとめたものである。主権は国民にあり、その主権を国家権力は侵害してはならない。そういう禁止事項で成り立っている。国民の「義務」を示したものではない。「教育、労働、納税」は国民の「義務」だが、その三つがなければ国家が成り立たないからである。それ以外は国民の義務などない。


思想及び良心の自由は、保証する。(自民党草案)

 というのは、

思想及び良心の自由は、「国家権力は」(これを)保証する。

 ということである。このときの「保証する」は国の「権利」とも読むことができるし、「義務/責任」とも読むことができる。国に「保証する義務がある」なら、それで国民の思想、良心の自由は守られたように、見える。
 でも、私は、疑う。
 他の条項につかわれている「保障する」ではなく「保証する」と書いていることにも疑問があるのだが……。「保障する」は「砦を築いて守ること、問題が起きないようにすること、守る」という感じがするが、「保証する」では「うけあう」という感じがする。
 そのことは少し脇においておいて……。「思想、良心」にもことばを補ってみる。

「国民の」思想及び良心の自由は、「国家権力は」(これを)保証する。

 自民党案は、ほんとうにそう書き換えられるか。

「国家権力が認めた」思想及び良心の自由は、「国家権力は」(これを)保証する。

 ということにならないか。
 これは逆に言い直してみるとわかりやすくなる。現行の憲法には

「国民の」思想及び良心の自由は、「国家権力は」これを侵してはならない。

という補足説明はできるが、

「国家権力が認めた」思想及び良心の自由は、「国家権力は」これを侵してはならない。

 という補足はできない。「認めているもの」を「侵す」ということはありえない。そんなことをすれば矛盾である。「認めている」ものは「侵す」の反対、「推奨する」になる。
 逆に言うと、「国家権力が認めた」ということばを補って矛盾しないのが自民党草案である。「保証する」はつまり「認める」ということなのだ。そして、「認めている」ことを「保証する」というのは、それを「推奨する」ということである。「認める」という形で「ある特定の思想」を「推奨する」、それ以外は「禁止する」という意図が隠されているのが自民党草案なのである。
 自民党草案は、

「国家権力が認めた」思想及び良心の自由は、「認める(=保証する、=うけあう)」。

 なのである。「認める」のは「容認できるものを受け入れる」ということである。「容認」の「認」が「認める」である。
 「保証する」(うけあう)というのは、「認める」ということが前提であり、認めないものは「保証しない」ということにならないか。
 さらに言い直すと、

「国家権力が容認できない」思想及び良心の自由は、保証しない(認めない)。

 へと変化していくものなのである。
 これでは「国家権力」に対する「禁止事項」ではなくなる。「国家権力」への「権利」の賦与になる。
 国家は、これこれの思想、良心は「推奨できる」。国家が認めた思想、良心なら、それを認め、受け入れる。それ以外のものは「禁止する」。そういうことになる。ここから国家権力の暴走が始まる。

 そして、これは、「自民党草案」よりも前に、既に「現実」になっている。
 たとえば、最近話題になった「待機児童」問題。「保育所落ちた、日本死ね」という女性のブログでの発言に対し、「匿名発言なので事実かどうかわからない」、つまり「事実」と認めない、「死ね」というような乱暴言い方は「認めない」。さらにはTPPがどのような経緯で締結されたか、その経過に対する質問は国家間の信頼を損ねる(国家機密に関する)からは質問することを「認めない」、安保関連法案を戦争法と呼ぶのは「認めない」、政府に反対する意見は「認めない」。説明などしない。質問そのものも「認めない」。
 TPPに対して安倍が反対と言ったという事実さえ「認めない」。
 自分にとって都合のいいものだけを「認める」。うけいれる。「うけあう」。都合のいいものだけを公開し、それを「認めろ」と国民に強要する。都合のいいものだけを前面にだし、「保証しあう」という形の国家統制が、すでに始まっている。

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レニー・アブラハムソン監督「ルーム」(★★)

2016-04-11 07:29:52 | 映画
監督 レニー・アブラハムソン 出演 ブリー・ラーソン、ジェイコブ・トレンブレイ

 架空のストーリーかと思っていたが。
 いや、映画なのだから架空ではあるのだが、描き方が架空ではない。現実的。ということは、こういう問題がアメリカでは日常的に起きているということだろうか。
 特にそれを感じたのが、ブリー・ラーソンがテレビのインタビューを受けるところ。このインタビューも、実は「金稼ぎ」(出演料が出る)というのが、なんともアメリカ的。「謝礼」というよりも「出演料」らしい。映画のなかで、「これから金がかかる。○○テレビだけ出演料を提示した」というような会話が出てくる。
 で、そのテレビのインタビューが、またすごい。「将来、子どもに父親のことをどう話すのか」と質問する。「父親はいない」「感情の問題ではなく、生物学的な問題としての質問だ」みなたいなやりとりがある。うーん。被害者への配慮なんて、ひとかけられない。どういう発言を引き出せば視聴者が興奮するかということしか考えていない。ブリー・ラーソンが涙ぐんでも平気。「視聴者は、感情を見たがっている」というようなことを平気で言うのである。
 まあ、こういう映画を見に行く私も、被害者の「感情」を見たいと思って見に行くわけだから、テレビのインタビューがすごい、なんて言っても始まらないのかもしれないが……。始まらないのだけれど、アメリカのテレビはすごい、と唸るのである。
 しかし。
 この映画は(あるいは原作の「小説」は)、いったい何を描きたかったのだろう。
 いくら母親が熱心に教育してきたとしても、子どもがあんなふうに知識/ことばを身につけるとは私には信じられない。映画なのだから、フィクションなのだから、ではすまされない。テレビと本、母親の歌を聞き、そこからことばを覚えられるだろうか。言い換えるとフィクションから、ことばを覚えられるだろうか。感情を生み出す(育てる)ことができるだろうか。視覚と聴覚だけで、ことばを覚えられるだろうか。「ルーム」には、いろいろなものがあり、椅子、ベッド、シンク(流し)などに子どもは触れるけれど、それでは情報がかぎられすぎている。触覚が働かない。現実の手触りが少なすぎる。言い換えると刺戟がなさすぎる。また、広がりが少なすぎる。距離感がない。空間感覚(肉体感覚)がないところでは、ことばは身に付かないのではないか。
 三重苦のヘレン・ケラーは、ことばを思い出す(ものにことばがあるということを思い出す)のは、井戸の水を手に受けたときである。「触覚」がことばを世界へと広げる。手で触りながら(同時に他者に触られながら)、様々な欲望が刺戟され、ことばとなる。「広がり」と「実物」が欠如した世界では、ことばは「不必要」になり、発達しないのではないか。「刺戟」に対する反応が、ことばなのではないか。「刺戟」を受け、それに対して何かしようとするとき、ことばが肉体のなかを駆け抜ける。具体的刺戟がないところでは、ことばは文法化されず、断片になってしまう。文法化して、誰かに伝える必要がないところでは、ことばは育たない。どんなに母親が意識的であっても、母親ひとりでは刺戟にならない。
 最初に保護された警官には口をきけても、次に会うおじいちゃん、おばあちゃんには口がきけないというも、状況としては不自然であり、ご都合主義的だ。
 母親のブリー・ラーソンの描き方も、なんとも奇妙である。とっさに息子の病気、死亡を思いつくくらいなら、内側に設定された番号キーなど七年も時間があるなら開けられそうである。だいたい同じ数字を押しつづけていれば、キーの色が変化してくる。それだけでも組み合わせは限定されるし、1から順番に組み合わせていけば七年もあれば開く数字に出会えそうである。被害者の家庭(両親)が裕福すぎる(?)のも、どうにも嘘くさくていけない。
 どうも、この映画は「現実」を描くというよりも、アメリカで頻発する誘拐事件とその解決後の向き合い方はどうあるべきか、ということを「啓発」するためにだけつくられている感じがする。そこが、どうにもうさんくさい。被害女性がどう苦しんでいるか、そのこころの内部まで入り込んで訴えるのではなく、被害女性に会ったとき、どういう向き合い方をすべきかという「手本」を描こうとしているとしか思えない。そういう「手本」が必要なくらい、アメリカでは誘拐が頻発しているということなのだろう。
 アメリカ映画は、人種的マイノリティーは既に描いた。性的マイノリティーも何度も映画化されている。「難病」マイノリティーも描いた。残されたのは「犯罪被害者」というマイノリティーである。そこに目を向けた映画である。マイノリティーを演じると、アカデミー賞では受賞しやすい。(「有名な個人」を描いた映画でも受賞しやすい。「有名人」というマイノリティーである。)「私たちはあなたを忘れてはいません。あなたたちの苦悩に寄り添います」というメッセージを賞を与えているという面があるかもしれない。ブリー・ラーソンの演技が「悪い」というわけではないが、マイノリティーを演じたために高く評価されている部分があるとも思う。
                       (2016年06月11日、天神東宝3)




「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
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消えた

2016-04-10 22:27:25 | 
消えた

テーブルと椅子が消えた
(椅子を引いたときの音も
部屋は、一辺の長さが正確になった

あざみの野を越えて
光が窓から入ってきた
(鏡のあった場所の白さにとまどった

落下し、舞い上がるほこりの粒粒
どんな伝言を持って
ひとの形になろうとするか

夕方になれば、
ブランコと木の影をつたって外に出る
星が二つ三つ散らばって消えた
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長嶋南子「おにぎり」

2016-04-10 08:26:02 | 詩(雑誌・同人誌)
長嶋南子「おにぎり」(「きょうは詩人」33、2016年04月08日発行)

 長嶋南子「おにぎり」を読む。

早く目覚める朝
おにぎり食べたらドトールにいく
読んでいる本のなかには
男と女がいて
はじめは手をにぎって
つぎに財布を
さらに首ねっこにぎって

 「本のなか」とあるが、どこまでが「本のなか」か。「男と女がいて」までが本のなかで、あとは長嶋の「現実」かもしれない。「本」を読む、ことばを読むとは、結局、自分自身を読むこと。ことばを読んで、そうか、自分のしていたことは、こういうふうにことばにできるのか、ことばにすればこうなるのか、ということを知る。ことばを読みながら自分のしてきたことを思い出す、あ、これをおぼえていると感じるために読むのだろう。
 だからね。

はじめは手をにぎって
つぎに財布を

 このときの主語は? 「本のなか」には男と女がいる。主語はどちらでもいいはず。しかし、「どちら」を想像するかというと、この場合主語は「男」から「女」にかわっていく。
 「女」が、つまり長嶋が、手を握らせておいて、つぎに「男の」財布をにぎる。
 主語が書いていないのに、そう思ってしまう。
 これは、こういう「光景(男女関係)」が日本ではありふれているからかもしれない。ありふれていること、知り尽くしていることを土台にして、私たちはことばを読む。それは、ことばをとおして私たちの「生き方」を読むということでもあるんだけれど。
 そのつぎの「首根っこ」というのは「比喩」であるはず。「財布」を言い直したものだ。「金の出入り」を支配するということは、男の自由を支配すること。男は「首根っこ」をにぎられたみたいに、自由に動けない。
 「だれが主語か」ということは、ふつうはいちいち書かない。説明もしない。だけれど、私は、読むとは、そういう「いちいち説明しない」ものをしつこくことばで言い直すことだと思っているので、ごちゃごちゃと書いてしまう。いま書いた「ごちゃごちゃ」、つまりそこで省略されていることこそ、「思想」そのものと思うからである。
 「手をにぎらせて、かわりに財布をにぎってしまえばいいのよ」
 長嶋がそう思っているかどうかは別にして、そういうことばで語られる「思想」がある。そういうものが、この一連目のことばに深くからみついている。そして、そういう「声」が聞こえてくるから、一連目の後半の「主語」はだれ? なんていうことは、だれも問題にしない。わかりきっているから。わかりきっていて、いちいち問題にしないでやりすごしてしまう「生き方の形式」、これが「思想」だね。

 そこから、長嶋のことばは、少しだけ動いていく。二連目。

にぎった首根っこ
ちょっとひねったら
男は骨になった
押し入れのなかに
入れたままにしておく

 男の首をひねって、殺してしまう。(「男は骨になった」と書くことで、「ひねった」の主語が女であることが、やっと、ここで説明される。)これは現実か。いや、「本のなか」のことだろう。女がほんとうに男の首をひねったかどうかは問題ではない。「首をひねる」は比喩なのだから。男が先に死んでしまった、女が取り残されたということだけが「事実」だ。「押し入れのなかに/入れたままにしておく」というのも比喩。
 比喩なんだけれど、私は、ここでつまずく。立ち止まる、の方が適切かな?
 「本のなか」では、女は男を殺しても「押し入れ」なんかには隠さないだろう。「押し入れ」という比喩によって、「本のなか」、男と女の関係が長嶋の「現実」になる。「比喩」だから嘘なんだけれど、その嘘のつき方が「現実」。
 こういうところが、私は、好き。
 嘘というよりも、嘘をつくとき、人間はかならず「ほんとう/現実」を言ってしまう。そういうことろが、おもしろい。私は長嶋本人を知らないけれど、こういう部分を読むと、長嶋に直接会っているような気分になる。「本」が「外国」の小説であっても、それを「日本」の「現実」(自分の知っている事実)にあわせて読み直し、語りなおす。そのとき長嶋の「現実」がふっとあらわれる。こういうことろが、好き。
 
昼間はマック
コーヒー二杯飲んで
本を少し読む
うす暗くなったら帰宅
きのうもきょうもあしただって
なんにもおこらない
私のドラマは
終りに近づいている

 「本のなか」のドラマと「私のドラマ(現実)」が交錯して、四連目

焼きあがった
わたしの骨のあいだに
おにぎりがひとつ
焼きおにぎりになって
ころがんている
骨の男が食べたそうにしているけど
あれはわたしのもの あげない

 あらら、長嶋も死んじゃった。死んじゃったのだけれど、ここ、おかしいねえ。
 人間が「焼きあがって」骨になっているなら、食べたおにぎりがおにぎりの形のまま、焼きおにぎりになっているなんてことは「現実」にはありえない。
 でも、人間を焼いたら骨になるけど、おにぎりは焼いたら、やっぱり「焼きおにぎり」だよねえ。
 で、そういうところに「真実」はあるのかないのか、よくわからないが……。
 焼きおにぎりを「男が食べたそうにしている」というのは、あるねえ。男はたいてい女の持っているものをほしがるものである。そういうとき、女はどうするか。長嶋は、どうするか。「はじめは」、つまり男に「手をにぎらせた」ころは、男がほしいといったら長嶋は我慢して男に焼きおにぎりをやったかもしれない。でも「手を握り返す」かわりに「財布」をにぎり、「首根っこ」をにぎるころは、平然と「だめよ、あれはわたしのもの」と言うようになったんだろうなあ。
 あ、そんなことは、どこにも書いていない?
 うーん、書いていないからこそ、そう読み取ってしまう。
 そして、その「いじわる」を、なんだかなつかしい感じで思い出しているのが、いいなあと思う。
 「財布」をにぎるのも、「首根っこ」をにぎるのも、「あの焼きおにぎりはわたしのもの」と言い張るのも、それが「愛」なのだ。
 骨を「押し入れ」にほったらかしているくせに、その「骨の男」が、骨になった長嶋に出会えば、やっぱり「あの焼きおにぎり食べていい?」なんて甘えてくることを想像している。「あの男、骨になっても甘えん坊なんだから……」愛がなければ、そんなことなど想像しない。「あげない」なんて意地悪をいって反応を確かめるようなことなどしない。
はじめに闇があった
長嶋南子
思潮社
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佐伯多美子「美(うる)わしの日々」

2016-04-09 08:37:17 | 詩(雑誌・同人誌)
佐伯多美子「美(うる)わしの日々」(「ガニメデ」66、2016年04月01日発行)

 花見の季節は終わったが、花見の詩を読んでみる。佐伯多美子「美(うる)わしの日々」。「婆」が主人公(?)のようだ。

一ちゃんはどうしているだろうか
一ちゃんの住む公園のある東の方をみる
寝袋ひとつ持って桜の木の下で終日過ごしているが
桜の季節には暗黙のルールのように花見客に明け渡し
公園のはずれのベンチに移動する

満開の桜を遠くに見ながら花見をしたことがあったなあ
婆の相棒の八ちゃんと 八ちゃんの友達の一ちゃんと
よく晴れて日差しがまぶしかった
弁当を持って 缶チューハイを持って ビニールシートを持って

 「東の方をみる」と「遠くに見ながら」が、通い合っている。「距離」がある。その「距離」を見ている感じがする。この「距離」は「あったなあ」という回想のことばと結びつき、「時間」の「隔たり(距離)」ともなる。
 「花見」というのは一般的に桜の花に近づいて見るのだが、「婆」の仲間は「離れて」見ている。その「距離」のとり方が、うまくいえないのだが、「婆」の仲間たちの「距離」のとり方に似ているように、感じる。
 どこから?
 あ、説明がむずかしい。ことばの「リズム」のなかに、そういうものを感じてしまう。「暗黙のルール」ということばが出てくるが、その「暗黙のルール」はホームレスではない人へ向けた「暗黙のルール」というよりも、仲間うちの「暗黙のルール」のように感じられる。そういう「ルール」を生きることで、ホームレスではない人と共存する。そうしないとホームレスは締め出されてしまう。締め出されないための、ホームレスがつくりだした「暗黙のルール(自主規制)」なのだ。
 「衝突」を、どこかで避けている。「直接」を避けている。これも「距離」につながる。

よく晴れて日差しがまぶしかった

 この行が象徴的だ。「花見」なのに桜のことは書いていない。日差しのことを書いている。そういう「距離」のとり方がある。「間接」を見ているの。「間接」のなかにあるものを見ている。

 「距離」は後半にも出てくる。

ねぇ 一ちゃん
八ちゃんが最期まで会いたがっていたのよ
八ちゃんはあっけなく死んだのだけれど
あんまりあっけなくて悲しいとか思う間もなく
涙も一滴もでなかった
病床で
-一ちゃんに会いに行ってこようかな-
って ぽつりと言ったの
その時 哀しかった 今でも胸がしめつけられるように哀しい

一ちゃんに会うには東のその公園まで行かなければならない
広大な公園のどこにいるかも分からない
八ちゃんの今の体では無理

 「距離」は「行ってこようかな」「行かなければならない」の「行く」という「動詞」といっしょに「ある」。空間の一点と別の一点が「距離」なのではなく、「行く」という動きが「距離」をつくる。
 「行く」ことができないとき、「動く」ことができないとき、「距離」は、そこにはない。
 何か違ったものがある。それを感じさせる。
 このあと、もうひとつの「距離」と「行く」が登場する。

その時 八ちゃんは体からすうーっと抜け出る
八ちゃんは自転車に乗って広大な公園を疾走する
桜の山はもう五周した 屋根のあるたまり場も行った
公園の外れはもちろん行く

 「距離」はしかし、「距離」にならない。「永遠」になる。なぜなら、

一ちゃんは見つけられなかった

 とても切ない。
果て
佐伯 多美子
思潮社
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岩佐なを「寸劇」

2016-04-08 09:44:15 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「寸劇」(「現代詩手帖」2016年04月号)

 岩佐なを「寸劇」には、わからないところがたくさんある。わからないところだらけ、と言った方がいいかなあ。

ねむりのあと
まず
自らを半身に分けてから
それを自分ふたりとして
窓も出口もない部屋へもぐる
入口はあったがそこはもう
出口にはならない

 「自らを半身に分けてから/それを自分ふたりとして」。これは「行動する人」「観察する人」なのだろう。後半を先取りして書いてしまうと「机を覗きこんでいたほうの/自らが呟く」ということばが出てくる。「ほうの」と漠然と「対比」の形で書かれている。こういうことは「わかる」部分に入るのか「わからない」部分に入るのか、とても「あいまい」だ。
 私が「わかる」と感じるのは、二行目の「まず」。これは、自分に言い聞かせる「掛け声」みたいなものだな、きっと。「まず」と自分に言い聞かせて、自分を突き動かしている。そうでもしないことには「自らを半身に分けて」というような乱暴(?)なことはできないだろうなあ、と思う。
 私は自分自身に「まず」これをして、次にこれ、という具合に言い聞かせるようなことをしない。めんどうくさがりやだから、「まず」なんて言わない。だから、そうか、岩佐は「まず」と自分に言い聞かせる人間なのだと、「わかる」。
 で、そのあとも「手順」がきちんと書かれている。「自らを半身に分けてから」の「から」。「まず」と同じように、このことばも岩佐が岩佐自身に言い聞かせている。「まず」も「から」も、そのことばがなくても、起きていることに違いがあるわけではない。「まず」も「から」も岩佐が岩佐の行動を認識する、その「認識」の行為として必要なことばである。
 「それを自分ふたりとして」も「それを」という限定の仕方、「……として」という言い方、そこに不思議な窮屈さ(論理へのこだわり)がある。
 その「論理」へのこだわりが「入口はあったがそこはもう/出口にはならない」に凝縮する。「入口」を「出口」としてつかうのは、ふつうの「部屋」のつかい方。入ってきたドアから出て行くというのはありふれた行為。それを、わざわざ「出口にはならない」と否定する。それがほんとうかどうかは問題ではない。岩佐が、そういうふうにことばを動かしているということが、「わかる」。
 ぐいぐい、ぐいぐい、とことばを押して動いていることがわかる。
 「入口」があって「出口」がないと、どうなるか。

つきあたりに机があり

 あ、ここは「うまい」なあ。ことばを自然に「入口」とは反対の方向へ動かしていく。「つきあたり」が「出口にはならない(出口がない)」という感じとぴたっと重なる。「つきあたり」と「つくえ」の「頭韻」の感じも、とても美しい。きっと、こういうことにこだわってことばを動かしているんだなあ、と「わかる」。
 この「わかる」はもちろん「誤読」である。

そこで過去のある正月には
書初めだってしたものだ
きょうは水も墨も硯も筆もない
利き手の人差指で
机の皮膚をこする
「愛情とか記憶とか頼れるものはないんだよ」
もちろん
筆跡は残らない

 机→書く→書き初めという具合にことばは動いているのだろうけれど、そんな思い出よりも「利き手の人差指で/机の皮膚をこする」という皮膚感覚がいいなあ。「こする」というと、「なぞる」よりも力がこもっている感じがする。
 どうでもいいようなことを書いているようで、そのことばひとつひとつに力がこもっている。力をこめている、ということが、そういうところからも「わかる」。
 何のために「力を込めて」ことばを動かしているのか、それはぜんぜんわからないのだけれど、ともかく「力を込めて」ことばを動かしているということだけは「わかる」。
 「もちろん」は二行目の「まず」と同じように、「無意味」なことば。岩佐にとっては書く必要があったのだろうけれど、読む側からすると「もちろん」があろうがなかろうが、指で書いた文字など、机の上に残るはずがないことはわかりきっている。どんなに力をこめて、机の上をこすろうとも。
 読者には不要。もし、ここに書かれていることを要約することがあったとしたら、そのときは省略されることばが「まず」とか「もちろん」である。しかし、岩佐には、その「まず」や「もちろん」が必要なのだ。「まず」とか「もちろん」というのは、ほかのことばで言い直す必要がないくらい誰にでも「わかる」ことばだが、それがなぜそのひとに必要なのかは「わからない」ことばである。だから「要約」のときは省略されるのだが、私はこういうことばに、なぜかつまずく。「手触り」というか「肉体」を感じてしまう。そこに筆者が「いる」と感じてしまう。
 「省略」できない。

この頃だからこそ
大切に感じている
漢字ひとつ
逆さまの書き順で
書いてみる
すると
文字だけでなく
あたりもわが身も
よみがえってくる気がする
いち、にっ、さん、
秒が過ぎれば過ぎるほど
気がした気が薄れていく
もちろん
筆跡は残らない

 「大切に感じている/漢字」が何を指しているのか「わからない」。
 けれど「だからこそ」の「こそ」にこだわりを感じるし、「すると」という「論理」の展開の仕方(あくまで「論理」としてことばを動かそうとしていること)、さらにもういちど「もちんろん」とつけくわえる生き方(ことばの動かし方)が、この詩での岩佐なんだなあと「わかる」。
 いったい、何してる?
 誰かを見て、そう思うことがあるね。やっていることは、「わかる」。だから「何してる?」と思うときの「何」というのは、ほんとうは「行為」そのものではなく「理由」だ。「理由」というのは「その人の論理」でもある。
 岩佐は何かしら、岩佐自身の「肉体」のなかにある「論理」に突き動かされている。それは、結局何なのか、私には「わからない」が、妙に「論理」にこだわっていることだけは「わかる」。「肉体」のなかにある「論理」へのこだわりが、変な形(?)でことばの「論理」に反映している。反映させる必要がないのかもしれないけれど、反映してしまっている。
 「気がする」→(気がした)→「気がした気が薄れていく」というのを「秒が過ぎれば過ぎるほど」という「時間」を挟んで書くところが「入口はあったがそこはもう/出口にはならない」という「論理」の展開と奇妙に重なって感じられる。
 そういう「論理」の一方で、

いち、にっ、さん、

 この一行は、「意味」的には、次の行の「秒」をあらわしているのかもしれないけれど、「わが身」の動きにも見えるねえ。いや、私は「秒」とは読まずに、「わが身」の「よみがえり」(元気な感じ/欲望が充満してくる感じ)と読んだのだけれど。
 「利き手」「人差指」「愛情」「わが身」なんてことばがつづくと、なんとなくセックスを想像しない? 「さかさまの書き順」さえ、まるで下半身(性器)に触れた指がだんだん上半身へと動いてくる(動かしていく)感じが、私にはしてくるんだけれど。
 ただ、そうするとセックスは始まらないで、終わってしまう。

「ああ」
(そんなものさ)と
机を覗きこんでいたほうの
自らが呟く
そのもの言いは
白くもなく赤くも
青ざめてもなく
むりもなく
なにも
(幕)

 「なく」と「幕(まく)」が韻を踏んで終わってしまう。
 いったい何の「寸劇」だったのだろう。「窓も出口もない部屋」を女の肉体と読みたい気持ちが私にはあるのだが、そしてそこからこの詩を読み直すと色っぽいかも、(ただし中上健次の色っぽさではなく、どちらかというと吉行淳之介の弱々しい色っぽさ)、と思うけれど、私の「想像」はこれ以上書いてもしようがないので、省略。
 奇妙に「論理」にこだわってことばを動かしていく、そのことばの奥で「肉体」が拮抗するようにめざめる方向へ動いている。そのぶつかりあいがおもしろいなあと思った。
パンと、
岩佐なを
思潮社
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寺尾進「告別 みんなのうた」

2016-04-07 11:38:10 | 詩(雑誌・同人誌)
寺尾進「告別 みんなのうた」(「アルケー」12、2016年04月01日発行)

 寺尾進「告別 みんなのうた」は「告別」に「意味」がこめられているのだろうか。よくわからない。

そとでは
雨がふりはじめ
ねえ、って話しかけるように 雨がふりはじめ
まるで親しい人たちがいるように
親しかった 人たちがいるように ふりつづき
ラヂヲでは みんなのうた が うたわれる

眠りのまえの みんなのうた のように うたう うた

 「告別式」の日に雨が降っている、ということだろうか。でも、「告別式」にラジオから歌が流れるということはないだろうなあ。
 そういう「わからない」部分は、わからないままにしておいて。
 「わかる」ことは、同じことばが何度もくりかえされること。「ふりはじめ」「ふりはじめ」「ふりつづき」「親しい人たち」「親しかった 人たち」「話しかけるように」「いるように」「いるように」「うた」「うたわれる」。ことばが繰り返されると、ことばが前に進んでいるのか、後ろに引き返しているのかわからない。どちらでもなく、往復している気持ちになってくる。行ったり、来たり。それは、そこにとどまりながら、そこにいない、ということ。
 これが「告別式」の「感情」と呼べば呼べるかもしれない。
 亡くなったひとは、そこにいて、そこにいない。そこに「肉体」ととどまりながら、そこに「いのち」はない。
 これが、さらに次のように言い直される。

うたがうたわれて
はじめて そのうたが「淋しさ」だとわかる うた
存在(あ)ることは 淋しい
存在(あ)ることは しきりと淋しい
みんなが 淋しい みんなのうた
もの みな
もの言わないからこその うたを うたう

ららら らら
ららら あらら らら

 ことばの往復が、「淋しい」を「感情」として浮かび上がらせる。「存在(あ)ることは」の繰り返しは「意味」になりすぎていると思うけれど、その「意味」のまえの、

うたがうたわれて
はじめて そのうたが「淋しさ」だとわかる うた

 この二行の方が、不思議とこころに残る。
 「わかる」ということは、気づくということ。思い出すということなのだろう。「うた」を聞いているだけでは「わからない」。「うた」を「うたう」、つまり自分の「肉体」で繰り返す。そうすると、「肉体」のなかから何かがあらわれてくる。「ことば」になるまえに、何かがあらわれてくる。それがしだいに「淋しさ」という形に結晶してくる。
 書き出しに書かれていた「繰り返し」が「肉体」をとおって、「感情」をゆさぶり、動かしている。「感情」が「繰り返し」によって、「肉体」から生み出されているという感じがする。
 そのあとの「存在(あ)ること」の繰り返しは、「感情」を「意味」にしている。この「意味化」の動きを「思想」と呼ぶ人もいるけれど、私はその直前の「感情を生み出す力」の方を「思想」と考えている。
 で、その「感情を生み出す力」というのは、「意味」を壊すものでもある。
 「ものを言わない」、けれど「声」は「出す」。

ららら らら
ららら あらら らら

 そこにあるのは「声」。「意味」は「ない」。いや、しかし、告別式に「その人の肉体」はあるけれど、そこにその人は「いない」というのに、似たものがそこにはある。
 「ららら」の音には、それを音にする「声」があり、「肉体」がある。「肉体」が「声/音/ららら」を生み出している。ただし、その「音」が「意味」するものは、明確には「わからない」。
 一度は「さびしさ」だと「わかる」。「わかった」のだが、やっぱり「わからない」。しかし、「わからない」は「知らない」とは、また違うのだ。どういうことばにしていいか「わからない」だけであり、そこに「感情」があることは「知っている」(わかっている)。
 それは次のように言い直される。

ぼくには ひみつが ある
誰にもいわない ひみつが ある
誰にもいえない ひみつが ある

 「わかっている/知っている」けれど、それをことばにしない。それが「ある」。それは、それこそ「淋しさ」、「淋しい」という「感情」かもしれない。みんな「淋しい」といえば、みんな「淋しい」。けれど、それぞれが違っている。それぞれの「肉体」のなかに、それをとじこめている。

ららら らら
ひみつだから ずっと 誰にもいえない
きっと きっと世界にも ひみつがある
ひみつだから 誰にもいわない

 「ぼく」は、そうやって「世界」と触れる。「世界」とは「永遠」のことでもあるだろう。「永遠」とは「普遍」、「普遍」は「不変」、何も変わらない。けれど、その「変わらない」は「動かない」とは違うのだ。「変わらない」は同じことを「繰り返す」ということなのだろう。同じことの「繰り返し」だから「変わらない」。「変わらない」ように見えるが、「繰り返す」ときに何かが「生み出される」、何かが「生まれる」。
 「ぼくには 秘密がある」「世界にも 秘密がある」。その「秘密」が、いま、寺尾のことばといっしょに「生み出されている」。

コメント
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