詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党の「たたき台」を読む

2017-06-23 00:56:02 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党の「たたき台」を読む
               自民党憲法改正草案を読む/番外91(情報の読み方)

 西日本新聞2017年06月22日朝刊に自民党憲法改正推進本部がまとめた「たたき台」が掲載されている。
 それによると、現行の

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

に、「9条の2」を新設するというのも。その「9条2」は以下の通り。

9条の2 前条の規定は、我が国を防衛するための最小限度の実力組織としての自衛隊を設けることを妨げるものと解釈してはならない。
2 内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有し、自衛隊は、その行動について国会の承認その他の民主的統制に服する。

 「新設項目」のどこに問題があるか。私は「主語」と「動詞」にこだわって考えてみる。
 まず現行憲法では「主語」が「日本国民」である。
 第1項目では、「日本国民」は「国際平和を希求する」(動詞)、「日本国民」は「戦争と」「武力行使は」「放棄する」(動詞)と明確に語っている。
 第2項目で「戦力は、これを保持しない」と書いている。「戦力は」というのはテーマである。これを「日本国民」は「保持しない」(動詞)。さらに、「国の交戦権(テーマ)」については、「日本国民」は「これを認めない」。「日本国民」が「国」に対して「認めない」と言っている。言い換えると「日本国民」は「国」に「戦争をさせない」と言っている。
 主語は一貫して「日本国民」である。「日本国民」は「戦争を放棄する」、言い変えると「日本国民」は「国(政府)」に「戦争をさせない」と言っている。「国」に対して「禁止事項」を申し渡している。
 そしてこのときの「日本国民」というのは「抽象的」な存在ではない。「概念」や「ひとの集まり」ではない。それは、私たちひとりひとりである。言い換えると「私」である。「日本国民は」と書かれている部分はすべて「私は」と読み替えることができるし、そうしなければならない。憲法は「国」のありかたの基本であると同時に、ひとりひとり、つまり「私」の生き方の指針なのだ。
 「私」は「平和を希求する」、「私」は「戦争を放棄する」、「私」は「国の交戦権を認めない」。「国」よりも「私」の方が偉いのだ。「私」は国の言うことなど聞かなくてもいい。しかし「国」は「私」の言うことを聞け、というのが「憲法」の理念である。「主権」は「国民」、つまり「個人」にある。

 自民党の「たたき台」では、この「主語」が「日本国民」ではなくなる。
 9条の2。「前条の規定は」……「解釈してはならない」。というのは、現行憲法の「文体」にあわせて考えると、「前条の規定(テーマ)は」、「これを」「国は(権力は)」「……と解釈してはならない」なるべきである。しかし、そういう「意味」ではない。自民党の「たたき台」は、「戦争を放棄する」と主張している「日本国民」に、つまり「国に戦争をさせない」と国に禁止事項を言い渡している「日本国民」に対して「解釈してはならない」と逆に禁止事項を設けているのだ。
 そして、この条文には「だれ」が「主語」なのか書いていない。「だれが」日本国民に対して「解釈してはならない」と禁止を命じてているのか、書かれていない。これが大問題である。自民党の「たたき台」の「罠」である。書かないことで「ごまかしている」。
 その前に「自衛隊を設ける」という「動詞(設ける)」が出てくる。「だれ」が「自衛隊を設ける」のか。「主語」は「日本国民」ではない。「私/個人」は「自衛隊を設ける」ということなどできない。「戦争を放棄している」「戦力の保持を否定している」「日本国民」が「自衛隊」を「設ける」というのは、完全に矛盾している。「戦争を放棄していない」誰かが「自衛隊」を「設ける」のである。
 「個人」ではなく、もっと大きな「組織」が「自衛隊を設ける」。そして、この「自衛隊を設けた」だれか(組織のリーダ)が、「日本国民/私/個人」に対して「解釈してはならない」と命令している。
 「だれ」が「日本国民/私/個人」に命令する「権利」を持っているのか。これを隠したまま、自民党の憲法改正案は動いている。「日本国民/私/個人」を否定している。さらに、その「自衛隊」というものが「日本国民」を集めることで成り立っているのだとすれば、それは「徴兵」ということになるだろう。「日本国民/私/個人」がおのずと集まってきて「自衛隊」を「組織する」のではない。「誰か」が「自衛隊」を「設ける」。「設ける」ために人を集める。「徴兵する」のだ。
 9条の2の2。ここに突然「内閣総理大臣」が出てくる。「日本国民」が「国」の「行動」を縛る(国に対して禁止事項を決める)のが憲法なのに、「日本国民」によって「権能」を制限されるはずの「国/内閣総理大臣」が突然「主語」になる。
 ここから引き返して「9条の2」を読むと、

前条の規定(テーマ)は、我が国を防衛するための最小限度の実力組織としての自衛隊を「内閣総理大臣が/国が」設けることを「日本国民が」妨げるものと、「日本国民」は解釈してはならない「と、国は禁止事項を日本国民に申し渡す」。「戦争の放棄を国に対して要求する日本国民」は、「自衛隊が戦力であると主張したり、自衛隊を設けようとする内閣総理大臣の邪魔をしたりしてはいけない」と言っているのだ。

ということになる。
 「日本国民/私/個人」に異議申し立てを禁止して、そのうえで「内閣総理大臣」は「最高の指揮監督権を有する」という。「有する」という「動詞」は、そこでおこなわれることを「あいまい」にする。「抽象的」にする。「最高の指揮監督権を有する」は、「内閣総理大臣」は自分が思うままに、「自衛隊」を「指揮、監督する」である。だれにも文句は言わせない。絶対権力者として「指揮、監督する」のである。「権力/権利」を持っているだけではなく、「権力/権利」はいつでも「つかわれる」ものである。「権力/権利」を「内閣総理大臣」がつかうことを、自民党の「たたき台」の条文は保障している。
 これでは「憲法」ではない。これでは「内閣総理大臣」の「独裁」の「認可証」である。
 自民党は、単に「自衛隊」を憲法に「認知させる」(憲法の中に組み込む)ことを狙っているのではない。「内閣総理大臣」による「独裁」を保障しようとしている。「日本国民」の「権利」は無視されている。いや、剥奪しようとしている。
 「自衛隊」の全体的な権力で指揮、監督するのが「内閣総理大臣」なら、その「自衛隊」を「設ける」ために「日本国民」を「徴兵する」のも「内閣総理大臣」である。なぜなら、「自衛隊」を理想の形で指揮、監督するためには、それにふさわしい「人間」をあつめなけれはならない。「人間」がいないことには「自衛隊」は存在し得ない。「最高の指揮監督をする」には、まず「徴兵」からはじめないといけない。「自衛隊」を「設ける」ところからはじめないといけない。

自衛隊は、その行動について国会の承認その他の民主的統制に服する。

 と付け加えても意味はない。「最高の指揮監督権」は「内閣総理大臣」にある。「国会の承認」など「お飾り」である。「国会」は自衛隊を「指揮監督する(動詞)もの」ではないのだから。

 私たちは「前文」から読み返さないといけない。「前文」と「本文」が整合性をもっているかどうか、そのことを調べてみないといけない。
 現行憲法は、こう書いている。

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

 「主語」はいつでも「日本国民」である。それは「われら」ということばで言い換えられているが、私たちはそれを「複数」ではなく、「私」と読み替え、「個人」としてそれを実践しなくてはならない。憲法は行動指針である。憲法は「国」のためのものではなく、「個人」のためのもの。「内閣総理大臣」のためのものではなく、「私」のものなのだ。
 「憲法」は「私のもの」である。だから私はそれを「内閣総理大臣(安倍)」などには渡したくない。

 憲法の「前文」というのは「理念」である。言い換えると「抽象的」なものを含んでいる。だから、その「抽象的」な部分を、「本文」で具体的に言いなおしている。
 「日本国民は、恒久の平和を念願し、」から始まる段落を言いなおしたものが「第2章戦争の放棄」であり「第9条」である。
 自民党の「たたき台」を付け加えてしまうと、憲法の「理念」が成り立たない。矛盾してしまう。

 今回の「たたき台」には含まれていないが、安倍が5月3日の読売新聞で「憲法改正」を宣言したときには含まれなかった「緊急事態条項」が自民党の改憲検討項目に入っている。安倍がこっそりと付け加えた。その「緊急事態要項(自民党憲法改正案)」では、「内閣総理大臣」の「権限」が強化されている。
 安倍がもくろんで憲法改正は、「内閣総理大臣」が全体権力者として君臨するためのもの、日本国民の自由を奪い、独裁政治をすすめるためのものである。独裁者になって戦争をしたい、というのが安倍の欲望である。


#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位
 
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金井裕美子「三月の、海」

2017-06-22 09:31:54 | 詩(雑誌・同人誌)
金井裕美子「三月の、海」(「季刊詩的現代」21、2017年06月発行)

 金井裕美子「三月の、海」はとても静かな詩である。

藤沢から
三両編成の電車に乗った
軒先すれすれに
見知らぬひとの暮らしの間を
やがて
ゆるい左カーブ
ここから見える景色が好きだ
あなたの指さした先には
三月の、海
雨がふっていて
銀鼠色にかすんでいるから
どこまでが海で
どこからが空なのか
すぐそこなのか遠いのか
わからない

 こういう風景は(あるいは、こういう風景を見る体験)は特にかわったことではないだろう。それが淡々と書かれている。「銀鼠色」が少し「詩」っぽいかなあ。詩の気取りがあるかなあ、という感じ。でも、うるさくない。読む先から「肉体」のなかに入ってくる。こういう風景を見たことがある、あれに似ている、と思い出すのである。
 しかし、この先が、少しつまずく。

じっとみていると
わからなくてもよくなって
あなたの海を
そっと内側に移した
こちらにいるとき
あちらにはいないということさえも
かすんでいる
終の駅まで
ただ膝をならべてゆれて

 うーん。「あなたの海を/そっと内側に移した」。これがわかりにくい。わかりにくいと同時に、わかりにくいからこそ、これがいちばん言いたいことなんだろうなあ、と感じる。
 こういうことは、詩ではなく、現実にもある。
 誰かが、ほんとうのことを言う。それはそのひとだけのことばなので、それを「論理的」に言いなおして納得するのはむずかしい。でも、あ、これは言わずにはいられないのだ。その「言わずにおれない」という気持ちが「わかる」。いや「わかりたい」という気持ちが「わかる」を追い越して、そのことばへ近づいていく。
 「内側に移した」の「内側」が、特に、その印象が強い。「わからない」けれど「わかりたい」。「外側」は雨と海。「内側」は「電車の中」。単純に考えるとそうだけれど、「外側」を「内側」に「移す」ということは、できないなあ。「海を」「電車の内側に移す」というのは「現実」にはむり。その「むり」を書く気持ちにぐいと引きつけられる。
 もういちど、前のことばを読み返す。「あなたの海を」と書いているが、ここにはことばの省略がある。あなたの「指さした」海、である。そこでは重要なのは、書かれていない「指さした」である。「あなたが指さした」のである。「ほら、海だよ(この海が好きなんだよ)」と「指さした」。「指さした」ことを、金井は思い出しているのだ。「海」ということばで終わっているが、重要なのは「海」ではなく書かれていない「指さした/あなた」だ。
 その「思い出」を、いま「自分の内側に」移した、と読んでみる。あなたが「指さした」、そして「好きだと言った」ということを自分の「内側」で思い出してみる。確かめてみる。そういうことを「内側に移した」と言っているのではないだろうか。「そっと」というのは、自分一人で、だれにも語らずに、ということだろう。
 「指さした」ということばが省略されているのはなぜか。最初に引用した部分に「あなたの指さした先には」ということばがあるから省略したのだが、それだけではない。あなたが「指さした」ということが金井にはわかりきったことだったからだ。金井の「肉体」のなかにはっきりと記憶されている。ことばにしなくてもわかっている。だから省略してしまったのだ。あなたが「指さした」ということ、あなたの「肉体の記憶」が金井にははっきりと残っている。金井は「あなた」になって「指さす」という動きを確かめている。一人二役。「指さすあなた」「指さされたところを見つめる私」。それは、ことばにする必要がない。金井には「わかりきっている」。

 少し逆戻りしてみる。最初に引用した部分。

軒先すれすれに
見知らぬひとの暮らしの間を
やがて
ゆるい左カーブ

 ここにも省略がある。省略を補うと、こんな具合か。

軒先すれすれに
見知らぬひとの暮らしの間を
(走り抜ける)
やがて
ゆるい左カーブ
(走り抜ける)

 「通り抜ける」でもいい。そこには「時間の経過」がある。「走る」という動きの中に時間がある。時間がすぎる、と言い換えることもできる。
 「時間がすぎる」は「過去になる」ということでもある。そしてそのことは、「時間はすぎて過去になる」が、変わらないものもあるという感覚をも呼び覚ます。「風景」は変わらない。海は変わらない。「あなたの指さした海」は、いまも、そこにある。そして、そこに海があるなら「指さしたあなた」も「いま/ここ」にいるのだ。
 「あなたの指さした」は「いま」のことではなく「過去」だけれど、忘れた過去ではなく、いまもはっきりと思い出すことのできる過去。過去というよりも「いま」そのものの感じ。「いま/ここ」なのだ。
 過去か、いまか、わからない。
 わからないではなく、「わからなくてもよくなって」かもしれない。

 そう読み直すと、

こちらにいるとき
あちらにはいないということさえも

 は「内側」「外側」ではなく、もっと違ったものに感じられる。「こちら」が「内側」、「あちら」が「外側」ではない。どうしても「こちら=此岸」「あちら=彼岸」と感じてしまう。「こちら」でいっしょに生きているとき、海を指さすその指を見ているとき、「あのよ」なんて思いもしない。また「こちら」にいるというのは「あちら」から帰ってくるということ。「思い出す」時、あなたは「こちら」にいて、「あちら」にはいない。「あちら」がある、「あちらにいることになる」ということなんか考えない。
 そしてまた、実際に「こちら」「あちら」にわかれてしまっても、思い出すそのとき「あちら」は「内側=こころ(肉体のなか)」そのものになる。「こちら」「あちら」の区別はなくなる。区別が「かすんでいる」。
 思い出をいつまでも抱いて、「終の駅」まで、と思っている。

 こんなことを、金井は、くどくどとは書いていない。金井にはわかりきっているから、ことばを省略して書いている。その省略が詩を強くしている。私の感想は、その詩の強さを弱めてしまうことになるかもしれないけれど、ついつい書いてしまう。
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フランソワ・トリュフォー監督「突然炎のごとく」(★★★★)

2017-06-21 20:59:26 | 映画
監督 フランソワ・トリュフォー 出演 ジャンヌ・モロー、オスカー・ウェルナー、アンリ・セール

 男二人に女一人。
 この三角関係は深刻なのか、深刻でないのか。
 途中に出てくるエピソードが興味深い。アンリ・セールがバーで昔の女に出会う。女はアンリ・セールに恋愛遍歴を延々と語る。その会話を耳にもとめず、アンリ・セールの友人たち(男)がつぎつぎにやって来て、あいさつして去っていく。自分の関係しない女がどんな恋愛遍歴を語っていようが、そんなものは関係がない。それがフランスの男。それよりも男同士の友情の方が大切。もっぱら、相棒(オスカー・ウェルナー)はどうしている?というようなことを聞く。まあ、儀礼的なあいさつなんだけれど……。
 しかし、うーむ、と私は考える。
 この映画は、親友の男二人が、一人の女に振り回される。しかも、女は「傷つけられているのは私だ」と思っている。男二人のあいだを行き来しながら、別な男ともセックスをする。理由は? たぶん、男二人によって「傷つけられているから」。
 これって、どういうこと?
 なかなかフランス人の「恋愛感情」はわからない。女の感情だけではなく、男の方の感情もわからないのだが。
 キーワードは「傲慢」だろうなあ。
 オスカー・ウェルナーとアンリ・セールは、どこかの島の石の「女神」に魅了される。その「女神」の唇が「傲慢」をあらわしているからである。「傲慢」とは、自己主張の強さということかもしれない。ジャンヌ・モローの唇は、この「女神」の唇に似ている。「傲慢」である。
 そして、彼女の恋愛も「傲慢」である。「傷ついているのは私、あなたではない」。このときの「あなた」というのは、入れ替わる。入れ替わることによって、一人ではなく二人が、さらにそれ以上の男がジャンヌ・モローを傷つけている、という主張に換わる。
 男は女を傷つけてはいけない。特に恋愛においては女は絶対に尊敬されるべき存在であって、傷つけてはいけない。侮辱してはいけない。これは「フランス恋愛術」の鉄則。それを女の方からも要求してくる。これを私たち男のことばでは「傲慢」と呼ぶのだが、フランスの女は「当然の権利(自然な欲望)」ととらえている。
 で。
 で、なのである。
 フランソワ・トリュフォーは、これを批判しない。むしろ喜んで受け入れる。このフランス女の欲望は美しい、と。フランソワ・トリュフォーはフランス女になりたかったんだなあ、と思う。
 ジャンヌ・モローは私の意見では「美人」ではない。特に、あの、への字に下がった唇の両端が醜い。しかし、これがフランソワ・トリュフォーにかかると「美人」の条件である。自分の魅力に気がつかない男は、その「傲慢」な唇で拒絶する。気に入った男にだけ、口角をあげ、「女神/女王」の笑顔を見せる。拒絶と受け入れを交互に繰り返し、男を支配する。男を支配する「力」をもった存在。それが「美人」の条件である。フランソワ・トリュフォーにとっては。
 私は「突然炎のごとく」ははじめてみたのだが、この映画で展開される「美人観」というか「女性観」からフランソワ・トリュフォーの映画を見直してみる必要があるかもしれないと思った。たとえば「アデルの恋の物語」はかなわない恋を生きて死んでいった女の「悲劇」ではなく、最後まで自分の「恋」をつらぬいた「傲慢」な女の物語であり、「傲慢」ゆえに彼女は「美人」になったのだ。捨てられてもあきらめない。思い込んだ男は自分のものと言い張り続けるのはたしかに「傲慢」である。他者の意見を聞かないというのは「傲慢」である。だから、「美しい」。
 あ、こういう女につきあうのむずかしい。疲れる。きっと。だからフランスの男たちは男同士で寄り添うんだろうなあ。男同士の友情では、どちらかが「傲慢」ということはありえない。「尊敬」しあう。
 でも、この「なれあい」みたいなべたべた感が、女に「傲慢」を求める潜在的な欲望を生んでいるのかもしれない。女の「傲慢」を通して、「傲慢」の本質的なもの、絶対性に触れる。触れたい。触れることで絶対的なものとひとつになる。つまり自分自身も絶対になる。輝かしさを手に入れる。

 あ、何を書いているかわからなくなってきたけれど。

 どうでもいいか、私はフランス人じゃないのだから、というか、フランス人は面倒くさいなあ、と見終わって思うのだった。
       (「午前10時の映画祭8」、中洲大洋スクリーン4、2017年06月21日)

 *

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「おしりを切る」

2017-06-21 08:57:09 | 自民党憲法改正草案を読む
「おしりを切る」
               自民党憲法改正草案を読む/番外90(情報の読み方)

 「加計学園をめぐる文書」がとてもおもしろい。萩生田官房副長官「ご発言要旨」(2016年10月21日)だが、そこに私には耳慣れないことばがある。(引用は、2017年06月21日読売新聞朝刊(西部版・14版)は2面から。2017年06月20日の毎日新聞夕刊(西部版・4版)は文書の写真そのものを載せていた。)

総理は「平成30年(2018年)4月開学」とおしりを切っていた

 「おしりを切る」という表現がおもしろい。期限を切っていたくらいのことは言うが、私はそういう言い方をしないし、聞いたこともない。私はそれが「お尻を切る」とは、最初は読めなかった。「おしり」が「期限」と気づくまでに数秒かかった。
 で、ここがポイント。
 政治家や官僚のあいだでは期限を切る(締め切りを設ける)ことを「おしりを切る」と言うのかどうか。だれが、そういうつかい方をしているか。それを「他の文書」と比較すれば、発言者が誰かわかる。
 交渉の過程で「〇日までに」という「期限」は頻繁に登場するはずである。そのとき、それを「おしりを切る」という言い方で言うのは誰か。安倍はそう言うのか。安倍が「平成30年4月までに」と言ったのを、誰かが「おしりを切る」と言いなおしたのか。
 これをぜひ調べてもらいたい。

 この文書については、萩生田が、

文書は、文科省の一担当者が伝聞など不確かな情報を混在させて作った個人メモだと文科省から説明とおわびがあった。不正確なものが作成され、意図的に外部に流されたことに強い憤りを感じる。

 と語っている。
 「不正確」ということだが、「不正確」というのは、どこかに「正確」な部分もあるということだろう。全くの「捏造」なら「不正確」ではなく、「捏造されたもの」、それこそ「怪文書」と即座に否定されるだろう。
 でも、そういう表現を文科省も萩生田もしていない。
 全部ではないが、「一部」は萩生田独自のものである。聞いたことを書いたのだから、テープレコーダーのように正確ではないかもしれないが、「ほんとう」が含まれている。
 で、いちばんの「核心」は、やはり

おしりを切っていた

 である。
 こういうことばは「捏造」できない。「口癖」は、そのひとのものである。
 この「おしりを切る」は萩生田独自のものではないのか。
 他の人のつくった、他の件に関する「萩生田ご発言概要」に「おしりを切る」があれば、これは絶対に萩生田の発言をまとめたものだということになる。文科省に限らず、あらゆる省庁の文書を調べ「おしりを切る」をピックアップしてもらいたい。
 野党は、それを要求してほしい。マスコミも、それを独自の手段で調査してほしい。


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ルキノ・ビスコンティ監督「家族の肖像」(採点不能)

2017-06-20 11:00:47 | 映画
監督 ルキノ・ビスコンティ 出演 バート・ランカスター、シルバーナ・マンガーノ、ヘルムート・バーガー

 06月18日にKBCシネマ2で見た。予告編のときから懸念していたのだが、この劇場は4Kデジタル版の上映に向いていない。映像が暗い。
 「家族の肖像」は公開年(39年前らしい)に岩波ホールで見た。そのときの印象は★5個。傑作である。
 どこが傑作か。
 映画は「室内劇」。主な場所は教授の書斎。本がびっしり壁面を埋めている。そのあいだに「家族の肖像」の絵がある。色調は茶色が主体。赤と黒がまじっている。私はこの映画を見るまで、こういう色が美しいとは思わなかった。しかし、これが美しい。重みというか、落ち着きというか、何か動かない印象がある。動かないのだけれど、奥に強いものが存在している。存在を貫くものがある。
 もしかすると「血の色」に似ているかもしれない。「肉体」のなかを流れている「鮮血」ではなく、「肉体」から流れ出て、こびりついた「血の色」。実際にこびりつき、乾いてしまった血は黒くなると思うのだが(そういう記憶があるが)、まだ乾ききる前の、「流れ(動き)」を残した血の色という感じかなあ。
 あるいは「肉体」のなかにまだ流れているとしたら、老人の「肉体」のなかの、澱のたまった血というのか。澱んでいる。けれど流れる力をどこかに秘めている。不思議な艶やかさがある。
 そこに新しい「血」が流れ込んでくる。かき乱される。苛立ちながらも、何か輝きがある。それは「古い血」が流れ始めて輝くのか、「古い血」に闖入してきた「新しい血」が澱みにとまどいながら、それまでとは違った奇跡を見せるための変化なのか。
 よくわからない。
 けれど、殴られて唇を切り、血を流すヘルムート・バーガーに、バート・ランカスターが触れるシーンなんか、ぞくっとするねえ。血の不思議さ。傷つき、血を流し、血に汚れることで逆に輝くヘルムート・バーガー。あのとき、バート・ランカスターは、どういうつもりで血を拭き取っているのだろう。血を拭き取ったあとの方が美しいと思ったのか、血に汚れているときの方が美しいと思ったのか。
 あ、単に、傷ついているから治療しなければと思っただけ?
 いやあ、私は「妄想派」なので、あれこれ想像してしまうのである。
 バート・ランカスターは、ヘルムート・バーガーの裸を見ている。シャワーを浴びている。女とセックスしている。男がもうひとりいる。でも、それは全部見ているだけ。傷の手当てをするときだけ、触れている。顔を近づけ、その血を見ている。血を拭き取り、血の下からあらわれる肌を見ている。
 うーん。
 途中に絵の手入れをするシーンがある。よごれを拭き取り、新しくワックスを塗る(?)。そのときの手つきに似ているなあ。ただ、いとおしい。バート・ランカスターは、ヘルムート・バーガーを大切な「芸術品」として見ている。あつかっている。いや、ただいとおしい存在として向き合っている。ことばにならない愛が動いている。
 これは逆に言えば、「家族の肖像」を失ってはならない「大事ないのち」と見ているということでもあるんだけれど。
 これがねえ、岩波ホールで見たときは、スクリーン全体の色調として、劇場にあふれてくる。あのとき岩波ホールの壁は、幾冊のもの本と絵、赤茶色の壁紙がはりめぐらされていたのではないのか。そんなふうに、まるでバート・ランカスターの書斎にいる気持ちになってくるんだけれど、KBCでは違った。不鮮明で、よく見えない。
 部屋の改装の影響で壁面が水で濡れる。そのとき色の変化。キャンバスの裏がしめった感じ。そのぞっとするような悲惨さ。そういうものも、見えない。私は視力がどんどん落ちているので、その影響があるかもしれないが、どうもよくない。部屋の外にいて、鍵穴から室内を覗いている感じ。
 後半に出てくる上の階の改装した室内、白を基調とした輝きや、瞬間的に出てくるドミニク・サンダ、クラウディア・カルディナーレの鮮明な輝きも、何だか凡庸に見える。
 他の映画館ではどうなのだろう。映画は映像の美しさがいのちだと思う。もっと映像の美しさに気を配って上映してもらいたい。色調を正確に再現できないなら上映をあきらめるくらいの決断をしてもらいたい。
                      (KBCシネマ2、2017年06月18日)

 *

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安倍の手口(国会閉会記者会見)

2017-06-20 09:56:40 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の手口(国会閉会記者会見)
               自民党憲法改正草案を読む/番外89(情報の読み方)

 2017年06月20日読売新聞朝刊(西部版・14版)は1面で安倍の記者会見を報道している。

首相「加計」対応を陳謝/国会閉会で会見 「国民不信招いた」

 その「陳謝」というのは、加計学園、森友学園問題を念頭に、

「国会は建設的議論という言葉からは大きくかけ離れた批判の応酬に終始した」と指摘。そのうえで「(野党の)印象操作のような議論に、つい強い口調で反応してしまう私の姿勢が、政策論争以外の話を盛り上げた。深く反省している」と述べた。

 ということらしい。
 加計学園、森友学園問題を質問することが「建設的議論」からどうしてかけ離れるのだろうか。安倍がふたつの学校に便宜を図っている。安倍の「意向」で政策がきまるなら、国政は安倍の思うがまま(独裁)になる。独裁を許していいのかどうかは国の基本である。そして、それは「政策論争以外の話」でもない。実際に多額の金が動いている。「国の予算(国民の税金)」が動いている。国民が損失を被っている。(被る恐れがある。)それが「政策以外の話」とどうして言えるのか。
 野党の質問は、安倍がしたことへの「疑惑」を追及しているのであって、単なる批判ではない。
 安倍は「批判の応酬」ということばをつかっている。「応酬」というのは一人でできるものではない。複数の人間(主張)が必要である。野党は安倍の「疑惑」を追及した。これに対して安倍は「野党は印象操作をやっている」と応酬した。安倍が野党の批判に対して批判のことばを返すのではなく、問題点をきちんと答えれば「批判の応酬」ではなく「建設的議論」になった。野党に責任があるのではなく、質問に答えず野党を一方的に批判したことに問題がある。

 しかし、ばかげている。安倍は

「何か指摘があれば、その都度、国会の開会、閉会にかかわらずわかりやすく説明していく」と理解を求めた。

 と読売新聞は書いている。
 もしそれがほんとうなら「記者会見」ではなく、国会議員の質問に答えるべきである。「記者会見」ではなく「国会議員会見」を開くべきである。
 国会議員は国民の代表である。マスコミの記者は企業の一員であって、彼らを国民が選んだわけではない。企業が企業の基準に合わせて選んだ人間に過ぎない。国民が選んだ人間の前で、きちんと対応すべきである。
 記者会見に出席し、質問を「許された」のが誰なのかわからない。読売新聞は記者の質問を掲載していない。だが、その会見場に誰もが入れるわけではない。誰もが質問できるわけではない。これは、予め記者が「選定」されているということだ。そしてその選定には、国民は一切かかわっていない。国会議員は、国民が選んだのに対して、「記者会見」に出席した(出席できた)記者は国民が選んだものではない。
 私は全部の「応答」を見たわけではない。聞いたわけではない。しかし、私が聞いた限りでは、記者は「なぜ、国会で謝罪しないのか。なぜ、国会で質問に答えないのか」とは問いかけていなかった。
 「共謀罪」の審議打ち切り、強行可決について、「なぜ、国会の会期を延長しなかったのか」「なぜ、加計学園問題について国民が疑惑をもっているのに、国会の場で問題が明確になるまで議論をしなかったのか」と問いかけていない。
 国民がいちばん知りたいのは、そこである。
 なぜ、疑問が噴出しているのに国会を閉会したのか。「国民不信を招いた」「深く反省している」というのなら、なぜ、いまから国会を開かないのか。臨時国会を開けばいいではないか。記者会見ではなく、国民の代表である国会議員の質問に答えればいいではないか。
 大勢の記者がいて、誰一人としてそのことを質問しない。
 民主主義が否定される現場にいて、民主主義が否定される瞬間を、多くの記者が「肯定」している。民主主義の破壊、独裁に加担している。
 都議選や憲法改正、内閣改造(人事)、日露交渉などについて質問した記者がいたが、まず質問すべきは「なぜ、国会審議を強行に中断したか」だろう。
 「自分はこんなに国政のことを考えている」と宣伝するための気取った質問ではなく、マスコミの記者なら、もっと泥臭いことを質問しろ。国会議員がしないような、もっと庶民感覚に根ざした質問、国会では質問できないことを聞くべきである。あ、そういう質問の仕方があるのか、と聞いている人がびっくりするような質問を考え出すべきである。そうやって金を設けるのが企業の論理というものだろう。権力に擦り寄って、安倍が言いたいことを言わせるための質問など、自民党と公明党の議員に任せておけば十分である。

 5月、安倍が憲法改正について読売新聞のインタビューに応じ、国会で「読売新聞を読め」と言った。私はそのときたまたま海外旅行中だったのだが、聞いた瞬間、「あっ、国会解散だ」と思った。首相が民主主義を否定した。国会は国民の代表が議論する場所である。そこで国会議員に対して質問に答えずに、「新聞を読め」と言った。国民の代表である国会議員が質問したら、首相はそれに答える義務がある。質問しているのは議員ひとりではないのだ。その背後に何万人もの国民がいるのだ。そのひとたち全てに対して「読売新聞を読め」と安倍は言ったのだ。
 だいたい「読売新聞を読め」というが、それはどこにあるのか。誰もが無料で読めるのか。読むための新聞は誰が提供するのか。視覚障害者のために、誰が読んで聞かせるのか。国民に買えというのなら、その予算はどうするのだ。首相が一企業の商品を国民に強制するのは、なぜなのか。「安倍インタビューに対する反論は赤旗に書いてある。これも政府の予算で買い上げて国民に配布してもらいたい」と共産党が言ったら、安倍はそのための予算を組むのか。読売新聞は読みたくない、という人にはどう対応するのか。思想として読むことを拒否しているひとに読むことを強制すれば、思想・信条の自由を保障した憲法に違反する。--いろんな論点から安倍の発言を批判し、問題点をあぶりだすことができるのに、野党はそれができなかった。
 「自分の声」に忠実に生きるなら、「ことば(批判)」はどこまでも多様性を持つ。多様性こそが民主主義なのに、多様性を表現する方法を野党も見失っている。

 「読売新聞を読め」に私はカーッと来たが、あのときは「直接的」にニュースを知ったわけではないので、まだ冷静だった。きのうはテレビで記者会見を聞き、ほんとうに頭に血が上った。仕事中だったのだが、仕事が手につかなかった。テレビに向かってものを投げつけたくなった。
 安倍にこびる記者を直接見て、ほんとうにぞっとした。

 私は思いついたままなんでも書くので、同時になんでも書き忘れてしまう。「共謀罪」について、これまで書き漏らしたことを書いておく。
 安倍は記者会見で、「テロ等準備罪法はテロ対策に不可欠で適正な運用に努める」(読売新聞の要約)と語っている。だが、この法律は日本の法律。いま、世界で起きているテロの実行犯は日本人ではない(と思う)。日本に支援組織があって、彼らを支えているわけではない(と思う)。この法律が東京五輪開催に不可欠と安倍は言ったのだが、東京五輪で想定しているテロとはどんなものなのだろうか。日本人が起こすテロ? 今起きているテロの首謀者は「イスラム過激派」と見られている。彼らの動きを規制するのに、日本の法律がどれだけ有効なのか。国際社会と連携して、というけれど、日本の法律を外国にまで適用することはできない。
 私はなんでも現実的に、つまり自分の知っている範囲で考えるので、安倍が言っていることは信じられない。日本の法律で外国のテロリストを取り締まることはできない。だとすると、外国人が東京五輪を狙ってテロを仕掛けてきたとしても、その「準備段階」を摘発できない。実際に犯人を拘束できるのは、東京五輪でテロが起きて、その犯人が日本にいるときにだけである。法律の狙いは、「イスラム過激派」には適用されない。
 言い換えると。
 この法律は外国人による東京五輪テロを封じるためではなく、日本人の行動を規制するためのものにすぎない。法律を成立させるための名目に東京五輪がつかわれたということは、日本人を規制するために東京五輪という名目が、これからどんどんつかわれるということである。
 「金のかかる東京五輪、反対」とデモをすれば(あるいは発言すれば)、それだけで東京五輪テロを間接的に支持したことになると見られ、逮捕される、ということが起きかねない。「谷内は、こんなことを言って東京五輪に反対していた」と密告される、ということも起きかねない。この文章を読んでいる人に対しても、だれそれは谷内の文章を読んでいた、と密告されるということである。
 どんな発言にも目を凝らし、テロに通じる可能性があるものはすべて摘発する。それが「テロ対策に不可欠で適正な運用である」と安倍なら言うだろう。「適正な運用」の「適正」を判断するのが誰なのか、それが問題になる。
 ほら。最近、女性がレイプされた。逮捕状まで出た。逮捕状を発行するのは裁判所である。しかし、その裁判所の判断を無視して、逮捕は執行されなかった。容疑者が安倍の友人だったから。これは、つまり「適正な運用」の判断を安倍がしたということ。裁判所は無視された。
 こういうことが「共謀罪」によって拡大するのだ。
 森友学園も「安倍晋三記念小学校」や幼稚園の運動会で「安倍晋三総理大臣ばんざい」と言っていたときは優遇され、関係を追及されると「しつこいひと」と切って捨てられる。それが「適正な運用」ということばで語られる。
 「適正な運用」というのは、安倍にとって「適正」ということであって、国民にとって「適正」ということではない。


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米イージス艦事故の続報の読み方

2017-06-19 10:09:01 | 自民党憲法改正草案を読む
米イージス艦事故の続報の読み方
               自民党憲法改正草案を読む/番外88(情報の読み方)

 2017年06月19日読売新聞朝刊(西部版・14版)は1面、社会面で米イージス艦事故の続報を掲載している。不明者は7人いたのだが、「数人」が船内から遺体で発見された。(1面)
 社会面の見出し。

米艦の右後方から衝突か/コンテナ船 直前、同方向に航行か

 これではコンテナ船に非がある印象だ。しかし、コンテナ船は出港してからずっと東へ向かって航行している。イージス艦は横須賀を出港し西へ向かっていた。同じ方向に進むには、イージス艦が方向を変えるしかない。イージス艦がコンテナ船の直前を横切ろうとしたのだろう。コンテナ船が右方向に見えるのに気がついて、左にかじを切った。右にかじを切ればコンテナ船の横腹に衝突する恐れがある。コンテナ船が壊れ、沈没しかねないと判断し、規則とは逆に左に回避しようとしたのだろう。
 こういうことは米軍がイージス艦の「航路」を公表すればすぐわかる。だが「軍事秘密」として公開しない。日本の領海での事故なのに、米軍は情報公開をしない。情報提供をしない。ここに一番の問題がある、ということはきのう書いた。
 きょう書くのは、別のこと。
 社会面の記事の次の部分に注目した。事故当時、多くの乗組員が就寝中で、逃げ遅れたと見られると報じたあと、アーコイン中将のことばを紹介している。

「乗組員の冷静な動きで、浸水の拡大や船が沈没する危険を免れることができた。プロフェッショナルな働きだ」と乗組員の対応をたたえた。

 私はぞっとした。
 事故は深夜。乗組員の多くが就寝しているはわかりきっている。イージス艦の構造はわからないが、衝突・浸水事故などを想定し、「防水扉(浸水防止システム)」があるはずである。乗組員の居住区からの脱出よりも「浸水防止(沈没防止)」を優先したのではないのか。
 第一報で「7人不明」と報じられたが、この段階で「誰が不明なのか」がわかっていたはずである。当然、彼らが「どこにいたのか」もわかっていたはずである。ひとり、ふたりなら、眠られずに甲板に出ていた、衝突の弾みで海に投げ出されたということもありうるだろうが、7人そろってということは考えられない。だいたい甲板にいたのならコンテナ船に気づく。衝突するまでぼんやりと甲板に立っているはずがない。
 なぜ7人の乗組員の命よりもイージス艦を沈没させないことを優先したのか。
 沈没してしまえば、その引き上げ、事故検証などに日本側がもっと関与してくる。そしてイージス艦の機密(?)も、その過程で漏れる恐れがある。それを避けたのだろう。
 本来なら「乗組員のプロフェッショナルな働きで、乗組員全員を救出できた。ひとりの死者も出さなかったのはよかった」と言うべきところなのだが、乗組員の救出を優先しなかったから、こういうコメントになったのだろう。死者が出た以上、イージス艦の沈没を防いだと乗組員をたたえる前に、死者を追悼することが大事だろう。(死者を追悼した、しかしそのことばを記者会見で語らなかった、あるいは語ったけれども読売の記者はそれを記事にしなかった、ということも考えられるけれど。)
 こういう事故の場合、 いったん防水防止扉がしまったとしても、内部に7人もいるとわかれば扉を開けて救出するということも考えられていいはずである。いのちを優先するのが、人間の生き方だと思う。
 けれど軍隊は違うのだ。これが米軍の「組織防衛」のあり方なのだ。軍隊というのは、非情なものなのである。軍隊が一番に守るのは「軍隊」という組織であり、人間ではない、ということを私たちは認識しないといけないと思う。
 もし「有事」が起きた場合、自衛隊は米軍の組織下に配属されるだろう。米軍の規律が自衛隊を律するだろう。そしてそのとき優先されるのは「米軍の組織」である。自衛隊員のいのちでも、日本の一般人のいのちでもないだろう。そういうことが想像される。

 もちろん私の書いているのは、「妄想」である。「事実」を確認して書いているわけではない。しかし、「情報」から読み取れるのは、そういうことである。


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金田久璋『鬼神村流伝』

2017-06-19 09:05:44 | 詩集
金田久璋『鬼神村流伝』(思潮社、2017年04月15日発行)

 金田久璋『鬼神村流伝』の「声」は非常に強い。誰にでも強く聴こえるかどうか、実はよくわからないのだが、私には強く聴こえる。ことばの背後に、ことばにととのえられるまえの「声」がひしめいているのを感じる。
 抽象的に書いてもしようがないので、私が「身近」に感じる「声」について書いてみよう。
 「魔除け」という作品は、誰かが死んだあとのことを書いている。夜伽というのか、遺体をまもって寝ずの番をする。「魔物」が遺体に入り込むといけないので「刃物」を遺体の身につけさせることになる。「元庄屋」は「銘のある脇差」を貸してくれたが「ねっからの水飲百姓」には落ち着かない。それを返して、「日頃愛用の稲刈り鎌」を遺体の胸の上に置く。そう書いたあとの二連目。

少し錆が噴き出した稲刈り鎌は
よく手に馴染んで
泥にまみれ 尚も
血と汗と唾が沁み込み
今にも組んだ手を解(ほど)いて
起き上がりそうにも見えた

 「稲刈り鎌」の描写が強い。実際に鎌をつかったことのある人の描写である。「泥にまみれ/血と汗と」が「沁み込み」は想像でも書けるかもしれない。しかし、そこに「唾」というひとことを付け加えられるのは鎌で稲を刈ったことがある人だけである。
 力を込めるために、ひとはときどき唾を手に吐きつける。唾は、きっと「気力」のようなものなのだ。
 私も水飲み百姓の子供なので、鎌で稲刈りをしたことがある。子供だったから、手に唾を吐いてまで懸命に仕事をしたことはないが、父や母が、あるいは兄たちが手に唾を吐いていたことをふと思い出したのである。ほかの野良仕事でも同じである。手に唾を吐いて、力を込める。それが釜の柄の部分にしみこんでいる。握ると「手」そのものの感触が伝わってくる。父のつかっていた鎌をつかむと父の手が、兄のつかっていた鎌をつかむと兄の手の感触がつたわってくる。「よく手に馴染んだ」とは、鎌が「手」そのものになるということでもある。「肉体」が伝わってくる。
 金田は、私が書いたようなことをくどくどとは付け加えていない。金田にとってはわかりきったことだから書かないのだろう。私は、わかるが、それは「わかりきったこと」ではない。かすかに覚えていることだ。そのかすかに覚えていることを金田のことばはまざまざと思い出させる。その「声」のなかに、「水飲み百姓」の「声」がしっかり根付いているからである。ひとりの「声」ではない。「水飲み百姓」の多くの「声」がことばを支えている。その「多くの声」が聴こえてくる。それが、私のかすかに覚えていることを、鷲掴みにして、ぐいと広げる。多くの「水飲み百姓」の肉体の動きとして見えてくる。
 鎌を持たされている遺体も「水飲み百姓」なのだろう。だから、その胸元に鎌を置かれたら、その遺体は生き返り、また鎌を握りそうに見えてくる。遺体を見ながら、生きている姿、生そのものが見えてくる。

 「半分(モワチエ)」の一連目は、こうである。

急に尿意を催し
峠下の廃屋のかげで ひと息つくたまゆら
湯気をあげる漏斗状の雪穴に
庇の氷柱(つらら)を突き刺す さしてもない戯れの
くぐもる空虚に想像力のかたちを与えただけ
そばに大根があれば大根 ニンジン
ゴボウなりを挿し込んだだけのたまさか
リビドーの無明の身震いに
吾が身の成り余れる処を以ちて
汝が身の成り合わざる処に刺し塞ぎつつ

 積もった雪のうえに小便をする。穴があく。その穴に氷柱を突っ込む。大根でもニンジンでもゴボウでもいい。これは性交を思い起こさせる。ここから金田はセックスを思い出す。穴に性器を突っ込む。こういう書き方は女性には不愉快かもしれないが、雪国で育った男なら、子供時代にそういう「妄想」をするものである。何人かがあつまれば、そういう遊びもする。金田のことばは、そういうところとつながっている。そして、そこに「強さ」がある。ひとりで身につけたことばではない。また「本」を読んで身につけたことばでもない。ひとと一緒に行動し、他人の「肉体」をも引き受けながら身につけたことばである。他人の「肉体」を引き受けるとは、自分も他人と同じ「肉体」であるということを受け入れることである。「肉体」はそれぞれ別々のものであるが、どれも「同じ」生き方をする。「生きる」過程で「同じ」になる。そういうことを引き受ける。そういうことを引き受けた人間の「強さ」がことばの「奥」にある。
 この詩には「リビドー」とか「無明」という「頭」で学ぶことばも出てくるが、金田の場合、「頭」のことばを「複数の肉体」でくぐり抜けて、そのうえで動かしている。言い換えると「頭」のことばをつかいながら、「頭」のなかでことばを動かしていくのではなく、それを「肉体」でたたき壊していく。「頭のことば」以前に引き戻していく。
 動き回るのは、あくまで「頭」とは無縁の、「肉体」の感覚そのものである。
 この詩、この一連に限定して言えば、穴へペニス(氷柱状のもの、大根、ニンジン、ゴボウのようなもの)を突っ込む、穴があれば突っ込むという動詞があり、そこにセックスする肉体が重なってくる、欲望が燃え上がる、という感覚である。誰ものがもっている「肉体」を、その「肉体」が動いた瞬間に引き戻し、そこから詩を動かしている。
 こういうことばは「強い」。


鬼神村流伝
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思潮社
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安倍の手口(天皇生前退位特例法成立後の動き)

2017-06-18 19:26:48 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の手口(天皇生前退位特例法成立後の動き)
               自民党憲法改正草案を読む/番外88(情報の読み方)

 2017年06月18日読売新聞朝刊(西部版・14版)は1面・2面に御厨貴の寄稿が載っている。「上皇・天皇・皇嗣の新時代」というタイトルがついている。
 このなかで御厨は、こう書いている。

 この国は明治150年を迎えて、初めて「天皇御一家三代おそろい」の形での移り変わりを体験する。

 「天皇御一家三代」とは何か。いま、「天皇-皇太子-愛子」という「三代」がある。「天皇-秋篠宮-真子・佳子・悠仁」という「三代」がある。しかし天皇が生前退位したあとの「上皇(今の天皇)-天皇(皇太子)-皇嗣(秋篠宮)」というのは「三代」か? 私の数え方では「二代」である。これが「三代」になるためには、

上皇(今の天皇)-秋篠宮-悠仁

 にならないといけない。
 つまり、

天皇-天皇の子供(男子=皇太子)-皇太子の子供(男子=天皇の孫)

 でないと、男子直系の「三代」にはならない。
 「皇位継承」ということで「天皇-皇太子-秋篠宮」なら、すでに今の皇位継承順位とかわらないし、そのあとに悠仁を結びつけるなら「四代」にわたって「継承」は決まっている。わざわざ「三代」に引き戻して論理を展開する必要がない。
 安倍は口をつぐんでいるが、安倍の選んだ「有識者会議」で「座長代理」をつとめた御厨が、安倍の「意向」を口にしてしまっているところが、なんともおもしろい。
 安倍は天皇を生前退位させたあと、皇太子を天皇にするが、それは「仮の天皇」であることがここからもうかがえる。「新しい天皇(皇太子)」を早く退位させ、「秋篠宮-悠仁」を「天皇-皇太子」という形にする、そうすることで「三代」の天皇継承をスムーズにする(?)という狙いが「生前退位特例法」にあったことを、明確に語っている。
 「新しい天皇(皇太子)」を早く生前退位させるためには、「定年制」は絶対に設けてはならない条項だったのだ。

 興味深いことはいろいろ書いてある。

(1)陛下は、戦後憲法の定めによる“象徴”としての公的行為の創設者である。
(2)問題は陛下創設の“象徴”としてのお勤めの総量・総体にある。
(3)(宮内庁は、公的行為はこれ以上軽減は不可能、限界であるといっているが)次代の天皇にも同様の限界論が生じる恐れはある。
(4)(専門家のヒアリングでは)次代の天皇が自ら「象徴としてのお務め」を新たに創出していくプロセスで、選択の自由を行使してもよいとの方向性を示唆していた。

 私は、これを「象徴としての務め」はいまの天皇が勝手に自分ではじめたこと。それをそのまま次代の天皇が引き継ぐ必要はない、といっているのだと読む。
 選択してもよい、とは、減らしてもいいということである。減らせば「総量」が減るから「限界」ではなくなる。
 というのは、みせかけの論理。
 天皇が国民と直に接触する機会を減らし、天皇と国民の密接な関係をなくしたいのである。
 「天皇(皇室)」を「皇居」のなかに閉じこめ、発言を封じる。これが安倍の狙っている「独裁」の理想像なのである。
 現在の天皇は「護憲派」と見られている。皇太子も天皇の考え方に近いようにうかがえる。秋篠宮は少し距離がある。なんといっても、「皇太子」として教育されていない。意識がちがう。その子供の悠仁は「象徴」につていも、「憲法」についてもまだ明確な考えを持っていないだろう。天皇になるための教育も行われていないだろう。早く悠仁を「摂政」にして、天皇(秋篠宮)を蚊帳の外におき、安倍が「天皇」として権力を奮うということである。
 御厨は、その安倍の欲望(意向?)を忖度して、こういう文章を書いたのだろう。
 末尾に、御厨はこう書いている。

「上皇陛下」「天皇陛下」「皇嗣陛下」と三代おそろいで極めて多彩な彩りを持つ天皇制度が、まもなく開花する。

 私は、この部分をこう読む。

 「上皇陛下」「天皇陛下」「皇嗣陛下」と「陛下」が三人もいては、「統一」した見解、行動はむずかしい。三人がばらばらな考えを実行に移すようでは国民が混乱する。「多様性」は「混乱」のもとである。だから三人の行動(国民との接触行動)は極力少なくし、安倍の考えだけが国民に伝わるようにする。「独裁」がスムーズに行われるようにするために、三人の行動を制限する。
 「独裁」が天皇の生前退位によって加速する、と読む。
 こういうことをごまかすために「多彩な彩りを持つ天皇制度が、まもなく開花する。」というような「美しいことば」がしめくくりに選ばれている。

 安倍は直接語らない。安倍の「意向」を語ってくれる人を選び、その人間に語らせる。見返りは「優遇」である。御厨がどんな「優遇」をこれから受けるのか(すでに受けているのか)知らないが、私は、そんな具合に「妄想」する。


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米イージス艦衝突の報道からわかること

2017-06-18 09:42:25 | 自民党憲法改正草案を読む
米イージス艦衝突の報道からわかること
               自民党憲法改正草案を読む/番外87(情報の読み方)

 2017年06月17日、米イージス艦とフィリピン船籍のコンテナ船が伊豆沖で衝突した。7人が行方不明である。この報道には非常に奇妙なものがある。
 2017年06月18日読売新聞朝刊(西部版・14版)は1面にコンテナ船の航路を克明に「図入り」で描いている。「午前1時30分 ほぼ直角に右旋回。このころ、米イージス駆逐艦と衝突か」という註釈がついている。コンテナ船は衝突後現場に引き返し、再び目的地へ進んでいる。
 コンテナ船の「航路」がわかるなら、イージス艦の航路はもっと正確にわかるだろう。米軍がイージス艦がどう動いているか把握していないはずがない。どこにいるのか、どう動いているのか即座に把握できないようでは実際の「戦闘」のとき困るだろう。いまは「戦争」が起きていないから、どこにいるのか、どんな動きをしているのか把握していないというような、ばかげた「運用」はないだろう。
 で、ここからわかることは。
 米軍は何があっても米軍の情報を日本には提供しないということである。
 今回の場合、「7人不明」が米軍関係者だが、これが民間人だったらどうなるのか。日本人だったらどうなるのか。安倍は(日本の捜査機関は)、米軍に情報を要求し、徹底捜査ができるのか。
 よくわからないが(「日米地位協定」を読んだことがないのでわからないが)、米軍は日本に情報提供などしないだろう。米軍がかかわる事故については米軍が捜査(調査)するだろう。捜査の「支配権」は米軍にあるだろう。
 で。
 もし不明者がコンテナ船の乗組員だったら、日本人だったら、どうなるのか。どんな捜査が行われ、どう結論づけたのか、日本が検証できるのか。

 平和時でさえ、こうである。実際に戦争が起きて、その渦中で事故が起きたときは、もっと情報は公開されないだろう。イージス艦が横須賀基地を出港したということさえ公開されないかもしれない。
 「自衛隊」が米軍といっしょに戦うとき、その「指揮系統」がどうなるか、ということもここから考えてみる必要がある。
 安倍は有事の際に自衛隊が必要であるというが、有事の際、日本にいる米軍はどう行動するのか。米軍と自衛隊の行動を指揮するのは誰なのか。安倍は安倍自身を「最高責任者」と呼ぶことが大好きなようだが、有事の際も「最高責任者」なのか。日本にいる米軍を指揮できるのか。
 できないだろう。
 自衛隊は、米軍の指揮下に入って、米軍の「先鋒」とし戦うということになるに違いない。米軍の直轄になり、安倍ではない誰かの指揮を受けるしかない。
 それでも「自衛」隊と言えるのか。
 「有事を想定する」というとき、安倍は、北朝鮮など、外国が日本を攻撃してくるということだけを想定している。その攻撃に対して、どうやって「自衛隊」が行動するか、そのときの「指揮系統」はどうなるかを説明しない。「指揮系統」のわからない戦争など、何の役にも立たない。
 朝鮮半島にいる日本人がどう避難するか、さらには日本国内の日本人がどう避難するかということさえ「指揮系統」にからんでくる。すべて米軍の判断待ちになってしまう。
 日米は「対等」ではないのだ。「対等の関係」ではないのだ。

 そういうことが、今回の「情報公開」から「わかる」。

 船同士が正面衝突しそうになったとき、どうするか。「海上衝突予防法では、海上で船同士が衝突する危険性がある場合、相手が右側に見える船に衝突回避義務がある。正面衝突を避ける場合は、互いに右にかじを切る規定されている」と読売新聞は書いている。事故写真をみると、イージス艦の右舷が壊れている。イージス艦の右舷にコンテナ船がぶつかった形だ。右舷が壊れているということは、イージス艦の「右手」にコンテナ船が見えたということだろう。回避義務はイージス艦にある。
 また正面衝突の危険があったかどうかはわからないが、コンテナ船は右にかじを切っている。このことから想像すると、コンテナ船は衝突を回避しようとしていると想像できる。
 船のことはさっぱりわからないが、海上衝突予防法で最初に書いている「衝突の危険性」というのは「T字型の衝突」のことだろう。そのときはようするに、航路を横断する形の船に責任がある。正面衝突を避ける場合、右にかじを切るというのは、船が右側通行を原則とするということだろう。今回の場合なら、イージス艦は海岸より、コンテナ船は太平洋沖より。そうすれば正面衝突はしない。コンテナ船が西から東へ進んでいて、衝突を回避しようとして右にかじを切った。それがイージス艦の右舷にぶつかったということは、イージス艦が伊豆沖を西に向かって進んでいるのではなく、どこかの地点で左方向に(太平洋沖の方向に)向きを変えているということだろう。左折したということだろう。つまりコンテナ船の航路を横断する形になっているということだろう。そのためにぶつかった。
 こんなことは、イージス艦の「航路」が公表されればすぐわかることである。
 またイージス艦に非がなくて、コンテナ船に過失があるのだったら、これも即座に公表されることだろう。航路全体を公表しなくても、イージス艦は「右側通航」を守っていた、それに対して左側通行をしていたコンテナ船が急に右にかじを切ってきたというくらいは言えそうである。そうしないのは、慎重に捜査しているというよりも、どうやって米軍の過失をごまかすか検討しているということだろう。



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共謀罪成立の日に、なぜ文部省の文書は公表されたか。(安倍の手口)

2017-06-17 11:14:31 | 自民党憲法改正草案を読む
共謀罪成立の日に、なぜ文部省の文書は公表されたか。(安倍の手口)
               自民党憲法改正草案を読む/番外86(情報の読み方)

 共謀罪が成立した日、加計学園に関する文部省の文書が公表されたか。
 共謀罪への批判を封印するためである。
 だれもが加計文書と文部省、内閣府の対応に注目する。実際、報道は加計学園文書に集中している。共謀罪がどのように運用され、市民生活がどんなふうになるか、もっともっと検証しなければならないのに、それはほったらかしにされている。
 今後、それがなふうに運用され、どんなふうに言論が弾圧されるかということに対しての議論は脇に追いやられてしまった。
 政府側の「あいまい」な答弁(説明)は、さらに共謀罪隠しに仕組まれている。
 あからさまな「嘘」を聞き、誰もが怒る。怒ると、思いはその「怒り」に集中する。
 共謀罪が成立した(強行採決された)ということが、「過去」に葬り去られる。
 たった一日で、そういう「印象操作」が行われる。

 このことを、私たちは忘れてはならない。

 安倍のブレーンが誰なのかわからないが(電通なのだろうけれど)、この世論誘導作戦は、昨年の参院選の「選挙報道をしない/報道させない」という沈黙作戦以後、非常に巧みになっている。
 私は、安倍が「加計学園の文書」を「徹底的に、速やかに調査するよう指示をした」というニュースを読んだとき、「時間稼ぎ」と思い込んでしまった。「調査中だから答えられない」というための「方便」だと思った。
 たしかに、それは「方便」だった。実際に、国会答弁は「調査中」と逃げまくっていた。
 だが、それだけではなかったのだ。
 「調査結果」を共謀罪を強行可決した日に公表し、強行可決したことへの批判をはぐらかすために工夫されたスケジュールだったのだ。
 あまりにも「巧妙」な手口である。
 だれも予測しなかった手口である。
 「答弁逃れ、時間稼ぎ」「共謀罪を成立させるため」という指摘は、他の人もいっていたが、だれも、共謀罪を強行採決したあと、批判がそこへ向かわないようにするために、つまり視線を逸らすために「仕組まれている」と予測しなかった。
 私自身、そういう予測はしなかったし、そういう指摘も読まなかった。

 参院選挙前まで、選挙とは「連呼」が象徴的だが、ともかく名前を売ること、有権者に触れることが「勝利」につながると思われていた。だからこそ政策をそっちのけで、ただ名前を叫ぶということが行われていた。
 ところが、実際に「効果的」なのは、選挙活動を封じることである。選挙があるということを知らせないことである。知らせないと、必然的に「有名な」、つまり巨大政党だけが目立つ。少数意見は誰の目にも触れない。--これが昨年夏の自民党が大勝した参院選の「沈黙作戦」である。

 大事なものに、目を触れさせない。大事なことを指摘させない。

 同じことが、強行採決→文部省の文書公開という過程で行われたのだ。
 安倍の意向が働いたのかどうか(行政が歪められたのかどうか)は、もちろん大事な問題である。しかし、この問題は「はぐらかし答弁」で逃げきることができる。内閣府の発表と文部省の言い分が食い違っているが、このことさえ、そこに国民の目を集中させるための、安倍の手口かもしれない。

 私たちのこれからの生活にじわじわと影響してくる共謀罪。それはいったいどういうものなのか。それを考えさせないための作戦なのである。


 
 で。(これから書くことは、別項です。)
 私は、あえて「加計学園問題」(安倍の意向問題)ではなく、共謀罪について書いておくことにする。

 共謀罪について、いろいろな例が語られている。こんな場合はどうだろう。
 安倍政権を批判する集会が開かれる。そこで、こんな発言がある。
 「安倍は許せない。安倍内閣は総辞職すべきだ」
 「総辞職に追いこもう」
 「打倒、安倍内閣」
 「安倍を倒せ」
 「安倍内閣を存続させてはならない。安倍内閣を存在させるな」
 みんなが、そうだそうだと叫んでいる。
 そして、ここにひとりのテロリストがいる。そのテロリストも、同じように叫んでいる。そしてテロリストは「安倍内閣を存在させてはならない」ということばを文字通り実行したとしよう。「倒せ」を実行し、「存在させない」を実行したとしよう。簡単に言うと、安倍を抹殺したとする。
 このとき、その集会に参加したひとたちはどうなるのだろうか。
 テロリストがいることを知らない。
 「倒せ」「存在させてはならない」が「殺す」という意味とは思わずに叫んでいる。「辞任」あるいは「総辞職」と同じ意味、「比喩」と理解している。けれど、実際にそのなかの一人がテロリストで、それを実行したとしたら?
 そこに参加していた人は、みんな「共謀罪」が適用されるのではないだろうか。
 安倍をたい追い込もう、辞任に追い込もう、総辞職に追い込もうという意味でつかっていたと主張して、その主張を聞いてもらえるのか。
 
 さらに、その集会に参加していた一人が、会社で、あるいは近所で、「私は安倍の政策には反対だ」と語ったとしよう。その会話のなにか参加していたら、そのひとがたとえ安倍批判の考えを持っていなかったとしても、あのとき、あの男と話していたではないか、ということで共謀罪の対象にならないか。あの男の話を聞いていた。きっと安倍批判の意見を持っている。テロリストと関係がある。

 さらに「関係」は拡大できる。
 最初に書いた集会に、たとえば私が参加していたとする。私はブログにいろいろな思いを書いている。詩を書いている。映画の感想も書いている。それを読んだ人は、また、安倍批判の考えに同調しいる人だと判断される。つまり、テロリストと関係がある。

 そのなかに、たとえば、こんなふうに考える人がいる。
 あ、あの男は安倍批判をしている。きっとテロリストと関係がある。私はたまたま同じ会社(家が近くだった)ために、その男の話を聞いた。「安倍を許さない」という発言に対して、即座に「いや、安倍は正しい」と反論しなかった。何かあったとき、疑われては困る。疑われる前に「あの男は安倍批判を言いふらしていた」と密告しよう。密告することで自分の安全を守ろう、と思うことはないだろうか。
 自分が疑われないために、疑われて共謀罪を適用されないために、疑わしい奴を密告する。密告することで、自分が「権力の味方」だと知らせよう。そう思う人が出てくるかもしれない。

 テロというのは、権力の側から反権力に向けておこなわれることもあるだろうが、一般的には反権力の側から権力に対して行われるものだろう。権力を持たない人間が、権力に対して打撃を与えるために(あるいは自己主張をするために)行うものだろう。
 権力批判は、ある意味でテロリストの思考を支えることになる。
 権力批判はテロの温床、テロリストの温床と見なされかねない。
 あの人は権力を批判していた。きっと行動するだろう。そう思う人が出てくるだろう。あの集会で権力批判を大声で叫んでいた。私は何も知らずに誘われて集会に行った。疑われては困る、だから誰が集会に参加していたか、「密告」することで自分はテロリストとは無縁であると証明しよう、そう思う人が出てくるかもしれない。

 この「密告」は権力によって推奨されるだろう。
 誰もが「密告」を恐れ、沈黙する。自分の発言の、どこことばをとらえて「テロリストの考えに似ている、きっとテロリストを支援している」と言われるかわからない。
 だから、沈黙しよう。「沈黙は金」だ。

 これでは、あらゆる政権批判の集会はできなくなるし、政権批判のデモもできなくなる。デモノそばを通る、デモに共感するということもできなくなる。
 さらには選挙で共産党や民進党に投票することもできなくなる。「安倍の政治はすばらしい。自民党に投票しよう、と呼びかけてみた。そうしたら、いやな顔をした。きっと野党に投票するに違いない」。
 このことを警察に連絡しておこう。テロリストを支援している恐れがあると密告しておこう。


 思うことと、実際に行動することは違う。
 殺人事件を審理する「12人の怒れる男」のなかにも、思わず「殺してやる」と叫んでしまう男が登場する。それは、とっさの「ことば」に過ぎない。「怒り」をあらわしているのであって、「殺意」をあらわしているわけではない。
 けれど、「殺してやる」と言ったではないか、とそのことばだけをとらえられて、「殺意をむき出しにした」と言われかねない。

 テロリストを断罪することは正しい。人を殺すことは正義に反する。
 だが、断罪できるのは、実際に行動を起こした人間に対してだけである。ひとは考えたこと全てを実行するわけではない。実行できるわけではない。
 共謀罪は、行為を取り締まり、断罪する前に、思考を取り締まる。



#安倍を許さない #憲法改正 #加計学園 #天皇生前退位
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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八重洋一郎「手紙」、高橋秀明「死に場所」

2017-06-17 09:44:59 | 詩(雑誌・同人誌)
八重洋一郎「手紙」、高橋秀明「死に場所」(「イリプスⅡ」22、2017年06月10日発行)

 八重洋一郎「手紙」は「花筏」のなかの一篇。(老婦人からの)という注釈がついている。

さびしいわ
友だちがどんどんいってしまって
一日一日がなんだかスカスカ

-それもあるけど
ほんの少しだけ小さなエゴイズム
あの人の記憶の中にいたあの頃の自分
もう一人の
あの人の記憶の中にいた
もう一人のあの頃の自分 それが

あの人とともに もう一人の
あの人とともにひとりづつひとりづついなくなり
そしておしまいに
わたし自身もいなくなってしまうのだわ

 「理屈」っぽい詩。「論理」で「さびしさ」を説明している。
 でも、理屈っぽくない。
 なぜだろう。
 「理屈」が整理されていないからだ。
 二連目の「あの人の記憶の中にいたあの頃の自分」以下は、同じことが繰り返されている。繰り返し、確かめ、少しずつ動いている。
 ある意味で「スカスカ」ともいえるのだが、そこに「さびしさ」の確かさがある。
 一気に凝縮させない、結晶化させない。
 一回読めば「わかる」。「意味」を間違えることはない。しかし、私は繰り返して読んでしまう。同じことばの繰り返しを、繰り返して読む。わかっていることを「確かめたい」。
 ことばは、「かわる」ために読むというよりも、「確かめる」ために読むものなのかもしれない。



 高橋秀明「死に場所」は、認知症(?)の父と母のことを書いている。母が古い(?)ものを父に食べさせ、食中毒で父が病院へ。それから家に帰ってきて、父は母に高橋と高橋の弟に「饗応せよ」と命じる。言い出したら聞かないので、しかたなく高橋が寿司屋に電話して出前を取る。寝ていた父が起き出して「これは何か」と母に質問する。
 で、

母はにべもなくいやだねあんたが何か出せと言うけど私は動くのが大儀だから秀明に外へ注文してもらったではないかと責めた。責められるのはいつものことでありそうであったかとばつ悪そうに俯く父に私が食べるかと尋ねると顔を起こして食べると言う。それはよかったと言って箸を渡すと少し赤みがかったウニの寿司一巻を取り上げ入歯のない歯茎で嘔吐も何もなかったかのように咀嚼しそれを飲み込むやアワビにも手を出そうとし母からそれは固くて噛めないからこっちにしたらといい中トロを示されそれももぐもぐと食べやがて嘔吐後の父の食欲に呆れた私はスマートフォンで食事風景を撮り十五分後には弟に宛て信じられないが父母ともにバクバクと食べていると註した写メを送ったのだった。

 うーん。
 これも一回読めば何が書いてあるか、「わかる」。情景がみえる。それなのに何度も読んでしまう。読むだけではなく、私は「転写」までしている。
 なぜ?
 なんともいえず、おもしろいのである。
 父と母がいて、どうも父親は母親の尻に敷かれている。ときどき「責められ(叱られ)」、言われるまま。アワビを食べるか、中トロにするか。そういうことも指示されて、それに従っている。こういうことはどこの家庭でもあることだろう。だから「誤読」のしようがないのだが。
 この「誤読」のしようがない、というのが「誤読」かもしれない。
 言い換えると、勝手に自分の知っていること(覚えていること)を、高橋の書いたことばをとおして思い出しているだけなのだ。
 で、この知っていること、わかっていることを「思い出す」というのが、不思議なことに楽しい。「肉体」がむずむずしてくる。「いまここ」にいる(ある)肉体が、書かれている「時間/場所」に入っていく。その「時間/場所」で直接、そこで起きていることを直接体験する感じ。いや、新しく体験しなおす感じ。どうなるかわかっているから、心配せずに、もっと「感情」を味わい尽くすという感じ。

 これって、ひいきのチームが快勝した翌日、その活躍を新聞で読み返すのに似ているかな? 知っている、わかっている。でも、それを確かめてみる。いや、あの「現場」に戻っていく。ことばを読みながら、「あ、みんなが同じ気持ちが動いている(私と同じ気持ちの人がいる)」と「確かめる」。確かめるなくても、「事実」や「感情」は「ある」のだけれどね。でも、「確かめたい」。「確かめたい」ではなく、「味わいたい」かな?
 詩には(ことばには、文学には)、こういう「要素」もある。


トポロジィー―八重洋一郎詩集
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佐々木洋一「ねんぶらん」

2017-06-16 08:10:49 | 詩(雑誌・同人誌)
佐々木洋一「ねんぶらん」(「ササヤンカの村」27、2017年07月発行)

 佐々木洋一「ねんぶらん」は子守歌である。「ねんぶらん ねんぶらん」という不思議な音。私は現実には聞いたことがないけれど、読んだ瞬間「子守歌」とわかる。

ゆりかごゆれて
ねんぶらん
ゆれて ゆられて
ねんぶらん ねんぶらん
めざめよ こども
いのちのじかん
たれにもじゃまされず
めざめよ こども
このよのめざめ

 そして、この子守歌は子守歌なのに「めざめよ」と歌っている。「ねむれよ」ではない。しかし、このことに疑問を持つ前に、あ、そうか、子供が眠るというのは「目覚める」ということなのか、と私は納得してしまった。眠りの世界へ真剣に入っていく。いまとは違う世界へ、意識をもって入っていく。あ、すごいなあ、と感じた。
 子供になって、この歌を聞きながら、眠りの世界に目覚めたい、と思ったのだ。

 この奇妙な錯覚、あるいは「誤読」はどこからやってくるのか。

ゆれて ゆられて

 ここには「ふたつ」の「動詞」がある。「ゆれる」という「自発的」な動き。「ゆられて」という「受け身」の動き。「揺れる」が基本になって、「ふたつ」にわかれていく。子守する人が「ゆらす」。赤ん坊が「ゆすられる」。そういうときの明確な、主語の違いを引き起こす「ふたつ」ではない。何か、もっと、あいまい。赤ん坊は「ゆれ」ながら「ゆられる」。「ゆられ」ながら「ゆれる」。はっきり「主語」が違い、「動詞」も違うはずなのに、その「違い」をのみこんでいく「ふたつ」。いれかわっていく、「ふたつ」。
 この奇妙な「融合」が、「めざめよ」を呼び起こしているように思う。「ねむる」は「めざめる」なのだと感じさせる。
 この一連目は、こう歌いなおされる。

ゆりかごゆれて
ねんぶらん
ゆれて ゆられて
ねんぶらん ねんぶらん
ゆれろよ こども
こころのじかん
たれにもじゃまされず
ゆれろよ こども
はだしのしゅんかん

 「ゆれる」「ゆられる」は「ゆれろ」という、積極的な自発の動きになる。そして「いのち」は「こころ」にかわる。「こころ」がめざめるのだ。「めざめ」は「はだし」と言いなおされる。この「はだし」は、また「こころ」の言いなおしでもあるだろう。「名詞」として違った名前をあたえられているが、それは「同じ」もの。
 なんだか、わくわくする。
 「ねむる」のは、いままで知らなかった世界にめざめることだとわかると、はやくねむりたい、という気持ちになる。不思議に興奮する。ねむらなければ、と思ってしまう。
 で、三連目。

ゆりかごゆれて
ねんぶらん
ゆれて ゆられて
ねんぶらん ねんぶらん
ねむれよ こども
ねむりのじかん
たれにもじゃまされず
ねむれよ こども
やみよのねむり

 やっと「ねむれ」ということばによって、普通の子守歌になるのだが、この普通は見かけ。ほんとうは違う。
 どう違うか。
 説明はむずかしい。
 むずかしいから説明はしない。ただ、眠るのは楽しい、という気になるのである。

 こういう説明できない詩は好きだなあ。


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斎藤健一「家の人」

2017-06-15 10:42:48 | 詩(雑誌・同人誌)
斎藤健一「家の人」(「乾河」79、2017年06月01日発行)

 私は「動詞」がずれる文体が嫌いである。逆に言うと「動詞」がぶれない文体が好きである。安心できる。たとえば、斎藤健一「家の人」。

黒っぽい衣服に相似した端書を投函する。泥が予測と違
い乾いた外である。じっとしていると誰かが戸から飛び
出したのである。粉をこねる一軒のうどん屋がある。春
風がいま子供の汚れ襟だ。屋根のあわさる曇天。そこは
トタン張りで草が生いしげる。縁側のランプ。下を照ら
し見ている。

 基本的に一文にひとつの「動詞」。「ひとつ」だから、ずれようがない。しかし、厳密に読むと「動詞」は「ひとつ」ではない。

黒っぽい衣服に相似した端書を投函する。

 「相似する」という動詞が連体形で「相似した」につかわれている。これと「投函する」という「動詞」がある。二つの「動詞」は「端書」によって結びついている。この結びつきを成立させているのは何か。書かれていないが、「私(斎藤)」が「相似している」と認め、「私(斎藤)」が「投函する」。二つの「動詞」が斎藤によって結びついている。書かれていないが、表面上には出ていない「主語」があり、「主語」が全体を統一している。その統一のもとに「動詞」が、そのときそのとき、あらわれてくる。その「動詞」によって世界が生まれてくる。
 先日見た貞久秀紀の詩でも「動詞」といっしょに世界が生まれてくるのだが、どうも奇妙な具合にねじれている。そのねじれが「個性」といえばいえるのだが、ねじれるときの「主語」と「動詞」の関係が、私の「肉体」ではついていけない。
 斎藤の場合、どうか。

泥が予測と違い乾いた外である。

 一行目から飛躍がある。その飛躍は句点「。」によって明確に記されている。飛躍した上でことばが動いている。飛躍に「自覚」がある。これが「ずれ/ねじれ」を真っ直ぐにする。「混沌とした世界」から、「明瞭な世界が生まれる」。その「生まれる世界」は「連続」していると同時に、「切断」している。様々な「切断(独立)」を支えるものとして、世界を「生み出す」ときの主体としての「私」というものがある。
 言い換えると。
 この文には、やはりいくつかの「動詞」がある。「予測」は「名詞」だが「予測する」という「動詞」から派生したものである。「予測する」と読み直すことが可能である。「私」が「予測する」。そして、その「予測」がはずれたことを発見する。「違い」という「名詞」はまた「違う」という「動詞」から生まれている。「違う」が「私」に跳ねかえってくる。その結果「乾いた外である」ということを発見する。「……である」というのは単なる客観描写ではない。「主体(私/斎藤)」が発見したもの。言いなおすとことばによって生み出した「事実」である。これを「発見」という。
 この発見のために「切断」という飛躍が必要なのである。「切断(飛躍)」を終えて、そのあとで「接続」がふたたび始まるのである。
 常に「私(主体)」が「動詞」をしたがえて「世界」を生み出し、ことばによって「世界」が定着させられている。「世界」にはさまざまな様相がある。斎藤は、それを強烈な「断片」として提出している。「断片」の衝突が、そのまま「接続」(連続)の激しい衝動になる。

春風がいま子供の汚れ襟だ。

 という一文の強さは手ごわい。「春風」を発見するまでに、斎藤はさまざまなものを発見している。「黒っぽい衣服」(冬)、「泥(雪解けの泥)」(春先)、「戸から飛び出す」ときの「主語」が「誰か」というのは、「名前が斎藤にとって明確ではない存在」ということである。「未知のひと」。これは「子供」へとつながる。「子供」とは「世界」において「名前」が確立されていない存在である。それが「飛び出す」。ここに「春」の躍動がある。「春」が「飛び出す」と言い換えることもできる。「うどん屋」の「こねる」は「泥」を参照しながら、混沌から明瞭へと世界を転換する。やっぱり「春」だ。「春の光」が動くのである。「春風」は、ここではとても自然だ。
 冬のあいだはきつく絞められていた「襟」が「春風」によってゆるめられる。そこに「汚れ」を発見する。それは「雪解けの泥」と同じようなものだ。固く閉ざされていたものが、溶ける。そのときにみえる「汚れ」のようなもの。その「汚れ」は輝かしい。その「輝かしさ」を斎藤は発見し、生み出している。
 もちろんこの動きは「一直線」ではない。往復しながら進む。だからこそ、「縁側のランプ。下を照らし見ている。」という具合に、いったん引き返しもするのである。
 「動詞」の動きは、往復を含み、複雑である。しかし、「ねじれ」「ずれ」はない。真っ直ぐにこだわっている。真っ直ぐではなく、曲線にこそ真実がある、という見方もできる。しかし、そのときも「動詞」は真っ直ぐでなければならないと私は思う。どんな曲がりくねった道を歩くときも、あるいは何回角を曲がろうとも、ひとは「真っ直ぐ」にめざしているものへ向かっている。
詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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フィリップ・ガレル監督「パリ、恋人たちの影」(★★★★)

2017-06-15 09:02:30 | 映画
監督 フィリップ・ガレル 出演 クロチルド・クロ、スタニスラス・メラール、レナ・ポーガム 

 一組の男女。夫婦である。互いに浮気をする。男の方がわがままである。男は浮気をしてもいいが、女が浮気をするのは許せない。それで女を追いつめる。妻だけを追いつめるのではなく、浮気相手の女をも追いつめる。妻に浮気されたことがしゃくに障り、浮気相手の女に「意地悪」をする。女にセックスを迫られると「頭の中には、それしかないのか」なんて言う。自分の頭の中にはセックスしかないのに、である。
 この、わがままで、なんとも手のつけようない、いわばくだらない「恋愛」を「映画(芸術)」にまで高めているのは何か。母親にスタニスラス・メラールのことを聞かれたクロチルド・クロが、こんなことを言う。「聞き上手なの。黙って相手の話を聞く。相手がたまらずに自分から語りかける」。ひとは黙っていることができない。どうしても何かを語ってしまう。その、どうしても語ってしまうこと、聞かれていないのに語ることの中に真実がある。
 それは、たとえば浮気した男が妻に贈る花束。花を贈ることで、自分が犯した罪を隠そうとする。「男は浮気したあと、妻に花を贈る」というようなことを言われて男はうろたえ、うろたえたことを懸命になって隠す。このとき妻は浮気にはまだ気づいていないのだが、花を贈る「嘘」のなかに、大事が「本当」がある。
 まあ、愛人が男の家を隠れて観察したり、妻を追いかけて浮気の現場を目撃したり、男の方も妻の尾行をしたりと、なんとも「めんどうくさい」恋愛を描いているのだが。フランス人(パリッ子)は「しつこい」という感じの、楽しい映画ではないのだが、この「めんどうくささ」を面倒がらずにていねいにていねいに描いているのが見どころである。
 で。
 私がいちばん感心したのが、冒頭に書いた男の「意地悪」の部分。セックスをするとき、女はネックレスを外す。それを男は寝そべって隠す。セックスが終わって身繕いをする女がネックレスを探す。見つからない。「何を探している?」「ネックレス」。男は隠しているのだから知っているのだが、答えない。しばらくして身を起こす。そこにネックレスが出てくる。女はそれを拾い上げ、身につける。このときの「意地悪」が、何とも陰湿。こんな「意地悪」をする? うーん、フランスの男はすごいなあ、と私は感心してしまったのである。
 このあと、ネックレスをみつけた女は安心して、こころがゆるみ、「余韻」を味わうように男にもたれかかれるのだが、そこに「頭の中は、それしかないのか」という「厭味」なことばが発せられる。これは、すごくないか?
 フランス人はだいたい「わがまま」だけれど、こんなにわがままになれるのかと思うとびっくりしてしまう。フランス人を見るときの「目」が違ってきそう。
 これに通じるかもしれないが、この映画に描かれている人間は、「ストーリー」よりも「細部」がおもしろい。「細部」が「詩」のようにストーリーを無視して立ち上がってくるところがある。男の「意地悪」は「詩」がもういちどストーリーに乱入して、時間を動かすという感じだけれど。
 「細部」のおもしろさでは、たとえばクロチルド・クロとスタニスラス・メラールがレジスタンスだった老人をインタビューするシーン。老いた妻が隣に座っている。することがないので缶入りのクッキーを持ってくる。「食べない?」と誘い、インタビューに答えている夫のノートの上に一個置いたりする。このあたりの「日常」の間合いが、なんともいえずに「詩」になっている。
 女の妻が母と会話している。母がカフェを出る前に、手鏡を取り出し口紅を塗る。そのとき手鏡を娘に持たせる。「もう少し上」と注文をつける。
 みんな、自分のことしか考えていない。
 それを「わがまま」というほどではないけれど、という感じでちらりと出す。その瞬間の「詩」がおもしろい。
 パリの町中を歩いているのだが、エッフェル塔もセーヌもシャンゼリゼも出て来ない。パリに詳しい人なら、ここはどこ、とわかるだろうけれど、知らない人にはパリかどうかもわからない。具体的すぎて、困ってしまう。
 と、ここまで書いてきて、そうか、この映画は「具体的」すぎるのか、と気づく。男と女の関係、そのあいだで動く「感情」が「具体的」すぎる。「意地悪」にしろ、「いいわけ」にしろ、「けんか」にしろ、「抽象」として「整理」されない。「具体的」なまま投げつけられ、受け止めろと迫られる。
 浮気している人は、見るのを避けた方がいい。どうすればごまかせるか考え始め、きっと足を出してしまうぞ。恋愛真っ最中の人は、どうかなあ。「予行演習」(未来予測)のために見ておいた方がいいのか、こんなことは知らないままに愛を生きた方がいいのか。恋愛を卒業した人は、そういえばこういうことがあったかも、と思い出してしまうかな?
                      (KBCシネマ1、2017年06月14日)

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

パリ、恋人たちの影 [DVD]
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紀伊國屋書店
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