詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

安倍の「宣伝」作戦

2017-11-19 10:39:48 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の「宣伝」作戦
             自民党憲法改正草案を読む/番外150(情報の読み方)

 2017年11月19日の読売新聞(西部版・14版)の1面の見出しと、記事のポイント。

賃上げ不足 税優遇停止/内部保留活用迫る/政府・与党調整/大企業に「アメとムチ」

 政府は、特定の条件を満たした大企業に適用している法人税優遇措置について、賃上げや設備投資拡大が不十分な場合に停止し、実質的に増税する方向で与党と調整に入った。企業が稼いだ利益の蓄積にあたる内部留保を賃上げや設備投資に回すよう、大企業に「圧力」をかける異例の税制となる見通しだ。

 政府は経済界に来年の春闘で3%以上の賃上げを要請した。その呼び水として、3%以上の賃上げを行う大企業を対象とした法人税の減税も検討している。

 これを読むと、労働者の給料が3%増えるのは確実という印象があるが。
 どうなのだろう。
 法人税優遇措置の例として、「研究開発減税は15年度、1万2287件活用され、適用額は6158億円に上った。自動車大手や化学品メーカーなど大企業の利用が多い」という記事も見える。3%賃上げしなかったら、企業からの「納税」が6158億円増えるということか。これは具体的でとてもよくわかる。
 しかし、「3%以上の賃上げを行う大企業を対象とした法人税の減税」には試算がない。どれくらい「減税」になる? これがわからない。
 そしてもっと肝心なのは、大企業の「減税」による国庫収入の穴埋めをどうするかが書かれていない。国には「予算」が必要。大企業に対して「減税」すれば、その穴埋めをどこかでしなければならない。
 どこでする?
 書かれていない部分に注目しよう。
 給料が3%上がる。その結果、労働者の所得税、住民税は? 税金がいまのまま据え置かれ、給料だけが3%上がるなら、「可処分所得」は増える。つかえるお金は増える。しかし、税金が上がり、連動して物価が上がる(デフレを脱却し、インフレになる)ということなら、労働者の実質賃金の「上昇」はいったいどれだけあるのだろう。
 また消費に回された金額がそのまま「中小企業(たとえば飲食店)」の増収になるというわけではないだろう。中小企業の「増収」に対しては「増税」がある。実質的な収入はどれだけ増えるのか。
 こういうことを「具体的」に資料として書かないと、この「政府・与党案」が労働者や中小企業にとっていいことなのかどうか、わからない。労働者、中小企業の「可処分所得」がかわらない、あるいは逆に減ってしまうということもあるだろう。
 「大企業」は安倍と通じている。直接、寿司を食い、酒を飲みながら「談判」ができる。でも労働者は安倍とは直接対話ができない。だから、実際問題として、「3%賃上げ」がどれくらい「家計収入」になるのかわからない。また税金が、どこにつかわれるのかもよくわからない。大企業の「減税」分を穴埋めするだけではなく、さらに軍需費につぎこまれる、ということもある。
 「大企業の減税総額」と、「労働者、中小企業の増税総額」の比較表が必要である。きっと、発言力のない「労働者、中小企業の増税総額」の方が「大企業の減税総額」を上回るはずである。そうでないと、国の予算が破綻する。
 安倍に対して直接発言することのできない労働者を「3%の賃上げ」という餌で沈黙させておいて、税負担を国民におしつけるのが今回の方法だろう。
 大企業の収益は計算が簡単だろう。労働者全員の収益は計算が簡単ではない。中小企業への影響がどれくらいなるかは、もっと計算が複雑だろう。そういうことを「利用」して、いかにも「大企業」に負担を強いている、「大企業」に身を切らせているというような「情報の意味づけ(展開)」は信じられない。
 労働者、国民ひとりひとりの「負担」はどうなるのか。そのことを克明に分析する必要がある。そういう「記事(情報)」を読みたい。
 「労働者の味方」みたいな記事は、注意して読む必要がある。特にそれが「政府・与党案」なら、なおのこと注意しなければならない。

 追加になるが。
 こういうことを明確にするために、国会の「質疑」がある。当然、そこでは野党からの「質問」が中心になる。野党が質問し、政府(与党)が答える。その形で「発言時間」は「1対1」になる。与党の質問時間がゼロ、野党が質問時間の全部をつかうことで、やっと「1対1」になる。
 国会の質問時間の配分が与党に少ないと、与党の若手議員の質問時間(発言時間)がない、ということが自民党内で問題になったらしいが、それは自民党内部の問題であって、「国会」の問題ではない。自分の発言時間がないなら、発言時間がたくさん獲得できるよう「首相」を目指せばいいだけである。そんなことで野党の「応援」を仰ぐというのは、もう政治家失格である。自民党内で内部闘争をしっかりやればいいだけである。



#安倍を許さない #安倍独裁 #沈黙作戦 #憲法改正 #天皇生前退位
 


詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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松本秀文『「猫」と云うトンネル』

2017-11-18 09:50:00 | 詩集
松本秀文『「猫」と云うトンネル』(思潮社、2017年10月25日発行)

 私は古くさい人間である。だから、

満たされない心から生じるかゆみをうまく表現できません   (50ページ)

 という行は好きである。「かゆみ」には傍点が打ってあるが、ない方が好みである。「生じる」ということばは、読んでいて意味はわかるが、耳で聞いたら少し悩むと思う。けれど、まあ好きである。
 で、「この好きである」「ない方が好きである」「まあ好きである」の違いをどう書けばいいのかなあ、ということを松本秀文『「猫」と云うトンネル』を読みながら考えた。

何度も死のうとした日のことを死後に思い出す。       (59ページ)

 この「死後に」も傍点が打ってある。これは強調か。「死後に思い出す」というのは、死んだことがないのでできることなのかどうかわからないが、私は「矛盾」だと考える。生きているから「思い出す」。死んだら思い出したりしないだろう。そんなことがあれば、めんどうくさくて、死んでいられないと思う。
 こういうややこしいことは、わたしの世代では秋亜綺羅が得意としている分野である。で、秋亜綺羅を思い出してしまうので、私は、嫌いである。
 でも、この「嫌い」は「まあ好きである」と入れ替わることがある。「嫌い」と「まあ好きである」は、「肉体」が反応しているというよりも、「頭」が反応している。「頭」が「感想」を動かしているのかなあ。

珈琲(微量に光が含まれている)を飲むだけの一日       (54ページ)

 これは「好きかなあ」という感じ。「好き」と言いたいのだけれど、「好き」と言い切るにはためらいがある。ずるい、と感じる。ずるさ、の前でためらってしまう。
 (微量に光が含まれている)という説明(補足)の仕方がずるい。

微量に光が含まれている珈琲を飲むだけの一日

 こう書かれていたら、きっとめんどうくさくて「好きじゃない」という感じになる。
 珈琲は黒い。そこに光が含まれていると言われると、これは「手術台の上のミシンとこうもり傘の出会い」。「肉体」が覚え込んでいる何かがひっくり返される。あっ、と驚く。新鮮さを感じる。
 最初に「微量に光」を感じ、そのあとで「珈琲」が出てくると、「肉体/頭」がひっくりかえる。順序正しく(?)書かれているのだけれど、「微量に光が含まれている珈琲」では倒置法のように考え直さないといけない。いや、「微量に光が含まれている珈琲」というのは、英語や何かの「関係代名詞」でつくられている「文」のようなものかな? 「微量に光が含まれている(ところの)珈琲」。いまは、こういう「訳文」はつくらないし、関係代名詞があっても前から順番に訳していく。文章を二つに分けて訳してしまうということが多いようだ。で、そういう訳語の動きが、

珈琲(微量に光が含まれている)

 だね。
 「わかる」のだけれど。そして、その「わかる」というとき、そこには「好きになりたい」という感じで私の「肉体」は動いているだと思うけれど。
 同時に、「ずるい」とも感じる。
 かっこは「記号」であって、「黙読」するときはそこにかっこがあることがわかるけれど、耳で聞いたらわからない。
 私は黙読しかしない。音読はしないし、朗読を聞くのも大嫌い。けれど、ことばを「読む」とき、どうしても「肉体」は動く。知らず知らずに喉や舌を動かしているし、耳は「声」を聞いている。目には見えるが耳には聞こえないということばには、どうも「だまし」を感じてしまう。で、「肉体」は立ち止まる。「ずるい」と感じ、一歩、引いてしまう。

「自由」と名づけられた広場には鳩が群れる            (9ページ)

 この行の「自由」には「不自由」というルビがついている。
 こういう行は、私は、大嫌いである。(実は、ここで読むのをやめようと思った。でも、それでは2篇も読み終わらないので、詩集の感想にはならないなと思い、読み進んだ。)
 なぜ大嫌いかというと、「不自由」というルビのついた「自由」を、どう「声」にしていいのかわからないからである。「声」にできない。
 こういう「頭」のなかだけで響かせる「音」というものが、私は大嫌いだ。
 「意味」が大嫌い、と言えばいいだろうか。

 ひとはだれでも「意味」を生きている。ひとそれぞれに、それぞれの「意味」がある。私は私の「意味」で手一杯。他人の「意味」など押しつけられたくない。
 ことばを読むのは、私自身のことばを動かして、私の「肉体」を鍛えるための手段。私の「意味」をつくりなおし、鍛えなおすための方法。そこに「他人の方法」を押しつけられると、私は一種の「拒絶反応」を起こしてしまう。
 「大嫌い」というのは、そういうときの感想だ。

 で。
 端折って、感想をまとめてしまうと、この詩集には「頭」で処理されたことばが多くて、私には読むのがむずかしい。そして、この「むずかしさ」は、何といえばいいのか、明治・大正とは言わないが、どうも「古くさい」ものがもつ「むずかしさ」である。「頭でっかちのむずかしさ」である。「頭」で時代を切り開いていかないといけない時代はそういう「言い方(表現方法)」をしたのかもしれない。けれど、いまはこんな言い方しないだろう、と思ってしまう。
 私は「古くさい」人間なので、私の「肉体」になじんだことばの動きしか納得できない。松本は私よりも若い世代だと思う。「いまはこんな言い方しないだろう」というのは私の間違いで、いまはこういうことばの動かし方(頭でことばを動かすという方法)をするのかもしれないが、私はそれについていけない。


「猫」と云うトンネル
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思潮社


*


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安倍の沈黙作戦

2017-11-18 08:02:25 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の沈黙作戦
             自民党憲法改正草案を読む/番外149(情報の読み方)

 2017年11月18日の読売新聞(西部版・14版)の4面。

野党と「話して回るひまない」

 という見出しで、自民党幹事長・二階の発言が書かれている。

 自民党の二階幹事長は17日、東京都内で講演し、「アベノミクスの結果が出て、野党は悔しくて悔しくて仕方ないから、(その恩恵が)地方に回ってきていないと偉そうに言う」と述べ、安倍首相の経済政策を批判する野党をけん制した。
 また、「何をすればいいか考えがあるなら述べてみなさいよと言ってやりたいが、あんな連中と話をして回るひまはない。情けない限りだ」とも語った。

 「何をすればいいか」は野党は何度も言っている。「安倍は辞めればいい」と言っている。
 「アベノミクスの結果が出ている」というが、そうであるならなぜ消費税増税ができないのか。景気を回復させるために消費税増税を延期したのは、アベノミクスが失敗したからである。失敗を「道半ば」と言い換えているにすぎない。
 それはそれとして。

あんな連中と話をして回るひまはない

 これは暴言だ。
 安倍は都議選の応援演説で、国民に向かって「あんな人たちに負けるわけにはいかない」と言った。二階は国民の代表である国会議員に対して「あんな連中」と言っている。国民の代表を「あんな連中」と呼ぶことは、その議員を選んだ国民の「あんな連中」と呼ぶことである。
 そして、それは国民の選別であり、切り捨てである。
 「話して回るひまはない」が、そのことを露骨に語っている。
 賛成してくれる人間となら話すが、反対する人間とは話さない。反対するひとの声を封じ込める、というのが安倍・二階の「民主主義」の方法である。
 反対している人との対話にこそ時間をかける、よりよい合意へ向けて努力する、というのが民主主義の基本である。
 賛成するなら仲間にしてやる、優遇してやる、というのがいまの安倍の政治。
 それは独裁である。
 この独裁の姿勢が、安倍だけではなく、自民党全体に拡がっていることを証明するのが、今回の二階の発言である。

あんな連中と話をして回るひまはない

 は、すぐに、

あんな連中は逮捕して、封じ込めてしまえ

 にかわる。
 この「沈黙作戦」は、「あんな連中」がどこにいるのか、密告合戦がはじまる。「あんな連中」を密告することが、安倍の「お仲間入り」の条件になるからだ。




#安倍を許さない #安倍独裁 #沈黙作戦 #憲法改正 #天皇生前退位
 
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新井豊吉『掴みそこねた魂』

2017-11-17 10:52:46 | 詩集
新井豊吉『掴みそこねた魂』(思潮社、2017年09月30日発行)

 新井豊吉『掴みそこねた魂』は、「主役」が他人のことが多い。新井自身を語るのではなく、新井が寄り添っている人間を「主役」にしてことばを動かしている。寄り添って、「主役」のことばを聞き取り、それをゆっくりとととのえている。「ゆっくり」のなかで「主役」が自然に動き出す。この瞬間が美しい。
 たとえば「なかよし学級」。

わたしは
外を見るのが好きなわけではない
ただ待っているだけ

グラウンドを守る
松林の向こうからきた
粗野に野球帽をとばす
風なんかじゃない
ぬるく 押し返すような
かすかな弾力
見えない明らかな固まり
額から前髪に入り
わたしに触れて帰った
わたしだけのもの

 「風なんかじゃない」と否定したあとのことばが強い。
 「ぬるく」が、特に強い。
 「わたし」がいつも感じているのは「ぬるく」とは違うものなのだ。いつも、冷たい、熱い。極端で過激である。そういう「粗野」なものが「わたし」は嫌い。
 「ぬるい」ものは、何か、ゆったりする。身を任せていられる。「時間」が、そこではゆっくりしている。
 私はいま、「ぬるく」を「ぬるい」と言い換える形で感想を書いたが、「ぬるく」は「ぬるい」とは違う。「ぬるい」は「名詞」と結びつくが、「動詞」と結びつく。副詞だ。この「動詞」と結びつくところが、「ぬるい」よりもさらに強い。「動詞」というのは「肉体」のことである。「肉体」を動かす、その動きを説明するのが「副詞」。「わたし」はいつでも「肉体」を感じている。「粗野」も「粗野に」と「動き」につながるものとして書かれている。「肉体」で「粗野」を感じているのだ。
 「肉体」は「かすかな」ものをしっかりと感じる。「押し返す」力の強さを、「かすかな」と言いなおすとき、その「かすかな」は「客観化」できない「動き」である。「数字」にはできない。「肉体」が「肉体」だけの基準で感じる。そして、その感じ方は、いつでも「正確」である。この「強さ」なら気持ちよくて、この「強さ」はだめ、ということが「肉体」にはわかる。「強さ」という名詞(客観化された数字)ではなく「強く」「よわく」という「動き」として「わかる」。
 「頭(客観)」では「わからない」が「肉体」は「わかる」。

額から前髪に入り
わたしに触れて帰った
わたしだけのもの

 「額」「前髪」と具体的な「肉体」が書かれている。「触れる」は「肉体」に触れるのだ。それは「わたしだけのもの」。「肉体」はそれぞれが個別である。絶対に入れ替わることができない。
 「わたしだけのもの」というのは、「わたし」に触れていった「ぬるい風」のような何かを指しているのだが、それが「触れた」と感じる「わたしの肉体」そのものをも指している。「わたしの肉体」と「ぬるい風のようなもの」は、一体になり、つまり一緒に動き、動きのなかで「主客」が入れ替わる。
 この「時間」を「わたし」は「待っている」。「待つ」という「動詞」はある意味では「抽象的」だが、それを「わたし」は「肉体」ではっきりと「時間」にしている。「時間」を充実させ、それを至福に変えている。

 ここに書かれていることは、では、新井はどうやってつかみ取ったのだろうか。寄り添うことで、想像力を働かせたのか。
 私はこの感想の最初に「寄り添って、「主役」のことばを聞き取り、それをゆっくりとととのえている」と書いたのだが、その「ととのえる」は間違っている。
 新井は、他者の、ことばにならないことばを「ととのえ」、わかりやすいものにしているのではない。
 「いらっしゃい」に新井の作品をつらぬくキーワードが出てくる。

常同的に飛び跳ねる子どもたちのもとから
車イスとマットの職へうつった四月
おそるおそるきみを抱きかかえた
わたしの腕は硬く
きみは棒のように反り返った

 「わたし(新井)」は「きみ」にうまく向き合えない。何かが「きみ」を反発させてしまう。どうしていいか、「わたし」にはわからない。
 その「わたし」が家庭訪問をする。

ただ教えてもらうだけの家庭訪問を迎えた
玄関から部屋の奥にいるきみが見えた
おひな様は補助イスに座りベルトで固定されていた
きみの瞳はいつもより大きく
頬の筋肉が弛緩し
微笑みとは言えない微笑みがあった

 「教えてもらう」という「動詞」がつかわれている。新井は「きみ」を支えるのではなく、そのことばをととのえるのでもない。新井は「教えてもらう」。支えられ、ととのえられるのは新井の方である。「主客」が入れ替わる。
 新井いは「教えてもらう」でとどまらず「だけ」ということばを付け加えている。「教えてもらうだけ」。そこに集中している。

額から前髪に入り
わたしに触れて帰った
わたしだけのもの

 ここにも「だけ」があった。
 「他者」を描きながら、新井はそこに書かれた「わたし」になる。「わたし」を生きる。「教えてもらって」、教えられた生き方を生きる。その静かな積み重ね「だけ」が詩集になっている。
 「だけ」もまた新井のキーワードだろう。生きる「いのち」がある「だけ」。そこには「主客」の区別はない。「主客」は入れ替わりながら「いのち」そのものになる。「いのち」そのものに帰っていく。


摑みそこねた魂
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思潮社
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暁方ミセイ『魔法の丘』(2)

2017-11-16 09:47:53 | 詩集
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)(思潮社、2017年10月25日発行)

 詩集には、色(光)と音がたくさん出てくる。色も音も「空気」のなかに存在する。暁方は「空気」を描いている。暁方をつつむ「見えないもの」と向き合ってことばを動かしている。

左右にひっぱられている青空や
肉みたいに桃色が盛り上がっている
幼いころの丘陵地帯                      (生態系)

 ここには「透明」のかわりに「ひっぱられている」がつかわれている。ひっぱられて、のびる、ではなく、ひっぱられて緊張する。その緊張感が「透明」なのだ。

明るい晴れ間では
幾人もの煌めく長棒を手にした技師たちが
光を透明に通過しながら動いている
その金属音がここに届く                   (耳煩光波)

 光はもともと「透明」だろう。透明な光が分光されて色になる。そのとき暁方は「音」を聴く。しかも「金属音」だ。硬質。これがいっそう透明感を強くする。

頭の中のことなどはすっかり忘れてしまって
かわりに感情の
一番純粋に澄み切った音のようなものが
血液の中から押し寄せ                   (地点と肉体)

 こうした「空気」の運動を暁方は「頭」でとらえると同時に「感情」でもつかみ取ろうとする。「頭」と「感情」が交錯する。その「場」が「血液(肉体)」ということになるだろうか。
 「頭」で世界を正確にとらえる。その正確さが「透明」ということになるが、それを突き破って、さらに「透明」を結晶化させるのが「感情」ということになるのだろうか。

硬く無関係の光で転がる                (正午までの希望)

脳での新しい
風が通る感覚のためだ                 (正午までの希望)

 こういう行を読むと、「脳(頭)」と「感覚(感情/生理/肉体)」がいつでも「関係」を作り替えながら動いていることがわかる。「頭」は「関係」をゆるぎないものにする。しかし、その「関係」を閉じてしまうのではなく、内部から「透明」にする何か、強い感情がつきやぶる。

紫が知らせる秋の匂い            (ホームタウンの草の匂い)

虹色のひんやりした風を流し         (ホームタウンの草の匂い)

 こういう「色」は、感情(感覚)が「頭」を突き破ってあふれたときの「破片」のようなものかもしれない。感覚の煌めく破片。

空気圧の重たい地面で
千年や二千年かわらない体を
またもらって
草の匂いを懐かしく吸い込む         (ホームタウンの草の匂い)

 「関係」はときに「重たい」。重たくのしかかる。関係を内部から突き破る感情、感覚がいつでも世界をかえていくわけではない、ということか。しかし、そういうときは「体」そのものにもういちどかえる。どういうときにも「体」があるそういう強い力、存在する力がある。
 色(視覚)、音(聴覚)の交錯するのが、暁方の「肉体の外」の世界。「肉体の内」には匂い(嗅覚)が動く。(内部の存在として、血潮も出てきたが。)
 こうした変化、統一しなおす感じを「反転」というのかもしれない。「蒙昧の緑」に「反転」ということばが出てくる。

少し薄緑の気色がしたら
清涼さの現れごと
全部一気に飲んでしまって、反転だ            (蒙昧の緑)

 何と呼ぶのがいいのかわからないが、こうこういう交錯し、動き、自分をととのえる「肉体」というのは、読んでいて安心する。

あそこにだけ
血潮をすうっと冷やす元素が
いまもなお漂い続けているから               (吉祥)

 ということばもある。「反転」は「漂い続ける」という形で言いなおされ、それはさらに、

同じところに停滞しない              (ワールドドーム)

 「停滞しない」ということばにもなっている。どんなふうに動こうとも「停滞しない」。

 そういうことばが、強い緊張感で一気に動いているのが「空獣遊山」。

金属や生物の肌をひときわうつくしくしたあとで
全部冷やして青く終わらせてしまうんだな
みんなどこかへいってしまう予感
それと交錯するわたしの消失
ひとつひとつの細胞や
元素の切れ目のその感触
すばやく心理に信号を送り
いま何をなす頃か知らせる何か
無色で触れられもしない鹿狩や収穫に
凄まじく焦り

 暁方の詩によく出てくる(と思う、統計をとったわけではないが)青、透明で、冷たくて、結晶しているような青がここに出てくる。(「水色/この遠さを水椅子という」というバージョンが「春風と瞼」に出てくる。)
 宮沢賢治に通じる「金属(元素)」と心理(信号/暗示/予感)の交錯。そういう「抽象の美しさ」の一方で、   

実感の風景の
奥のほう
本当の現実が隠されていて
そこから死んだたくさんの生き物が
じっと並んで同じまなざしで
昼でも夜でもこちらを見ていることに
ずっと前から人間は気づいていたけれど

 「生き物」と「まなざし」の感覚がある。
 生きているとき、自分だけではなく、このいのちにつながる「生き物(死んだ生き物)」というものを感じる。それは「共感」なのかもしれない。             
 一方に偏ってしまわない。流動しながら、透明感が拡大していく運動を暁方のことばに感じる。


魔法の丘
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狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」

2017-11-15 20:22:42 | その他(音楽、小説etc)


狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」(「新桃山展」、九州国立博物館、2017年11月15日)

 狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」が同時に見られる、というので九州国立博物館の「新桃山展」を見てきた。
 「同時に」というのは、「同じ会場で」くらいの気持ちで行ったのだが、ほんとうに「同時に」見ることができる。直角に交差する壁の正面に「檜図」を見るとき、右手に「松林図」、正面に「松林図」を見るとき、左手に「檜図」という具合。その部屋に入った瞬間、自然に二点が見える。
 この展示方法に度肝を抜かれる。まさか、こういう展示になっているとは思わなかった。

 感想は、どう書き出そうか。
 永徳の「檜図屏風」は、登りたくなる木である。木に勢いがある。大木だから、老木でもある。だが力がみなぎっている。山で育った子どもなら、たぶん誰でも、こういう木を見ると登らずにはいられない。木に登ると木を征服した気持ちになる。木よりも強くなった気がするからだ。大将になった愉悦がある。そして永徳の檜は、木というよりも「龍」である。いまふうに言えば「ゴジラ」、それも「シン・ゴジラ」である。これを乗りこなければかっこいい。そういう気持ちがむらむらと沸き起こってくる。
 等伯の「松林図」の松は登る木ではない。眺める木である。いや、木を眺めるというよりも、木との「距離」を眺めると言った方がいい。それは自分自身を間接的に見つめるという感じかなあ。大将の愉悦ではなく、孤独にひたり、孤独をに酔う。でも、こういうのは思い過ごしで、松は人間を相手になどしてくれない。だからよけいにさびしさに閉じこもってしまうのだが、そういう「感情」を、等伯は松林にたちこめる霧に託して描いている。「空気」を描いている。松林を「背景」にして、霧を動かし、その動きを描いている。
 では、永徳は「空気」をどう描いている。永徳は霧ではなく雲を描いている。永徳の雲は等伯の半透明の霧とは違って、不透明で、雲の背後を完全に隠す。遮断する。その「目隠し」を強いる雲を突き破って躍動する檜を、永徳は描いている。雲を背景に、木の力を描いてる。雲はもちろん、あらゆるものを破壊してしまう力を描いている。
 描き方がまったく違う。
 永徳が檜を「主役」に雲(空気)を「脇役」として描いているとしたら、等伯は霧を「主」にして松を「脇役」にしている。そして、この「主役」と「脇役」は永徳の場合は固定化しているが、等伯の場合は固定化しない。松を見つめれば松が「主役」に、霧を見つめれば霧が「主役」にと流動化するという点でも、二人の描き方はまったく違う。
 さらに「遠近感(距離感)」の描き方も違う。
 永徳の檜は幹と枝の重なり具合をとおして「距離感(遠近感)」をつくりだしている。太い幹の手前に枝が右から左へ伸びる。幹はその枝の「背景」になっている。「前後」ができる。つまり「遠近感」が、一本の木の動きとして描かれている。木が成長すること、大きくなる(育つ)という時間の動きがそのまま「遠近感」になっている。
 等伯の「遠近感」は一本の松で産み出されるのではなく、複数の松の重なり合い、ふたつの松のあいだの「空間」として描かれている。そして、その「遠近感」(画家からの距離)は二本の松を比較するときはわりと明瞭だが、離れた松の距離感となるとかなりむずかしい。こうだろう、という具合に思うことはできるが、それが正確かどうかはわからない。ただよう霧の動きが遠近感を壊していく。そして、「遠近感」をつくりながら同時に壊すという動きで、霧は「霧こそが主役だ」と主張しているようにも見える。
 (この「新桃山展」での展示の仕方も、なかなかおもしろい。どちらも「屏風図」なのだが、永徳の檜は、平らに、襖絵のように展示されている。等伯の松は屏風の形、つまり折れ曲がった状態で展示してある。スペースの関係でそうなったのかもしれないが、この折れ曲がった屏風そのものがつくりだす遠近感が等伯の絵にさらに陰影を与えている。)
 等伯の松は、霧がつくりだす独自の遠近感(距離感)によって、孤立する。複数の松が描かれているのに「孤独」が感じられる。永徳の檜はエネルギーが有り余っているので、一本でも「孤立」という感じはない。右端にもう一本檜の幹があると私は見たが、そこに別の木があろうとなかろうと、完全に独立している。こういう印象も違う。

 さらに私は、こんなことも考える。私はピカソ、セザンヌ、マティスが好きである。永徳と等伯のなかに、ピカソ、セザンヌ、マティスはいないか。
 永徳の、「遠近感」をつくっている枝を見ると、私はピカソを思い出さずにはいられない。ピカソは素早く動く視線の力で、平面のなかに「時間」を同居させた。たとえば「泣く女」の顔には涙を流し、ハンカチを食いしばる女の「動き」そのものが一瞬として描かれてる。永徳の枝の動きにも、その枝がその形になるまでのいくつもの動きが瞬間として描かれている。だから、まるでゴジラの尻尾のように、いまにも右方向にも動いていきそうな力を感じる。しっぽをぶんぶん振り回し、戦車や戦闘機と戦うゴジラのように。ピカソが対象を「運動する生き物」として描いているように、永徳もまた「動く存在」として檜を描いている。そしてまた、その少ない色数の、色の拮抗のなかにマティスを感じる。色が動いている。色がリズムになっている。
 等伯に感じたのはセザンヌである。セザンヌは、私にとっては色が堅牢、堅牢な色の画家である。墨一色、墨の濃淡で描かれた絵のどこにセザンヌが生きているか。筆の動き、余白の力にセザンヌがいる。セザンヌの色はパレットの上で完成している。セザンヌはパレットの上でつくった色をさっとカンバスに塗る。カンバスのなかで色を重ねて色をつくるということはしない。(と、私は思っている。)等伯も、まるで墨を含ませた筆そのもののなかで濃淡をつくり、それをぱっと襖の上に走らせただけという感じだ。筆の勢いで墨がかすれる。そうやってできる「空白」さえ、筆のなか(墨のなか)でつくられたものであるかのような印象がある。書き直しのきかない速さのなかで絵をつくっている。(ほんとうに短時間で描いたかどうかではなく、そこに残されている筆の動きの時間が短いというのが、セザンヌに似ている。)

 等伯の「松林図屏風」については、以前にも書いたことがあるので、永徳についてだけ、もう少し追加して感想を書く。
 展覧会に入場したひとは、その道順にしたがって歩いていくと、「檜図屏風」を見る前に、永徳の「琴棋書画図」を見る。水墨画である。(それがちょうど「松林図」と向き合っている。)この右側部分に描かれた松(?)の枝振りが檜の枝振りに似ている。右から左へ伸びた枝が幹を手前で横切る形になっている。永徳は、この構図(?)が好きだったのだろうか。枝を幹と交錯させることで、強引に「遠近法」をつくりだし、全体を動かすということが好きだったのだろう。そういうことを感じる。
 またこの展覧会では、永徳の祖父の元信の「四季花鳥図屏風」も展示されている。狩野派なのだから当然なのだろうが、雲の描き方が共通しているのがおもしろい。「四季花鳥図屏風」では金色の雲が桜や何やらを、強引に、部分的に隠している。手前に鳥がいて、その後ろに雲がむくむくと動いていて、その雲の向こうに桜がところどころ姿を見せている。こういう「遠近法」は「絵」のなかだけにしかない。実際の風景としては見ることができない。けれど、「遠近」をつくりだす方法としてはとてもおもしろい。それを永徳は踏襲している。ただ踏襲するだけではなく、檜と雲を戦わせているというのがおもしろい。永徳は描きたいものだけを描く、描きたくない部分は雲で隠す。隠して、見る人に隠れされている木を初めとする風景を想像させる。
 等伯は、霧で隠れている松を想像させると同時に、松を隠す霧にも「主役」を割り振ってたのに……。
 あ、また等伯のことを書いてしまったか。

 絵を見ながら感想を書いているのではなく、思い出しながら書いているので、どうしてもことばがあっちへ行ったりこっちへ行ったりしてしまうが、とても刺戟的な展覧会である。時間があれば、ぜひ、もう一度みたい。
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暁方ミセイ『魔法の丘』

2017-11-14 10:31:34 | 詩集
暁方ミセイ『魔法の丘』(思潮社、2017年10月25日発行)

 暁方ミセイ『魔法の丘』を開くと、最初に「風景の器官」という詩がある。「二〇一七年七月九日」という日付がある。この詩集のために書き下ろしたのかもしれない。(この作品のあとに「目次」がある。)

道路いっぱいのねこじゃらしは
内側に炎を灯して素気なく
じりじりした光で夕焼けに熱を返し
透明な手指がいくつか揺れて
その手を手繰り寄せている

わたしはひとなのでひとのかたちにそれを見
夢から続いてきたあざみの根っこ
 希求は記憶にとかしこまれ
 よく見えなくなってわたしを騙す
 追い重なった畑のみどりを
 ひとむらの赤やオレンジの花の株でまとめあげ
 高い支柱とビニールハウスの白い夕反射
 そのむこうにはアパートの黄色い照明灯
 あんなにいみじく変換された
 この世の夏を泳ぐのだ
  こんなに空気には
  植物の発する模様がいっぱい
  風景は何でもよく覚えていて
  わたしをたのしく見つめ返す

 二連目の最初の一行、「わたしはひとなのでひとのかたちにそれを見」に思わず傍線を引いた。
 一連目の「ねこじゃらし」の描写、特に「手指(手)」をつかった「比喩」のことを指して言っているのだと思う。「わたしはひと(人間)なので、ねこじゃらしの揺れる姿を描写しようとすると、その描写のなかにひとのかたち(手指)を見てしまう」。ねこじゃらしに「手指」はないが、「手指」の動きと重なるものがある。
 これは簡単に言うと「擬人化」ということなのだが、なぜ、それをおもしろく感じたのか。「ひとなので」と暁方が「理由」を書いているからである。

 なぜ、理由なんか書く必要があったのかな? 擬人化なんて、誰でもがやる。特に珍しい「技法」ではない。
 もしかすると、単なる「比喩」ではないのかもしれない。ただ、「ねこじゃらし」をひとにみたてて言いなおしているというのとは違うのかもしれない。
 「手指」ということばが出てくる前に「裏側」ということばが出てくる。
 「手指」になる前に、暁方は「ねこじゃらしの内側」に入り込み、内側で運動を起こしている。
 ねこじゃらしの「内側」に「炎を灯して」、その炎の発する光と熱を外側に発散させ、それを「夕焼け」に「返し」ている。炎の光、炎の熱を暁方は別々にとらえて、「炎の光」で「炎の熱」を「夕焼け」に返している。
 この「返す」という運動を言いなおしたのが「揺れて」いるであり、また「手繰り寄せている」でもある。
 うーん、でも、この「返す」と「手繰り寄せる」は、運動としてはベクトルが反対だねえ。夕焼けに「返す」は夕焼けの方に向けて「投げる」感じ。自分の外へ出してしまうのが「返す」である。自分からはなしてしまうのが「返す」である。「手繰り寄せる」は自分の近くに「寄せる」。
 では、これは「矛盾」なのか。「矛盾」といえば矛盾かもしれない。けれど、矛盾ではない。暁方は「往復運動」を書いているのだ。
 「ねこじゃらし」と「夕焼け」のあいだには「往復運動」がある。
 「ねこじゃらし」は、その「往復運動」を「自分の内側」と「自分の外側」でも展開している。「外側」ということばは書かれていないが、意識されている。暁方の関心は「往復運動」、ふたつの違った存在のあいだを往き来する運動に世界のあり方を見ている。
 この「往復運動」は「わたし」と「ねこじゃらし」のあいだでも起きている。
 「わたしの内側」にあるもの、「意識」とか「精神」とか「感覚」とかいうものが、「わたしの内側」から出て、「ねこじゃらしの内側」に入っていく。そして、その「内側」から「ねこじゃらし」をとらえなおす。そうすると「ねこじゃらし」のしていることがよくわかる。「内側」で「炎を灯し」て、その「炎の光と、炎の熱」を夕焼けの方に投げ返している。
 これは「擬人化」というよりも「自己同一化」、あるいは「自己拡張」というものだろう。「わたし」が「ねこじゃらし」になって、そこに「あらわれている」。「わたし」はここにいるのだが、その「わたし」はほとんど「非存在」になり、「ねこじゃらし」としてい生まれ変わり、生きている。
 自己拡張は「ねこじゃらし」にとどまらない。「ねこじゃらし」にまで自己拡張すると、その拡張に他のものもまきこまれる。「夢から続いてきたあざみの根っこ」になって、「見えなくなって」「わたし(ねこじゃらしを見つめたわたし/ねこじゃらしになってしまう前のわたし)」を「誘う」。暁方は「騙す」と書いているが、「騙す」のは「こっちのほうへと誘う」ためである。「あっちのほう」かもしれないが、ともかく「騙されて/誘われて」、「わたし」は「わたし以外のもの」になってしまう。そういう運動へと変化していく。
 この自己拡張はどんどん増殖する。そして、どれがどれだかわからなくなる。「どの存在」が「わたし」だったのか、特定できなくなる。「わたし」は「ねこじゃらしを見つめ、描写するひと」なのか、「ねこじゃらし」なのか、光のなか、熱なのか、そのあとに出てくる様々な色なのか。特定できない。そういうものの「内側」に入り込みながら、同時に「外側」(見えるもの)になっている。「世界全体」が「わたしがあらわれた世界」である。「わたしのいる世界」は「わたしそのものの世界」である。
 完全な「一元論」の世界、と言えるかもしれない。

 こんなめんうどうくさいことは、暁方は言わない。簡単に、こう言うのだ。

風景は何でもよく覚えていて

 「風景」とは「世界を構成する存在」である。たとえば「ねこじゃらし」である。その「ねこじゃらし」は暁方が自己拡張して「一体」になった存在だが、その「ねこじゃらし」を暁方が覚えているのではなく、「ねこじゃらし」の方が暁方(わたし)の方を覚えていて、

わたしをたのしく見つめ返す

 往復運動が、ふたたび、いやまったく新しく始まるのだ。

 このときの「往復運動」の動きというのか、往復運動で生まれる「時間(世界なのかなあ)」は、暁方の場合、不思議な透明感で満ちている。「不純物」がない。「人工」という感じがない。
 たとえば「地点と肉体」の一連目。

指が冷える頃には
山の向こうで
大きな光源が
どこへでもまっすぐ
血の混じる金のような光を注いでいるんだよな
それにかかると、
頭の中のことなどはすっかり忘れてしまって
かわりに感情の
一番純粋に澄み切った音のようなものが
血液の中から押し寄せ
今までのことなど
まるで
どうでもよかったみたいに
景色を変えてしまうんだよな

 強烈な夕日体験を書いているのだが、「かわりに感情の/一番純粋に澄み切った音のようなものが/血液の中から押し寄せ」がとても美しい。「一番純粋に澄み切った」というのはあまりにも「ことばことば」しているが、そのあとに「音」ということばを引き寄せると、印象が違ってくる。あ、そうか、それまでの「色」とは違うものをあらたに引き寄せるためには、こういういう「生っぽい」ことばも必要なのだとわかる。

魔法の丘
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星野元一『ふろしき讃歌』

2017-11-13 11:21:07 | 詩集
星野元一『ふろしき讃歌』(蝸牛社、2017年07月25日発行)

 星野元一『ふろしき讃歌』は、どの作品を読んでも「なつかしい」。書かれていることは星野の体験なのだが、おなじことを私の肉体が覚えている。
 「ふろしき讃歌」は、こういう書き出し。

ふろしきには
弁当が包まれていた
砂利道を子どもたちは駆けて行った
飯もお数もみんな踊って
背中まで染みだらけになった
教室の中は
漬菜と味噌漬の臭いがした

 昔は密閉式の容器なんてなかった。どうしても「汁」がもれだす。ふろしきに「染み」ができる。これは、すぐわかる。そのつづきで「背中まで染みだらけになった」も想像がつく。(私は、ふろしき包みで学校へ通った経験はないから、ここは想像。)
 そのあと、

教室の中は
漬菜と味噌漬の臭いがした

 これが、なかなか書けない(と、思う。)
 この行を読みながら思い出したことがある。冬になると教室にストーブがはいる。そこに弁当を載せる。温める。冷たいごはんは食べるのがつらいからね。そうすると、あたたまった弁当から匂いが出てくる。たくあんの匂い。
 それは、なんというか(両親にはもうしわけないが)、「貧乏の匂い」である。おかずが「つけもの」しかない、あるいは「つけもの」がかならず入っている。おかずを増やすために。そのことが「匂い」でわかる。
 この「匂い」というのは、「形」になって残らないけれど、「肉体の奥」にずーっと残っていて、「あ、これは〇〇の匂い」という具合によみがえってくる。「匂い」だけではなく、家での食事の「情景」までひきつれてよみがえってくる。
 それがまた「貧乏の肉体」という感じなんだなあ。むかしはみんな貧乏だから、貧乏を気にしなくてもいいのかもしれないけれど、たくあんの強い匂いの違いで、あ、あれは私の家のたくあんだとわかったりする。その「私の家の匂い」というのが、「恥」のように体の奥を熱くする。
 そんなことを思い出したりする。
 ふろしきは、子どもだけがつかうのではないから、詩にはいろんなふろしきが出てくる。

ふろしきは
富山の薬屋さんも背負って来た
薬はみんなサンコウガンの匂いがした
ほしいのは蜃気楼の海と
おまけの紙風船だったのに

ふろしきは
一張羅の着物も包んだ
ヤミ米が背負われて帰って来た
ドブロクも一升瓶になってぶらさがった

 とか。
 いろいろ出てくるが、やっぱり弁当を包んだふろしき、漬け物の匂いのしみついたふろしきがいちばん印象的だなあ。
 と書きながら思うのだが。
 私の書いている感想は、ふろしきよりも漬け物の匂い、教室に充満する匂いの方に「重心」が移ってしまっている。ほとんどふろしきを無視しているね。
 でも、こういうことが「詩」なんだろうなあ。
 「ふろしき」は、いわば「古い時代の象徴/比喩」(私はほんとうは「貧乏の比喩」と呼びたい)だけれど、その「比喩」をくぐると、ふろしきから、ふろしき以外のものが生まれてくる。ふろしきを広げたら「昭和」が出てきたという感じかなあ。ふろしきが漬けと一体になる、いれかわってつけものそのものになるということを通り越して、そこから次々に世界が生まれてくる感じ。
 この、「対象」そのものではなく、そこから「生まれてくる」何かに「はっ」と気づき、それを追いかけて、「肉体」が暴走する。星野が書きたかったことは、私が追いかけているものとは違うものかもしれない。けれど、私は星野の書きたかったものなんか気にしないで、ただ自分の思い出したいものだけを思い出す。この瞬間に「詩」が動いていると、私は思う。

 でも。
 星野が書いていることは、ほかの世代につたわるかどうか。たとえば、「夏の管」の次のような連。

ヒトも管だ
ミミズから学んだのだ
米と味噌と菜っ葉を詰め込んで
ヒトも生まれたかったのだ
たいがいのやつは
牛となって鼻輪をつけられ
馬になって尻をたたかれたが

 子どもは「ヒト」になりたかった。けれど、牛、馬のように(比喩だね)、田んぼや畑の仕事に駆り出された。さすがに「ミミズ」は比喩としてつかわれていないが、実質は土を耕すミミズかもしれない。土地に縛りつけられ、そこで生きていくしかなかった。
 その「管=ミミズ」も「時代の流れ」でたいへんなことになっている。

管は今や
巨大なヒューム管だ
塩ビ管やスチール管にもなって
地球に絡みついている
呑み込んでいるのは
お寺の鐘とお地蔵様と
夕やけ小やけのムラだ
吐き出されて行く街も
やがては消えて行くのだが

 過疎化が進み、ひとはどんどんいなくなる。「ムラ」が消滅し、「ムラ」から出て行った先の「街」もまた次々に消滅しようとしている。
 私のふるさとでは、小学校も中学校もなくなった。「街」の近くの学校に統合されている。その「街」さえも人口の減り方が激しい。私が小学生のころは7万人いたが、5万人を切っている。実感としては、半分の3万5千人くらいの印象である。
 星野は単に「昭和」をなつかしんで書いているのではなく、そこには「批判」も含まれているのだが、この批判は、「その土地」に住んでいる人以外には共有されないかもしれない。政治が「地方都市」を切り捨てることで動いている。「なつかしさ」にひきずられて読み始め、読み進むにつれて、そういうことも思う。

 脱線すると。
 加計学園の獣医学部新設。国家戦略特区とか何とか言っているが、最終的には愛媛県にも今治市にも「恩恵」などもたらさないだろう。どうみても、そこで暮らしている人(今治市民)の求めに応じてつくられるものではないからだ。今治特有の「産業」を活性化するためにつくられるものではない。
 星野がつかっている比喩を借用すれば、新設される獣医学部は単なる「管」だ。その「管」のなかを「学生」と通り抜け、吐き出されていく。「ミミズ」になって今治市、愛媛県を耕すわけではない。強烈な農薬のように、一瞬、その土地に実りをもたらすだろうけれど、そんな土地は結局疲弊して、どんな野菜も育てられなくなる。
 獣医学部の学生、教官が今治市、愛媛県に瞬間的に集まったとしても、ほかの人たちが今治市、愛媛県を棄てて、「都会」へと出て行く。卒業する学生と一緒に出て行く人もきっといる。

 星野が意図したことではないかもしれないが、読み進むと、だんだん、いまの社会に対して怒りが込み上げてくる詩集でもある。星野は怒りを声高に訴えているわけではないが、小さな声で書かれた「批評」に揺さぶられる詩集でもある。

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チョ・ウィソク監督「MASTERマスター」(★)

2017-11-12 21:19:45 | 映画
監督 チョ・ウィソク 出演 イ・ビョンホン、カン・ドンウォン、キム・ウビン

 韓国犯罪史上最大規模の金融投資詐欺事件「チョ・ヒパル詐欺事件」を題材にしたといわれる映画。
 うーん。
 「金融投資詐欺」というのは、金融投資に無縁の私にはわからない。巨額の金が動いているらしいが、「実感」がもてない。しかも映画の中心がどうもつかみにくい。なぜ、中心が見えにくいかというと。
 詐欺集団の親分、イ・ビョンホンが「口先」だけだからだろうなあ。金融投資詐欺なのでコンピューターが「大活躍」するのだが、イ・ビョンホンはその操作にからまない。企画し、指示するだけ。でもさあ、こういうことって、コンピューター操作に熟知していないと、嘘っぽい。単なる「金集め詐欺」になってしまう。貧乏人をだまして「金儲け話がありますよ」という詐欺。それはそれでいいのかもしれないけれど、なんだか「現代的」じゃない。
 集めた金を権力者(政治家?)にばらまき、法の目をくぐりぬけ、というのは昔のままだし、紙の「帳簿」が「証拠」というのも古くさいなあ。身内(犯罪集団)のなかに「天才ハッカー」がいるからコンピューターには保存できないということなのかもしれないが、ネットに接続しないパソコンなら大丈夫じゃないのか、と私は考えてしまう。
 まあ、「ストーリー」にむりがある。
 というか、それなりに工夫をしてはいるんだけれど。
 主役はイ・ビョンホンと彼を追いつめていく刑事のはずなのだけれど、その間に「天才ハッカー」が「二重スパイ」のように介在させる。そうすることで、「人間味」を出すといえばいいのか、悪人-中間の人間-正義の味方という仕掛けを作り、「中間の人間」が両極の「人間の本質」を浮き彫りにする、といえばいいのか。
 あ、こう書くと何だかおもしろそうな映画だねえ。
 いや、「天才ハッカー」がいないことには成り立たないのだから、彼を中心にしてこの映画をつくりなおせばとってもおもしろいものになるはずなんだけれどね。それを「脇役」にしてしまったために、全体がただの「ストーリー」になってしまう。「人間」が出て来ない。「天才ハッカー」は「おまえは、とんでもない両面テープだ」みたいな批判のされ方をする。そのあたりの人間の複雑さが出ればいいのだけれど、ことばで説明されるだけだから、がっかりしてしまう。
 韓国で逮捕されそうになったので国外に逃亡し、逃亡先のフィリピンでフィリピンの政治家をまきこんでまた詐欺を試みる、というのは実際にあったことにしても、あまりにも「ストーリー」にとりつかれている感じ。ふたつの「ストーリー」をつないで、わざと「大作」をでっちあげていると言えばいいのか。
 映画の魅力は「ストーリー」ではなく、「人間」の姿なのに。人間の感情をスクリーンに拡大してみせ、その「大きさ」で観客を押しつぶすところにあるのに。
 「こんな映画をつくってはだめ」という「見本」にはなっているね。
                   (中洲大洋スクリーン2、2017年11月12日)




 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

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安倍のアジア歴訪

2017-11-12 15:33:35 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍のアジア歴訪
             自民党憲法改正草案を読む/番外148(情報の読み方)

 2017年11月12日の読売新聞(西部版・14版)の安倍のアジアでの活動(?)を伝えるニュースが、わけがわからない。1面のトップ。

習氏 相互訪問前向き/日中首脳会談 対北連携確認

 安倍と習が相互に相手国を訪問するのか。おっ、と思って読み始める。

 安倍首相は11日、ベトナムのダナンで中国の習近平国家主席と約50分間会談し、両国の関係改善に向け、首脳間の相互訪問を提案した。習氏は「ハイレベルの往来を重視する」と前向きな考えを示した。核・ミサイル開発を続ける北朝鮮への対応では、朝鮮半島の非核化に向けて緊密に連携していくことを確認した。

 これは、言いなおすと安倍が「習さん、相互訪問をしませんか」と提案したのに対し、習が「ハイレベルの往来は大切ですね」と答えたということ。わざわざ「ハイレベル」と言っているのは、「私じゃなくてもいいんじゃないの」ということ。婉曲表現だね。相互訪問は「閣僚、高級事務官で十分」ということ。もっとあからさまに言うと、「安倍が来たいなら来たら? 私は行かないけれどね」ということではないだろうか。
 せめて「訪問に向け努力する」くらいのことばを引き出さないと「前向き」とは言えないんじゃないかなあ。
 「役人」の世界では「努力する」自体が、「口先」のものなんだけれどね。「努力はするけれど、実行はしない。」それが「ハイレベルの往来を重視する」なのだから、これはもう提案が完全に無視されたということだと思う。

 TPP11 6か国承認なら発効/大筋合意 4項目なお調整

 このニュースもよくわからない。記事中に、

 カナダの他にもTPPに慎重な新政権が誕生したニュージーランドなどで、国内手続きが円滑に進むかどうかは不透明な面もある。

 カナダ、ニュージーランドは協定に慎重らしい。カナダは、アメリカ、メキシコと結ぶNAFTAで「厳しい再交渉を続けている」(3面)という。アメリカとの交渉を念頭において、突然「姿勢」を変えたようだ。カナダは、日本車の輸入国。カナダをPTTに引き入れたいのは、日本車を売るため。カナダがこのあとアメリカのように「離脱」したら、どうなるのかなあ。

 もうひとつ。「わからない」ニュースではないけれど、注目したのが2面の

日露条約「多くの課題」/プーチン氏 日米安保見極め

 というニュース。プーチンは記者会見で「日米安保条約に関する議論が日露交渉のカギを握るとの考えを示した」と言う。
 日米安保条約があるので、日露の平和条約はむずかしい。北方四島の返還なんてとんでもない。北方四島が沖縄みたいに、アメリカの基地になっては困る、ということだろう。北方四島の「無米軍基地化」だけではなく、北海道「無米軍基地化」も「確約」しないとだめだろうなあ。いま、北海道には米軍基地はないけれど、これはきっとアメリカとソ連(ロシア)の「密約」だろう。北方四島はソ連に渡す、北海道に米軍基地はつくらない、ということで「均衡」を守っている。「暗黙のアメリカとソ連(ロシア)の国境」をつくっている。「非武装地帯」をつくっているといえばいいのか。
 こういうことは、新聞ニュースにはならない。
 だから、私が勝手に妄想していることなのだけれど。

 安倍って、アジア外交で、何か「得点」を稼いだのかな?
 加計学園問題への追及を引き延ばすことができた、というのが、まあ、「利点」か。ずるいなあ。



#安倍を許さない #安倍独裁 #沈黙作戦 #憲法改正 #天皇生前退位
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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ポエムピース
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マーサ・ナカムラ『狸の匣』

2017-11-11 08:11:02 | 詩集
マーサ・ナカムラ『狸の匣』(思潮社、2017年10月31日発行)

 マーサ・ナカムラの詩を読んだのは「現代詩手帖」の投稿欄が最初である。投稿作品のなかでは「許須野鯉之餌遣り」(2016年04月号)がとてもおもしろかった。この一作で「現代詩手帖賞」という感じ。感想は、2016年04月06日の日記に書いた。(http://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005/e/b247679d8aa4a52cc268925ced8fa83c )「丑年」(「現代詩手帖」2015年07月号)もおもしろかった。「石橋」についても、感想を書いたかもしれない。
 で、きょうは違う作品の感想を書こうとしたのだが。これが、なかなかむずかしい。長い作品が多く、読んでいて「波長」があわない。もしかすると、私がおもしろいと感じているところと、マーサ・ナカムラが書きたいと思っていることが、完全に違うのかもしれない。
 
 まあ、詩とは、そういうものかもしれない。
 だから、私は「誤読」というのである。

 「おふとん」について書いてみたい。朝、目覚めたときのことを書いている。

隣に父がいない。無造作に置かれた青い枕に手を伸ばすと、薄地のパジャマが
布団の冷たさを通して、火照った喉を潤す。掛け布団が、ふうん、と、生臭い
ため息をついた。
眠ると、体から、臭い汁が出る。父と自分の体は、室温に置かれて、同じ臭い
になる。そこら中から、父の、眠った香りがする。
(お父さんには、樟脳の香りが似合うのに)

 この部分が、とても気に入った。特に「掛け布団が、ふうん、と、生臭いため息をついた。」が魅力的だ。「掛け布団」は人間ではないから「ため息」などつかない。だから、これは「比喩」なのだが、この「比喩」には「肉体」がある。
 で、このとき。
 つまり、「比喩」というものを考えるとき、私は、かなり混乱するのである。ここから「誤読」が始まるのである。

掛け布団が、ふうん、と、生臭いため息をついた。

 というとき、「比喩」は、なんだろうか。「ため息をつく」が「比喩」なのだろうか。そういう「あらわれ方」が「比喩」なのか。
 あるいは「生臭いため息」の「生臭い」が「比喩」かもしれない。「ふうん」が「比喩」かもしれない。
 何の?
 まあ、人間なのだろう。
 あれっ、そう?
 わからない。
 「比喩」をとおることで、「掛け布団」が「人間」になっている。そうであるなら、「掛け布団」が「人間」の「比喩」ということになる。
 言いなおすと、「掛け布団」を「人間」の「動き」を借りて「比喩」化すると、「比喩」をくぐり抜けた瞬間、「掛け布団」と「人間」が入れ替わり、「掛け布団」が「人間」の「比喩」になる。
 「掛け布団が、ふうん、と、生臭いため息をついた。」ということばを読んでいるとき、私は「掛け布団」ではなく、「人間」を思い浮かべている。言い換えると、

人間が、ふうん、と、生臭いため息をついた。

 と、私は知らず知らずのうちに読んでしまっている。「誤読」している。
 でも、「人間が、ふうん、と、生臭いため息をついた。」だと、詩ではないんだなあ。「主語」が「掛け布団」だから詩なんだなあ。
 「掛け布団」を人間のように感じながら、人間であってはおもしろくない。
 でも。(また、でも、なんだけれど。)
 こんなふうに、「掛け布団」なのか、「人間」なのか、そのどちらかであるという具合に、固定化するとつまらなくなるのかもしれない。
 「人間である」ではなく「人間になる」なら、「掛け布団である」ではなく「掛け布団になる」なら、どうなんだろう。
 「掛け布団」が「人間」として「生まれてくる」。そして、「ため息をつく」。あるいは、「人間」が「掛け布団」に生まれ変わって(カフカの「変身」のように、「人間」以外のもの「生まれ変わって」)、「ため息をつく」。
 そして、このとき。「人間になる」ことを支えるのが「生臭い」という、一種、否定的な感じ。「生臭い」。あ、いやだなあ、と思いながら、その「いや」な感じ、否定的な何かが、私の「いま」を否定する。破壊する。それにあわせるように、「ある」が「なる」にかわる。「否定的」であるから、逆に、その世界へすーっと入っていくことができる。吸い込まれてしまう。私自身が守っているものが破壊されて、生身になる感じ。
 こんなことで、私自身の「感じたこと」を伝えられているのかどうかわからないが。
 この「否定/いやだなあと感じること」によって、私が対象を「否定」するのではなく、逆に私自身が否定され、こわれて、生まれ変わるという運動が起きるというのは。
 そのまえの、

布団の冷たさを通して、火照った喉を潤す。

 の「冷たさ」と「火照った」という対立(それぞれが他者を否定する)ということろから始まっているかもしれない。「冷たさ」「火照った」ということばを「肉体」で反芻し、「喉」ということばがさらに「肉体」を確かなものにし、そのあとに「ふうん、と、生臭いため息をついた」ということばがつづくとき、私は、その一続きの運動を、どうしても「私の肉体の運動」と錯覚する。
 でも、もちろん書かれているのは「私の肉体」ではない。またマーサ・ナカムラの肉体でもないだろう。特定の「個人」を超える「肉体」がそこに出現しているのだと思う。「人間」を否定する「掛け布団」という「もの」が、「主語」の境目を壊してしまう。
 たぶん、こういうところに「比喩」の強さの不思議がある。

 私は詩を読みながら、「私の肉体」と「マーサ・ナカムラの肉体」を混同するのだが、詩のなかでは「愛子(詩の冒頭に出てくる主人公?)」が「父の肉体」と「愛子の肉体」を混同する。「境目」を見失う。「生臭い」息、「同じ臭い」になる。

同じ臭いになる。

 と、ここでマーサ・ナカムラは「なる」という動詞をつかっている。
 その「なる」の奥には、

眠ると、体から、臭い汁が出る。

ということがあるのだが、ここには「同じ臭い」の「同じ」が省略されている。この部分は、ことばを補うと、

眠ると、体から、「同じ」臭い汁が出る。

 であり、その「同じ臭い汁」が「同じ臭い」に「なる」なのだが、それが「同じ」と呼ばれるのは、「体」が「同じ(ひとつ)」ではなく、「愛子」と「父」という「ふたつ」のものだからである。
 「ふたつ」のものが「ひとつ」としてとらえられる、というのは「比喩」でもある。「比喩」とは入れ替え可能のものである。
 その「入れ替え」の起きている「場」が「掛け布団」なのだ。
 
 「比喩」をとおして、何かが(私と、私以外のもの)が入れ替わる。入れ替わることで「世界」が「前のままの世界」なのに、「何かが違う世界」に「なる」。それは、気持ち悪いとも言えるし、気持ちいいとも言える。
 判断できない。
 気持ち悪いも気持ちいいも、たぶん入れ替わるものなのだ。

 いま引用したあとに、

また、この臭いをかぐと、再び粘性の眠気がやってくる。

 ということばがある。「この臭い」は直前の「父の眠った香り」でも「樟脳の香り」でもなく、「ふうん」という「生臭いため息」のにおいだろうなあ。
 「眠気」という「場」が、必然として「気づかれている」という感じかなあ。

狸の匣
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藤本哲明『ディオニソスの居場所』

2017-11-10 08:38:05 | 詩集
藤本哲明『ディオニソスの居場所』(思潮社、2017年10月25日発行)

 藤本哲明『ディオニソスの居場所』の巻頭の詩、「九月一匹」に非常に気になる行がある。

有瀬潤和の
駐車場で、いつだったか六月下旬
誰だかのまき散らした吐瀉物を
カラスらしき鳥が啄ばんでいただろう

その吐瀉物と青黒いカラスを
背後から照らす朝のひかりをおまえにも見せたかった

 なぜ気になったか。いや、何が気になったか。「なぜ」の前に「何」がある。
 私は、この部分がとても好きだが、「啄ばんでいただろう」の「だろう」と、「朝のひかりをおまえにも見せたかった」の「をおまえにも見せたかった」がなければ、もっと好きになる。
 吐瀉物を食べるカラス。それを照らす朝のひかり。これは美しい。吐瀉物が美しいわけではない。これは汚い。カラスも美しいわけではない。汚い。朝のひかりは、まあ、美しいかもしれない。でも、それだけで汚いものふたつが美しいものに変わるだろうか。
 なぜ、美しいと感じたのだろう。
 「背後から照らす」ということばに、不思議な力を感じた。
 「背後から」というのはカラスの知らないところ(カラスには見えないところ)。意識できないわけではないだろうけれど、意識の外にある「絶対的」な何か、非情な何か。このときの「非情」というのは、カラスの「情」を配慮しないという意味であり、「非情」であることによって「絶対的」になっているものが、そこに「ある」ものを照らす。明るみに出す。「照らす」ことによって、「ある」を産み出している。その「産み出し方」が「絶対的」と感じた。照らされて、「もの」が絶対的になり、ひかりと拮抗する。
 「照らされて」、カラスは黒い鳥から「青黒い」にかわる。「青」が付け加えられる。それが「ひかり」をさらに「絶対的」なものにする。相乗の「運動」が起きる。この「運動」こそが「絶対」というものだ。
 そういうものを感じた。
 これに対し、「だろう」という「念押し」、「見せたかった」という「思い」が、なんとなく「不純」に感じた。「おまえ」なんかに頼らずに、たったひとりで、いま、ここに「ある」絶対と向き合えばいいじゃないか。向き合うことで、その「絶対」になってしまえばいいじゃないか、と思った。「だろう」「見せたかった」が「何を」を弱めてしまう。「もの(存在)」が、感情、意識にすりかわってしまう。
 別なことばで言うと。というのは、飛躍であり、「いちゃもん」にすぎないのだが。
 こんなところで、「おまえ」に頼るな。「他人」を出してくるな、と感じた。「他人(おまえ)」が登場すると、それまでの「絶対」が消えて、そこにあることが「関係」になってしまう。「抒情」になってしまう。昂奮が冷めてしまう。

 こういう書き方は藤本にとっては「不親切」な書き方になってしまうが。
 何と言えばいいのかなあ。詩が、「他人」の登場で「物語(ストーリー/意味)」になってしまうようで、それでは「古くさくなる」。既存の「意味」/ストーリー」にのみこまれてしまう。
 藤本自身が、吐瀉物を拾い食いするカラス、その青黒い翼になって、「絶対的」な何かによって「照らされ」るチャンスを逃してしまった。「絶対」になる瞬間を逃してしまった。

 「水没宣言」の書き出しも、とても気に入った。

うつろな焦燥から、その「焦燥。」という文
字を書きつけることに追いつかれること/も
しくは追いぬかれる希望、からも同時に逸れ
た場所で、ぼくたちは息を吸い込み/吐きま
た吸い込み、濾過されもした

 文字を書くのは「ぼく」だろう。その「ぼく」が追いつかれ、追い抜かれる。それを「希望」と感じる。この関係が「逸れる」という動詞でリセットされ、無関係になる。
 この「関係」と「無関係」は、吐瀉物を食べるカラスを照らすひかりと、ひかり照らされる吐瀉物、カラス、青黒い色の関係に似ている。相対化も固定化もできない。そこにただ「ある」。ことばによって産み出された「こと」として、そこにあらわれている。

 「物語」という「抒情」に入り込まずに、このまま「いま」を突き破っていってほしいなあ、と思う。

ディオニソスの居場所
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日本政府の「歴史感覚」(情報の読み方)

2017-11-09 10:18:20 | 自民党憲法改正草案を読む
日本政府の「歴史感覚」(情報の読み方)
産経新聞に、こういうことが書いてある。
http://www.sankei.com/politics/news/171107/plt1711070043-n1.html
 安倍晋三首相とトランプ氏は6日の会談で、北朝鮮に対し「最大限の圧力」をかけるために日米韓の連携の重要性を確認したばかりだった。日韓間の問題を持ち出して緊密な日米関係に水を差し、米韓の距離を縮めることを狙ったような韓国の動きに対し、日本政府内には「信じられない」「韓国はいったい何がしたいのか」といった強い不快感とあきれが広がっている。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
「日本政府」の関係者はノーテンキだなあ。
韓国は米国とは連携するが、日本とは連携しない。
日本はかつて朝鮮半島を侵略した。
日本人を信じない、ということをトランプに宣言したのである。
日本が朝鮮半島を侵略しなければ(第二次世界大戦を起こさなければ)、朝鮮半島の分断、民族の分断もなかったかもしれない。
少しは、「もし自分が朝鮮半島に住んでいたら」という視点で歴史を見直してみればいい。
韓国にしてみれば、日本は韓国を踏み台にして(韓国を北朝鮮との戦場として利用し)、日本の安全を守ろうとしているとしか見えないだろう。
日本の戦後復興の「出発点」は、朝鮮戦争の「軍需特需」である。
そういうことも韓国は知っている。
日本が対韓政策を根本的に変えないかぎり、韓国は日本とは連携など絶対にしない。
日米が連携するのだから、その米国と連携する韓国は日本とも連携すべきであるというのは、日本政府の「思い上がり」である。
韓国の協力が必要なら、日本は頭を下げて韓国に頼むべきなのである。
韓国人なら、そう思って当然だろう。


詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」

2017-11-09 10:16:00 | 詩(雑誌・同人誌)
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」(「交野が原」83、2017年09月01日発行)

 疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」は書き出しの二行の呼吸がとてもいい。

あの蛇口から垂れた水滴の内側まで覗いてはいけない、
なぜなら中心に赤い町が透けているのだから、

 「……いけない」「なぜなら」。禁止と、その理由。たたみかけるリズムがいい。これを受けて三行目は、こう動く。

それは不気味な不気味な、耳をすませば窓の割れる音が聞こえる、青い音の、

 「それは」ということばを利用して、世界を広げていく感じも気持ちがいい。リズムがことばを動かしている。だから、ついつい「不気味な不気味な」という「ノリ」になるのだと思う。
 ことばと肉体、論理とリズム(呼吸)が一体になっている。
 一、二行目が「覗いてはいけない」「透けて(見える)」という具合に、視覚の世界だったのが「耳」に拡がっていくのもいいなあ。せっかく「聴覚」へと肉(ことば)体の領域が拡がったのに、「青い」音と、また「視覚」にもどってしまうのは残念ではあるけれど。

僕はあれほど言われた忠告も聞かずに、ろくな睡眠もとらないまま、
今ではひらべったくなった軒下で、屈伸ばかり続けている朝、
蟻やてんとう虫がちらつく歩道に寝そべり、その水道に鼻を近づけては、
もう冷めてしまった白湯を置いて、ときどき欠伸して、
涙目になって赤い町を覗いている、水中で燃えるような赤い町、
電柱に立ち止まる子供たちはただ笑い、遠くで赤い鐘が時間を知らせている、

 うーん、「肉体」があっちへ行ったり、こっちへ来たり。散漫だなあ。強い統合力が、次々に感覚器官(肉体)を貫いて、その先に「新しい世界」が誕生するというのとは、少し違うね。
 がむしゃらに動き、息が弾んでいる感じ。
 これはこれで、若さの特権だ。

 で。

 なぜ、ここまで引用したかというと。
 「青い音」が、「赤い鐘」と変化しながらからみあっているところに、「おもしろみ」を感じたのだ。あ、これが疋田の思想か、と「誤読」したくなるのである。
 「赤い鐘」は「鐘」そのものが赤いのではなく、「鐘の音」が赤いのだと思う。そして、このとき疋田は、実は「音」を聞いていない、というのが私の印象である。
 最初、「視覚」が「聴覚」に拡がる、肉体が拡がるというようなことを書いたけれど、ここまで読んで、違うのだと感じた。疋田は「音」を聞いていない。「色」をみているだけである。いつも「視覚」へ引き返していく。「視覚」が「声」を引っぱりだすように動いている。「声」を「視覚」が急がせている。それが「不気味な不気味な」というような「リズム」をつくっている。その「リズム」は、この詩では読点「、」によって視覚化されているとも言える。
 途中に出てきた「白湯」は「さゆ」と読むだろうから、「音/声」にしてしまうと「白」は消えるが、文字の中には「白」がある。そして、この詩の中にはこのあと「白濁」ということばも出てくる。疋田は、赤、青、白を、見ている。
 それは「分光」かもしれない。
 プリズムを通って光が分解する。そんな感じで、「水滴のなかの町」を分解し、見ている。
 見る/見えるということ、視覚(目)にこだわりがあるのかもしれない。
 この「視覚」至上主義が、「……いけない/なぜなら」という「論理」でもう一度統合し直されるとおもしろいだろうなあと感じた。まだ、「色理論」が生まれていないが、もしかすると、と期待したくなるのである。





歯車vs丙午
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トム・フォード監督「ノクターナル・アニマルズ」(★★★+★)

2017-11-08 21:16:41 | 映画
監督 トム・フォード 出演 エイミー・アダムス、ジェイク・ギレンホール

 これは反則映画である。
 映画のなかで主人公(エイミー・アダムス)が、別れた夫(ジェイク・ギレンホール)が書いた小説(ノクターナル・アニマルズ)を読む。小説は「映画」として描かれている。エイミー・アダムスの「頭の中」、小説を読んで思い浮かべる「情景」が「映画」として描かれている。
 こんな反則は、いけない。
 どっちが「映画」なのか、わからない。
 小説を読んでいるエイミー・アダムスが映画なのか、別れた夫との関係が映画なのか、それとも小説を再現した部分が映画なのか。しかも、「現実」の別れた夫と、再現映画の主人公をジェイク・ギレンホールが演じるので、とてもややこしくなる。
 エイミー・アダムスが主人公を想像するとき、ジェイク・ギレンホールを重ね合わせただけなのか、「現実のジェイク・ギレンホール」は小説の中の主人公を「自分」と重ね合わせて書いているのか。エイミー・アダムスが「小説の主人公」と「現実ジェイク・ギレンホール」と重ねるとき、その小説に出てくる「妻」と「娘」はどうなるのか。エイミー・アダムスとほんとうの娘なのか。
 小説のなかでは妻と娘はレイプ魔に殺される。そのためにジェイク・ギレンホールは苦しむのだが、現実にあったことは、エイミー・アダムスがジェイク・ギレンホールのこどもを堕胎する。生まれるはずの「娘」を殺したのは、「現実」の世界ではエイミー・アダムスであり、彼女は生まれるはずの「娘」を殺すことでジェイク・ギレンホールを殺したとも言える。(愛を葬り去った。)小説の中のジェイク・ギレンホールの姿を追いながら、エイミー・アダムスは隠し続けてきた彼女の「殺人」に出会ってしまう。それは「意識」のなかの「殺人」である。
 この「意識」を中心に「全体」を見渡しなおすと、「現実のジェイク・ギレンホール」は「現実のエイミー・アダムス」の「殺人(堕胎)」に対しての復讐をするために、小説を書いていることになる。(復讐は、映画の途中で「リベンジ」という文字として登場してくる。)小説のなかでは、ジェイク・ギレンホールは妻と娘を殺したレイプ魔を殺している。
 という具合で。
 映画は、「現実」と「小説/小説の映画」は交錯しながら、登場人物の(エイミー・アダムス、ジェイク・ギレンホール、レイプ魔)の関係を微妙にずらしながら重ね合わせる。「意識」がまじりあう。「小説の映画」のなかの登場人物が、実際は誰を「象徴」しているのか、わからなくなる。どう解釈しても、その解釈が成り立つようになっている。
 この「重ね合わせ」と「ずらし」を、「小説映画」のなかの映像(エイミー・アダムスの想像)と「現実の映像」をシンクロさせる形で強調する。小説のなかで殺された妻と娘の向き合った裸は、現実の娘(新しい夫との間の子ども)が男とセックスし、抱き合っている姿と重なるという具合に。
 とても巧妙である。
 そして、この「重ね合わせ」が素早くできるようにするために、「小説」の舞台をテキサスの荒野にしたところが、また、とても「ずるい」。反則ではないが、反則であることを確信して、映画をつくっている。誰もいないハイウェー、その暗いだけの道。そこで起きる「事件」は、「目撃者」がいない。だから、それは「空想」かもしれない。それこそ「小説」であって、現実ではないかもしれない。「意識」のなかで、ことばがストーリーをつくっているだけなのかもしれない。「意識」だから、すべてが簡単に「交錯」し、また入れ替わる。
 こういうことができるのは、繰り返しになるが、情報量が少ないからである。映像がシンプルである。だから簡単に重ねあわさるのだ。都会のハイウエーで起きた「レイプ」なら、こんな具合にはいかない。
 この情報量の少なさは、エイミー・アダムスの「仕事」を、なんだかよくわからない現代アートにしたことによって、さらに効果的になっている。逆手にとっている、ともいえるなあ。「現実」の映像が、シンプルで、奥行きがない。とても「豪華」であるのだけれど、「余剰」がない。

 どうも、どこまで「反則」が可能か、を追及した映画のようにも見える。映画そのものはふつうの娯楽映画なのだが、この手の込んだ「反則」と、真剣に「反則」をしかけてくるつくり方に★を一個追加した。最後の最後、小説に感動した(?)エイミー・アダムスがジェイク・ギレンホールをデートに誘うのだが、その誘いに「いく」と答えながら姿をあらわさないところなど、「反則」の仕上げとして最高によくできている。「来ない」ということは、見ていれば誰にでもわかるのだが、その誰にでもわかるところに「幕」をもっていくというのは、「反則」の結末としてとてもいい。
(KBCシネマ1、2017年11月01日)



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Happinet(SB)(D)
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