詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「自分たちでまいたタネ」

2018-02-21 12:09:23 | 自民党憲法改正草案を読む
「自分たちでまいたタネ」
             自民党憲法改正草案を読む/番外180(情報の読み方)

 「週刊現代」(2018年03月03日号)が秋篠宮家の真子と小室圭の「結婚延期」の裏側(?)を特集している。ふたりの結婚がどうなるか、私は関心がないが、特集の三本目の記事が気になった。

宿敵 安倍官邸vs宮内庁 「身体検査ミス」を巡る暗闘

 という見出し。
 小室圭がどういう人間なのか、身辺調査をしなかった(?)、家庭環境などに問題がないかを徹底しなかったために、問題が生じてきた。小室の母親の借金(母親は否定)が、結婚の妨げになっている。
 官邸と宮内庁のどっちに責任がある?ということで対立しているということらしいが。
 うーん。
 憲法では、

第24条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 となっている。
 皇室典範の規定では、

第十二条 皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。

 これを読むかぎり、ふたりが結婚するかどうかはふたりの問題。母親の借金なんか、関係ないなあ。母親に借金があれば、結婚できない、という法律が別個にあるのかな?

 で。
 このことに関して、

 安倍は、「自分たちでまいたタネでしょう」とつぶやいたという。(47ページ)

 「伝聞」の形だが、そう書いてある。
 それに先立って、こういう文章がある。

 ある官邸幹部は、こう証言する。
「小室圭さんの一家のことは、官邸や警察庁も情報収集をしていたんですよ。父親の自殺や、一族に新興宗教の信者がいたことなど、いろいろ問題がありそうだ、というニュアンスは、早い段階で宮内庁に伝えていました」

 これを読むと、宮内庁は「情報」を知っていたが適切に対処しなかった。宮内庁に問題があると官邸幹部が指摘している(批判している)ように読めるが。
 「早い段階で宮内庁に伝えていました」って、「宮内庁の関係者」ではない「官邸幹部」が、どうして知っている? 官邸には「宮内庁に伝えていた」ということが報告されている。つまり官邸も知っていた、ということになる。
 官邸も知っていたが、何もしなかった。
 なぜか。
 「真子、小室圭の結婚について何かあれば、それを利用できる。皇室を支配するのに利用できる」
 そう考えて、成り行きを「監視」していたのではないのか。
 「天皇の悲鳴」で、安倍が、天皇の「発言」そのものを政治に利用していることは書いた。利用するために、発言の時期を操作していることも書いた。
 同じように、今回のことも安倍が、皇室を操作するためにねらったことなのだろう。
 それが、

「自分たちでまいたタネでしょう」

 という発言になったのだと思う。
 「皮肉」というか、つめたく突き放したこの発言から、そういうことがうかがえる。
 「つぶやいた」のだから、公式発言ではないのだが、こういうときって、ふつうは「どうなるのかねえ、心配だね」くらいのことしか言わない。
 首相のような立場にあれば、「結婚は両人が決めることですのでおふたりにまかせるしかありません。お見守りしています」というのかなあ。
 「自分たちでまいたタネ」には「いいきみ」というような響きがあるよなあ。「私はわかっていたんだ」という感じも。
 知っているのに、何の助言もしない、というのは「ずるい」ねえ。

 


#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(9)

2018-02-21 11:17:26 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(9)(創元社、2018年02月10日発行)

 「きいている」は一連目がつぎつぎに変奏されていく。「音楽」を聞いているみたいに、自然にそのリズムの中にとけこんでゆく。

あさ ことりがうたうとき
きいている もりが

ひる かわがうたうとき
きいている おひさまが

よる うみがうたうとき
きいている ほしが

 「あさ」「ひる」「よる」と時間も予想通りに進む。「うたうとき」「きいている」という動詞の向き合い方も、きちんと引き継がれている。
 「あさ」「ひる」「よる」のあとは、どうなる?
 ここから「転調」する。

いつか きみがうたうとき
きいている きみをすきになるひとが

きょう ちきゅうがささやくとき
きいている うちゅうが

あす みんながだまりこむとき
きいている かみさまが

 「うたうとき」が「ささやくとき」にかわり、さらに「だまりこむ」にかわる。
 「起承転結」でいうと「うたう」からはじまり、「ささやく」とひきつぎ、「だまる」でおおきく転換する。「声」がだんだん小さくなるから、自然に聞いてしまうけれどね。
 「ちきゅう」と「うちゅう」が出てくるところが、谷川らしいなあと思う。
 で、「結」は?

ねこのひげの さきっちょで
きみのおへその おくで

 「音」が消えてしまう。「だまりこむ」で消えているとも言えるけれど、「だまる」には、「だまる」前の「声」がある。
 でも、この二行には「声」がない。
 同時に、それまでの「……するとき/……している」ということばの運動の「対」構造も消えている。
 「……するとき/……している」という構造は「意味」とも言い換えることができる。「意味」が消えて「無意味(ナンセンス)」になっている。音だけが響く。これが「音楽」かもしれない。
 なんとなく、笑いたくなる。
 「さきっちょ」とか「おへそ」ということばもくすぐったい。

 これ以上、「意味」を探したくない。やたらと「意味」を求めて、ことばをついやしても、どこにも辿りつけないだろう。
 ただ、あっと驚き、くすっと笑えばいいのだろう。

 わかっているのだが、私は少し書きたい。
 いま書いたことからは脱線するのだが。

あす みんながだまりこむとき
きいている かみさまが

 この二行。「意味」はわかる。でも、私はこの二行が嫌いだ。
 「かみさま」と谷川は書いているが、谷川は「かみさま」を信じているのか。そして、もし「信じる」というのなら、それは「存在」を信じているのか、「力」を信じているのか(特別な神を信仰しているのか)、そのことが私にはよくわからない。
 ここでの「かみさま」は「存在」でも「力」でもなく、「概念」のような感じがする。ただ、そういうものをあらわす「ことば」がある、という感じ。
 もし「かみさま」が「概念」なら、それまで書かれている「ことり」も「もり」も、「かわ」も「おひさま」も「概念」になってしまう。
 最終連の二行で「意味」を否定し、ナンセンスになっているが、その瞬間、それまでのことばはナンセンスを支えるための「意味」になってしまう。「ことり」も「もり」も「実在(現実)」ではなく「概念」になる。
 「ねこのひげ」「きみのおへそ」が「実在(現実)」だから、それでいいのかもしれないが、どうもはぐらかされた気になる。
 私が「神」とか「魂」とかいうものの存在をまったく感じない人間だからかもしれないが。





*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
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2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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自民党議員改憲条文案(だれが、主語なのか)

2018-02-20 12:44:01 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党議員改憲条文案(だれが、主語なのか)
             自民党憲法改正草案を読む/番外179(情報の読み方)

 2018年02月20日読売新聞(西部版・14版)が3面に「自民党議員改憲条文案」を紹介している。

9条2項維持 集約図る/武力行使の範囲 焦点

 という見出し。
 自民党議員から「自衛隊の根拠規定を明記する条文案」を募集していたが、それを締め切ったという。3月25日の党大会までに安倍の提唱した「9条2項を維持する案で意見を集約する」という。
 問題は幾つかあるが、最大の問題は、安倍が「条文案」を明確にしていないこと。提唱者(主導者)が知らん顔をしている。批判の矢面にたつのを避けている。「議論は党内でやっている」、あるいは「憲法審査会で議論を尽くした」と言い逃れるつもりである。あくまで「他人が(しかも複数の議員が)決めたことであって、自分は関与していない(文言に対する説明責任はない)」と言い逃れるつもりである。
 先日、「働き方改革法案」をめぐる資料のでたらめさが明らかになった。このときの対処も「資料をつくったのは私ではない。厚労省が間違っていた」と他人に責任を押しつけている。そういうでたらめを見過ごしてきた厚労相は責任をどうとるのか。さらには、その厚労相を任命した安倍の責任はどうなるのか。「私はだまされた」というような、被害者を装った対処方法は問題がある。だまされたのは安倍ではなく、野党議員であり、国民である。
 同じことをしようとしている。問題があれば、「それは私の責任ではなく、審議してきた議員の責任である」と言い逃れるために「条文案」を募集したにすぎない。

 安倍の意向を汲んだ「9条2項維持案」の文言は次のようになっている。(番号は私がつけた。)一つずつ点検していく。

(1)3項を追加し、「前項の規定は、自衛のための必要最小限度の実力を保持することを妨げない」と明記。(片山さつき)

 この案には「自衛隊(組織)」を明示することばがない。9条は「日本国民は、」と書き出されている。主語は「日本国民」である。国民のひとりひとりが「自衛のための必要最小限度の実力を保持する」という意味になる。これでは「自衛隊」ではなく、ひとりひとりの「自衛する力」である。でも、片山は、そういうことを言いたいのではない。
 つづく文言に、「保持することを妨げない」とある。「妨げない」の主語が「国民」である。「だれかが」「自衛のための必要最小限度の実力を保持する」ということを国民は、「妨げない」という意味である。
 ここから考え直すと「保持する」の「主語」は「内閣(あるいは内閣総理大臣)」である。「国民」が「主語」の9条で、突然「内閣(あるいは内閣総理大臣)」が「主語」として登場する。これは、憲法の構成上おかしい。憲法は、天皇、戦争放棄、国民、国会、内閣、司法の順で書かれている。その順序を破っている。
 片山の案には「主語」はふたつある。そのひとつ「内閣(あるいは「内閣総理大臣)」はとても巧妙に隠されている。これは、いかにも「頭」がいい人間が考えそうな「わな」である。こんなふうにして「安倍内閣総理大臣」を隠して行動すると、安倍に大事にされるようである。
 安倍の「意向」を忖度し、ことばを補えば、いいかえると、露骨に言いなおすと、

 前項の規定は、自衛のための必要最小限度の実力を「内閣(あるいは内閣総理大臣が)」保持することを、「国民は」妨げない(という意味である)。

 になる。
 昨年6月に自民党改憲推進本部がつくった「たたき台」(西日本新聞に載っていた)と類似している。
 それには、こうあった。

9条の2 ①前条の規定は、我が国を防衛するための最小限度の実力組織としての自衛隊を設けることを妨げるものと解釈してはならない。
 ②内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮権を有し、自衛隊は、その行動について国会の承認その他の民主的統制に服する。

 ①の「我が国を防衛する」を「自衛」と言い直し、「最小限度の実力組織」から「組織」ということばを削除し、「自衛隊を設ける」を「実力を保持する」と言いなおしている。「妨げるものをと解釈してはならない」としてしまうと「だれが解釈するか」ということが問題になるので、「解釈してはならない」を省略し、「主語」を見えにくくしている。
 ②に露骨に出てきた「内閣総理大臣」を、完全に条文から隠してしまって、問題点を見えにくくしている。
 比較すると、片山案が、いかに「巧妙なわな」をはりめぐらしているかがわかる。
 読売新聞は、この片山案を最初に掲げているが、それはもっとも「安倍案」に近いからだろう。

(2)3項か「9条の2」を追加し、国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための組織を置く」と明記。(三宅伸吾)

 「自衛のための組織」という文言が出てくる。「自衛隊」を言いなおしたものだ。しかし、「自衛隊」がそれにあたるかどうかは、これだけでは言えない。「警察」や「海上保安部」なども「国の平和と安全を維持する」組織と定義できる。「組織」が具体的に何かを示していない。隠している。
 また、この案でも「だれが」組織を置くなのか、「置く」という動詞の「主語」が隠されている。国民のだれか(ひとりひとり)が「組織を置く」ということはできない。「内閣が」という主語が隠されている。
 この案では、9条の(そして憲法全体の)主語である「国民」が存在しない。消されてしまう。国民不在の憲法になる。

(3)3項を追加し、「我が国の平和と安全、国民の生命、財産を守るため、必要な自衛の措置をとる内閣総理大臣を最高指揮官とする自衛隊を保持する」と明記(坂本哲志)

 この案は、昨年6月の「たたき台」の案をていねいに踏襲している。「内閣総理大臣」を明記し、安倍にすりよっている。「平和、安全、生命」につけくわえて「財産」と書き込んでいるのが、ごますり加減を露骨にあらわしている。「経済」さえよければいい、「経済最優先(金持ちがもうかることが最優先)」の「アベノミクス」を踏まえての条文である。
 この坂本案に、憲法の「主語」である「国民」をつけくわえると、どうなるか。

我が国の平和と安全、国民の生命、財産を守るため、必要な自衛の措置をとる内閣総理大臣を最高指揮官とする自衛隊を保持する。「これを、国民は認める」

 日本国憲法には、たとえば「19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」という具合に、テーマ(思想の自由)を提示し、テーマを「これを」という具合に言いなおしている。
 その文体を踏まえると、坂本案は、そうなるのだが、ここでまた問題が起きる。
 憲法は国民の「権利」を保障し、国家権力の行使に制限を加えるものである。国家権力を拘束するものである。19条でも、国家に対して「これを侵してはならない」と言っている。
 「これを、国民は認める」では、「これを、国民が認めなければならない」になってしまう。「文体」が巧妙にずらされ、国民を拘束することになる。
 9条2項の「国の交戦権は、これを認めない」(国民は、国の交戦権を認めない)と完全に矛盾する。国の権力を拘束する(権力を認めない)のが一貫した主張なのに、ここでは「認める」になっている。「認める」は言い換えると「認めさせる」である。「独裁」である。

(4)3項を追加し、「前2項の規定は、自衛権の発動を妨げない」と明記。(長尾敬) 

 長尾案は、「主語」を国民ではなく、「条項」(文言)そのものにしている。抽象的である。だからわかりにくいが、ここでも「国民が主語」であることが、ないがしろにされている。「国民」を削除して、「条文」(文言)に限定して整合性をとっているにすぎない。
 また「自衛権」の明記は「自衛隊」を明記することとは違う。

(5)9条に手を加えず、内閣の構成などを定めた66条2項に「内閣は自衛隊を自衛のための実行組織として有することができる」との文言を追加(寺田稔)

 寺田案は「裏技」のようなものだ。つまり、国民をだますことだけをねらっている。憲法自体の「整合性」という点では、いちばん「問題点が少ないと思う。9条で「戦争を放棄する」、しかし66条で「自衛組織(自衛隊)を内閣は組織する、指揮する」。
 しかし、なぜ、「自衛隊」だけが、ここに明記されなければならないのか。警察や海上保安部なども「自衛組織」にあたるのではないのか。

 9条2項を削除する案も二つ紹介されている。

(6)2項を「我が国の独立と平和及び国民の安全と自由並びに国際社会の平和と安定を確保するため、陸海空自衛隊を保持する」と改正する。(石破茂)
(7)2項を「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を守るため自衛隊を保持する」などと改正。(衛藤征士郎)

 (6)(7)は、これだけを読むと、単純に「自衛隊を保持する」と書き加えるだけのように見えるが。
 現行憲法と比較すると問題点が明確になる。
 現行憲法9条2項は、こうなっている。

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 (6)(7)に共通しているのは「国の交戦権は、これを認めない」が削除されていることである。逆に言うと、国夫交戦権は、これを国民は認める。主語の国民を補うと、自民党の案はどれもこれもデタラメ、国民をごまかすだけの文言である。
 現行憲法は9条1項で「国権の発動たる戦争」は「永久にこれを放棄する」(日本国民が政府に対し戦争を放棄させる)と明言している。その上でさらに「国の交戦権は、これを(国民が)認めない」と補足している。
 (6)(7)では、やはり「主語」の「国民」が消えている。「陸海空自衛隊」を「保持する」の「主語」はだれなのか。「国民」を消し去って、だれが「主語」になろうとしているのか。

 9条の改正は、「主語」をだれにするか、が問われている。
 「国民」が「主語」なのか、「内閣総理大臣」が「主語」なのか。
 「国民を守る(平和を守る)」という美しいことばで、「独裁」が準備されている。独裁者が独裁を強固にするために、戦争をする。そのために憲法が改悪されようとしている。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 

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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(8)

2018-02-20 12:20:06 | 詩集
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(8)(創元社、2018年02月10日発行)

 「26」には「生」と「死」が出てくる。「死」の意識によって「生」が輝く。輝きに満ちた「生の日々」、それこそが「私の墓」なのだ、というちょっと複雑な構造の「意味」が動いている。複雑というよりも、「理屈っぽい」かもしれない。「理屈(論理)」だから「完結している」。つまり「正しい」、あるいは「間違いがない」。
 でも、こういうことって、窮屈だよなあ。

 で、きょうの私は「理屈(論理)」が始まる前の一連目についてだけ感想を書く。

ささやかなひとつの道を歩き続けると
やがて挨拶の出来る親しいものが増えてゆく
小さな歌をうたっていると
うたっている間の幸せが私のものだ

 なんだかうれしくなる。歌を歌いながらなんでもない道を、どこへ行くともなく歩いてみたい気がする。きょうは天気がいいし、気持ちが晴れやかになりそうだ。
 「歩き続ける」の「続ける」がいいんだろうなあ。「続ける」と「同じ」ではいられなくなる。最初は「挨拶」できなかったもの、よそよそしいものが身近になってくる。親しいものになってくる。それが増えてくる。この変化は、「私」そのものの変化だ。私以外のもの(他者)がかわるのではなく、「私」がかわる。私が私でなくなる、というのは楽しい。
 最初の二行の、どこまでも動いていく感じは、ゲーテを思わせる。ゲーテの詩を読んだのはもう五十年以上も前のことなので、何も思い出せないが、ことばのリズムとういか、スピードが快活で気持ちがいい。どこまでもこのまま動いて行けそうな軽やかさ、疲れを知らない力がある。
 それにつづく二行もおもしろい。「うたっている間のしあわせ」というけれど、この「うたっている」と「間」と「幸せ」は、どう違うのだろう。どこで区別ができるのだろう。私には「ひとつ」に見える。ついでにいうと、その三つに「私」も加わって「ひとつ」。
 「うたっている」という「動詞」が「私」、「うたっている間(時間)」が「私」、「幸せ」が「私」。区別ができない。区別がない。それなのに、それが別々のことばになって溢れ出てくる。
 書き出しの二行も同じことだ。「ささやか」は「ひとつ(の道)」であり、「歩く」も「ささやかな」行動である。何か目的があって歩くのではなく、目的はあるかもしれないが「ささやか」。それを「続ける」。何が何でも続けるのではなく、「ささやか」に続ける。「やがて」も「ささやかな」時間、つまり何時間とかわざわざ区切っていうようなものではない。「あいさつ」も「ささやか」だ。「親しさ」も「ささやか」だ。
 「ささやか」が増えて、それが溢れだす。「歌」になる。「うたう」という動詞になる。「歩いている」のか「うたっている」のか。区別がない。「あるきながら、うたう」。ひとは、同時に複数のことができる。この不思議な「肉体の拡大」の瞬間。これは「ささやかな/幸せ」かなあ。

 そういうものが、区別のつかないもの(和音)となって「ひとつ」になって、溢れてくる。そういうものを、私は、聞く。私に聞こえる。




*


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瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
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法学館憲法研究所編『日本国憲法の核心』

2018-02-19 11:42:01 | 自民党憲法改正草案を読む
法学館憲法研究所編『日本国憲法の核心』(日本評論社、2017年05月03日発行)
             自民党憲法改正草案を読む/番外178(情報の読み方)

 「憲法」は中学のときに社会科の授業の中で読んだ。それ以来、つい最近まで読んだことはなかった。「法律」に関しては何も読んだことがない。
 これは、しかし、私が不勉強というよりも、当たり前のことなのだと思う。
 憲法も法律も意識しないで生きる。これがふつうの暮らしである。知らなくていいのが憲法と法律だ。
 憲法は「国家権力を縛るもの」。権力と縁のないところで日々の暮らしに悩んでいる人間には何の関係もない。守る必要のないものである。何も知らなくても、弱者(権力者ではない人間)を守ってくれるのが憲法である。
 法律のいちばん身近なものに、交通法規がある。正しくは何というか知らない。私は目が悪くて車の運転をしない。免許も持っていない。知っているのは、青信号を守っていれば私の安全は保障されるということだけである。事故に遭ったら、私に責任があるのではなく、赤信号で進んできた車にある。詳しいことは何も知らなくも、弱者を守ってくれるのが法律である。
 逆に言うと、「力」を行使する立場にないかぎり、憲法とか、法律なんて、ぜんぜん知らなくていいのだ。
 銃刀法なんていうのは、名前は聞くが、ぜんぜん関係ないでしょ? 猟師にでもならないかぎり、知る必要がない。包丁や鋏も凶器になるかもしれないが、「危ないから気をつけなさい」という注意を子供のときに聞くだけで、まあ、関係ないねえ。

 で、何が言いたいかというと。
 私は2016年に、ふと思い立って「自民党の憲法改正草案」を読んでみた。好き勝手に他人の悪口を書きたいから、「表現の自由」がどう書かれているか、気になったのだ。それから夏の参院選。ここで、社会の異常さに気づいた。とても静かなのだ。選挙なのに、だれもがもう結果を知っているという感じ(シナリオが決まっていて、みんな、自分に割り振られた役を演じているという感じ)なのだ。
 これは、おかしい、と思い、急に「政治」について語りたくなった。憲法について語りたくなった。憲法が「私を守ってくる」よりどころではなくなる、と心配になった。
 で。
 これは異常なことだ、と私は思う。
 私は「政治」には何の関心もなかった。学生時代は、いわゆるノンポリだった。だから、何も知らない。その何も知らない人間が、これは危ない。自分で憲法について考え、自分の意見を言わないと、自分を守ることができないという恐怖感を感じるというのは、どうみてもおかしい。
 憲法、法律が、弱い人間を守らない、逆に弱い人間を支配するようになっているのは、絶対におかしい。

 こんな感覚で、少し勉強しようかなと思うと、しかし、すぐにつまずく。
 「憲法学者」がいろんなことを書いている。主張している。それぞれの「論理」はみんな正しい。「完結している」。完結しているから「正しい」としか言いようがない。
 ここはおかしい、と感じても(自分の意見を言ってみても)、通じない。学者は「自分の論理的の正しさ」に引き返していってしまう。「論理の正しさ」から抜け出さない。実際に何か言ってみたわけではないが、読むと、そういうことを感じる。
 これは、なんだか、つらいね。
 頼りにしている人が、頼りにならない。

 でも、そうでもないかもしれないと、この本を読み始めて思った。。

 最初の対談で「日本国憲法の核心をみる」で浦部法穂と森英樹が語り合っている。そのなかで「戦争法案」さなかのシールズと高齢者の「連携」について語っている。森は、高齢者の戦争への不安感を語ったあと、こういう。

 森 これでは死んでも死にきれない。そういう感覚、感性のようなものがあの運動なり反対の声のベースにあるとすれば、それがこまかい理屈を跳ね飛ばして、戦争法と呼ばれた法案の危険性を見事に見抜いていました。(略)
 浦部 そういう感覚、感性は大事にされるべきなのに、政治の世界では「そんな感情論では何も進まない」と言われて、その感覚・感性にどう応えるかという議論はそれ以上には進まないわけです。それは、学問の世界でも同じで、そこに学問の一つの限界があるような気がします。

 この「自覚」があるなら、「論理の正しさ」に引きこもるのではなく、「細かい論理の正しさ」を跳ね飛ばして、いま必要な論理を組み立てなおしてほしいと思う。安倍の改憲に立ち向かうために、「正しさが確立された自分の論理」にこだわるのではなく、もっといま起きていることから論理をつくっていってほしい。どういう論理のつくり方があり、どういうことばの展開の仕方があるか、という「手本」になるようなものを、ぜひ、示してほしいと思う。

 で、その「一例」を実は、私は、この対談で見つけた。あ、これは「つかえる」と思った「論理」に出会った。
 首相の「解散権」に触れた部分である。
 森は、解散権が首相の専決事項であるというのは「異常」だと異議を唱えている。首相が、いつでも自分の都合で解散できるのなら、議員は時間をかけて議論ができない。それをこういうふうにことばにしている。

森 熟議デモクラシーのためにも、任期の間は自分の身分を保証された上で議論ができることを、すくなくとも慣行として確立しておかないと、まともな審議なんてできません。

 これをこのまま「解散権」にぶつけても、きっとはね返されてしまう。
 でも、これを「緊急事態条項」と組み合わせればどうだろうか。
 いま自民党が検討している改憲案の一部に「緊急事態」が先取りされている。「緊急事態」が起きたとき、議員の任期を延期できる(選挙をしないで任期を継続する)という案がある。
 もし、「緊急事態」に議論(議会)が重要だというのなら。
 「緊急事態」ではないいま、平和なのいまこそ、もっと議論を重ねるべきである。結論を急ぐ必要はない。任期を気にしながら議論するのではなく、任期を保障して、任期いっぱい議論する。「会期」も気にしないで、どこまでも議論する。
 自民党の「改憲案」を借りて、「現実」を改良するのである。「現実」がそういうふうに改良されたなら、そういうことが「慣行」になったなら、緊急事態時に議員が任期を継続するということは「必然」として受け入れられるが、そうでないなら、それは「議席を維持するための口実」である、という具合に論を展開できるはずだ。
 ここからさらに、森友学園、加計学園、佐川問題の「議論」を要求していくことができる。国民を不満を吸収する形で何かができる。
 こまない理屈は抜きにして、「どうして議論しないんだ」という不満を集める「論理」がつくれるはずだ。もし議論をしないのなら、「緊急事態の議員の任期延長」も議論をしないための方法、安倍が独裁を強固にするための方法であると国民に知らせることができる。
 一石二鳥の「論理」になるはずだ。

 「集団的自衛権」について語り合っている、次の部分もとても強烈である。

 森 「敵」とされる勢力が日本と戦闘状態になれば、多くの日本人は殺されます。個人の尊重、人間の尊厳という憲法的価値の観点にたてば、その人が殺されたらその人の憲法的価値はそれでもう終わりです。隣人や友人が、まして日本政府が「仕返し」してくれても何の意味もありません。(略)
 浦部 それは私がずっと言っていることで、「攻められたらどうする」というけれども、「攻められたら終わりだよ」と。
 森 終わりだよと、学界の議論としてもはっきり言ったらいい。
 浦部 攻められたら終わりなんだから、「攻められたらどうする」ではなく「攻められないためにどうするか」を考えなければならない。

 「憲法的価値」という「堅苦しい」ことばがある。「個人の尊厳」というようなことばも「省略」して、

殺されたらおしまい。だれが仕返ししてくれても生き返れるわけじゃない。

 こういう「声」を一般の国民の間で出してもらいたいなあ。
 憲法学者としては、いろいろ言い分はあるだろうけれど、そういう細かい「正しさ(論理)」は国民は必要としていない。
 殺されたらおしまい。だれが仕返ししてくれても生き返れない、
 という叫びを「学者」がそばでいっしょに叫んでくれることが大事なのだ。有名な憲法学者が私と同じことを言ってくれている、ということが「力」になる。

 そういうことを思った。
 「殺されたらおしまい。だれが仕返ししてくれても生き返れない」という単純な言い方(私が省略しすぎているかもしれないけれど)で「憲法」を語る学者がいるということを知ることができたのは、とてもうれしかった。


#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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 「不思議なクニの憲法」の公式サイトは、
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日本国憲法の核心―改憲ではなく、憲法を活かすために
法学館憲法研究所
日本評論社
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(7)

2018-02-19 09:07:13 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(7)(創元社、2018年02月10日発行)

 「53」には「言葉」と「沈黙」が出てくる。「言葉」は「人間」、「沈黙」は「自然(樹や草)」と言い換えられる。そのとき、「私」と「自然」は対比させられる。「言葉」と「歌」の対比があり、「沈黙」と「答え」の対比があり、「病んでゆく」と「健やか」の対比もある。
 対比の中で、「意味」が動く。

影もない曇った昼に
私は言葉の病んでゆくのを見守っていた
むしろ樹や草たちに私の歌はうたわれ
憧れはいつも地に還った

 二行目の「病んでゆく」「言葉」はだれのことばだろうか。「私の言葉」か「言葉」そのものだろうか。三行目に「私の歌」があるから「私の言葉」と読むことができる。では、このとき「病んでゆく」とはどういうことか。対比されている「歌」と比較すると「歌」ではなくなるということが「病む」になる。この「歌」はしかし「私の歌」と書かれているが、実際には「言葉」にならなかった何かである。「樹や草」は「言葉」はもたないが「うたう」ことができる。「うたわれるもの」が「歌」であり、それには「言葉」がない。「言葉」がないから「病む」ということもなく、「憧れ」のように純粋なまま、「地に還る」。自然にもどる、ということか。
 「言葉が病んでゆく」のを「見守る」。同時に、「言葉にならない歌」を「憧れ」として見ている、ということもできる。「憧れ」は「歌」にある。
 もっと、ほかの読み方もしてみなければならないのかもしれないが、一連目では、ここまで考えた。

始め不気味な沈黙から
私たちは突然饒舌の世界にとびこんでしまう
言葉は人の間で答をもつしかし
人のそとで言葉はいつも病んでゆく

 一連目の「私は言葉の病んでゆくのを見守っていた」はここでは「人のそとで言葉はいつも病んでゆく」と言いなおされている。(補足かもしれない。)この「言葉」を「私の言葉」と仮定して読むと、「人のそとで私の言葉はいつもやんでゆく」ということになる。「そと」で病んでゆくのなら、「うち」ではどうなのか。「うち」ではまだ「病んでいない」。しかし、「私のうち」にあるとき、それは「言葉」と言えるのか。「言葉」はだれかが聞き取ったとき「言葉」になる。「私のうち」にあるときは「言葉」ではない。
 「そと」とは、しかし、簡単に「うち」と対比できない。谷川は「そと」を「うち」と対比してつかっているかどうか、よくわからない。ここでは「うち」ではなく「間」という表現がある。「言葉は人の間で答をもつ」。「うち」ではなく「間」。「間」とは何か。「答をもつ」という言い方の中に手がかりがある。「言葉以前のもの」が「うち」にある。それは「言葉」となって「そと」に出て行く。「そと」に出ていって、「私」と「だれか」の「間」で「言葉」として受け止められる。受け止められたものを「答」という。しかし、「答」になってしまうと、それは「病んでいる」という状態になってしまう。「言葉になる前」の「歌」の「自然」が消えてしまう。失われてしまう。
 二連目の一行目にある「沈黙」とは何を指しているか。どういうことを言い表わしているか。「言葉以前の何か」が動いている場が「沈黙」である。樹や草がうたうような「歌」としての「言葉以前の何か」が動いている場。
 三連目で言いなおしている。

すべてがそこから生まれてきた始めの沈黙の中に
なお健やかな言葉を
私も樹や草のようにもちたいのだが--

 「すべてがそこから生まれてきた」。「そこ」にあるときは「言葉以前」、「そこ」から生まれると「言葉」になる。「沈黙」と呼ばれているが、「そこ」としか言いようのない場。谷川にははっきりと、その「肉体のうち」がわかるけれど、それは「そこ」としか呼べない。だから、谷川以外の読者には「そこ」が「どこ」かは、わからない。
 「沈黙」だから、ことば、言い換えると「名前」をもたない場である。「そこ」としかいえない場である。
 「沈黙」と名づけた「そこ」で、谷川は「病んでいない言葉」「健やかな言葉」をもちたいといっている。「樹や草のように」と言っている。「言葉」にしないまま、「歌」のままに、もちたいと。
 「歌」は「言葉」のないもの。ことばをもたないままに動き「音の動き」。「歌」とは「言葉のない音楽」のことか。

どんな言葉が私に親しいのか
むしろ私が歌うことなく
私の歌われるのを私は聞く……

 「私が歌うことなく」は「私が言葉を歌にして歌うことなく」か。最終行の「私の歌われる」はどうか。そこには「私の言葉」はあるのか。そうではなく、「言葉」がないまま、「私という存在(あり方)」そのものが「歌われる=音楽になる」のを聞くのだろう。谷川は、言葉を書きながら、その書いてしまった言葉ではなく、まだ書かれていない言葉、言葉以前の何かを「歌」にしたい。
 そういう願いが書かれている。




*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか1月号注文
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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977



問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
聴くと聞こえる: on Listening 1950-2017
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フェルナンド・レオン・デ・アラノア監督「ロープ 戦場の生命線」(★★★★★)

2018-02-18 20:54:06 | 映画
フェルナンド・レオン・デ・アラノア監督「ロープ 戦場の生命線」(★★★★★)

監督 フェルナンド・レオン・デ・アラノア 出演 ベニチオ・デル・トロ、ティム・ロビンス、オルガ・キュリレンコ、メラニー・ティエリー、フェジャ・ストゥカン

 おもしろいなあ。大好きだなあ。こういう作品。「戦場」なのに戦争ではなく「日常」が描かれている。どこにでも「日常」がある。でも、それはよく見ると「日常」ではなく、やっぱり「戦場(戦争)」。
 区別がつかない。
 井戸に投げ込まれた死体をひきあげる。でもロープが切れてしまう。そのロープを求めて右往左往する。店にはたくさんロープがあるが売れないという。旗を掲げているポールのロープがある。「売ってくれ」「旗を降ろせば戦争だから殺される」。ロープなら家にある、という少年といっしょに家に行ってみれば、ロープは確かにあるが、猛犬をつないでいる。奪えない。思いがけずロープを手に入れて井戸へ引き返してみると、死体をひきあげるためについた嘘が邪魔をしてひきあげ作業は中断してしまう。
 うーん。
 これは、喜劇か?
 いや、「日常」というものは、そういうものなんだろうなあ。
 では、こういうとき、映画の何を見る?
 役者ですね。役者の「肉体」。顔。表情。目つきや、口の動き。さらには、ベニチオ・デル・トロもティム・ロビンスも、太ってしまって、完全に「おじさんだなあ」とか。
 完全に「おじさん」になっているにもかかわらず、あらまあ、もてるんだわ。これが。で、そのもてぶりを見ながら、どうすればもてるようになるかなあ、なんていうことを考える。あの目つき? それとも冷淡ふうなあしらい? 困惑?
 これは自分の「日常」を考えるということだね。
 映画って、これにつきる。
 映画で見ることというのは、自分では体験できないこと。見たことがないものを見ること。でも、その見たことがないものを見ながら、自分の「日常」にひきつけて、あれこれ思う。
 このあれこれなんて、ことばにするのは面倒くさい。ことばにしないまま、あ、そうか、と思うだけなんだけれど。
 たとえば、ティム・ロビンスとメラニー・ティエリーが乗った車が牛の死骸と出くわす。車は右か左か、どちらかを通らないといけない。地雷が埋めてあるのは、どっち? わからない。で、ティム・ロビンスは牛を避けるのではなく、牛を乗り越えていくことにする。そのあと、メラニー・ティエリーが猛烈に怒る。これは、どうして? 安全かどうかわからない行動にメラニー・ティエリーをまきこんだから? それとも死んでいるとはいえ、牛をもう一度ひき殺すという野蛮が許せないから? 「答え」は観客にまかされている。
 これが「しょっぱな」だから、あとはその連続。
 これは、どうして? このときベニチオ・デル・トロ、ティム・ロビンスは、何を思っている? そのこと行動は、ほんとうにそうしたいから? それとも仕方がないから? それで、その正解は?
 わからないね。
 わからなくてもつづいていくのが「日常」。
 ベニチオ・デル・トロとオルガ・キュリレンコが「痴話喧嘩」をして、「財布を見たのか」「パスポートを探しただけよ」というのを、別の車の中で聞いていて(大声だから聞こえてくる)、話をふられたときに「財布を見たのか」「パスポートを探しただけ」と繰り返すところなんか傑作だなあ。
 「仲間うち」のなれあいというか、どうしようもできない「信頼感」のようなものが、そこからぱっと噴き出る。「秘密」なんて、ない。それが「戦場」であり、それが「日常」。みんな知っているからこそ、助け合える。
 最後の「雨さえ降らなければ、最高の日(パーフェクトデイ)」と言ったとたんに雨が降り始める。でも、それは「最高の日」を望む人にとって「最低の日」になるのだけれど、一方で、知らない力が働いて、あれほど苦労したのにひきあげられなかった死体が、井戸に流れ込んだ雨のために浮かんでくるというオチなんかが、とってもいい。
 
 それにしてもね。

 あんな山の中。そんなところで戦争してどうなるんだろう。その土地を奪う、あるいはそこに暮らしている人を殺して、世界がどう変わるんだろう。戦争というのは、いったいなんなのだろうなあ、と素朴な疑問も持つのである。
 そういう素朴な疑問を、素朴にもつための映画かもしれない。
   (2018年02月18日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン9)



 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

チェ 28歳の革命 [DVD]
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NIKKATSU CORPORATION(NK)(D)
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佐伯裕子の短歌

2018-02-18 12:26:37 | 詩(雑誌・同人誌)
佐伯裕子の短歌(2018年02月17日のフェイスブックから)

 2018年02月17日のフェイスブックの鈴木茂雄のページに、次の短歌が紹介されている。

一面に花ひるがえりめぐりくる春を異性の息と思いぬ  佐伯裕子

 これを、どう読むか。(どう評価するか。)
 私は、つまずいた。
 で、そういうことを書いたところ、私と鈴木茂雄、Fuuka Nishimura のあいだで、以下のようにやりとりがつづいた。
 私はいつも、独りよがりで感想を書いている。こういうやりとりはおもしろかったので、許可を得て、ブログに転写することにした。名前は長いので鈴木、Fuuka 、谷内という形に省略した。(Fuuka の発言には「絵文字」があるのだが、ブログでは表記できないので「絵文字あり」とした。)



〈谷内〉「異性の」と、いうのか。
ちょっと突き放した(客観的?)な感覚を新しいと思うか、奇をてらっていると思うか。「新感覚派」の文体とおなじように、流行し、なじんでいくものなのか。
〈鈴木〉春の息吹を「異性の息」と捉えたもの。短歌のような短詩型は比喩の出来不出来は作品の命。短い言葉で何を表現するかというより、如何に表現するかに腐心します。そこが現代詩と違うところだと思います。
〈谷内〉ふつうは「異性」といわず、男なら「女性の」、女なら「男性の」というのでは? 私は「異性」ということばは、男女がいっしょにいて、その「両性」を対象とするときにしかでてこないことばのように思っていたので、とてもびっくりした。私がこの歌を書いたとしたら、
  一面に花ひるがえりめぐりくる春をおんなの息と思いぬ
になると思う。多くの男は、そう書くのでは? 「異性の」と書くときは、かなり気取らないと書けない。
〈鈴木〉男ならそう書くかもしれませんが、作者は女性。あからさまに「男」と書かず、春の息吹を男の息と捉え、喩えて「異性の息」としたものだと思います。「春を男の息と思いぬ」と。女が女の息を感じる?
〈谷内〉いや、むずかしいですね。たとえば与謝野晶子なら「おとこの息」とは書かなくても、「おとこの足」とか、もっと「肉体的」に書いたかも。「異性」ということばには「性」の文字があるけれど、「性」はふつうは文字にならないように私は感じる。「性」をはぎとって「肉」になるとき、ぐいと迫ってくる。「おとこの息」と書かない(あるいは書けない)ところに、文学の「男女差別」が残っているのを感じる。
 「異性の息」で佐伯さんが「男性の息」を意味していることはよくわかるけれど、短歌(俳句、詩、文学)って意味ではなく、ことばを読んだときに感じる「力」のことだと思う。「異性の息」では「意味」を考えてしまう。考えると、ことばの「力」は9 割以上消えてしまう。
〈鈴木〉なるほど、「異性の息では意味を感じる」そうですか。わたしは具体的に「男の息」と言われるとストレートに意味を感じて、想像の余地がなくなってしまいます。それと、短歌的表現、俳句的表現、というのは、明らかにあると感じます。「文学の男女差別が残っている」のご指摘はわかります。
〈Fuuka 〉は~ァ …矢張りこんなんでも…受け入れないと、いけないのでしょうか。益々遠い世界に「絵文字あり」
〈Fuuka 〉谷内修三さま
門外漢の私が申しあげるのも、どうかと思いますが、私は谷内さまの〈おんなの息と思いぬ〉の方が断然良いと思います。
特にこの歌に関しては。春、花、と来れば…「絵文字あり」作者が女性なので、難しいところですね。
〈鈴木〉春の息吹に男(異性=自分と違う性)の息を感じたと言っていると思うのですが、Nishimura さんは、春の息吹に「同性の息」を感じるんですか?
〈谷内〉一面に花ひるがえりめぐりくる春は声変わりする少年の息
「息」と女性にとっての「異性」を意識するなら。つまり私が女性なら、たとえば、そんなふうに詠むかも。
「異性」をどうことばにするか。「異性」が「異性」のままの、抽象的(客観的?)に出てきたところに、私はびっくりする。私の方が、感覚的に古いのだと思うけれど。
で、「新感覚派」ということばも書いたのだけれど。
〈鈴木〉「異性」をどうことばにするか、それはまたむずかしい修辞的な問題ですが、上掲の歌は、わたし(作者)と違う性の対象を「男」とも「彼」とも言わず「異性」と表現したことが、作者の個性だと思います。皆が皆「男性の」と言うので類想になる、作者もそう思って類想を避けたのでは、と思いたい。小説なら「男性」でいいのでしょうが、、、
〈Fuuka 〉鈴木さま
私は単純にこの歌の文字「春」「花」と出てきたので谷内さまがコメントされた「おんなの息」の方がぴったり合う。と思ったまで。「作者が女性なので、難しいところ」と書きましたでしょ? あのコメントは谷内氏(男性)に対して申したまでです。深い意味はございません。
〈谷内〉私はひとりで感想を書いていて、他人と意見交換をすることがない。で、きょうのやりとりがとても楽しかった。fuuka さんの発言を含めて、ブログに再掲していいいですか?
〈谷内〉鈴木さんは、句を読むとき、句の世界を読む。私は句の世界(意味)ではなく、詠んだひとに関心がある。読んだとき、そこから魅力的な女性が見えるか。あ、この女性、好きになれるか、とか。与謝野晶子だと、短歌を読んだとき、自信満々の若い女性が見える。肌が白くて、ぴちぴち。乳房もつんとみなぎっている。で、スケベ根性丸出しで、いいなあと思う。短歌を超えて、与謝野晶子を好きになる。
 そういうところが、もしかすると、鈴木さんと私の「読み方」の違いかも。
〈鈴木〉わたしは「句を読むとき、句の世界を読む。」。よく読んで下さっていますね、ありがとうございます。再掲の件、もちろんOKです。発言に言葉足らずなところが気になりますが、、、
〈Fuuka 〉どうぞどうぞ。私はいつも、本音で話す上に、特にこの様に短く書く場合、言葉足らずになり、時々誤解される場合があります。宜しくお願い致します。



 ここに、私の感想を書き加えると「後出しジャンケン」のようになってしまうが、その「後出しジャンケン」を書きたくて書いているのだから、鈴木とFuuka には許してもらうしかない。このブログは書き込むとフェイスブックとツイッターに連動してリンクがはられるので、二人からの反論は、フェイスブックか、このブログのコメント欄でしてもらうことにして、私の思ったことを追加しておく。

一面に花ひるがえりめぐりくる春を異性の息と思いぬ  佐伯裕子

 この短歌の「異性の息」を「男性の息」という意味にとらえている点では三人の「理解(解釈)」は一致していると思う。
 「男性の息」ととらえた上で、私は、それを「異性の息」と言い変えることに違和感を覚えた。「男性の息(男の息)」だとあからさますぎるということなのかもしれないが、どうして佐伯が「異性の」ということばを選んだのか、非常に疑問に思った。
 作者が女性の場合、「異性」は男になる。作者が男性の場合、「異性」は女になる。だから、私がもしこの短歌を詠んだのだとしたら「おんなの息」と書くだろうなあと思った。
 鈴木は逆に「男の息」だと「類型」(既成の表現?)であり、おもしろくない。「異性の息」という表現に「個性」を感じている。
 Fuuka は「おんなの息」の方が短歌として自然だろうと言っている。「春、花、と来れば…」と書いているのは、「春、花」が「おんな」となじみやすいことば(イメージ)だと理解してのことだと思う。

 鈴木はFuuka に対しては、「春の息吹に「同性の息」を感じるんですか?」と質問しているけれど、これは作者が「女性」であることにこだわっての発言のように思える。また、Fuuka が春の息吹を「同性の息」と感じると主張していると、踏み込んで解釈しているように思う。
 Fuuka はあくまで、「春、花」という連想でことばを動かせば「女性(おんな)」の方がイメージがまとまりやすいと言っているのだと思う。だれがつくったか、作者が男性か、女性かを考慮せずに、ことばの運動としてとらえている。あることばのまわりにあることば、それが「異性の息」ということばの「異性」とどうつながっているか。「文学の歴史(既成のイメージ)」との関係を言っているのだと思う。
 鈴木は、そういう「既成のイメージ」とは関係なく、純粋に佐伯の短歌に向き合っている。あるいは、そういう「既成のイメージ」のことばの運動を破る新しさ、「個性」を感じ取って作品と向き合っている。そして、そこに書かれている「意味」を中心に短歌世界を見ている。「論理」として短歌内で完結している。

 うーん。

 実は、私はこのことに、とても驚いた。
 私は感想を書くとき、テキスト(ことば)を中心に、そのことばがどのことばと関係しているか、他のことばをどう動かしているかを中心に読み進むけれど。
 私は読み進みながら、テキストを逸脱していく。書いた人間、その「肉体」の方に引き込まれていく。
 与謝野晶子の例を書いたが、私は与謝野晶子の「乱れ髪」を読むとき、その短歌の「内容」に引き込まれると同時に、「内容」を忘れてしまう。引き込まれすぎて、与謝野晶子の「肉体」を思い描いてしまう。若い女性。美人。(実際に美人であるかどうか知らないが、歌からは美人を思い描いてしまう)。真っ黒な神。はち切れる乳房。触れると鼓動が伝わってくる肌。「歌」が好きなのか、妄想で描いている「女の肉体」が好きなのか、区別がつかない。きっと、妄想の「女体」の方が短歌よりも好きなのだろう。
 で、また、「肉体派」の与謝野晶子なったつもりで、もし私が与謝野晶子なら。

一面に花ひるがえりめぐりくる春は私の吐きだす燃える息

 のようになるかもしれないと思ったりする。私のことばは不十分だが、与謝野晶子なら、自分自身の「春の肉体」、力みなぎる血潮で春を圧倒していくだろうなあとも思う。
 私は「短歌の内容(意味)」ではなく、短歌をつくったひとに会いたいのだ。会っていると妄想したいのだ。きっと。
 私は「思想」とか「精神」とか、そういう「抽象的」なのものを考えるのが苦手だ。「肉体」なら、それが妄想であっても、私の知っているもの。「手触り」「手応え」「安心感」のようなものがある。それを、どうしても追い求めてしまう。その人といっしょに痛いと思うかどうかを考えてしまう。その人が何を見ているか、何を聞いているか、その何かが見えるか、聞こえるかということよりも、その人の「肉体」になって、何かを見る、何かを聞く、ということに昂奮する。何が見え、何が聞こえてもかまわない。その「肉体」と同化できるかどうかが重要だ。
 別なことばで言うと、何を見ているか、何を聞いているかは「頭」で言いなおすことができる。
 「異性の息=男の息」というのは「頭」では理解できる。
 でも、私は「頭」で理解したくない。そういう面倒くさいことはいや。それだけではなく、「頭」で理解すると、自分の「肉体」が否定されたような気がする。それがいやなのだ。

 で。
 ここからもう一歩、「頭」の「整理」をしてみる。

一面に花ひるがえりめぐりくる春を異性の息と思いぬ

 このときの「異性」を、私は(そして、鈴木もFuuka も)、無意識の内に「男性」と理解している。作者が女性だからである。
 でも「女性」にとっての「異性」は「男性」なのか。
 生物学的(?)には確かにそうなのだろうけれど、人がだれかを恋する、愛するというときは、「異性」の「異」は「反対」を意味しないかもしれない。
 「同性愛」ということばがある一方、「異性愛」ということばもあるようだ。この時の「同」「異」は、「生物学」の分類からは明確である。客観的である。けれど、恋愛の当事者にとってはどうなのだろう。「異なっている」から愛するのか。「同じ」だから愛するのか。
 「食べ物の好みも、ほかの好みもみんな同じ。だから好き(愛している、いっしょにいて安心)」という人もいれば、「なにもかも違うから、刺激的で楽しい」という人もいる。「同じところ」を愛するのか、「異なるところ」を愛するのか、「同じだから」愛するのか、「異なるから」愛するのか。
 「同じ」と「異なる」の判断はむずかしい。
 佐伯の歌の「異性」を、私は簡単に「男性」と解釈してしまったが、佐伯にとっての「異性」が「心情的」にも「生物学上の男性」を指すかどうかは、簡単に言いきることはできない。
 佐伯ではなくて、だれか別の女性が、女性に恋をしていて、春の息吹に恋している女性の息を感じ取って歌にしたとき、こういう歌が生まれるかもしれない。
 そういうことも考えてみてもいいかもしれない。
 そういうとき、「頭」は、どんなことばを選ぶだろうか、と。
 ひとがひとを愛するとき、ひとは相手を自分とは異なった人間と認識して愛している。相手は、それがだれであれいつでも「異性」であり、またいつでも「同性」であると言うことができるかもしれない。
 「頭」は、どんな「論理(あるいは意味)」でもつくりだしてしまう。自分の都合のいいように「論理」をつくるものが「頭」なのだ。
 「性」は「(性)別」であると同時に「(性)質」でもある。「性別」の基準は「生物学」によって簡単設定できるが、「性質」になると基準はさまざま。
 「同」も「異」も、ことばを動かすときの基準にすぎない。どこに基準を置くかで、どういう基準にするか(物差しにするか)で、「世界の見え方」が変わってしまう。そういう「変化」を自分のつごうにあわせてつくりだそうとするものが「頭」なのだ。

 脱線しすぎた、「後出しジャンケン」にさらに「後出しジャンケン」をつけくわえたかもしれないが、いろんな方向にことばを動かしてみることができた。
 こういう機会がまたあればいいなあ、と思う。

 みなさん、ブログやフェイスブックにコメントを書いてください。
 いろいろなことを語り合いたい。





*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか1月号注文
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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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三権分立は、どうなるのか

2018-02-17 12:00:40 | 自民党憲法改正草案を読む
三権分立は、どうなるのか
             自民党憲法改正草案を読む/番外178(情報の読み方)

 2018年02月17日の読売新聞朝刊(西部版・14版)の2面に自民党の改憲案が載っている。きのうの夕刊「合区解消 改憲案を了承/自民本部 参院 都道府県1人以上」の続報。「一票の格差」に対する「違憲/違憲状態」という判決を踏まえて16年夏の参院選から「合区」が導入された。この「合区」については最高裁が「合憲」という判断を下している。自民党の改憲案は、この「合区」を解消し、都道府県ごとに1人の議員を配分するというもの。

 47条と、92条が改憲の対象になっている。
 現行と比較してみる。

47条
(現行)
選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。
(自民党案)
1項 両議院の議員の選挙について、選挙区を設けるときは、人口を基本とし、行政区画、地域的な一体性、地勢等を総合的に勘案して、選挙区及び各選挙区において選挙すべき議員の数を定めるものとする。
参議院議員の全部又は一部の選挙について、広域の地方公共団体のそれぞれの区域を選挙区とする場合には、改選後とに各選挙区において少なくとも一人を選挙すべきものとすることができる。
2項目 前項に定めるもののほか、選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。

 現行憲法に大幅に文言を追加している。
 狙いは「衆院選で市区町が複数の選挙区に分割される状況を是正する」「参院選の合区を解消する」。(いずれも、読売新聞の解説)
 でも、これを実施すると「一票の格差」はどうなるだろうか。人口の最小の「選挙区(市区町村、都道府県単位)」を1として、他の選挙区の議席を増やさないかぎり「格差」は解消できない。つまり、議院が大幅に増えてしまう。
 議院を増やしたいだけの「憲法改正」である。

 92条の改正は、辻褄合わせである。言い換えると、「47条」で書いてある「広域的地方公共団体」とは何かを定義したものである。

(現行)
地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。
(自民党案)
地方公共団体は、基礎的な地方公共団体及びこれを包括する広域の地方公共団体とすることを基本とし、その種類並びに組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基づいて、法律でこれを定める。

 追加されていることばが多いが、特徴的なのが「広域の地方公共団体」。これは「都道府県」を想定している。(読売新聞の解説)
 だから、これを「47条」にあてはめると、

1項 両議院の議院の選挙について、選挙区を設けるときは、人口を基本とし、「広域の地方公共団体(都道府県、あるいは市区町村)」、行政区画、地域的な一体性、地勢等を総合的に勘案して(言い換えると、「広域の地方公共団体(都道府県、あるいは市区町村)」を勘案して)、選挙区及び各選挙区において選挙すべき議院の数を定めるものとする。(都道府県、市区町村の「区分」を重視して、選挙区の分区、合区をしない。)

参議院議院の全部又は一部の選挙について、広域の地方公共団体(都道府県)のそれぞれの区域を選挙区とする場合には、改選後とに各選挙区(都道府県)において少なくとも一人を選挙すべきものとすることができる。

 ということになる。
 こんな「ややこしい」いい方をわざわざするのは、現行の「選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。」では、「法律」次第で、選挙区の「合区/分区」ができるからである。法律で「合区/分区」をさせないために、憲法で「都道府県に1人の参院議員」と決めてしまうのである。

 そうすると、14条との整合性が難しくなる。
 14条は、こう書いてある。

すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 「一票の格差」は「平等」の定義に反する。「平等」を保障するためには、どうしたって人口の一番少ない「選挙区(都道府県、あるいは市区町村)」に1議席をわりふり、それにあわせて他の選挙区の議席を増やしていくしかないことになる。
 国民(住民)のための議員ではなく、議員のための国民(住民)になってしまう。

 これはまた、こう言いなおすこともできる。
 現行憲法は、「天皇」「戦争の放棄」「国民の権利及び義務」「国会」「内閣」「司法」「財政」「地方自治」という順序で構成されている。(あとは、省略)
 14条は「国民」、47条は「国会」、92条は「地方自治」である。優先されるべき「国民の権利」が「国会(国民によって選ばれる議員)」「地方自治」によって制限されることになる。
 これは「憲法の構成」としておかしい。整合性がとれない。矛盾している。つまり、「違憲」である。
 憲法は重要な順序で書いてある。重要な順に書き、一回では書けないことを少しずつ補足する形で「完成」を目指している。

 (何度も書いてきたので省略するが、昨年6月に公表された「自衛隊加憲」の自民党案では、国民、国会を飛び越して、9条に「内閣総理大臣」が登場し「最高指揮官」であると宣言するという、「独裁」丸出しの文言になっている。「独裁」を完全にするために、戦争をし、国民を「御霊=戦死させる」にしてしまうことを狙った文言になっている。)
  
 また、この自民党の案では「三権分立」が完全に無視されている。
 参院選の「合区」は「一票の格差」で「違憲(違憲状態)」という判決が相次ぎ、それを解消するために国会で決めたことである。
 毎日新聞(2017年9月28日朝刊)は、「一票の格差訴訟」について、こう書いている。

 「1票の格差」が最大3・08倍だった昨年参院選を巡り、二つの弁護士グループが選挙無効を求めた16件の訴訟の上告審判決で、最高裁大法廷(裁判長・寺田逸郎長官)は27日、「合憲」との統一判断を示した。国会が史上初めて都道府県選挙区の枠組みを崩して「合区」を含む定数是正を行った点を「これまでにない手法を導入し、数十年続いた5倍前後の格差を縮小させた」と評価。「違憲の問題が生じる著しい不平等状態とは言えない」と結論付けた。

 「合区」は「合憲」である。それは国会で「定数是正」をおこなった結果である、と評価して「合憲」にしたのである。
 この判決を踏まえるなら、自民党は改憲で「合区」を実現するではなく、まず国会で「合区」を解消し、都道府県に1議席という法律を成立させるべきなのである。
 現行の47条は、はっきり

選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。

 と書いている。「法律」次第で、運用は変更できる。それを認めている。
 憲法を変えなくてもできることを、憲法を変えることで、押し通そうとしている。
 (これは9条についてもいえる。「集団的自衛権(アメリカの戦争を補完するために海外へ自衛隊を派遣する、自衛隊員に戦争させる)」ために戦争法をつくったのに、さらにそれを憲法に明記する。)
 これでは何のために法律があるのか、「立法府(国会)」があるのか、わからない。
 「国会」を無視し、「司法(裁判所)」も無視し、「合区で自民党議員が減るのは困る」という理由で、憲法を改正しようとしている。 
 自民党が「都道府県に最低1議席(参院議員)」を実現したいならば、それは「国会」で「法律改正案」をだせばすむことである。「自民党の47条」は憲法で決めることではない。「国会で決めたこと」が「司法」で支持された。国会も司法も気に入らないから、国会も司法にも何も言わないために憲法で決めてしまうというのは、憲法が「独裁」の手段になる。
 国民のことなど何も考えていない。憲法の構成の整合性も何も考えていない。ただ、自分の権利を守るため、独裁を強行するために憲法をかえようとしている。
 安倍の「独裁」体質を、自民党議員全員がそのまま引き継いでいる。

 三権分立が自民党によって否定されている。そのことが自民党の改憲案から明確に見える。独裁が始まっていることがわかる。


#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

「天皇の悲鳴」(1500円、送料込み)はオンデマンド出版です。
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 「不思議なクニの憲法」の公式サイトは、
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上映日程や自主上映の申し込みができます。

憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
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水の周辺15

2018-02-17 10:24:59 | 
水の周辺15

冬の色の水に
映る。

木の影。
雨が

幹に滲む。
輪郭。

光る。
空間。

新しい水輪。
の、

黒い影、
円。

中心、
が、外縁に。

広がる、広げる、
その中心へ。

雨。
天へ帰る一滴。

へ、
伸びる枝。

まっすぐに、
曲がっている。





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読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(6)

2018-02-17 10:17:31 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(6)(創元社、2018年02月10日発行)

 「それぞれの唄」は声を求めている。一連目の構造を他の連が引き継いでいく。音が記憶を呼び覚まし、記憶が新しい音を生み出していく。少しずつ変化していく。音の変化は意味の変化でもある。そして、それが同じ音でしめくくられることで、連がそれぞれ完結する。
 こんな具合。

公園の遊動円木の上で
ふたりは初めて会ったのさ
ふたりが六つと七つのとき
それがどうしたの それがどうしたの

裏町の日影の路地の片隅で
ふたりは初めてキスしたのさ
ふたりが十五と十六のとき
それがどうしたの それがどうしたの

 一種の「かぞえうた」とも言える。ふたりは愛し合い、別れる。「歌謡曲」ともいえるかもしれない。「かぞえうた」「歌謡曲」の印象が「声を求めている」という印象を引き起こす。
 最後は、

なんにもどうもしやしない
ふたりは愛しあったんだ
ただそれだけのことなのさ

 これは「反歌」のようなものか。繰り返される「それがどうしたの それがどうしたの」に「結論」を出している。「歌謡曲」に似ている。

 と、書いたら、感想も終わりそうなのだけれど。

 最初読んだとき、余白に書いたメモがある。「それがどうしたの それがどうしたの」と「ただそれだこのことなのさ」を線で結び、「それだけ」とは何か、と書いてある。これは、左のページ。
 そして右のページ(詩の書き出しの方)には、「ふたりとは何か」「わたしとあなたである」「ふたりは、わたしとは何かを問うこと」。「六つと七つのとき」の「ときとは何か」と書いてある。
 それから、少し離れた「ある、とは何か」と書いてある。
 何かを考えようとしたのである、私は。
 何を考えようとして、そのメモを残したのか。

 たぶん、こういうことである。この詩には「ある」という「動詞」が省略されている。谷川の詩を少し書き換えながら「ある」を補ってみる。

公園に遊動円木が「ある」。その上に
ふたりは「ある」(いる)、そうやって初めて会ったのさ
ふたりが六つと七つで「ある」そのとき
それがどうしたの それがどうしたの

 こう補うと、「それがどうしたの それがどうしたの」は、繰り返されている「ある」はどうしたのか、どういうものかと問いかけていることになる。
 「わたし」とは私という「自己存在」だが、それはさらに突き詰めていくと「あるとき(たとえば六歳、七歳のとき)」と切り離せない。「とき」とともに変化していく。「私とは時である」と言いなおすことができる。「時」と切り離せないなら、それは「変化」と切り離せない、「変化」と同じということになる。
 「変化」にとって、「ある」とは、どういうことだろう。「変化」とは「ある」が「ない」になることだ。「六つ」で「ある」は、六つで「ない」ことによって「十五」になる。十五として「ある」。
 キスして、愛して、別れる。愛で「ある」ものが愛で「ない」になる。

 さて、「ある」とは何か。
 谷川は最後で「それだけ(のこと)」と言っている。
 ここからわかることは、実は、ないにひとしい。何もわからない、と言ってしまえば、たぶんそれでおしまいなのだが。
 気になることがある。
 「それ」と指示代名詞で呼んでいること。
 定義できないもの。
 でも、「それ」と呼ぶことができる。
 あいまいに、ことばにすることができる。

 このことばにならない「それ」は、「未生のことば」であり、谷川が言っている「静けさ」(沈黙のことば)かもしれない。
 最初に読んだとき、どう思ったのか、手探りしていると、ことばは、こんなふうに動いた。





*


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瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(5)

2018-02-16 11:34:01 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(5)(創元社、2018年02月10日発行)

 「ピアノを開く時」は、詩なのか。エッセイなのか。谷川の「音楽環境」がわかる。幼い時からピアノに触れている。
 昔を思い出して、ピアノに触れる時がある。

 そんな時、私の心にひろがる風景は、やはり、あのアンファンス
と呼ばれる、青春よりもさらに甘美で物哀しい時期の、匂いのよう
なとらえ難い風景である。                  (17ページ)

 このあとに、プルーストの「失われた時を求めて」のような描写がつづく。(プルーストは読んだことがないので、勝手な想像だけれど。)ここは、詩っぽい。「詩情」というものがある。
 で、この直後

 子供のまだ未分化な魂にうつっていた世界は、今では音楽によっ
てしか思い出すことのできぬほど微妙なものだったろうか。   (17ページ)

 「未分化な魂」と「音楽」が融合している。谷川にとって音楽体験は「未分化な魂」の発見だったということだろう。
 うーん。
 そうなんだろうなあ、と思うしかない。
 つづいて、こう書いている。

 少々飛躍したいい方かもしれないが、それらの曲を聞くたびに、私
は自分の階級とでもいうべきものを意識する。          (18ページ)

 私は谷川とは違う階級の人間なので、こういうことには深入りしない。
 最初に書いたが、音楽環境が、私と谷川では違いすぎる。谷川の体験を「追体験」することは、私にはできない。
 そういう私が、この作品から「詩」を感じるのはどの部分かというと。
 ピアノの小品(子供の時に弾いたことのある曲)を聞いた時(あるいは弾きなおした時)の思いを書いた部分である。

                     それは苦い反省とと
もに、甘い陶酔をももちろん含んでいて、私はそれに抗することが
できない。というよりももっと積極的に私はそこに、自分というも
のを探し求め、また時にはそこへ逃避すらしているのかもしれない。(19ページ)

 「反省とともに」の「ともに」、「というよりも」、「また時に」の「また」。この、「同時」にいくつかの「思い」を結びつける文体に「詩」を感じる。
 詩は、一言では言えない。
 詩は、言いなおすしかないものである。
 特に私が詩を感じるのは、「というよりも」という「逆説」の「論理」ではなく、「ともに」「また」という「並列」のことばの運動である。
 「逆説」というのは、何かを「掘り下げていく」感じがする。
 「並列」は、あることがらを「横に広げていく」感じ。遠いものを呼び寄せる感じでもある。実際、この詩の「また」は「求める」と「逃避する」という違った方向へ動いている。俳句でいう「遠心」と「求心」の結びつきのようなものがある。
 音楽が「匂い」を呼び寄せるように(17ページ)広がり、あるもの、あることが、それを離れて別の次元へ広がるとき、谷川の詩(詩情)はいきいきと動く。
 それは「未分化」なのものが、「分化」して「もの」になる。谷川の「肉体」の内部にあるものが「外部」のなにかと出会って、そこに結晶する感じだ。
 それを「また」で展開し続ける時、そこに「音楽」が響いてくる。
 それは、きのうのつづきで言えば「意味の和音」かもしれない。物理的な「音」の和音ではなく。





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「二重権威」?

2018-02-16 10:40:28 | 自民党憲法改正草案を読む
「二重権威」?
             自民党憲法改正草案を読む/番外177(情報の読み方)

 2018年02月16日の読売新聞朝刊(西部版・14版)に、わけのわからない記事が載っている。しかも一面のトップである。その見出し。

新元号 年末以降公表へ/政府方針 改元までの期間短縮

 記事には、こう書いてある。番号は、私がつけたもので、記事にはない。

(1)2019年5月1日の皇太子さまの即位・改元に向け、政府は、新元号を今年末以降に公表する方向だ。
(2)元号公表から改元までの期間を短くする狙いがあり、来年に公表する案も含めて検討する。
(3)元号公表で新天皇に国民の関心が集まれば、天皇陛下と新天皇の「二重権威」が生じかねないとの懸念に配慮した。

 (1)は、これまでの方針から違っている。これまでは改元にともなう国民生活への影響をおさえるために、早く公表するというものだった。特にカレンダーを意識していた。カランダーの作製が間に合わないと、国民が混乱する。企業や役所も元号の切り替えがたいへん、というものだった。(新元号のアルファベットが「M(明治)T(大正)S(昭和)H(平成)」と重ならないようにする、という案までニュースになったくらいである。)ところが、

今夏に公表した場合でも、19年のカレンダー制作に間に合わないことが業界への聞き取りで明らかになった。民間企業で採用しているシステムについても、改元による影響を避けるため、西暦を使うケースが増えているとされる。

 と記事で説明している。こんなことは、いま、やっとわかることではないだろう。すでにだれもがわかっている。カレンダー業者に、いまごろになって、いつなら間に合うかを問い合わせているとしたら、それまでのカレンダーに配慮するという言い分はなんだったのだろうか。
 傑作なのは、さらにこんなことを書いていることである。

 政府は内閣官房を中心に、改元にともなう官民のシステム変更に必要な期間を調査しており、この結果も踏まえて公表時期を最終判断する方針だ。

 こんなことは改めて調査しなくても、昭和から平成への改元時にどれだけ時間がかかったかわかっているのだから、どう考えてもそのときよりも短くてすむ。わざわざ調べなくても、ちょっとパソコンに詳しい人に聞けばわかるだろう。

(2)は、なぜ短くする必要があるのか、ぜんぜんわからない。
 記事は、こう補足説明している。

早期の事前発表をめぐっては、政府内にも「国民の間で新元号への賛否両論が出るのではないか」と慎重論があったほか、自民党の保守派からは「一つの時代に二つの元号が存在する形に見えてしまう」と懸念する声も出ていた。 

 この論理にしたがうと、新元号の発表が遅くなると国民の間では賛否両論が出なくなる、ということになる。そんなばかな。あるものに対する賛否は、いつでも生じる。「時間」は関係がない。これは逆に読むべきなのだ。ぎりぎりになって公表すれば、反対意見があっても「再考する時間がない。間に合わない」と言える。政府の決めたものを簡単におしつけることができる、異議を許さない、ということなのだ。
 後段の保守派の言っていることも理解に苦しむ。いまだって「明治、大正、昭和、平成」という複数の元号が存在している。将来のことに対しての言及だとしても、将来についてなら「2018年」のいま「2019年」のほかに「2020年」という別の「年代」も存在する形でひとは認識している。
 未来をあらわす表現方法があって、それによって現在が混乱するということは絶対にありえない。今と未来を混同する人間などいない。逆に、未来をあらわす表現方法がないとき、ひとは混乱する。未来を思い描けない。いつでもひとは「未来」をみて動いている。この記事(新元号 年末以降公表へ)というのも、「未来」について書いている。「未来」を見ている。
 「保守派」は何が言いたいのか。

(3)を読み直してみる必要がある。
 新元号の公表によって「新天皇に国民の関心が集まれば、天皇陛下と新天皇の「二重権威」が生じかねない」というのだが、もう、皇太子が次の天皇になるということは国民のだれもが知っている。即位の日が19年5月1日であることも知っている。すでに国民のだれもが「新天皇に関心」を持っている。「新天皇」について、何も知らない国民などいないだろう。
 これは「天皇の生前退位」が決まる前から、国民の関心事でもあった。(明確に意識はしていないけれど。)「皇太子」が次の「天皇(新天皇)」になると、だれもが信じている。
 こんなところに「二重権威」の問題がはいりこむ余地はない。国民は「天皇」と「次期天皇」のどちらに「権威」があるか、など考えないだろう。だいたい「天皇」というのは「象徴」であって「権威」ではないのだから、その存在を「権威」と思う方がおかしい。憲法には、天皇は国政に対する権能を有しない、と規定してあり、「象徴としての務め」ということばのなかで、天皇自身が二度繰り返して語ってもいる。天皇は「権威」ではないと天皇自身が否定している。
 ここから逆に読むと。
 「天皇」は「権威」であると考えたい人間がいるということである。天皇を「権威」として利用したい人間が政府、あるいは自民党の中にいるということだ。あるいは、天皇が天皇であること、天皇の動きを逐一支配したいと思う人間が政府のなかにいるということだろう。
 天皇に関することがら、退位から即位まで、さらに元号の変更も、すべて「自分の思う通りにしたい」という人間がいるということだろう。どうすれば、「天皇」を政治に利用できるか、それだけを考えている人間がいるということだろう。
 すでに退位、即位の日は統一地方選挙を理由に、その日程が決まった。「天皇制」は政治に利用されたのである。利用され続けているのである。
 天皇を政治に利用しようとする人間にとっては、「天皇」と「内閣総理大臣」というのは「権力の二重構造」と見えるかもしれない。「二重」のどっちがより権力を持っているか、ということに「決着」をつけたいのかもしれない。
 このひとにとっては、「二重」だけではなく、「多重」はもっと重要かもしれない。
 日本の国会は「三権分立」によって構成されている。「権威(権力)」が三つにわかれている。これを許しているということは彼にとって大問題なのだ。
 「私は最高権力者である(最高責任者である)」言おうとすると、「憲法では三権分立になっている」と否定される。「三権分立」どころか、憲法は「主権は国民にある」と規定している。「最高責任者は国民である」。これが、彼には許せない。

 「二重権威」と言い出した人がだれなのか、読売新聞は書いていない。それは「天皇の生前退位」について「生前退位」ということばを言い出した人がだれなのか明らかになっていないのと同じである。
 
 「元号」が何になるのか、その公表がいつなのか。
 これは国民にどれほど影響のあることなのか。
 昭和から平成への「転換日」を思い起こせば、何のことはない。
 いったい、国民の何人が「混乱」しただろうか。生活システムの何か問題がおきただろうか。電気も水道もガスも、今まで通り。電車もバスも飛行機も、事故を起こしたわけではない。元号がかわったために、日記を買い換えた、カレンダーを買いなおしたというひともいないだろう。
 国民に何の影響も与えないことなのに、それが重大問題である、その重大問題を決定するのは「私である」と何がなんでも言い張りたい人がいるということなんだろうなあ。

 私が「わかった」のは、そういうことである。

#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
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草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』

2018-02-15 10:27:38 | 詩集
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』(未知谷、2018年02月10日発行)

 草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』は嵩文彦の詩集『明日の王』と草森紳一の『明日の王』に対する批評が一冊になったもの。(ほかに嵩文彦の評論もあるのだが。)
 草森紳一の評論は、作品と嵩文彦のプライバシーを強く結びつけて展開される。父と子の関係が「神話」を目指して動いている。私は、こういう批評(評論)を読むのが「苦手」である。「意味」が強すぎて、窮屈に感じる。
 
 というわけで。
 草森紳一の評論がこの本のメーンなのだけれど、それには触れず嵩文彦の詩集についてだけ感想を書く。
 「明日の王」の書き出し。

深い緑の藻が繁茂している川を
清流が一杯に流れている
その流れを深い緑色の魚たちが
一斉に遡ってゆくのである
魚たちの骨は白く透けて見えている
緑色の肉の中で螢光を発しているのである

 「色」へのこだわりが感じられる。「緑」と「緑」が重なる。そうすると、そこから「白」が「透けて見える」。同じものが重なると、透明になる。そして「内部(構造)」を浮かび上がらせる。
 ここから、草森紳一が読み取っている「父-子」の「神話」が始まる。同じものが重なることで、同じをつらぬくものが強調される、ということなのだが、同じもの(男)だけでは、「父-子」は成立しない。
 同じは、「異質」を必要とする。
 こんな具合だ。

私は突然女のことを思う
女たちの赤い肉を透かして
白い骨が見えるのである

 「緑」に対して「赤」。補色によって、「緑」と「緑」の重なりが、より凝縮される。ここで見える「白い骨」は「女の骨」であると同時に、女と向き合う「緑の魚」の「白い骨」である。「男の本質」である。
 「父と女」(緑と赤)の出会いによって、「子(緑)」が誕生する。「緑」はやがて「赤(女)」と出会うことで「父」になる。そのとき「父と子」の「白い骨」は「神話」に昇華する。
 ただ「女(赤)」と「子(緑)」の出会いは、この詩ではすこし複雑である。「異性」に出会う前に、「母」という「女(赤)」に出会う。「母」をとおして「不在の父(神話)」を意識する。
 嵩のプライバシーとして、それは「事実」なのだろうが、あまりにも「神話」になりすぎるので、私は、そういうところへは踏み込みたくない。
 と、書きながら、かなり書いてしまった感じもするが。

 私が注目するのは、

一斉に遡ってゆくのである

緑色の肉の中で蛍光を発しているのである

白い骨が見えるのである

 という具合に登場する「……のである」という文体だ。これは、いったい、何なのだろう。「……のである」はなくても、「意味」は同じ、に見える。ない方が「事実」がすっきりと浮かび上がるような気がする。「……のである」があると「事実」というよりも、それを「認識している」という感じ、その「認識」の感じが強くなる。
 「自分はここにいる」という主張が強くなる。
 逆に言うと「事実」(世界)に溶け込まない。常に「世界」から自分を切り離している。「世界」を「認識」として向き合おうとしている。究極の「二元論」という感じ。
 肉体対精神、ではなく、世界対精神、自己以外対自己。自己にとって自己以外とは何なのか、と非常に強く意識している。自己を失わないという意識が強い。
 この意識のために世界の構造がより明確になる、とは言えるのだろうけれど、うーん、私には、これが窮屈に感じられる。我を忘れてしまう、という感じが私は好きなのだが、我を忘れることができない人間に出会い、ちょっと身構えてしまう気持ちなのだ。
 我を忘れない、というところに、一種の「清潔」を感じるというひともいるだろうけれど、私はたぶん「あいまい」なもの、「区別」のないものが好きなのだろうなあ。わけがわからなくなって、「誤読」する瞬間が好きなんだろうなあ、と自分のことを振り返る。
 で、そんな私が好きな作品は「水槽」。まあ、「誤読」した、ということだけれど。(もちろん、「明日の王」について書いたことも「誤読」なんだろうけれど。)

遠くまで歩いてみたい気がする
朝はいつも僅かながら男を促がすのである
男は昨夜の手紙を持って下駄を突掛ける

 この「手紙」は、後半にもう一度出てくる。

下駄の男がもっと歩きたいと思っていると
もうポストに着いてしまっている
手紙はいとおしまれながら闇の内腔に消えるのである

 「昨夜の手紙」は「昨夜書いた手紙」だったのだが、私は「昨夜読んだ手紙」と「誤読」した。
 「手紙」には大事なことが書いてある。それを確かめるために、男は「手紙」をもったまま歩く。「手紙」に書かれていることを「現実」に確かめる。「とおくまで」歩きたいが、それは意外と近い。
 歩き始めると、「手紙」に書いてあった通りのことが展開する。

薄汚れた商店の前に空地がある
そこに何時の間にか水槽が置かれているのである
薄暗い水の中に男の背中が見えた

 これは、水の中に緑の藻を見て、それから緑の魚を見るという構造に似ている。「水(透明)」が、それまで隠していたものを明らかにする。「薄暗い水」はかならずしも「透明」を意味しないが、水は「透明」という性質を持っている。(手紙も、それまで隠していたものを透かしてみせる。つまり、あばいている。秘密が書かれていたのだ。)

裸になって服を着ようとしているのである
女は男の脇に立って僅かに腕を動かした

 「裸になって服を着ようとする」は奇妙な言い方である。男は「裸だった」。なぜ裸だったかといえば、女とセックスしたからである。「裸になって」は女といっしょのベッドから出て、くらいの意味になるだろう。
 このとき、ここに描かれる男は「手紙」を読んだ男ではなく、別の男である。
 それを確かめるために、男は朝を急いでいる。
 そのとき、「手紙」を読んだ男は、「幻想」を見る。いや、見ようとする。

こんな澱んだ水槽には
大きな鮫が廻游していなければならぬ
今しも男の肩に牙を剥き
血が煙のように濁った水槽に漂わなければならぬ

 水槽の水が「澱ん」でいる。「濁っ」ているのは、水槽の中に映っている男が、「手紙」を読んだ男ではないからだろう。男にとっては、「敵(否定すべき)」男だからだろう。
 男が、別の男(恋敵?)を見てしまうのは、男にもそういう体験があるからだろう。人はどういうときでも、ただ「他者」を見つめるのではない。「他者」を見ることは「自分」を見ることなのだ。
 「手紙」は恋敵(あるいは、女)のことを書いているのかもしれないが、そのことばから男が思い描くのは、あくまで「自分」である。

 で。

 こういうことを考えると。
 草森紳一の評論は、この詩の中に書かれている「手紙」のようなものかもしれない。嵩は、草森の書いたことばをとおして、恋敵の存在(父?)を見る。そして、その恋敵(父)とは自分そのものであるという「神話」を確認している。
 草森の評論をとおして、嵩は自己を客観化しているということになるのかも。

 「誤読」というか、私の書いている感想は「論理」になっていないのだけれど。
 詩のことばをつまみぐいして、そこに私の「妄想」をねじ込んでいるのだけれど。

*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
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「明日の王」 詩と評論
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(4)

2018-02-15 08:25:56 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(4)(創元社、2018年02月10日発行)

 「和音」を読む。

東京放送は三つとも
静かな 低い男の声だった

ひとつは説教
ひとつは尋ね人
ひとつは天気予報

不思議に三つの声は
ある大きな空間を構成しているように思えた

 「三つの声」は、どうやって聞こえてきたのか。「同時」か。
 サイモンとガーファンクルに「7時のニュース/ きよしこの夜」という曲がある。「7時のニュース」と「きよしこの夜」が同時に聞こえる。
 谷川が聞いたのは、そういうものではなく、それぞれが別々の時間に放送されたものだろう。ひとつづきの時間であったにしろ、それは「同時」ではない。音は重なっていない。だから、これは「物理的(音楽的?)」には「和音」ではない。
 「三つの声」を谷川が思い出して、重ねるときに「和音」になるものである。
 それは言い換えると、谷川が「和音」にするのである。

 サイモンとガーファンクルの「7時のニュース/ きよしこの夜」。このニュースは「音楽」ではない。「ノイズ」と呼んでもかまわないものだろう。
 私は音楽のことは何も知らないのだが、この「ノイズ」は「不協和音」とも言えるのではないか。
 と、書きながら、ちょっと別なことも考える。
 「和音」に「不協和音」というか、「不協」というものがあるのか。「和音」として感じ取る力が足りないときに「不協」というだけなのではないのか。
 「音感」が豊かではないとき、つまり自分の「音感」で「和音」と感じないときに「不協和音」というのではないか。「既成の和音」でない音の重なりを「不協和音」というのではないのか。
 たとえば「7時のニュース/ きよしこの夜」のニュースを読む声は「ノイズ」であり、音楽を壊すものかもしれない。しかし、それを「和音」ととらえることもできるのではないか。サイモンとガーファンクルは、そういうことを「問題提起」したのではないだろうか。
 音楽に無知だから、私は、そんなことを考えた。

 そしてまた、こんなことも。

 「説教」「尋ね人」「天気予報」の三つの声が「和音」であるというとき、その「和音」の「正体」は何なのか。「音」なのか。それとも「意味」なのか。「音」は「低い男の声」で統一されている。「音程」の基本、キーというのだろうか、は似ていても、ことばそれぞれがもつメロディー(高低差)は違うから、それが「既成の和音」で呼べるものかどうか、なかなか判断はむずかしい。
 「意味」の重なりを「和音」とは呼ばないだろうが、「和音」に通じる「響きあい」というものがあるかもしれない。「クラヴサン」に出てきた「すきとおった」と「北風」には「響きあう」ものがある。張り詰めた北風、その張り詰めた感じが透明。ふくらんだ春風、熱で濁った夏の風は「すきとおった」とは響きあわないだろう。「すきとおった/秋風」では、こんどは「定型」すぎて「和音」のようには聞こえない。そう考えると、「意味」は「和音」をつくると言えるだろう。
 サイモンとガーファンクルの「7時のニュース」は何を語っているのか。英語は聞き取れないのでわからないが、「ニュースの意味」と「きよしこの夜の歌詞の意味」は響きあっているかもしれない。「音」としては「ノイズ」だが「意味」としては「和音」ということがあるかもしれない。

 詩は、このあと、こう展開する。

時間も描かれた世界地図が
ゆれながら
僕の皮膚に浸透し……

雲から和音が
整った 無色の和音が感じられた

 この二連の「意味」は、よくわからない。
 「時間も描かれた世界地図」とは「三つの声(ことば))」の「意味」がつくりだす世界の姿かもしれない。それが「僕の皮膚に浸透し」というのは、「僕」の「肉体」のなかに入ってきたということ。谷川が、その「意味」を自分と無関係なものとしてではなく、自分に関係あるものとして聞き取ったということか。
 わからないものはわからないままにして、私は最後の行の「整った」ということばに注目した。
 「整った」は「整える」。
 音楽は「整えた」音のつらなりである。「音」を「整える」と「音楽」になる。
 ラジオから聞こえた三つの男の声、三つの「意味」と「音」。
 谷川は、それを「整える」。「音楽」であるかどうかはわからないが、まず「和音」にする。重なりあえるものと、響きあえるものとして「整える」。
 このとき「整える」という「動詞」を担うのは何だろうか。何が「整える」の主語になれるだろうか。
 「耳」か「頭/意識」か。
 「頭」という感じがする。「意識」が「意味」を「整える」、そして「重ねる」。そういう「動き」があるのだと思う。
 ここから、さらに、思う。

無色の和音

 この「無色」とは何だろう。「透明」か。「すきとおった」か。
 あるいは「無色」ではなく「無音」か。
 つまり「静かさ」か。
 谷川は、その「和音」を「雲から」聞き取っているが、私は「雲から」ではなく、むしろラジオで聞いた「三つの声/意味」と読みたいと思っている。
 「三つの声」はもちろん「無音」ではない。「無音」ではないからこそ、「音のないもの=雲」を、その「統合/象徴」として谷川は必要としたのかもしれない、と感じる。
 「意味」は「肉体」のなかに入ってきて、響きあっている。けれど、それを自分の「肉体」にあるという状態ではなく、「雲」という「自然」のなかに対象化して「聞きたい」という気持ちが、そこに動いているかもしれない。







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堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
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吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
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