詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(15)

2018-07-24 08:58:11 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
15 敗者の言い分 オデュセイア遺聞

なぜあいつだけが正義で 俺たちが悪党にされなきゃならないのか

 と始まる詩は、こうしめくくられる。

強弓くらべの殿りに出しゃばり 俺たちを残らず騙し討ちに射殺した
こんな正義があるというなら 冥王にもお妃にも公平に裁いてもらいたい
--こうぶつぶつ呟きながら 血まみれの霊魂たちは一まとまり
冥界の吐気のする霧の中を降りていったものだ ふらふらと

 「俺たち」は「霊魂たち」。それを「一まとまり」と言いなおしている。「一まとまりになって」の「なって」が省略されている。この「一まとまり」は「遭難者たち」の「無名者/名もなく顔もない者」と重なる。「名もない者」と「一まとまり」にされる。
 だが、その「一まとまり」の人間の声は「一つ」ではない。
 この詩では、「俺たち」と書かれていて、「俺たち」の誰かが語っている形式をとっているが、ひとりが代表して語っていると読んではならない。複数の人間がそれぞれに声を上げている。一行一行は、複数の人間に引き継がれながら動いている。引き継ぐことで「俺たち」になる。
 最後に高橋が、それを引き継いだ。「まとまり」は「まとめる」という動詞によって具体的になる。「まとめる」は「ヘクトルこそ」のことばを借りていえば「終わりを身に引き受ける」ことであり、それは同時に「終わらない」につながる。引き継がれ続け、まとめなおしがある。
 「歴史」は、そうやって生まれる。
 高橋は単にギリシア悲劇を語りなおしているではなく、歴史を生み出している。

つい昨日のこと 私のギリシア
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和田まさ子「ブエノスアイレス」

2018-07-23 09:49:03 | 詩(雑誌・同人誌)
和田まさ子「ブエノスアイレス」(「something 」27、2018年06月30日発行)

 和田まさ子「ブエノスアイレス」は『かつて孤独だったかは知らない』収録作品。

ここから見えるのは向かいのホステル
入れ替わり人が入っては消えてゆく
みんな一泊か二泊かすると
どこか知らない街に
行ってしまう
知らないというのはわたしの方で
わたしもやがて
あなたたちの知らない街に行くのだが

 たんたんと「論理」が動いていく。「入っては消えてゆく」はホテルのなかに消えていくではなく、そのご知らない街に行ってしまうということ。「知らない街」だから「消える」。この「論理」の確かさを、どうとらえるべきか。
 さらに、その「知らない」と「消える/行く」を、「わたし」の方に方向転換し「わたしもやがて/あなたたちの知らない街に行く」と言い直し、「わたしも消える」を暗示させる。「消える」ということばをつかわずに「消える」と言いなおす。

 うまいね。

 最終連は、こうである。

キッチンの壁には
ブエノスアイレスの夜の街角で
少年が横向きに立つ大きな写真
ここで迷路に入ったと
もっともらしくいうのはたやすいが
おそらくちがう
懐かしい夢をまだ見ているのだ

 手慣れている。
 私は、この「手慣れた感じ」が好きではない。安定感があるけれど、タイトルは忘れたが「壺」だとか「金魚」を書いていたときのような、どこへいくのかわからないおもしろさがないからだ。

ここで迷路に入ったと
もっともらしくいうのはたやすい

 と和田は逃げているが、否定するから「たやすい」のである。肯定すると、とたんにむずかしくなる。「迷路」を迷路ということばをつかわずに書かないと迷路にならないからだ。
 私が和田の詩を最初に読んだころは、そういう詩を書いていた。
 いまは「うまい」けれど、見慣れた感じがしてしまう。「手慣れ」は「見慣れ」につながる。








*

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かつて孤独だったかは知らない
和田まさ子
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(14)

2018-07-23 09:11:54 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
14 遭難者たち エーゲ海上

波濤の果て イタカへ ざわめく森のザキュントスへ
船はどれほど多くの無名者を零し 波間に溺死させたか

 「主語」は「船」であり、「零す」という「述語」をとっている。目的語が「無名者」ということになる。
 けれど文法の構造とはうらはらに「無名者」こそがこの詩の「主役」である。「主役」と「主語」は一致しない。
 この食い違いは「ヘクトルこそ」の「いちばんの英雄」と「終わりを身に引き受けるヘクトル」の関係に似ている。主役は「いちばんの英雄」ではなく、ヘクトルだった。「いちばんの英雄」であるはずのアキレウス、あるいはオデュセウスはわきにおしやられ、ヘクトルが最後に主役としてあらわれる。
 この詩でも、主役はいつのまにか「無名者」に変わっている。ただし、相変わらず目的語のままである。

弔えよ 弔えよ 名もなく顔のない者をこそ 心こめて弔えよ

 「目的語」のままであるというのは、ヘクトルにも当てはまる。
 最終行は、こうだった。

きみの高潔な魂への 終わることのない讃仰の燔祭

 人はヘクトルを讃仰する。
 人は無名の者を弔う。
 こういうとき、「目的語」とは「対象」なのか。形式的には対象だが、それは「讃仰する」人、「弔う」人としっかり結びついている。「讃仰する」とき、「弔う」とき、人はむしろ、その人になる。一体になる。
 言い換えると、「讃仰する」人、「弔う」人の「生き方」を生きる。「讃仰する」「弔う」とは、自己を死者に昇華させる。死者の行為(動詞)へと肉体を投げ渡す。
 無名の人は、無名の人を「零す」ことはしない。
 「弔えよ」と高橋は命令形で書いているが、「弔う人」になって、そう言うのである。高橋は無名の死者に肉体を引き渡している。

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志田道子「閏九月十三夜」

2018-07-22 14:55:24 | 詩(雑誌・同人誌)
志田道子「閏九月十三夜」(「something 」27、2018年06月30日発行)

 志田道子「閏九月十三夜」は鶏の描写から始まる。

鶏は太古の巨獣の
甲羅の匂いのする
脚を高らかに振り上げて
鋭い悲鳴をあげて
疾走する
百七十一年ぶりの自由
卵を腹に孕んだまま
ではあるが

 鶏の脚は「太古の巨獣の甲羅の匂い」がするかどうかは知らないが、言われてみるとそうかもしれないと思う。あれは不気味なものだ。ことばが「事実」をつくりだしていく、この瞬間に詩が動く。
 その鶏が疾走する。理由は書いていないが、私は卵を産まなくなった鶏が首を切られて、それでも走っていく姿を思い浮かべた。「卵を腹に孕んだまま」が、そう思わせる。私の家では、卵を産まなくなると鶏は首を切られて、食べられてしまう。鶏の腹のなかには、まだ卵になる前の卵(黄身)がたくさんある。
 この疾走が「百七十一年ぶりの自由」というのは、よくわからないが、わからないから「事実」なのだと思うしかない。志田が「百七十一年ぶりの自由」と感じたのだ。(私の「誤読」では、その鶏は死んでしまうのに。死は不幸だが、この鶏にとっては自由なのだ。きっと太古の獣にかわるのだ。)
 この一連目が、二連目でがらりと転換する。

人の胃袋も子宮も外皮だと
最近気づいた
見知らぬ幼子が女の体に入り込むことはない
女の体の外側の一部を
いっとき貸してやっているだけだった
という 理由をやっと見つけて救われた
女は見知らぬ強欲に粉微塵に食い尽くされることはない
なので・・・
蹴る子 殴る子 怒鳴る子 泣く子
たった一度の命を貸してやった恩義も知らず
消えて無くなれ 此畜生

 卵から、妊娠、出産を思い出し、そこから子育てのことも思い出したのだろうか。そこに「太古」が重なる。鶏の脚が太古の巨獣の甲羅に通じるなら、人間の「子宮」は太古はどんなものだったのか。「外皮」だったと志田はいう。「気づいた」という。始めは「外皮」で「子供」を守ってやった。それがだんだん「肉体の内部」に包み込まれるような形になった。包み込まれた「子供」はやがて足で蹴って、外へ出せとせがむ。出してやったら、怒って殴る。怒鳴り散らす。泣いてわがままをいう。なんだ、こいつは、という気持ちだろうか。
 「たった一度の命を貸してやった恩義も知らず/消えて無くなれ 此畜生」は、とっさに出た怒りの声である。抑えることができない。つまり、そこには「ほんとう」がある。
 このことばの運動は、どこへ落ち着くのか。
 三連目。

後にも先にも
夢だけが現身を救うのだから
岩群青の真空に漂う
巨大な月明かりのもと
鶏よ 駆けて行け
もういちど

 「夢」とは「ことば」である。鶏の脚には「太古の巨獣の甲羅の匂い」がすると定義する。「人の胃袋も子宮も外皮だ」と定義する。そうすると、それがいままで存在しなかった「事実」を現実のなかに生み出す。その「ことばが生み出した事実」が志田の「肉体(身)」を救う。
 志田の肉体は、鶏になって、月夜を駆け抜ける。
 「岩群青」という強いことばが、ことばを「神話」に昇華させる。






*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(13)

2018-07-22 09:30:19 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
13 ヘクトルこそ

ホメロス語るいちばんの英雄は どんな英雄か
いちばん強い者でも いちばん賢い者でもない
人生がつまるところ敗けいくさだ と知りながら
運命を背負うことから 逃げることのない勇者

 この四行目は、こう言いなおされている。

祖国の終わりを身に引き受けるヘクトルこそ その者

 「背負う」は「身に引き受ける」。
 書き出しで繰り返された「いちばん」は、どこかへ消えている。
 「いちばん」は何と向き合っているか。どう、言いなおされているか。
 「終わり」ということばと向き合っている。
 「いちばん」は「始まり」、「始まり」の対極は「終わり」だ。
 すべてのことは始まったときにはまだわからない。終わったときに、それがなんだったかがわかる。
 「いちばんの英雄」「いちばん強い者」「いちばん賢い者」は、ことが終わったときにわかる。
 「始まり」は特定できるが「終わり」は特定できるか。「終わり」はあるのか。
 この詩の最終行は、こうである。

きみの高潔な魂への 終わることのない讃仰の燔祭

 「終わり」は「終わることのない」ということばで引き継がれている。「終わり」はない。「始まり」はあるが「終わり」はない。
 「終わることのない讃仰」、それこそが「いちばんの讃仰」という「意味」だが、「意味」で固定してはいけない。
 「いちばん」と「終わり」、さらにそれを「終わることのない」ということばへ動かしていく運動、緊密なことばの変化こそが詩なのだ。


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福岡県警で体験したこと

2018-07-21 12:25:32 | その他(音楽、小説etc)

 5月下旬、福岡市天神の歩車分離交差点(岩田屋、ビオレの対向二車線の交差点)を自転車に乗って渡った。そのとき福岡市中央警察署の交通指導課の職員(三人いたが、責任者はM)に停められ、反則キップを切られた。歩行者の前を横切って、歩行者の歩行を邪魔した。危険行為である、とのことである。まわりの歩行者から「危ない」とかの注意を受けたわけではない。私は自分自身の身の危険を心配するタイプだから、人が近いと止まる。でも、背後を見て運転しているわけではないし、横断歩道を自転車を引かずに渡ったのは事実なので、指導を受けながら、反則キップというものを切られた。
 氏名、年齢、住所、連絡先、職業を聞かれた。身分証明書の提示を求められた。私は目が悪いので運転免許証をもっていない。健康保険証でいいか、と確認して保険証を提示した。
 それから約五十日後。今週の火曜日の昼過ぎ。Mから自宅に電話があった。「健康保険証では身分証明にならないので、顔写真付きのものが必要。さらに住所確認のために公的機関が発行している郵便物も必要」という。
「パスポートならある。パスポートには住所も書いてある」
「手書きのものは、だめ。公的機関が発行している郵便物が必要。いつ中央署来れるか」「郵便物は探してみないとわからない。今週中に行くようにする」
「木曜日に来れないか」
「わからない」
「金曜日には行けると思う」
「金曜日は休みだ。木曜に来れないか」
「わからない。金曜の二時までには行く」
(最後のやりとり、「木曜日に来れないか」は何回かくりかえした。)

 水曜日に時間がとれたので、中央署に行った。そのとき、疑問に思っていたことがあったので、尋ねた。疑問は二点。
(1)なぜ、一か月半以上もたって、こういう連絡があるのか。ほんとうに必要なものなら、すぐに必要とわかるはずだ。
「仕事が多くて、時間がかかってしまった」
 どんな仕事の処理をしているか知らないが、反則キップが要件をそなえているかどうか、点検するのに一か月半かかるとは信じられない。これから先、仕事はどんどん蓄積して雪、処理できないものが出てくるのではないか。
(2)なぜ、写真付きの身分証明書が必要なのか。反則キップを切ったとき、保険証を提示し、警官はそのメモをとっていたし、写真も撮っている。印鑑がわりに指紋押捺もしている。
「顔写真がないと本人かどうか確認できない。住所を確認できない」
「写真は、反則キップを切ったときに撮っている。家に電話をしてきて、それに応じて警察署へやってきている。顔もおなじだろう。それで十分ではないか。もし、免許証と同じように、顔写真と住所が明記された証明書が必要というのであれば、それを明示している文書を見せてほしい」
「文書はない。常識だ。住所の確認ができない」
「住所の確認ができないというのであれば、自宅へ来たらどうですか? 私がほんとうに住んでいるかどうか、確認したらどうですか?」
 郵便物なら借りてくることもできるから、私はそう質問した。すると「約束は金曜日だ。きょうは水曜日で約束と違う。きょうは私(M)は休みだ。前もって、来ると電話連絡したか」という。たしかにMは、ブルーの制服ではなく、白いカッターシャツを着ていたが、休みであるかどうかは、確認していない。(中央署についてから、私がMと会うまでには十五分もかかっていない。Mがどこに住んでいるか、私はもちろん住所を知らないが、呼び出されて出てくるには、あまりにも短い時間である。)
 それで、金曜日に出直すことになった。ばかばかしいが、こういう対処の仕方が警察(お役所)ということなのだろう。
 (この間に、「私は横断歩道を自転車に乗って渡ったが、歩行者のじゃまをした意識はない。歩行者の誰からも抗議を受けてもいない。歩行者と私の距離はどれくらい離れていたのか」「一㍍くらいだ」というやりとりがあった。私は目がよくないので、他人の間をすりぬけるということはしない。一㍍では、自分自身に危険を感じ、すり抜けない。でも、そこで目が悪いというようなことを言うと、「目が悪いのに横断歩道を自転車で走るのか」と言われそうなので、それは言わなかった。)

 金曜日。もう一度、同じやりとりをした。
「なぜ顔写真付きの身分証明書が必要なのか。保険証ではだめなのか」
「保険証の住所は手書きだし、保険証が本人のものであるかどうか顔写真がないとわからない。他人のものかもしれない」
 つまり、私が他人の保険証を盗み、もっていると疑っているわけである。
「疑っているわけではないけれど、他人のものを盗んでもっているひともいる可能性はある」
 これって、ふうつの感覚では盗んだものをもっていると疑っていることになる。警察では「疑っているわけではないけれど」と前にことばをつければ、疑ったことにはならないらしい。
「保険証を提示したとき、メモを取っていた。保険証の発行先に確認したのか」
「確認していない」
 なにもせずに、一方的に保険証は窃盗した可能性がある。だから顔写真付きの身分証明書を提示しろ、ということである。
 それに関する「運用の決まり」については、あいかわらず説明がない。
 いったい「反則キップ」に何を書いたのか。私はキップを切られたとき、特に気にもしなかったが、気になったので、「あのとき作成した反則キップを確認したい。見ることができるか。見せてほしい」と言った。身分確認をどうやってしたか、それをどう記入しているか知りたかったからである。
 「もってくる」とMはその場を離れたが、もどってきたときは上司らしき人と一緒で、もちろん反則キップはない。何も書かれていない状態の反則キップの束をもっていた。

 (なんだ、これは。)

 それからのやりとりは、Mは状況の補足説明がもっぱらで、上司が相手。
「なぜ顔写真付きの身分証明書でないとだめなのか」
「人物が特定できない」
「もし、免許証もパスポートももっていないとどうするのか」
(返事がない。)
「マイナンバーカードか」
(返事がない。私の質問の意味がわからなかったみたいなので、つけくわえた。)
「写真付きのマイナンバーカードをもっていないひとは、それを発行してもらってから、身分証明書にするということか」
「そうだ」
「発行には時間がかかるが、それまで確認を松ということか」
 これには明確には答えで、
「顔写真と住所をその場で確認できればいい」
「公的機関の発行した住所のわかるもの、郵便物が必要というのはなぜか」
「パスポートがあればいい。」
「公的機関の発行した郵便物と二種類必要だ念を押された。役所の発行している郵便物をすぐに見つけ出せるかどうかわからない。だから、いつ行けるかすぐにはわからないと答えた」
「パスポートがあればいい。二種類と伝わったのは説明の仕方が悪かったのかもしれない役所ではなく、電気やガスの郵便物でもいい」
「電気、ガスは企業でしょ? 公的機関ではない」
「公的機関に準じる」

 これはしかし二重に奇妙な論理である。パスポートは外務省が発行している。しかし、発行段階では住所は無記名である。住所は自分で書く。私の保険証も、住所は私の手書きである。そして保険証は会社が発行しているものだが、保険の運用には国家財政も絡んでいるのではないか。それが認められないのはなぜなのか。どうやら、ほんとうの住所かどうかは問題にしていないように感じられる。
 しかも、反則キップを切られたとき、私はすでに自転車と一緒に写真を撮られている。何がほんとうに必要なのか。何を求めているのか。なんだか、ばからしくなった。で、以下は、警官がさらにどんな嘘をつくか、その「証拠」として書いておく。
 (パスポートの手書きの住所は、すでに「証明書」として認めていないところに、東京都がある。以前は戸籍抄本を取り寄せるときの身分証明としてパスポートもOKだったが、いまは受け付けていない。年金のための書類を揃えるときに、パスポートのコピーを送ったら、パスポートはだめ、ということだった。ただし、二度手間をかけるまではないと判断したらしく、「以後はだめ」ということわりつきで、そのときは受け付けてくれた。五年以上前の話である。)

「なぜ水曜日に来たら、約束と違うということになるのか」
「金曜日の二時までに来ると言った」
「公的機関の発行した郵便物はすぐにはわからない。遅くても金曜日の二時と言った。その前に何度も木曜日に来れないかと言ったのはなぜか。なぜ、せかしたのか」
「せかしていない」
「一度ではなく、三度、木曜日を指定された。そんなに急いでいるのならと、水曜日に来たら約束と違うと言われた」
「金曜日だと思っていた」
「金曜日は休みだから、木曜日にと言った。単なる事務手続きだろうと思ったから、担当者がだれであろうがかまわないと思い水曜日に来た」
「金曜日は休みではない。水曜日と事前にわかっていれば、別の人間に引き継ぎをした。木曜日と言ったのは、木曜日なら時間的に余裕があったからだ」
 なんだ、自分の都合か。
 上司がいるので、嘘がつけなくなったらしい。少しかわいそうになってしまった。Mとしては保険証で十分だと思い、対処した。ところが上司からだめだと言われ、顔写真付きの証明書、公的機関の発行した郵便物と言われるままに伝えたということだろう。
 顔写真付きの証明書で本人であるかどうか確認できればいいと言っていたはずなのに、「私は確認しましたが、上層部が納得しないので、パスポートをコピーさせてください」と頭まで下げる。
 約束は金曜日、水曜日に来ても受け付けない、と言ったときとは様変わりである。
 あまりにもかわいそうだ。

 しかし、なぜ、顔写真付きの証明書が必要なのか、いまだにわからない。
 というのも、私は以前車と接触したことがある。進行方向を右折したかった。歩道がふさがり、赤信号で車道の車も止まっていた。中央線よりを自転車で走り抜け、まだ青の横断歩道を渡り右折しようとした。ところが、突然車が動き、びっくりしてバランスをくずした。信号がかわるのを見越してエンジンをかけたのだ。
 このとき私は調書(?)をとられた。免許証はもっていない。会社の名刺もない。でも保険証はもっていた。それを警官は控えた。その後、顔写真付きの住所を証明するものを求められたことはない。示談で処理したとはいえ、実際に事故を起こしているに(保険会社は当然警察に事故内容を問い合わせている)、顔写真付きの身分証明書も要求されなければ、写真も撮られていない。保険が社も写真などは要求して来ない。電話で話しただけである。
 私は車を運転しないから知らないのだが、たとえば駐車違反をする。そのとき反則キップを切られる。免許証で本人かどうかを確認する。反則キップには免許証の番号は記入するだろうが、顔写真を同時にとって添付するということはないだろう。顔写真がなくても上司は納得するだろう。免許証の番号だけでは、ほんとうにその人間が違反したかどうかわからない。免許証が盗まれたものかもしれない、などとは疑わないだろう。(ときどき、免許不携帯のひとが他人の名前を語ることがあるね。)
 しかし、私は自転車と一緒に写真を撮られ、健康保険証を提示し、電話で呼び出しを受け、警察署へ行ったにもかかわらず、保険証が本人のものかどうかわからない、住所がほんとうかどうかわからない、顔写真付きの身分証明書が必要だと言われた。私はたまたまパスポートをもっていたが、もっていなければ「顔写真付きのマイナンバーカード」が必要だと言われた。そういう運用になったのかもしれないが、それならそれで「通達文書」くらいありそうである。「常識だ」というのは、とても変。
 上司が下っぱいじめをし、下っぱが市民にやつあたりしているということかも。やつあたりしているのが上司に発覚し、おどおどしている。
 こんなことで、ほんとうに市民の安全は守れる? 横断歩道を自転車で走り抜けるというとても危険な違反をした人間がいうことではないかもしれないけれど。私のために危険にさらされた人、大丈夫かなあ。あれから五十日、ショックが心臓発作をひきおかした、ということにでもなっていないだろうか。そのとき、損害賠償は、どうなるかなあ。 




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高橋睦郎『つい昨日のこと』(12)

2018-07-21 09:35:00 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
12 怒り イリアス序説

女神よ 怒りを歌え とは 聴衆よ 怒りを見つめよ ということ

 この一行目は、非常に批評的だ。「ということ」という言い方が、怒りを客観的に見つめている印象を誘う。
 そのせいだろうか。余分なことを考えてしまう。
 「女神よ 怒りを歌え」とは女神に対する命令なのか。「聴衆よ 怒りを見つめよ」は聴衆への命令なのか。女神にも、聴衆にも命令する、その人は誰なのか。上演される「悲劇」の演出家だろうか。演出家ならば、女神を演じる役者への命令が第一だが、そうではなく聴衆(観客)に対する命令(怒り)の方が強い。
 女神に対する命令と、聴衆に対する命令の間にある「とは」は、「言い直し」をあらわしている。女神に命令しているように見えるが、そうではなく、聴衆にこそ命令している。「舞台/劇場」が遠ざかり、奇妙なねじれに入り込んでしまう。

自らそうなると知りつつも あらかじめ消すことのできないのが
怒りという炎

 「意味」はわかるが、怒りに直接触れている感じがしない。

身を入れて聞き入りながら 聴衆は自分のこととは悟らない

 高橋は演出家になって、聴衆に「悟れ」と怒っているのだが、おもしろくない。
 「悟らない」(悟れない)からこそ、ことばが動く。そして、それこそが「聴衆(人間)」の「悟り(醍醐味)」なのだ。悟ったらことばはいらない。聞く必要もない。
 最終行の「身を入れて聞き入りながら」の「身を入れる」ということが聴衆の「悟り」だ。ことばのなかに「身を入れる」。身がなくなる。「聞き入る」の「聞く」という動詞だけが存在する。動詞になってしまう。
 書き出しの「見つめる」とは「見入る」こと。「見る」という動詞のなかに身(肉体)を入れてしまうこと。つまり、怒りの肉体になることだ。「悟り」を突き破って「怒る」という動詞そのものになるというのが、観劇の醍醐味ではないだろうか。

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(11)

2018-07-20 00:37:35 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
11 カッサンドラに

もはや許しを乞うのはやめよ 容れられぬことをこそ
真の予言の証しとせよ 神にも人にも拒まれて
お前の孤高の眩しさは 目も開けられぬほど

 「容れられぬ」は「拒まれる」と言いなおされている。人と神に「容れられぬ」、人と神に「拒まれる」。
 この状態を「孤高」と高橋は呼ぶのだが、なんと美しいのだろう。

 美しいと私は思わず書いたが、なぜ美しいのだろう。
 書いてから、私は考え始める。
 「容れられぬ」「拒まれる」、その結果としてカッサンドラは何になったのか。「肉体」ではなく、ことばそのものになったのだ。「孤高」とはことばのことなのだ。
 
 ことばは、カッサンドラを「容れる」(拒まない)。カッサンドラはことばになる。

 だが、同時に私は、こんなことも考える。
 「予言」は、どうなったのか。
 予言は、ことばである。実体のそなわっていない非現実。あるいは未生の現実。それは神とも人間とも無関係である。非現実を未生現実と言い換えてみるとわかる。ことばが現実を超えてしまっているときに、ことばの「孤高」が生まれる。ことばが現実を超えてしまった。現実はことばに追いつけない。
 究極の「予言」が、このときに誕生する。

 神と人に容れられず、拒まれて、カッサンドラ自身、その肉体のあり方が「予言」そのものになった。神にも受け入れられず、他の人々からも拒まれる。それは人間の究極の生き方である。人は誰でも神に受け入れられず、人に拒まれる運命にある。つまり、悲劇のなかへ人間は突き進むのだ。
 それは絶対になりたくない状態である。だから拒もうとするのだが、その予言としてのカッサンドラへ人間は突き進むことしかできない。




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藤原安紀子「( 原語修復 )」

2018-07-19 12:14:48 | 詩(雑誌・同人誌)
藤原安紀子「( 原語修復 )」(「みらいらん」2、2018年07月15日)

 藤原安紀子「( 原語修復 )」は死んだ兄を思い出す詩である。故人を思い出すことを「記憶を修復する」と言いなおすことができる。記憶の純粋な状態、最初の状態を「原状」と呼べば、そこに「原語」の「原」の文字があらわれる。「記憶」とはことばによって語るもの。そういう「意味」が込められている、と私は「誤読」する。

生まれつき、とはなんですか
流動するさきの背景がうつむくかげんで折りたたまれていた、ただそれだけのことです
わたしの半生が軌道のみどりを作業する、曲がりびと
( 呼ばれびと )である兄が
握りしめた指の

 「生まれつき」は「折りたたまれる」「曲がる」ということばで言いなおされる。それは「握りしめる」とさらに言いなおされる。
 これは「記憶」をほどくと同時に、記憶をとじこめもしている。
 「兄」は何か「生まれつき」、真っ直ぐでないものを兄の個性としてもっていた。その「個性」で「呼ばれ」つづけた。「呼ぶ」とは、「あらわす」ことである。「呼ぶ」とは「名前」をつけることである。その「名前」は、兄の「比喩」である。「比喩」は「原状」を別なことばであらわしたものだ。そういう関係を暗示させながら藤原のことばは動いている。
 「原状」を語ることばがどこかに存在したはずだが、それは語られない。
 直接的なことばは避けられ、何度も言いなおす。言い直し、言い直しをさらに言い直しに繰り返す。その運動のなかに原状を隠してしまう。
 でも、そうなのか。
 違うかもしれない。この原状を隠すという運動そのもののなかに「原状」がある、隠すという運動が「原語」の本質である。

 明らかにするのではなく、ただ隠す。隠すために語る。隠されたものが何か、それに「名前(比喩)」はいらない。何とでも呼ぶことはできる。何度でも言いなおすことはできる。繰り返しながら「原語」そのものになる。この作業を「修復」と藤原は読んでいるようだ。

砕けた関節にはじまり、六角形を入れ子状にしながら増殖と反復をつづける
さいごの箱庭の片隅に結ばれていたとしても

 「増殖」と「反復」をつづければ、それは「原状(原語)」から遠ざかってしまう。「増殖」と「反復」によって生まれてきたものをとりのぞくことが「原状(原語)」へちかづくということだ。だが、それは「原語/原状」を「名詞」としてとらえたときの定義である。「修復する」という動詞に重点を置いて見つめなおせば、「増殖と反復」こそが「原語/原状」がもっている力そのものを定義していることがわかる。
 だから、

「解体する前提でつくられた骨組みですから、記録などたやすいことでした
仮に時間を( 星 )とすれば思いのほかひとに似た文字をかくこともできたのです。箱庭をしめす喪木のあることが、途切れない手のうごきとなり、情動は湧くそばから気化します
さしずめプロテクターとして」

 というような「謎解き(自己解説)」はない方がいいと思う。読者の「誤読」を拒んでいる。「誤読」されることで詩は読者の「孤独」に届く。ことばはそのとき「御毒(ごどく、と読んでほしい)」になる。貴重な「毒」になる。「解毒」してしまっては、味もそっけもない。

*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(10)

2018-07-19 09:58:23 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
10 予言 アルゴー号顛末

若い日の悪業すら その無残な結果すら
ひそひそ話にもせよ 語られなければ
きみの一生は いったい何だったのだ

 語る、とは何か。人は「きみ」の「みじめな死」を語る。きみの人生が語られる。ことばを通して、人は、きみの人生を知る。きみの代わりに、ことばが生き始める。
 直前に、

死んだことすら 誰にも知られないよりは

 という一行がある。
 語られたことを聞いて知るだけではなく、語られたことを語り継ぐことで人はきみを深く知る。自分のものにする。語る人は、語ることで、きみを生きなおす。きみになる。
 ことばのなかに、きみが生きる。きみが、ことばになって生きる。
 このとき、きみとことばは同じか。
 同じに見えるが、違う。
 きみは死んでしまってここにはいないが、ことばは生きている。語られることで、きみは「不死」を手に入れる。
 「一生」は、こうやって「永遠」になる。

 この詩のなかでいちばん重要なのは「語る」という動詞だ。
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シドニー・シビリア監督「いつだってやめられる 10人の怒れる教授たち」(★★)

2018-07-18 20:04:54 | 映画
シドニー・シビリア監督「いつだってやめられる 10人の怒れる教授たち」(★★)

監督 シドニー・シビリア 出演 エドアルド・レオ、グレタ・スカラーノ、バレリア・ソラリーノ

 私は「いつだってやめられる7人の危ない教授たち」を見ていないのだが。
 うーん、これはたしかにイタリアならではの人間劇である。合法ドラッグをめぐる大学教授たち。専門がそれぞれ違う。言い換えると、個性派ぞろい。そんな人間がどうやって団結する? 一つの目的に向かって結集する?
 私は、ここで和辻哲郎を思い出してしまう。和辻はシスティーナ礼拝堂の有名なフレスコ画について、こんなことを言っている。「あれだけごちゃごちゃ描いていて、それがうるさくないのはイタリアが独立統治の国だからだ」と。つまり、それぞれの都市が独立した感じで統治されているのがイタリア。ローマとフィレンツェでは、同じ国とは思えないほど空気に違いがある。そういう「生き方(思想)」を反映して、それぞれの区画が独立している。他の領域を侵害しない。
 システィーナ礼拝堂で、私はなるほどなあ、と思ったが、その「なるほど」をこの映画でも感じた。教授たちは、それぞれ専門がある。その専門のことは、まあ、他の人も知ってはいるが、他人の分野には口出ししない。その人にまかせてしまう。そうすると、それぞれは協力するしかなくなる。一人でできることは限られているからね。
 そして、この独立統治が警察でも行われている。組織なのに、組織ではない。自分はこれをやるんだ、と決めて、その分野を統治している。ドラッグを取り締まる(摘発する)組織なのに、それがぜんぜん大がかりではない。「個人の趣味」という感じがする。躍起になる女刑事とその上司。警察は、ほとんど二人しかでてこないのは、この映画の世界が女性刑事が「独立統治(独立操作)」する領域だからである。こんな嘘みたいな組織構成は、たぶんイタリア以外では考えられない。イタリア人は、こういう「独立統治」をあたりまえと思っているようである。
 だから(と言っていいのか)、活躍するジャーナリストも「独立統治」の女性。ひとりでブログを書いているだけ。「どこの新聞?」と聞かれて「フリーランス」と平然と答えている。ひとりで、彼女自身のブログを統治している。
 この映画がおもしろいのは、でも、実はその後のことかもしれない。主人公の「独立統治(国家)」はいったん亡びる。そうすると、彼らが知らないうちに、それとそっくりの「独立統治(組織)」が暗躍していて、しかも、主人公たちの「失敗」をしっかり学んでいるので、どじは踏まない。失敗はすべて主人公たちの「独立統治(組織)」に押しつけてしまう。
 ローマ帝国は遠い歴史のかなたで滅んでしまったようだが、あいかわらずイタリア(ローマ)は悠然と存在している。ローマ帝国というのは、いわば泥棒の国だが、いまはそれを「国家」としてはやっていないが、「個人」にまかせて知らん顔をしている部分がある。「独立統治」というのは、「統治しない部分」を常に残しておいて、その「統治しない部分」は他人にまかせてしまうということでもある。
 イタリア人を個人的に知っているわけではないが、このばらばらでありながら統一感を保つというのは、イタリアならではなんだろうなあと思う。フランス人なら、もっと個人と個人が密接になるし(他人の悩みを共有したりするし)、アメリカ人なら合理的組織をボスを頂点とした強固なものにするだろうなあ。アメリカならヒエラルキーを「民主主義」と言いなおして、組織を作るだろうなあ、などと思いながら見た。

 (2018年07月18日、KBCシネマ1)



 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(9)

2018-07-18 14:58:17 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
9 アガウエがペンテウスに言う バッカイ

逃げ出すお前をつかまえて 手も 脚も 首根っ子も
引き抜いて捨ててやる 手は手 脚は脚 頭は頭
ばらばらになって ばらばらに泣くがいい 叫ぶがいいさ

 この三行に、私は高橋の、女への強いあこがれを感じる。女の肉体は一つ。一つが完全につながっている。ところが、男は、手は手、脚は脚、頭は頭とばらばらに存在する。ばらばらになったら、もういのちはないのだが、それでも男の手、脚、頭はきっとばらばらに自己主張する。母親(アガウエ)が息子に向かって怒っているのだが、そのことばをきちんと聞きとれるのは、男(ペンテウス)が手は手、脚は脚、頭は頭と思っているからだろう。人は、自分の知らないことは聞きとることかできない。

あたしの息子だって? 誰のことだ? 知らないね
そんなもの 産んだ覚えも 育てた覚えもありゃしない

 冒頭の二行には男にはつらい。男は母とのつながりをことばで確かめるしかない。ところが女は、ことばにしなくても肉体は一つと知っている。息子は自分の肉体と一つになっている。生まれ出て、別個の存在として生きている、というのは「客観的」な事実のように見えるが、母にとって「客観的事実」など、どうでもいい。「主観的事実」があるだけだ。いつでも肉体は一つなのだ。
 だからこそ、平然として「ばらばらになって ばらばらに泣くがいい 叫ぶがいいさ」と言える。ばらばらにしても、それはばらばらではない。つながっている。
 嘘と思うのか。嘘ではない。だから、ほら、こうすればすぐ一つになる。

あたしの十本の指を染めたお前の血は 両の乳房と
下腹に塗りつけて 残りは口に入れて舐めとってやる

 こんな「一つ」になる、そのなり方は、男にはできない。
 高橋は、女になって、この詩を書いている。

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(8)

2018-07-17 10:25:06 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
                         2018年07月18日(火曜日)

8 クリュタイムネストラ主張する アガメムノン

 タイトルに強さがある。「クリュタイムネストラは主張する」だと弱くなる。助詞が省略されることでクリュタイムネストラが「主語」ではなく「肉体」として現前してくる。言い換えると、「主張」の内容よりも前に、「主張する」という動詞が、肉体そのものとして動く。「主張したい」という欲望が前面に出てくる。
 なんと言ったか。

夫は夜ごと 幾人もの下腹に淫欲を吐き出しつづけた
その間 妾はひたすら一人の密男と睦みあっただけ

 アガメムノンは複数の女を相手にしている。クリュタイムネストラは一人の男と交わっただけだ。なぜ私だけが非難されなければならないのか。なぜ、男と女が対比され、複数と一人は対比されないのか。論理が先に語られる。しかし論理は怒りではない。怒りは別の形で暴走する。
 「夫の開いた傷口からどくどく溢れ 流れていくどす黒い血潮」を引き継いだ最終行で、こう言いなおされる。

妾ひとりのではない 耐えてきた女たちすべての勝利の徴だ

 クリュタイムネストラは複数の女を代表し、一人の男、アガメムノンを糾弾する。このとき「複数」は「すべて」と言い換えられているのだが、その「すべて」は「複数(具体的な人数)」ではない。具体的な人数を超える。具体的な人数に含まれない人をのみ込み暴走することで「怒りのすべて」になる。そして「怒りのすべて」になったとき、それは同時に「一人」にもどる。
 それはクリュタイムネストラという一人ではない。「主張する」という動詞としての一人である。誰かが主張するのではなく、怒りそのものが主張する。すると、そこに人間が出現する。
 クリュタイムネストラは主語ではなく、主語(主役、と言いなおした方がいいかもしれない)は「主張する」という動詞である。動詞が主役になることで、クリュタイムネストラは「神話」になる。「悲劇」は「事実」になる。つまり、それは他人のできごとではなく、自分自身の事実になる。


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石松佳「詩篇」

2018-07-16 11:35:28 | 詩(雑誌・同人誌)
石松佳「詩篇」(「Sister On a Water 」1、2018年06月01日)

 石松佳「詩篇」は「小詩集」という感じか。「pet cemetery」は飼っていたうさぎが死んだことから書き始められている。
 その途中に、こんな行がある。

                    テーブル・テニスの音は
単調だけれど、そこにはひとつの階段のような告白がある。

 「階段のような告白」とは何か。わからないが、「階段のような」という比喩が印象に残る。石松は、いま、そこにはない、どんな階段を思い浮かべたのか。ひとは、いつ階段を思い浮かべるか。わからないが、この階段を思い浮かべる、比喩として引き寄せる瞬間に、なにか「たしかなもの」を感じる。階段といわなければならなかったのだろう。

 つぎにこんな行にも出会う。

                      どんな手話であっ
てもすぐに消えていって、家事を終えると、指先がたしかにあるこ
とをふしぎに思う。

 ここにも驚いた。「手話」が消えていくように、ことばも消えていく。でも、手話につかった指先(手)は、いつまでも「肉体」として存在する。ことばは頭が覚えているのだろうか。手話は手(指先)が覚えているだろうか。
 手話のことはよくわからないが、手と言わず「指先」と限定しているのは、指先の動きに「感情」があらわれるのかもしれない。それは声と同じように微妙だろう。わかるひとにはわかる。なによりも問題なのは、言った人(手話をつかった人)の「肉体(指先)」にそれが「残る」ことだ。「肉体」に何かが蓄積し続ける。
 ここに「たしか」ということばがつかわれている。
 石松は、その「たしか」に苦悩している。「たしか」のなかに石松がいる。

 「リヴ」という作品では、つぎの二か所が印象的だ。

私小説のような、わたしのnephew,
北方の先にあるものはまた北だった、

まるで野を拓くかのように、
冷たい花束を置く
原野って、いつでも心理的だった

 これはともに「短歌的」な音のうねりだと思った。
 「Sister On a Water 」には歌人がつどっている。石松もまた歌人なのだろうか。




*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(7)

2018-07-16 08:35:56 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
                         2018年07月16日(月曜日)

7 姉と弟 エレクトラ オレステス イピゲネイア

母殺しの罪過に弟が狂うとき なぜか唆した姉の姿はない
さすらいの狂人を浄めるのは別の姉 父の船出の風待ちのとき
犠牲に葬られたはずの姉が 機械仕掛けの女神よろしく
突如出現して弟を救う--姉がいなければ 弟は存在しない

 「姉がいなければ 弟は存在しない」は姉がいなければ弟は死んでしまう、ということだが、それだけではない。姉が弟を唆して母を殺させた。姉がいなければ、殺人者としての弟は存在しない。まず、その事実がある。
 弟でなくてもいい。結果よりも、それに先立つ仮定(条件)の方が重要である。もし姉がいなければ。

 ここからギリシャ哲学へ進んでみよう。
 仮定する。その仮定の後に「事実」がやってくる。「ことば」がある。その後に事実がやってくる。

 ひとはまず事実から出発して思考するが、思考が積み重なると、思考が事実を求めるようになる。思考の正しさが、事実を発見させる。
 現代は理論物理を実証物理が追いかける。思考で考えたものにあわせて事実を探し出す。証明する。
 これはギリシャ悲劇の時代から、人間の行動としてあったのだ。

 これは何を意味するだろうか。
 ことばが動き、ことばがある世界をつくりだす。その世界へ向けで、事実が追いかけてくる。
 詩は事実に先行して動いていくことばである。
 高橋は、ギリシャ(悲劇)から、それをくみ取っている。そうしたことばの運動を生きている。


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