詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(39)

2018-08-16 10:15:54 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
39 出会いは

 この作品は「38 少年に」の語りなおしとして読むことができる。

二千五百年前の二十歳と 二千五百年後の八十歳が
愛しあった それを不似合いの二人と きみは言うか
八十歳の二十歳への愛は 何処から見ても 掛け値なしの純金
二十歳の八十歳へのそれも 金メッキではない と思いたい
この奇蹟の恋愛譚の作者は 偶然あるいは偶然の仮面を被った必然
どちらにしても出会いはやすやすと時空を超える ということ

 「きみと言うか」は質問であるが、「言わせないぞ」という抗議でもある。
 しかし、「二千五百年前」と「二千五百年後」は、どこで出会うのか。「二千五百年前」なのか、「二千五百年後」なのか。高橋は断定を避け、「時空を超える」と言っている。「時間」ではつかみとれない「時間」のなかで出会う。
 この詩で重要なのは、むしろそういう「論理的」な意味ではなく、「やすやす」という副詞の意味合いだろう。「安易」いう「意味」だが、「安易」では意味になりすぎる。「論理」になりすぎる。つまり、「頭」で言いなおしたことばになってしまう。「やすやす」は「時空」のように「頭」でつかみとることば、あるいは「頭」ででっちあげることばではない。もっと「肉体」にしみついたことばである。「やすやす」とやってのけるというとき、それは「頭」では考えずに、無意識にやってしまうというのに近い。
 「愛」もそうなのだ。
 「頭」で考えたりはしない。少年の美しさを「成熟を拒んだ」結果であるというような言い方は「頭」の仕事である。「肉体」はそういうことばを必要としない。だからほんとうは「時空を超える」のではなく、「ことば」を超える。ことばを必要としない。出会って、見つめ合って、交わる。それは「瞬間」として起きるできごとだ。

 この愛に、矛盾というべきか、問題があるとしたら、高橋はそれをことばにしないではいられないということ。詩にしないではいられない。「ことば」を超えるできごとなのに、「ことば」で語らずにはいられない。


つい昨日のこと 私のギリシア
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「平成最後」という必要はあるのか。

2018-08-15 20:08:44 | 自民党憲法改正草案を読む
「平成最後」という必要はあるのか。
             自民党憲法改正草案を読む/番外220(情報の読み方)

 読売新聞2018年08月15日の夕刊(西部版・4版)の一面の見出し。

平成最後 終戦の日/戦後73年 陛下「平和な歳月に思い」

 「平成最後」ということばが気になって仕方がない。来年「改元」がおこなわれ「平成」ではなくなる。だから「平成最後」と言うのだろうが、「終戦の日」を「平成」や「昭和」という「区切り」で区切ってしまっていいのか。当然のことながら「昭和最後 終戦の日」というのはなかった。あとから、あれが「昭和の最後」だったとわかっただけである。では「平成初」というのは、あったのだろうか。新聞やテレビで、そういう言い方がされただろうか。「追悼」をするのに「最初」や「最後」というのは、私にはどうにもなじめない。
 思うのは、「平成」であるかどうかではなく、きっと「最後」の方に重点が置かれているのではないか、ということである。もう、いまの天皇には公式の場では追悼させない。最後だぞ、という「念押し」をしている。念を押しているのは、もちろん安倍である。そして、その「念押し」にマスコミが加担している。

 追悼に「最後」ということばをつかってはいけない、とだれかひとり叫ばなかったのか。「最後」ということばを、遺族や心でいった人はどう受け止めるか、それを考えた人はいないのか。

 追悼に「最後」ということばがつかわれれば、それはすぐに「新しい戦争」を生み出すだろう。そして新しい戦争が始まれば、追悼している余裕などない。つぎつぎに戦死者が生まれる。その人たちを追悼するのに忙しくて、「過去の戦争の死者」を追悼する余裕などなくなる。いま死んでいった人を追悼せずに、なぜ70年以上も前に死んでいった人を追悼するのか、ということになる。だいたい「終戦」を振り返るのではなく、いまの戦争に集中しないといけない、ということになる。
 「平成最後」ということばは、簡単に「最後の終戦の日」へと変わっていく。
 実際に起きていることを見れば、それははっきりする。
 安倍は、この終戦の日の追悼式を待たずに、憲法改正を次の国会で提案すると明言した。次期総裁選への出馬も明言していないのに、である。その改憲案には、自衛隊を憲法に書き加えるという内容がある。(文言はまだ明確にされていない。)最高責任者(指揮官)として自衛隊を指揮する。軍事力を背景に、独裁をすすめるという安倍の野望がくっきりと描かれている案である。北朝鮮を攻撃するのか、中国を攻撃するのか、ロシアを攻撃するのか、そこまでは明確に書かれていないが、独裁者になることだけは明確に書かれている。「開戦」のための憲法改正である。
 「終戦の日」は、いつでも「開戦」によってのみ「最後」となる。

 すでに「天皇の悲鳴」で書いたことだが、私は「御霊」ということばにも疑問をもっている。
 天皇は戦没者追悼式では「御霊」ということばをつかわない。(東日本大震災の犠牲者を悼むときは「御霊」ということばをつかっている。)一方、安倍は「御霊」ということばを頻繁につかう。安倍は「御霊」が好きなのだ。自分の代わりに死んでいってくれる人間が好きなのだ。言い換えると、人を殺したいだけなのだ。殺しておいて、死んだ人を「御霊」と呼ぶ。
 広島、長崎では、一瞬の内に市民がなくなった。彼らは戦場で戦って死んだわけではない。しかし「御霊」ではないのか。なぜ、戦場で戦って殺された人間だけが特別待遇の形で靖国神社に祀られ、「御霊」と呼ばれるのか。(安倍は「戦禍に遇い」ということばを差し挟んではいるのだが。)
 安倍は防衛大学校の卒業式で、「私の右手(片腕)になれ」というようなことを言っている。安倍自身は戦場から遠い場所にいて、軍隊を指揮する。軍人は、安倍の代わりに戦場で戦い、必要なら死んでこいといっている。「御霊」として称讃してやる、と言っている。
 「最後の終戦の日」ではなく、「開戦」へつづく「最初の日」として、私はこの日を記憶したい。








#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(38)

2018-08-15 12:37:13 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
38 少年に その名はエペボス イスタンブル考古学博物館

 博物館で見た少年の姿に高橋は問いかけている。

きみの年齢は十五? それとも十三歳?
ではなくて二千歳 だとすれば きみの その
匂い立つばかりのみずみずしさは 何ゆえ

 問いかけながら、問いかけていない部分もある。「ではなくて二千歳」は少年の答えではなく、高橋の「答え」である。なぜ、そう答えたのか。二千年前につくられた像だから二千歳なのか。もしそうだとすれば、「きみの年齢は?」という問いかけではなくて、「何年前につくられた?」という問いかけでなくてはならない。でも、高橋は「年齢」を問いかけながら、答えとして像がつくられた年代、それからいままでの年月を答えとしている。
 ここには「飛躍」がある。あるいは「論理の矛盾」がある。
 ほんとうは年齢など問いかけてはいない。「二千年」も少年の像が経てきた時間ではない。少年の像が二千年前から「いま」にやってきたのではない。逆なのだ。像を見た瞬間に、高橋は「二千年前」を現在として生きている。言い換えると、高橋は「二千年前」にもどって像と対面している。
 だから、これにつづくことばは「二千歳」の男に対してではなく、十五歳か、十三歳かの少年に向けて語られる。

理由は その先にある成熟を拒んだこと
成熟につづくのは頽廃 更なる先は衰亡

 これは「何ゆえ」という問いに対する答えの形式をとっているが、語りかけなのだ。少年に対して「成熟を拒め」と言っている。成熟すれば頽廃する。さらには衰亡へとつづく。それが美の宿命だと高橋は知っている。だから、そうなるな、と語りかける。
 像にさえ語りかける。二千年の時間を超えて語りかける。そこに高橋の愛と欲望がある。高橋は像に語りかけながら、成熟を拒んだ少年になろうとしている。いや、すでになっている。それが高橋の愛と欲望なのだが、少年は単純に助言を受け入れるほど初ではない。
 八十歳の高橋を見つめて、人間の宿命をあざ笑っている。
 老いることを拒んだ少年の声が、高橋に、少年への「助言」を語らせるという逆説的な形で動いている。それを高橋は、喜びとして受け止めている。出会うこと、対話できることが、ことばが行き交うことが詩の喜びだ。それがどんなことばにしろ。

つい昨日のこと 私のギリシア
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谷川俊太郎『バウムクーヘン』

2018-08-15 09:46:33 | 詩集
谷川俊太郎『バウムクーヘン』(2018年念09月01日発行)

 谷川俊太郎『バウムクーヘン』を読みながら、ふと思うことがあった。知人に「これ読んでみて」と「あさこ」という詩のページを開いて見せた。

おんがくしつであさこはハイドンをさらっていた
わたしはうちでおなじきょくをひいてみた
なんどかつっかえたけど
わたしのほうがうまいとおもった
あさこはらいねん ウィーンへいく

わたしはそらをみるのがすき
あおぞらじゃなく くもをみるのがすき
くもはじっとしていない
かぜがないときでもかたちをかえながら
いつもゆっくりうごいている

わたしはあさこが きらいなのかすきなのか
わからない でもともだちだとおもう
ときどきひみつのはなしをメールでするから
あうとだいたいしらんかおだけど
あさこなんて ださいなまえ!

 「この、わたしって、男だと思う? 女だと思う?」
 「男」
 「えっ、どうして?」
 「なんとなく」
 あ、谷川俊太郎の詩とわかっていたからなのかなあ。
 私には、どうみても「女の子(中学生くらい)」にしか思えない。どうして、そう思うのか。もしかすると私の「女の子」に対する「固定観念」がそう思わせるのか、それを考えたくて尋ねてみたのだが、予想外の答えにとまどってしまった。
 で。
 今度は本を見せずに、コピーしたものを何人かの知人に見せた。男二人。女六人。
 全員が「女」と答えた。しかし、「どうして?」の質問には「なんとなく」が多い。「一連目の行動が女の子っぽい」「赤いスカートの女の子が目に浮かんできた」「すきかきらいかわからないけれどともだち、という言い方が女の子っぽい」「ときどきひみつのはなしをメールでするから」が女の子っぽい。「でも、あさこなんて ださいなまえ!、という批判的なところは男かなあ」。最初の知人も、ここが男っぽい、ということだった。私は逆に、こういう身がわりの速さが女だなあ、と思った。男はもっと「論理的」で、いままで言ってきたことと違ったことを、突然言うことができない。
 「年齢は?」「小学校低学年(ひらがながで書いているから)」「五、六年生くらいかなあ」と女性陣。「でも、ウィーンへいくから、小学生じゃないかもしれない」とか。
 男二人は「中学生だな」。ひとりは「うちの娘がこんな感じだ」と。
 私も中学生だと思う。中学生の男子が、女子を意識し始めるときに見えてくるもの、自分(男)とは違う異質なものが、なまなましく動いている。小学生のときには気がつかなかった何かが動いている。「なんどかつっかえたけど/わたしのほうがうまいとおもった」というライバル心とか、「すきかきらいかわからない」とか、「ときどきひみつのはなしをメールでする」とか。特に、「ひみつのはなし」のうさんくささが中学生の女子だ。男は「秘密の話」などしない。「秘密」はひとりで抱え込むものだ。いったん話してしまったら、それは「ふたりの秘密」ではなく、「仲間であることの確認」だ。いつオナニーを覚えたか、とか何回するか、とか。
 で。
 私が確かめたかったことにもどるのだが。
 ひとは生きている内に、知らず知らずに「女はこういうもの、男はこういうもの」という「感覚」を肉体の内に積み重ねる。それがことばに触れて、「あ、女だな」とか「これは男だな」という印象を持つ。「女がよく描けている」「こどもの心の動きが生々しく描写されている」というような批評は、ある意味では「固定観念」から発せられたものである。「固定観念」ではなく「共通認識」だというひともいるかもしれないが。
 どうして、そういうことが起きるのか。わからないけれど、人間は、そういうふうに育つのかもしれない。

 でも、たとえばこの詩の「わたし」が「女の子」だと仮定して、谷川は、どうしてこんなに巧みに「女の子」のことばを語ることができるのか。
 『こころ』の感想に書いたと思うけれど、谷川は他人の「声」が聞こえるのだ。シェークスピアのように、他人の声をそのまま自分の「肉体」のなかに取り込み、肉体として覚えている。ふつうは(?)、自分の声と他人の声を切り離してしまう。他人の声は、聞けばわかるが、自分の声にはしない。物真似、というのがあるが、それは目的が違う。物真似は、カリカチュア(批判/異化)だが、谷川の「他人の声」には批判が含まれていない。むしろ「同化」で成り立っている。
 そんなことを私は考えていたのだが、ひとりの女性がとても鋭い読み方をした。
 「詩のわたしは女の子だけれど、男の人が女の子のふりをして書いているような気もする」
 「どうして?」
 「うまく言えないけれど、ハイドンが出てくるところが何か違う」
 (トーンが芸術的すぎるということか。「さらう」に一瞬迷った、という声もあった。「おさいらい」の「さらう」なのだが、いまはそういうことばをつかわないのかもしれない。このあたりが「女の子」ではなく、年配の男なのだろう。)
 すると、
 「二連目が、よくわからない。なぜ、突然、空と雲にかわるのか」
 という声も。
 たしかに、ここには「女の子」らしさがない。むしろ「少年」の感覚か。
 そんな話をしていると、ひとりが突然、こう言った。居合わせたみんなが驚いた。
 「女の子って、私の方がうまいと思っても、わあ、あさこちゃん上手と、手をたたいたりするんだよね」
 これはある意味では「核心」をついていたのか、「〇〇さんにほめられたら、気をつけないといけないね」と、突然、話しが盛り上がってしまった。
 「あさこなんて ださいなまえ!」に通じるのだけれど、表面のにこやかさとは裏腹に、女はある瞬間、ぱっと変化する。別の感情がなまなましく動く。
 話が盛り上がったのは、〇〇さんを批判する(からかう)というよりも、自分と共通するものが突然出てきたので、それを隠すために、すべてを〇〇さんに押しつけたという感じだな。これも、ひとつの「女の保身術」か。
 ある意味で、彼女の発言が、この詩のいちばんのポイントだったかもしれない。

 詩は、ひとりで読むよりも、こんなふうに、詩をほとんど読まないひとのなかで読み直すと、まったく違うものが見えてくるので楽しい。

 話の後、「種明かし」に谷川の詩集を見せたら、「装丁がかわいい」と評判になった。最初に詩集を見た男も「あ、女の子が買いそうな、かわいい本だなあ」と言った。
 私は本の装丁にはまったく関心がない。印刷されている文字というか、ことば以外に感心がない。みんな同じ形にしてくれれば、本の整理がしやすく、どんなにいいだろう、といつも思っている。
 「どこが、かわいい?」
 「ミッフィーみたい」
 「どこが?」
 「花の黄色と緑の感じとか」
 「本の角っこが四角じゃなくて、丸いところも」
 うーむ。
 「角の丸さ」については、最初に詩集を見た知人(男)も指摘していた。そうなのか。そういう細部に人は目を向けるものなのか。
 というようなことも、思った。



 不満を書いておこう。
 「とまらない」という詩。

なきだすとぼく とまらない
しゃっくりみたいに なきじゃくって
なきやみたいのに とまらないんだ
もうなみだは でてこないのに
もうなにがかなしいのか
わからなくなっているのに
 
 この前半は好きだなあ。「泣いている」ということを伝えたいだけなのだ。むかし、そういうふうに泣いたなあ、と思い出す。
 でも、

ほんとはおかあさんに しがみつきたい
でもぼくはもう
いちにんまえの おとこのこだから
あまえてはいけない
そうおもったらまた
まえよりもっと かなしくなった

 この後半は「論理的」すぎる。「まえよりもっと かなしくなった」は、意味はわかるが、感情がついていかない。いや、私の「肉体」がついていかない。
 「かなしい」ではなく、何か「じれったい」ような、自分で自分の体をもてあますような感じではなかったかと、私は遠い昔を思い出す。
 「わからなくなっている」というところがよかったのに、「かなしい」と「わかってしまう」のは、論理的すぎる。

 「くらやみ」という詩のなかほど。

くらやみにはなにがいるのだろう
めにはみえないのに
みみにもきこえないのに
こころはなにかにさわっている

そのなにかとなかよくなりたい
それはわたしのこころのなかにいるのだから

 この部分は、ぞくぞくするほど好きだ。特に「そのなにかとなかよくなりたい」に引き込まれてしまう。
 でも、この「なにか」、さらに「なかよくなりたい」を次のように言いなおされると、「肉体」がはなれてしまう。

わたしはくらやみをすきになりたい
ひかりにちからがひそんでいるように
くらやみにも くらやみのちからがひそんでいる
そのちからをつかって こころのうちゅうをたびしたい

 「意味(論理)」がくっきりしすぎる。「なかよく」と「すき」は、私の感覚では少し違うから、そう感じるのかもしれない。光と闇を対比した上で「なにか」を「ちから」という抽象的なことばで整理しているのも、「こころのうちゅう」という比喩も明確すぎる。
 「教科書」みたい、と感じる。
 私は、「あさこ」の最後の行、

あさこなんて ださいなまえ!

 のような、意味を拒絶した強さ、ナンセンスな強さの方が好きだ。
 「教科書」の「意味」を突き破ることばの方が好きだ。






*

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天沢退二郎「四月の雨」

2018-08-14 22:31:58 | 詩(雑誌・同人誌)
天沢退二郎「四月の雨」(「文藝春秋」2018年09月号)

 天沢退二郎「四月の雨」は短い。

アクアアクアアクア
雨だ 雨が降っている
四角い雨だ
安心だ、雨が
四角い雨だ
まだ暗い、まだ
四角い雨、安心だ、
四月の雨、これが!!

アクア アクア アクア!

 何を感じる?
 「四月の雨」は「四角い雨」? わからない。「四月」と「四角」は「四」の文字が共通する、ということしかわからない。だから「四角い雨」なのか。
 アクアは「水」を指しているのだと思うが(何語を引用しているのか、わからない)、「アクア」と「雨」には、「四月」と「四角」のように頭韻がある。
 「雨」と「安心」も「あ」の頭韻。
 一方、「安心だ」「まだ」「雨だ」は「だ」の脚韻。
 「雨が」と「これが」も「が」の脚韻。
 ふーん。
 音を楽しんでいるのか。
 ても、楽しい?
 
 私は最近の若い人のことばが苦手だ。どうも「音」が聞こえてこない。だから、こんなふうに「音」が聞こえる詩はそれはそれでいいのだが、でも、よくわからない。
 この短さ(長さ?)では、「音楽」として響いてこない。
 「読みやすい」というだけで、それが詩なのか、と言われれば、そうではないと言いたい気持ちになる。

 この詩を読んで、感動して人っているのだろうか。
 感動が詩にとって重要なのかどうかわからないが。





*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(37)

2018-08-14 08:58:54 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
37 タコ

泳ぐタコ 匿れるタコ 墨噴いて遁走するタコ
月の夜に海から上がり 八本足でスイカを抱くタコ

 高橋が書いているタコは、どこで見たのだろうか。よくわからない。けれど「八本足でスイカを抱くタコ」はとても印象に残る。スイカとの組み合わせよりも、「抱く」という動詞のためだろう。人間は「手」で抱く。けれどタコは「足」で抱く。しかも八本ある。そこに「抱く」ことへの強い欲望を感じる。エロチックなのだ。
 この「抱く」は、他の部分にも出てくる。

ミノス王の大壺を抱いているのも 紀元前千五百年の大ダコ

 この「抱く」は実際にタコが壺を抱いているのではなく、壺にタコが描かれているということだろう。絵を描くのは、タコがそれだけ生活に密着しているからだが、高橋はなぜ「描かれている」ではなく「抱く」と言い切ったのか。
 ここに詩の謎がある。
 「抱く」と書きたかったのだ。
 先に書いたが「抱く」という動詞はエロチックな連想を誘う。そこから書き出しにもどってみると、おもしろい。「泳ぐ」はふつうのことだが「匿れる」はエロチックな駆け引きを連想させる。「墨噴いて遁走する」もあやしげな感じがする。
 高橋は、さらりと
 
ギリシア人の先祖代代お得意の航海術は 誰あろう
クレタ人から受け継いだもの タコ好きといっしょに

 と詩を閉じているが、人と人が出会うとき、そこにセックスが入り込むのは自然なことである。食べ物としての「タコ好き」のことを詩は描いているが、タコの「抱く力」への感心も、その「好き」には含まれるように思える。


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高橋弘希「送り火」

2018-08-13 13:29:59 | その他(音楽、小説etc)
高橋弘希「送り火」(「文藝春秋」2018年09月号)

 高橋弘希「送り火」は第百五十九回芥川賞受賞作。
 父親の転勤にともない青森県に転校する中学生が主人公。最後に思わぬ暴力にまきこまれるまでを描いている。ウィリアム・ゴールディングの「蠅の王」が意識されているのかもしれない。でも、暴力(野蛮/野生)の持つ「魔力(愉悦)」のようなものが書かれていないので、最後の「暴力」が飛躍しすぎていて、納得できない。それまでの過程が長すぎる。時間経過が、まるで「日記」のように順序立っていて退屈である。
 どうして、こんな作品が芥川賞?
 選評を読んでみた。宮本輝が「描写力」ということばをつかっている。高樹のぶ子は「的確な文章力」という。奥泉光は「二十世紀零年代に成立した日本語のリアリズムの技法・文体をわがものとして、描写、説明のバランスを的確にとりながら奥行きある小説世界を構築できる力量」と評価している。
 でも、たとえば、どの文章が「描写力」をあらわしている? どの文章が「二十世紀零年代に成立した日本語のリアリズムの技法・文体」なのか。具体的に書かれていないので、さっぱりわからない。
 書き出しにこんな文章がある。

左手には山裾の森が続き、右手には乾いた畑が広がる。畑の畝には、掘り上げた馬鈴薯が一列に並んで野晒しになっていた。その馬鈴薯の表面の土も、もう白く乾いて砂になっている。瞼へ落ちかかる汗を手の甲で拭うが、次の汗が目に入り滲みる。瞼を擦りどうにか目を開けると、路傍の祠の銅板葺きの屋根が太陽を弾いて瞳を射た。(323ページ)

 ていねいに描かれている。しかし、わざわざ「描写力」と呼ぶようなものではないと思う。どこにも新しさがない。既成の作家の、山里(?)の夏の描写に出てきそうなことばばかりである。「写実」になっていないというのではない。「写実」でありすぎる。確立された既成の文体でしかない。
 それよりも、私には、読んだ瞬間いやな気持ちになることばづかいがあった。

歩も輪に交ざっていたゆえに、歩の手許にも札が配られていた。(330ページ)

歩は書記であったので、皆の考えを要約して黒板に板書していたゆえに、議論がどういう方向へ流れているのか把握しやすかった。(334ページ)

困惑している内に、手許には二枚の札が配られていた。故に歩は晃の薬指を見逃した。(352ページ)

 「ゆえに(故に)」ということば。意味はわかるが、こんなことばをいま、だれがつかうのだろう。主人公の中学三年生がつかうことばには思えない。(数学の証明問題を解くときはつかうかもしれないが。)
 高橋の文章にげんなりするのは、描写(文章)というよりも、「論理」の問題かもしれない。「文章の構造」が古くさい。「ゆえに」という論理展開が古くさい。たんに古いのではなく、「学んだ」古さである。誰かが、そういう文章を書いていた。あ、こういうときは「ゆえに(故に)」ということばをつかうのだ。理由を説明するのに便利だ、と思い、それに寄りかかっているということだろう。

 で、この既成の「論理」への「寄りかかり」を問題にすると。
 この小説の構造そのものへの疑問にも通じる。都会の少年が田舎(自然があふれる土地)の少年と交流することで、知らず知らずに田舎の少年のもっている暴力にのみこまれていくという「構造」自体が、私には既成のものに思える。
 いまなぜ「自然」なのか。少年の暴力を描くにしても、なぜ「都会」を舞台にしなかったのか。都会には「都会の野蛮(野生/自然)」はないのか。人間の創り出した野蛮(暴力)がはびこっていないのか。
 そんなことはない。人間がいるところ、どこにでも野蛮がある。人間がつくりだしたものも、「自然」となって、それ自体の力で自己拡張し、暴走する。なぜ、それを高橋は書かないのか。なぜ、「自然が豊か」な田舎を舞台にするのか。
 簡単に言えば、「都会」の内に潜む「自然」を描写する能力が高橋にはないからだろう。「都会」の、都市機能を内部から支え、突き動かしているものを描写した文章は少ない。高橋はまだそういう文章を多く読んでいない。だから、「学ぶ」ことができなかった。また、それを自分で発見し、書こうともしていないということだろう。
 自然を描写した文章なら、たくさんある。だれもが自然を描写してきた。人間の支配が及ばない何かに触れ、人間の隠されている「自然」が出てきてしまうという作品もたくさんある。「野生」の目覚め、その愉悦と陶酔。だから、そういうものに寄りかかっているのだと思う。寄りかかっているかぎり、「文体」は崩れない。乱れない。だからといって、それが「描写力」をもっているとは言えないだろう。だれも描かなかったものを捉える一行があれば別だが、どの選考委員も具体的な「一行」をあげていない。高橋の文章に「オリジナル」を発見していない。それなのに「描写力/文章力」と批評している。いいかげんすぎる。

 この小説は、書き出しの部分をのぞくと、あとは「1」「2」「*」「4」と時系列どおりに話が進んで行く。まるで中学生の「日記」のようである。時系列の変化を自然描写で補足している。その「補足」に濃淡がない、というもの、なんだか気持ちが悪い。季節の変化、自然の変化を「的確」に「描写」しながら、その描写した「自然」から何も受け取っていない。主人公の意識の変化につながっていない。これでは、なんのために自然を描写しているのかわからない。
 主人公を突き動かすのは、納屋で見つけた木槌の「豊かな沈黙」ということばである。(他にも、土地の「ことば」に反応するところがある。)「豊かな沈黙」ということばを農家の人が木槌に刻み込むとは思えないが、(少なくとも百姓であった私の両親は、そういうことばをつかわない)、こんな一度も会ったことがない他人が残した「ことば」に心境の変化を語らせるのも、非常にうさんくさい。もっとも、「借りたことば」に自分を代弁させるという意味では、他の自然描写とかわりがないかもしれない。高橋が自分で発見したことばがない。すでにあることばを借りてストーリーが動いていくだけなのだ。
 しかも、小説の最後の「暴力」と、この「豊かな沈黙」が重ならない。私は、最後の「暴力」に「豊かな沈黙」を感じることはできない。「豊かな沈黙」は思わせぶりな、お飾りである。何の批評でもいいが、ある批評を読むと、そこにときどき外国の流行概念(キーワード)のことばを借りてきて、そのことばをつかっているからその批評には意味があるという感じで書かれた文章を読むことがある。そのキーワードのつかい方に似ている。「豊かな沈黙」ということばをつかっている。「豊かな沈黙」の意味をつかみきれないのは、筆者ではなく、そのことばを他の文章で読んだことがない読者のせいだ。私(高橋)は正しい指摘をしている、それがわからないのは「豊かな沈黙」について考えたことがない読者が悪いのだ、と言っているみたいだ。
 こんな、ある意味では手垢のついたことばにだまされて(幻惑されて?)、芥川賞に選ぶなんて、ひどいなあ、と思う。「豊かな沈黙」に感動したのなら、その「豊かな沈黙」が他の部分でどう実現されているか、その実現と主人公の意識の変化とどう関係しているか、そういうことを語らないと批評(選評)にはならない。小川洋子、私が批判しているは、あなたのことです。



 都会の見えない論理を的確に描いた作品に、村田沙耶香の「コンビニ人間」がある。コンビニに入ると聞こえる「音」を的確に描き、コンビニを「自然」のように成長、発展させている。「音」がコンビニを不気味に育て上げている。その「音」によって主人公は「コンビニ人間」として無意識の内に育てられていく。「コンビニ人間」に育ってしまう。人間が作り上げたものの勝利と、人間の敗北が、くっきりと描かれている。それを基底で支えるのが、「音の発見」であり、「音を描写する文体」である。
 



*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(36)

2018-08-13 09:21:58 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
36 迷路 クノッソス

 「迷路」には二つの種類がある。「路」そのものが入り組んでいるときと、「意識/自己」がさだまらないとき。路がまっすぐでも、その路で迷うことはある。「この方向でよかったのか」と、ひとは、いつでもどこでも迷う。

この 掘り出され 真夏の日差にさらされた 明るい迷路

 クノッソスの迷路(迷宮)に立った後、高橋は自分の迷路を見つけ出す。「迷路」は「迷う」と言いなおされた後、路は「謎」と言いなおされる。路は「謎」の比喩になる。あるいは「謎」が路の比喩かもしれない。
 比喩とは、かけはなれた二つの存在を結びつけ、「ひとつ」にすることである。ふたつの存在に共通のものを見いだし、共通性を浮かび上がらせることで比喩が成り立つ。
 では人は、なぜ、かけはなれたもののなかに共通性を見いだしてしまうのか。それこそ「謎」だ。こういうことを考えると「迷路」にはまり込む。でも、入り込まずにはいられない。

私たちが眩しく迷うのは 私たちひとりひとりの抱え込む謎が
暗くも曖昧でもないこと 明るく正確であることこそが
謎の本質だ と知るため その真実を知ってしまったら
爾後 私たちの足の向くところ 路という路がすべて迷路に

 かけはなれた「ふたつ」を「ひとつ」にする比喩。そのとき、動いている「意識」は、比喩を語った人には明確である。曖昧さは少しもない。自明でありすぎるために、ことばにできない。自明とは、ことばをつかわずにつかみとる絶対的な明確さだからである。この絶対的な明確さを、高橋は「真実」と言いなおしている。
 ここに「矛盾」がある。ことばにできないものをことばにするのが詩人である。詩人であることが、すべての矛盾を引きつけてしまう。
 このとき高橋を動かしているのは、「肉体」そのものである。省略してきた詩行を振り返る。

入り組んだ迷路の そこここに散らばって立つ私たちは
二つの蹠のほか 染みほどの影も持たない真昼の迷い子

 「蹠」で「立つ」。そのとき高橋は「ひとり」になる。ひとりの「肉体」のなかで、すべては起こるのだ。「路」と「謎」は、迷うという動詞をひきつれて「迷い子」の「子(人間)」に収斂する。

つい昨日のこと 私のギリシア
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「詩はどこにあるか」7月号発売中

2018-08-12 19:44:22 | その他(音楽、小説etc)
詩はどこにあるか2018年7月号を発売中です。

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安藤元雄『「悪の華」を読む』

2018-08-12 19:34:16 | 詩集
安藤元雄『「悪の華」を読む』(水声社、2018年05月20日発行)

 安藤元雄『「悪の華」を読む』はタイトル通り、安藤がボードレールの『悪の華』をどう読んできたかを書いている。繊細な内容なので、私にはわからないことがたくさんある。
 第四章は「旅への《さそい》」。「旅へのさそい」をとりあげ、「微妙な異同」について書いている。「異同」はいくつかある。感嘆符が追加され、「ティレ(棒線)」が省かれる。それを取り上げて、安藤は、こう言う。

詩人自身が、一度は完成形として手放した作品を、制作当時とはいくぶん異なった角度から、あらたな相のもとに捉え直そうとする、微妙な意図の変化が感じられないだろうか。

 もちろん「意図の変化」があるから変えたのだろう。でもその「微妙」が、日本語でしか読むことのできない私には分からない。
 104ページには「文法用語」も出てくる。「条件法」「命令法」「直説法現在」などである。
 どんな国語でも、そのことばを離している人には「無意識」であっても、外国人には「意識」しないととらえることができないことばの動かし方がある。「意識化」するために文法用語があるのだと思うけれど、私はフランス語を知らないので、とても困ってしまった。
 安藤の書いていることは「正しい」のだろうと思うが、その「正しさ」を納得できない。
 音について書かれた部分も同じである。私はフランス語の音になじんでいない。ボードレールをフランス語で読んだこともない。そうすると、安藤の書いていることは「正しい」のだと思うけれど、「正しさ」を納得できない。
 これが、つらい。
 たぶんフランス語を知らない人にもわかるように、「正しい」分析をいくつも重ねる。「正しさ」が重なれば、それだけ論が「正しい」ものになっていく。
 しかし、これが「納得」に変わることはない。

 きっと「納得」というのは、違う反応なのだろう。「正しさ」にはこだわらないのだろう。もしかすると「間違っている」部分があるからこそ納得するということがあるのかもしれない。「正しさ」よりも、ぐいとひっぱっていく力が必要なのかもしれない。「正しさ」よりも、「ここが好き」という感情の動きの方が「納得」へと導くのだと思う。
 安藤もボードレールが好きなのだろうけれど、「好き」よりも「正しく」読んでいるという、その「正しい」が前面に出てくるので、フランス語を読めない私(フランス語でボードレールを読んだことのない私)は、なんとなく身を引いてしまう。
 安藤は学者なので、その「正しさ」は完結している。完結していて、矛盾がないということは、読んでいて「わかった」気になるが、だからこそ、困ってしまう。
 読んでいて、どきどきしない。
 この本を読みながら、どきどき、わくわくするためにはフランス語でボードレールを読めるようにならないといけないだろうなあ、と思う。
 「専門家」向きの一冊といえる。



*

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『悪の華』を読む (水声文庫)
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(35)

2018-08-12 09:29:48 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
35 ドドナにて

おう ドードーナ ドードーナ
それは地名である以前に 烈しい風音

 「地名である以前に」の「以前」が重要だ。「名前以前」とは「名づけられる前」ということ。「名」として分節される前。未分節。つまり「無」の状態。そこではただ風が音を立てている。何かになろうとする動きが、そのまま風の激しさとして存在している。「名づけられる」前に、自ら「音」を発している。
 これは、こう言い換えられる。

風のみなもとはいつも おまえ自身の胸奥の 肉の鞴
肺胞の中の 湿った生臭い闇こそが ドードーナ

 「無」は「闇」と言い換えられている。それは「胸奥」にある。「肉体の奥」である。肉体は「形」だが、肉体という「形」の奥には、「形」にならずに動いているものがある。それは「動き」としか呼べない。「動き」とはエネルギーである。その「動き」を高橋は「鞴」と呼ぶ。その瞬間、「肉体」と「風」がひとつになる。「風」のような「動き」、見分けがつかない「動き」。「見分けがつかない」から「闇」なのだ。「見分けがつかない」けれど、それが「ある」ことはわかる。形にならない(無)が、見分けがつかないまま「ある」。
 この矛盾を、高橋は、真実と呼び、ことばをこう展開する。

その真実を あらためて識るために 旅人よ
海を渡り 幾つもの峠を越えて はるばると
この地の涯に おまえは来た

 「あらためて識る」というのは、「予感」として知っていたことを「ことば」にすること。ことばを確立し、「事実」にすること。
 この詩では「ドドナ」が「ドードーナ」と新たに言いなおされることで、「土地」と「人間」が一体になる。それは高橋の「肉体」がつかみ取った「事実」だ。
 「旅人」は、こうして「詩人」になる。


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高橋睦郎『つい昨日のこと』(34)

2018-08-11 11:26:42 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
34 不在 エピダウロス

円形劇場の擂鉢の底に立つ旅人は

 と書き始められる詩。「旅人」は高橋のことである。「擂鉢の底」は舞台である。そこから観客席を見上げる。そこには「自分はいない」。

いるのは演劇の神 ではなく
底のない青空 青空という名の無

 ギリシアの空はどこまでも澄んでいる。その描写なのだが、「青空という名の無」がとても印象的だ。「青空」を「無」と言い換えたのか、「無」を「青空」と名づけたのか。名をつけるとき、対象があり(青空/無)があり、同時に「名をつける」主体がある。人間(高橋)がいる。
 でも、ここに書かれているのは、そういう世界ではない。
 「青空」を「無」と名づけた瞬間、その名づけた主体は消えてしまう。「青空/即/無」「無/即/青空」の「即」が「名づける」という動詞であり、その動詞のなかに高橋は消えていく。そして「青空」とも「無」とも一体になる。
 この「即」を「不在」と高橋は定義している。

旅人よ ここに来て きみはついに不在

 美しい定義だ。
 「不在」になるために、人間は生きている。「不在」になったとき、何が残るか。「ことば」が残る。
 「劇」として、「詩」として。
 「不在」は「無」であるが、それは「決まった形をしていない」(不定形である)ということだ。何にでも変われるのが「無という存在」(不在)である。
 ことばは何にでもかわることができる。
 つまり、詩とは、瞬間瞬間に姿を変えていく「事実」なのだ。
 この「不在/無」を通過して、高橋は、これからどう変わっていくのか。何になるのか。


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駱英『文革記憶--現代民謡』(竹内新訳)

2018-08-10 11:40:21 | 詩集
駱英『文革記憶--現代民謡』(竹内新訳)(思潮社、2018年01月15日発行)

 駱英『文革記憶--現代民謡』には詩がつくられた日付と時間、さらに場所が書かれている。「城壁そばの処刑場」には

二〇一二年十一月九日06:47
米ロサンゼルス、リンダ・アイスル、ニューポートビーチ96番地

 と書かれている。そして、この日、この場所で書かれた作品は、「鍛冶屋の劉さん」(04:22 )に始まり、「『紅色娘子軍』」(11:02 )まで二十五篇ある。約六時間に二十五篇。一篇を十五分で書いている。
 どうしてこんなに早く、たくさんの作品が書けるのか。それは文革の記憶が鮮明だからだ。忘れられないからだ。書くというよりも、記憶が駱英の体を突き破って、目の前に動くのだろう。
 こういうとき、日本語はとても「不利」である。スピード感がない。竹内には申し訳ないが、どんなにことばを切り詰めても漢字の凝縮には向き合えない。
 たとえば、

遠いところの人は 発泡の瞬間に間に合わないかと気が気ではなく 狂わんばかりに駆けつけた

 という長い一行がある。中国語(漢詩)では、こんなに長い一行ではないだろうと思う。「気が気ではなく」というのは日本語ではふつうの表現だが、どうも間延びする。「狂わんばかりに」というのも「気が気ではなく」を言いなおしているようで、まだるっこしい。これでは「間に合わない」。「気持ち」はわかるが「肉体」の動きとして、もたもたしてしまう。急いでいる「肉体」をさらに「気持ち」が駆り立てているときの感じがしない。
 処刑の後のシーンも同じである。

彼は顔を傾けた状態で泥に倒れたが口の方はパクパクさせていた
彼は何かを話したかったのだと思う 誰かの名を叫ぼうとしたのか それは分からないが
聞くには至らなかった それより前に公安が彼の頭に向けてまた一発撃っていたからだ
頭蓋の真っ赤な血は拭きとられ 白い脳みそには すぐさま小さな赤旗が挿し込まれた

 口がパクパクしている生々しさが、他の長い行に隠されてしまう。「誰かの名を叫ぼうとした」という切実さもあいまいになる。
 赤と白が交錯する一行も、最初の赤から次の赤までが遠すぎる。あざやかな一行が、なぜか鮮烈さを失ってしまう。「頭」のなかでは強烈だが「目」にはぼんやりしてしまう。
 訳は訳として、その訳をいったん忘れる形で、私はこの詩に向き合わなければならないと感じた。描かれている「肉体」のなまなましい部分に自分の肉体を重ね、なまなましさをそのままつかみ取る、ということをしなければ、この詩集は分からないのではないか、と思った。
 また、この詩集が「民謡」と定義されていることについても、あれこれと思った。
 ことばは、まず「声」である。「肉体」をとうして発せられ、その「声」を共有するとき、「共有」のために「音楽」が利用されると思う。歌うことで「声」が「肉体」に記憶される。
 そういうとき「口の方はパクパクさせていた」の「させていた」ということばは「肉体」の方が受け持って「声」から省略されるように思う。「何かを話したかったのだと思う」の「のだと思う」というような「弁解的な論理」も省略されると思う。「聞くに至らなかった」の「至らない」という限定も、原文はそうなのだろうがまだるっこしい。
 私の感覚では、

彼は倒れた、泥の中で口がぱくぱく、
名前を叫んだが声にならなかった

 という感じになる。
 でも、これでは駱英の詩を読んだことにはならないのかもしれない。

 中国語で読めればいいのだろうけれど、私は中国語を知らない。竹内の訳を通してしか接することができないのだけれど、訳を読めば読むほど、駱英のことばは遠くなるような不安に襲われる。
 詩の翻訳は、とてもむずかしい。翻訳された詩を読むのは、とてもむずかしい。






*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(33)

2018-08-10 10:23:34 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
33 旅 ボイオティア

 「旅」とあるが、単純な旅ではないだろう。兵士の帰郷を思わせる書きぶりである。

一休みして立ちあがり また歩きだす
趾の先先 日の照りつける まぶしい道
歩く者の影は 乾いた土に吸われつづける

 読むだけで、歩いている人の疲れが伝わってくる。水ではないのだから、人間の影が「乾いた土に吸われ」ることはないだろうが、そんなふうに見えてしまう。
 歩み、人間の痕跡が消えていくというのは敗北だ。
 高橋は、戦いで疲れ切った兵士になって歩いている。分かち書きが、疲れ切った兵士の息遣いのようにも聞こえる。
 ソクラテスを書いた詩には「共感」が感じられなかったが、この詩には共感がある。

歩き疲れた爪先に いつか夕暮れが来る
歩き止めて食事を摂り 身を伸べるときだ

 「伸べる」という動詞に実感がこもる。それまで肉体は緊張で縮んでいた。それを伸ばし、広げる。この感じをもう一度高橋は言いなおしている。

眠りの中で 死者たちと睦み和むときだ

 「睦む」と「和む」。自分の肉体を伸ばすだけではない。伸ばした肉体から、その内部から「自分」そのものが出て行く。自分ではなくなってしまう。そういう時間がないと、人間は生きてはいけない。


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なぜ安倍は翁長・沖縄知事死亡に対して談話を発表しなかったのか。

2018-08-09 10:47:30 | 自民党憲法改正草案を読む
翁長沖縄知事が死亡した。
これに対して安倍は何というか。

ネットで読んだNHKの記事には談話がなかった。
2018年08月09日の読売新聞朝刊(西部版・14版)にも見当たらなかった。

なぜ、沖縄知事が死亡したことに対する安倍の談話がないのか。
ネットで見かけた「首相動向」で理由がわかった。

午後4時25分から同57分まで、中村法道長崎県知事、谷川弥一自民党衆院議員ら。 午後7時から同9時2分まで、同ホテル内の宴会場「ザ ゴールド」で秘書官らと食事。 9日午前0時現在、宿泊先のザ・ホテル長崎BWプレミアコレクション。来客なし。(2018/08/09-00:07時事)

午後7時から9時まで秘書官らと食事をしていたのだ。
食事をするなとはいわない。
けれど、食事くらい中断したらどうなのか。

だれも安倍に沖縄知事が死亡したことを伝えなかったのか。
談話を発表しようにも「記者」がいなかったというかもしれない。
そういうときは記者を呼べばいいのだ。
談話を発表するから、集まってくれ、と言えばいいのだ。
「最高責任者」を名乗るくらいなら、それくらいはできるだろう。

沖縄にある基地問題で、安倍と知事は意見が対立しているかもしれない。
敵対関係にあると言えるかもしれない。
だとしたら、なおのこそ敬意を払うべきではないのか。
対立意見に耳を傾け、どうやって解決策をさぐれるか、それが問われている。
沖縄知事を失うことは、解決策をさぐる方法をひとつ失うことなのだ。

都知事選のとき、安倍は安倍批判をするひとに対して「こんな人たち」と叫んだ。
安倍が「こんな人たち」と呼びすてた市民も、東京都民であり、国民である。
どんな政策も国民の理解と協力が必要。
「こんな人たち」と排除していては国が成り立たない。

沖縄の声を真剣に代弁する人間がいなくなっては、沖縄の人といっしょに、この国で生きていけなくなる。
国のことを思うなら、まず沖縄のことを思わないといけない。

国会議員(参院議員)を各都道府県から必ずひとりは出すというような「選挙制度改革」をするなら、基地負担の割合に応じて選出国会議員の数を割り振るというような方法もあっていいはずだ。
そのとき沖縄選出の国会議員は何人になり、東京選出の国会議員は何人になるだろう。

自分と反対意見のひとに対して敬意を払わなくなるとき、社会は滅びる。
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