谷川俊太郎『バウムクーヘン』(2018年念09月01日発行)
谷川俊太郎『バウムクーヘン』を読みながら、ふと思うことがあった。知人に「これ読んでみて」と「あさこ」という詩のページを開いて見せた。
おんがくしつであさこはハイドンをさらっていた
わたしはうちでおなじきょくをひいてみた
なんどかつっかえたけど
わたしのほうがうまいとおもった
あさこはらいねん ウィーンへいく
わたしはそらをみるのがすき
あおぞらじゃなく くもをみるのがすき
くもはじっとしていない
かぜがないときでもかたちをかえながら
いつもゆっくりうごいている
わたしはあさこが きらいなのかすきなのか
わからない でもともだちだとおもう
ときどきひみつのはなしをメールでするから
あうとだいたいしらんかおだけど
あさこなんて ださいなまえ!
「この、わたしって、男だと思う? 女だと思う?」
「男」
「えっ、どうして?」
「なんとなく」
あ、谷川俊太郎の詩とわかっていたからなのかなあ。
私には、どうみても「女の子(中学生くらい)」にしか思えない。どうして、そう思うのか。もしかすると私の「女の子」に対する「固定観念」がそう思わせるのか、それを考えたくて尋ねてみたのだが、予想外の答えにとまどってしまった。
で。
今度は本を見せずに、コピーしたものを何人かの知人に見せた。男二人。女六人。
全員が「女」と答えた。しかし、「どうして?」の質問には「なんとなく」が多い。「一連目の行動が女の子っぽい」「赤いスカートの女の子が目に浮かんできた」「すきかきらいかわからないけれどともだち、という言い方が女の子っぽい」「ときどきひみつのはなしをメールでするから」が女の子っぽい。「でも、あさこなんて ださいなまえ!、という批判的なところは男かなあ」。最初の知人も、ここが男っぽい、ということだった。私は逆に、こういう身がわりの速さが女だなあ、と思った。男はもっと「論理的」で、いままで言ってきたことと違ったことを、突然言うことができない。
「年齢は?」「小学校低学年(ひらがながで書いているから)」「五、六年生くらいかなあ」と女性陣。「でも、ウィーンへいくから、小学生じゃないかもしれない」とか。
男二人は「中学生だな」。ひとりは「うちの娘がこんな感じだ」と。
私も中学生だと思う。中学生の男子が、女子を意識し始めるときに見えてくるもの、自分(男)とは違う異質なものが、なまなましく動いている。小学生のときには気がつかなかった何かが動いている。「なんどかつっかえたけど/わたしのほうがうまいとおもった」というライバル心とか、「すきかきらいかわからない」とか、「ときどきひみつのはなしをメールでする」とか。特に、「ひみつのはなし」のうさんくささが中学生の女子だ。男は「秘密の話」などしない。「秘密」はひとりで抱え込むものだ。いったん話してしまったら、それは「ふたりの秘密」ではなく、「仲間であることの確認」だ。いつオナニーを覚えたか、とか何回するか、とか。
で。
私が確かめたかったことにもどるのだが。
ひとは生きている内に、知らず知らずに「女はこういうもの、男はこういうもの」という「感覚」を肉体の内に積み重ねる。それがことばに触れて、「あ、女だな」とか「これは男だな」という印象を持つ。「女がよく描けている」「こどもの心の動きが生々しく描写されている」というような批評は、ある意味では「固定観念」から発せられたものである。「固定観念」ではなく「共通認識」だというひともいるかもしれないが。
どうして、そういうことが起きるのか。わからないけれど、人間は、そういうふうに育つのかもしれない。
でも、たとえばこの詩の「わたし」が「女の子」だと仮定して、谷川は、どうしてこんなに巧みに「女の子」のことばを語ることができるのか。
『こころ』の感想に書いたと思うけれど、谷川は他人の「声」が聞こえるのだ。シェークスピアのように、他人の声をそのまま自分の「肉体」のなかに取り込み、肉体として覚えている。ふつうは(?)、自分の声と他人の声を切り離してしまう。他人の声は、聞けばわかるが、自分の声にはしない。物真似、というのがあるが、それは目的が違う。物真似は、カリカチュア(批判/異化)だが、谷川の「他人の声」には批判が含まれていない。むしろ「同化」で成り立っている。
そんなことを私は考えていたのだが、ひとりの女性がとても鋭い読み方をした。
「詩のわたしは女の子だけれど、男の人が女の子のふりをして書いているような気もする」
「どうして?」
「うまく言えないけれど、ハイドンが出てくるところが何か違う」
(トーンが芸術的すぎるということか。「さらう」に一瞬迷った、という声もあった。「おさいらい」の「さらう」なのだが、いまはそういうことばをつかわないのかもしれない。このあたりが「女の子」ではなく、年配の男なのだろう。)
すると、
「二連目が、よくわからない。なぜ、突然、空と雲にかわるのか」
という声も。
たしかに、ここには「女の子」らしさがない。むしろ「少年」の感覚か。
そんな話をしていると、ひとりが突然、こう言った。居合わせたみんなが驚いた。
「女の子って、私の方がうまいと思っても、わあ、あさこちゃん上手と、手をたたいたりするんだよね」
これはある意味では「核心」をついていたのか、「〇〇さんにほめられたら、気をつけないといけないね」と、突然、話しが盛り上がってしまった。
「あさこなんて ださいなまえ!」に通じるのだけれど、表面のにこやかさとは裏腹に、女はある瞬間、ぱっと変化する。別の感情がなまなましく動く。
話が盛り上がったのは、〇〇さんを批判する(からかう)というよりも、自分と共通するものが突然出てきたので、それを隠すために、すべてを〇〇さんに押しつけたという感じだな。これも、ひとつの「女の保身術」か。
ある意味で、彼女の発言が、この詩のいちばんのポイントだったかもしれない。
詩は、ひとりで読むよりも、こんなふうに、詩をほとんど読まないひとのなかで読み直すと、まったく違うものが見えてくるので楽しい。
話の後、「種明かし」に谷川の詩集を見せたら、「装丁がかわいい」と評判になった。最初に詩集を見た男も「あ、女の子が買いそうな、かわいい本だなあ」と言った。
私は本の装丁にはまったく関心がない。印刷されている文字というか、ことば以外に感心がない。みんな同じ形にしてくれれば、本の整理がしやすく、どんなにいいだろう、といつも思っている。
「どこが、かわいい?」
「ミッフィーみたい」
「どこが?」
「花の黄色と緑の感じとか」
「本の角っこが四角じゃなくて、丸いところも」
うーむ。
「角の丸さ」については、最初に詩集を見た知人(男)も指摘していた。そうなのか。そういう細部に人は目を向けるものなのか。
というようなことも、思った。
*
不満を書いておこう。
「とまらない」という詩。
なきだすとぼく とまらない
しゃっくりみたいに なきじゃくって
なきやみたいのに とまらないんだ
もうなみだは でてこないのに
もうなにがかなしいのか
わからなくなっているのに
この前半は好きだなあ。「泣いている」ということを伝えたいだけなのだ。むかし、そういうふうに泣いたなあ、と思い出す。
でも、
ほんとはおかあさんに しがみつきたい
でもぼくはもう
いちにんまえの おとこのこだから
あまえてはいけない
そうおもったらまた
まえよりもっと かなしくなった
この後半は「論理的」すぎる。「まえよりもっと かなしくなった」は、意味はわかるが、感情がついていかない。いや、私の「肉体」がついていかない。
「かなしい」ではなく、何か「じれったい」ような、自分で自分の体をもてあますような感じではなかったかと、私は遠い昔を思い出す。
「わからなくなっている」というところがよかったのに、「かなしい」と「わかってしまう」のは、論理的すぎる。
「くらやみ」という詩のなかほど。
くらやみにはなにがいるのだろう
めにはみえないのに
みみにもきこえないのに
こころはなにかにさわっている
そのなにかとなかよくなりたい
それはわたしのこころのなかにいるのだから
この部分は、ぞくぞくするほど好きだ。特に「そのなにかとなかよくなりたい」に引き込まれてしまう。
でも、この「なにか」、さらに「なかよくなりたい」を次のように言いなおされると、「肉体」がはなれてしまう。
わたしはくらやみをすきになりたい
ひかりにちからがひそんでいるように
くらやみにも くらやみのちからがひそんでいる
そのちからをつかって こころのうちゅうをたびしたい
「意味(論理)」がくっきりしすぎる。「なかよく」と「すき」は、私の感覚では少し違うから、そう感じるのかもしれない。光と闇を対比した上で「なにか」を「ちから」という抽象的なことばで整理しているのも、「こころのうちゅう」という比喩も明確すぎる。
「教科書」みたい、と感じる。
私は、「あさこ」の最後の行、
あさこなんて ださいなまえ!
のような、意味を拒絶した強さ、ナンセンスな強さの方が好きだ。
「教科書」の「意味」を突き破ることばの方が好きだ。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
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「詩はどこにあるか」7月の詩の批評を一冊にまとめました。