詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

なぜ安倍は翁長・沖縄知事死亡に対して談話を発表しなかったのか。

2018-08-09 10:47:30 | 自民党憲法改正草案を読む
翁長沖縄知事が死亡した。
これに対して安倍は何というか。

ネットで読んだNHKの記事には談話がなかった。
2018年08月09日の読売新聞朝刊(西部版・14版)にも見当たらなかった。

なぜ、沖縄知事が死亡したことに対する安倍の談話がないのか。
ネットで見かけた「首相動向」で理由がわかった。

午後4時25分から同57分まで、中村法道長崎県知事、谷川弥一自民党衆院議員ら。 午後7時から同9時2分まで、同ホテル内の宴会場「ザ ゴールド」で秘書官らと食事。 9日午前0時現在、宿泊先のザ・ホテル長崎BWプレミアコレクション。来客なし。(2018/08/09-00:07時事)

午後7時から9時まで秘書官らと食事をしていたのだ。
食事をするなとはいわない。
けれど、食事くらい中断したらどうなのか。

だれも安倍に沖縄知事が死亡したことを伝えなかったのか。
談話を発表しようにも「記者」がいなかったというかもしれない。
そういうときは記者を呼べばいいのだ。
談話を発表するから、集まってくれ、と言えばいいのだ。
「最高責任者」を名乗るくらいなら、それくらいはできるだろう。

沖縄にある基地問題で、安倍と知事は意見が対立しているかもしれない。
敵対関係にあると言えるかもしれない。
だとしたら、なおのこそ敬意を払うべきではないのか。
対立意見に耳を傾け、どうやって解決策をさぐれるか、それが問われている。
沖縄知事を失うことは、解決策をさぐる方法をひとつ失うことなのだ。

都知事選のとき、安倍は安倍批判をするひとに対して「こんな人たち」と叫んだ。
安倍が「こんな人たち」と呼びすてた市民も、東京都民であり、国民である。
どんな政策も国民の理解と協力が必要。
「こんな人たち」と排除していては国が成り立たない。

沖縄の声を真剣に代弁する人間がいなくなっては、沖縄の人といっしょに、この国で生きていけなくなる。
国のことを思うなら、まず沖縄のことを思わないといけない。

国会議員(参院議員)を各都道府県から必ずひとりは出すというような「選挙制度改革」をするなら、基地負担の割合に応じて選出国会議員の数を割り振るというような方法もあっていいはずだ。
そのとき沖縄選出の国会議員は何人になり、東京選出の国会議員は何人になるだろう。

自分と反対意見のひとに対して敬意を払わなくなるとき、社会は滅びる。
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若尾儀武『枇杷の葉風土記』

2018-08-09 10:46:27 | 詩集
若尾儀武『枇杷の葉風土記』(書肆子午線、2018年07月20日発行)

 若尾儀武『枇杷の葉風土記』は戦争の記録。息子を戦場に送った母親たちの思いがつづられている。「息子」の名前は出てくるが、母親の名前は出てこない。母親の思いはひとつ、ということなのだろう。

田の水 抜いて
仕上げの草引きしてました
そしたら何べんも草引きしたはずやのに
馴染みのない草生えとりまして
いつ見過ごしたんか
風の色みたいな花つけまして
そもそもそんな花の種 蒔いた覚えはありませんでしたさかい
引き抜いてあぜ道に捨ててしまおうかと思うたんですが
ああ
その日は二郎の命日

花影をよぎる
風のような
声のような

一枝だけもろうて
仏壇の花にしましたら
場を得たように
次のつぼみ
次のつぼみと咲きまして
あげく 実までつけまして

 「場を得たように」の一行がとてもいい。
 この一行はなくても「事実」はかわらない。仏壇に生けた花のつぼみが次々に開いていくということに変わりはない。しかし若尾は(あるいは、この母親はというべきか)書かずにはいられなかった。
 「ここがその花の生きる場所」。それは「仏壇」ではなく、この家が、ということだろう。花の、あるいは死んだ二郎の思いというよりも、母親の思いだ。母親の無念だ。
 「場を得たように」と思うことで、母親はやっと「自分の場」を得たのだ。自分の「気持ち」を得たのだ。それまで言えなかったことが、ことばになった。

 この詩集を読みながら、詩集が逆の形で書かれていたらもっと印象が強くなると思った。「逆の形」というのは、無名の母親ではなく、母親にこそ名前を与えて詩にすると、もっと強くなると思った。複数の、まったく名前の違う母親が「ひとりの息子」を思う。思い出す。悲しみが凝縮すると思う。
 戦争で死んでしまった男たちをしっかりと受け止めたいという気持ちから、「息子たち」に名前があるのだろう。死者を祀るということは、しなければならないことなのだけれど。でも、たとえば、それは「靖国神社」でもおこなわれている。戦争を引き起こした人間は、死んだ兵士を「御霊」という呼び方で、たたえたりもする。
 でも、その「御霊」と同じ数だけ、あるいは「御霊」の数以上の母親がいる。その母親は、「無名」のままである。ひとりひとりが声を上げても、それはひとりひとりのまま、ひとりのこととされてしまう。母親はひとりではない、ということを「名前」で知らせる必要があると思う。




*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(32)

2018-08-09 09:23:33 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
32 目覚めよ

 「光と闇」と同様にソクラテスのことを描いている。

雄鶏を一羽 アスクレピオスに献げといてくれないか

 という一行から始まり、雄鶏、雌鶏の比較、最後にはどちらも潰され、食べられてしまう運命を書きつづり、こんな風に転調する。

かの人もデルポイからの使者よろしく 虚仮 コケコッコー
汝自身を知れと 告げつづけたばかりに 潰されたもの

 「潰された(潰す)」には肉体のうごめきがあるが、「虚仮 コケコッコー」ということば遊びに迫力がない。駄洒落にしか見えない。「虚仮」には批判をこめているのだが、肉体の怒りになっていない。「虚仮」ということばを知っているという、知識の方が前面に出てしまっている。
 ……。
 高橋はソクラテスが好きではないのかもしれない。ソクラテスは「知識」を前面に出して対話を繰り広げたわけではない。「知識」をひとつひとつ批判し、ことばを生まれ変わらせた。

潰されて精神の雄鶏と甦り なおも告げる 覚めよ起きよと
それでもなお 私たちの蒙昧の眠りは深く重たい

 高橋は「私たち」と書いているが、その「私たち」に高橋は含まれるのか、含まれないのか。高橋を除外して「私たち」と言っていないか。「覚めよ起きよ」という声は私(高橋)には聞こえるが、他の人には聞こえていない。それを嘆いているように感じられる。
 嘆くことで高橋を含まない「私たち」を批判しているように感じられる。だから、ソクラテスが好きではないんだな、と思ってしまう。


つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社
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