詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

東京医大の女性差別と杉田のLGBT差別発言

2018-08-03 10:30:01 | 自民党憲法改正草案を読む
東京医大の女性差別と杉田のLGBT差別発言
             自民党憲法改正草案を読む/番外219(情報の読み方)

 東京医大。女子受験生の一次試験で一律に減点していた。「女子は結婚や出産で離職することが多い。系列病院が人手不足になる」というのが理由だ。
 この「理由」は杉田のLGBT差別発言と共通するものをもっている。
 杉田は「生産性」ということばをつかったが、東京医大は「事業(医療)の効率化」と言いなおしているに過ぎない。どうやったら「経済活動を維持できるか」。「経済」だけが問題なのである。
 そしてこれは、そのまま自民党の2012年の改憲案と直結する。自民党の改憲案は、前文に「我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。」と明記している。「経済活動」だけが重視されている。
 東京医大は、いま「袋叩き」にあっているが、自民党の改憲案を先取り実施しているに過ぎない。
 安倍は、ほんとうは東京医大の姿勢を支持したいはずである。

 こんなふうに「情報」を読み直すといい。
 「女子は結婚や出産で離職することが多い。系列病院が人手不足になる」というのなら、結婚、出産をしても離職しなくてすむように労働環境を整えればいい。ところが、そうしない。
 なぜか。
 女性が「家庭の外で働く」ということが、自民党の改憲案では許されないのだ。
 自民党の改憲案は、こう書いている。

第二十四条
家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。
2 婚姻は、両性の合意に基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
3 家族、扶養、後見、婚姻及び離婚、財産権、相続並びに親族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 現行憲法にはない「前文」のような定義が加わっている。「家族は、互いに助け合わなければならない。」というとき、その「助け合い」は女性が男性が家庭の外で経済活動ができるように支えなければならない、という意味である。「離婚、財産権、相続」を「親族に関する事項」と定義しているのは、「家族」を「家族」としてとらえるのではなく「親族」の一員ととらえることであって、そこには「親族」を統一して支配するという意識が働いている。「家長制度」を復活させることが自民党の狙いである。
 女性が医者になったら(経済的に独立したら)、「家長」の言うことをきかなくなる恐れがある。女性が経済的に独立する機会を減らさないといけない。女性が「家庭」のなかで「家庭の仕事」に専念するのが「家庭(家族)」の安定につながる。
 そういう意識で東京医大と自民党の改憲案は「一致」している。

 杉田の差別発言も同じである。「生産性(子どもを産むかどうか)」よりも、「家長」が誰だかわからなくなるということが問題なのだ。子供を産むかどうかだけなら、杉田は子どもを持たない安倍夫婦を糾弾しなければならない。しかし、そういうそぶりは少しも見せていない。
 安倍の夫婦関係は知る余地もないが、安倍は昭恵が国会に出てきて発言することを防いでいる。「家長」として昭恵の行動を支配している。「家長制度」が機能している。そういうことが自民党の「理想」なのである。

 もう一つ。
 東京医大といえば、「裏口入学」の問題がある。文科省の局長が絡んでいる。文科省がらみでは、ほかの問題でも逮捕者が出た。
 これも、私には、微妙に自民党の改憲案とつながっていると思う。
 文科省が「狙い撃ち」されている。言うことを聞かなければ不正を見つけ出して処分するぞ(逮捕させるぞ)という「圧力」を感じる。前川は自民党に叛旗を翻したが、そういうことはさせないぞ、という「見せしめ」のように感じる。
 「教育」を支配したいのである。
 自民党の改憲案(2012年)。

第二十六条
全て国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、等しく教育を受ける権利を有する。
2 全て国民は、法律の定めるところにより、その保護する子に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、無償とする。
3 国は、教育が国の未来を切り拓ひらく上で欠くことのできないものであることに鑑み、教育環境の整備に努めなければならない。

 「無償化」については、さらに検討が加えられている。ここで私が問題にするのは、現行憲法にはない「3項」である。そのなかの「教育環境の整備」ということば。抽象的だが、これは「自民党政権を批判させないような教育内容にする」(洗脳する)ということだ。
 学問の自由がなくなる。「自民党の政策は経済格差を生み、独裁政治を招く。打破するためにどうすればいいか」ということをテーマに「教育(学問)」をしようとしたら、きっと「無償化」の対象からはずされる。
 いかに「批判力のない人間」を育て上げるか。それが自民党にとっての最大重要政策なのである。

 森友学園も加計学園獣医学部も同じだ。安倍を批判しないなら、学校(教育)を認める。安倍について少しでも批判を展開するなら、それを妨害する。「家長」の言うことを聞け、聞かないのは許さない。
 こういうことを、教育現場で展開するためには、文科省を徹底的に支配する必要がある。前川のように「学ぶことの大切さ」を力説することは許されない。いかに従順に「家長」のいうことを聴く人間に育てるか、それが文科省に求められている。

 東京医大の女子受験生差別は、ある意味では「手違い」で発覚したのかもしれない。平然と「女子は結婚や出産で離職することが多い。系列病院が人手不足になる」と言ってのけるのは、これが自民党の基本姿勢なのに、という思いがあるからかもしれない。「認識を共有しているのになぜ」という思いがあって、そう言ってしまったのかもしれない。
 あるいは、これは文科省への圧力を隠すために、あえて「発覚」させたのかもしれない。「学校の現場で起きていることは、全部知っている。好きにはさせないぞ」ということを文科省の役人に認識させるために、だれかがリークしたのかもしれない。
 「女子は結婚や出産で離職することが多い。系列病院が人手不足になる」というのは「事実」だ。ばれないように、うまく操作しろよ、と文科省と大学に圧力をかけているのかもしれない。
 私は妄想が大好きだから、そういうことも考える。

 もし一連の「事件」が社会を正しくするためというのなら、安倍と親しい男が女性をレイプして訴えられ、逮捕状が出たのに、直前になって逮捕されなかったこととの「整合性」がとれない。
 不正を許さない、被害者を助ける、という意識で社会は動いていない。安倍がリードする社会では、安倍の独裁をいかに支えるかだけが問題になっている。
 独裁はすでに始まっている。


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高橋睦郎『つい昨日のこと』(26)

2018-08-03 09:09:38 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
                         2018年08月03日(金曜日)

26 願望

 男は女に殺されたがっている。

オルペウスのように 首を引き抜かれ 海に投げ込まれる
ペンテウスのように 手も 足も 胴体から引きもがれる

 この二行だけが美しい。あとは「説明」である。
 悲惨な情景が詩なのか。
 「オルペウスのように」「ペンテウスのように」の「のように」が詩なのだ。「ように」と言うとき、想像力が動く。いま、ここにないものを、いま、ここへ呼び寄せる。そのとき「首を引き抜かれ 海に投げ込まれる」「手も 足も 胴体から引きもがれる」もまたことばによって呼び出された情景である。
 言い換えると、それはすべてことばの復習なのだ。
 ひとはあらゆる情景をことばにするわけではない。けれどギリシアはすべてをことばにする。情景を残すのではなく、ことばを残す。

 「説明」もことばだが、説明には「意味」はあっても「現実」がない。言い換えると「説明」は簡単に反対のことばになりうる。
 この詩で言えば、男は女に殺されたがっているという「意味」は、いつでも男は女に殺されたがっていないと言い換えることができる。反対の意味になりうる。
 言い換えが聞かない「真実」は、

オルペウスのように 首を引き抜かれ 海に投げ込まれる
ペンテウスのように 手も 足も 胴体から引きもがれる

 だけである。
ぞくぞくする恐怖。怖すぎて理性が働かない。愉悦と勘違いしてしまいそうな惨劇。比喩なのに言い換えがきかない。それが詩だ。

つい昨日のこと 私のギリシア
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