詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

また出てきた「静かな環境」

2018-08-27 16:58:47 | 自民党憲法改正草案を読む
 2018年08月27日の西日本新聞夕刊に「翁長氏の県民葬10月9日に」という記事が載っている。

 県議会の一部会派は当初、9月30日投票の知事選より前となる四十九日の法要前の開催を求めていたが「政治日程とは切り離し、静かな環境で開催すべきだ」との意見が与野党内で強まっていた。

 また「静かな環境」という表現が出てきた。
 安倍が持論を押し通す時に繰り返し使われている。
 天皇の生前退位を巡る審議(有識者会議)、日ロ首脳会談(山口で開かれた大失態の会談)、それから次の天皇の即位の日(これは統一選に配慮)という具合。
 民主主義とは「静か」ではなく「騒がしい」もの。つまり、批判、反対意見が飛び交うもの。そういうものを封じ込めて、安倍は独裁を推し進める。
 知事選前に「沖縄県民葬」がおこなわれれば、県民は翁長知事を思い出す。民意が翁長知事路線に傾く。自民党の候補が苦戦する(負けるかもしれない)。だから、県民葬は知事選の後に、と考えているようだ。
 「静かな環境」というのは、民主主義を否定するために使われている。
 「静かな環境」という暴力(独裁)を許してはならない。


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さとう三千魚『貨幣について』

2018-08-27 10:20:10 | 詩集
さとう三千魚『貨幣について』(書肆山田、2018年08月20日発行)

 さとう三千魚『貨幣について』はタイトルが即物的だ。詩から遠い。そして、そのなかに書かれている作品も即物的だ。

わたしは
昨日

忙しく働いて

夕方に
神田の

かめやで
冷し天玉蕎麦を食べた

四二〇円だった

それから深夜
銀座線の終電に間に合わず

京浜東北線で蒲田にでて
タクシーで

新丸子まで帰った

帝都自動車交通
二六二〇円だった

 即物的だが、とてもおもしろい。改行せずに、散文形式で書いてもおもしろいと思うが、改行が効果的だと思う。ことばが、独立(切断)とつながり(接続)のあいだで、新しい形を見せている。「神田」が出てきたときは、そうでもなかったが、「かめや」以後、固有名詞が世界を「異化」する。「異化」するといっても、何と言えばいいのか、ちょっと存在がくっきり見えるということくらいなのだけれど。
 で。
 「冷し天玉蕎麦/四二〇円」「帝都自動車交通/二六二〇円」と、そのときかぎりの「一回性の固有名詞」にお金が結びついている。これがおもしろい。ものにはみんな値段がついている、ということが、意識を刺戟する。
 「忙しく働いて」には値段がついていないが、ほんとうは隠れている。労働に値段がついているからこそ、さとうは蕎麦代、タクシー代を払うことができる。蕎麦代、タクシー代が支払われたということは、それを提供してくれた労働に対して金を払ったということであり、それは蕎麦を食べる、タクシーに乗るという「肉体の動き」とは別の動きによって、お金の向こう側にいる人とつながるということでもある。
 そういうことを一生懸命書いているのではなく、ぽつん、ぽつんと、なんでもないことのように書いている。ぽつん、ぽつんの、連続性を強調しないリズムがおもしろい。たぶん、詩はそこにある。
 書き方によっては、さとうの「資本論」になるのだが、「資本論」にしないで、「事実」そのものにしている。
 ものの値段が出てこない詩もあるのだが、私は値段が書かれている詩の方が好きだ。「資本論」になることを拒んで、「事実」でとどまっているという感じがいい。「論理(あるいは関係という抽象)」を拒否することで、世界を「事実」にひきもどすと言えばいいのか。

一昨日はわたし

昼に
門前仲町の

日高屋で
生中と空豆を食べた

生中が三一〇円
空豆が一七〇円

レバニラ定食が六五〇円

それから夜に
神田の

葡萄舎で芋焼酎を飲んだ

賢ちゃんと
賢ちゃんの姉さんにも

焼酎をご馳走した
三六〇〇円だったかな

 「ご馳走」という「関係」を浮かび上がらせることばの後に、それを否定するかのように「三六〇〇円」が即座につながるところがとてもいい。「だったかな」というのは、さとうの「人間性」をあらわしていて、それもおもしろい。「貨幣」のもっている「暴力性」を、そっと包み込んでいる。しまいこんでいる。

 貨幣がクレジットカード(マネーカード)にとってかわり、それが「電子決算」にかわりつつあるけれど、すべてが電子決算になり、貨幣が消えてしまうと、この「暴力」と「やさしさ」の関係が見えなくなるなあ、と思ったりする。
 だから、これは「いま」書かれなければならない詩なのだと思う。


貨幣について
クリエーター情報なし
書肆山田




*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(50)

2018-08-27 09:14:15 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
50 崖 シンタグマ広場

 高橋は「現実」を書いていない。死を書いている、という視点から読む。また「読み方」を変えるかもしれないが、きょうはそういう視点から読んでみる。

店の名はO Tzizikas O Mermigas  戯れに訳して蝉蟻亭
もちろん出どころはアイソポス 遊び好きも働き者も歓迎というところか

 ここでも問題は「名(店の名)」。「名づける」である。店の名前は「現在」の名前である。しかし「出典」は古典。アイソボスは、イソップか。蝉と蟻。蝉は遊び者、蟻は働き者。「比喩」は「名づける」という動詞を先鋭化したものだ。ひとつの特徴を引っ張りだし、「名」の代わりにする。
 そんな「ことば」の「歴史」と高橋は向き合っている。

カラフの白ワインを傾ける ドルマデスとギリシアサラダの皿をつつく

 という「現実」も出てくるが、高橋のことばはすぐに「現実」を離れる。「歴史(過去)」へと向かい、そこから「いま」「ここ」にない「真実」を取り出す形で動く。「死んでしまった真実」にことばをあたえる。もう一度「事実」にしようとする。

飲みながら食べながら思うのは崖 アイソポスが群衆から突き落とされたという
落とされた理由は吐きつづけた嘘 むしろ嘘に包まれた聞きたくない真実
逆に私が書いてきたのは真実めかした嘘 崖落としにも価しまい

 「嘘」とは「比喩」のこと。「比喩」のなかには「真実」がある。「真実」とは見なければならないものだが、見たくないものでもある。「現実」という事実の絡み合いの中に隠しておきたいこともある。隠しておいて、その都度、都合にあわせて「真実」をとりだしたい、つまり「名づける/ことばにする」ことで、それを共有するというのが人間の生き方だろう。
 「ことば」は「現実」のなかでは揺れ動く。
 詩は、そうではない。「揺れ動かない」何か、「個人的な事実」を語る。高橋の「個人的事実」とは「文学」にほかならない。つねに「古典」が高橋のことばを突き動か。死(歴史としての文学のことば)が高橋の「現実」だからである。
 ギリシアを旅しながら、高橋は暗喩としての「死」と向き合っている。







つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社




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