詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

若尾儀武『枇杷の葉風土記』

2018-08-09 10:46:27 | 詩集
若尾儀武『枇杷の葉風土記』(書肆子午線、2018年07月20日発行)

 若尾儀武『枇杷の葉風土記』は戦争の記録。息子を戦場に送った母親たちの思いがつづられている。「息子」の名前は出てくるが、母親の名前は出てこない。母親の思いはひとつ、ということなのだろう。

田の水 抜いて
仕上げの草引きしてました
そしたら何べんも草引きしたはずやのに
馴染みのない草生えとりまして
いつ見過ごしたんか
風の色みたいな花つけまして
そもそもそんな花の種 蒔いた覚えはありませんでしたさかい
引き抜いてあぜ道に捨ててしまおうかと思うたんですが
ああ
その日は二郎の命日

花影をよぎる
風のような
声のような

一枝だけもろうて
仏壇の花にしましたら
場を得たように
次のつぼみ
次のつぼみと咲きまして
あげく 実までつけまして

 「場を得たように」の一行がとてもいい。
 この一行はなくても「事実」はかわらない。仏壇に生けた花のつぼみが次々に開いていくということに変わりはない。しかし若尾は(あるいは、この母親はというべきか)書かずにはいられなかった。
 「ここがその花の生きる場所」。それは「仏壇」ではなく、この家が、ということだろう。花の、あるいは死んだ二郎の思いというよりも、母親の思いだ。母親の無念だ。
 「場を得たように」と思うことで、母親はやっと「自分の場」を得たのだ。自分の「気持ち」を得たのだ。それまで言えなかったことが、ことばになった。

 この詩集を読みながら、詩集が逆の形で書かれていたらもっと印象が強くなると思った。「逆の形」というのは、無名の母親ではなく、母親にこそ名前を与えて詩にすると、もっと強くなると思った。複数の、まったく名前の違う母親が「ひとりの息子」を思う。思い出す。悲しみが凝縮すると思う。
 戦争で死んでしまった男たちをしっかりと受け止めたいという気持ちから、「息子たち」に名前があるのだろう。死者を祀るということは、しなければならないことなのだけれど。でも、たとえば、それは「靖国神社」でもおこなわれている。戦争を引き起こした人間は、死んだ兵士を「御霊」という呼び方で、たたえたりもする。
 でも、その「御霊」と同じ数だけ、あるいは「御霊」の数以上の母親がいる。その母親は、「無名」のままである。ひとりひとりが声を上げても、それはひとりひとりのまま、ひとりのこととされてしまう。母親はひとりではない、ということを「名前」で知らせる必要があると思う。




*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(32)

2018-08-09 09:23:33 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
32 目覚めよ

 「光と闇」と同様にソクラテスのことを描いている。

雄鶏を一羽 アスクレピオスに献げといてくれないか

 という一行から始まり、雄鶏、雌鶏の比較、最後にはどちらも潰され、食べられてしまう運命を書きつづり、こんな風に転調する。

かの人もデルポイからの使者よろしく 虚仮 コケコッコー
汝自身を知れと 告げつづけたばかりに 潰されたもの

 「潰された(潰す)」には肉体のうごめきがあるが、「虚仮 コケコッコー」ということば遊びに迫力がない。駄洒落にしか見えない。「虚仮」には批判をこめているのだが、肉体の怒りになっていない。「虚仮」ということばを知っているという、知識の方が前面に出てしまっている。
 ……。
 高橋はソクラテスが好きではないのかもしれない。ソクラテスは「知識」を前面に出して対話を繰り広げたわけではない。「知識」をひとつひとつ批判し、ことばを生まれ変わらせた。

潰されて精神の雄鶏と甦り なおも告げる 覚めよ起きよと
それでもなお 私たちの蒙昧の眠りは深く重たい

 高橋は「私たち」と書いているが、その「私たち」に高橋は含まれるのか、含まれないのか。高橋を除外して「私たち」と言っていないか。「覚めよ起きよ」という声は私(高橋)には聞こえるが、他の人には聞こえていない。それを嘆いているように感じられる。
 嘆くことで高橋を含まない「私たち」を批判しているように感じられる。だから、ソクラテスが好きではないんだな、と思ってしまう。


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ルーシー・ウォーカー監督「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス」(★★)

2018-08-08 21:09:51 | 映画
ルーシー・ウォーカー監督「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス」(★★)

監督 ルーシー・ウォーカー 出演 キューバの音楽家たち

 映画はむずかしいなあ。映画で「見る」のは何なのだろうか。前作は、キューバで生きつづけた音楽の力をなまなましく伝えていた。私は音楽には疎いので、キューバの音楽のことは何も知らなかった。だから、とてもおもしろかった。年をとっても音楽を生きている姿がかっこよかった。
 今回は、続編。もう死んでしまった人もいる。もちろん、その人たちの映像もある。でも、最後まで音楽といっしょに生きようとしている。
 それはそれで感動的なのだが。
 実は、いちばん興味深かったのは、音楽のシーンではない。オバマ大統領の発言だ。「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」がホワイトハウスに招かれて、演奏をする。そのときオバマは20年前に彼らのCDを買った、というようなことを言う。そのとき「いまの若い人は知らないかもしれないけれどCDというのは丸い盤で……」。
 あ、そうなんだ。いまは音楽の媒体はもうCDではないのだ。(もちろんレコードでもない。)ネットでダウンロードする音源が主流なのだ。「もの」はどこにもなく、情報だけがある。
 これは、考えれば恐ろしい。
 それよりも、このオバマのことばを聞いた瞬間、私がなぜこの映画にのめりこめないかがわかった。
 音楽は、その音楽が実際に演奏されている「場」で体験しないと音楽にならないのだ。映画はさまざまなライブを再現してくれる。でも、それは、どうもスクリーンの外にまではみ出してこない。「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」のメンバーが音楽を生きているということは「頭」ではわかるが、どうも「実感」として感じることができない。遠いのだ。音楽というよりも、「情報」として見てしまう。こういう老人がいる。まだツアーをやっている……。
 うーむ。
 私は最近は音楽をまったくといっていいくらいに聞かない。街では若者が(そしてかなりの年配の人も)イヤホンで音楽を聞いている。私もiPodを持っていたが、あれで音楽を聞いて以来、どうも音楽になじめなくなった。音の善し悪しを聞き比べる耳をもっていないので、音質が気に食わないとかそういうことをいうつもりはない。ただ、耳をふさいで、音楽だけを聞くという感じが「肉体」にあわない。どうも楽しめない。聞いて何をしてるんだろう、と感じてしまう。何のために聞いているのか。こういう曲があるという「情報」のために聞いている気がしてきたのだ。
 あらゆるものが「情報」といえば「情報」になるのだが、それが気に食わない。「情報」以外のものがほしいなあと思う。
 思えばCDができたころから、妙だったなあ。レコード(LP)は針を落とすときぽつんとノイズが入る。LPの途中の曲を聞くときは、針を正確に落とすのに気をつかう。そこには何か「肉体」がかかわるものがあった。CDはスイッチ、リモコンを押す指くらいしか「音楽」に参加しない。便利といえば便利なのだが、あのころから私は違和感を感じ始めていたのかもしれない。
 あ、話がずれてしまったかなあ。
 この映画も、何と言うのか、その後の「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」はどうなった?という「情報」を伝えることに終始している感じがする。
 「情報」をおもしろく感じないのは、「情報」は操作されている、という思いが強いせいなのか。
 (2018年08月08日、KBCシネマ2)



 *

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(31)

2018-08-08 09:42:33 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
31 光と闇

 「考える人(考えつつ語る人)」が主役。彼は「夏の光の中で」考え、語り続けているのだが。

語り疲れると 屋内の闇に帰っていくが そこは
考える空間ではない 子供が泣き 女が喚く場所
考える人が考えることを止め 汗まみれで眠りこけ
目覚めて ふたたび 考える人に戻るための

 この詩も理屈っぽいと私は感じる。「子供が泣き 女が喚く」は現実だが、ほかのことばには現実の実感がない。
 高橋が「考える人」と一体になっていない。
 客観的描写ということになるのかもしれないが、「傍観」とも見える。「考える人が考えることを止め 汗まみれで眠りこけ」には、肉体が感じられない。
 西脇順三郎は「旅人かへらず」の冒頭の詩で「考へよ人生の旅人」と書いた後、突然、

ああかけすが鳴いてやかましい

 という一行を書く。これは「かけす」の描写ではない。「状況」の説明でもない。「やかましい」と感じている「肉体」そのものの「実感」である。「肉体」という「事実」がことばになっている。
 思考を破って、肉体(聴覚)が叫んでいる。
 こういう対比(ぶつかりあい)がないと、思考は抽象に終わってしまう。



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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(2)

2018-08-07 11:13:04 | 嵯峨信之/動詞
「台地」

*(ある台地)

ある台地
時の終りがすべて集まつていて
いま小草一本生えていない突兀たる高所

 「集まる」と「生えていない」の「ない」とは矛盾している。「集まる」ならば、そこには「ある」はずだが、何もない。「無」が集まってきていることになる。
 「時の終り」が「無」である。
 「終り」が「集まる」と何もない。
 しかし、ことばは「無」を語ることができる。「無」を「ある」ものとして語ることができる。
 それが「台地」「突兀たる高所」となって、そこに「ある」。





*

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嵯峨信之全詩集
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(30)

2018-08-07 08:01:58 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
30 眠りの後に

 午後のある時間。人間だけではなくすべてが眠っている。

道も 樹樹も その影も それらの上の雲一つない青空も

 そう書いた後、

開け放した窓から 部屋の中の闇の部分を窺う
羽沓を穿き 羽杖を手にした 不吉な横顔の若い神

 ということばがつづく。「若い神」は死神。そういうことは知らずに、眠り足りた人は、涼しい風と光の中へ歩み始める。

眠った分だけ死に近くなった自分に 気づかずに

 光と影(闇)、生と死が交錯する。「開ける」と「閉ざす(隠す)」も交錯する。「閉ざす(隠す)」は書かれていないが、「窺う」は「隠しているもの見る」ということ。
 その動きを「道も 樹樹も その影も それらの上の雲一つない青空も」という一行が巧みに誘い出している。午後の光の中の風景をとらえる視線が、地上と空を結ぶように自然に上下する。
 「雲一つない青空」は美しいが、美しすぎて不自然。不吉でもある。それが死神の美しさを引き出す。
 しかし、この相互の結びつきは、あまりにも人工的すぎる。「理屈」になってしまっている。
 「眠った分だけ死に近くなった」と高橋は書いているが、時間が過ぎたというのであれば、遊んでいても、仕事をしていても同じである。死神の夢を見ていたとしても同じである。

道も 樹樹も その影も それらの上の雲一つない青空も

 は「現実」のことば、「事実」。だが、ほかは「思考」がひっぱりだしたことばである。「不吉な横顔」という夢さえ生々しくないのは、思考が優先しているからだ。




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嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)を読む(1)

2018-08-06 11:34:06 | 嵯峨信之/動詞
                         2018年08月06日(月曜日)

(不幸よ)

不幸よ
わが偉大な休息の島
その空を飛んでいる一羽の信天翁よ

 「不幸」「島」「信天翁」は、「ひとつ」のものである。どのことばがどのことばの「比喩」なのか、特定はできない。相互に呼び合っている。
 「動詞」を探してみる。
 「休息の島」には「休息する」という動詞が隠れている。
 この「休息する」と「飛んでいる」が向き合う。そこには矛盾がある。この矛盾は、島(海)と空という対比と結びつく。

 そうであるなら。

 「不幸」は書かれていない「幸福」と呼び合っているはずだ。矛盾が呼び掛け合って世界をつくっているがこの詩だからだ。
 この詩は、だから

幸福よ
わが偉大な休息の島
その空を飛んでいる一羽の信天翁よ

 と読み替えることができる。
 実際、「不幸よ」ということばで始まる詩を読んでも、何が不幸なのかわからない。「ゆったりと休息する」こと人間の喜びだ。そのときこころは空を信天翁のようにゆっくりと飛んでいる。
 まばゆい光。透明な空気。

 矛盾で語る「不幸」、詩は「矛盾」でできている。




*

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やまもとあつこ「ハミングクイズ」

2018-08-06 11:02:51 | 詩(雑誌・同人誌)
やまもとあつこ「ハミングクイズ」(「ガーネット」85、2018年07月01日発行)

 やまもとあつこ「ハミングクイズ」は認知症(たぶん)の母親の介護をしているときの詩である。ほとんど声を出さない。ことばにならないのかもしれない。ときどきハミングをする。曲をつきとめ、歌うと、母親がそれにあわせて歌い始める。そういう暮らしをしている。歌うことが一種のリハビリになっている。だから真剣だ。曲をあてて歌いださないと、母親はどんどんことばをなくしてしまう。

風呂上がり
母のハミングがはじまった
 m……
今日はすぐにわかった
「仰げば尊し」

わたしが言葉をつけて歌い出すと
母のハミングも歌にかわる

 教えの庭にも はや幾年
 思えばいと疾し この年月

ここから わたしは 歌えない

 いまこそ わかれめ
 いざ さらば

母は 最後まで 歌った

 「仰げば尊し」の「わかれめ」は「わかれ」であっても出発である。その別れには再会がある。
 でも、ことばというのはそんなに単純ではない。「意味」は、いろんなところから噴き出してくる。
 やまもとにとって「別れ」は再会につながらない。
 歌おうとして、ふっと、声が止まったのだ。

 ということなのだが。

 うーん。
 私は鈍感な人間なので、言ってしまってから「あっ、しまった」と思うことがあるが、ことばを発する前に「言ってはいけない」と自制することがない。だから、この詩の展開にとても驚いた。
 そうなのか。
 介護というのは、直面している困難さを、そのときそのとき手助けするだけではないのだ。常に先取りしてそなえることが重要なのだ。
 やまもとは常に母の思い(ことば)を先取りする形で身構えて生きている。
 その習慣が歌っている瞬間にも出てきた。

 何と言えばいいのかわからないが。
 「介護」の実情、介護の実体というものに、圧倒された。介護は、予測、「先取り」によって、なりたっている。しかし、予測はいつでも「いい」ものだけを教えてくれるではない。どうすることもできないことを予測の中に含まれる。
 やまもとの語らなかったことばが、私の肉体の中で動く。ことばは、語られなくても肉体に入ってくる。肉体を支配する。同じことばを持ってしまう。この「共犯」感覚が詩なのだと思う。
 







*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(29)

2018-08-06 09:47:55 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
29 青空

 レストラン。放し飼いにされている亀がいる。「パンやサラダをしきりにねだる」。

パンに飽きると踵を返して 植え込みのアカントスを貪りはじめる
葉という葉が食い尽くされようと 憂うるな それらはまた生えてくる
神神が失せても 人が滅びても 青空は青空のまま

 「アカントスを貪りはじめる」が強い。アカントスはギリシアの文様として有名だが、実際にアカントスという植物もある。それ自体は一般名詞だが、この詩では「固有名詞」のように強く響く。「事実」だからだ。
 「ヘルメスの実」の無花果と同じように、「事実」は強い。
 ある瞬間を描いているだけなのに、その瞬間が、そこにしか存在しない「事実」として目の前にあらわれてくる。
 「事実」によって、想像力が動く。想像力とは「事実」を歪める力のことだが、「事実」は想像力を鍛え直す。
 「神神」というものは、存在するのか、存在しないのか。無視して、ことばは「青空」にたどりつく。「青空がある」という「事実」が「神神が失せても 人が滅びても」という想像力を叩き壊して出現してくる。「青空」も一般名詞だが、それが「固有名詞」になって出現してくる。「失せる」とか「滅びる」とかの「述語」をひきつれずに、突然、「もの(事実)」としてあらわれてくる。

 光が散らばっているギリシアの青空。
 
 不思議なことに、私は亀になってアカントスを貪りたいと思うのだ。そのとき、ギリシアの青空は、絶対的な青空、一回かぎりの、永遠の青空になる。






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上田慎一郎監督「カメラを止めるな!」(★★+★)

2018-08-05 21:41:28 | 映画
上田慎一郎監督「カメラを止めるな!」(★★+★)

監督 上田慎一郎 出演 濱津隆之、真魚、しゅはまはるみ

 人気が「社会現象」になってしまった映画なので、なんだか書きにくいが。
 私は、そんなに感心しなかった。(私が見たときは、上映が終わると拍手が沸き起こったのだが。)
 でも、気に入った部分は二シーンある。
 ひとつはゾンビを追いかけて屋外に出たカメラが倒れて草原だけを映しているシーン。ふつうの映画ならカットされるか撮りなおしになるのだが、テレビに生中継という設定なので、それができない。その瞬間もゾンビの襲撃はつづいており、音(声)だけがそれを伝えている。ここには「現実」がある。負のクオリティーが生きている。こういうことは、映画はやってこなかった。(「木靴の樹」には、黄色い市内電車が映る、というシーンもあるが、あれは再撮影ができなかったということだろう。)
 もうひとつは、「趣味」の話をするシーン。「護身術」を実際にやって見せる。「ぽん」と声を出すというような、無意味な説明が「現実」となって、映画という虚構を突き破っている。正のクオリティーである。このシーンも、実際にはトラブルがあって、アドリブという設定だが、現実のアドリブにありそうなくだらなさがとても効果的だ。
 この二つのシーンにかぎらないのだが、この映画の「成功」は映画現場を知っている人が脚本を書いたことにある。現実に体験したことを、脚本に生かしている。映画は、どうみても「チープ」だが、脚本にはリアリティーがある。(だれでも一本は「傑作」が書ける。自分の体験を書くことだ、というようなせりふが「祭の準備」にあったような気がするが)。このミスマッチが映画を活気づかせている。
 でもねえ。
 この本編+メイキングフィルムという「構成」が、なんとも「あざとい」。言い換えると、同じ手法は二度と使えないということ。一回かぎりの「瞬間芸」のようなものだということ。
 それでもいいのかもしれないけれど。
 比較してはいけないのだろうけれど(すでに比較してきているけれど)、私は、この手の映画では「ぼくらの未来に逆回転」が好きだなあ。ビデオ店のビデオがだめになったので、自分たちで「名作」をつくってしまう。それを客がおもしろがって借りに来る。人気が出てしまって、てんやわんや。この映画には、映画への愛があった。
 「カメラを止めるな!」にも愛があるんだろうけれど、むしろ「野心」と「戦略」の方が目についてしまう。映画はストーリーではなく、映像そのもののなかにある「事実」を見たい、というのが私の希望(欲望)だなあ。
 (2018年08月04日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン3)




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高橋睦郎『つい昨日のこと』(28)

2018-08-05 08:53:40 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
28 ヘルメスの実

浅い木箱いちめんに敷きつめた 無花果の葉
かち割り氷を散らして乗せた 黒紫の無花果の実
二十か三十か どれもびっしり露を噴いて
若い男が地べたに尻をついて 売っているそれを
箱ごと買って 午後の粘い日差の中を急ぎ
ホテルの部屋でひとり きりもなく食べた

 この六行は西脇順三郎のことばのように強い。事実が事実のまま、ことばになっている。無花果の美しさと「地べた」「尻をついて」という「生な生活」が強く響きあう。「野生」というか「野蛮」が光のように眩しい。その野生に刺戟されて、高橋は無花果を一箱食べてしまった。
 後半は、

ひょっとして さっき無花果といっしょに連れてきて
ベッドの上で あられもなく貪り食ってしまったか

 と「幻想」になる。
 ことばは「幻想」のなかで自在に動くが、その自在さゆえに「抵抗感」を失う。強さを失う。
 夢想は読者がすることであって、詩人は夢想してはいけない、いつも現実と向き合っていないといけないということか。

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坂多瑩子「幼年」

2018-08-04 20:45:59 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「幼年」(「すぷん」創刊号、2018年夏発行)

 坂多瑩子「幼年」は書き出しがおもしろい。

起こしてきてくれといわれ
おじいちゃん死んだふりしているよ
そうこたえてあとは家の中が急に賑やかになり

 「賑やかになり」の「賑やか」がいいなあ。「にぎやか」と「あわただしい」は違うのだけれど、その違いはなかなかむずかしい。「あわただしく」よりも「にぎやか」の方が、その場の雰囲気がわかる。子どもの「実感」が動いているからだ。
 突然あらわれる「実感」は、その場を破る。「実感」は他人にとっては「違和感」でもある。「違和感」をもたらすものの方が意識を深くゆさぶるということなのか。
 これは「死んだふり」にも通じる。
 おじいちゃんは、何かあると「寝ているふり」をしていたのかもしれない。それを何度も坂多は体験している。でも、「寝ているふり」とは何かが違う。だいたい、朝、寝ているふりなんかしない。そういう「違和感」があって、「死んだふり」と言ってしまったということだろう。そして家族も「死んだふり」に違和感を、つまりふつうではない生々しい感じを感じ取り、その違和感を確かめるために、あたふたと動き始める。
 このときの「実感」とは「事実」のことだね。「感覚」が先取りしてしまう「事実」。

次の朝はやく
階段をおりる途中で
死んだはずの祖父によびとめられ
そんな一連のできごとがあって
寝てるふりと死んだふりの違いはどこにあったのか
ゆりうごかしたなんども
起きない祖父がいて
でも冷たくはなかったから寝てるふりでもよかったのに

 少しずつ、過去を振り返るのだが、「賑やかになり」のような「事実」がなかなか出てこない。
 「冷たくなかったから」は、妙に理屈っぽい。「死んだら冷たくなる」ということを、坂多は、そのときほんとうに知っていたのか。たぶん、あとから聞いて知ったんだろうなあ。後で遺体に触れて「ほら、こんなに冷たくなって」というような大人の声を聞いて、「死んだふり」と「寝ているふり」の違いをはっきり区別できるようになったということだろうなあ。あとで知った「事実」が「知識」として世界をととのえる。「実感」が消える。
 「……から」というような、「論理」のことばが入ってくると、「現実」は「現実」ではなく「整理された記憶」になってしまう。
 詩は、むずかしい。

 そのせいなのか、どうか。つまり、作品を立て直そうとしてことばを動かすのか、この詩は、途中から「転調」する。

母だけが泣いていなかったと
伯母たちのおしゃべりで知った

 「体験」と「知る」が交錯する。そのあと、こんなことばが出てくる。

うそつきのまま死んだ
あたしの伯母さん

 さて、「母だけが泣いていなかった」は嘘なのか。ほんとうなのか。これはむずかしいなあ。嘘なら、なぜ、その嘘を覚えているのか、ということになる。坂多が実際に見た母の姿を、ただの「ことば(嘘)」が壊していく。嘘の方が残る。
 「うそつき」と伯母を否定することで、坂多が実際に見た母の姿が甦るのかそれは正確には甦らないが、伯母に感じたいやな感じ(実感)はくっきりと浮かび上がる。。

 ことばにならないもの、坂多が「残したい」と思っているものが、残る。







*

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ジャム 煮えよ
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港の人
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(27)

2018-08-04 09:43:53 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
27 プラタナス アテナイ郊外

おう プラタナス 広い千の葉のいっせいにそよぐ木
肩幅の広い知恵の人 プラトンが とりわけ好んだ

 「広い千の葉」は「肩幅の広い」プラトンを通って、「言の広い葉」へと変わっていく。

はるかのちの日のわれらも娯しむ 言の広い葉たちの蔭で

 「言の広い葉」と「広い言の葉」とどう違うだろうか。「ことばの広さ」とはなんだろうか、と考えてみる。
 「言(こと)」は「事(こと)」かもしれない。「事」の方が「言」よりも広い。「言い表せない事」というものが、いつでも存在する。その言い表すことができないものの法へ広がっていく葉。
 「広い」を「広げる」と動詞にして読むのがいいのかもしれない。
 「結論」へ向かって収斂していくことばではなく、「結論」を壊して広がっていく葉、その生命力。

つい昨日のこと 私のギリシア
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思潮社
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東京医大の女性差別と杉田のLGBT差別発言

2018-08-03 10:30:01 | 自民党憲法改正草案を読む
東京医大の女性差別と杉田のLGBT差別発言
             自民党憲法改正草案を読む/番外219(情報の読み方)

 東京医大。女子受験生の一次試験で一律に減点していた。「女子は結婚や出産で離職することが多い。系列病院が人手不足になる」というのが理由だ。
 この「理由」は杉田のLGBT差別発言と共通するものをもっている。
 杉田は「生産性」ということばをつかったが、東京医大は「事業(医療)の効率化」と言いなおしているに過ぎない。どうやったら「経済活動を維持できるか」。「経済」だけが問題なのである。
 そしてこれは、そのまま自民党の2012年の改憲案と直結する。自民党の改憲案は、前文に「我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。」と明記している。「経済活動」だけが重視されている。
 東京医大は、いま「袋叩き」にあっているが、自民党の改憲案を先取り実施しているに過ぎない。
 安倍は、ほんとうは東京医大の姿勢を支持したいはずである。

 こんなふうに「情報」を読み直すといい。
 「女子は結婚や出産で離職することが多い。系列病院が人手不足になる」というのなら、結婚、出産をしても離職しなくてすむように労働環境を整えればいい。ところが、そうしない。
 なぜか。
 女性が「家庭の外で働く」ということが、自民党の改憲案では許されないのだ。
 自民党の改憲案は、こう書いている。

第二十四条
家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。
2 婚姻は、両性の合意に基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
3 家族、扶養、後見、婚姻及び離婚、財産権、相続並びに親族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 現行憲法にはない「前文」のような定義が加わっている。「家族は、互いに助け合わなければならない。」というとき、その「助け合い」は女性が男性が家庭の外で経済活動ができるように支えなければならない、という意味である。「離婚、財産権、相続」を「親族に関する事項」と定義しているのは、「家族」を「家族」としてとらえるのではなく「親族」の一員ととらえることであって、そこには「親族」を統一して支配するという意識が働いている。「家長制度」を復活させることが自民党の狙いである。
 女性が医者になったら(経済的に独立したら)、「家長」の言うことをきかなくなる恐れがある。女性が経済的に独立する機会を減らさないといけない。女性が「家庭」のなかで「家庭の仕事」に専念するのが「家庭(家族)」の安定につながる。
 そういう意識で東京医大と自民党の改憲案は「一致」している。

 杉田の差別発言も同じである。「生産性(子どもを産むかどうか)」よりも、「家長」が誰だかわからなくなるということが問題なのだ。子供を産むかどうかだけなら、杉田は子どもを持たない安倍夫婦を糾弾しなければならない。しかし、そういうそぶりは少しも見せていない。
 安倍の夫婦関係は知る余地もないが、安倍は昭恵が国会に出てきて発言することを防いでいる。「家長」として昭恵の行動を支配している。「家長制度」が機能している。そういうことが自民党の「理想」なのである。

 もう一つ。
 東京医大といえば、「裏口入学」の問題がある。文科省の局長が絡んでいる。文科省がらみでは、ほかの問題でも逮捕者が出た。
 これも、私には、微妙に自民党の改憲案とつながっていると思う。
 文科省が「狙い撃ち」されている。言うことを聞かなければ不正を見つけ出して処分するぞ(逮捕させるぞ)という「圧力」を感じる。前川は自民党に叛旗を翻したが、そういうことはさせないぞ、という「見せしめ」のように感じる。
 「教育」を支配したいのである。
 自民党の改憲案(2012年)。

第二十六条
全て国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、等しく教育を受ける権利を有する。
2 全て国民は、法律の定めるところにより、その保護する子に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、無償とする。
3 国は、教育が国の未来を切り拓ひらく上で欠くことのできないものであることに鑑み、教育環境の整備に努めなければならない。

 「無償化」については、さらに検討が加えられている。ここで私が問題にするのは、現行憲法にはない「3項」である。そのなかの「教育環境の整備」ということば。抽象的だが、これは「自民党政権を批判させないような教育内容にする」(洗脳する)ということだ。
 学問の自由がなくなる。「自民党の政策は経済格差を生み、独裁政治を招く。打破するためにどうすればいいか」ということをテーマに「教育(学問)」をしようとしたら、きっと「無償化」の対象からはずされる。
 いかに「批判力のない人間」を育て上げるか。それが自民党にとっての最大重要政策なのである。

 森友学園も加計学園獣医学部も同じだ。安倍を批判しないなら、学校(教育)を認める。安倍について少しでも批判を展開するなら、それを妨害する。「家長」の言うことを聞け、聞かないのは許さない。
 こういうことを、教育現場で展開するためには、文科省を徹底的に支配する必要がある。前川のように「学ぶことの大切さ」を力説することは許されない。いかに従順に「家長」のいうことを聴く人間に育てるか、それが文科省に求められている。

 東京医大の女子受験生差別は、ある意味では「手違い」で発覚したのかもしれない。平然と「女子は結婚や出産で離職することが多い。系列病院が人手不足になる」と言ってのけるのは、これが自民党の基本姿勢なのに、という思いがあるからかもしれない。「認識を共有しているのになぜ」という思いがあって、そう言ってしまったのかもしれない。
 あるいは、これは文科省への圧力を隠すために、あえて「発覚」させたのかもしれない。「学校の現場で起きていることは、全部知っている。好きにはさせないぞ」ということを文科省の役人に認識させるために、だれかがリークしたのかもしれない。
 「女子は結婚や出産で離職することが多い。系列病院が人手不足になる」というのは「事実」だ。ばれないように、うまく操作しろよ、と文科省と大学に圧力をかけているのかもしれない。
 私は妄想が大好きだから、そういうことも考える。

 もし一連の「事件」が社会を正しくするためというのなら、安倍と親しい男が女性をレイプして訴えられ、逮捕状が出たのに、直前になって逮捕されなかったこととの「整合性」がとれない。
 不正を許さない、被害者を助ける、という意識で社会は動いていない。安倍がリードする社会では、安倍の独裁をいかに支えるかだけが問題になっている。
 独裁はすでに始まっている。


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高橋睦郎『つい昨日のこと』(26)

2018-08-03 09:09:38 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
                         2018年08月03日(金曜日)

26 願望

 男は女に殺されたがっている。

オルペウスのように 首を引き抜かれ 海に投げ込まれる
ペンテウスのように 手も 足も 胴体から引きもがれる

 この二行だけが美しい。あとは「説明」である。
 悲惨な情景が詩なのか。
 「オルペウスのように」「ペンテウスのように」の「のように」が詩なのだ。「ように」と言うとき、想像力が動く。いま、ここにないものを、いま、ここへ呼び寄せる。そのとき「首を引き抜かれ 海に投げ込まれる」「手も 足も 胴体から引きもがれる」もまたことばによって呼び出された情景である。
 言い換えると、それはすべてことばの復習なのだ。
 ひとはあらゆる情景をことばにするわけではない。けれどギリシアはすべてをことばにする。情景を残すのではなく、ことばを残す。

 「説明」もことばだが、説明には「意味」はあっても「現実」がない。言い換えると「説明」は簡単に反対のことばになりうる。
 この詩で言えば、男は女に殺されたがっているという「意味」は、いつでも男は女に殺されたがっていないと言い換えることができる。反対の意味になりうる。
 言い換えが聞かない「真実」は、

オルペウスのように 首を引き抜かれ 海に投げ込まれる
ペンテウスのように 手も 足も 胴体から引きもがれる

 だけである。
ぞくぞくする恐怖。怖すぎて理性が働かない。愉悦と勘違いしてしまいそうな惨劇。比喩なのに言い換えがきかない。それが詩だ。

つい昨日のこと 私のギリシア
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