詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「原則として」は誰が思いついた?(障害者雇用率の問題点)

2018-08-29 19:20:19 | 自民党憲法改正草案を読む
「原則として」は誰が思いついた?(障害者雇用率の問題点)
             自民党憲法改正草案を読む/番外221(情報の読み方)

 2018年08月29日の読売新聞(西部版・14版)。1面の見出し。

障害者雇用水増し27省庁/計3460人 検診結果で算入も

 奇妙な話である。記事には、こう書いてある。

総務省や防衛省では健康診断の結果をもとに視力や聴力が悪いなどの理由で障害者として算入し、本人が障害者として算入されていることを知らないケースもあった。

 こんなことが「独断」でできるのか。誰かが「指示」したのではないのか。だいたい健康診断の結果というのは「個人情報」のはずである。他人が勝手に見ることはできない。診断した医師が結果を他人に伝えたのなら、それは「守秘義務」に違反するのではないのか。それは問題にならないのか。業務に支障をきたすほど検査結果が悪いのなら、本人が「障害」を知らないというとこはないだろう。(私の会社では、診断結果は封印された状態で個人あてに郵送されてくる。だからといって、会社が内容を知いないと言えるかどうかはわからないが。)
 私は、絶対に「指示」があるはずだと見る。
 そう思ってさらに新聞を読み進むと。3面に、こんな記事が出てくる。各省庁が障害者雇用状況をまとめる際に、厚労省が通知を出しているという。

毎年の通知では身体障害者について「原則として障害者手帳を持っている人」といった内容を記載。厚労省の担当者は「手帳でなくても診断書でもよい、という意味で『原則として』という言葉をつけた」と説明するが、この文言を誤解し、拡大解釈した省庁担当者は多いと見られ、『原則として』という表記があったので、手帳などの資料で確認しなくてもいいと思った」と、文科省の担当者は明かす。

 厚労省の「担当者」、文科省の「担当者」に責任(?)を押しつけているような書き方だが(当然のことながら、担当者の名前は書かれていないが)、こんなことは、一般の企業ではありえないだろう。
 「通知」があり、そこに「見慣れないことば(いままで存在しなかったことば)」が書き加えられていたら、その「意味」を確認する。あとで、「そういう意味ではない(確認せずに、独断で判断するな)」と指摘されたら困るからである。「責任」を押しつけられたら、困る。ことが法律や金にかかわることなら、なおさらそうである。絶対に、独断で「健康診断書」の数値で、ある人を「障害者」と判断するということはしないはずだ。
 これは「通知」を出す方もそうである。「担当者(個人)」が独断で、そういうことをするはずがない。「健康診断書で判断してもいい、読めるのだけれど、健康診断書はどうやって入手するのか、判断した結果を該当者に伝えなくていいのか」という質問がきたときに困るだろう。
 「担当者」が個人でできることではない。
 だいたい問題になっている「人数」が大きすぎる。たまたまひとり、ふたり含まれているというのではない。
 読売新聞は1面では、問題の障害者の数を「3460人」と書いているが、3面では概数で「3400人分」と書いている。下二桁よりも「人」か「人分」かの方が問題である。1面のグラフには「1022・5人」とか「603・5人」という数字が見える。人間に「0・5人」という数え方はない。どんな人も「1人」である。なぜ「0・5人」という数え方があるかというと、障害の程度に応じて勤務時間が短い人も出てくるので、その勤務時間にあわせてある人を「0・5人」と数えているからだろう。(自民党の得意な「生産性」を基準にして、そういう数え方をするのだろう。)ということは、実際に水増しされた「障害者」は3460人ではないということだ 。「0・5人」として数えられた人が複数いるはずだ。ここにも、とんでもない「嘘」が隠されている。

 障害者雇用に関して言えば、一般の企業では雇用すると国から補助金が出るはずである。国の機関であっても補助金が出るだろうと私は思う。「0・5人」というような数え方をするのは、補助金が「人」というよりも「勤務時間(労働時間)」との兼ね合いで算出されるからだろう。勤務時間で算出しているということは、国の機関であっても、補助金が支出されているということを意味するだろう。
 そうすると、ここにもうひとつ大きな問題がある。「補助金」は何につかった? その総額は? その金はだれの「懐」に入った? まさか「担当者」が猫ばばしているとは考えられない。
 ここからも、この「水増し」は「担当者」個人がおこなったものではないということが推測できる。国家ぐるみでおこなわれた「犯罪」なのだ。私たちの税金が「障害者雇用」の名目で、政権のどこかに「横流し」されているのだ。
 森友学園事件では、「犯人」は佐川ひとりに押しつけられた形だが、今回も「担当者」を「犯人」に仕立てて、「安倍は何も知らない(無罪)」ということにするつもりなのかもしれない。最高責任者なら、「知らない」ということも「罪」なのだ。「知らない」ことも責任をとらなければならないのが、最高責任者である。

 安倍とマスコミは、どうやって「犯人」を「担当者」に押しつけるか。今後はそのことに注目しながらニュースを読む必要がある。「ことば」のなかには、必ず「情報」が隠れている。







#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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クラウス・レーフレ監督「ヒトラーを欺いた黄色い星」(★★★★)

2018-08-29 18:12:00 | 映画
クラウス・レーフレ監督「ヒトラーを欺いた黄色い星」(★★★★)

監督 クラウス・レーフレ 出演 マックス・マウフ、アリス・ドワイヤー、ルビー・O ・フィー、アーロン・アルタラス、ビクトリア・シュルツ

 とても地味な映画である。なぜ地味かというと、ヒトラー政権下のベルリンに潜伏し生き延びたユダヤ人を描いているからである。潜伏するということは、社会と隔離されること。つまり情報がない。彼らが見聞きするのは世界の一部に過ぎない。いまのようにネットがないのはもちろんだが、テレビもない。ラジオはあるが自由に聞けるわけではない。
 だから、劇的なことは起こらない。唯一、友人が電話をかけた後、ゲシュタポに逮捕されるくらいである。幾分のはらはらはあるけれど、彼らが生き延びることはすでにわかっている。経験者が証言しているのだから、彼らが死ぬはずがない。
 それなのに。
 引き込まれる。私は自動販売機で買ったアイスコーヒーを一口飲んだだけで、後は飲むのを忘れてしまった。
 なぜなんだろうか。
 そこに描かれていることが「事実」だからである。そして「事実」というのは不思議なことに「全体」がなくても成立する。いや、ユダヤ人虐殺という「全体」はすでにだれもが知っているから、「全体」がないということにはならないが。しかし、この映画に登場する人たちは、生き延びているあいだ(潜伏しているあいだ)、「全体」を知らない。知らないというよりも「わからない」。
 匿ってくれる人がいるにしろ、その人がいつまで匿ってくれるのか、それが「わからない」。いつ隠れ家を出て行かなければならないのか、隠れ家を出てしまったらどうなるのか、「わからない」。
 「わかる」のは、いま、自分が生きているということだけだ。生きていくために何をしなければならないか、それを考えなければならない。それだけが「わかる」。「わかる」ことだけが「事実」として目の前にある。それ以外に「世界」がない。
 そして、「わかっている」のに、やはり失敗もする。身分証明証の偽造をしながら、せっかくつくった証明書をストーブで燃やしてしまうということもある。鞄を電車の中に忘れるということもある。
 この緊張感が、「映画」のように緊張感を誇張するのではなく、淡々と描かれる。映画なのに、である。そこに引き込まれる。「映画」を見ているのではなく、「事実」を見ているという気持ちになる。
 さらに、映画を見終わった後、これは「事実」のほんの一部に過ぎないということも知らされる。四人が証言しているだけなのだから。語られない「事実」がもっともっとあるのだ。語られないことがあって、いまがある。そのことにも衝撃を受ける。
 それにしても、人間とはすごいものだと思う。どんなときにも、自分自身の考えを持ち、自分で行動する力がある。嘘をつくことを含めて、人には生きる力がある。生き延びた人が主人公なので、それを支えた人は「脇役」に徹しているが、「脇役」の人もそれぞれが考えて生きている。最後に「ユダヤ人を匿うのは、ドイツ(国家)を救うためだ」と言われたとひとりが語る。アメリカで講演するときは、匿ってくれた人の名前をひとりひとり挙げる、と女性が証言する。女性が必ず名前をあげるというドイツ人もまたヒトラーの政権下を生き延びた人なのだと知らされる。
 映画の登場人物は、歴史に名前を残す「立派な人」ではない。でも、そうであることが、立派なのだ。生きている、生きるために自分でできることをする、ということがかけがえのないことなのだ。

 ひるがえって。
 いま日本で、安倍独裁政権を「生き延びる」人が何人いるか。日本のために「生き延びる」人が何人いるか。日本のために、というのは、世界のために、でもある。どうやって安倍独裁政権を「生き延び」、未来を生きるのか、そのことを問われたような気持ちにもなった。
 (2018年08月29日、KBCシネマ2)




 *

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(52)

2018-08-29 08:40:40 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
                         2018年08月29日(水曜日)

52 倖せ それとも

 「古典/死」は「若々しい」というのは、矛盾に見えるかもしれない。しかし、矛盾ではない。「事実」だ。
 高橋は、こう書いている。

Kourous たちよ Koreたちよ
あなたがたは人間にして 神神
あなたがたのかけがえのない 尊い犠牲によって
かろうじて いまここに私たちは在るのだから

 「いまここに」「在る」。「いまここを」経験する。体験する。そうすることで私たちは老いていく。古びて行く。肉体も経験(体験)も古びていく。
 しかし人間には経験(体験)することができないことがある。だれもが死ぬが、死を経験/体験することはできない。それをことばにはできない。いつまでたっても、それはたどりつけない未知の部分だ。
 「過去」もそうなのだ。「人間/神」として生きた人がいる。その人は死んでしまった。それは「知る」ことができるが、経験/体験ではない。ただ、ことばを通して経験/体験したと勘違いするだけのことである。
 やはり「未知」なのだ。
 だから若々しい。

 経験/体験できないけれど、「事実」として、「いま、ここに」「在る」ものが「古典」という不思議な「死」である。

 途中を省略する。

その結果 私たちは永遠に宙ぶらりん

 「ことばになった死(古典)」と「体験するのにことばにできない死」のあいだが、「宙ぶらりん」の状態を生きる。死んだ人のことばを引き継ぐというのは、「名づける」ときの若さを引き継ぐことだ。語ることの情熱を引き継ぐことだ。
 自分の死をことばにできないのなら、死んだ人のことばの、その動いていく動きの中に「死(生き方)」をつかみとるしかない。「古典」は「生き方」だから、いつも「若々しい」。






つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社


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