詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋弘希「送り火」

2018-08-13 13:29:59 | その他(音楽、小説etc)
高橋弘希「送り火」(「文藝春秋」2018年09月号)

 高橋弘希「送り火」は第百五十九回芥川賞受賞作。
 父親の転勤にともない青森県に転校する中学生が主人公。最後に思わぬ暴力にまきこまれるまでを描いている。ウィリアム・ゴールディングの「蠅の王」が意識されているのかもしれない。でも、暴力(野蛮/野生)の持つ「魔力(愉悦)」のようなものが書かれていないので、最後の「暴力」が飛躍しすぎていて、納得できない。それまでの過程が長すぎる。時間経過が、まるで「日記」のように順序立っていて退屈である。
 どうして、こんな作品が芥川賞?
 選評を読んでみた。宮本輝が「描写力」ということばをつかっている。高樹のぶ子は「的確な文章力」という。奥泉光は「二十世紀零年代に成立した日本語のリアリズムの技法・文体をわがものとして、描写、説明のバランスを的確にとりながら奥行きある小説世界を構築できる力量」と評価している。
 でも、たとえば、どの文章が「描写力」をあらわしている? どの文章が「二十世紀零年代に成立した日本語のリアリズムの技法・文体」なのか。具体的に書かれていないので、さっぱりわからない。
 書き出しにこんな文章がある。

左手には山裾の森が続き、右手には乾いた畑が広がる。畑の畝には、掘り上げた馬鈴薯が一列に並んで野晒しになっていた。その馬鈴薯の表面の土も、もう白く乾いて砂になっている。瞼へ落ちかかる汗を手の甲で拭うが、次の汗が目に入り滲みる。瞼を擦りどうにか目を開けると、路傍の祠の銅板葺きの屋根が太陽を弾いて瞳を射た。(323ページ)

 ていねいに描かれている。しかし、わざわざ「描写力」と呼ぶようなものではないと思う。どこにも新しさがない。既成の作家の、山里(?)の夏の描写に出てきそうなことばばかりである。「写実」になっていないというのではない。「写実」でありすぎる。確立された既成の文体でしかない。
 それよりも、私には、読んだ瞬間いやな気持ちになることばづかいがあった。

歩も輪に交ざっていたゆえに、歩の手許にも札が配られていた。(330ページ)

歩は書記であったので、皆の考えを要約して黒板に板書していたゆえに、議論がどういう方向へ流れているのか把握しやすかった。(334ページ)

困惑している内に、手許には二枚の札が配られていた。故に歩は晃の薬指を見逃した。(352ページ)

 「ゆえに(故に)」ということば。意味はわかるが、こんなことばをいま、だれがつかうのだろう。主人公の中学三年生がつかうことばには思えない。(数学の証明問題を解くときはつかうかもしれないが。)
 高橋の文章にげんなりするのは、描写(文章)というよりも、「論理」の問題かもしれない。「文章の構造」が古くさい。「ゆえに」という論理展開が古くさい。たんに古いのではなく、「学んだ」古さである。誰かが、そういう文章を書いていた。あ、こういうときは「ゆえに(故に)」ということばをつかうのだ。理由を説明するのに便利だ、と思い、それに寄りかかっているということだろう。

 で、この既成の「論理」への「寄りかかり」を問題にすると。
 この小説の構造そのものへの疑問にも通じる。都会の少年が田舎(自然があふれる土地)の少年と交流することで、知らず知らずに田舎の少年のもっている暴力にのみこまれていくという「構造」自体が、私には既成のものに思える。
 いまなぜ「自然」なのか。少年の暴力を描くにしても、なぜ「都会」を舞台にしなかったのか。都会には「都会の野蛮(野生/自然)」はないのか。人間の創り出した野蛮(暴力)がはびこっていないのか。
 そんなことはない。人間がいるところ、どこにでも野蛮がある。人間がつくりだしたものも、「自然」となって、それ自体の力で自己拡張し、暴走する。なぜ、それを高橋は書かないのか。なぜ、「自然が豊か」な田舎を舞台にするのか。
 簡単に言えば、「都会」の内に潜む「自然」を描写する能力が高橋にはないからだろう。「都会」の、都市機能を内部から支え、突き動かしているものを描写した文章は少ない。高橋はまだそういう文章を多く読んでいない。だから、「学ぶ」ことができなかった。また、それを自分で発見し、書こうともしていないということだろう。
 自然を描写した文章なら、たくさんある。だれもが自然を描写してきた。人間の支配が及ばない何かに触れ、人間の隠されている「自然」が出てきてしまうという作品もたくさんある。「野生」の目覚め、その愉悦と陶酔。だから、そういうものに寄りかかっているのだと思う。寄りかかっているかぎり、「文体」は崩れない。乱れない。だからといって、それが「描写力」をもっているとは言えないだろう。だれも描かなかったものを捉える一行があれば別だが、どの選考委員も具体的な「一行」をあげていない。高橋の文章に「オリジナル」を発見していない。それなのに「描写力/文章力」と批評している。いいかげんすぎる。

 この小説は、書き出しの部分をのぞくと、あとは「1」「2」「*」「4」と時系列どおりに話が進んで行く。まるで中学生の「日記」のようである。時系列の変化を自然描写で補足している。その「補足」に濃淡がない、というもの、なんだか気持ちが悪い。季節の変化、自然の変化を「的確」に「描写」しながら、その描写した「自然」から何も受け取っていない。主人公の意識の変化につながっていない。これでは、なんのために自然を描写しているのかわからない。
 主人公を突き動かすのは、納屋で見つけた木槌の「豊かな沈黙」ということばである。(他にも、土地の「ことば」に反応するところがある。)「豊かな沈黙」ということばを農家の人が木槌に刻み込むとは思えないが、(少なくとも百姓であった私の両親は、そういうことばをつかわない)、こんな一度も会ったことがない他人が残した「ことば」に心境の変化を語らせるのも、非常にうさんくさい。もっとも、「借りたことば」に自分を代弁させるという意味では、他の自然描写とかわりがないかもしれない。高橋が自分で発見したことばがない。すでにあることばを借りてストーリーが動いていくだけなのだ。
 しかも、小説の最後の「暴力」と、この「豊かな沈黙」が重ならない。私は、最後の「暴力」に「豊かな沈黙」を感じることはできない。「豊かな沈黙」は思わせぶりな、お飾りである。何の批評でもいいが、ある批評を読むと、そこにときどき外国の流行概念(キーワード)のことばを借りてきて、そのことばをつかっているからその批評には意味があるという感じで書かれた文章を読むことがある。そのキーワードのつかい方に似ている。「豊かな沈黙」ということばをつかっている。「豊かな沈黙」の意味をつかみきれないのは、筆者ではなく、そのことばを他の文章で読んだことがない読者のせいだ。私(高橋)は正しい指摘をしている、それがわからないのは「豊かな沈黙」について考えたことがない読者が悪いのだ、と言っているみたいだ。
 こんな、ある意味では手垢のついたことばにだまされて(幻惑されて?)、芥川賞に選ぶなんて、ひどいなあ、と思う。「豊かな沈黙」に感動したのなら、その「豊かな沈黙」が他の部分でどう実現されているか、その実現と主人公の意識の変化とどう関係しているか、そういうことを語らないと批評(選評)にはならない。小川洋子、私が批判しているは、あなたのことです。



 都会の見えない論理を的確に描いた作品に、村田沙耶香の「コンビニ人間」がある。コンビニに入ると聞こえる「音」を的確に描き、コンビニを「自然」のように成長、発展させている。「音」がコンビニを不気味に育て上げている。その「音」によって主人公は「コンビニ人間」として無意識の内に育てられていく。「コンビニ人間」に育ってしまう。人間が作り上げたものの勝利と、人間の敗北が、くっきりと描かれている。それを基底で支えるのが、「音の発見」であり、「音を描写する文体」である。
 



*

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送り火
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(36)

2018-08-13 09:21:58 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
36 迷路 クノッソス

 「迷路」には二つの種類がある。「路」そのものが入り組んでいるときと、「意識/自己」がさだまらないとき。路がまっすぐでも、その路で迷うことはある。「この方向でよかったのか」と、ひとは、いつでもどこでも迷う。

この 掘り出され 真夏の日差にさらされた 明るい迷路

 クノッソスの迷路(迷宮)に立った後、高橋は自分の迷路を見つけ出す。「迷路」は「迷う」と言いなおされた後、路は「謎」と言いなおされる。路は「謎」の比喩になる。あるいは「謎」が路の比喩かもしれない。
 比喩とは、かけはなれた二つの存在を結びつけ、「ひとつ」にすることである。ふたつの存在に共通のものを見いだし、共通性を浮かび上がらせることで比喩が成り立つ。
 では人は、なぜ、かけはなれたもののなかに共通性を見いだしてしまうのか。それこそ「謎」だ。こういうことを考えると「迷路」にはまり込む。でも、入り込まずにはいられない。

私たちが眩しく迷うのは 私たちひとりひとりの抱え込む謎が
暗くも曖昧でもないこと 明るく正確であることこそが
謎の本質だ と知るため その真実を知ってしまったら
爾後 私たちの足の向くところ 路という路がすべて迷路に

 かけはなれた「ふたつ」を「ひとつ」にする比喩。そのとき、動いている「意識」は、比喩を語った人には明確である。曖昧さは少しもない。自明でありすぎるために、ことばにできない。自明とは、ことばをつかわずにつかみとる絶対的な明確さだからである。この絶対的な明確さを、高橋は「真実」と言いなおしている。
 ここに「矛盾」がある。ことばにできないものをことばにするのが詩人である。詩人であることが、すべての矛盾を引きつけてしまう。
 このとき高橋を動かしているのは、「肉体」そのものである。省略してきた詩行を振り返る。

入り組んだ迷路の そこここに散らばって立つ私たちは
二つの蹠のほか 染みほどの影も持たない真昼の迷い子

 「蹠」で「立つ」。そのとき高橋は「ひとり」になる。ひとりの「肉体」のなかで、すべては起こるのだ。「路」と「謎」は、迷うという動詞をひきつれて「迷い子」の「子(人間)」に収斂する。

つい昨日のこと 私のギリシア
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