詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(2)

2018-08-07 11:13:04 | 嵯峨信之/動詞
「台地」

*(ある台地)

ある台地
時の終りがすべて集まつていて
いま小草一本生えていない突兀たる高所

 「集まる」と「生えていない」の「ない」とは矛盾している。「集まる」ならば、そこには「ある」はずだが、何もない。「無」が集まってきていることになる。
 「時の終り」が「無」である。
 「終り」が「集まる」と何もない。
 しかし、ことばは「無」を語ることができる。「無」を「ある」ものとして語ることができる。
 それが「台地」「突兀たる高所」となって、そこに「ある」。





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
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嵯峨信之全詩集
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(30)

2018-08-07 08:01:58 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
30 眠りの後に

 午後のある時間。人間だけではなくすべてが眠っている。

道も 樹樹も その影も それらの上の雲一つない青空も

 そう書いた後、

開け放した窓から 部屋の中の闇の部分を窺う
羽沓を穿き 羽杖を手にした 不吉な横顔の若い神

 ということばがつづく。「若い神」は死神。そういうことは知らずに、眠り足りた人は、涼しい風と光の中へ歩み始める。

眠った分だけ死に近くなった自分に 気づかずに

 光と影(闇)、生と死が交錯する。「開ける」と「閉ざす(隠す)」も交錯する。「閉ざす(隠す)」は書かれていないが、「窺う」は「隠しているもの見る」ということ。
 その動きを「道も 樹樹も その影も それらの上の雲一つない青空も」という一行が巧みに誘い出している。午後の光の中の風景をとらえる視線が、地上と空を結ぶように自然に上下する。
 「雲一つない青空」は美しいが、美しすぎて不自然。不吉でもある。それが死神の美しさを引き出す。
 しかし、この相互の結びつきは、あまりにも人工的すぎる。「理屈」になってしまっている。
 「眠った分だけ死に近くなった」と高橋は書いているが、時間が過ぎたというのであれば、遊んでいても、仕事をしていても同じである。死神の夢を見ていたとしても同じである。

道も 樹樹も その影も それらの上の雲一つない青空も

 は「現実」のことば、「事実」。だが、ほかは「思考」がひっぱりだしたことばである。「不吉な横顔」という夢さえ生々しくないのは、思考が優先しているからだ。




つい昨日のこと 私のギリシア
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