安藤元雄『「悪の華」を読む』(水声社、2018年05月20日発行)
安藤元雄『「悪の華」を読む』はタイトル通り、安藤がボードレールの『悪の華』をどう読んできたかを書いている。繊細な内容なので、私にはわからないことがたくさんある。
第四章は「旅への《さそい》」。「旅へのさそい」をとりあげ、「微妙な異同」について書いている。「異同」はいくつかある。感嘆符が追加され、「ティレ(棒線)」が省かれる。それを取り上げて、安藤は、こう言う。
もちろん「意図の変化」があるから変えたのだろう。でもその「微妙」が、日本語でしか読むことのできない私には分からない。
104ページには「文法用語」も出てくる。「条件法」「命令法」「直説法現在」などである。
どんな国語でも、そのことばを離している人には「無意識」であっても、外国人には「意識」しないととらえることができないことばの動かし方がある。「意識化」するために文法用語があるのだと思うけれど、私はフランス語を知らないので、とても困ってしまった。
安藤の書いていることは「正しい」のだろうと思うが、その「正しさ」を納得できない。
音について書かれた部分も同じである。私はフランス語の音になじんでいない。ボードレールをフランス語で読んだこともない。そうすると、安藤の書いていることは「正しい」のだと思うけれど、「正しさ」を納得できない。
これが、つらい。
たぶんフランス語を知らない人にもわかるように、「正しい」分析をいくつも重ねる。「正しさ」が重なれば、それだけ論が「正しい」ものになっていく。
しかし、これが「納得」に変わることはない。
きっと「納得」というのは、違う反応なのだろう。「正しさ」にはこだわらないのだろう。もしかすると「間違っている」部分があるからこそ納得するということがあるのかもしれない。「正しさ」よりも、ぐいとひっぱっていく力が必要なのかもしれない。「正しさ」よりも、「ここが好き」という感情の動きの方が「納得」へと導くのだと思う。
安藤もボードレールが好きなのだろうけれど、「好き」よりも「正しく」読んでいるという、その「正しい」が前面に出てくるので、フランス語を読めない私(フランス語でボードレールを読んだことのない私)は、なんとなく身を引いてしまう。
安藤は学者なので、その「正しさ」は完結している。完結していて、矛盾がないということは、読んでいて「わかった」気になるが、だからこそ、困ってしまう。
読んでいて、どきどきしない。
この本を読みながら、どきどき、わくわくするためにはフランス語でボードレールを読めるようにならないといけないだろうなあ、と思う。
「専門家」向きの一冊といえる。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
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ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
「詩はどこにあるか」5、6月の詩の批評を一冊にまとめました。
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オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
安藤元雄『「悪の華」を読む』はタイトル通り、安藤がボードレールの『悪の華』をどう読んできたかを書いている。繊細な内容なので、私にはわからないことがたくさんある。
第四章は「旅への《さそい》」。「旅へのさそい」をとりあげ、「微妙な異同」について書いている。「異同」はいくつかある。感嘆符が追加され、「ティレ(棒線)」が省かれる。それを取り上げて、安藤は、こう言う。
詩人自身が、一度は完成形として手放した作品を、制作当時とはいくぶん異なった角度から、あらたな相のもとに捉え直そうとする、微妙な意図の変化が感じられないだろうか。
もちろん「意図の変化」があるから変えたのだろう。でもその「微妙」が、日本語でしか読むことのできない私には分からない。
104ページには「文法用語」も出てくる。「条件法」「命令法」「直説法現在」などである。
どんな国語でも、そのことばを離している人には「無意識」であっても、外国人には「意識」しないととらえることができないことばの動かし方がある。「意識化」するために文法用語があるのだと思うけれど、私はフランス語を知らないので、とても困ってしまった。
安藤の書いていることは「正しい」のだろうと思うが、その「正しさ」を納得できない。
音について書かれた部分も同じである。私はフランス語の音になじんでいない。ボードレールをフランス語で読んだこともない。そうすると、安藤の書いていることは「正しい」のだと思うけれど、「正しさ」を納得できない。
これが、つらい。
たぶんフランス語を知らない人にもわかるように、「正しい」分析をいくつも重ねる。「正しさ」が重なれば、それだけ論が「正しい」ものになっていく。
しかし、これが「納得」に変わることはない。
きっと「納得」というのは、違う反応なのだろう。「正しさ」にはこだわらないのだろう。もしかすると「間違っている」部分があるからこそ納得するということがあるのかもしれない。「正しさ」よりも、ぐいとひっぱっていく力が必要なのかもしれない。「正しさ」よりも、「ここが好き」という感情の動きの方が「納得」へと導くのだと思う。
安藤もボードレールが好きなのだろうけれど、「好き」よりも「正しく」読んでいるという、その「正しい」が前面に出てくるので、フランス語を読めない私(フランス語でボードレールを読んだことのない私)は、なんとなく身を引いてしまう。
安藤は学者なので、その「正しさ」は完結している。完結していて、矛盾がないということは、読んでいて「わかった」気になるが、だからこそ、困ってしまう。
読んでいて、どきどきしない。
この本を読みながら、どきどき、わくわくするためにはフランス語でボードレールを読めるようにならないといけないだろうなあ、と思う。
「専門家」向きの一冊といえる。
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評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
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クリエーター情報なし | |
水声社 |
35 ドドナにて
「地名である以前に」の「以前」が重要だ。「名前以前」とは「名づけられる前」ということ。「名」として分節される前。未分節。つまり「無」の状態。そこではただ風が音を立てている。何かになろうとする動きが、そのまま風の激しさとして存在している。「名づけられる」前に、自ら「音」を発している。
これは、こう言い換えられる。
「無」は「闇」と言い換えられている。それは「胸奥」にある。「肉体の奥」である。肉体は「形」だが、肉体という「形」の奥には、「形」にならずに動いているものがある。それは「動き」としか呼べない。「動き」とはエネルギーである。その「動き」を高橋は「鞴」と呼ぶ。その瞬間、「肉体」と「風」がひとつになる。「風」のような「動き」、見分けがつかない「動き」。「見分けがつかない」から「闇」なのだ。「見分けがつかない」けれど、それが「ある」ことはわかる。形にならない(無)が、見分けがつかないまま「ある」。
この矛盾を、高橋は、真実と呼び、ことばをこう展開する。
「あらためて識る」というのは、「予感」として知っていたことを「ことば」にすること。ことばを確立し、「事実」にすること。
この詩では「ドドナ」が「ドードーナ」と新たに言いなおされることで、「土地」と「人間」が一体になる。それは高橋の「肉体」がつかみ取った「事実」だ。
「旅人」は、こうして「詩人」になる。
おう ドードーナ ドードーナ
それは地名である以前に 烈しい風音
「地名である以前に」の「以前」が重要だ。「名前以前」とは「名づけられる前」ということ。「名」として分節される前。未分節。つまり「無」の状態。そこではただ風が音を立てている。何かになろうとする動きが、そのまま風の激しさとして存在している。「名づけられる」前に、自ら「音」を発している。
これは、こう言い換えられる。
風のみなもとはいつも おまえ自身の胸奥の 肉の鞴
肺胞の中の 湿った生臭い闇こそが ドードーナ
「無」は「闇」と言い換えられている。それは「胸奥」にある。「肉体の奥」である。肉体は「形」だが、肉体という「形」の奥には、「形」にならずに動いているものがある。それは「動き」としか呼べない。「動き」とはエネルギーである。その「動き」を高橋は「鞴」と呼ぶ。その瞬間、「肉体」と「風」がひとつになる。「風」のような「動き」、見分けがつかない「動き」。「見分けがつかない」から「闇」なのだ。「見分けがつかない」けれど、それが「ある」ことはわかる。形にならない(無)が、見分けがつかないまま「ある」。
この矛盾を、高橋は、真実と呼び、ことばをこう展開する。
その真実を あらためて識るために 旅人よ
海を渡り 幾つもの峠を越えて はるばると
この地の涯に おまえは来た
「あらためて識る」というのは、「予感」として知っていたことを「ことば」にすること。ことばを確立し、「事実」にすること。
この詩では「ドドナ」が「ドードーナ」と新たに言いなおされることで、「土地」と「人間」が一体になる。それは高橋の「肉体」がつかみ取った「事実」だ。
「旅人」は、こうして「詩人」になる。
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