詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

駱英『文革記憶--現代民謡』(竹内新訳)

2018-08-10 11:40:21 | 詩集
駱英『文革記憶--現代民謡』(竹内新訳)(思潮社、2018年01月15日発行)

 駱英『文革記憶--現代民謡』には詩がつくられた日付と時間、さらに場所が書かれている。「城壁そばの処刑場」には

二〇一二年十一月九日06:47
米ロサンゼルス、リンダ・アイスル、ニューポートビーチ96番地

 と書かれている。そして、この日、この場所で書かれた作品は、「鍛冶屋の劉さん」(04:22 )に始まり、「『紅色娘子軍』」(11:02 )まで二十五篇ある。約六時間に二十五篇。一篇を十五分で書いている。
 どうしてこんなに早く、たくさんの作品が書けるのか。それは文革の記憶が鮮明だからだ。忘れられないからだ。書くというよりも、記憶が駱英の体を突き破って、目の前に動くのだろう。
 こういうとき、日本語はとても「不利」である。スピード感がない。竹内には申し訳ないが、どんなにことばを切り詰めても漢字の凝縮には向き合えない。
 たとえば、

遠いところの人は 発泡の瞬間に間に合わないかと気が気ではなく 狂わんばかりに駆けつけた

 という長い一行がある。中国語(漢詩)では、こんなに長い一行ではないだろうと思う。「気が気ではなく」というのは日本語ではふつうの表現だが、どうも間延びする。「狂わんばかりに」というのも「気が気ではなく」を言いなおしているようで、まだるっこしい。これでは「間に合わない」。「気持ち」はわかるが「肉体」の動きとして、もたもたしてしまう。急いでいる「肉体」をさらに「気持ち」が駆り立てているときの感じがしない。
 処刑の後のシーンも同じである。

彼は顔を傾けた状態で泥に倒れたが口の方はパクパクさせていた
彼は何かを話したかったのだと思う 誰かの名を叫ぼうとしたのか それは分からないが
聞くには至らなかった それより前に公安が彼の頭に向けてまた一発撃っていたからだ
頭蓋の真っ赤な血は拭きとられ 白い脳みそには すぐさま小さな赤旗が挿し込まれた

 口がパクパクしている生々しさが、他の長い行に隠されてしまう。「誰かの名を叫ぼうとした」という切実さもあいまいになる。
 赤と白が交錯する一行も、最初の赤から次の赤までが遠すぎる。あざやかな一行が、なぜか鮮烈さを失ってしまう。「頭」のなかでは強烈だが「目」にはぼんやりしてしまう。
 訳は訳として、その訳をいったん忘れる形で、私はこの詩に向き合わなければならないと感じた。描かれている「肉体」のなまなましい部分に自分の肉体を重ね、なまなましさをそのままつかみ取る、ということをしなければ、この詩集は分からないのではないか、と思った。
 また、この詩集が「民謡」と定義されていることについても、あれこれと思った。
 ことばは、まず「声」である。「肉体」をとうして発せられ、その「声」を共有するとき、「共有」のために「音楽」が利用されると思う。歌うことで「声」が「肉体」に記憶される。
 そういうとき「口の方はパクパクさせていた」の「させていた」ということばは「肉体」の方が受け持って「声」から省略されるように思う。「何かを話したかったのだと思う」の「のだと思う」というような「弁解的な論理」も省略されると思う。「聞くに至らなかった」の「至らない」という限定も、原文はそうなのだろうがまだるっこしい。
 私の感覚では、

彼は倒れた、泥の中で口がぱくぱく、
名前を叫んだが声にならなかった

 という感じになる。
 でも、これでは駱英の詩を読んだことにはならないのかもしれない。

 中国語で読めればいいのだろうけれど、私は中国語を知らない。竹内の訳を通してしか接することができないのだけれど、訳を読めば読むほど、駱英のことばは遠くなるような不安に襲われる。
 詩の翻訳は、とてもむずかしい。翻訳された詩を読むのは、とてもむずかしい。






*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(33)

2018-08-10 10:23:34 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
33 旅 ボイオティア

 「旅」とあるが、単純な旅ではないだろう。兵士の帰郷を思わせる書きぶりである。

一休みして立ちあがり また歩きだす
趾の先先 日の照りつける まぶしい道
歩く者の影は 乾いた土に吸われつづける

 読むだけで、歩いている人の疲れが伝わってくる。水ではないのだから、人間の影が「乾いた土に吸われ」ることはないだろうが、そんなふうに見えてしまう。
 歩み、人間の痕跡が消えていくというのは敗北だ。
 高橋は、戦いで疲れ切った兵士になって歩いている。分かち書きが、疲れ切った兵士の息遣いのようにも聞こえる。
 ソクラテスを書いた詩には「共感」が感じられなかったが、この詩には共感がある。

歩き疲れた爪先に いつか夕暮れが来る
歩き止めて食事を摂り 身を伸べるときだ

 「伸べる」という動詞に実感がこもる。それまで肉体は緊張で縮んでいた。それを伸ばし、広げる。この感じをもう一度高橋は言いなおしている。

眠りの中で 死者たちと睦み和むときだ

 「睦む」と「和む」。自分の肉体を伸ばすだけではない。伸ばした肉体から、その内部から「自分」そのものが出て行く。自分ではなくなってしまう。そういう時間がないと、人間は生きてはいけない。


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