駱英『文革記憶--現代民謡』(竹内新訳)(思潮社、2018年01月15日発行)
駱英『文革記憶--現代民謡』には詩がつくられた日付と時間、さらに場所が書かれている。「城壁そばの処刑場」には
と書かれている。そして、この日、この場所で書かれた作品は、「鍛冶屋の劉さん」(04:22 )に始まり、「『紅色娘子軍』」(11:02 )まで二十五篇ある。約六時間に二十五篇。一篇を十五分で書いている。
どうしてこんなに早く、たくさんの作品が書けるのか。それは文革の記憶が鮮明だからだ。忘れられないからだ。書くというよりも、記憶が駱英の体を突き破って、目の前に動くのだろう。
こういうとき、日本語はとても「不利」である。スピード感がない。竹内には申し訳ないが、どんなにことばを切り詰めても漢字の凝縮には向き合えない。
たとえば、
という長い一行がある。中国語(漢詩)では、こんなに長い一行ではないだろうと思う。「気が気ではなく」というのは日本語ではふつうの表現だが、どうも間延びする。「狂わんばかりに」というのも「気が気ではなく」を言いなおしているようで、まだるっこしい。これでは「間に合わない」。「気持ち」はわかるが「肉体」の動きとして、もたもたしてしまう。急いでいる「肉体」をさらに「気持ち」が駆り立てているときの感じがしない。
処刑の後のシーンも同じである。
口がパクパクしている生々しさが、他の長い行に隠されてしまう。「誰かの名を叫ぼうとした」という切実さもあいまいになる。
赤と白が交錯する一行も、最初の赤から次の赤までが遠すぎる。あざやかな一行が、なぜか鮮烈さを失ってしまう。「頭」のなかでは強烈だが「目」にはぼんやりしてしまう。
訳は訳として、その訳をいったん忘れる形で、私はこの詩に向き合わなければならないと感じた。描かれている「肉体」のなまなましい部分に自分の肉体を重ね、なまなましさをそのままつかみ取る、ということをしなければ、この詩集は分からないのではないか、と思った。
また、この詩集が「民謡」と定義されていることについても、あれこれと思った。
ことばは、まず「声」である。「肉体」をとうして発せられ、その「声」を共有するとき、「共有」のために「音楽」が利用されると思う。歌うことで「声」が「肉体」に記憶される。
そういうとき「口の方はパクパクさせていた」の「させていた」ということばは「肉体」の方が受け持って「声」から省略されるように思う。「何かを話したかったのだと思う」の「のだと思う」というような「弁解的な論理」も省略されると思う。「聞くに至らなかった」の「至らない」という限定も、原文はそうなのだろうがまだるっこしい。
私の感覚では、
彼は倒れた、泥の中で口がぱくぱく、
名前を叫んだが声にならなかった
という感じになる。
でも、これでは駱英の詩を読んだことにはならないのかもしれない。
中国語で読めればいいのだろうけれど、私は中国語を知らない。竹内の訳を通してしか接することができないのだけれど、訳を読めば読むほど、駱英のことばは遠くなるような不安に襲われる。
詩の翻訳は、とてもむずかしい。翻訳された詩を読むのは、とてもむずかしい。
*
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駱英『文革記憶--現代民謡』には詩がつくられた日付と時間、さらに場所が書かれている。「城壁そばの処刑場」には
二〇一二年十一月九日06:47
米ロサンゼルス、リンダ・アイスル、ニューポートビーチ96番地
と書かれている。そして、この日、この場所で書かれた作品は、「鍛冶屋の劉さん」(04:22 )に始まり、「『紅色娘子軍』」(11:02 )まで二十五篇ある。約六時間に二十五篇。一篇を十五分で書いている。
どうしてこんなに早く、たくさんの作品が書けるのか。それは文革の記憶が鮮明だからだ。忘れられないからだ。書くというよりも、記憶が駱英の体を突き破って、目の前に動くのだろう。
こういうとき、日本語はとても「不利」である。スピード感がない。竹内には申し訳ないが、どんなにことばを切り詰めても漢字の凝縮には向き合えない。
たとえば、
遠いところの人は 発泡の瞬間に間に合わないかと気が気ではなく 狂わんばかりに駆けつけた
という長い一行がある。中国語(漢詩)では、こんなに長い一行ではないだろうと思う。「気が気ではなく」というのは日本語ではふつうの表現だが、どうも間延びする。「狂わんばかりに」というのも「気が気ではなく」を言いなおしているようで、まだるっこしい。これでは「間に合わない」。「気持ち」はわかるが「肉体」の動きとして、もたもたしてしまう。急いでいる「肉体」をさらに「気持ち」が駆り立てているときの感じがしない。
処刑の後のシーンも同じである。
彼は顔を傾けた状態で泥に倒れたが口の方はパクパクさせていた
彼は何かを話したかったのだと思う 誰かの名を叫ぼうとしたのか それは分からないが
聞くには至らなかった それより前に公安が彼の頭に向けてまた一発撃っていたからだ
頭蓋の真っ赤な血は拭きとられ 白い脳みそには すぐさま小さな赤旗が挿し込まれた
口がパクパクしている生々しさが、他の長い行に隠されてしまう。「誰かの名を叫ぼうとした」という切実さもあいまいになる。
赤と白が交錯する一行も、最初の赤から次の赤までが遠すぎる。あざやかな一行が、なぜか鮮烈さを失ってしまう。「頭」のなかでは強烈だが「目」にはぼんやりしてしまう。
訳は訳として、その訳をいったん忘れる形で、私はこの詩に向き合わなければならないと感じた。描かれている「肉体」のなまなましい部分に自分の肉体を重ね、なまなましさをそのままつかみ取る、ということをしなければ、この詩集は分からないのではないか、と思った。
また、この詩集が「民謡」と定義されていることについても、あれこれと思った。
ことばは、まず「声」である。「肉体」をとうして発せられ、その「声」を共有するとき、「共有」のために「音楽」が利用されると思う。歌うことで「声」が「肉体」に記憶される。
そういうとき「口の方はパクパクさせていた」の「させていた」ということばは「肉体」の方が受け持って「声」から省略されるように思う。「何かを話したかったのだと思う」の「のだと思う」というような「弁解的な論理」も省略されると思う。「聞くに至らなかった」の「至らない」という限定も、原文はそうなのだろうがまだるっこしい。
私の感覚では、
彼は倒れた、泥の中で口がぱくぱく、
名前を叫んだが声にならなかった
という感じになる。
でも、これでは駱英の詩を読んだことにはならないのかもしれない。
中国語で読めればいいのだろうけれど、私は中国語を知らない。竹内の訳を通してしか接することができないのだけれど、訳を読めば読むほど、駱英のことばは遠くなるような不安に襲われる。
詩の翻訳は、とてもむずかしい。翻訳された詩を読むのは、とてもむずかしい。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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「詩はどこにあるか」5、6月の詩の批評を一冊にまとめました。
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オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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