詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(47)

2018-08-24 10:54:01 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
47 詩人と盲目

考古学的に貨幣史を溯る限り 原初のホメロスは盲目ではなかった

 と高橋は書き始める。そして、問う。

ではどんな理由で 後世は詩人を盲目にしなければならなかったのか

 その「答え」を高橋は、『イリアス』を朗読することでつかみとる。朗読には世界の詩人が参加した。ギリシア人、トルコ人、ドイツ人、そして日本人の高橋。

もちろん私は日本語で 朗読しながら おりおり目をつぶった
太陽が そして叙事詩の語る英雄の敵の老王への労わりが眩しくて

 目をつぶった理由よりも「目をつぶった」という動詞に私は惹かれる。「目をつぶる」と一時的に「盲目」になる。これが大事なのではないか。詩において。
 「現実」(事実)をことばにするのではない。「見えない」ものをことばにする。ことばのなかに出現させる。「見ない」こと、目をつぶることが、ことばを動かすために必要なのだ。

 いや、そんな「形式的」なことではない。言いなおさなければならない。

 詩を聞く人間ではなく、語る人間こそ、「目をつぶる」ことが重要だ。「目をつぶる」ことで、ほんとうに目に見えたものだけが残る。不必要なものが排除され、必要なものが強固になる。深くなる。

 いや、これも違う。

 「太陽が眩しい」「敵の老王への労わりが眩しい」のではない。目をつぶることで、それを「眩しい」ものに変えるのだ。「ことば」を生み出すのだ。そのとき、「ことば」が目になる。ことばは、「見た」ものを「見える」ものにする。


つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社
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