詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ことばと報道

2018-08-31 11:08:53 | 自民党憲法改正草案を読む
ことばと報道
             自民党憲法改正草案を読む/番外222(情報の読み方)

 2018年08月31日の読売新聞(西部版・14版)の2面。

もんじゅ廃炉へ一歩/燃料1本目取り出し

 という見出し。これは30日の夕刊(1面)の「もんじゅ燃料取り出し/30年間の廃炉作業開始」の続報である。

 この記事を読みながら、私は、別の事故と、その報道のことを思い出した。東海村JOC臨界事故である。ウランを精製する過程で、作業員が被曝し、後に死亡している。
 この事故が起きたときの「記者会見」のことを私は覚えている。テレビで放送されたからだ。私はたまたま職場でテレビを見た。
 動燃側は「事故」とは言わずに「事象」ということばをつかった。
 記者の側から「なぜ事故とは言わないのか」と「ことば」を問題にする発言があった。動燃側は、「全容が解明されていないので」というような奇妙な答え方をした。
 人は何かをごまかすとき(隠すとき)、「ことば」で隠す。だから、いつでも「ことば」を問題にしないといけない。
 「事象と言うのはなぜなのか、なぜ事故と言わないのか」と問うた記者の質問は重要だ。
 しかし、このとき、その場にいた記者は、もうひとつの大事な「ことば」を聞き漏らしている。問い詰めていない。
 マニュアル通りに作業していれば起きない事故なのに、どうして事故が起きたのか。
 動燃は、私の記憶によれば、

普通はつかわない用具(道具)で作業した

 と答えている。
 これを聞いて、テレビを見ていた私と同僚は「普通はつかわないものが、なぜ、そんなことろにあるのか」「(動燃で)普通はつかわないものとは何なのか」と、思わず声をあげてしまったのだが、記者は質問していない。
 その後、その普通につかわないものとは「バケツ」であったことが報道されている。つまり、作業員はマニュアルに従わずに、バケツで作業し、被曝した。
 なぜマニュアル通りに作業しないかと言えば、きっと「効率」が悪いからだろう。「生産性」を優先する「働き方」がそのころからあったということだろう。

 いま、なぜ、こういうことを書くのかというと。

 「障害者雇用率」について書いたときも触れたが、「ことば」に対してジャーナリストが鈍感になっていると思うからだ。(そのことに最初に気づいたのが、東海村JOC臨界事故である。)
 いまのことばは「具体的」には何を指しているのか、ということを問い詰めない。自分自身のことばで言いなおそうとしていない。ことばといっしょに「肉体」を動かしていない。「抽象的」な表現にごまかされて、「事実」を見落としているとしか思えないからだ。
 「障害者雇用」に関して言えば、雇用率を達成していない企業は「制裁金」を課せられているはずである。その金額はいくらくらいなのか。企業はいくら負担しているのか。一方で、省庁が「障害者雇用」の名目で受け取った補助金はいくらなのか。給料の明細から、補助金の流れがわかるはずである。そういうことを調べるのは面倒くさいが、それを調べて「ことば」にしてもらいたい。「金の流れ」がどこにも記録されていないということはありえないはずだからである。「事実」はいつでも「細部」にある。
 単に「雇用率」をごまかしていただけではなく、そこには金が動いている。巨額の金であるはずだ。そんな処理を「担当者」が「自己責任(自己判断)」で操作できるはずがない。国ぐるみの、つまり安倍が「独裁指揮」して、そうなっているのだ。安倍が「独裁指揮」していないと言い張るなら、その周辺が、安倍に「忖度」して、そういうことをしている。
 ジャーナリズムは「安倍3選」報道に忙しいが、いま起きている「事件」をもっと丁寧に解明してもらいたい。「一般の市民がつかっていることば(具体的なことば)」で「事実」を明るみに出してほしい。
 少し書いたが、雇用した障害者の人数の数え方が「整数」でないのはなぜなのか、というところを解明するだけでも、日本がどんなに差別的か(生産性優先の政策をとっているか)がわかるはずだ。あらゆるところで2012年の「自民党憲法改正草案」が先取り実施されているのだ。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(54)

2018-08-31 09:52:40 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
54 海辺の墓

 死は、また「古典(ことば)」とは別の形をとることがある。

難破者は無名者 その墓標に櫂を立てた

 と始まる詩は、ギリシアの習慣を読み込んだものか。しかし、

人はみんなみんな 人生という海の難破者
名ある人とても その事跡はやがて忘れられる
波だけが燿き暗み 葬いの歌をうたいつづける

 こういうことばの展開を読むと、ギリシアの兵士ではなく日本の漁師が目の前に浮かんでくる。自然と調和して生きる人間が見えてくる。
 しかし、自然は人間のいのちとは無関係に存在する非情ではないのか。
 人間は「有情」の存在である。しかし人間の情とは関係なく、ただ存在する。非情だ。人間は自然に情を託すが、自然はそんなものに見向きはしない。
 「波だけが燿き暗み 葬いの歌をうたいつづける」というのは人間の「思い入れ」に過ぎない。「燿き暗み」という対比は人間の見方である。「葬いの歌をうたいつづける」も、そう願う人間のことばにすぎない。
 書かれていることばとは裏腹に、私は、そう思ってしまう。
 死も自然も非情なものだ。だから悲劇が生まれる。
 高橋のこのことばは、あまりにもセンチメンタルだ、とも思う。日本的な抒情だ、と。「忘れられる」(断絶)と「うたいつづける」(継続/連続)の「対句」構造は、「和歌」の抒情である。
 ギリシアの透徹した視線、「情」を排除して世界の構造をとらえるという視線の徹底さを欠いている。
 ギリシアのなかにふいに、高橋が抱え込んでいる日本の自然が噴出してきた、という印象を持った。












つい昨日のこと 私のギリシア
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思潮社



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