詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「労働開国」

2018-08-22 20:12:29 | 自民党憲法改正草案を読む
「労働開国」
             自民党憲法改正草案を読む/番外220(情報の読み方)

 2018年08月22日の読売新聞(西部版・14版)に恐ろしいことばを見た。3面の見出し。

外国人へ「労働開国」/新在留資格 5分野から倍に/外食、水産 人手不足解消急ぐ

 人手不足を解消するために、「政府は、来年4月の創設を目指す外国人労働者の新たな在留資格について、対象業種を当初の5分野から倍増させる方向だ」という書き出しで記事は書かれている。

人手不足に悩む業界などから要望が相次ぎ、「労働開国」へかじを切った。

 という文章がある。「労働開国」ということばは誰が言い始めたものかわからないが、ぎょっとしないだろうか。
 このことばは杉田水脈が言った「生産性」ということばを思い出させる。経済を優先したことばである。経済を活性化させることに重点が置かれていて、人間性を無視している。
 日本では労働力のある人口が減っている。少子化(高齢化)が原因である。そのために、つぎつぎに外国人を労働者として受け入れ、なおかつ一定期間が過ぎれば追い出すという「仕組み」をつくっている。「外国人研修生」がその代表である。外国人に日本の技術を教えるという「名目」で安い賃金でこきつかう。一定期間が過ぎたら外国に追い払う。長期間雇用すると賃金を上げないといけなくなるからである。低賃金で労働力を確保するために考え出された「差別的」な仕組みである。外国人を「人間」ではなく、単なる「労働力」と見ている。しかも、その「労働力」には「安価な」という修飾語がつく。
 「安価な労働力」は「生産性」を上げる。そして、このときの「生産性」というのは、企業の収益に貢献するという意味である。働いた人が豊かになるということではない。自民党と企業にとっては、働く人はどうでもいいのだ。「高価な労働力」では企業の収益が上がらない。「安価な労働力」というのは必須条件である。
 こんなばかげた制度が長続きするはずがないだろう。
 「日本の給料は高い」ということでやってきた外国人は、短期間、安い賃金で働かされて、一定期間が過ぎれば「国外追放」というのであれば、「将来」の計画が立たない。そんなことろへ、いつまでも外国人がやってくるわけがない。
 「労働力」ではなく、「労働者」として受け入れないかぎり、日本経済は破綻する。「労働力」という抽象的な存在ではなく、「労働者(人間)」が必要なのだ。「労働力」はひとつの「業種(分野)」にしか「力」を発揮できないが、「労働者」はつぎつぎに自分の能力を切り開いて行き、自分自身の力で新しい仕事を生み出していく。もし、「生産性」ということばをつかうのならば、自分で新しい仕事をつくりだして行ける人に対してつかうべきである。そういうことができる人間を育てるためには、何よりも日本で暮らすこと認めないといけない。暮らして行ける保障がないかぎり、人は生産性のある「労働者」にはならない。「移民」を受け入れないかぎり、人口が減り続ける日本は、あらゆる分野で行き詰まる。

 人間を「労働力」としかみない日本に、いったい外国人がやってくるだろうか。しかも、日本では人種差別が大手をふるっている。政府が平気で人権侵害をし、人種差別を支援している。ヘイトスピーチや人権侵害をとりしまろうとしていない。

 読売新聞の記事によれば、日本にやってくる「労働力」を確保するために、外国での「日本語教育」を充実させるということが書いてある。
 なんというばかげた政策だろう。外国人を労働者として求めるなら、求める企業の方が「外国語」をマスターして外国人を受け入れるべきなのだ。「英語ができれば大丈夫。日本語も覚えてほしいけれど、それは日本に来てから、それぞれの都合にあわせて覚えてください」という感じでないと、だれも日本に来なくなる。「労働力」ではなく、まず「人間」が必要なのだ。人に来てもらって、「ああ、日本に来てよかった」と思ってもらえる国にしないと、働くという気持ちは起きないだろう。「労働力」と見るかぎり、外国人からは「金稼ぎ」という気持ちしか起きない。「これだけの賃金しかないなら、これだけの仕事しかしない」ということが起きる。

 人間に目を向けてことばをつかわないと、新聞はそっぽをむかれる。
 もう、そっぽを向かれているかもしれないけれど。
 「ことば」の奥には、いつも「思想」がある。その「思想」がどんなものか、常に吟味しないといけない。






#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(45)

2018-08-22 09:24:14 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
45 谺

このちっぽけな砦址が 難攻を謳われたトロイア
十年攻めあぐね 奸計でようやく落ちたイリオン

 こう書くとき、高橋のことばはどんな「奸計」をたどっているのか。「どんな」が見えてこない。

彼らの雄叫び 彼女らの嘆きの声は いまも虚耳に谺する

 この「谺」が私には聞こえない。「谺」はほんらい自分が発した声が跳ね返ってきたもの。高橋は、どんな声を引き継ぎ、それを発したのか。どんな欲望を叫び、それが跳ね返ってきたのか。「どんな」はここには書かれていない。ただ「谺する」という現象だけが書かれている。「虚耳」ではなく、「谺」そのものが「虚」であり、「耳」がそれを捜している。

見はるかす戦さの野に 波を立てるのは いちめんの青麦
叙事詩の海ははるか沖へ逃げて退って 二千年 三千年

 これはどうみても「現実の眼(肉眼)」に見える「幻」である。「虚眼」にみえる「現実」ではない。
 一方に「虚耳(肉耳ではない)」という非現実と「谺」という現実があり、他方に「肉眼(虚眼ではない)」という現実と「比喩としての海(幻)」があるというのでは、「肉体」そのものの「場」がない。
 耳と谺、眼と野(海)のどれが「虚」で、どれが「実」なのかわからない。すでに「叙事詩の海」は比喩である。すべては融合している。そこには虚と実を結ぶ「時」がある、と、しかし高橋は言いなおすのだ。「二千年 三千年」という「時」がある、と。


つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社
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