詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

上田慎一郎監督「カメラを止めるな!」(★★+★)

2018-08-05 21:41:28 | 映画
上田慎一郎監督「カメラを止めるな!」(★★+★)

監督 上田慎一郎 出演 濱津隆之、真魚、しゅはまはるみ

 人気が「社会現象」になってしまった映画なので、なんだか書きにくいが。
 私は、そんなに感心しなかった。(私が見たときは、上映が終わると拍手が沸き起こったのだが。)
 でも、気に入った部分は二シーンある。
 ひとつはゾンビを追いかけて屋外に出たカメラが倒れて草原だけを映しているシーン。ふつうの映画ならカットされるか撮りなおしになるのだが、テレビに生中継という設定なので、それができない。その瞬間もゾンビの襲撃はつづいており、音(声)だけがそれを伝えている。ここには「現実」がある。負のクオリティーが生きている。こういうことは、映画はやってこなかった。(「木靴の樹」には、黄色い市内電車が映る、というシーンもあるが、あれは再撮影ができなかったということだろう。)
 もうひとつは、「趣味」の話をするシーン。「護身術」を実際にやって見せる。「ぽん」と声を出すというような、無意味な説明が「現実」となって、映画という虚構を突き破っている。正のクオリティーである。このシーンも、実際にはトラブルがあって、アドリブという設定だが、現実のアドリブにありそうなくだらなさがとても効果的だ。
 この二つのシーンにかぎらないのだが、この映画の「成功」は映画現場を知っている人が脚本を書いたことにある。現実に体験したことを、脚本に生かしている。映画は、どうみても「チープ」だが、脚本にはリアリティーがある。(だれでも一本は「傑作」が書ける。自分の体験を書くことだ、というようなせりふが「祭の準備」にあったような気がするが)。このミスマッチが映画を活気づかせている。
 でもねえ。
 この本編+メイキングフィルムという「構成」が、なんとも「あざとい」。言い換えると、同じ手法は二度と使えないということ。一回かぎりの「瞬間芸」のようなものだということ。
 それでもいいのかもしれないけれど。
 比較してはいけないのだろうけれど(すでに比較してきているけれど)、私は、この手の映画では「ぼくらの未来に逆回転」が好きだなあ。ビデオ店のビデオがだめになったので、自分たちで「名作」をつくってしまう。それを客がおもしろがって借りに来る。人気が出てしまって、てんやわんや。この映画には、映画への愛があった。
 「カメラを止めるな!」にも愛があるんだろうけれど、むしろ「野心」と「戦略」の方が目についてしまう。映画はストーリーではなく、映像そのもののなかにある「事実」を見たい、というのが私の希望(欲望)だなあ。
 (2018年08月04日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン3)




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高橋睦郎『つい昨日のこと』(28)

2018-08-05 08:53:40 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
28 ヘルメスの実

浅い木箱いちめんに敷きつめた 無花果の葉
かち割り氷を散らして乗せた 黒紫の無花果の実
二十か三十か どれもびっしり露を噴いて
若い男が地べたに尻をついて 売っているそれを
箱ごと買って 午後の粘い日差の中を急ぎ
ホテルの部屋でひとり きりもなく食べた

 この六行は西脇順三郎のことばのように強い。事実が事実のまま、ことばになっている。無花果の美しさと「地べた」「尻をついて」という「生な生活」が強く響きあう。「野生」というか「野蛮」が光のように眩しい。その野生に刺戟されて、高橋は無花果を一箱食べてしまった。
 後半は、

ひょっとして さっき無花果といっしょに連れてきて
ベッドの上で あられもなく貪り食ってしまったか

 と「幻想」になる。
 ことばは「幻想」のなかで自在に動くが、その自在さゆえに「抵抗感」を失う。強さを失う。
 夢想は読者がすることであって、詩人は夢想してはいけない、いつも現実と向き合っていないといけないということか。

つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社
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