詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山下晴代『The Waste Land(荒地?)』

2018-08-21 11:24:10 | 詩集
山下晴代『The Waste Land(荒地?)』(Editions Hechima、2018年07月29日発行)

 山下晴代『The Waste Land(荒地?)』の表題作「The Waste Land」は、こう始まる。

そこでは、問うことだけが、漁夫王の病を癒すとされた。それで私は問うたものだ。
人間っていったい何度で焼かれますの? だいたい1600度くらいです。それでも一、二時間かかりますの? そう水分がほとんどだからね。脱水症で死んでもまだ体の中は、ほとんど水分なのである。漁夫王はそれを憂えている。そして上半身を起こして言った。
「川を解放せよ!」
おお、スウィート・テムズ。その昔は、鬱蒼とした木々に覆われ、アマゾンと変わらんかったんよ。

 詩は、どこにあるか。
 「飛躍」にある。遺体を焼く。それにかかる時間を語った後、「脱水症の遺体」に飛躍する。たぶん、この詩を書いたとき「脱水症」で死んだ人が話題になっていたのだろう。「物語」とは関係ない「現実」がふいに割り込んでくる。そして、それが「物語」のなかの「ことば」を突き動かす。「川を解放せよ!」。それがさらに「テムズ川」を呼び覚まし、他方で「アマゾン」をながれる川を呼び覚ます。
 「飛躍」を「ことばの攪乱」と呼んでもいい。しかし、実際に「攪乱される」のは読者の意識である。読者は、ふいに最近脱水症で死ぬ人が多かった、と思い出す。そうか、脱水症でも焼くときはふつうの火葬とかわりがないのか、と思う。これは、どうでもいいことだが、そういう「どうでもいいこと」が現実の中では、いつでも「突出」するようにして存在する。それを「ことば」が覚醒させる。存在しているのに、存在が見えないものを揺り動かして覚醒させる。覚醒されるのは、しかし、見えない現実なのか、それとも見過ごしていた読者の意識なのか。
 読者自身である。
 これはもちろん「作者自身」という意味も含んでいる。ことばを発したのは作者なのだから。
 では、「作者」とは何者なのか。こういう抽象的な「問い」は有効ではないかもしれない。「作者」のなかで何が動いているか、ということを問わなければならないのかもしれない。詩が「問い」から始まっているので、私は「問い」から考え始める。

そこでは、問うことだけが、漁夫王の病を癒すとされた。それで私は問うたものだ。

 この書き出しには、重大な問題がある。
 「そこでは、問うことだけが、漁夫王の病を癒すとされた」と「婉曲的」に書き始められている。「問うことが漁夫王の病を癒す」と言った人間は、「私」ではない。つまり、「他人のことば」に対して「私」が問いかけている。ここに「飛躍」がある。あるいは「分断」がある。「他人のことば」はそのままつづいていたはずである。しかし、それを「分断」し、「私のことば」を接続させている。これを批評というのだが、山下の詩の特徴は、その批評性にある。つまり、「他人のことば」を分断し、「自分のことば(現実)」を結びつけ、それでも「他人のことば」は動くかどうか、「他人のことば」は信用できるかどうかを問うことにある。
 このとき、その「問い」は、ほんとうに「漁夫王の病を癒す」ためのものではない。「物語」のなかで発せられるのではなく、「物語」の外で発せられるのだから。
 これは一種の「ことばの暴力」だが、それを「暴力」とは意識せず、「それで」と何でもないことのように装っている。「それで」というのは、「論理」を動かす。あるいは「論理」をうながす。「それで、そのつぎは?」「それで、それから?」単に動かし、うながすのではなく、「問う」という形をとるのが山下のことばの特徴である。「問う」とは基本的に「反論」である。納得がいかないから「問う」のである。つまり、ここから「衝突」がはじまる。「異化」といってもいい。「異化」されるのは、「ことば」であると同時に、「ことば」とともにある「現実」でもある。もっと突き詰めて言えば「事実」である。そこにはどんな「事実」があるのか。「現実」は「現象」のように見えるが「現象」ではなく、「事実/真実」がいつでも存在している。
 「問う」のは「事実は何?」と突き詰めることでもある。
 詩は、こうつづく。

west land って、ただの荒れ果てた土地じゃない。田や畑として使用しないで、そのままに太古を受けつぎ、妖精たちのあるがままにしておく土地。わが熊沢蕃山も、そのような土地を残しておくことを推奨した。そこでは、祀りごとは秘儀化され地下深く隠された。いつか、このような問いを献上しにやってくるもののために。

 「west land って、ただの荒れ果てた土地じゃない」は誰の定義(真理/事実)か。エリオットのか。エリオットのものであるにしろ、いま、ここでそれを引用する山下のものである。「引用」とはテキストからことばを独立させ、自己の責任において、違う形で動かすことである。山下は、熊沢蕃山へとことばをつないでいく。原典はエリオットではない。熊沢だ、と言い張る。熊沢をエリオットが「引用」したのだと。もちろん、そういう「事実」はないが、それは山下の発見した「真実」である。個人の真実は、客観的な事実を超える。これが、文学である。

 こうした「ことば」の衝突、異化、「現実」と「事実」、「事実」と「真実」の衝突が繰り返されるのが山下の詩である。だから、「結末」というようなものはない。「意味」はない。瞬間瞬間の「運動」があるだけである。
 「意味」を求めるなら、読まない方がいい。ことばの「運動」があれば、その「運動」がどういうものでもいい、と考えるなら読んだ方がいい。






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高橋睦郎『つい昨日のこと』(44)

2018-08-21 09:44:42 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
44 岸辺で スカマンドロス河

パンタレイ すべては流れる 滔滔と 轟轟と
岸辺で放心して 見つめている私も 流れる

 「流れる」という動詞は「河」を描写することから飛躍する。「私も ながれる」とことばをつづけることで、描写から哲学に変わる。

時が 時という幻が 流れつづけているだけ

 「時」と「私」が重なる。「私」もまた幻なのだと告げて、この哲学は、次のように結晶する。

流れ去る そのことさえも 流れ去る
何もない 何もないことも 流れ去る

 この哲学は哲学として、「意味」はわかる。けれど、高橋がギリシアで実感したのかどうか、そのことについては私はよくわからない。
 私は高橋が見ている「スカマンドロス河」は知らない。私はアテネのほんの一部を知っているだけだが。
 私の印象では、ギリシアでは何も流れない。「時間」は特に流れない。思い出す瞬間に「時間」は目の前にあらわれる。アテネは坂の多い街だが、坂に出会うたびに私は、ソクラテスが歩いてくるのを見た。「対話篇」のなかにソクラテスが坂を下ってくる場面が描かれているからだ。
 ギリシアでは何もかもが「明瞭になる」、つまり「あらわれる」。現前する。
 「流れ去る」さえも「あらわれる」。言い換えると「ことば」になる。そう「誤読」したい。





つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社
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