詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(40)

2018-08-17 09:35:38 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
40 二つの瓶絵

この瓶絵の髯の男は指を伸ばして 向き合う少年の皮かむりを愛撫
別の瓶絵の大人は 後ろ向きの青年の尻の向こうの締まった睾丸を掌に包もうと
これを猥褻というのはたやすいが 仮に比喩と考えてみては どうだろう

 「比喩と考えてみる」ということばがおもしろい。
 「比喩」とは、いまここにないものを借りて、ここにあるものを語ることである。いまここにあるのは、男が少年(青年)の性器に触れるという姿である。そこには愛と欲望があるのだが、それは「現実」ではない。ほんとうは別のものが存在している。そのままでは真実が伝わりにくいから「比喩」を利用してわかりやすく説明している。そう「考える」、つまり「ことば」を動かす。そのときの「ことば」は「ほんとう」として何を語るのか。

夭い感性の尖端に刺激を与えるとか 瑞みずしい存在の中心を暖めようとするとか
教育の核心のエロスの発見者として ギリシアを讃えるのは 間違いか

 「教育の核心」が「真実」である、というのだが、これが「比喩」でないとしたらなにか。「論理」である。「ことば」の運動である。
 こういう「頭」ででっちあげた詭弁(論理)は、「意味」になりすぎていておもしろくない。人間の「頭(脳)」はいつでも自分の都合のいいように「ことば」をつかって「論理」をでっちあげ、「論理的であるから現実である」と嘘をつく。
 この詩では、最後の「間違い」という「ことば」がおもしろい。
 詩の「論理的出発点」となった「比喩」とつきあわせて考えてみよう。
 「比喩」とは「いまここにないもの」、あるいは語っている対象そのものではない。言い換えると「間違い」である。たとえば美女をバラの花と呼ぶとき、バラの花という比喩は「間違い」である。想像力とは間違えること。ものを歪めてみる力。もし「比喩」に「真実」があるとすれば、間違えることでしか言い表すことのできない何かが発言者の「肉体」のなかにあるということだ。
 少年を愛したい。青年と交わりたい。その欲望(本能)の「真実」を、どうやって他人に納得させるか。そんなものを他人に納得させる必要はない。個人の欲望なのだから。でも、弁解をしてしまう。「頭」が理屈をこね上げる。この「間違い」に加担してしまうのが、「ことば」のひとつのあり方なのだ。そして詩は「間違い」だからこそおもしろい。「間違い」のなかに、欲望があからさまに動いている。

つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社
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