詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(53)

2018-08-30 09:14:50 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
53 墓碑の註釈 ケラメイコス

 人は老いたら死ぬ。しかし、その死を自分のことばで語ることはできない。つまり「体験する」ということはできない。
 そしてさらに奇妙なことに、老いて死んで行くときに、もうひとつ「体験する/経験する」ことのできないものがあることに気がつく。
 「若くして死ぬ」ということだ。
 死は人間にとって必然だが、年老いてしまったら「若くして死ぬ」ということは絶対に不可能になる。
 この詩は、そういう矛盾、あるいは眩暈を思い起こさせる。

夏には生よりも死が似合う それも老いた死より若い死
神神に深く愛された者とは いみじくも言い得たものよ

 若い死者が神々に愛されたかどうかはわからないが、少なくとも生き残った年老いた人からは愛された。ひとは死者を悼む。つまり、愛していたと告げる。そのとき、そう告げる人はたいてい若い人ではなく、年取った人である。

若く死に損ねたからには 悼まれる側でなく悼む側に回ろう

 だが、「悼む」とは、どういうことだろう。どういう「動詞」なのだろうか。
 「遺志を引き継ぐこと」以上の悼みはないと思うが、若い死者の遺志を引き継ぐことは、年老いた人間には不可能だ。若い人の「遺志」は完結していない。どう変化していくかわからないまま終わってしまったのだから。
 悲しむことしかできない。「愛していた」と過去形で告げることしかできない。それは残されたものの自己愛--自分へのあわれみでしかない。
 「引き継ぐ」としたら、やはり「古典」という死、古典の中で動いているいのち(ことば)しかない。

 ギリシアの死は、高橋を攪乱する。真夏の強い光が、隠しておきたいものをあばいてしまう。





つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社


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