詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「平成最後」という必要はあるのか。

2018-08-15 20:08:44 | 自民党憲法改正草案を読む
「平成最後」という必要はあるのか。
             自民党憲法改正草案を読む/番外220(情報の読み方)

 読売新聞2018年08月15日の夕刊(西部版・4版)の一面の見出し。

平成最後 終戦の日/戦後73年 陛下「平和な歳月に思い」

 「平成最後」ということばが気になって仕方がない。来年「改元」がおこなわれ「平成」ではなくなる。だから「平成最後」と言うのだろうが、「終戦の日」を「平成」や「昭和」という「区切り」で区切ってしまっていいのか。当然のことながら「昭和最後 終戦の日」というのはなかった。あとから、あれが「昭和の最後」だったとわかっただけである。では「平成初」というのは、あったのだろうか。新聞やテレビで、そういう言い方がされただろうか。「追悼」をするのに「最初」や「最後」というのは、私にはどうにもなじめない。
 思うのは、「平成」であるかどうかではなく、きっと「最後」の方に重点が置かれているのではないか、ということである。もう、いまの天皇には公式の場では追悼させない。最後だぞ、という「念押し」をしている。念を押しているのは、もちろん安倍である。そして、その「念押し」にマスコミが加担している。

 追悼に「最後」ということばをつかってはいけない、とだれかひとり叫ばなかったのか。「最後」ということばを、遺族や心でいった人はどう受け止めるか、それを考えた人はいないのか。

 追悼に「最後」ということばがつかわれれば、それはすぐに「新しい戦争」を生み出すだろう。そして新しい戦争が始まれば、追悼している余裕などない。つぎつぎに戦死者が生まれる。その人たちを追悼するのに忙しくて、「過去の戦争の死者」を追悼する余裕などなくなる。いま死んでいった人を追悼せずに、なぜ70年以上も前に死んでいった人を追悼するのか、ということになる。だいたい「終戦」を振り返るのではなく、いまの戦争に集中しないといけない、ということになる。
 「平成最後」ということばは、簡単に「最後の終戦の日」へと変わっていく。
 実際に起きていることを見れば、それははっきりする。
 安倍は、この終戦の日の追悼式を待たずに、憲法改正を次の国会で提案すると明言した。次期総裁選への出馬も明言していないのに、である。その改憲案には、自衛隊を憲法に書き加えるという内容がある。(文言はまだ明確にされていない。)最高責任者(指揮官)として自衛隊を指揮する。軍事力を背景に、独裁をすすめるという安倍の野望がくっきりと描かれている案である。北朝鮮を攻撃するのか、中国を攻撃するのか、ロシアを攻撃するのか、そこまでは明確に書かれていないが、独裁者になることだけは明確に書かれている。「開戦」のための憲法改正である。
 「終戦の日」は、いつでも「開戦」によってのみ「最後」となる。

 すでに「天皇の悲鳴」で書いたことだが、私は「御霊」ということばにも疑問をもっている。
 天皇は戦没者追悼式では「御霊」ということばをつかわない。(東日本大震災の犠牲者を悼むときは「御霊」ということばをつかっている。)一方、安倍は「御霊」ということばを頻繁につかう。安倍は「御霊」が好きなのだ。自分の代わりに死んでいってくれる人間が好きなのだ。言い換えると、人を殺したいだけなのだ。殺しておいて、死んだ人を「御霊」と呼ぶ。
 広島、長崎では、一瞬の内に市民がなくなった。彼らは戦場で戦って死んだわけではない。しかし「御霊」ではないのか。なぜ、戦場で戦って殺された人間だけが特別待遇の形で靖国神社に祀られ、「御霊」と呼ばれるのか。(安倍は「戦禍に遇い」ということばを差し挟んではいるのだが。)
 安倍は防衛大学校の卒業式で、「私の右手(片腕)になれ」というようなことを言っている。安倍自身は戦場から遠い場所にいて、軍隊を指揮する。軍人は、安倍の代わりに戦場で戦い、必要なら死んでこいといっている。「御霊」として称讃してやる、と言っている。
 「最後の終戦の日」ではなく、「開戦」へつづく「最初の日」として、私はこの日を記憶したい。








#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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松井久子監督「不思議なクニの憲法」上映会。
2018年5月20日(日曜日)13時。
福岡市立中央市民センター
「不思議なクニの憲法2018」を見る会
入場料1000円(当日券なし)
問い合わせは
yachisyuso@gmail.com
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(38)

2018-08-15 12:37:13 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
38 少年に その名はエペボス イスタンブル考古学博物館

 博物館で見た少年の姿に高橋は問いかけている。

きみの年齢は十五? それとも十三歳?
ではなくて二千歳 だとすれば きみの その
匂い立つばかりのみずみずしさは 何ゆえ

 問いかけながら、問いかけていない部分もある。「ではなくて二千歳」は少年の答えではなく、高橋の「答え」である。なぜ、そう答えたのか。二千年前につくられた像だから二千歳なのか。もしそうだとすれば、「きみの年齢は?」という問いかけではなくて、「何年前につくられた?」という問いかけでなくてはならない。でも、高橋は「年齢」を問いかけながら、答えとして像がつくられた年代、それからいままでの年月を答えとしている。
 ここには「飛躍」がある。あるいは「論理の矛盾」がある。
 ほんとうは年齢など問いかけてはいない。「二千年」も少年の像が経てきた時間ではない。少年の像が二千年前から「いま」にやってきたのではない。逆なのだ。像を見た瞬間に、高橋は「二千年前」を現在として生きている。言い換えると、高橋は「二千年前」にもどって像と対面している。
 だから、これにつづくことばは「二千歳」の男に対してではなく、十五歳か、十三歳かの少年に向けて語られる。

理由は その先にある成熟を拒んだこと
成熟につづくのは頽廃 更なる先は衰亡

 これは「何ゆえ」という問いに対する答えの形式をとっているが、語りかけなのだ。少年に対して「成熟を拒め」と言っている。成熟すれば頽廃する。さらには衰亡へとつづく。それが美の宿命だと高橋は知っている。だから、そうなるな、と語りかける。
 像にさえ語りかける。二千年の時間を超えて語りかける。そこに高橋の愛と欲望がある。高橋は像に語りかけながら、成熟を拒んだ少年になろうとしている。いや、すでになっている。それが高橋の愛と欲望なのだが、少年は単純に助言を受け入れるほど初ではない。
 八十歳の高橋を見つめて、人間の宿命をあざ笑っている。
 老いることを拒んだ少年の声が、高橋に、少年への「助言」を語らせるという逆説的な形で動いている。それを高橋は、喜びとして受け止めている。出会うこと、対話できることが、ことばが行き交うことが詩の喜びだ。それがどんなことばにしろ。

つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社
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谷川俊太郎『バウムクーヘン』

2018-08-15 09:46:33 | 詩集
谷川俊太郎『バウムクーヘン』(2018年念09月01日発行)

 谷川俊太郎『バウムクーヘン』を読みながら、ふと思うことがあった。知人に「これ読んでみて」と「あさこ」という詩のページを開いて見せた。

おんがくしつであさこはハイドンをさらっていた
わたしはうちでおなじきょくをひいてみた
なんどかつっかえたけど
わたしのほうがうまいとおもった
あさこはらいねん ウィーンへいく

わたしはそらをみるのがすき
あおぞらじゃなく くもをみるのがすき
くもはじっとしていない
かぜがないときでもかたちをかえながら
いつもゆっくりうごいている

わたしはあさこが きらいなのかすきなのか
わからない でもともだちだとおもう
ときどきひみつのはなしをメールでするから
あうとだいたいしらんかおだけど
あさこなんて ださいなまえ!

 「この、わたしって、男だと思う? 女だと思う?」
 「男」
 「えっ、どうして?」
 「なんとなく」
 あ、谷川俊太郎の詩とわかっていたからなのかなあ。
 私には、どうみても「女の子(中学生くらい)」にしか思えない。どうして、そう思うのか。もしかすると私の「女の子」に対する「固定観念」がそう思わせるのか、それを考えたくて尋ねてみたのだが、予想外の答えにとまどってしまった。
 で。
 今度は本を見せずに、コピーしたものを何人かの知人に見せた。男二人。女六人。
 全員が「女」と答えた。しかし、「どうして?」の質問には「なんとなく」が多い。「一連目の行動が女の子っぽい」「赤いスカートの女の子が目に浮かんできた」「すきかきらいかわからないけれどともだち、という言い方が女の子っぽい」「ときどきひみつのはなしをメールでするから」が女の子っぽい。「でも、あさこなんて ださいなまえ!、という批判的なところは男かなあ」。最初の知人も、ここが男っぽい、ということだった。私は逆に、こういう身がわりの速さが女だなあ、と思った。男はもっと「論理的」で、いままで言ってきたことと違ったことを、突然言うことができない。
 「年齢は?」「小学校低学年(ひらがながで書いているから)」「五、六年生くらいかなあ」と女性陣。「でも、ウィーンへいくから、小学生じゃないかもしれない」とか。
 男二人は「中学生だな」。ひとりは「うちの娘がこんな感じだ」と。
 私も中学生だと思う。中学生の男子が、女子を意識し始めるときに見えてくるもの、自分(男)とは違う異質なものが、なまなましく動いている。小学生のときには気がつかなかった何かが動いている。「なんどかつっかえたけど/わたしのほうがうまいとおもった」というライバル心とか、「すきかきらいかわからない」とか、「ときどきひみつのはなしをメールでする」とか。特に、「ひみつのはなし」のうさんくささが中学生の女子だ。男は「秘密の話」などしない。「秘密」はひとりで抱え込むものだ。いったん話してしまったら、それは「ふたりの秘密」ではなく、「仲間であることの確認」だ。いつオナニーを覚えたか、とか何回するか、とか。
 で。
 私が確かめたかったことにもどるのだが。
 ひとは生きている内に、知らず知らずに「女はこういうもの、男はこういうもの」という「感覚」を肉体の内に積み重ねる。それがことばに触れて、「あ、女だな」とか「これは男だな」という印象を持つ。「女がよく描けている」「こどもの心の動きが生々しく描写されている」というような批評は、ある意味では「固定観念」から発せられたものである。「固定観念」ではなく「共通認識」だというひともいるかもしれないが。
 どうして、そういうことが起きるのか。わからないけれど、人間は、そういうふうに育つのかもしれない。

 でも、たとえばこの詩の「わたし」が「女の子」だと仮定して、谷川は、どうしてこんなに巧みに「女の子」のことばを語ることができるのか。
 『こころ』の感想に書いたと思うけれど、谷川は他人の「声」が聞こえるのだ。シェークスピアのように、他人の声をそのまま自分の「肉体」のなかに取り込み、肉体として覚えている。ふつうは(?)、自分の声と他人の声を切り離してしまう。他人の声は、聞けばわかるが、自分の声にはしない。物真似、というのがあるが、それは目的が違う。物真似は、カリカチュア(批判/異化)だが、谷川の「他人の声」には批判が含まれていない。むしろ「同化」で成り立っている。
 そんなことを私は考えていたのだが、ひとりの女性がとても鋭い読み方をした。
 「詩のわたしは女の子だけれど、男の人が女の子のふりをして書いているような気もする」
 「どうして?」
 「うまく言えないけれど、ハイドンが出てくるところが何か違う」
 (トーンが芸術的すぎるということか。「さらう」に一瞬迷った、という声もあった。「おさいらい」の「さらう」なのだが、いまはそういうことばをつかわないのかもしれない。このあたりが「女の子」ではなく、年配の男なのだろう。)
 すると、
 「二連目が、よくわからない。なぜ、突然、空と雲にかわるのか」
 という声も。
 たしかに、ここには「女の子」らしさがない。むしろ「少年」の感覚か。
 そんな話をしていると、ひとりが突然、こう言った。居合わせたみんなが驚いた。
 「女の子って、私の方がうまいと思っても、わあ、あさこちゃん上手と、手をたたいたりするんだよね」
 これはある意味では「核心」をついていたのか、「〇〇さんにほめられたら、気をつけないといけないね」と、突然、話しが盛り上がってしまった。
 「あさこなんて ださいなまえ!」に通じるのだけれど、表面のにこやかさとは裏腹に、女はある瞬間、ぱっと変化する。別の感情がなまなましく動く。
 話が盛り上がったのは、〇〇さんを批判する(からかう)というよりも、自分と共通するものが突然出てきたので、それを隠すために、すべてを〇〇さんに押しつけたという感じだな。これも、ひとつの「女の保身術」か。
 ある意味で、彼女の発言が、この詩のいちばんのポイントだったかもしれない。

 詩は、ひとりで読むよりも、こんなふうに、詩をほとんど読まないひとのなかで読み直すと、まったく違うものが見えてくるので楽しい。

 話の後、「種明かし」に谷川の詩集を見せたら、「装丁がかわいい」と評判になった。最初に詩集を見た男も「あ、女の子が買いそうな、かわいい本だなあ」と言った。
 私は本の装丁にはまったく関心がない。印刷されている文字というか、ことば以外に感心がない。みんな同じ形にしてくれれば、本の整理がしやすく、どんなにいいだろう、といつも思っている。
 「どこが、かわいい?」
 「ミッフィーみたい」
 「どこが?」
 「花の黄色と緑の感じとか」
 「本の角っこが四角じゃなくて、丸いところも」
 うーむ。
 「角の丸さ」については、最初に詩集を見た知人(男)も指摘していた。そうなのか。そういう細部に人は目を向けるものなのか。
 というようなことも、思った。



 不満を書いておこう。
 「とまらない」という詩。

なきだすとぼく とまらない
しゃっくりみたいに なきじゃくって
なきやみたいのに とまらないんだ
もうなみだは でてこないのに
もうなにがかなしいのか
わからなくなっているのに
 
 この前半は好きだなあ。「泣いている」ということを伝えたいだけなのだ。むかし、そういうふうに泣いたなあ、と思い出す。
 でも、

ほんとはおかあさんに しがみつきたい
でもぼくはもう
いちにんまえの おとこのこだから
あまえてはいけない
そうおもったらまた
まえよりもっと かなしくなった

 この後半は「論理的」すぎる。「まえよりもっと かなしくなった」は、意味はわかるが、感情がついていかない。いや、私の「肉体」がついていかない。
 「かなしい」ではなく、何か「じれったい」ような、自分で自分の体をもてあますような感じではなかったかと、私は遠い昔を思い出す。
 「わからなくなっている」というところがよかったのに、「かなしい」と「わかってしまう」のは、論理的すぎる。

 「くらやみ」という詩のなかほど。

くらやみにはなにがいるのだろう
めにはみえないのに
みみにもきこえないのに
こころはなにかにさわっている

そのなにかとなかよくなりたい
それはわたしのこころのなかにいるのだから

 この部分は、ぞくぞくするほど好きだ。特に「そのなにかとなかよくなりたい」に引き込まれてしまう。
 でも、この「なにか」、さらに「なかよくなりたい」を次のように言いなおされると、「肉体」がはなれてしまう。

わたしはくらやみをすきになりたい
ひかりにちからがひそんでいるように
くらやみにも くらやみのちからがひそんでいる
そのちからをつかって こころのうちゅうをたびしたい

 「意味(論理)」がくっきりしすぎる。「なかよく」と「すき」は、私の感覚では少し違うから、そう感じるのかもしれない。光と闇を対比した上で「なにか」を「ちから」という抽象的なことばで整理しているのも、「こころのうちゅう」という比喩も明確すぎる。
 「教科書」みたい、と感じる。
 私は、「あさこ」の最後の行、

あさこなんて ださいなまえ!

 のような、意味を拒絶した強さ、ナンセンスな強さの方が好きだ。
 「教科書」の「意味」を突き破ることばの方が好きだ。






*

評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
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「詩はどこにあるか」7月の詩の批評を一冊にまとめました。
バウムクーヘン
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