詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(39)

2018-08-16 10:15:54 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
39 出会いは

 この作品は「38 少年に」の語りなおしとして読むことができる。

二千五百年前の二十歳と 二千五百年後の八十歳が
愛しあった それを不似合いの二人と きみは言うか
八十歳の二十歳への愛は 何処から見ても 掛け値なしの純金
二十歳の八十歳へのそれも 金メッキではない と思いたい
この奇蹟の恋愛譚の作者は 偶然あるいは偶然の仮面を被った必然
どちらにしても出会いはやすやすと時空を超える ということ

 「きみと言うか」は質問であるが、「言わせないぞ」という抗議でもある。
 しかし、「二千五百年前」と「二千五百年後」は、どこで出会うのか。「二千五百年前」なのか、「二千五百年後」なのか。高橋は断定を避け、「時空を超える」と言っている。「時間」ではつかみとれない「時間」のなかで出会う。
 この詩で重要なのは、むしろそういう「論理的」な意味ではなく、「やすやす」という副詞の意味合いだろう。「安易」いう「意味」だが、「安易」では意味になりすぎる。「論理」になりすぎる。つまり、「頭」で言いなおしたことばになってしまう。「やすやす」は「時空」のように「頭」でつかみとることば、あるいは「頭」ででっちあげることばではない。もっと「肉体」にしみついたことばである。「やすやす」とやってのけるというとき、それは「頭」では考えずに、無意識にやってしまうというのに近い。
 「愛」もそうなのだ。
 「頭」で考えたりはしない。少年の美しさを「成熟を拒んだ」結果であるというような言い方は「頭」の仕事である。「肉体」はそういうことばを必要としない。だからほんとうは「時空を超える」のではなく、「ことば」を超える。ことばを必要としない。出会って、見つめ合って、交わる。それは「瞬間」として起きるできごとだ。

 この愛に、矛盾というべきか、問題があるとしたら、高橋はそれをことばにしないではいられないということ。詩にしないではいられない。「ことば」を超えるできごとなのに、「ことば」で語らずにはいられない。


つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする