詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井晴美『大顎』

2018-08-25 12:23:12 | 詩集
藤井晴美『大顎』(七月堂、2018年08月01日発行)

 藤井晴美『大顎』は、不気味だ。だが、藤井晴美が男であるとわかってからは、私の中で「不気味さ」がいくぶん減ってきた。名前だけ見て、男か女かわからなかったときの方が不気味だった。そうすると、「不気味」とは「わからない」と定義できるのだとわかった。「わかる」と「不気味」は「抒情」になってしまう。
 「抒情の中絶」という作品。

 殺人には沈黙させることのできない、一瞬にして 偏りの遍在がある。今日詩とは、その殺人を予告するものだ。

 「偏りの遍在」が美しい。「偏り」と「遍在」は矛盾するが、矛盾であることが美しい。でも、これは「男の論理」だな、と感じてしまう。もしこのことばを女が書いたのだとしたら、それは「女の論理」ではなく「女の真理」になる。
 男とは「論理」を組み立てるけれど、「真理」というものをつかみとることはない。女は「論理」をすてて「心理」をつくりあげる。捏造すると言い換えてもいい。「真理」はときどき「心理」へとねじれていく。女は「心理」を「真理」にする。それ以外を認めない。だからこそ、これを書いたのは男かなあ、女かなあ、とわからないときは、それが「事実」としてそこに存在する。藤井のことばを借りて言えば「遍在する」。その「存在感」に圧倒されることになる。「わかる」と、「既視感」になってしまうときがある。
 というような読み方(感じ方)は、私が男と女を固定観念でみているからなのかもしれないが。
 詩の続き。

 殺人という黒い凹み。黒い音符。鍋の凹み。金槌で陥没。ゴッホの絵。呼吸するランプ。呼吸する電球としての殺人。他者を受け入れない女の腹から産まれる殺人出産。
 文章と文章の間が不可解に抉れて殺人現場のようになっている、一個の現実。

 「殺人」と「黒い」の調和。「音符」という抽象の美しさ。「ゴッホ」「呼吸するランプ」という調和は「定型の抒情」に感じられる。「他者を受け入れない女の腹」というのは強いことばだが、「殺人出産」が論理的すぎるなあと思う。
 「文章と文章の間が不可解に抉れて殺人現場のようになっている、一個の現実。」は「批評」になっているが、そう感じるのは私が男だからかもしれない。女は「説明」と読むかもしれない。「いま、ここにない現実」が噴出してきていないからだ。つまり、完結しているからだ。

 「完結」と、ことばはどう戦うか。これはむずかしい課題だ。「ことば」のなかの時間をどう突き破るかということなのだが。
 あ、でも、こんな抽象を書いてみても、感想にならないか。
 私が「完結」を感じるのは、たとえば「ショートした足は手から抜けない」の最初の部分。

 メス井猿美を刺身にして、箸でつまんで食ったが、腐っていた。鼻をつまむように、時間をつまんだら小人の殺戮が始まった。
 ぼくはその小人に心が痛むほどの美を感じた。他者を裏切り、責め立てる苦痛美を。他者を存在させているのはそのようなぼくなのだ。不潔な苦しみの微々たるもの。

 「時間をつまむ」という「比喩」。それが「殺戮」にかわる。さらに「美」に昇華し、「苦痛/美」という矛盾を突き破って、「他者を存在させているのはそのようなぼくなのだ」と定義してしまうところ。
 とても美しいが、その美しさに「感動した」と書いてしまうと、もうほとんど読まずに書いた感想みたいになってしまう。

 詩を読むのはむずかしい。




*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(48)

2018-08-25 11:26:18 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
48 ホメロスを讃えて

 「47 詩人と盲目」の続篇。ホメロスを愛する詩人が世界中から集まり「イリアス」を朗誦する。

声はめいめい お国言葉の バルバロ バルバロ
夜陰に紛れて敵陣を訪う老王も 迎える英雄も
慇懃な互いの挨拶は バルバロ バルバロ……
われら 共通してバルバロスという名のヘレネス

 「バルバロ」はギリシア人から見た「他民族」。「ヘレネス」というのは「ヘレネスの子」という意味であり、ギリシア人は自らをそう呼んでいる。「ホメロス」もそうだが、「ソクラテス」とか「アリストテレス」とか、ギリシア人には最後に「ス」という音をもつ名前(男)が多いが、これは「……の子」という意味になるのだと思う。
 繰り返される「バルバロ」は、具体的には日本人、トルコ人、ドイツ人である。同じ「バルバロ」と呼ばれていても、それぞれが違う。違っていても「同じことば」で呼ばれるならば、同じであっても「違ったことば」で呼ばれることもあるかもしれない。
 「同じ」とは何か、「違い」とは何かが問われることになる。
 詩の前半に、こういう一行がある。

われら 世界じゅうから集まりつどう ホメロスを愛する者ら

 「われら」はひとりひとり「違う」。けれども「ホメロスを愛する」という動詞からみつめなおすと「同じ」である。「動詞」が「同じ」ということが大事なのだ。「動詞」をとおして、人は具体的な人になる。
 この詩のなかでは、「愛する」という動詞は次のように言いなおされる。

日のさしのぼるトロイアに向けて 朗唱の声を挙げる

 「朗唱する」「声を挙げる」という「動詞」。「声」にはそれぞれの国のことばの違いを抱え込んでいるが、「朗唱する」「声を挙げる」は同じ。ホメロスのことばを「声」にする。朗唱する。
 その「動詞」をとおして、参加者は全員「ホメロスの子」になる。それは「ヘレネの子(ヘレネス)」になることだ。「ひとりひとり」だが「われら」である。「われら」はすべて「同じ」動詞を生きることで、「同じ」であることを確かめる。


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高橋睦郎『つい昨日のこと』(47)

2018-08-24 10:54:01 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
47 詩人と盲目

考古学的に貨幣史を溯る限り 原初のホメロスは盲目ではなかった

 と高橋は書き始める。そして、問う。

ではどんな理由で 後世は詩人を盲目にしなければならなかったのか

 その「答え」を高橋は、『イリアス』を朗読することでつかみとる。朗読には世界の詩人が参加した。ギリシア人、トルコ人、ドイツ人、そして日本人の高橋。

もちろん私は日本語で 朗読しながら おりおり目をつぶった
太陽が そして叙事詩の語る英雄の敵の老王への労わりが眩しくて

 目をつぶった理由よりも「目をつぶった」という動詞に私は惹かれる。「目をつぶる」と一時的に「盲目」になる。これが大事なのではないか。詩において。
 「現実」(事実)をことばにするのではない。「見えない」ものをことばにする。ことばのなかに出現させる。「見ない」こと、目をつぶることが、ことばを動かすために必要なのだ。

 いや、そんな「形式的」なことではない。言いなおさなければならない。

 詩を聞く人間ではなく、語る人間こそ、「目をつぶる」ことが重要だ。「目をつぶる」ことで、ほんとうに目に見えたものだけが残る。不必要なものが排除され、必要なものが強固になる。深くなる。

 いや、これも違う。

 「太陽が眩しい」「敵の老王への労わりが眩しい」のではない。目をつぶることで、それを「眩しい」ものに変えるのだ。「ことば」を生み出すのだ。そのとき、「ことば」が目になる。ことばは、「見た」ものを「見える」ものにする。


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高橋睦郎『つい昨日のこと』(46)

2018-08-23 09:26:14 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
46 旅みやげ

このさにつらう円い小石は ミュティレネの
波打ち寄せる渚に遊んで 拾ってきたもの

「ミュティレネ」とはどんなところなのか。高橋は「オルペウス」を引き合いに出し、また「サッポー」も引用する。
 しかし、

それらの事跡をしのばせる どんな記念も
現つのレスポスには 何一つなかったもので

 だから「小石」を「旅みやげ」にしたという。

 私は「どんな」ということばに詩を感じた。ギリシアの古典に通じる「どんな」ものも売っていなかった、というのだが、この「どんな」を動詞にするとどうなるのだろうか。
 高橋は「どんな記念」と書いている。「記念」は「事跡」ということばにもつうじるが、その奥には「事件/できごと」がある。「事件/できごと」とは人が動くことによって起きる。
 そこには「どんな」歴史や古典につうじるものもなかった。そのとき高橋は「どんな」ことをしたのか。渚で「遊んだ」。その「記念」として小石を拾った。
 「どんな」は、過去といまを、そんなふうにつないでいる。
 さらにこんなことも考える。
 「どんな」小石を拾ったか。「円い」小石である。
 「円い」には「意味」がある。「円い」は「丸くなる」という動詞としてとらえてみることができる。「丸くなる」には「時間」が必要だ。時間の中で、水(波)に洗われ、小石どうしがぶつかる、こすれあう。そこには「歴史」や「文学」には書かれなかった「時間」がある。
 高橋は、その「書かれなかった時間」と遊んだ。その「遊び」には、オルペウスもやってきた。サッポーもやってきた。いっしょに「書かれなかった時間」を生きた。
 その「記念」が「円い」小石だ。






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「労働開国」

2018-08-22 20:12:29 | 自民党憲法改正草案を読む
「労働開国」
             自民党憲法改正草案を読む/番外220(情報の読み方)

 2018年08月22日の読売新聞(西部版・14版)に恐ろしいことばを見た。3面の見出し。

外国人へ「労働開国」/新在留資格 5分野から倍に/外食、水産 人手不足解消急ぐ

 人手不足を解消するために、「政府は、来年4月の創設を目指す外国人労働者の新たな在留資格について、対象業種を当初の5分野から倍増させる方向だ」という書き出しで記事は書かれている。

人手不足に悩む業界などから要望が相次ぎ、「労働開国」へかじを切った。

 という文章がある。「労働開国」ということばは誰が言い始めたものかわからないが、ぎょっとしないだろうか。
 このことばは杉田水脈が言った「生産性」ということばを思い出させる。経済を優先したことばである。経済を活性化させることに重点が置かれていて、人間性を無視している。
 日本では労働力のある人口が減っている。少子化(高齢化)が原因である。そのために、つぎつぎに外国人を労働者として受け入れ、なおかつ一定期間が過ぎれば追い出すという「仕組み」をつくっている。「外国人研修生」がその代表である。外国人に日本の技術を教えるという「名目」で安い賃金でこきつかう。一定期間が過ぎたら外国に追い払う。長期間雇用すると賃金を上げないといけなくなるからである。低賃金で労働力を確保するために考え出された「差別的」な仕組みである。外国人を「人間」ではなく、単なる「労働力」と見ている。しかも、その「労働力」には「安価な」という修飾語がつく。
 「安価な労働力」は「生産性」を上げる。そして、このときの「生産性」というのは、企業の収益に貢献するという意味である。働いた人が豊かになるということではない。自民党と企業にとっては、働く人はどうでもいいのだ。「高価な労働力」では企業の収益が上がらない。「安価な労働力」というのは必須条件である。
 こんなばかげた制度が長続きするはずがないだろう。
 「日本の給料は高い」ということでやってきた外国人は、短期間、安い賃金で働かされて、一定期間が過ぎれば「国外追放」というのであれば、「将来」の計画が立たない。そんなことろへ、いつまでも外国人がやってくるわけがない。
 「労働力」ではなく、「労働者」として受け入れないかぎり、日本経済は破綻する。「労働力」という抽象的な存在ではなく、「労働者(人間)」が必要なのだ。「労働力」はひとつの「業種(分野)」にしか「力」を発揮できないが、「労働者」はつぎつぎに自分の能力を切り開いて行き、自分自身の力で新しい仕事を生み出していく。もし、「生産性」ということばをつかうのならば、自分で新しい仕事をつくりだして行ける人に対してつかうべきである。そういうことができる人間を育てるためには、何よりも日本で暮らすこと認めないといけない。暮らして行ける保障がないかぎり、人は生産性のある「労働者」にはならない。「移民」を受け入れないかぎり、人口が減り続ける日本は、あらゆる分野で行き詰まる。

 人間を「労働力」としかみない日本に、いったい外国人がやってくるだろうか。しかも、日本では人種差別が大手をふるっている。政府が平気で人権侵害をし、人種差別を支援している。ヘイトスピーチや人権侵害をとりしまろうとしていない。

 読売新聞の記事によれば、日本にやってくる「労働力」を確保するために、外国での「日本語教育」を充実させるということが書いてある。
 なんというばかげた政策だろう。外国人を労働者として求めるなら、求める企業の方が「外国語」をマスターして外国人を受け入れるべきなのだ。「英語ができれば大丈夫。日本語も覚えてほしいけれど、それは日本に来てから、それぞれの都合にあわせて覚えてください」という感じでないと、だれも日本に来なくなる。「労働力」ではなく、まず「人間」が必要なのだ。人に来てもらって、「ああ、日本に来てよかった」と思ってもらえる国にしないと、働くという気持ちは起きないだろう。「労働力」と見るかぎり、外国人からは「金稼ぎ」という気持ちしか起きない。「これだけの賃金しかないなら、これだけの仕事しかしない」ということが起きる。

 人間に目を向けてことばをつかわないと、新聞はそっぽをむかれる。
 もう、そっぽを向かれているかもしれないけれど。
 「ことば」の奥には、いつも「思想」がある。その「思想」がどんなものか、常に吟味しないといけない。






#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(45)

2018-08-22 09:24:14 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
45 谺

このちっぽけな砦址が 難攻を謳われたトロイア
十年攻めあぐね 奸計でようやく落ちたイリオン

 こう書くとき、高橋のことばはどんな「奸計」をたどっているのか。「どんな」が見えてこない。

彼らの雄叫び 彼女らの嘆きの声は いまも虚耳に谺する

 この「谺」が私には聞こえない。「谺」はほんらい自分が発した声が跳ね返ってきたもの。高橋は、どんな声を引き継ぎ、それを発したのか。どんな欲望を叫び、それが跳ね返ってきたのか。「どんな」はここには書かれていない。ただ「谺する」という現象だけが書かれている。「虚耳」ではなく、「谺」そのものが「虚」であり、「耳」がそれを捜している。

見はるかす戦さの野に 波を立てるのは いちめんの青麦
叙事詩の海ははるか沖へ逃げて退って 二千年 三千年

 これはどうみても「現実の眼(肉眼)」に見える「幻」である。「虚眼」にみえる「現実」ではない。
 一方に「虚耳(肉耳ではない)」という非現実と「谺」という現実があり、他方に「肉眼(虚眼ではない)」という現実と「比喩としての海(幻)」があるというのでは、「肉体」そのものの「場」がない。
 耳と谺、眼と野(海)のどれが「虚」で、どれが「実」なのかわからない。すでに「叙事詩の海」は比喩である。すべては融合している。そこには虚と実を結ぶ「時」がある、と、しかし高橋は言いなおすのだ。「二千年 三千年」という「時」がある、と。


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山下晴代『The Waste Land(荒地?)』

2018-08-21 11:24:10 | 詩集
山下晴代『The Waste Land(荒地?)』(Editions Hechima、2018年07月29日発行)

 山下晴代『The Waste Land(荒地?)』の表題作「The Waste Land」は、こう始まる。

そこでは、問うことだけが、漁夫王の病を癒すとされた。それで私は問うたものだ。
人間っていったい何度で焼かれますの? だいたい1600度くらいです。それでも一、二時間かかりますの? そう水分がほとんどだからね。脱水症で死んでもまだ体の中は、ほとんど水分なのである。漁夫王はそれを憂えている。そして上半身を起こして言った。
「川を解放せよ!」
おお、スウィート・テムズ。その昔は、鬱蒼とした木々に覆われ、アマゾンと変わらんかったんよ。

 詩は、どこにあるか。
 「飛躍」にある。遺体を焼く。それにかかる時間を語った後、「脱水症の遺体」に飛躍する。たぶん、この詩を書いたとき「脱水症」で死んだ人が話題になっていたのだろう。「物語」とは関係ない「現実」がふいに割り込んでくる。そして、それが「物語」のなかの「ことば」を突き動かす。「川を解放せよ!」。それがさらに「テムズ川」を呼び覚まし、他方で「アマゾン」をながれる川を呼び覚ます。
 「飛躍」を「ことばの攪乱」と呼んでもいい。しかし、実際に「攪乱される」のは読者の意識である。読者は、ふいに最近脱水症で死ぬ人が多かった、と思い出す。そうか、脱水症でも焼くときはふつうの火葬とかわりがないのか、と思う。これは、どうでもいいことだが、そういう「どうでもいいこと」が現実の中では、いつでも「突出」するようにして存在する。それを「ことば」が覚醒させる。存在しているのに、存在が見えないものを揺り動かして覚醒させる。覚醒されるのは、しかし、見えない現実なのか、それとも見過ごしていた読者の意識なのか。
 読者自身である。
 これはもちろん「作者自身」という意味も含んでいる。ことばを発したのは作者なのだから。
 では、「作者」とは何者なのか。こういう抽象的な「問い」は有効ではないかもしれない。「作者」のなかで何が動いているか、ということを問わなければならないのかもしれない。詩が「問い」から始まっているので、私は「問い」から考え始める。

そこでは、問うことだけが、漁夫王の病を癒すとされた。それで私は問うたものだ。

 この書き出しには、重大な問題がある。
 「そこでは、問うことだけが、漁夫王の病を癒すとされた」と「婉曲的」に書き始められている。「問うことが漁夫王の病を癒す」と言った人間は、「私」ではない。つまり、「他人のことば」に対して「私」が問いかけている。ここに「飛躍」がある。あるいは「分断」がある。「他人のことば」はそのままつづいていたはずである。しかし、それを「分断」し、「私のことば」を接続させている。これを批評というのだが、山下の詩の特徴は、その批評性にある。つまり、「他人のことば」を分断し、「自分のことば(現実)」を結びつけ、それでも「他人のことば」は動くかどうか、「他人のことば」は信用できるかどうかを問うことにある。
 このとき、その「問い」は、ほんとうに「漁夫王の病を癒す」ためのものではない。「物語」のなかで発せられるのではなく、「物語」の外で発せられるのだから。
 これは一種の「ことばの暴力」だが、それを「暴力」とは意識せず、「それで」と何でもないことのように装っている。「それで」というのは、「論理」を動かす。あるいは「論理」をうながす。「それで、そのつぎは?」「それで、それから?」単に動かし、うながすのではなく、「問う」という形をとるのが山下のことばの特徴である。「問う」とは基本的に「反論」である。納得がいかないから「問う」のである。つまり、ここから「衝突」がはじまる。「異化」といってもいい。「異化」されるのは、「ことば」であると同時に、「ことば」とともにある「現実」でもある。もっと突き詰めて言えば「事実」である。そこにはどんな「事実」があるのか。「現実」は「現象」のように見えるが「現象」ではなく、「事実/真実」がいつでも存在している。
 「問う」のは「事実は何?」と突き詰めることでもある。
 詩は、こうつづく。

west land って、ただの荒れ果てた土地じゃない。田や畑として使用しないで、そのままに太古を受けつぎ、妖精たちのあるがままにしておく土地。わが熊沢蕃山も、そのような土地を残しておくことを推奨した。そこでは、祀りごとは秘儀化され地下深く隠された。いつか、このような問いを献上しにやってくるもののために。

 「west land って、ただの荒れ果てた土地じゃない」は誰の定義(真理/事実)か。エリオットのか。エリオットのものであるにしろ、いま、ここでそれを引用する山下のものである。「引用」とはテキストからことばを独立させ、自己の責任において、違う形で動かすことである。山下は、熊沢蕃山へとことばをつないでいく。原典はエリオットではない。熊沢だ、と言い張る。熊沢をエリオットが「引用」したのだと。もちろん、そういう「事実」はないが、それは山下の発見した「真実」である。個人の真実は、客観的な事実を超える。これが、文学である。

 こうした「ことば」の衝突、異化、「現実」と「事実」、「事実」と「真実」の衝突が繰り返されるのが山下の詩である。だから、「結末」というようなものはない。「意味」はない。瞬間瞬間の「運動」があるだけである。
 「意味」を求めるなら、読まない方がいい。ことばの「運動」があれば、その「運動」がどういうものでもいい、と考えるなら読んだ方がいい。






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高橋睦郎『つい昨日のこと』(44)

2018-08-21 09:44:42 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
44 岸辺で スカマンドロス河

パンタレイ すべては流れる 滔滔と 轟轟と
岸辺で放心して 見つめている私も 流れる

 「流れる」という動詞は「河」を描写することから飛躍する。「私も ながれる」とことばをつづけることで、描写から哲学に変わる。

時が 時という幻が 流れつづけているだけ

 「時」と「私」が重なる。「私」もまた幻なのだと告げて、この哲学は、次のように結晶する。

流れ去る そのことさえも 流れ去る
何もない 何もないことも 流れ去る

 この哲学は哲学として、「意味」はわかる。けれど、高橋がギリシアで実感したのかどうか、そのことについては私はよくわからない。
 私は高橋が見ている「スカマンドロス河」は知らない。私はアテネのほんの一部を知っているだけだが。
 私の印象では、ギリシアでは何も流れない。「時間」は特に流れない。思い出す瞬間に「時間」は目の前にあらわれる。アテネは坂の多い街だが、坂に出会うたびに私は、ソクラテスが歩いてくるのを見た。「対話篇」のなかにソクラテスが坂を下ってくる場面が描かれているからだ。
 ギリシアでは何もかもが「明瞭になる」、つまり「あらわれる」。現前する。
 「流れ去る」さえも「あらわれる」。言い換えると「ことば」になる。そう「誤読」したい。





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高橋睦郎『つい昨日のこと』(43)

2018-08-20 09:01:56 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
43 逃げる海 ハルカリナッソス ミレトス エペソス

海は逃げる 沖へ 沖へ

 書き出しのこの一行が強烈だ。沖へ行くほど青さを増す海が見える。海とは、まず沖なのだ。ここではなく遠くなのだ。そのあこがれを引き出す。
 このあとは「説明」になる。

河が日日運んでくる 泥を嫌って--
港は埋まり 船たちは乾いて 弾ける

 その通りなのだろうが、その通りであることが少し退屈だ。これに歴史が重ねられ、さらに「畑」の下から「古代」が掘り出される。そこは海だったのだ。
 海は、どこへ行ったのか。

歩き疲れた孤独な旅人の目は半日 海を捜し
やっと見つけた貧しい漁港で 魚を食べる
遺跡の床のモザイクで見たのと同じ 舌鮃

 美しい結末だが、「理屈」が多い。「舌鮃」ということばのなかには「旅人の目」の「め(目)」が重なり、「半日」の「半」は舌鮃の目が体の「半分(片側)」についていることと重なる。「見る」という動詞が詩を貫くのではなく、「食べる」という動詞によって何かちぐはぐな印象になる。
 一行目を動かしていた「見る」という動詞が、後半では「近く」に限定されすぎている感じがする。
 「見る」ことはできない「時間の流れ(距離/隔たり)」が隠されているのだけれど。


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ホアキンの新作

2018-08-20 08:30:39 | estoy loco por espana


すばらしい。
鉄板を組み合わせているのか、それとも鉄の塊そのものなのか。
内部に空洞がなく、鉄の塊そのものならば、大傑作だ。
ホアキンの代表作のひとつになると思う。
この塊は、もっと大きな鉄の塊のなかに隠れていたのか。
あるいは鉄が集まってきてこの形になったのか。
そのことを考えると、胸が高鳴る。昂奮する。
強い存在感がある。
巨大な鉄の塊ならば、200 x 320 x 170 cmならば、それは見る人間を圧倒するだろう。

es maravilloso
es una combinacion de placas de hierro, o una pieza de hierro en si?
no hay cavidad en el interior, si es hierro en sí, es una obra maestra.
creo que sera una de las obras maestras de Joaquin.
estaba escondido este bulto en una masa de hierro mas grande?
o se reunió el hierro y se convirtio en esta forma?
cuando pienso en eso, mi corazon late rapido. me emociono
hay una fuerte presencia.
si se trata de una masa de hierro gigantesca, sera de 200 x 320 x 170 cm, abrumara a los espectadores.




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ジェイソン・ライトマン監督「タリーと私の秘密の時間」(★+★)

2018-08-19 20:31:41 | 映画
ジェイソン・ライトマン監督「タリーと私の秘密の時間」(★+★)

監督 ジェイソン・ライトマン 出演 シャーリーズ・セロン、マッケンジー・デイビス

 やっていることは「わかる」のだが……。
 子育てはつらい。ほとんどが母親に任せっきり。父親は何もしない。どこの国でも似たようなものなのだろう。
 そのとき母親はどんな「夢」を見るか。
 赤ん坊が夜泣きをする前に授乳するのはもちろん、家事も完璧にこなす。こどもたちにも何一つ不自由はさせない。完璧な母親になる。
 でも、そういうことは、むり。
 どうすれば、それができる?
 誰かが手伝ってくれたら。夫(父親)が手伝ってくれないのなら、夜のベビーシッターがいるといいなあ。赤ちゃんの世話だけではなく、眠っている間に家事も手伝ってくれたら助かるなあ。ふつう、ベビーシッターは昼間の仕事だけれど。うーん、「ナイトシッター」か。
 「ナイトシッター」なのだから、夜のお手伝いも。つまり、疎遠になっているセックスの手伝いも……。
 あ、そうか。
 母親たちは、こんなふうになればいいなあ、と考えているのか、と「わかる」が、でも、わたしの「わかる」はあくまで男から見た「わかる」なのかもしれない。

 この映画では、シャーリーズ・セロンが、いわば「二重人格」のような感じで、「ナイトシッター」と「母親」をこなしてしまう。忙しすぎて、気持ちが暴走して「二重人格」になる。夜、家族が寝ている時間に、すべてをやってのける。家の掃除をし、こどものオヤツも手作りする。「ナイトシッター」がやってくれた。助かるわ、と夫には言う。
 このシャーリーズ・セロンの「ほんとうの夢」は、若いときのように、もう一度飲んで踊って、騒ぎたい。「青春を謳歌したい」である。
 そして、実際に、それをやってしまう。赤ん坊が寝ついている。家族もみんな寝ている。いまなら「夜遊び」に行ける。「ナイトシッター」といっしょにブルックリンへ出かける。
 その「夢」を実現した後、どうなる?
 もう、覚めるしかない。
 「毎日が同じ繰り返し。それが幸せなのよ」と「ナイトシッター」は言う。それは、シャーリーズ・セロンが夫を選んだときの「思い」だったのだろう。男との付き合いは複数あった。メリーゴーラウンドの「馬」みたいに、とっかえ、ひっかえの日々。でも選んだのは「馬」ではなく、「ベンチ」だった、ということが映画の途中で語られる。これもまた「女の夢」なのかもしれない。
 でも、それは「男の夢」ではないか、と私は、かなり疑問に思っている。
 「夜遊び」が好きな奔放な女。でも結婚し、こどもを生み、日々同じことを繰り返して平和な家庭をつくる。
 「女の夢」を描くふりをしながら、実は「男の夢」を押しつけていないか。
 どうも、そういう気がする。
 この映画の中では、男(夫)は、ぜんぜん変わらない。仕事中心に生きている。家事、育児の手伝いはしない。寝る前にはテレビゲームに夢中。セックスしようと誘いかけてくることは、もうない。この男が変わらないと、どうしようもないのだが。
 事故を起こした妻を心配し、「俺が悪かった」なんて、口先で言うだけだからね。

 監督が男だから、こういう映画になったのかもしれない。「マイケル」を撮ったノーラ・エフロンがつくれば、こんなふうにはならないだろうなあ、と思う。
 もっと、「男の知らない女」が前面に出てくる作品になったと思う。この映画には「男の知らない女」は出てこない、というのがとても残念。こんな映画で、「女の気持ちが描かれている」と言うようでは、男の視線に洗脳されすぎていると思う。

 ★一個追加は、シャーリーズ・セロンの「肉体改造演技」に対して。私は、こういう「肉体改造演技」というのは演技ではないと思っているが。でも、ここまでやるのか、と感心した。予告編でもびっくりしたが、ぶざまに太っている。その太った腹をさらけだし、こども(女の子)に「ママの体、どうしちゃったの」と言わせている。大笑いしてしまったが、考えてみると、これも「男のことば」。夫(男)はそう言いたいのだが、男が言うと夫婦喧嘩が始まる。こどもに言わせて(しかも女の子に言わせて)、それは男の「視線(主張)」ではない、とごまかしている。
 映画館は満員だったが、世の女性陣よ、こんな映画にだまされてはいけないよ。
 (2018年08月19日、KBCシネマ1)



 *

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モンスター (字幕版)
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(42)

2018-08-19 09:57:23 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
42 排泄するギリシア エペソス

 美しいものと汚いものの対比。「公衆便所の遺構」が「ギリシア人も排泄したのだ と気づかせてくれる」と書いた後、高橋は、こうことばをつづける。

かの腰をひねる円盤投げの若者も 自らの蹠に見入る棘抜き少年も

 「腰をひねる」「蹠に見入る」というのは「肉体」をいじめるような動きだが、その「いじめる」感じがエロスを誘う。美しい肉体が歪む。歪むことで、いままで見えなかった美しさがあらわれる。
 ここには糞と肉体の関係が隠されている。
 だからこそ、こんなふうに展開していく。

その美しい肉体の内側には なまなましい腸が走り わだかまり

 「腸」のかわりに「あふれる力」(あるいは肉体を制御する力)を入れてみるといい。人間の肉体が動くとき、そこには力の爆発と制御が繰り返されている。どんな美しさも、その二つが組み合わさっている。
 「青年(美少年)」に目を向けるだけではなく、高橋は、さらにこんなふうに世界を広げる。

あの尻の美しいアプロディテも屈みこんで 脱糞したし
そのとぐろを巻いた糞塊には 黄金の蠅が群がったのだ

 しかし、おもしろいなあ。私は思わず笑いだしてしまう。
 「青年(美少年)」書いていたときには「排泄」という気取ったことばがつかわれていたのだが、美女が登場したとたんに、「屈みこむ」「脱糞する」「糞塊」「蠅」というような、なまなましいことばが溢れだす。「蠅」には「黄金の」という修飾語がついているが、それは蠅の汚らしさを強調するための「補色」のようなものだ。
 「蹠」とか「棘」というような繊細なことばは消えてしまう。
 人は誰でも排泄する。ギリシアの時代からそれは変わらない、という「意味」はありきたりだが、この「青年(美少年)」と「美女」との描き方の違いは楽しい。高橋の「肉体」(本能)をくっきりと印象づける。

つい昨日のこと 私のギリシア
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福岡県警への疑問

2018-08-18 15:30:45 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
 2018年08月17日(金曜日)、地検に呼び出された。05月28日、福岡市天神の歩車分離交差点(岩田屋、ビオレの対抗二車線の交差点)を自転車に乗って渡ったことについての確認である。
 福岡中央署のことがあったので、事前にやりとりを録音していいか尋ねた。不許可だった。理由はネットなどに公表されると困るから、ということだった。なぜ困るのか、録音を公表しなければいいのか、ということは面倒だったので問わなかった。
 口頭で身分の確認(氏名、年齢住など)のあと、身分証の提示を求められたので、パスポートを見せた。コピーをとられた。事実の確認のあと、
 「次回から同じような違反を犯すと罰金になる」
 という注意を受けて、印鑑を押しておしまいなのだが、疑問点があったので、聞いてみた。
 福岡中央署の調書に、7月中旬に警察に呼び出されて提出したパスポートのコピーがあるのではないか。そのコピーで身分確認をすることはできないのか。
 「担当者が実際に会った、という記録として必要」
 ということだった。
 なるほど、警察は警察、検察は検察という別組織なので、そういうものかもしれないと思った。

 で、そのとき福岡中央署の作成した調書が「見えた」。(福岡中央署で「調書を再確認したい。保険証のことがどう記載されているか知りたい」と言ったら、担当者のほかに上司があらわれ、結局、話が違った方向に進み、見せてもらえなかった。)
 そこには保険証の写真があった。表と裏が写されている。
 「保険証」については、私は福岡中央署から出頭を求められた(身分証明書と、住所確認用の公的機関が発行した郵便物=宛て名が私の名前であるものが必要といわれた)とき質問した。電話でも質問したし、実際の面会のときも質問した。
 疑問はいつくかある。
(1)保険証に書いてある住所で住所確認ができるのではないか。(これは出頭前)
 これに対しては、保険証の住所は「手書き」であるから証明にはならない。パスポートも住所は「手書き」だから不十分ということらしい。だから公的機関の発行した郵便物が必要ということらしい。
(2)保険証が身分確認に使えないのなら、なぜ、現場で調書をつくるときに、保険証の控えをメモしたのか(具体的にはわからないが、何か書いていた)、写真も撮ったがなぜなのか。
 これに対しては、調書には保険証のことは記載していない。写真も撮っていない、という答えだった。ところが、写真は、あった。検察にまわされた調書には、保険証の裏表の写真が2枚添付されていた。つまり、前回、福岡中央署の担当者は嘘をついたことになる。
(3)保険証の手書きの住所が信用できないということだが、保険証の発行機関に問い合わせた結果、そう判断したのか。
 これに対しては、問い合わせしていないということだった。
 さらに、本人がほんとうにその住所に住んでいるかどうかは、顔写真つきの証明書でないと確認できないと言われた。
(4)自宅で電話を受け、その結果警察に来ているのだから、本人以外の誰でもないでしょう。疑問があるなら、自宅までやってくればいいのでは?と問うと、
 疑うわけではないが、一般論としては、保険証は盗まれたものである可能性もある。だから保険証では、身分証明にならないという。
 「疑うわけではない」と事前に言っているが、これは「口先」であり、疑っているということだろう。
 さらに、だから「顔写真つきの証明書がいる。常識だ」ともいう。
 「顔写真つきの身分証明書」が必要ということが「常識」なら、現場で調書をとったときにその旨伝え、後日、そういうものを警察に出頭するように言うのが「常識」ではないのか。1か月半も過ぎてから、顔写真つきの証明書、公的機関の発行した郵便物が必要と言うのは、なんとも理解できない。担当者の不手際なら不手際で、ちゃんと説明すべきだろう。なぜすぐに運転免許証の提示を求められるのか。運転免許証を持たないことで、なぜ非難されなければならないのだろう。
 「免許証もパスポートも持たない人は、写真つきのマイナンバーカードを発行してもらって、それから警察に来なければならないのか」と、私は試しに問いかけてみた。すると、「そうだ」という答えだった。(録音はしていないので、証拠はない。)

 そして、知らなかったのだが。
 検察で口頭で名前などを尋ねられたとき、「本籍は?」という質問が出た。「東京です」とだけ答えると、「東京都千代田区……」と、担当者が調書を見ながら後の部分を読み上げる。
 「本籍地」については、福岡中央署では何も聞かれていない。福岡中央署で調べたということだろう。
 そういう個人情報を警察がどうやって入手するのか、それは法律で認められているか、入手するには何らかの手続きが必要なのか、そういうことはまったく知らないが。
 驚くのは、「本籍地」がどこであるかまで自前で調べるくらいなら、私がどこに住んでいるか、保険証の裏に書いてある住所がほんものかどうかくらいすぐに調べられるだろう。私の住所まで足を運べばいい。



 福岡中央署の対応に対して、私が疑問を持つのには理由がある。
 数年前、自転車で転倒し、けがをした。女性が自転車で交差点を斜めに(対角線に)走ってきた。私は歩道から横断歩道へ入るところで急ブレーキをかけ、転倒した。そのときの「事故調書」。私はありのままに伝えた。ところが、現場検証で、女性は交差点を斜めに進んだとは言わずに、いったん直進し、それから右折した。交差点ではなく、横断歩道のなかを斜めに進んだと証言している。つまり、私が横断歩道の前方を見ていなかった、と主張している。そして、私と女性の「証言」が違うにもかかわらず、女性の証言を「正しい」と判断し、前方を確認していない私に非があるように言う。
 このことについては、私は、執拗に抗議した。その結果、近くの防犯カメラに映像が残っていて、私の証言が正しいことが証明された。私のけがに対する治療費は、したがって女性が支払っている。(病院までの交通費は自費で支払ったが、考えてみればこの負担も女性がしなければならないものだろう。)
 これにはまだ後日のことがある。「事故処理したので、調書は検察に送る。その後の結果はどうするか」と問い合わせがあった。こういう事故で「起訴」ということはないだろう。だから「結果」も何もないのだが、私はどう処理されたか(ほんとうにきちんと手続きを踏んだのかどうか)を知りたくて、「最後まで教えてください」と言った。しばらくして「検察に書類を送った」という連絡は受けた。しかし、その後は、何も聞いていない。



 私は横断歩道を自転車で走ったということは認めている。それが道路交通法に違反することも認めている。ただし、私が歩行者の歩行を妨害したとは思っていない。歩行者から抗議も受けていない。私は、後ろから走ってきた警官に呼び止められた。つまり、警官が走るよりもゆっりくしたスピードで走っていた。
 ただし、その後の警察の対応には、疑問が残る。写真つきの身分証明書が必要なら必要と、なぜすぐに言わないのか。なぜ、「保険証は盗まれた可能性もある」というようなことを言うのか。
 検察では「録音」はだめと言われたが、どんなときでも「録音」できるようにならないといけないと思う。どんな取り調べでも(事故の調書づくり)でも、弁護士の同席が必要かもしれないとも思う。客観的な「助言」がないと、取り調べは誘導される可能性がある。また、言い忘れなども起きてしまう.
 取り調べる側の方でも「録音」はした方がいいだろう。双方で「録音」し、それを「証拠」にできるようにしないと、何が起きるかわからない。



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高橋睦郎『つい昨日のこと』(41)

2018-08-18 10:08:10 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
41 薊の木 アナトリアで

この乾燥した土地では アザミも木になる

 その木になったアザミを高橋は見たのか。うわさを聞いて書いているのか。「薊」と「アザミ」は意識的に書き換えたものだとするなら、この表記の背後には現実と夢が交錯している。

掘り起こしたその根は とろとろに柔かく
老人の衰えた精を養う という
お化けアザミの精のついた老人は?
美しい花は咲かせず 棘だらけ
近づく人をやたら刺しに刺す

 原文は「堀り起こした」だが、誤植だろう。
 「とろとろに柔かく」ということばは、「とろとろ」に重点があるのか、「柔かく」に重点があるのか。区別して考える必要はないかもしれないが、「とろとろ」という「意味」になりきれない音(翻訳不可能な音)の方が、たぶん高橋にとっては重要だったと思う。詩にとっても、重要だ。意味になれないなにかが、音そのものとして動き始める。その衝動のようなものが高橋を動かしている。
 「老人」は高橋の「自画像」だ。
 棘に刺された人の、その小さな鮮血が、高橋にとっての「花」である。「花」を獲得するために、高橋は棘になる。二つのものが交錯し、その交錯のなかに世界が動く。
 「薊」と「アザミ」、「とろとろ」と「柔かい」、「花」と「棘」と「刺す」。
 「棘」と「刺す」は文字がとても似ている。「棘」になることが「刺す」なのか、「刺す」という動詞が「棘」なのか。これも、「文字(ことば)」では区別できても、「肉体(実感)」では区別がむずかしい。
 違うけれど同じ、同じだけれど違う。そういうものが動いている。「堀り起こした」の誤植も、そういうものの影響を受けているのか。
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(40)

2018-08-17 09:35:38 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
40 二つの瓶絵

この瓶絵の髯の男は指を伸ばして 向き合う少年の皮かむりを愛撫
別の瓶絵の大人は 後ろ向きの青年の尻の向こうの締まった睾丸を掌に包もうと
これを猥褻というのはたやすいが 仮に比喩と考えてみては どうだろう

 「比喩と考えてみる」ということばがおもしろい。
 「比喩」とは、いまここにないものを借りて、ここにあるものを語ることである。いまここにあるのは、男が少年(青年)の性器に触れるという姿である。そこには愛と欲望があるのだが、それは「現実」ではない。ほんとうは別のものが存在している。そのままでは真実が伝わりにくいから「比喩」を利用してわかりやすく説明している。そう「考える」、つまり「ことば」を動かす。そのときの「ことば」は「ほんとう」として何を語るのか。

夭い感性の尖端に刺激を与えるとか 瑞みずしい存在の中心を暖めようとするとか
教育の核心のエロスの発見者として ギリシアを讃えるのは 間違いか

 「教育の核心」が「真実」である、というのだが、これが「比喩」でないとしたらなにか。「論理」である。「ことば」の運動である。
 こういう「頭」ででっちあげた詭弁(論理)は、「意味」になりすぎていておもしろくない。人間の「頭(脳)」はいつでも自分の都合のいいように「ことば」をつかって「論理」をでっちあげ、「論理的であるから現実である」と嘘をつく。
 この詩では、最後の「間違い」という「ことば」がおもしろい。
 詩の「論理的出発点」となった「比喩」とつきあわせて考えてみよう。
 「比喩」とは「いまここにないもの」、あるいは語っている対象そのものではない。言い換えると「間違い」である。たとえば美女をバラの花と呼ぶとき、バラの花という比喩は「間違い」である。想像力とは間違えること。ものを歪めてみる力。もし「比喩」に「真実」があるとすれば、間違えることでしか言い表すことのできない何かが発言者の「肉体」のなかにあるということだ。
 少年を愛したい。青年と交わりたい。その欲望(本能)の「真実」を、どうやって他人に納得させるか。そんなものを他人に納得させる必要はない。個人の欲望なのだから。でも、弁解をしてしまう。「頭」が理屈をこね上げる。この「間違い」に加担してしまうのが、「ことば」のひとつのあり方なのだ。そして詩は「間違い」だからこそおもしろい。「間違い」のなかに、欲望があからさまに動いている。

つい昨日のこと 私のギリシア
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