詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジェイソン・ライトマン監督「タリーと私の秘密の時間」(★+★)

2018-08-19 20:31:41 | 映画
ジェイソン・ライトマン監督「タリーと私の秘密の時間」(★+★)

監督 ジェイソン・ライトマン 出演 シャーリーズ・セロン、マッケンジー・デイビス

 やっていることは「わかる」のだが……。
 子育てはつらい。ほとんどが母親に任せっきり。父親は何もしない。どこの国でも似たようなものなのだろう。
 そのとき母親はどんな「夢」を見るか。
 赤ん坊が夜泣きをする前に授乳するのはもちろん、家事も完璧にこなす。こどもたちにも何一つ不自由はさせない。完璧な母親になる。
 でも、そういうことは、むり。
 どうすれば、それができる?
 誰かが手伝ってくれたら。夫(父親)が手伝ってくれないのなら、夜のベビーシッターがいるといいなあ。赤ちゃんの世話だけではなく、眠っている間に家事も手伝ってくれたら助かるなあ。ふつう、ベビーシッターは昼間の仕事だけれど。うーん、「ナイトシッター」か。
 「ナイトシッター」なのだから、夜のお手伝いも。つまり、疎遠になっているセックスの手伝いも……。
 あ、そうか。
 母親たちは、こんなふうになればいいなあ、と考えているのか、と「わかる」が、でも、わたしの「わかる」はあくまで男から見た「わかる」なのかもしれない。

 この映画では、シャーリーズ・セロンが、いわば「二重人格」のような感じで、「ナイトシッター」と「母親」をこなしてしまう。忙しすぎて、気持ちが暴走して「二重人格」になる。夜、家族が寝ている時間に、すべてをやってのける。家の掃除をし、こどものオヤツも手作りする。「ナイトシッター」がやってくれた。助かるわ、と夫には言う。
 このシャーリーズ・セロンの「ほんとうの夢」は、若いときのように、もう一度飲んで踊って、騒ぎたい。「青春を謳歌したい」である。
 そして、実際に、それをやってしまう。赤ん坊が寝ついている。家族もみんな寝ている。いまなら「夜遊び」に行ける。「ナイトシッター」といっしょにブルックリンへ出かける。
 その「夢」を実現した後、どうなる?
 もう、覚めるしかない。
 「毎日が同じ繰り返し。それが幸せなのよ」と「ナイトシッター」は言う。それは、シャーリーズ・セロンが夫を選んだときの「思い」だったのだろう。男との付き合いは複数あった。メリーゴーラウンドの「馬」みたいに、とっかえ、ひっかえの日々。でも選んだのは「馬」ではなく、「ベンチ」だった、ということが映画の途中で語られる。これもまた「女の夢」なのかもしれない。
 でも、それは「男の夢」ではないか、と私は、かなり疑問に思っている。
 「夜遊び」が好きな奔放な女。でも結婚し、こどもを生み、日々同じことを繰り返して平和な家庭をつくる。
 「女の夢」を描くふりをしながら、実は「男の夢」を押しつけていないか。
 どうも、そういう気がする。
 この映画の中では、男(夫)は、ぜんぜん変わらない。仕事中心に生きている。家事、育児の手伝いはしない。寝る前にはテレビゲームに夢中。セックスしようと誘いかけてくることは、もうない。この男が変わらないと、どうしようもないのだが。
 事故を起こした妻を心配し、「俺が悪かった」なんて、口先で言うだけだからね。

 監督が男だから、こういう映画になったのかもしれない。「マイケル」を撮ったノーラ・エフロンがつくれば、こんなふうにはならないだろうなあ、と思う。
 もっと、「男の知らない女」が前面に出てくる作品になったと思う。この映画には「男の知らない女」は出てこない、というのがとても残念。こんな映画で、「女の気持ちが描かれている」と言うようでは、男の視線に洗脳されすぎていると思う。

 ★一個追加は、シャーリーズ・セロンの「肉体改造演技」に対して。私は、こういう「肉体改造演技」というのは演技ではないと思っているが。でも、ここまでやるのか、と感心した。予告編でもびっくりしたが、ぶざまに太っている。その太った腹をさらけだし、こども(女の子)に「ママの体、どうしちゃったの」と言わせている。大笑いしてしまったが、考えてみると、これも「男のことば」。夫(男)はそう言いたいのだが、男が言うと夫婦喧嘩が始まる。こどもに言わせて(しかも女の子に言わせて)、それは男の「視線(主張)」ではない、とごまかしている。
 映画館は満員だったが、世の女性陣よ、こんな映画にだまされてはいけないよ。
 (2018年08月19日、KBCシネマ1)



 *

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モンスター (字幕版)
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(42)

2018-08-19 09:57:23 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
42 排泄するギリシア エペソス

 美しいものと汚いものの対比。「公衆便所の遺構」が「ギリシア人も排泄したのだ と気づかせてくれる」と書いた後、高橋は、こうことばをつづける。

かの腰をひねる円盤投げの若者も 自らの蹠に見入る棘抜き少年も

 「腰をひねる」「蹠に見入る」というのは「肉体」をいじめるような動きだが、その「いじめる」感じがエロスを誘う。美しい肉体が歪む。歪むことで、いままで見えなかった美しさがあらわれる。
 ここには糞と肉体の関係が隠されている。
 だからこそ、こんなふうに展開していく。

その美しい肉体の内側には なまなましい腸が走り わだかまり

 「腸」のかわりに「あふれる力」(あるいは肉体を制御する力)を入れてみるといい。人間の肉体が動くとき、そこには力の爆発と制御が繰り返されている。どんな美しさも、その二つが組み合わさっている。
 「青年(美少年)」に目を向けるだけではなく、高橋は、さらにこんなふうに世界を広げる。

あの尻の美しいアプロディテも屈みこんで 脱糞したし
そのとぐろを巻いた糞塊には 黄金の蠅が群がったのだ

 しかし、おもしろいなあ。私は思わず笑いだしてしまう。
 「青年(美少年)」書いていたときには「排泄」という気取ったことばがつかわれていたのだが、美女が登場したとたんに、「屈みこむ」「脱糞する」「糞塊」「蠅」というような、なまなましいことばが溢れだす。「蠅」には「黄金の」という修飾語がついているが、それは蠅の汚らしさを強調するための「補色」のようなものだ。
 「蹠」とか「棘」というような繊細なことばは消えてしまう。
 人は誰でも排泄する。ギリシアの時代からそれは変わらない、という「意味」はありきたりだが、この「青年(美少年)」と「美女」との描き方の違いは楽しい。高橋の「肉体」(本能)をくっきりと印象づける。

つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社
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