ジェイソン・ライトマン監督「タリーと私の秘密の時間」(★+★)
監督 ジェイソン・ライトマン 出演 シャーリーズ・セロン、マッケンジー・デイビス
やっていることは「わかる」のだが……。
子育てはつらい。ほとんどが母親に任せっきり。父親は何もしない。どこの国でも似たようなものなのだろう。
そのとき母親はどんな「夢」を見るか。
赤ん坊が夜泣きをする前に授乳するのはもちろん、家事も完璧にこなす。こどもたちにも何一つ不自由はさせない。完璧な母親になる。
でも、そういうことは、むり。
どうすれば、それができる?
誰かが手伝ってくれたら。夫(父親)が手伝ってくれないのなら、夜のベビーシッターがいるといいなあ。赤ちゃんの世話だけではなく、眠っている間に家事も手伝ってくれたら助かるなあ。ふつう、ベビーシッターは昼間の仕事だけれど。うーん、「ナイトシッター」か。
「ナイトシッター」なのだから、夜のお手伝いも。つまり、疎遠になっているセックスの手伝いも……。
あ、そうか。
母親たちは、こんなふうになればいいなあ、と考えているのか、と「わかる」が、でも、わたしの「わかる」はあくまで男から見た「わかる」なのかもしれない。
この映画では、シャーリーズ・セロンが、いわば「二重人格」のような感じで、「ナイトシッター」と「母親」をこなしてしまう。忙しすぎて、気持ちが暴走して「二重人格」になる。夜、家族が寝ている時間に、すべてをやってのける。家の掃除をし、こどものオヤツも手作りする。「ナイトシッター」がやってくれた。助かるわ、と夫には言う。
このシャーリーズ・セロンの「ほんとうの夢」は、若いときのように、もう一度飲んで踊って、騒ぎたい。「青春を謳歌したい」である。
そして、実際に、それをやってしまう。赤ん坊が寝ついている。家族もみんな寝ている。いまなら「夜遊び」に行ける。「ナイトシッター」といっしょにブルックリンへ出かける。
その「夢」を実現した後、どうなる?
もう、覚めるしかない。
「毎日が同じ繰り返し。それが幸せなのよ」と「ナイトシッター」は言う。それは、シャーリーズ・セロンが夫を選んだときの「思い」だったのだろう。男との付き合いは複数あった。メリーゴーラウンドの「馬」みたいに、とっかえ、ひっかえの日々。でも選んだのは「馬」ではなく、「ベンチ」だった、ということが映画の途中で語られる。これもまた「女の夢」なのかもしれない。
でも、それは「男の夢」ではないか、と私は、かなり疑問に思っている。
「夜遊び」が好きな奔放な女。でも結婚し、こどもを生み、日々同じことを繰り返して平和な家庭をつくる。
「女の夢」を描くふりをしながら、実は「男の夢」を押しつけていないか。
どうも、そういう気がする。
この映画の中では、男(夫)は、ぜんぜん変わらない。仕事中心に生きている。家事、育児の手伝いはしない。寝る前にはテレビゲームに夢中。セックスしようと誘いかけてくることは、もうない。この男が変わらないと、どうしようもないのだが。
事故を起こした妻を心配し、「俺が悪かった」なんて、口先で言うだけだからね。
監督が男だから、こういう映画になったのかもしれない。「マイケル」を撮ったノーラ・エフロンがつくれば、こんなふうにはならないだろうなあ、と思う。
もっと、「男の知らない女」が前面に出てくる作品になったと思う。この映画には「男の知らない女」は出てこない、というのがとても残念。こんな映画で、「女の気持ちが描かれている」と言うようでは、男の視線に洗脳されすぎていると思う。
★一個追加は、シャーリーズ・セロンの「肉体改造演技」に対して。私は、こういう「肉体改造演技」というのは演技ではないと思っているが。でも、ここまでやるのか、と感心した。予告編でもびっくりしたが、ぶざまに太っている。その太った腹をさらけだし、こども(女の子)に「ママの体、どうしちゃったの」と言わせている。大笑いしてしまったが、考えてみると、これも「男のことば」。夫(男)はそう言いたいのだが、男が言うと夫婦喧嘩が始まる。こどもに言わせて(しかも女の子に言わせて)、それは男の「視線(主張)」ではない、とごまかしている。
映画館は満員だったが、世の女性陣よ、こんな映画にだまされてはいけないよ。
(2018年08月19日、KBCシネマ1)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
監督 ジェイソン・ライトマン 出演 シャーリーズ・セロン、マッケンジー・デイビス
やっていることは「わかる」のだが……。
子育てはつらい。ほとんどが母親に任せっきり。父親は何もしない。どこの国でも似たようなものなのだろう。
そのとき母親はどんな「夢」を見るか。
赤ん坊が夜泣きをする前に授乳するのはもちろん、家事も完璧にこなす。こどもたちにも何一つ不自由はさせない。完璧な母親になる。
でも、そういうことは、むり。
どうすれば、それができる?
誰かが手伝ってくれたら。夫(父親)が手伝ってくれないのなら、夜のベビーシッターがいるといいなあ。赤ちゃんの世話だけではなく、眠っている間に家事も手伝ってくれたら助かるなあ。ふつう、ベビーシッターは昼間の仕事だけれど。うーん、「ナイトシッター」か。
「ナイトシッター」なのだから、夜のお手伝いも。つまり、疎遠になっているセックスの手伝いも……。
あ、そうか。
母親たちは、こんなふうになればいいなあ、と考えているのか、と「わかる」が、でも、わたしの「わかる」はあくまで男から見た「わかる」なのかもしれない。
この映画では、シャーリーズ・セロンが、いわば「二重人格」のような感じで、「ナイトシッター」と「母親」をこなしてしまう。忙しすぎて、気持ちが暴走して「二重人格」になる。夜、家族が寝ている時間に、すべてをやってのける。家の掃除をし、こどものオヤツも手作りする。「ナイトシッター」がやってくれた。助かるわ、と夫には言う。
このシャーリーズ・セロンの「ほんとうの夢」は、若いときのように、もう一度飲んで踊って、騒ぎたい。「青春を謳歌したい」である。
そして、実際に、それをやってしまう。赤ん坊が寝ついている。家族もみんな寝ている。いまなら「夜遊び」に行ける。「ナイトシッター」といっしょにブルックリンへ出かける。
その「夢」を実現した後、どうなる?
もう、覚めるしかない。
「毎日が同じ繰り返し。それが幸せなのよ」と「ナイトシッター」は言う。それは、シャーリーズ・セロンが夫を選んだときの「思い」だったのだろう。男との付き合いは複数あった。メリーゴーラウンドの「馬」みたいに、とっかえ、ひっかえの日々。でも選んだのは「馬」ではなく、「ベンチ」だった、ということが映画の途中で語られる。これもまた「女の夢」なのかもしれない。
でも、それは「男の夢」ではないか、と私は、かなり疑問に思っている。
「夜遊び」が好きな奔放な女。でも結婚し、こどもを生み、日々同じことを繰り返して平和な家庭をつくる。
「女の夢」を描くふりをしながら、実は「男の夢」を押しつけていないか。
どうも、そういう気がする。
この映画の中では、男(夫)は、ぜんぜん変わらない。仕事中心に生きている。家事、育児の手伝いはしない。寝る前にはテレビゲームに夢中。セックスしようと誘いかけてくることは、もうない。この男が変わらないと、どうしようもないのだが。
事故を起こした妻を心配し、「俺が悪かった」なんて、口先で言うだけだからね。
監督が男だから、こういう映画になったのかもしれない。「マイケル」を撮ったノーラ・エフロンがつくれば、こんなふうにはならないだろうなあ、と思う。
もっと、「男の知らない女」が前面に出てくる作品になったと思う。この映画には「男の知らない女」は出てこない、というのがとても残念。こんな映画で、「女の気持ちが描かれている」と言うようでは、男の視線に洗脳されすぎていると思う。
★一個追加は、シャーリーズ・セロンの「肉体改造演技」に対して。私は、こういう「肉体改造演技」というのは演技ではないと思っているが。でも、ここまでやるのか、と感心した。予告編でもびっくりしたが、ぶざまに太っている。その太った腹をさらけだし、こども(女の子)に「ママの体、どうしちゃったの」と言わせている。大笑いしてしまったが、考えてみると、これも「男のことば」。夫(男)はそう言いたいのだが、男が言うと夫婦喧嘩が始まる。こどもに言わせて(しかも女の子に言わせて)、それは男の「視線(主張)」ではない、とごまかしている。
映画館は満員だったが、世の女性陣よ、こんな映画にだまされてはいけないよ。
(2018年08月19日、KBCシネマ1)
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