詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

沢田敏子『サ・ブ・ラ、此の岸で』

2018-09-08 11:31:43 | 詩集
 沢田敏子『サ・ブ・ラ、此の岸で』(編集工房ノア、2018年09月01日発行)

 沢田敏子『サ・ブ・ラ、此の岸で』は静かな詩集だ。ことばが、静かだ。巻頭の「一台の自転車のような祈りが道を行く」の一連目。

一台の自転車のような祈りが道を行く
ある晴れた日に
祈りを抱きしめた人は
まだ問い続けている 河口までの
選ぶほどではない道をそれでも決めてきたことについて

 何が書いてあるのか、わからない。けれど「祈り」ということばと「決めてきた」ということばが響きあい、そこに人間が見えてくる。「抱きしめる」という動詞が、「祈り」と「決める」をつないでいる。
 「祈る」というのは何かを「決める」ことなのだと教えられる。「決める」が先にあって、それから「祈る」。
 「自転車のような」という比喩はわかりにくい。自転車を引いているのか、自転車に乗っているのか。私は自転車を引いて、人があるいていく姿を思い浮かべた。それでもなお「自転車のような」ということばが「比喩」として響いてくるのは、「決めて/祈る」ことが、自転車に乗るときのように、ペダルを漕ぎ続けること、持続することが「倒れない」ことにつながるからだろう。
 「決めた」ことを胸に「抱きしめ」つづける、持ちつづける、維持するということが「祈り」なのだと教えられる。その「持ちつづける」ときの「強さ」がことばを貫いている。
 そしてその「強さ」を支えているのは「問い」なのだ。「問い/問う」があるからこそ、それに「答える」があり、その反芻がある。そうやって「つづける」ことができる。単純に信じる(身を任せる)ではないのだ。
 この「強さ」(祈り)に通じるものを、「Infant-本の破れ」にも感じた。

わたしのダイニングテーブルの上に
市外の図書館から借り出され、届いた一冊の本
捲ると一枚の紙が挿まれていた

  この資料には汚れがあります。
  (P44、63-65、115、120、155、228)
  書き込みがあります。
  (そで)
  破損個所があります。
  (表紙破れ、ワレ P117、130)
  その他。
  (折れあと P69)

この本のなんというしずかさだろう
あまたのいたみをくぐりきて

その一ページには惨憺たる証言が記されているのに

       (注=本文は「P」の後にドットがあるのだが、私のワープロでは
        表記できないので省略した)

 「惨憺たる証言が記されている」からこそ、人はそこに「書き込み」をしてしまうのだろう。「問い」と「答え」が交錯する。こころが動き、何かを書かずにはいられない。
 その書き込みこそが「祈り」だろう。それを読んだ瞬間、何かを「決めた」のだ。そして、それを胸にしっかりと「抱いた」。でも、抱いても抱いても、こぼれてくるもの、あふれてくるものがある。それが「書き込み」となって、そこにある。
 読んだ人の「祈り」(決めたこと)がそこに残っている。本は、読んだ人の「祈り」を抱いたまま、次から次へと人をわたっていく。
 「祈り」が引き継がれていく。

 詩の最終行。

(いかなる指が、そこをなぞったのだろう)

 こう書きながら,沢田の指もまた、そこに書かれている「文字」を、「祈り」をなぞっているのだろう。声に出さず、「祈り」を固く抱きしめるように。




*

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詩集 ねいろがひびく
沢田 敏子
砂子屋書房
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(62)

2018-09-08 09:55:03 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
62 画家たちに

 ギリシアの芸術と言うと、彫像を思い出す。絵画は、壺に描かれた絵くらいしか思い浮かばない。画家がいなかったのか。描いたけれど、失われたのか。
 高橋は、こう書いている。

その作品が跡形なく滅び亡せたがゆえに ギリシアの画家たちよ
あなた方を讃えよう 讃えるこれらの言葉も消えて無くなれ

 失われたらしい。何に描いたにしろ、布や木は形を失いやすい。色も褪せるだろう。それでもひとは描かずにはいられない。そう認めた上で、高橋はこう書いている。

男神 女神 若者たち 少女たちの彫像を残した彫刻家より
描いたすべてを喪われるに委せた画家たちのほうが 美に叶っている
この世の美は仮のもの その彼方にある真の美をこそ見つめよ

 美は描いたものの彼方にある。だから絵は失われてもかまわない。描く瞬間に見つめている、いま、ここにないものこそが美だからである。「美の定義」に叶う。
 この「叶う」という動詞がおもしろい。「一致する」、「望み通りになる」ということだが、そのとき「ふたつ」のものが存在する。
 「一致する」ためには「ふたつ」以上のものがないと「一致する」ということは起きない。また「望み通りになる」というのは、「対象」とは別の存在(別の人間)が「望む」のである。
 「一致」ということばとは裏腹に、そこには「一致しない」ものがあるという現実(事実)がある。
 そうだからこそ、「真の美をこそ見つめよ」と書いた後、詩は急展開する。

そうくりかえし言う智者の言葉さえ 真実へ到る道への躓きの石

 「真の美」を見つめる(想起する)ということは、「真の美(真実)」がいま、ここに存在していないと認めることであり、同時に「真の美(真実)」は永遠に存在しないと認めることだ。
 「真」は「想起」のなかにしかない。そして「想起する」という動きは、ことばになって動く。だからこそ「言葉も消えて無くなれ」と高橋は言わざるを得なくなる。
 ただこの「論理」は「詭弁」に似ている。技巧的だ。古今、新古今のことばを動かしている「美」のようなものに似ている。私にはギリシアとは違うもののように感じられる。



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高橋睦郎『つい昨日のこと』(61)

2018-09-07 12:25:09 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」

61 曙の指

そこで せめて「曙」に 枕詞「薔薇色の指持つ」を与えた

 「与える」という動詞が強い。「呼ぶ」「名づける」に通じるのだが、ことばはすべて自分を「与える」ことなのだ。「与える」ことでいっしょに生きる。
 それは単に「与えられた」ものといっしょに生きるだけではなく、そのことばを聞いている人ともいっしょに生きる。聞いている人といっしょに生きるために、「与える」のだ。「与える」ことで、聞いている人を、そこへひっぱっていく。
 このとき、共生は共犯にかわる。

 しかし、高橋は、こうつづける。

その指とて 見る間に爪先に青黒い泥をためた歪な指に
むしろ はじめから病気の指なのだ と知っていたからこそ

 私は高橋のことばにいつも「死の匂い」を感じる。
 死は絶対的なものである。あるいは超越的なものである。それが「ある」ことを私は知っているが、体験したことはない。いつでも「他人」のものであって、私のものであったことがない。
 でも、高橋は、何らかの形で死を体験している。
 「知っていた」ということばが高橋の象徴する。
 高橋はすべてを体験ではなく、ことばで「知る」。ことばが動かしている「事件」を「事実」と高橋のことばを交流させる。高橋は「現実」ではなく、「ことば」を発見し、「ことば」を知る。
 ことばはたいていの場合、死んだ人のことばだ。死んだ人から、ことばを学ぶ。それは、ことばのなかに死を発見し、知るということにひとしい。
 この詩に書かれていることも、高橋はすべて「知っていた」。
 「知」を共有し、「知」の共犯者として、高橋は生きている。




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鶴亀算

2018-09-07 10:34:57 | その他(音楽、小説etc)

 鶴亀算。鶴と亀が合わせて7匹(羽)。足の数は24本。鶴は何羽? 亀は何匹?
 こういう問題を解くとき、小学校低学年では「鶴亀算」をやる。
 全部鶴だと仮定する。そうすると12羽になる。ここから7をひく。残りが5。5が亀の数。残り2が鶴。5×4+2×2=24。

XとYをつかう方法もある。Xが亀、Yが鶴なら。
X+Y=7と、4X+2Y=24、Y=7-X
4X+2Y=24 のYにY=7-Xをあてはめて、
4X+2(7-X)=24という式に変換する。
4X+14-2X=24
4X-2X=24-14・・・・2X=10・・・X=5 
いわゆる「連立一次方程式」だね。

 で、何がいいたいかというと。

 最近の多くのひとは、こういう計算を自分でしない。
 「鶴と亀が合わせて7匹(羽)。足の数は24本。鶴は何羽? 亀は何匹?」という問題に出合ったら、それをそのままネットで検索する。答えは亀5匹、鶴2羽と出ている。それをそのまま自分の答えにしてしまう。途中を省略する。つまり、考えない。

 これからが問題。
 「鶴と亀が合わせて7匹(羽)。足の数は23本。鶴は何羽? 亀は何匹?」そういう質問だったら、どうする? 
 いくつかの答えがあるだろうと思う。私は、とりあえず、二つくらいを考える。
(1)先生、この問題間違っています。ひとは誰でも間違えるからね。
(2)一匹の亀が足を一本なくしていた、ということも考えられる。現実は、すべてが知っている通りにはできていない。

 必要なのは「答え」を出すことではない。
 疑問を持つこと。考えること。
 きちんと用意された質問にはいつも「答え」がある。それは誰が解いても同じ答えになる。
 でも、現実は「用意された質問」ではできていない。
 そのとき、どうやって考えるか。
 ネットに「答え」なんか、載っていない。
 ほんとうの「問題」はいつでも個人的(個別的)で、「答え」も個別的だからだ。

 「完成された答え」を探してきても何の役にも立たない。それは「他人の答え」。いいかえると「他人にとって都合のいい考え」。現実では、いつも自分で「答え」を引き受けるしかない。
 
 こんなふうに考えてみよう。
 ペットに亀を飼っている。そのうちの1匹は事故で片足をなくしてしまった。そのとき、その亀は、あなたにとって亀ではないのか。もしかするといちばん大事な亀かもしれない。その1匹のことを「排除」して、「現実」を考えることができる?
 もしだれかが、「足が一本足りないから、それは亀じゃない」と言ったら、あなたはどう思う?
 どうやって「現実」を引き受ける?

 論理がずれている?

 いや、私は「ずらしている」のだ。「ずらした部分」に私の言いたいことがある。




追加すると、こういうこと。
先生、私は家で亀を飼っています。
一本足がないんです。
でもとても大切な亀なんです。
この亀のために、「鶴と亀が合わせて7匹(羽)。足の数は23本。亀の一匹が事故で足をなくしました。でも、いっしょに遊びたいと言っています。鶴と亀は、何匹(何羽)かな」という質問をつくってもらえませんか?

この問題は「算数」を超えている?
でも「現実の算数」は、常に「頭の算数」を破っている。
破れ目に、どうやって「死文の算数」を組み込ませるか。
これが重要。

あらゆるところに「現実の問題」があふれている。
自分にとっての「事実」から「現実」を見つめないと、何も始まらない。



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高橋睦郎『つい昨日のこと』(60)

2018-09-06 08:27:29 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
60 ディオティマ たち

二千五百年後の私にも マンティネイアの婦人がいた
それも一人ではない 人生の節目節目に異なる貌で
登場しては そのつどエロスについて教えてくれた
当然エロスにもそのつど異なる貌 その変貌こそが
エロスの本質なのだ といまならわかる このいのちも

 「59 エロス頌」の続篇である。
 「変貌」は「変貌する」と動詞にして読んでみる。いまとは違う「異なる貌」(「エロス頌」では「異形」と書かれていた)に変化する、と。
 この「変貌する」という動詞がこの詩のキーワードだろうか。
 「そのつど」という副詞の方が重要だ。
 「そのつど」は「節目節目」を言いなおしたもの。「節目」というのは「切断」であると同時に「接続」であり、「終わり」であると同時に「始め」でもある。
 そこには「始まる」が含まれている。
 「始める」は「立つ」でもある。「出立(する)」ということばがある。「出発(する)」にひとしい。
 そして、この「そのつど」の特徴は、繰り返しである。「繰り返す」という動詞が含まれている。しかし、同じ繰り返しではない。そのつど、違う繰り返しである。「変わる」を繰り返すのだ。
 「変貌する」の「変わる」は、新しく生み出し続ける。あるいは生まれ変わるるのである。
 「繰り返す」ではなく、「そのつど/生まれる」と動詞を読み替えた方が、高橋の思想(肉体)に近づくだろう。
 恋をするたびに、ひとは生まれ変わる。恋の相手が複数なら、恋する高橋自身も複数である。
 「ディオティマ」ではなく、一呼吸おいて「たち」という複数をあらわすことばがつづいている。高橋は「高橋 たち」になる。新しい「エロス」自身に高橋は生まれ変わる。それを可能にするのがギリシアだ。





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高橋睦郎『つい昨日のこと』(59)

2018-09-05 08:24:03 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
59 エロス頌

 「ギリシアの神神の代表」はだれか。高橋は「エロス」という。エロスを定義して、こう書いている。

天地開闢の卵から 孵ったという
恐ろしい鳥のかたちの 異形のもの
この怪生の力によって すべては立つ

 「恐ろしい」は「異形」と言いなおされ、さらに「怪生」と言いなおされる。「怪生」は、自然ではなく、自然を超えた形で生まれるということだろう。
 私たちが知っている自然な「誕生」ではない。超越的な誕生によって存在するもの。
 この「怪生」は、さらに「力」と言いなおされている。「生まれる」という動詞だけでは不十分なのだ。「生まれる力」と、高橋はもういちど「名詞」にもどしてとらえようとしている。
 「生まれる」という動詞を動かしているものに、「力」という名前を与えることで、力をつかみ取ろうとしている。形のないものに「名」を与えることで、存在にしてしまう。
 それ以上に注意を払わなければならないのは「立つ」という動詞だろう。「エロスの怪生の力」によって「立つ」。「生まれる」だけではなく、さらに「立つ」のである。
 「立つ」は立ち上がる。「立つ」は立ち現れる。他のものから抜け出す。違った存在、特別な存在になる。
 「立つ」ことで「名」が与えられるのか、「名」が与えられることで「立つ」(立ち上がる/立ち現れる)のか。
 これは区別がつかない。同時に起こることだろう。

 無からふいに立ち上がってくるもの。それに出会う。そのとき、高橋もまた「立っている」。「立ち/向かう」。戦いと和解。そこに「エロス」動く。




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 松岡政則『あるくことば』(3)

2018-09-04 09:20:49 | 詩集
 松岡政則『あるくことば』(3)(書肆侃侃房、2018年09月01日発行)

 もう一度、松岡の詩について書くつもりでいた。しかし、書く前に愛敬の詩について書こうと思った。実際に、きのう、書いた。で、愛敬の詩の感想を書いてしまうと、まだ書くつもりでいたことがあまりなくなった。愛敬の詩について感想を書きながら、どこかで松岡の詩の感想を書いていたのかもしれない。
 松岡の詩については、しばしば書いているので、何を書いたかもよくわからなくなる。すでに書いたことかもしれないし、書こうと思っただけで書かなかったことかもしれない。私は書くと、書いたことをほとんど忘れてしまう。書きながら考えているだけなのだ。結論など、私は信じていないから。

 詩集のページの角を折った箇所がいくつもある。そのひとつ。「これからのみどり」。

ときどきつよい訛りで叱られたくなる、
そういうからだだった

 この行は、覚えている。でも、何を書いたかは覚えていない。聞いた声が肉体の中に入ってきて、松岡の肉体を内部から鍛え直す。「叱る」ということが、そんなふうに具体化する。きっと、他人の声で自分の肉体を鍛え直すときの力、その動き方を覚えているのだろう。
 で、その詩のなかに、こんな行がある。

みたことはからだのどこかにのこる
でもだいじょうぶ
こうやってあるいておりさえすれば
五月のまことがふれにくる

 ここは覚えていない。覚えていないけれど、今回、ここに私は棒線を引いている。ページを折るだけではなく、棒線を引いているのは、何か書こうと思ったことがあるからだ。何を書きたかったのか。
 「からだのどこかにのこる」の「のこる」だな、と思う。
 この行は「みたこと」と書いているが、からだのなかに残るのは「みたもの」とはかぎらないだろう。「聞いたこと」も残る。そして「聞いたこと」は、もしかしたら「声」かもしれないと思う。たとえば「つよい訛り」のその「訛り」というよりも「つよさ」。また「意味」でもない。「叱られた」ときの「叱る」、その「叱りのつよさ」。内容(意味)以上に「つよさ」が大事なのだ。「つよさ」によって、人間は、ことの大事さを知る。「意味」はあとからやってくる。「意味」は、あとで納得できるものである。
 この「つよさ」とは「まこと」と言いなおされていると思う。「まこと」とは「ほんとう」ということだが、「ほんとう」というのは人それぞれによって違う。「意味」はひとそれぞれによって違う。何か共通するものがあるとすれば、「意味」ではない「つよさ」であり、それが「まこと」だ。
 あ、こんなことは、いくら書いても抽象で終わってしまうか。

 で。(と、私は突然、飛躍する。)

 私はこの「叱る」と「つよさ」、「つよさ」と「まこと」を「ありがとう」という詩につなげて読む。「ありがとう」は病気のつれあいの髪を洗ってやる詩。この詩は、私は大好きだ。最初に読んだときに、その感想をブログに書いた(と思う)。何を書いたかは、やはり思い出せないのだが。
 髪の洗い方あまりにもうまいので、つれあいが、妙ないちゃもんをつける。松岡を叱る。

どこかでおんなの髪を洗ったことがあるのだろうという
だまってないでなんとかいえという
お國はこわれているのに
わたしはしんそこうれしくて
のどのあたりがいっぱいで
もう返事すらできないでいる
(うごくと、濡れるよ

 ここは、涙が出るほど美しい。
 「叱る」とき、叱る人はこころを動かしている。「本気」である。「ほんとう」が動いている。この詩の場合、それは「嫉妬」であり、「誤解」かもしれない。でも、「誤解」してでも「叱りたい」。その欲望(?)の奥には、松岡が好きだという「ほんとう」が動いている。「誤解する力」が生きている。
 「ほんとう」が動くとき、人は誰でもその人が好きだから「ほんとう」を動かす。それがときには「叱る」ということになる。「声」が「肉体」のなかまで入ってきて、問いただす。その「声」は「つよい」。「ほんとう」の「つよさ」で動いている。
 病気なのに、自分では髪も洗えないのに、まだ「つよさ」をもっている。そして、その「つよさ」を松岡を「叱る」ためにつかっている。
 もっと、ほかのことのために「つよさ」をつかうべきなのに。

 つれあいではなく、(つれあいであってもいいのだが)、誰かに叱られた記憶。その時の声の「つよさ」、そのひとの「ほんとう」が肉体の中に入ってきたときのことが、松岡の「肉体」のなかに「残っている」。残っているから、「つよさ」を「つよさ」として受け止めることができる。

 この「つよさ」に反応できるのは「肉体」そのものである。「しんそこ」と松岡は書いている。「心底」かもしれない。けれど「心」というような抽象的なものではない。もっと「肉体」そのものである。「心底」と書くと「意味」になってしまう。だから「しんそこ」と「意味」を引き剥がして書いている。さらに「しんそこ」を「のどのあたり」と言いなおしている。「こころ」は、いま「のどのあたり」で動いているのだ。「のど」は「声」を出す器官である。その「声」を出す器官を「こころ」がふさいでしまっている。だから「返事すらできない」。

 「声」ではなく「聲」と、松岡は書いている。そして「聲」の出てくる詩はたくさんある。この「聲」を松岡は「肉耳」で聞いている、というようなことを私は以前に書いたと思う。「肉眼」ということばがあるように「肉耳」というものがある。「心眼」ではなく「肉眼」で「肉体」そのもので「事実」に触れるように、「肉耳」で「事実(ほんとう)」というものを「肉体」のなかに取り込む。
 松岡は、「肉耳」の詩人(思想家)だと、私は感じている。








*

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「詩はどこにあるか」7月の詩の批評を一冊にまとめました。
艸の、息
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(58)

2018-09-04 08:30:26 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
                         2018年09月04日(火曜日)

58 本能と修練

 彫刻を見ての感想である。

鹿を襲う獅子 獅子に襲われる鹿 と言いなおそうか
鹿を襲う昂りがあるなら 獅子に襲われる悦びもあるはず

 二つは等しく美しい、と高橋は言う。

私たちはあるとき襲う者であり べつのときには襲われる者
神のごとき彫刻家は知っていた 彼の魂以上に彼の腕が
左右いっぽんいっぽんの指先が 本能と修練とによって

 一行目の「言いなおす」という動詞が詩の出発点である。あらゆることは「言いなおす」ことができる。どう言いなおすかが「思想」である。
 「襲う/襲われる」という動詞は、「昂り/悦び」という感情の動きとして言いなおされる。
 彫刻家の仕事も、彫刻家と石という自他の関係で「襲う/襲われる」を言い直しができるだろう。
 彫刻家は石を彫るのではない。石に別の形を与えるのではない。石のなかにはすでに彫り出されるものが隠れている。彫刻家は隠れているものを表に出すだけである。彫っているのか、導かれて彫らされているのか。感情の交錯、鹿の恐怖と悦びのような、区別のつかないものがある。
 しかし、高橋は、そう簡単には言いなおさない。
 「襲う/襲われる」という自他の関係を、彫刻家ひとりの存在の中で反芻する。「魂/腕(指先)」という二元論でとらえ直す。
 「魂」は理想の形を思い描く。「腕(指先)」は現実には存在しない形を具体化するために動く。「襲う/襲われる」は「理想/具体」と言いなおされている。
 さらに刺戟的なことに、「理想/具体(現実)」は「本能/修練」と言いなおされることである。
 高橋にとって「理想」とは「本能」なのだ。
 この瞬間、高橋はギリシア哲学にぐいと近づく。
 世界に起きていることがら、自他の問題を、人間存在の、個人の問題としてことばとして反芻し、そのことばの運動にひとつの形を与える。
 高橋は「ことばの運動」を生み出すのだ。






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高橋睦郎『つい昨日のこと』(57)

2018-09-03 11:00:29 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
57 断片

 「56 断片を頌えて」の続篇。ただし、この詩で取り上げられるのは彫像ではない。

引用によって僅かに残された断片は
かつて在った完璧な詩の いわば精髄
それが放つ光は後世を惹きつけて止まない

 「精髄」であるから、他の部分が失われても残ったのか。
 そうとは言えないだろう。
 ごく普通に見えることばであっても、それは「完璧な詩」へとつながっている。その一部であったのだから。「断片」はいつでも「精髄」なのだ。
 この詩で問われているのは「引用」と「精髄」の関係である。いや、「引用」とは何かということである。
 「引用」を高橋は、こう言いなおしている。

そこから新しい詩が始まらなければならない
詩の生命力とは 絶えず始まりを産みつづけること

 「引用」は何かを引いてきてつかうということではない。「始める」ことである。そこにあるものを「到達点」ではなく「出発点」としてとらえ直すこと。
 「断片」は詩にしろ彫像にしろ「完成形」の一部である。しかしそれは「完成形」を到達点と見るから「断片」という定義になるだけである。「完成形」はどこから始まったのか、誰も知らない。「断片」が出発点であったかもしれない。
 残された「断片」を見て、後世の人間は「完成形」を夢想する。同じように、それをつくった人も「断片」にひそむ力を出発点として「完成形」を目指したかもしれない。「事実」は、わからない。
 そして、ひとつの具体的な「断片」から出発するとしても、その「完成形」はひとつとはかぎらない。
 「完成形」がどうであってもかまわないとまではいわないが、問題は「始める」ことである。「断片」としての「事実」。そこから始める。始めることによってできた部分、そこからさらに始める。
 この「始める」を高橋はさらに「産む」という動詞で言いなおしている。
 詩ではなく、これを哲学に応用すると、ソクラテスの「産婆術」になる。ギリシアは「産む」文化である。



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愛敬浩一「冬の始まり」

2018-09-03 10:29:40 | 詩(雑誌・同人誌)
愛敬浩一「冬の始まり」(「詩的現代」25、2018年06月07日)

 松岡政則『あるくことば』は一休みして、愛敬浩一「冬の始まり」について。
 「重なる」ということばについて書いていたとき、ふと、思い出したのである。どこかで、「重なる」と通じることばを読んだことがあるぞ、と。
 何だったか思い出せないが、不思議なことに本を開くと、そういうページ、そのことばはふいに目の中に飛びこんでくる。「頭」が覚えているのではなく「目」が覚えている。手に取った本の厚み(重さ)とか感触が、そういうものを引き寄せてくれる。ことばにならなかったことがばが、急に動き始める。
 「冬の始まり」は、こう始まる。

スティーブン・キングは言っている
「われわれは、現実の恐怖と折り合っていくための一助となるべく
ホラーを生産しているのだ」と。
そうだ
私が未だ詩などを書いているのも
確かに「現実の恐怖と折り合っていくため」かもしれない。

 繰り返される「折り合う」という動詞が、松岡の書いている「重なる」と通い合う。「折り合う」というのは「折って、合わせる」であり、この「合わせる」と「重なる」はほとんど同じだ。「折って、重ねる」。ただ「重ねる」のではなく、「折って」がある方が妙に「肉体」を刺戟する。おもしろい。「折る」というのは、何かしらの「無理」がある。そのままではなく「折って」、重ねる。「折る」方に、無理というか、工夫というか、相手に合わせるような力が働いている。
 では、この「折って、合わせる」(折り合う)というのは、具体的にはどういうことか。愛敬は、詩の中で「何を」折って、「何に」合わせようとしているのか。これはなかなか説明がむずかしいのだが。
 詩は、こうつづいている。

あの、震災の後の
あの数年前の
群馬の平野部でも大変だった、大雪の時
父はまだ生きていた。
あの日
後にも先にも
群馬の平野では
あんな大雪を見たこともなかった。
それでも
あの大雪を共に体験できたのは
良かったのかもしれない。
いやいや、もっと禍々しい物語が必要だ。
あの大雪には何か秘密がなかったか
雪の重さで
実家の
裏の物置が傾いたのには
何か別の意味がなかったか。

 父の死と大雪を重ね合わせようとしている。もちろん、父の死と大雪というのは完全に別なものである。そういうものが重なるわけがない。だから、重ねるために、何かを「折る」のだ。
 何かって、何?
 わからないけれどね。
 「禍々しい物語」か。大雪を、冬の現象ではなく、違うものとしてとらえる。大雪の物語をつくりだす。その物語のなかにあるものを「折って」、父の死の方に「合わせる」。
 こういうことって、「論理的(科学的?)」にはできないことなのだけれど、「心情」というのは論理でも科学でもないからね。

倒れた日の午前中にも、車を運転していたという父
いやいや、父は死んだ後でも運転すべきだった
職場から病院へ駆けつけた私に
「もうダメかもしれないって」と言った母の顔が
まったく別の恐怖に変わるように

 あ、ここに「恐怖」が出てくる。
 父が死ぬかもしれない。それは母にとっては、夫が死ぬという「現実の恐怖」である。それを受け入れる(それと折り合いをつける)というのはむずかしい。母親は、自分の恐怖を「折って」しまって、消してしまわないと、いけない。「死」が恐怖なのではなく、「死んでしまうかもしれない」が恐怖である。その気持ちがあるあいだは、父は死ねない。逆に言うと、父が生きているあいだは、母は夫は死ぬかもしれないという恐怖と向き合い続けている。恐怖が父を生かしている。というと、言いすぎになるが、何か、切り離せない力で「死ぬかもしれない(恐怖)」と「まだ生きている」がつながっている。これを「折って」、たたききらないことには「死」はやってこない。
 うーむ。

「もうダメかもしれないって」と言った母の顔が
まったく別の恐怖に変わるように
その時こそ
死んだ父が起き上がって
また、大雪を降らせ
我々を恐怖のどん底におとしいれても良かった。

 まあ、こういうことは起きない。
 で、「折り合い」がついたのか、つかないのか、わからないまま、父は死ぬ。
 そして。

三回忌も済んだのに
ごく普通に死んだだけなのに
身近な者が死ぬことが
こんなにも重く
いつまでも終わることもなく
いつまでも、いつまでも
腹の奥底の方で
疼くような
痛みが続き
ホラーよりもキツイなんて
考えもしなかった。
ああ、そうか
それが「冬の始まり」ということだったのか。

 愛敬は、彼自身の「折り合い」をつけようとしている。(母親は折り合いがついたかどうかわからないが。)大雪と父の死を結びつける。大雪を思い出すということで、父の死を記憶するということで、「折り合う」のである。「折り合う」ということは、その時を「忘れない」(覚えておく)と言いなおされている。
 これは、父の死と雪の日を「重ねる」ということでもある。でも愛敬は「重ねる」ではなく「折り合う」ということばを選んでいる。この微妙な違い、「折り合う」ということばをつかいたいというところに、愛敬の「肉体」が出ている。
 「折り合って」、そのあとどうなったか。恐怖は消え、かわりに「疼き」と「痛み」がやってきた。愛敬は「腹の奥底」と書いているが、それは「肉体」そのものに刻みこまれる。そういう「肉体の犠牲」が「自己を折る」ということであり、それによって死は現実として受け止められていく。「肉体」のなかで共存する。
 これ以上は、説明できない。私のことばは動いていかない。ただ、ここまで書いてきて、松岡と愛敬は、「肉体」そのものとして違った存在として生きているという「手触り」(手応え?)のようなものが、私の「肉体」のなかに残る。愛敬と松岡がたとえ同じことを書いているのだとしても、私の「肉体」には別々の「肉体」として残る。「重なる」と「折り合う」というふたつの動詞として、残る。
 
 「折る」というのは印をつけることでもある。枝折りは山歩きのとき道に迷わないように歩いたところにある枝を折って目印にする。私は本を読みながら、ページの角を折る。(ドッグイヤーをつくる)。それはやっぱり覚えておくためのものである。ドッグイヤーの場合は、枝折りと違って、紙を「折り合わせる」ということでもある。
 あ、こういうことは愛敬の詩とは関係ないことなのだが。
 でも、関係ないからこそ、実はほんとうは関係している。
 「肉体」の動きというのは、無意識のうちに「肉体」のなかに何かを積み重ねる。それが「動詞」のなかに反映している。それを感じるとき、私は「思想」に触れた気持ちになる。








*

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外国人労働者の問題点(東京医大の入試操作とつなげて考えよう)

2018-09-03 00:07:30 | 自民党憲法改正草案を読む
外国人労働者の問題点(東京医大の入試操作とつなげて考えよう)
             自民党憲法改正草案を読む/番外223(情報の読み方)

 2018年09月02日の朝日新聞(西部版・14版)の4面。

外国人労働者 遠い「共生」

 という見出しで、問題点を整理している。なぜ、日本が外国人を「労働者」として完全に受け入れないか。移民として認めないか。「受け入れ長期的視点を」という見出しのある部分に、こう書いてある。外国人を労働者として受け入れると、最初は税収増(企業がもうかる)というメリットがあるが、長期的に見ると住宅や教育などにかかる社会的コストの方が上回る。実習制度がはじまる前年、1992年に旧労働省がそう試算した、と書いてある。

 5-10年働き、家族を呼び寄せ学齢期の子ども2人を持つと、メリットの4・7倍、年1兆4243億円のコストが発生する。扶養家族が増えると税収は下がり、住宅費や教育費などが必要になる。外国人が単身で働くうちはメリットが4倍にのぼる。実習生に家族帯同が認められなかった背景には、この試算がある。

 「扶養家族が増えると税収は下がり」というのは、扶養家族手当てを企業が支払うので、その分だけ法人税(?)が相殺されて少なくなる、ということだろうなあ。外国人が支払う税金(所得税)そのものは減らないから。ようするに、企業がもうからなくなる。だから、家族といっしょではだめ、単身で、という冷酷な制度になった。
 住宅費、教育費というのも、外国人が支払う「家賃」や「教育費」のことではないなあ。住宅を整備しないといけない、外国人向けの教育を整えないといけない。それに金がかかる。朝鮮学校の教育費は、民主党の時代に「無償化」されたが、自民党になって「無償化」は取り消された。いろいろな国からやってくる人の子どもの教育はどうするか。どう試算したか知らないけれど、金がかかる。だから、金がかからないように、「単身」に限定し、なおかつ日本に定住しないように、追い返す。
 これを「実習制度」という「きれいなことば」で隠している。
 傑作なのは、次の部分である。

 「そのコストをだれが負担するのか。国か地方か、それとも企業か。結論は出ず、限定的な受け入れに決まった」。当時を知る旧労働省幹部は振り返る。

 国も地方も企業も、外国人労働者がいないと社会が動かないことを認識している。でも、金は払いたくない。「生産性」重視の思想がはびこっている。
 さらに、こうも書いてある。

 当初は製造業を中心に17職種だけだったが、屋上屋を架すように制度は拡大され、現在では農水産業など77業種に拡大。建前とは違って事実上、単純労働の受け皿になっている。非正規社員と同じく景気変動の波にあわせた雇用調整に使われ、10年前のリーマン・ショックでは実習生もリストラされた。

 むごいものである。「奴隷制度」とも批判されたので、これを緩和して「在留資格」を創設するというのが安倍の狙いだが、その制度でもやっぱり家族の帯同は認めないという。
 帰国した外国人がこういうことを自分の国で語り始めたらどうなるだろう。もう日本には誰も来なくなる。日本はもう滅びているとしかいいようがないが、それを加速させるのが安倍政権である。
 安倍にとって都合のいいことだけを並べ立て、不都合は隠す。優遇されたいなら、安倍の「友達(支援者)」になれ、と要求する。優遇されるのは、いっしょに寿司を食い、ゴルフをするほんの一握りの「友達(支援者)」に過ぎないのに、みんな「自分こそは友達」と目の色を変えている。総裁選で安倍に投票したって、「大臣」になれるのはごく一部。ほかの国会議員は「干される」。石破と少しも変わらないのに、そのことに気づいていない。
 あ、脱線してしまったか。

 ちょっと話を元にもどすと。
 外国人に対して、労働力としてなら歓迎するが、家族同伴は国(地方自治体)の出費がかさむからだめというのは、よくよく考えると、こういうことにならないか。
 いま、安倍は、「働き方改革」という名の元に女性を働かせようと躍起になっている。一方で、少子化対策のために、「子供を産め」とけしかけている。子供を産めないのは「生産性が低い」そうである。
 しかし、働く女性が次々に妊娠し、出産する。出産休暇、育児休暇をとる。子どもが増えて学校を造らなければならない。教師も必要になる。コストがかかる。そうなったら、どういうのだろうか。
 女性は、妊娠・出産にともなうデメリットが多い。女性を雇うな、ということにならないか。重要なポストに女性を登用するな、ということにならないか。実際、東京医大では、そういう理由で女性の合格率を操作していたのではないか。
 日本人であっても差別されるのだ。女性は実際に差別されている。
 外国人実習生の問題は、単に外国人実習生の問題ではなく、日本の労働システムの問題である。労組は外国人労働者と連携し、日本の労働システムそのものを変える運動をしないといけない。
 いまは、そのチャンスである。
 でも、連合なんて、「経営者予備軍」(自民党支持予備軍)に過ぎないから、自分の「権益」を守ることしかしない。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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松岡政則『あるくことば』(2)

2018-09-02 16:23:29 | 詩集
松岡政則『あるくことば』(2)(書肆侃侃房、2018年09月01日発行)

 「島のくらし」に美しい一行がある。

ひとの目、というよりも土地そのものにみられている

 「土地」が松岡を見ている。「土地」に松岡は見つめられている。これは島では人と土地が一体になっているということか。
 というよりも。
 「土地」から、ある瞬間瞬間に「人」があらわれるということだろうなあ。人は「土地」から生まれるというが、ある瞬間瞬間に、人が生まれてくるのだ。
 人だけではない。

地蔵堂そばの樟の巨木
そこからまっ黒な夜がはじまる

 土地から樟が生まれてくる。生えてくる。これは自然の力。けれど、その一本の木が樟になるというとき、そこには自然の力が働いているだけではない。
 松岡が樟を見る。そのとき樟は生えてる。生まれてくる。そしてあっと言う間に巨木になる。「そこからまっ黒な夜がはじまる」と松岡は書いているが、松岡が一本の木を見つめ、それが樟であるとわかる、巨木であると知るとき、その瞬間に世界が「はじまる」。そして、その世界によって松岡自身がとらえ直される。松岡もまた「生まれ」、そこから松岡が「はじまる」。

炎昼だろうがのぼりたくなる坂道だ
デッパリを斫り落として
石のツラを作っているのがいる
からだの使いかたがどこか父のそれと重なる
       (注・「斫り落とす」の「斫」を松岡は石ヘンに「斥」と書いている。
          私のワープロはその文字を持たないので代用した。)

 「はじまる」は「重なる」と言う形で言いなおされている。復習されている、というべきか。復習される、言い直し、自分の肉体をそこにあるものに重ねるとき、世界が始まる。
 この詩では、実際に父の姿と「重なる」のは「石のツラをつくっている(人/男)」だが、その「重なり」を意識するとき、そこには松岡の「肉体」も重なる。重なりを松岡は自分自身の肉体で復習している。復習したからこそ「重なる」と断言できる。
 もちろんこの「重なり」には「同一」のものと「異質」のものがある。だからこそ「始まり」でもある。つまり、それは「生み出す」こと、「出産」でもある。何かが「生み出され」、その「生み出された」ものによって、世界が「始まる」。世界は「統一」される。「始まり」から「始まる」世界だけが見えてくる。見えてくると同時に、「見られる」という逆の「重なり」もある。松岡の肉体は、世界(土地)によって、重ねられている。その不思議な「感じ」が「見られている」ということばのなかにある。

ヤカンの口からじかに茶をのんで
石垣をまもる者の務めだとわらう

 「じかに」はここでは直接的にはヤカンから茶碗に茶を注がずにという意味だが、それ以上に強い響きで迫ってくる。ここでは何もかもが「じか」なのだ。直接、肉体がつながる。あいだに何もいれない。間接的に「接続」するのではなく、「じか」に「重なる」。「じか」であることが「重なり」には大事なのだ。「生む」というのは、あるもののなかから、直接、じかに、何かを生み出すことだ。「はじまり」はいつも「じか」に始まるのだ。あいだに何も介在させない。
 「じか」を生きることが、生きるものの務めなのだ。

からだのどこかに石英の輝きを隠しもつ、
かつて島びとのだれしもが石工であっただろう
ひとごとのようで自分ごとなのだ

 「じか」は、「隠しもつ」という形で言いなおされ、「重なり」と響きあう。「隠す」とて、その何かの上に何かを「重ねる」。土地(島)から生まれた人は、その体の中に「石英」をもっている。それが島で生まれた人間の証拠である。石工であるということは、石を加工するだけではない。自分を加工する、つまり育てるということだ。道をつくるということだ。すべては「自分(肉体)」のことである。その「自分の肉体」というのは、「島の肉体(島という土地)」のことでもある。それは「重なって」いる。人は石を積むことで(石垣をまもることで)、「島になる」のだ。
 これが「いのち」の「はじまり」。世界の「はじまり」。

だいぶ下った道の岐れでふりむくと
おとこがまだこっちをみていた
かるく会釈をしたが返事らしきものはない
それがなんだ
どくどくと夏のいのち
くる日もくる日も坂をのぼるいのち
容赦のないいい夏だと思った
夏がこれほど夏であったためしはない物を言うな

 「じか」は「容赦のない」と言いなおされている。それが「世界」だ。肉体が直接つかみとり、肉体がそのなかで変わっていくしかない世界だ。
 「容赦のない」とは「ことばのない」でもある。「ことば」がないから「じか」なのだ。「物を言うな」は「ことばを言うな」である。

 いくつものことばが響きあい、交錯し、世界を生み出している。肉体を甦らせている。こういう「ことばの運動」を私は「思想」と呼んでいる。
 「西洋の現代思想」のさまざまなキーワードは「思想」というものではない。それは仮の「結論」である。「思想」にはただ「はじまり」だけがあり、「結論」はない。「はじまり」はただ延々と「途中」をつくるだけであり、その「途中」こそが「思想」である。「途中」を歩きつづけることだけが「肉体」を育てる。
 「結論」をふりかざす人は、いつでも「途中」を他人にまかせている。自分の「肉体」を動かしていない。
 松岡は、そういうことをしない。「肉体」を動かし、「途中」を語り続ける。






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高橋睦郎『つい昨日のこと』(56)

2018-09-02 14:10:39 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
56 断片を頌えて

 「54 海辺の墓」「55 美しい墓」と違って、この詩からは、私はギリシアを感じる。断片化した「胸像」を見て書いた詩である。胸像は木ではないから朽ちてはいない。また虹のように消えることもない。
 その断片を見ながら、高橋はこう書いている。

私たちは 残された部分から 在りし全体を
在りし全体を超えて あらまほしかりし完型を
想像する むしろ創造することに 導かれる

 もし高橋がほんとうに木の方が死を弔うのに「ふさわしい」と考えているのなら、石の胸像ではなく木の胸像を見たときにこそ、ここに書かれていることを言うだろう。
 それが木の像であっても、「残された部分から 在りし全体を/在りし全体を超えて あらまほしかりし完型を/想像する」と言えるだろう。
 そこにないもの(欠落したもの)を想像する、さらにそこから理想を創造するというとき、「素材」は問題ではない。想像する/創造するのは、人間の力である。石や木が運動するのではなく、人間が動き、石や木に形をあたえるのだ。
 ここにあるのも「事実」というよりは、むしろ「ことば」であるに過ぎない。
 ただしこの詩のことばは、ギリシアにしっかり根付いている。石の胸像を出発点としているだけではなく、「想起する」(しかも集中力を持って想起する)ということが、ギリシアの古典哲学そのものだからである。
 想起するとき、そこにあらわれる完全な姿(形)こそ、ギリシア哲学が語るものだ。

 ノミ後の残るギリシアの像の方がローマ時代の像よりも強いと言ったのは和辻哲郎だが、ギリシアの像には「完全な形」を夢見る集中力がある。それが「断片」にも生き残っている、と私も思う。








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松岡政則『あるくことば』

2018-09-01 12:16:50 | 詩集
松岡政則『あるくことば』(1)(書肆侃侃房、2018年09月01日発行)

 松岡政則『あるくことば』の「どこにいるか」に、こういう二行が出てくる。

あるくという行為は
ことばをすてながら身軽になるということだ

 これは、嘘である。松岡は、ことばを捨てずに、ことばを書いている。しかし、嘘ではない。矛盾なのだ。矛盾した「論理」でしか語れないことがある。矛盾はもともと論理のことばである。論理的には矛盾しているが、ここには矛盾していないものが隠れていることになる。では、何が隠れているのか。

お前を知っている、
という目を向けられ弱ったことがある
チョッカルをつつきながら生マッコリをやっていた
就職浪人街ノリャジンの屋台でのことだ
もう素顔などどこにもないのに
わたしはすっかり手遅れだのに

 ここに書かれていることは、最初に引用した二行と明らかに矛盾している。韓国の街を歩く。屋台で食って、飲んでいる。「ことばを捨てながら身軽になる」はずなのに、「弱ったことがある」と書いている。「身軽」ではなく、「身が重くなっている」。言いなおすと「動きにくくなっている」。
 ここに矛盾があるのだから、この矛盾を見つめれば、きっと隠れている矛盾しないものが見えてくる。

もう素顔などどこにもないのに

 という一行の「素顔」を手がかりに読んでみる。
 「素顔」とは何か。「つくった顔」ではないもの。「素の顔」。それはどうやったらあらわれるか。「つくった顔」を捨てることによって、あらわれる。「装い」を捨てることであらわれる。
 「ことばを捨てながら身軽になる」は「装いを捨てながら身軽になる」と言いなおせるかもしれない。
 たしかに「装い」(装うということ)を捨ててしまえば、身軽になる。「素」をさらけだしてしまえば、気楽になる。「装う」ということをしなくてすむという気楽さだ。「精神的な」気軽さだ。
 「装った顔」だけではなく、「素顔」さえも捨てて、つまり「素顔」が何であるかということも忘れて、松岡は韓国の街を歩いている。この完全な「無防備」を松岡は「すっかり手遅れだ」と言いなおしている。もう、「装う」ことはできない、と。「お前を知っている」と言われてしまった。「目」で、言われてしまった。もう、その「目」から逃げられない。
 どうなるのか。どう動くことができるのか。

ハラボジはその目をゆるめてくれない
ひとはみなどこか演じている
いま見られている、を生きている
カンジャンケジャンに吸いつきたくなる
イゴ ジュセヨ(これください)

 「目」に向き合うのは、ことばではない。「肉体」そのものだ。
 ハラボジは、「お前を知っている」と「目」で語る。だがお前の(松岡の)「何を」知っているのか。
 「肉体」を知っているのだ。そして、このときの「肉体」とは「肉体」の動き方のことである。松岡は屋台で飲んで、食っている。その「食い方」「飲み方」を知っている、と語るのだ。
 「方」というのは「装い」である。つまり、それは、まだ何かを隠している。「食うこと」「飲むこと」、欲望、本能を隠している。「食う」「飲む」という動詞は、まだむき出しの「素顔」になっていない。
 「お前を知っている」というのは、「お前は装って違うふりをしているが、私はお前のほんとうを知っている」という意味である。
 知られてしまって、あるいは知られることによって、松岡は、さらに「食う」「飲む」を刺戟される。松岡自身の「肉体」の欲望を知る。「装う」前の、本能、欲望が、「肉体」の奥から松岡を突き動かす。

カンジャンケジャンに吸いつきたくなる

 「吸いつきたくなる」。「食う」ではない。「食らいつく」でもない。噛まずに、すって(すすって)、飲み込んでしまう。「食う」と「飲む」が合体したような動きだが、「食う」でも「飲む」でもない「ことば」が松岡の「肉体」の奥から跳び出してきている。
 これが「ことばを捨てる」ということなのだ。

チョッカルをつつきながら生マッコリをやっていた

 でも「食う」「飲む」という「ことば」は捨てられていた。「やっている」(やる)という、生々しい「動詞」がそこに動いていた。(もちろん、「食う」「飲む」と言いなおすことのできる動詞である。)
 歩くということは「装ったことば」を捨てて、「ことばの装い」から身軽になることである。「装わないことば」の中へ「肉体」を投げ込むことである。「肉体」が「装わないことば」のままに動くことである。
 そう読み直すことができる。
 「肉体」そのもの、「肉体」の本能、欲望をそのまま「肉体」としてあらわす。「ことば」を必要としない。

イゴ ジュセヨ(これください)

 と松岡は言っているが、これは「ことば」であっても「ことば」ではない。そんなことは言わなくても、「肉体」で伝えることができる。指しながら「これをくれ」と言ってもカンジャンケジャンに吸いつくことができる。いきなりカンジャンケジャンに吸いつき、ハラホジに怒鳴られたら、そのあとで金を払う、ということだってできる。
 そのときの「肉体」は、「装った顔/素顔」という対比を超越している。むき出しの「肉体」そのものである。「素顔」でさえなくなる。生きている「いのち」そのものになる。
 この「肉体」そのものになることを、松岡は、こんなふうに言いなおしている。

SNSに上げないと体験したことにならないらしい
そこにいる
不謹慎でごめん不適切でごめんそこにいる
なにがそんなに許せないのかわたしら
あるくしかなかった
いつもあるき回るしかなかった
だいじょうぶ
わたしの消しかたなら知っている

 「わたしを消す」、「装ったわたし」を消す。「素顔」になる。「素顔」さえも捨てる。ただの「肉体」になる。「いのち」になる。
 いつでも「いのち」になって、そこから「ことば」をもう一度生み直す。
 詩のタイトルは「どこにいるか」。それに答えるなら、松岡は「肉体の中にいる」「いのちの中にいる」ということになる。
 その「実況中継」として、詩が書かれている。



 「SNS」云々は、松岡にしては珍しい「批評」である。そういうことを書かなくても批評になっているが、今回は、そういうことも書きたかったのかもしれない。
 でも、そういう「現象批評」よりも、私は松岡の「肉体」そのものが強いと思う。もうしばらく松岡の詩を読み続けたい。(つづく)




*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(55)

2018-09-01 08:50:44 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
55 美しい墓

 「54 海辺の墓」の続篇。

すこしずつ忘れられ ついには無になる記憶には
朽ちない石より朽ちる木のほうが ふさわしい

 この石と木の対比、朽ちないと朽ちるの対比は、私にはなじみやすいが、ギリシア人もそう思うかどうか、あやしい。
 石の文化のギリシア人は、そんなふうには思わないかもしれない。
 高橋は、ギリシアではなく、日本を「復習」している。高橋の「肉体」にある日本がギリシアという場で動いている。ギリシアでなくても、アイルランドでも同じように動くかもしれない。言い換えると、この詩はギリシアを舞台として必要としているとは思えない。
 ここから高橋のことばは不思議な展開をする。「舞台」(土地)を無視して、ことばが勝手にことばを増殖させ、動き始める。
 石と木を「朽ちない」「朽ちる」という動詞を対比した上で、「朽ちる」という動詞のはかなさに重心を移したのに、「朽ちない」へと再び転換する。

だが もっと美しいのは朽ちるべき墓標もない墓
寄せては返す海が塚で ときに立ちあがる虹が墓標

 虹は「消える」が「朽ちない」(朽ちるわけではない)。ことばは「朽ちない」「朽ちる」から飛躍している。この飛躍を詩と呼べば詩になるが、「でっちあげ」でもある。つまり、このとき高橋は肉眼で虹を見ていない。ことばを動かして、ことばの中に虹を見ているだけである。
 美しいが、ああ、これは「嘘」だなあ、と思ってしまう。言い換えると、ギリシアで高橋が発見した「事実」とは感じられない。
 私は、ここで「古今和歌集」や「新古今和歌集」の技巧に満ちた和歌を思い出してしまう。消えてしまう虹を「朽ちない」「立ち上がる」ととらえ直す技巧的精神に。
















つい昨日のこと 私のギリシア
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