詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「私はそういうことは一度も言っていない」

2018-09-15 12:25:52 | 自民党憲法改正草案を読む
「私はそういうことは一度も言っていない」
             自民党憲法改正草案を読む/番外226(情報の読み方)

 2018年09月15日の読売新聞(西部版・14版)。安倍と石破の「討論」が載っている。「討論」になっていない。だいたい安倍の主張が

新しい国造りに挑戦

 というのだから、あきれかえる。「新しい」は初めて総裁選に立候補するときにつかうことばであって、三期目で「新しい」はないだろう。「新しい」という限りは、これまでの二期が間違っていたことになる。実際、間違っているのだが、間違っていたから「新しい」国へと方向転換するというのなら、どこが間違っていて、それをどう訂正するかを言わないといけない。
 安倍は不都合な事実を突きつけられると、「私はそういうことは一度も言っていない」と主張する。安倍の発言で一貫しているのは「私はそういうことは一度も言っていない」だけである。
 読売新聞には掲載されていないが、アベノミクスとトリクルダウンについて石破から問われたとき、安倍は「私はトリクルダウンとは一度も言っていない」と反論している。安倍のブレーンの竹中が言っただけだと言い逃れるつもりだろうが、ブレーンが言ったときに、それをその場で否定しない限りは安倍が言ったに等しい。TPPのときもポスターに安倍の顔と「TPP反対」と書いてあるのに「一度も言っていない」と主張した。ポスターに書いてあるだけというこだろう。「何も言っていない、まわりがそう決めたこと」というのが「お坊っちゃま」の考え方である。

 いちばんのポイントの「憲法改正」についてはどうか。
 記者とのやりとりで、答えている。

 --9条2項の削減論だったのではないか。変わったのはなぜか。
 安倍氏 政治家は学者でもないし、評論家でもない。正しい論理を述べていればいいということではなく、政策として実行し、結果を出していくことだ。自衛隊が誇りをもって任務を全うできる環境をつくっていくことは私の責任だ。

 ここでは珍しく「9条2項を削減するとは一度も言っていない」と主張していない。つまり、以前は「9条2項の削減論」だったことを認めている。そのうえで、「政治家は学者でもないし、評論家でもない。正しい論理を述べていればいいということではなく」と主張している。論理的に正しいかどうかは問題ではない、という考え方である。人間の行動を規制するものとして「論理」を認めない。「論理」よりも重要なものがある。何か。「誇り」である。「自衛隊の誇り」こそがいちばん重要だと述べている。
 「誇り」というのは個人的な感情である。自衛隊員がほんとうに「誇り」をもっていないのかどうか、私は知らない。安倍はどうやって自衛隊員が「誇り」をもっていないと判断したのか。根拠は示されていない。この発言は、単に「自衛隊が憲法に明記されないと、安倍の誇りが傷つく」という意味ではないのか。憲法に明記されていない自衛隊を指揮しなければならない状態になったとき、安倍の「誇り」が傷つく、ということだけではないのか。言い換えると、敵国から「安倍は憲法で明記されていない自衛隊を軍隊として指揮している。あれが日本の現実だ」と指摘されたら恥ずかしいと感じている(想像している)だけなのではないか。さらに踏み込んで言えば、「自衛隊を誇りをもって指揮したい」というだけなのだ。戦争をしかけて、自衛隊(軍隊)を指揮する。「私は絶対的な最高責任者だ、憲法に書かれているのだから」という「誇り」を持ちたいだけなのだ。
 安倍は「私は一度もそういうことを言っていない」と主張するだろう。だが、ことばとは、「言った人」がいれば、一方に「聞く人」がいる。これが問題である。「言ったことば」を「聞いた人」がどう理解したかを無視して、「私はそう言っていない」と後で言っても仕方がない。大事な話は必ず「どう聞いたか」を確認する。重要な「契約」は必ず文書にして残し、互いに交換する。それは「こう主張した」というだけではなく、「こう聞いた」ということを明確にするためである。外交文書では「翻訳」のすり合わせがおこなわれるが、これも「どう聞いた/こう聞いた」を明確にするためである。

 改憲に関する記者とのやりとりがもうひとつ掲載されている。先の安倍の発言を引き継いでのものである。

 --憲法改正の自民党案を国会に出そうと自民党に号令をかけている。
 安倍氏 憲法について、国会に提出するかどうかという(党総裁としての)権限を、私は実行しようとは思っていない。(改憲は)結党以来の自民党の方針であり、党首として基本的な考え方を述べるのは当然のことだ。

 この発言には問題点がいくつかある。「(改憲は)結党以来の自民党の方針」というが、誰が、そう言っているのか。安倍がそう言っているだけなのではないのか。「自民党(自由民主党)」は1955年。自衛隊ができたのは1954年。だから自民党が、その当時から、「憲法を改正しなければならない。自衛隊を憲法を明記しないといけない」という主張がおこなわれていたと「仮定」することはできる。だが、その「証拠」は? 結党以来の方針という限りは、明確な「文書」が残っているだろう。まさか佐川事件のように、廃棄したということはないだろう。
 古い「党の方針」は文書として残っていないかもしれないが、最近の文書ならネットでも公開されている。2012年に自民党は「改憲草案」をまとめている。それは「安倍の方針」ではなく「自民党の方針」である。その案では9条2項を完全に削除している。そのうえで「第九条の二 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。」と定めている。その後、2012年の「改憲草案」が更新されたとは、どこにも書いていない。
 つまり、安倍は「党の方針」についてダブルスタンダード(二重基準)で動いている。「改憲は党の方針」と一方でいい、他方で「2012年の党の方針」を無視している。「総理」だから気に食わない「党の方針」は自分の都合にあわせて変更するのが「当然」と主張している。
 これは「独裁者」の主張である。あるいは感情と言ってしまった方が正しい。「論理」など、ないのだ。
 すべてを安倍の都合に合わせる、それが「当然」という主張は、すでに安倍周辺を支配している。佐川事件(籠池事件)、加計事件を思い出すだけでいい。安倍が批判されるのは安倍にとって不都合である。不都合な資料はすべて廃棄しろ、ないものにしろ、ということが起きている。
 この調子でゆくと「2012年の自民党改憲草案」というのも廃棄される可能性がある。廃棄されなくても、安倍がかつて主張したように「改憲草案は谷垣総裁のときにつくられたもので、私は関係がない。私は一度も9条2項を削除すると言ったことはない」と言うだろう。

 あらゆることを「私は一度も言ったことがない」という主張で押し通す安倍。「おぼっちゃま」は何も言わない。まわりが「忖度」し、願いをかなえてくれる。「独裁者」はますます暴走する。それを批判する人がどこにもいない。対抗馬の石破れでさえ、準備してきた原稿を棒読みしているだけである。一部の動画を見ただけの印象だが。










#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(69)

2018-09-15 11:08:01 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
69 ギリシアは永遠

彼らの日常 実効支配したのは オリュンポス社交界のお歴歴ではない
名もない災いの神神か 顔のない復讐の女神たち いずれ卑しい魍魎ども
それらは決った社を持たず 路地裏や家の中の闇を絶えず徘徊していた

 「光のギリシア」ではなく、「闇のギリシア」、言い換えるなら情念のギリシア、バッカスのギリシアか。
 高橋は、こう要約する。

われらの中でギリシアは永遠 とりわけ闇の 病んだギリシアは

 この詩でも「闇」と「病んだ」がわからない。
 高橋の「肉体」をとうして具体化されていない。意味(主張)は「頭」ではたどることができるが、「肉体」に響いてこない。
 いくら「闇」「病んだ」と書かれても、そこに引き込まれて逃れることができないという苦悩と、苦悩と共にある愉悦が伝わってこない。

 どうしてこんな詩を書いたのだろうか。













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ESTOY LOCO POR ESPANA(10) (番外)

2018-09-14 11:23:35 | estoy loco por espana


Eduardo Muñozの作品は実物を見たことがない。写真でしか知らない。だからこれから書くことは「印象」であって「実感」ではないのだが。
この展覧会あんなにつかわれている作品は何をあらわしているのか。
私は二通りにみた。
(1)水道から水があふれている。スクリューをは水を汲むための杓である。
しかし、エドゥアルドの作品を見ていくうち、彼はもっぱら「顔」を表現していることに気づいた。
(二枚目の写真の作品は、だれか見ても「おばあちゃん」だろう。)
で、
(2)右側の男(?)は吐いているのである。飲みすぎたのかもしれない。あるいは、その「吐く」という行為には、本心をさらけだす、という意味も含まれているかもしれない。左側は、それを介抱する人である。
(2)であるとするならば、これは「ブラックユーモア」のたぐいである。
 エドゥアルドの作品にはユーモアがある。
 ユーモアとは「批評」である。
 そして、エドゥアルドの「批評」は、すこしゆっくりめである。
 ピカソのようなスピード感がある批評と比較すると、その違いがわかる。
 じっくりと見えてくる。
 ゆっくりしているからこそ、そこにいくつかの種類の「印象」がまぎれこむ。
 (1)水道か、(2)吐いている男かというような「印象」の違いも、その「批評」がゆったりしているから、まざりあう。
 たとえばピカソの、自転車のハンドルとサドルを組み合わせたものは、誰が見ても「牛」にしか見えない。ピカソの批評は絶対的な速さで私たちをひっぱっていってしまう。
(以下は、グーグル翻訳。ひどすぎる翻訳だが、スペイン人なら、想像力を働かせ、なんとか理解できるかもしれない。)
(Aquí hay una traducción de Google, es una traducción terrible, pero si eres español, puedes usar su imaginación y entenderla de alguna manera).
Los trabajos de Eduardo Muñoz, nunca los he visto en real. Solo lo sé en fotografías.
Pues el escribir de ahora en adelante es mi "impresión" y no mi "sensación real".
¿Que es el trabajo que Eduardo usa para esta exposición?
Lo vi de dos maneras.
(1) El agua se está desbordando del grifo. El tornillo es un cucharón para extraer agua.
Sin embargo, Eduardo es un escultor que expresa "cara" exclusivamente. No expreses 'objetos'.
(El trabajo de la segunda fotografía será "Abuela" incluso si alguien lo ve).
Entonces,
(2) El hombre a la derecha (?) está vomitando. Quizás bebí demasiado. Alternativamente, el acto de "vomitar" también puede incluir un significado para revelar los verdaderos sentimientos. El lado izquierdo es una persona que interviene con él.
Si view (2) es correcto, este es un tipo de "humor negro".
El trabajo de Eduardo tiene sentido del humor
El humor es "crítica".
Y la "crítica" de Eduardo es un poco lenta.
Comparado con la crítica con un sentido de la velocidad como Picasso, puedo ver la diferencia.
Podrás verlo lentamente.
Debido a que es lento, hay varios tipos de "impresiones" que se llenan.
La diferencia entre "impresión" como (1) servicio de agua, (2) un hombre que está vomitando, y demás, porque la "crítica" es relajada, hace la diferencia.
Por ejemplo, de Picasso, una combinación de un mango de bicicleta y la silla, los todos dicen que este es "vaca".
La crítica de Picasso nos lleva a velocidad absoluta.
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(68)

2018-09-14 09:34:44 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
68 ギリシア病三

アテネから飛んだローマは ギリシアのつづき
そのあとのパリも ロンドンも ニューヨークも
ホンコンさえも コスモポリスという名のギリシア

 「ギリシア」と「コスモポリス」と言いなおされている。パリ、ロンドン、ニューヨーク、ホンコンは「コスモポリス」であるがゆえにギリシア。
 これは「定義」としては正しいのかもしれないが、詩は「正しさ」とは関係ないところにある。
 それぞれの都市の、どこがコスモポリスなのか。高橋の「定義」がわからない。「定義」になっていない。ことばが動いていない。
 だから「コスモポリス」と書いていたはずなのに、次の行は大きく違ってくる。

帰り着いた故国を囲む海さえ エーゲ海の延長

 コスモポリスだからギリシアと言っていたはずなのに、突然、海に変わる。「エーゲ海」が出てきて、「故国の海」をギリシアにする。
 こんなことを書くくらいなら、東京の坂さえアテネの坂のように入り組んでいる。ビルの影からソクラテスが若者を従えて下りてくる、とでも書けばいいのに、と思う。
 目も耳も、足も動いていない。

ひとたびギリシア病に取り憑かれたら 諦めろ
死んで骨になっても 癒えることはない

 と書かれても納得がいかない。


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北方四島と沖縄(日本のキューバ問題)

2018-09-13 10:49:12 | 自民党憲法改正草案を読む
北方四島と沖縄(日本のキューバ問題)
             自民党憲法改正草案を読む/番外225(情報の読み方)

 2018年09月13日の読売新聞(西部版・14版)の1面。

露大統領「年内に平和条約」提案/首相に 北方領土棚上げ/日本、応じぬ方針

 という見出し。
 領土問題よりも、日露平和条約締結が先、とプーチンは提案した。安倍は、それに対して即座に応対できなかった。「事前通告」がなかったためらしい。
 これで「外交に強い」というのだから、あきれる。

 ということはさておき。

 ロシアが北方四島を日本に帰さないのは、軍事(地理)的に見れば当然である。ロシアにとって、北方四島は「キューバ」なのである。
 かつて「キューバ危機」があった。フルシチョフ、ケネディ時代である。ソ連はキューバに核ミサイルを設置しようとした。キューバに核ミサイル(軍事基地)があれば、アメリカに強いにらみを利かせることができる。しかしアメリカの強い反発を招き、断念した。そのことに重ね合わせてみよう。
 ロシアが北方四島を返還しないのは、北方四島が日本(日本の米軍基地)を牽制する「キューバ」だからである。北海道まで、すぐ。つまり、戦争になったときロシア大陸から攻撃するよりも侵攻しやすい。そして何よりも北方領土のロシア軍基地(いまは、まだないようだけれど)が攻撃されたら攻撃されたで、そこを攻撃されている間にアメリカ本土を攻撃できる。つまりアメリカの軍事行動を北方四島とアメリカ本土に分散できる。さらに、小さい島なので戦争の「捨て石」にできる。
 キューバも、「捨て石」にされかけたのである。キューバを守る、という「名目」で。

 これは沖縄についても言えるだろう。
 アメリカは沖縄を中国、北朝鮮ににらみを利かせる「キューバ」のように利用している。ソ連がキューバにしようとしたことをしている。
 もし戦争が起きたとき、沖縄に中国、北朝鮮の攻撃を集中させることで、アメリカ本土を防衛する。相手の攻撃を分散させることができる。中国、北朝鮮は、大陸間弾道弾があるとはいえ、「目の前」の基地を放置することはできない。
 アメリカにしてみれば、最悪の場合、沖縄を捨てればいいだけである。沖縄を捨てるということは日本を捨てるということである。
 ソ連にとって、キューバが米軍の支配下になろうが、ソ連本土にとってはあまり影響はない。アメリカにとっては、キューバにソ連軍の基地があるのとないのでは、大きな違いである。ソ連にとってはキューバは「捨て石」だった。経済援助はするが、いざとなったら捨てる、という存在だった。

 アメリカ(トランプ)が日本(安倍)に対して「好意的」であるのは、ただそれだけである。「捨て石」をもっている、というのがアメリカの強みである。
 だいたい戦争というのは、侵略(侵攻)していった方が負ける。アメリカはベトナム戦争でそれを体験している。それでも中東で戦争を繰り返しているのは、中東には「イスラエル」があるからだ。ユダヤ人を敵に回してはアメリカの経済が動かない。だから必死で中東から撤退しない。ユダヤ人が「献金」してくれないことには、アメリカ議員が生活できない。
 日本(安倍)も、一種の「金づる」である。中国、北朝鮮が攻撃してくるかもしれないとあおれば、どんどん軍備を購入する。アメリカの軍需産業はもうかる。軍備というのは消費するだけのものである。戦争が始まれば、さらにもうかる。それがアメリカの経済学だ。

 日本は小さな島国である。そして、その島国は、中国、北朝鮮、ロシアの「鼻先」にある。そのことを自覚して戦略を立てないといけない。
 日本がもしキューバだったなら、という視線でとらえ直さないといけない。
 日本はアメリカにとって、ソ連時代のキューバと代わりがないのである。
 どれだけ軍備を増強しても、無駄である。増強すればするほど、最初に攻撃しなければならない「標的」になる。戦争が始まれば「前線」として利用され、「捨て石」にされるだけである。アメリカの「捨て石」にもなれば、中国、北朝鮮、ロシアの「捨て石」にもなる。戦場が「日本」に限定されれば、「本土」は安心。戦争の結果、どれだけ荒廃しようが、そこは彼らの「国」ではない。戦争は、そこに暮らしている人のことなど何も考えない。日本に暮らしているのが日本人で、中国人でも、北朝鮮人でも、ロシア人でも、アメリカ人でもないなら、なおさらそうである。アメリカがベトナムで展開したように、どんな卑劣な攻撃でもするだろう。

 安倍には、この自覚がまったくない。
 他の国と「対等」であるとか、「上等」であると思ってはならない。日本が「戦場(捨て石)」にならないためには何をすべきかから考えないといけない。
 先に「日本に暮らしているのが日本人で、中国人でも、北朝鮮人でも、ロシア人でも、アメリカ人でもない」と書いたが、実際には多くの中国人や北朝鮮人も暮らしている。もし日本を「戦場」にするなら、そのひとたちの救出が大問題になる。(安倍が、朝鮮半島の日本人をどうやって救出するか、と考えるのと同じように。)だから、簡単には攻撃できない。
 ここにこそ、問題解決の糸口がある。いま、世界は「国境」「民族」の垣根がなくなりつつある。それを平和に利用する方法を考えないといけない。
 安倍は、逆に民族差別をあおり、国民の間にも分断をつくりだして、日本を「内戦状態」にしている。安倍のまわりにたくさんの「キューバ」を抱え込み、自分だけ、のうのうとしている。








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高橋睦郎『つい昨日のこと』(67)

2018-09-13 09:31:32 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
67 ギリシア病二

街なかから振り返るアクロポリスに 遠近法は存在しない
すくなくとも 東洋風の水蒸気の 曖昧模糊の遠近法は

 この二行は非常に印象的だ。
 「遠近法」と言えば、私は「一点透視」を真っ先に思い出してしまう。近くのものを大きく、遠くのものを小さく。最終的に「小さい」は「点」になる。
 水墨画などにみられる「濃淡の遠近法(水蒸気の遠近法)」は絵を線ではなく面で意識するようになってから「遠近法」と理解できるようになった。
 しかし、高橋は「水蒸気の遠近法」から出発している。

ギリシアでは 遠いもの近いもの 等しくやたら克明
以来 どんな対象も 正確無比に表現しなければ納まらない

 「曖昧模糊」と「正確無比」が対比されている。

極東の水の女神の曖昧には 曖昧の黄金分割比例を

 「曖昧模糊」は「水(水蒸気)」、「正確無比」は「黄金分割比例」という具合に動いていくが、この「黄金分割比例」は「光」と言いなおすことができる。東洋が「水(蒸気)」の世界観でできているのに対し、ギリシアは「光(透明な空気)」を前提としている。この指摘はわかるが、では、高橋はいま世界をどんな「遠近感」で詩を統一しようとしているのか。
 「遠近感」には二種類ある、と分類する。そういう「知」の力を身につけることが「ギリシア病」(ギリシアの精神になること)というのか。
 東洋の遠近法を「水蒸気の遠近法」と呼ぶのなら、そうではない「黄金分割比例」にもとづく「ギリシアの遠近法」で世界を実際に描いて見せる必要がある。「ギリシアの遠近法」で描かれた世界を見せられれば、読者は、「あ、高橋はたしかにギリシア病にかかっている」と思えるが、「東洋の遠近法とは違う」という指摘だけでは「ギリシア病」というものが伝わらない。「ギリシア病」にかかった視線で「高橋の遠近法」を描いて見せてくれなければ、「病気」かどうかわからない。その病気には感染力がない。
 無害なものは詩ではない。






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長谷川信子『昼の月』

2018-09-12 15:16:05 | 詩集
長谷川信子『昼の月』(詩的現代叢書31)(書肆山住、2018年08月21日発行)

 人間と世界との関係はどうなっているのだろうか。どんなふうに和解(理解)しあって生きているのだろうか。長谷川信子『昼の月』を読みながら、そんなことを考えた。
 「肩掛け」は、こんなふうに始まる。

ショールのことを肩掛けと言い
エプロンのことは前垂れと言った

 ものの呼び方が変わる。同じものなのに、いつの間にか変わっている。でも、呼び方が変わったのではなく、呼び方を変えることでものそのものを変えてしまったのではないのか。
 では、この場合は、どうだろう。

塩屋のお婆やんは
長いこと結核で寝ていたから
背中に褥瘡ができて
そこに虫が湧いていた
お婆やんが死ぬと虫も死んだ

 背中にわいた虫。それはほんとうに虫だったのか。お婆やんそのものではなかったのか。虫と呼ぶことでお婆やんとは別の存在のものを出現させた。それは見てはいけないお婆やんの姿か、あるいはお婆やんがぜひとも見てほしかった姿なのか、わからない。けれどもお婆やんという「事実」なのだ。
 だからこそ、「お婆やんが死ぬと虫も死んだ」。
 ふたつのものがひとつになって、そして消えていく。記憶のなかにふたつとひとつが交錯する。どちらが「ほんもの」かわからない。ふたつとひとつのあいだには、区別がない一瞬の「事実」がある。
 「小径の果てに」には、こんな行がある。

鬼になったのではない
鬼の中に女が棲んでいたのだ、と…

 この二行を借りて言えば、

虫が湧いたのではない、
お婆やんの中に虫が棲んでいた、

 であり、虫は「お婆やん」そのものである。「本質」であることになる。
 こういう言い方は「お婆やん」をおとしめることになるだろうか。
 でも、私は、そう「誤読」してしまう。そして、

お婆やんが死ぬと虫も死んだ

 ではなく、

虫が死ぬとお婆やんも死んだ

 と、「誤読」をさらに推し進めたくなる。
 「時差」のなかにある、次の連。

気の狂れた女が浜辺を駆けてゆく
--おいでぇ おいでぇ
  帰っておいでぇ
あれは少年の母親か
それとも初産だった雌亀か

 「区別」がない。「区別」というものをなくしてまう「力」が人間の「肉体」にある。長谷川は、その「力」に触れている、と感じる。
 お婆やんと虫を書いているとき、長谷川は「お婆やんの肉体」と「虫の肉体」を区別せずに、両方を往き来している。「生きる/死ぬ」という「事実」のなかを動いている。「事実」に触れている。
 「五月」は美しい詩だ。

男性かと思ったがそうではないようだ
かといって 女性にも見えない
以前は どちらかはっきりしていたのだろうが
バスを待っている間に
この人は
そんなものを脱ぎ捨ててしまったのだろう

 「この人」は長谷川がほんとうに見た人間なのか。それとも長谷川から抜け出したもうひとりの長谷川なのか。

現世に二人しかいないような風景が
ずっと続くのではない
そんな気持ちになっていると
ストン という音がして目前でバスが止まった
くだんの人が乗り込むと
バスは乗降口を閉じて 発車した

私はベンチに取り残されたが
残されたことを悔やみもせずに
また ぼんやりと
空をながめている

 「私」と「くだんの人」は入れ代わっているかもしれない。「虫」と「お婆やん」のようなものだ。
 「私(人間)」は「私以外のもの」になる瞬間がある。
 そこから「私」へ引き返すのか、それとも「私以外のもの」になって生きていくのか。「私以外のもの」になって生きたとき、「私」はどうなるのだろうか。それは「記憶」か「夢」か。あるいは「私以外のもの」が見てしまう「事実」なのだろうか。
 そういう「区別」はせずに、私は、その両方(ときには、もっと複数になってしまうことがある)を「長谷川そのものの肉体」と思って読む。「長谷川の肉体」は、ことばにしたものすべての中にある。すべてとつながっている。でもそれでは「論理的」ではないので、方便で「私」と呼んだり「この人」と呼んだり「くだんの人」と呼ぶのだと思った。
 「現世に二人しかいない」のではなく、「現世」とは「私」が出現させた「もうひとりの私」である。そのふたつを往き来するとき「現世」が動くのだと思った。








*

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谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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生きる比重―詩集
長谷川信子
本多企画
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(66)

2018-09-12 08:55:14 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
66 ギリシア病一

光の中の 剥き出しの恥部のような白い遺跡群
一夏をほっつき歩いた身には 以後の夏ごとに
自分のいまいる場所が 何処でもギリシア世界に

 この文末には「変わる」という動詞が省略されている。

サンダル穿きで浜辺に出れば 群れ立つ人びとは
陶片追放の嗜虐にぎらぎら滾る アテナイ市民か

 ここにも「変わる」が省略されている。浜辺の人々はアテナイ市民に「変わる」。
 高橋自身は、どうか。

自身 見えない目で見渡す放浪の老詩人気どり

 「老詩人気どり」と書かれているが、やはり老詩人に「変わる」だろう。
 「気取り」は「気持ちを引き取る」ということであり、「変わる」を言いなおしたものだ。
 問題は「気」を引き受けているのであって、「肉体」を引き受けてはいないということ。「気」が「肉体」になっていない。
 「ギリシア病」は「ギリシア病気」と言いなおせば「気」が入ってくる。「気持ち(気分)」の問題になる。
 「気」だけでは、おもしろくない。「気」は「変わる」と結びついて、「気が変わる」になってしまう。その瞬間にギリシアは消えてしまうだろう。
 「気」を省略して「病」という限りは、もっと「肉体」そのものを書いてほしい。「肉体」がどう「変わった」のか、それを私は知りたい。



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高橋睦郎『つい昨日のこと』(65)

2018-09-11 10:52:32 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
65 ギリシアよ

私はギリシアに攫われたと呟く
ギリシアはそんな覚えはないと言う

 この対話はどうつづくか。
 つづかない。
 高橋の一方的な言い分になる。

みんな みんな 攫われたのだよ
なぜなら 詩を発見したのは誰でもない あなた
発見せり! といえるのは あなただけだから

 「発見せり」には「ユリイカ」とルビが振ってある。
 ここに「日本語」と「ギリシア語」の「対話」があるのかもしれないが、味気ない対話である。「肉体」が動かず、「頭」だけが動いている。
 直前の「なぜなら」ということばが、それを証明している。
 何かを発見したとき、ひとは「なぜなら」などとは言わない。「なぜなら」を飛び越えて、いきなり「発見」にのみこまれてしまう。「発見」に、それこそ「攫われる」。「発見」そのものになる。そこには「ことば(詩)」はまだ存在しない。「発見する」、あるいは「詩になる」という動きがあるだけだ。
 「なぜなら」はいつでも「事件(発見)」の後に遅れてやってくる。
 「なぜなら」は「過去」へ引き返す「言い訳」である。

 「攫われた」というかぎりは、「肉体」がギリシアになってしまわないとおもしろくない。「攫われる」とは自分が自分でなくなることだ。狂うことだ。

 「なぜなら」も「狂い」の証明になることがあるかもしれない。論理など機能しないのに「なぜなら」と主張するのは狂っている、と。でも、そういうことが人を魅了(困惑する愉悦がある)するとしたら、そこに手のつけられない「肉体」があるときだけだ。「肉体」が全面に出てこない「なぜなら」は味気ない。


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安倍の改憲論

2018-09-11 10:13:18 | 自民党憲法改正草案を読む
安倍の改憲論
             自民党憲法改正草案を読む/番外224(情報の読み方)

 2018年09月11日の読売新聞(西部版・14版)の3面。自民党総裁選の開始を受けての安倍、石破の「共同記者会見」を報じている。
 9条改正改正をめぐっての安倍の発言について、こう書いてある。(1)(2)は私がつけたものであって、新聞記事にはない。

 首相は記者会見に先立つ立会演説会で、多くの社会科教科書が自衛隊違憲論を紹介していることに、(1)「自衛艦の子どもたちもこの教科書で学ばなければならない。このままでいいのか」と述べ、(2)自衛官の「誇り」を改憲理由に挙げた。

 (1)と(2)のあいだには論理には飛躍がある。つまり、論理になっていない。
 (1)をそのまま展開していけば、結論は自衛官の子どもたちの心情に配慮するために改憲をしなければならない、ということになる。もっと言いなおすと、「自衛官の誇り」ではなく「自衛官の子どもたちの誇り」のために改憲するということになる。
 「自衛官の子どもたちの誇り」のためにというのなら、改憲をしなくても、「自衛隊違憲論」を紹介している教科書を否定する(検定で不合格にする)ということで解決できる。
 もちろんこの方法は、政治の教育への介入であって許されるわけではない。
 安倍の最終的な目標は、教育への介入であることは、これまでの一連の動きから判断すれば明らかである。「道徳教育(家長制度復活を狙った価値観の押しつけ)」ひとつをとってみてもわかる。「教育無償化」という「名目」で教育そのものに介入してくる。反安倍的な学問を追究すれば、即座に「無償化」の対象から排除されるだろう。安倍に従順な人間だけを育てる教育が押しつけられる。
 「教科書検定」というわかりやすい方法で「教科書」を排除すれば批判が高まる。だから、そういうことはしない。
 「理念」というのは、わかりやすそうで、わかりにくい。安倍は、そういう理念の性質(問題点)を巧みに利用して、「教育問題」を「改憲(自衛隊の明記)問題」にすりかえている。繰り返すが、この「巧みな利用」は即座に逆の形で動くことになる。「改憲」がすめば即座に「教科書に自衛隊は合憲である」と書けと迫る。
 いくら9条に自衛隊を明記したところで、「前文の理念と一致しない。9条の自衛隊明記は、安倍が押しつけた違憲条項である」という批判は起きるだろう。批判を呼ばないものなど、この世には何一つない。憲法に書かれていても「自衛隊は違憲である」と主張する人間は出てくる。
 学校で学ぶ子どもにしたって、単純に教科書に合憲と書いてあるからといって、それにしたがって評価を変えるわけではない。自衛隊員を父親(母親)にもつ子どもに対して、「おまえの父ちゃんは、安倍の言いなりになって人殺しの準備をしているだけじゃないか」という批判を口にする子どもが出てこないとはかぎらない。子どもはそんな複雑なことを言えないというかもしれないが、子どもは大人の口真似を、意味を理解せずにしてしまうときがある。そしてそれは、意味がわからないからこそ、あっと言う間に共有される。「悪口」として広まる。
 批判(論理)というのは、どういう形にもなりうる。
 批判を封じるには、やはり「教育介入」しかない。子どもを洗脳するしかない。批判力を持った人間ではなく、批判力のない、従順な人間を育てるためにはどうすればいいのか。そういう方向で、「教育介入」が激しくなるだけだ。
(2)も論理的とは言えない。「誇り」というのは個人的なものである。「自衛隊は合憲である」と言われても、だれかを殺して「誇り」を持つことができるのか。だれかを殺すことで、だれかを守ったとしても、それで殺した人のすべてが「自分は正しいことをした」と「誇り」を持てるのか。
 戦場から帰った多くの人が苦悩しているというニュースはしきりに聞く。「理念」がいくら正当であっても、それを実行するとき必ず「誇り」を持てるとはかぎらない。
 「情」に訴えた改憲主張は間違っている。「自衛隊」が外国からの侵略を防ぐために必要なものだとするなら、その外国とどう向き合うかという理念から出発しないといけない。国内の「情」など、侵略してくる国は配慮するはずがない。自衛隊員の子どもがどう思うか、自衛隊員がどう思うかなど、関係がない。「敵を殺した。私は日本を守った。それが誇りだ」と主張する人間をこそ、真っ先に殺しにくるだろう。ひたすら逃げるだけの人間、「助けてください、協力します」という「誇りのない」人間を殺すために武器をつかうことはない。
 「情」を排除しておこなうのが戦争である。「情」を排除しているからこそ、暴走して虐殺も起きるのだ。

 「誇り」の問題については、

石破氏は「『僕のお父さんは自衛官』と誇りを持つ子どもがいっぱいいる」と反論。

 と紹介している。「ぼくのお父さんは、災害被災地に出かけて、人を助けだしたんだぞ」と子どもが言えば、友達はみんな感心するだろう。
 ひとは誰でも、行動について評価し、それを「誇り」に思うのだ。教科書にどう書いてあるかではない。
 もし、ほんとうに「教育」を利用しようとするなら、こういうことを利用すればいいのだ。「教科書に書いてあることは、ひとつの見方にすぎません。現実は、もっと複雑です。〇〇さんのお父さんは、災害救助で人のために働いています。とても立派な人です」と言うようにすればいいだけである。
 学校とは、自分で物事が判断できるように人間を育てる場である。判断というのは、いつも現実の中でおこなうしかないものである。

 さらに見落としてならないのは、読売新聞の次の部分である。

 首相は、総裁選を9条改正を巡る党内議論の「最終決戦」と位置づける。2項を維持して自衛隊を明記する首相案は、すでに党内の有力案として意見集約されたが、石破氏をはじめ、2項削減論はなお根強い。首相は石破氏に圧勝することで、自身の案の実現を加速させたい考えだ。

 安倍は、総裁選を「安倍の改憲案」を押し通すために利用しようとしている。
 安倍はしきりに「憲法論議は憲法審査会で」と言う。しかし、安倍は憲法審査会の意見など聞くはずがない。安倍はだれの意見も聞かない。独裁者である。
 安倍の案が、2012年の自民党の「改憲草案」を無視していることからも明確である。自民党は時間をかけて「改憲草案」をつくった。いまでも自民党のホームページには掲載されているし、改正のポイントも説明している。その「熟慮」された案を提示して、改憲を目指すというのなら「論理的」には納得できるが、それを無視して、独自に「改憲案」を提唱する。それをあたかも「自民党案」のように装っている。
 安倍は、ただ自分の思う通りにしたいだけである。その最終的な思いは、戦争をはじめる。軍隊を指揮するということだ。
 もちろん、戦争はそう簡単にはできない。「敵国」がどう行動するかが問題だし、味方してくれる国(アメリカ?)がどう動くかも問題だ。だいたい日本にある米軍基地は、中国や朝鮮半島に出撃するときに便利というだけのものである。日本が占領されても、それによって米国本土に危機が及ぶわけではない。大陸間弾道弾があるのだから、日本に米軍基地があろうがなかろうが、アメリカ本土は攻撃の射程に入っている。日本が攻撃されたら、日本を放棄してアメリカは引き上げるということは十分に考えられる。無駄な前線を維持する必要はない。
 戦争を簡単に引き起こせないとなると、そのとき、どうするか。安倍は軍隊を「国内秩序を守るため」に出動させ、それを指揮することになる。どこかで安倍批判のデモがある。国内の秩序を不安定にする。緊急事態だ。軍隊をつかって弾圧しろ。そういうことにしか自衛隊はつかいようがない。
 逆に言えば、国内の反安倍派を弾圧するために、自衛隊を合憲化しようとしている。軍隊をつかって、国民を支配する。軍事独裁国家が安倍の理想である。まず、安倍に疑問を抱かない人間を育てる、という教育から、それは実行に移されている。

 自衛隊、緊急事態、教育介入は三点セットで動いている。











#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(64)

2018-09-10 08:36:23 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
64 翅

ギリシア人はヘルメスの沓に着ける翅を ファロスにも着けた
羽沓がヘルメスを迅速に何処にでも運ぶのと まったく同じに
ファロスも持ち主を何処に連れていくか 予測もできない

 この詩も「ことば」だけでできている。肉体の実感が欠けている。それが証拠に、四行目はこうつづいている。

だが 翅あるファロスの含む寓意は じつはそれ以上

 「寓意」が出てくる。「寓」が問題なのではなく「意」が問題だ。ファロスは「頭」ではない。「肉体」の中心だ。「頭」からの、抑制が効かない。つまり「意(味)」を無視して暴走する。そういうものに「翅」という「比喩」を結びつけて、「意味」をでっちあげてしまう。
 「肉体」を捨てて。
 「意味」というのは、いつでも「結論」を含みながら動く。
 次の二行は論理の「必然的帰結」であって、詩からは遠い。

ファロスに捨て去られてからの持ち主の人生こそ まさに正念場
分別に翅が生えて真の知恵になれるかの 瀬戸際なのだが

 「分別に翅が生えて」は「分別が加速し/力を増してて」という「意味」なのだろうけれど、それが「真の知恵」であるかどうか、私は疑問を持つ。
 ファロスに捨てられたとき、ひとは「分別」も捨てる。必死になって、ファロスをとりすがる。そういう「肉体」をことばにしてくれないのなら、それは八十歳の詩人のことばを読む愉しみがない。

 「意味」など共有したくない、と私は思う。




つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社


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ジアド・ドゥエイリ監督「判決、ふたつの希望」(★★★★★)

2018-09-10 00:03:27 | 映画
ジアド・ドゥエイリ監督「判決、ふたつの希望」(★★★★★)

監督 ジアド・ドゥエイリ 出演 アデル・カラム、カメル・エル・バシャ

 二人の男の些細なぶつかりあいが法的劇に発展する。二人とも思うことがあり、譲らない。いわば「理念」の衝突、という感じなのだが。
 むしろ、脇役に徹しているふたりの妻がおもしろい。味がある。争ってもしようがないのに、なんとか丸く治められないの? という「なだめ役」が中心なのだが。

 最初は「意味」がわからなかったシーンが、最後にわかるようになっている。そして、そこに男と女の違いがある。
 妊娠している妻は、こんな街はいやだ、よそへ行きたいという。ところが男は、やっと買った家だ、ここから出て行かない、という。でも、男のほんとうの「決心」は、そういう経済的なことではない。いま住んでいる街が、彼の「ふるさと」の近くだからである。「理念」ではなく、思い出を生きている。それは楽しい思い出とは言えないが、そこから離れては生きていけない。男の「原点」なのだ。
 女はそうではなくて(原点にこだわるのではなくて)、「いま」にこだわっている。あるいは「いま」から先、「これから」にこだわっている。「生きていく」ということを最優先に考えている。生まれてくる子どもを育てるには、ほかの環境の方がいい。(もうひとりの女の方も、「いま」をよりよく生きるためにノルウェーへ行くことを夢見ている。)
 「いま」を生きるという姿勢(願い)は、男に静かに静かに影響してくる。
 影響があらわれる最初のシーンが、大統領(?)と面会した後。二人は別々の車を運転して帰るのだが、工事の仕事をしている男の車のエンジンがかからない。車修理を仕事にしている男は、それをバックミラーで見ると引き返してきて、修理してやる。敵対しているのだけれど、いま、相手が困っているなら、そしてその困っていることに対して自分が何かできるなら、それをやる。自分ができることと同時に、「いま」が大切なのだ。男の方にも「いま」を生きるという「本能」は残っている。
 このシーンを見たとき、私は、映画はここで終わる、と思った。ここには、「いま」をどう生きるかという「答え」のようなものがあるからだ。「いま」を生きるしかないのが現実だ。そして、その「いま」にこそすべてがある。
 で、このあと、映画は急展開する。
 法廷で、自動車修理工(妻が妊娠している男)の「過去」がわかる。彼もレバノン国内で「難民」のように生きた時代があった。自分が生きていた場所を奪われ、家族が離散したという過去があった。そのとき彼は幼い少年で「戦う」ということを知らなかった。逃げることしかできなかった。
 そのあと。
 建築工事の男が自動車修理工を尋ねてくる。わざと侮蔑的なことばを投げかけ、殴られる。殴った後、自動車修理工は自分のこぶしをじっとみつめる。暴力を肯定するわけではないが、ひとは暴言を吐いてしまうことがあるのと同じように、思わず暴力をふるってしまうことがある。それは相手を傷つけることが目的というよりも、自分の怒りを(肉体を)解放するということなのだ。全面肯定してしまってはいけないが、「戦い」にはそういう側面もある。それは「自衛」(自己防衛)と呼ばれる。(裁判でも、何度か問題になっている。)
 このシーンも非常に良くて、私は、ここでも、これでこの映画は終わるのだと思ったら、またつづきがあった。「判決」が下されるシーンまで、あった。
 でも、まあ、「結論」はどうでもいい。二人の男は、「和解」が済んだ。「いま」がほんとうにふたりのあいだで動き始めた。それまでは「いま」ではなく「過去」が二人を支配していた。二人は「過去」を「判決」のなかに封印して、「いま」をこれから生きていく。

 男は「過去」、女は「いま」というのは、二人の男の弁護士が男と女(父と娘)という対比でも描かれていた。当然の帰結として「いま(女)」が勝訴する。女を前面に出しているのではないのだけれど、その出し方がとても巧みな映画だ。この「女の勝利」が、この映画に明確な輪郭を与えている。
 脚本が非常によくできているし、役者もうまい。
 (2018年09月09日、KBCシネマ2)



 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(63)

2018-09-09 16:00:17 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
63 オルフィズム讃

光のギリシアだけでなく 闇のヘラスも 厭わず直視せよ

 とはじまる詩。「光」と「闇」は、どう動詞化されるか。

模範は 古代の地下の蟻穴の迷路に追い込まれた鑛堀り奴隷
彼らの絶望の鶴嘴が掘り当てたのは 金脈や銀脈ばかりではない
それら貴金属よりさらに貴重な 人生の生死の奥義なるもの

 「光」は「金/銀(貴金属)」と言いなおされている。「闇」は「蟻穴」「迷路」「奴隷」「絶望」と言いなおされ、それをつなぐものとして「掘り当てる」という動詞が動いている。「掘る」は「闇」を動詞化したものだろう。「迷路」をさらに掘る。そうすると「金脈(光るもの)」に「当たる」。つまり、それは単純な動詞ではなく、複合動詞なのだ。
 複合動詞だからこそ、その動詞を名詞化すると「生死」ということばになる。「生死」は「光と闇」を言いなおしたことばである。単純なものではなく「複合」していてわかりにくいものだからこそ「奥義」という具合に言いなおされる。
 しかし、これではあまりに「論理的」すぎる。つまり「肉体」で発見したものというよりは、ことばを動かして、ことばでつかみとったものにしか見えない。
 だからだろう。詩は、さらに「ことば」のなかへ進んでゆく。

彼らの教祖が振り返ったとき 化った石とは その恐ろしい真実
その石をこそ求めよ して掘り当てた暁には 明らかな言葉ではなく
謎として匿せ 後に続く者がつねに新たに 自ら掘り当てるべく

 「恐ろしい真実」とは、やはり「光と闇」の複合である。「恐ろしい」が「闇」、「真実」が「光」。これはさらに「明らかな言葉(光)」「謎(闇)」と言いなおされる。「匿す」という動詞は、「闇につつむ(謎につつむ)」という形になって動いているが、そう書いてしまうと闇のなかに謎が溶け込んでしまい、「匿す」ことが逆にあらわす(明らかにする)に変化してしまう。「光」は「闇」のなかでこそ強く光る。

 「論理」はいつでもこんなふうに「詭弁」になる。どうとでも言いなおすことができる。頭では動かせない「肉体」そのものの「動詞」を書かなければ詩にならないのではないか。
 「論理」はどんなに美しくても、ことばの「死」であると、私は思う。


つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社



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ESTOY LOCO POR ESPANA(9) (番外)

2018-09-09 08:26:24 | estoy loco por espana





Iglesia de Joaquín

(Las siguientes oraciones son traducidas por Google.
Entiendo que es una traducción aleatoria, pero como lo soluciono, no entiendo español, así que transcribí tal como está. )


Más tarde, hay algo que entender.
Visité el taller de Joaquín en junio. Después de eso, Joaquín me llevó por el pueblo. Había una iglesia afuera del pueblo. Es una pequeña iglesia La fachada es una "imagen". Una fachada se dibuja en la pared.
Joaquín explica quién está consagrado como santo y su historia. No soy cristiano, así que escuché con atención.
Lo recordé, así que tomé una foto.

El otro día vi la imagen de la iglesia en Facebook. Hay festivales, gente reunida. Los fuegos artificiales están aumentando.
Lo noté por primera vez, mirándolo.
Esta iglesia es una iglesia importante para Joaquín. Es un tesoro importante para los aldeanos.

También pensé en tal cosa.
Cuando vi el trabajo de Joaquín en facebook, sentí una fuerza mágica. Algo es diferente de la escultura de hierro ordinaria. ¿Qué es diferente? No entiendo con la fotografía.
Visité en el taller de Joaquín y lo descubrí. La familia Joaquín dirige herrajes. Ha vivido procesando hierro. Para Joaquín, el hierro se estaba viviendo a sí mismo. Joaquin conoce bien el hierro. Eso apoya el trabajo de Joaquin.
Recuerdo eso, ahora.
La imagen decorando el frente de la iglesia. La vida de los aldeanos está viva en allí. No pudieron hacer fachadas lujosas. Pero quisieron que sea una hermosa fachada. Es por eso que lo pintieron.
Hacen cosas bellas en sus vida, hacen la vida mejor.
Este espíritu es el espíritu de la aldea de Joaquín. No es solo para Joaquín, es la forma de vida en el pueblo de Joaquín. En ese ambiente, Joaquín comenzó a hacer esculturas utilizando la plancha más cercana a él. En la escultura, no solo está viva la historia personal de Joaquín, sino también la historia de la aldea. Eso es fortalecer el trabajo de Joaquín.


Cuando Joaquín me llevó a la iglesia, no me di cuenta. Escuché historias sobre el festival, pero estaba totalmente escuchando. Al ver fotos de los que realmente se reunieron en el festival, me recuerdo de lo que me dijo sobre el festival. Y ahora, comprendo la belleza de esta iglesia.
Viven los pueblos con la iglesia. La iglesia esta viviendo con Joaquin. Joaquin esta viviendo con la iglesia.

Para mi, la iglesia en Varollis (Francia) es la más bella del mundo.
Porque los murales de Picasso "Guerra y paz" están escritos en la pared interior. Hay imágenes que no se pueden ver a menos que vayas allí. Por otra parte, es una imagen importante.
La iglesia de Joaquín es más hermosa que la iglesia en Picasso ahora. Me siento como algo importante. Es la única iglesia en el mundo

España está creando muchos grandes artistas. Picasso, Miró, Dalí, Goya, Velázquez, El Greco ... En el viaje de junio vi muchas obras de González y Sorosia.
El arte tiene sus raíces en la vida espanola. Por lo tanto, los aldeanos de Joaquín también pueden decorar la fachada con una imagen.
El poder de España, ahora lo comprendo de repente. Eentiendo por qué me siento tan atraído por el arte español.
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ESTOY LOCO POR ESPANA(9) (番外)(日本語)

2018-09-09 08:22:25 | estoy loco por espana



ホアキンの教会

 あとから、やっとわかることがある。
 6月にホアキンのアトリエを尋ねた。そのあと、ホアキンが村を案内してくれた。村外れに教会があった。小さい教会だ。ファサードは「絵」だ。壁にファサードが描かれている。
 誰が聖人として祀られているのか、どういう歴史があるのか、ホアキンが説明してくれた。私はキリスト教信者ではないので、あまり注意せずに聞いていた。
 印象に残ったので、写真を一枚撮った。

 先日、その教会の写真をフェイスブックで見た。祭があって、人が集まっている。花火が上がっている。
 それを見て、はじめて気づいた。
 この教会はホアキンにとって大切な教会なのだ。村人にとって、大切な宝物なのだ。

 こんなことも思った。
 ホアキンの作品をフェイスブックで見たとき、不思議な強さを感じた。普通の鉄の彫刻と何かが違う。何が違うのだろう。写真ではわからない。
 ホアキンのアトリエを尋ねて、わかったことがある。ホアキン一族は鉄工所を経営している。鉄を加工することで暮らしてきた。ホアキンにとって、鉄は暮らしそのものだったのだ。ホアキンは鉄を知り尽くしている。そのことがホアキンの作品を支えている。
 そのことを、いま、また思い出した。
 教会の正面を飾る絵。そこには村人の暮らしが生きている。豪華なファサードをつくることはできない。でも美しいファサードにしたい。そう思って描いたのだ。
 暮らしの中で、美しいものをつくる。暮らしを美しくする。
 この精神は、ホアキンの村の精神なのだ。ホアキンだけのものではなく、ホアキンの村の生き方なのだ。そういう環境の中で、ホアキンは自分にいちばん身近な鉄をつかって彫刻をつくり始めた。彫刻のなかには、ホアキンの個人史だけではなく、村の歴史が生きている。それがホアキンの作品を強くしている。

 ホアキンが教会を案内してくれたときは、気がつかなかった。祭の話も聞いたが、ぼんやりと聞いていた。実際に祭に集まった人の写真を見て、あ、あのとき祭の話をしてくれた、と思い出した。そして、その瞬間に、この教会の美しさがわかった。
 村といっしょに生きている。ホアキンといっしょに生きている。

 これまで私にとっていちばん美しい教会は、バローリス(フランス)にある教会だ。ピカソの壁画「戦争と平和」が内部の壁面に書かれている。そこに行かないと見ることのできない絵がある。しかも大事な絵だ。
 いま、そのピカソの教会よりも、ホアキンの教会の方が美しく感じられる。大事なものに感じられる。世界でたったひとつの、ホアキンが愛している教会だ。ホアキンの村人が愛し、育てている教会だ。

 スペインは偉大な芸術家を生み出している。ピカソ、ミロ、ダリ、ゴヤ、ベラスケス、エルグレコ……。6月の旅では、ゴンサレスやソロージャの作品もたくさん見た。
 芸術が暮らしに根付いている。だから、ホアキンの村人も、ファサードを絵で飾ることができた。
 スペインの力というものが、いま、急にわかった気がした。なぜ、こんなにスペインの美術に惹かれるか、その理由がわかった気がした。
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