「私はそういうことは一度も言っていない」
自民党憲法改正草案を読む/番外226(情報の読み方)
2018年09月15日の読売新聞(西部版・14版)。安倍と石破の「討論」が載っている。「討論」になっていない。だいたい安倍の主張が
というのだから、あきれかえる。「新しい」は初めて総裁選に立候補するときにつかうことばであって、三期目で「新しい」はないだろう。「新しい」という限りは、これまでの二期が間違っていたことになる。実際、間違っているのだが、間違っていたから「新しい」国へと方向転換するというのなら、どこが間違っていて、それをどう訂正するかを言わないといけない。
安倍は不都合な事実を突きつけられると、「私はそういうことは一度も言っていない」と主張する。安倍の発言で一貫しているのは「私はそういうことは一度も言っていない」だけである。
読売新聞には掲載されていないが、アベノミクスとトリクルダウンについて石破から問われたとき、安倍は「私はトリクルダウンとは一度も言っていない」と反論している。安倍のブレーンの竹中が言っただけだと言い逃れるつもりだろうが、ブレーンが言ったときに、それをその場で否定しない限りは安倍が言ったに等しい。TPPのときもポスターに安倍の顔と「TPP反対」と書いてあるのに「一度も言っていない」と主張した。ポスターに書いてあるだけというこだろう。「何も言っていない、まわりがそう決めたこと」というのが「お坊っちゃま」の考え方である。
いちばんのポイントの「憲法改正」についてはどうか。
記者とのやりとりで、答えている。
ここでは珍しく「9条2項を削減するとは一度も言っていない」と主張していない。つまり、以前は「9条2項の削減論」だったことを認めている。そのうえで、「政治家は学者でもないし、評論家でもない。正しい論理を述べていればいいということではなく」と主張している。論理的に正しいかどうかは問題ではない、という考え方である。人間の行動を規制するものとして「論理」を認めない。「論理」よりも重要なものがある。何か。「誇り」である。「自衛隊の誇り」こそがいちばん重要だと述べている。
「誇り」というのは個人的な感情である。自衛隊員がほんとうに「誇り」をもっていないのかどうか、私は知らない。安倍はどうやって自衛隊員が「誇り」をもっていないと判断したのか。根拠は示されていない。この発言は、単に「自衛隊が憲法に明記されないと、安倍の誇りが傷つく」という意味ではないのか。憲法に明記されていない自衛隊を指揮しなければならない状態になったとき、安倍の「誇り」が傷つく、ということだけではないのか。言い換えると、敵国から「安倍は憲法で明記されていない自衛隊を軍隊として指揮している。あれが日本の現実だ」と指摘されたら恥ずかしいと感じている(想像している)だけなのではないか。さらに踏み込んで言えば、「自衛隊を誇りをもって指揮したい」というだけなのだ。戦争をしかけて、自衛隊(軍隊)を指揮する。「私は絶対的な最高責任者だ、憲法に書かれているのだから」という「誇り」を持ちたいだけなのだ。
安倍は「私は一度もそういうことを言っていない」と主張するだろう。だが、ことばとは、「言った人」がいれば、一方に「聞く人」がいる。これが問題である。「言ったことば」を「聞いた人」がどう理解したかを無視して、「私はそう言っていない」と後で言っても仕方がない。大事な話は必ず「どう聞いたか」を確認する。重要な「契約」は必ず文書にして残し、互いに交換する。それは「こう主張した」というだけではなく、「こう聞いた」ということを明確にするためである。外交文書では「翻訳」のすり合わせがおこなわれるが、これも「どう聞いた/こう聞いた」を明確にするためである。
改憲に関する記者とのやりとりがもうひとつ掲載されている。先の安倍の発言を引き継いでのものである。
この発言には問題点がいくつかある。「(改憲は)結党以来の自民党の方針」というが、誰が、そう言っているのか。安倍がそう言っているだけなのではないのか。「自民党(自由民主党)」は1955年。自衛隊ができたのは1954年。だから自民党が、その当時から、「憲法を改正しなければならない。自衛隊を憲法を明記しないといけない」という主張がおこなわれていたと「仮定」することはできる。だが、その「証拠」は? 結党以来の方針という限りは、明確な「文書」が残っているだろう。まさか佐川事件のように、廃棄したということはないだろう。
古い「党の方針」は文書として残っていないかもしれないが、最近の文書ならネットでも公開されている。2012年に自民党は「改憲草案」をまとめている。それは「安倍の方針」ではなく「自民党の方針」である。その案では9条2項を完全に削除している。そのうえで「第九条の二 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。」と定めている。その後、2012年の「改憲草案」が更新されたとは、どこにも書いていない。
つまり、安倍は「党の方針」についてダブルスタンダード(二重基準)で動いている。「改憲は党の方針」と一方でいい、他方で「2012年の党の方針」を無視している。「総理」だから気に食わない「党の方針」は自分の都合にあわせて変更するのが「当然」と主張している。
これは「独裁者」の主張である。あるいは感情と言ってしまった方が正しい。「論理」など、ないのだ。
すべてを安倍の都合に合わせる、それが「当然」という主張は、すでに安倍周辺を支配している。佐川事件(籠池事件)、加計事件を思い出すだけでいい。安倍が批判されるのは安倍にとって不都合である。不都合な資料はすべて廃棄しろ、ないものにしろ、ということが起きている。
この調子でゆくと「2012年の自民党改憲草案」というのも廃棄される可能性がある。廃棄されなくても、安倍がかつて主張したように「改憲草案は谷垣総裁のときにつくられたもので、私は関係がない。私は一度も9条2項を削除すると言ったことはない」と言うだろう。
あらゆることを「私は一度も言ったことがない」という主張で押し通す安倍。「おぼっちゃま」は何も言わない。まわりが「忖度」し、願いをかなえてくれる。「独裁者」はますます暴走する。それを批判する人がどこにもいない。対抗馬の石破れでさえ、準備してきた原稿を棒読みしているだけである。一部の動画を見ただけの印象だが。
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位
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自民党憲法改正草案を読む/番外226(情報の読み方)
2018年09月15日の読売新聞(西部版・14版)。安倍と石破の「討論」が載っている。「討論」になっていない。だいたい安倍の主張が
新しい国造りに挑戦
というのだから、あきれかえる。「新しい」は初めて総裁選に立候補するときにつかうことばであって、三期目で「新しい」はないだろう。「新しい」という限りは、これまでの二期が間違っていたことになる。実際、間違っているのだが、間違っていたから「新しい」国へと方向転換するというのなら、どこが間違っていて、それをどう訂正するかを言わないといけない。
安倍は不都合な事実を突きつけられると、「私はそういうことは一度も言っていない」と主張する。安倍の発言で一貫しているのは「私はそういうことは一度も言っていない」だけである。
読売新聞には掲載されていないが、アベノミクスとトリクルダウンについて石破から問われたとき、安倍は「私はトリクルダウンとは一度も言っていない」と反論している。安倍のブレーンの竹中が言っただけだと言い逃れるつもりだろうが、ブレーンが言ったときに、それをその場で否定しない限りは安倍が言ったに等しい。TPPのときもポスターに安倍の顔と「TPP反対」と書いてあるのに「一度も言っていない」と主張した。ポスターに書いてあるだけというこだろう。「何も言っていない、まわりがそう決めたこと」というのが「お坊っちゃま」の考え方である。
いちばんのポイントの「憲法改正」についてはどうか。
記者とのやりとりで、答えている。
--9条2項の削減論だったのではないか。変わったのはなぜか。
安倍氏 政治家は学者でもないし、評論家でもない。正しい論理を述べていればいいということではなく、政策として実行し、結果を出していくことだ。自衛隊が誇りをもって任務を全うできる環境をつくっていくことは私の責任だ。
ここでは珍しく「9条2項を削減するとは一度も言っていない」と主張していない。つまり、以前は「9条2項の削減論」だったことを認めている。そのうえで、「政治家は学者でもないし、評論家でもない。正しい論理を述べていればいいということではなく」と主張している。論理的に正しいかどうかは問題ではない、という考え方である。人間の行動を規制するものとして「論理」を認めない。「論理」よりも重要なものがある。何か。「誇り」である。「自衛隊の誇り」こそがいちばん重要だと述べている。
「誇り」というのは個人的な感情である。自衛隊員がほんとうに「誇り」をもっていないのかどうか、私は知らない。安倍はどうやって自衛隊員が「誇り」をもっていないと判断したのか。根拠は示されていない。この発言は、単に「自衛隊が憲法に明記されないと、安倍の誇りが傷つく」という意味ではないのか。憲法に明記されていない自衛隊を指揮しなければならない状態になったとき、安倍の「誇り」が傷つく、ということだけではないのか。言い換えると、敵国から「安倍は憲法で明記されていない自衛隊を軍隊として指揮している。あれが日本の現実だ」と指摘されたら恥ずかしいと感じている(想像している)だけなのではないか。さらに踏み込んで言えば、「自衛隊を誇りをもって指揮したい」というだけなのだ。戦争をしかけて、自衛隊(軍隊)を指揮する。「私は絶対的な最高責任者だ、憲法に書かれているのだから」という「誇り」を持ちたいだけなのだ。
安倍は「私は一度もそういうことを言っていない」と主張するだろう。だが、ことばとは、「言った人」がいれば、一方に「聞く人」がいる。これが問題である。「言ったことば」を「聞いた人」がどう理解したかを無視して、「私はそう言っていない」と後で言っても仕方がない。大事な話は必ず「どう聞いたか」を確認する。重要な「契約」は必ず文書にして残し、互いに交換する。それは「こう主張した」というだけではなく、「こう聞いた」ということを明確にするためである。外交文書では「翻訳」のすり合わせがおこなわれるが、これも「どう聞いた/こう聞いた」を明確にするためである。
改憲に関する記者とのやりとりがもうひとつ掲載されている。先の安倍の発言を引き継いでのものである。
--憲法改正の自民党案を国会に出そうと自民党に号令をかけている。
安倍氏 憲法について、国会に提出するかどうかという(党総裁としての)権限を、私は実行しようとは思っていない。(改憲は)結党以来の自民党の方針であり、党首として基本的な考え方を述べるのは当然のことだ。
この発言には問題点がいくつかある。「(改憲は)結党以来の自民党の方針」というが、誰が、そう言っているのか。安倍がそう言っているだけなのではないのか。「自民党(自由民主党)」は1955年。自衛隊ができたのは1954年。だから自民党が、その当時から、「憲法を改正しなければならない。自衛隊を憲法を明記しないといけない」という主張がおこなわれていたと「仮定」することはできる。だが、その「証拠」は? 結党以来の方針という限りは、明確な「文書」が残っているだろう。まさか佐川事件のように、廃棄したということはないだろう。
古い「党の方針」は文書として残っていないかもしれないが、最近の文書ならネットでも公開されている。2012年に自民党は「改憲草案」をまとめている。それは「安倍の方針」ではなく「自民党の方針」である。その案では9条2項を完全に削除している。そのうえで「第九条の二 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。」と定めている。その後、2012年の「改憲草案」が更新されたとは、どこにも書いていない。
つまり、安倍は「党の方針」についてダブルスタンダード(二重基準)で動いている。「改憲は党の方針」と一方でいい、他方で「2012年の党の方針」を無視している。「総理」だから気に食わない「党の方針」は自分の都合にあわせて変更するのが「当然」と主張している。
これは「独裁者」の主張である。あるいは感情と言ってしまった方が正しい。「論理」など、ないのだ。
すべてを安倍の都合に合わせる、それが「当然」という主張は、すでに安倍周辺を支配している。佐川事件(籠池事件)、加計事件を思い出すだけでいい。安倍が批判されるのは安倍にとって不都合である。不都合な資料はすべて廃棄しろ、ないものにしろ、ということが起きている。
この調子でゆくと「2012年の自民党改憲草案」というのも廃棄される可能性がある。廃棄されなくても、安倍がかつて主張したように「改憲草案は谷垣総裁のときにつくられたもので、私は関係がない。私は一度も9条2項を削除すると言ったことはない」と言うだろう。
あらゆることを「私は一度も言ったことがない」という主張で押し通す安倍。「おぼっちゃま」は何も言わない。まわりが「忖度」し、願いをかなえてくれる。「独裁者」はますます暴走する。それを批判する人がどこにもいない。対抗馬の石破れでさえ、準備してきた原稿を棒読みしているだけである。一部の動画を見ただけの印象だが。
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位
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「天皇の悲鳴」(1500円、送料込み)はオンデマンド出版です。
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