詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(136)

2018-11-21 09:49:18 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
136  無際限の墓

 「意味」が強い。「意味」ではなく、その「強さ」の方を感じ取ればいいのかもしれない。

死んだ彼は焼かれて遺灰になり 海に撒かれた
地球を覆う海ぜんたいが 彼の墓になった
太陽の熱が海水を吸いあげれば 天空も墓
吸いあげた水が雨と降れば 野も山も墓
彼は宇宙になった 否 宇宙が彼になった

 最終行の「否」が「強さ」を強調している。この「否」はなくても「意味」はつうじる。つまり、言い換えると、この「否」は「即」である。

彼即宇宙 宇宙即彼

 この「彼即宇宙」から「宇宙即彼」の「言い換え」の瞬間、「否」が入り込んでいる。強烈な接続を「否」ということばで切断する。切断することで、そこには決して切ることのできない「接続」があることを示す。
 ここからさらに、こんなふうに「誤読」を重ねてみる。

彼即死 死即彼

 「彼」と「死」の関係は、こう言い換えることができる。そして、そう言い換えた瞬間「死即生/生即死」ということばがやってくる。「宇宙」が「墓/死」と呼ぶとき、「宇宙」はまた「生」そのものとして「彼」を高橋の眼前に呼び出す。
 だから、詩を書かずにはいられない。
 「彼」が誰を指すのか私は知らないが、高橋にとって重要な人だったのだ。「名前」を言う必要がないくらい、高橋の「肉体/いのち」そのものに組み込まれた人だったのだ。







つい昨日のこと 私のギリシア
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50年後の発見(2)

2018-11-20 23:57:43 | 50年後の発見

 井波は欄間で有名だ。木彫職人が店を並べている。
 川田良樹を尋ねた。店先で作品をつくっていた。どの店もそうだが、こうやって仕事風景を見せながら、客を待っている。
 彫っていたのは龍。正月の縁起物なのだろうか。ほかにも正月の縁起物らしい作品が並んでいる。




 川田の人柄なのか、堅実な印象がある。叩いても壊れない、という感じ。木だから、叩いたくらいでは壊れないのは当たり前なのだが。

 そうした縁起物のほかに、少女の像もつくっている。やはり美術品は、美術館や個人所蔵が多くなるので、手元にはなかなか残していない。
 工房訪問のむずかしさは、このあたりにある。つくっている途中の作品、完成したばかりの作品を見る楽しさはあるが、写真で知っているあの作品はどこ?となると、作家のアトリエにはないのだ。




 少女像は、胸のそらした感じが、顔の表情にまでつながり、あたたかな春の光を感じる。さわやかな希望が、体中にひろがっていく。その感じを、あじわいつくそうとしている。
 上半身のラインが美しい。
 足元には、作品をつくるための、小さなモデルがあった。実物を見ることができないのは、残念だった。



 ネットに残っているものでは、この作品がいちばん美しい。少女の肉体と、裸体に巻いた布のリズムが楽しい。足のバランスも落ち着いている。



 岩倉雅美は欄間を彫っていた。
 やはり店先で客を待ちながらの制作である。




 手元にある作品は、モダンアート風のオブジェ。同級生の中では作風が変わっている。面が組み合わさって立体になるのか、立体が解体して面になるのか。接続と同時に、切断もある。相反する概念をつなぎとめるものとして、木を選んでいるのだが、理に走りすぎている感じがする。




 木が時間をかけて一本の木に育つように、作品の中で概念が育ってくるとおもしろいと思う。木のことはよくわからないが、形と材質が固く結びつくと違った風に見えるかもしれない。
 展示場所も選ぶ作品といえる。違う場所で見れば、また違った感じがするだろうと思う。欄間をつくっている店先とは相いれない気がする。
 


 ひな人形は、形が落ち着いている。つくりなれている安心感がある。
 モダンアートの試みもいいけれど、手になじみのある形の方が、木が生きている感じがする。

 高桑良昭の作品は、鯉が印象に残った。




 シンプルな形に作為がない。自然な美しさがある。うろこのパターンと、顔の対比も鮮やかだ。一匹つくるというよりも、何度も何度もつくってきたことを感じさせる静かさがある。鯉をつくることが生活になっているのだろう。
高桑本人の写真は、手振れでぼけてしまった。申し訳ない。




井波には瑞泉寺がある。その山門の柱に掘られた獅子がおもしろい。右側の柱は、獅子が子供を滝から突き落としている。左の柱には、滝壺からよじ登ってくる子獅子が掘られている。そうやって生き延びるものだけを育てる。厳しい自然の掟である。
 この獅子を見ながら、私の同級生は育ったのだ。
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estoy loco por espana (番外25)

2018-11-20 11:50:21 | estoy loco por espana
Javier Messia の展覧会のポスターから。




天地が対称になっている。
正確には対称ではないのだが、正確ではないからこそ、対称という意識を覚醒させる。
そして、ここにある対象の乱れは何か、ということを考えさせる。
水面(たとえば川、たとえば海)に映った夜の街。
銀色は窓の光か、星か。
星ならば、それは降ってくる星。
星がビルの中で明かりに変わる。
そういう夢を誘う。
夢とは、世界の「誤読」である。
「誤読」は、対称の乱れによって誘い出された感情である。



El cielo y la tierra son simétricos.
No es exactamente simétrico. Debido a que no es preciso, hace que se despierte la conciencia de simetría.
Y pensemos en cuál es la perturbación del objetivo aquí.
Ciudad nocturna en la superficie del agua (por ejemplo río o mar).
¿Es el color plateado una luz de ventana, una estrella?
Si es una estrella, es la estrella la que baja.
Una estrella se convierte en una luz en un edificio.
Invita esos sueños.
Un sueño es una mala lectura del mundo.
La mala lectura es una emoción inducida por el trastorno de simetría.
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(135)

2018-11-20 00:19:09 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
135  雪崩 那須スキー場献花台前にて

きみたち十七歳の七人 引率の若い先達を入れてつごう八人を
突然の雪の塊が襲い 呑みこんだ 誰もが予想しなかったこと

 と、事故のことを書いている。その「誰もが予想しなかった」を、高橋は、こう展開する。

おそらく 雪塊だってそう きみたちの匂い立つ若さを見て
急に惜しくなったのだ 数年のうちにむくつけき大人に
ついには無残な老人にしてしまうのが なんとも忍びなくて
そこで思わず知らず 走り寄り 覆いかぶさってしまったのだ

 雪、雪崩に「意志」を与えている。しかし、それは高橋の「意志」である。「思い」である。
 自然は非情、情けなど持っていない。意志なんかも持っていない。だからこそ美しい。人間の情けも意志も無視して動いているから、私たちは、人間そのものになる。その瞬間に、美しさが響きあう。
 自然に「意志」や「情」を与えてはいけない。自分の考え(欲望)を代弁させてはいけない。
 「思わず知らず」ということばがあるが、「何も思わず、何も知らず」を貫かないと自然とは言えない。

 詩は「人情」を描くものかもしれないが、「人情」が「論理」として動き始めると、窮屈で味気ない。

いずれにしても きみたちはとこしえに浄らかな十七歳

 この最終行は「論理的結論」ではある。しかし、それは「とこしえに浄らかな」ものというよりも、淫らとしか言いようがないものだ。








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50年後の発見(1)

2018-11-19 10:42:48 | 50年後の発見
 高校時代の同級生の作品を尋ね歩いてみた。
 私は木に携わる仕事をしてみたかった。しかし、高校に入って実際に木に向き合ってみて気づいた。私の「立体感覚」は同級生に比べて格段に劣る。机の引き出し、つまり「箱」さえ正確な形にならない。立体をつくることに向いていない。
 就職先もなく、大学へ進学しようかな、でも木の仕事もしたい。そう思っていたとき、県美術展で大丸晃世(勉)の作品を見た。男の頭。コンクリート製。圧倒された。私にはやっぱり立体はつくれない。夢は完全にあきらめた。
 その作品をもういちど見たかったが、大丸は持っていなかった。美術館にある。他の写真でしか見たことのない作品も、美術館か個人の所蔵。自宅と工房にあるのは、完成直後か作りかけのもの。いわば、まだ誰も見ていない作品。それを紹介する。



 「揺光」という作品。
 手前には水草(菖蒲のようなもの。名前を聞いたが忘れてしまった)。背後が波。光が反射している。写真ではわかりにくいのだが、波のなかにそれぞれ水紋がある。つまり、光の変化がある。その変化は光の揺れである。水草は、その光の揺れを隠すように、まっすぐに直立している。しかし見ていると、水草の背後に揺れている光が、水草を黒い部分のなかにも見えてくる。隠しているもの(水草)と隠されているもの(水紋/光)が交錯し、入れ代わるような感じ。一体になって、「宇宙」になる。平面作品と呼んでいいのだと思うが、「平面」ではなく「空間」が広がる。



 改めて「水紋」を見る。とても細かい変化だ。手が非常に込んでいる。しかし、スピード感がある。水の揺らぎは、私のような目の悪い人間には再現できない。動きが速すぎて、どういう形をしていたか、どういう色がそこにあったのか、はっきりとはわからない。揺らいでいた、光っていた、とことばにするだけだ。大丸は、その変化を確実にとらえている。光の変化よりも、大丸の視力の方が速い。手の動きの方が速い。手のスピード、正確な強さが揺れる光をつくりだしている。
 水草も繊細だ。輪郭部のこまかな線は、水草の揺れか、厚みか。揺れだと仮定してみる。不思議なことに、その「揺れ」によって、水草の直線の強さがさらに強くなっていると感じる。剛直さと繊細さが同居している。



 鹿と森か、鹿と草原か。背後の模様が何を表しているのかわからないが、わからないことが魅力だ。突然、鹿を目撃する。あ、鹿がいる。そう思うとき、私は森も見ていないし、草原も見ていない。まるで「異界」から鹿があらわれ、いまいる世界(森、草原)を異界そのものに変えてしまったかのよう。「芸術」の瞬間というか、美に触れた瞬間というのは、これに似ている。すべてを理解するわけではない。何かに驚く。驚いて、自分の知っていることが壊され、壊されることで、もう一度生まれ変わる。「あ、鹿だ」と叫ぶ瞬間。それから鹿が二頭いる。楽しそうだ、と感じる。その楽しいは、鹿の楽しさであり、また私の楽しさだ。私はまだ生きているんだなあ、と感じる喜びと言いなおしてもいい。これ、いいなあ、これ、ほしいなあ、と思う。「欲望」が生まれてくる。



 海の上を飛んで行く鶴。高い空を飛んで行く鶴、かもしれない。(これは写真で知った。実際には見ていない。)
 鶴は鶴の背後の波、あるいは空(雲、光の変化)を隠している。しかし、鶴が動くと、その鶴のいた空間を波、光がすばやく埋める。水草と揺れる光の関係に似ている。世界の広がり方は、「揺光」よりも広く、その広さは拡大していく広さである。鶴が飛ぶからだろう。鶴の動きが世界を広げていく。
 二頭の鹿の作品に似ていいるかもしれない。二頭の存在が、動きを誘い合う。呼応が音楽を生み出す。



 大丸が住んでいる庄川は井波の近く。井波は欄間で有名だ。大丸も依頼を受けて欄間をつくっていた。松。凝縮と解放のバランス、リズムが強烈だ。幹、節の感じから判断すれば、この松は老木なのだが、力がみなぎっている。葉っぱの先まで、力が動いている。「枠」をはみ出して生きていこうとしている。この躍動が、とても自然だ。
 「揺光」について書いたときも触れたが、手が速いのだ。揺るぎ、ためらいがない、と言い換えてもいい。「肉体」が覚えている。木を覚えているし、見たものも覚えている。覚えているものを育てるようにして、手が動いている。







 ひな人形、天神様もつくっていた。(完成した天神様は、提供写真)
 こうした作品にも、スピード感を感じる。つくりたい形を大丸は確信している。どこに、どうノミをあてれば、木はどう変化するかを熟知している。
 ひな人形は彩色されている。それも大丸の手によるものである。着ている服、その色と模様も美しいが、私は人形の目に引きつけられた。とても澄んだ目をしている。人のつくるものは、つくった人に似るというが、人形の目は大丸の目と同じように、ここにあるものを超えて、その遠くにあるものをしっかりと見つめている。
 天神様については、大丸は「厳しい顔の天神様をつくりたい」と言っていた。写真の天神様は、まだ柔和かもしれない。顔の「ノミ痕」が菅原道真の厳しさをあらわしているかもしれない。
 この作品にもスピードを感じた。スピードが、作品に「生きている」という感じを生み出している。「飾り物」ではなく、生きている存在。生きていると感じさせるものが、芸術なのだろう。








 大丸の工房は合掌造りを解体、移築したもの。天井が高く、いろりがある。いろりには炭。昼間だったので、灰でつつみ、火を守っている。
 無農薬でコメをつくり、柚子もネギもつくっている。
 どこにそんなに時間があるのだろうと思うけれど、すべてのことが「肉体」にしみついていて、確実なのだろう。知っていること、確信していることを、確信しているままに実行する。
 そういう強さが、いたるところにあふれている。



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高橋睦郎『つい昨日のこと』(134)

2018-11-19 00:00:00 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
134  怠惰

北にも 南にも 微笑の影で牙を剥く国国
東には つねに虎視眈々と侵入の機を伺う大国
海上はるか西には まさに勃らんとする僣主たち
その緊張の中で アテナイの詩は磨かれ 輝いた
とすれば 今日の私たちの怠惰は 謗られて当然
四方をひしひし 怖ろしい敵に囲まれながら
自己満足か仲間向けの非詩を 濫作するのみ
<・blockquote>
 古代アジアと現代日本を対比しながら、現代の日本の詩を批判している。「論理」が動いている詩である。「とすれば」ということばが「論理」を際立たせている。
 アテナイの「詩」に、現代日本の「非詩」が対比されている。「詩」とは書かずに「非詩」とわざわざ否定している。これも「強調」である。
 こういう「論理の強調」(観念の強調)は、味気ない。
 論理や観念を読みたくて詩を読むわけではない。むしろ、論理にならないもの、観念に抽象化されないもの、「具体的」なままの存在に触れたくて詩を読む。







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高橋睦郎『つい昨日のこと』(133)

2018-11-18 00:00:00 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
133  花冠

どんな理屈を捏ねようと 白昼の群集の中でのきみの自爆は美しくない
きみに何の縁もゆかりもない無辜の人びとの笑顔を巻き込んだからには
きみの匂い立つ盛りの若さを犠牲にしたとしても 涼しい木蔭は約束されまい

 「涼しい木蔭」はコーランが約束する「天国」の描写のひとつだから、ここに書かれている「自爆テロリスト」はイスラム教徒ということになるだろう。
 書かれている「意味」はわかるが、私はこういう「倫理」を詩や小説で読むことは好きではない。
 もっとわけのわからないものに触れてみたい。自爆テロリストを擁護するわけではないのだが、「文学」なのだから、「あ、そんなことをしたら自爆テロが失敗する。もっときちんと準備しなくちゃ」というような感じで、テロリストのことを心配してみたりしたい。テロリストになってみたい、と思う。

 一方、

地獄に送るにふさわしい黒い花冠だって 無ければなるまいからだ

 「地獄」「黒い花冠」か。この組み合わせは、とても美しい。「地獄」が「黒い花冠」によって、美しいものに変わる。
 うーん。
 もしかすると、高橋は、自爆テロリストを「倫理的/論理的」には批判しているけれど、どこかでそれとは違った視点で見ていないか。私は何かを見落としていないか。そういうことを考えてしまう。

 こういうことは突き詰めずに、「保留」したままにしておく。その方がいいだろうと思う。いつか詩を読み返すときのために。





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高橋睦郎『つい昨日のこと』(132)

2018-11-17 00:00:00 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
132  独裁者は

 「独裁者」が誰のことを指しているのか、私にはわからない。
 独裁者は、
 
夜半の誰もいない執務室で ひとり呟いている
誰か俺を殺してくれ 殺してらくにしてくれ と
しかし 呟きを聞いてしまった不寝の番は殺される
毎夜毎夜 一人ずつ殺される 両耳ずつ塩漬けにされる

 「耳」が切断され「塩漬け」にされるというのは、不気味で、強い。さすがに「独裁者」はやることが違うと感動してしまう。
 でも、

塩漬けされた耳たちは眠らない 眠らない耳たちに囲まれて
独裁者は不眠 何千日 何十年も 苛苛と不眠つづき
終わることのない不眠の中で 死への渇望はますます募る

 こう「論理的」に転換してしまうと、「結末」が「推理」できてしまう。
と書きながら、突然、三島のことを思ったりする。三島の華麗な文章は、とても「論理的」ではないだろうか。華麗さを「論理」で押さえている。記憶の中にある三島の印象で書いているので、どこがどういう具合にとは言えないのだが。「論理的」だから「人工的」という感じにもなる。
そして、この「論理的/人工的」という部分で、高橋と三島は重なり合うかもしれないなあと思ったりする。「野蛮」がない。「暴力」がない。







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高橋睦郎『つい昨日のこと』(131)

2018-11-16 00:00:00 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
131  一人が立つには

彼が殺したのは生みの父ではなく 年の離れた兄
場所は 人気のない曠野の三又みちではなく
国際都市の 旅行客でごった返す空港ロビー
それも みずから刃ものを握って ではなく
行きずりの女に持たせた毒薬を噴射させて

 これは北朝鮮の指導者を描いている。「時事詩」と言えるかもしれない。しかし、もしギリシア悲劇作家が現代も生きているとすれば、このできごとも劇にしただろう。いまさら「人気のない曠野の三又みち」はない。やはり、「国際都市の 旅行客でごった返す空港ロビー」の方が劇に向いている。古代ギリシアが「空港ロビー」を舞台にしなかったのは、当時、空港ロビーがなかったからにすぎない。
 そう思って読むと、これはもう完全に「ギリシア悲劇」である。

一人が立つには 他の何人もが倒されなければならぬ

 「ならぬ」の断定が「強い」。この「強さ」は集団(国家)が引き起こすのではなく、個人が噴出させる「強さ」である。

場所はまっぴるまの雑沓でなければ 早朝の暗がり
手段は何でもよい 結果が確実でさえあれば

 「確実」。これこそがギリシアの神髄だろう。
 「集中力」が、あらゆる「確実」を生み出す。

 ふと、ギリシア悲劇のカタルシスを思う。「犯罪」を肯定することはできないが。



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外国人材

2018-11-15 10:56:09 | 自民党憲法改正草案を読む
外国人材
             自民党憲法改正草案を読む/番外247(情報の読み方)

 2018年11月15日の読売新聞朝刊(西部版・14版)。1面の見出し。

外国人材 介護最多6万人

 「外国人材」とは何か。「介護最多6万人」を手がかりに考えると、外国人労働者のことである。「政府は14日、外国人労働者の受け入れ拡大を検討する14の業種別に、2019年度から5年間の受け入れ見込み数を公表した」と書き出しにある。
 なぜ「外国人労働者」としなかったのか。目新しいことばに出会ったときは、そこに何かが隠されていると読むべきである。読売新聞が独自に考え出したことばなのか、政府の意向を受けてそう表現したのか。他の報道機関がどう表現するか、そを見てみないとわからない。
 この「外国人材」に呼ばれる外国人労働者の問題は、3面に解説記事が掲載されている。「14業種人数 根拠示さず」という見出しで問題点を指摘しているが、私は見出しになっていない部分(記事)に注目した。

(1)外国人技能実習生で問題となっている失踪をどう食い止めるか、社会保障制度の悪用をどう防ぐかも課題だ。

 「外国人技能実習生」は「技能実習生」ではなく「単純労働者」が実態ではないのか。「単純労働者」を「技能実習生/人材」と呼び変えて、実態を隠していることに問題の発端がある。
 言い換えると、「実習生」が「実習生」としてきちんと処遇されていれば、彼らは「失踪」などしないだろう。「失踪」の理由を作っているものは何かという視点からの考察がなされていない。
 カット写真に、富山県のかまぼこ工場で働くベトナム人の「技能実習生」が登場している。私はかまぼこ工場で働いたことがないから推測で言うのだが、この「実習生」がしている仕事は5年間かけないと身につかないものなのか。せいぜいが1日見習いをして、それからすぐに働けるような「単純労働」なのではないのか。5年間、そういう仕事をして、どういう「技能」をベトナムに持ち帰るというのか。工場のシステム、経営の方法まで学べるのか。そういうことはせず、ただ「単純労働者」として5年間も低賃金でこきつかう。これでは、もっといい「仕事(高賃金)」を求めて、失踪したくなるだろう。
 「社会保障制度の悪用を防ぐ」というのも、ひどい言い方である。日本にきて、日本で働いていれば、日本の社会保障制度の適用を申請することにどんな問題があるのか。人権をもったひとりの人間としてではなく、使い捨ての労働者という視点で見るから、社会保障制度が悪用(?)されている、と感じるのだ。日本人が支払った税金が外国人をすくうためにつかわれるのはおかしいという発想が生まれる。同じ社会に生きているなら、そして外国人が日本人を助けてくれているなら、もっと外国人を大切にしないといけない。

(2)人手不足で24時間営業の中止に追い込まれた外食チェーンは多い。外国人労働者を確保できれば、営業時間の拡大だけでなく、労働需給が緩み、人件費負担を軽減できるとの思惑もある。

 「人件費軽減」と書かれているのは「日本人の賃金を引き下げることができる」ということである。簡単に言いなおすと「外国人は時給 600円で働いている。日本人なら 660円だ」という具合に賃金を、安いレベルに引き下げるということ。「働きたいのなら(金が必要なのなら)、この条件をのめ」ということだ。「思惑もある」ではなく、これが本当の狙いなのだ。日本人の賃金も引き下げる。そうすることで企業の利益を上げる。そのための政策なのだ。
 外食産業が引き合いに出されているが、人手不足が深刻な介護現場も、そうなるにちがいない。いまでも仕事が厳しく低賃金が問題になっているのに、それにさらに拍車がかかるということだ。
 外国人労働者を5年間で使い捨てながら、低賃金を守る。できるなら、さらに低賃金にするためのシステムなのである。

(3)日本建設業連合会の山本徳治事務総長は、「外国人が就労期間中に職を失うこともある。失職者にどう対応するのか、政府は考えるべきだ」と指摘する。

 建築工事が終われば仕事がなくなる。「職を失う」というより、雇用している会社そのものが「受注」がないので労働者を抱えていられない。だから、首にする。そういうとき、どうするのか。それこそ(1)で取り上げた「社会保障制度」が問題になる。安倍は、こういう「人権」に関わる問題をまったく気にしていない。目先の「経済利潤」しか理解できない。「外国人は母国へ追い返せばいい」と思っている。言い換えると「労働人口の調整弁」として外国人を利用しようとしている。

 「外国人労働者」の人数をどうするか、ということではなく、「人間」とどう向き合うか、という視点が欠如している企業の利益をどう確保するか(その見返りに自民党への献金、安倍へのわいろをどう確保するか)ではなく、私たちは人間としてどう生きるべきなのかという哲学が完全に欠けている。
 安倍はもちろんだが、追及する野党の方も意識が十分とは言えない。
 (2)で見たように、「外国人労働者」に適用されるシステムは必ず日本人にも適用される。「外国人にできることが、なぜ日本人にできない」というような「精神論」も出てくるかもしれない。「ほしがりません、勝つまでは」が復活する。戦場は「グローバル化した世界市場」である。すでに、日本は中国に負けている。このことが、安倍には、とうてい我慢できないことなのだろう。だから、「経済戦争」での敗北を、武器をつかった戦争で取り返そうと、戦争もはじめるだろう。そのために憲法が改正されようとしているということも忘れてはならない。
 「外国人労働者」の問題と、憲法改正は、深いところでつながっている。外国人はどうなってもいい。日本の労働者もどうなってもいい。企業さえもうかればいい。企業が自民党に献金し、安倍が潤うなら、それでいい。それ以外のことは、安倍は考えていない。

 


#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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長尾高弘『抒情詩試論?』

2018-11-15 00:40:34 | 詩集
長尾高弘『抒情詩試論?』(らんか社、2018年10月31日発行)

 長尾高弘『抒情詩試論?』には、最近見かけなくなったスタイルの詩がある。「境」という作品。

道の両側に、
並木のように連なっている、
電燈のなかの、
一本の根元に、
小さな花束が、
くくりつけられている。

 一行が短い。短さを狙っているわけではないと思うが、短い。ここに、私は少し驚いた。かつて詩が手書きだったころ、一行は短かった。ワープロが普及してから一行が長くなった。印象で言うだけなのだが、倍の長さになったと思う。
 手で、原稿用紙に書いていたときは、一行20字の「枠」が見える。20行の「枠」も見える。ことばといっしょに空白も見える。ワープロでも見えるのだが、一行の字詰め、行数が原稿用紙とは違うので、どうしても長くなるのだと思う。
 縦書きで書くか、横書きで書くか、ということも影響しているかなあ。
 どうでもいいようなことだけれど、大切なことかもしれない。
 一行の「密度」、なぜ、そのことばで一行にするか、という意識が、ワープロ以前、ワープロ以後では違ってきている気がする。
 これは詩集全体の姿についてもいえる。
 以前は十篇、十五篇というような、軽い感じ、同時に緊張感のある詩集も多かったが、最近はそういう詩集は少なくなっているなあ。

 あ、脱線したか。

 詩の続きを引用する。

誰もが、
気が付かないふりをして
通り過ぎていくが、
本当は、
ああ、
ここはそうなんだ、
と、
一瞬でも思っているのだ。

 一行にしては「情報量」が少なすぎるかもしれない。でも、一行にしたいのだ、と思う。その「一行にしたい」という意識のなかに、何か、なつかしいものを感じた。
 「ああ、」「と、」で一行として耐えられるのか。独立できるのか。独立できないかもしれない。でも独立させたい、という意識の強さを、ふと感じたのだ。

 詩集の中では「運送業」をいちばんおもしろく感じた。

もとはと言えば、
ギリギリまで粘っていたのが悪いんだけどさ、
駅に着いてみると、
終電に乗れるかどうか微妙な時間。
乗り継ぎがあるもんだから、
帰れるかどうかよくわからなくて、
駅員さんに聞いてみたわけ。

 とはじまり、乗り換えのたびに、どたばたする。それを時系列どおりに書いている。こういうとき、一行の意識って、どういうものなんだろう。
 長尾はていねいだなあ。
 省略がない。省略しているかもしれないけれど、省略しているようには見えない。この飛躍のなさ(?)というか、小学生の作文みたいな「正確な」リズムは、妙におかしい。「正確」であることが、長尾にとってはいちばん大事なことなんだろうなあ、と思う。
 で、ここから先に引用した「境」に戻ってみる。
 あの一行一行も、「正確」に書こうとして、そうなったんだなあ。
 手書きのときは、一字でも書き間違えたら、最初から全部書き直す(清書し直す)タイプの詩人だったのかもしれない。
 ワープロになってからは、訂正(修正)というのは簡単だから、そういうことも、いまの詩には影響しているかもしれない。長尾が手書きで書いているとは思わないが、「手書き」のリズムをどこかにしっかり残している。
 そんなことを感じた。





*

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抒情詩試論?
クリエーター情報なし
らんか社
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(130)

2018-11-15 00:00:00 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
130  愚者ばんざい

愚者ばんざい
愚者の王が選ばれた
国民は愚者の国民になった
国家は愚者の国家になった
愚者の時代は少なくとも四年
国民がさらに望めば八年

 「四年」「八年」を手がかりに読めば、これはアメリカ合衆国とトランプ大統領のことを書いているのだろう。
 しかし、

愚者は何でもし放題
しかも何の責任もなし
これほど楽しいことはない
愚者の国は毎日がお祭り
ひたすら滅亡へ歌え踊れ
愚者ばんざい愚者の国ばんざい

 この部分を読むと、日本の姿を語っているとも読むことができる。
 だれも責任をとらない国。第二次世界大戦で、ドイツはヒトラーを裁いた。しかし日本は天皇の責任を追及しなかった。ここから始まった無責任体制は、いま、安倍の元でさらに拡大している。安倍は責任をとらない。かわりに公務員が自殺に追い込まれる。

 もう、日本は滅んでしまっている。
 私は「ばんざい」ということばで皮肉りたくはない。
 「云々」も読めない安倍は、「ばんざい」を風刺とは受け取ることができないだろう。「称賛」と受け取るだろうから。












つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社


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溝口健二監督「近松物語」

2018-11-14 17:35:15 | 午前十時の映画祭
溝口健二監督「近松物語」(★★★)

監督 溝口健二 出演 長谷川一夫、香川京子、進藤英太郎

 私が生まれたころの映画。
 長谷川一夫は「美形」として有名だが、私は実際に舞台では見たことがない。映画は何か見たかもしれないが記憶にない。
 で。
 顔が人形浄瑠璃の人形みたいだなあ、というのが一番の印象である。「美形」ではあるが、表情が動くというわけではない。その顔の中にあって、「目」だけは特別である。表情筋は動かないが、目は動く。そして、その目は長い睫毛で縁取られている。ほんものだろうか。付け睫だろうか。わからないが、ともかく「目」に引きつけられる。
 これに比べると(?)、香川京子は「人形」になりきれていない。見ていて、私の視線が散漫になる。
 こういう感想は、映画の感想にはならないか。あるいは映画の感想の「核心」をつくことになるのか。よくわからない。
 この「人形」みたいな顔の長谷川一夫は、動きも「人形」みたいである。あまり「肉体」を感じさせない。最初の登場シーン、風邪で寝込んでいるところなど、風邪の肉体をぜんぜん感じさせない。ただふとんの中で横になっていて、それから起き上がるだけ。しかし、これがなぜか印象に残る。
 見せようとしていない。存在感をアピールしない。物語のはじまり、状況説明、登場人物の紹介を、ただたんたんと果たしている。
 クライマックスは、香川京子との「心中未遂」のシーン。舟で琵琶湖に漕ぎだす。いよいよ入水という瞬間に、香川京子の気持ちが変わる。そして二人で抱き合う。舞台装置(?)は舟と水だけ。それが、とても美しい。三味線の音楽が、こころをかきたてる。そのこころを溢れさせるのではなく、ぐっと抑え込んで、肉体になる。こういうとき、人間の肉体というのは、もっと動くものだと思うが、あえて動かさない。形にしてしまう。それが、なんとも不思議な美しさなのである。
 芝居とは、芝居における役者の役割とは、役者が肉体を動かし感情を溢れさせることではなく、観客が意識の中で自分の肉体を動かすように仕向けることである、と心得ているのかもしれない。
 人形浄瑠璃を私は実際には見たことがないのだが、人形浄瑠璃の人形の動きは限られている。人形をあやつる人が三人。二人は黒い衣装で顔まで隠しているが、その三人の動きも観客は見てしまう。「声」は別の人間が演じている。物語のストーリーを語ると同時に、登場人物の「声」も出す。観客は、見聞きしているものを選択し、そのうえで自分の肉体に引き込む。
 うーむ。
 長谷川一夫は、この映画では、そういう人形浄瑠璃の「人形」そのものになって動いている、という気がする。
 とても「文学」っぽい。
 人形浄瑠璃をぜひ見てみたい、という気持ちにさせられる映画だった。
(午前10時の映画祭、2018年年11月11日、中洲大洋スクリーン3)


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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近松物語 4K デジタル修復版 Blu-ray
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KADOKAWA / 角川書店
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(129)

2018-11-14 12:43:16 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
129  叔父に

 二十歳で戦死した叔父のことを書いている。

詩を愛したあなたは 一篇の詩も残さなかったが
あなたの二十歳の死こそが 書かれた詩以上の詩

 「詩」が何度も繰り返されている。この繰り返しを読みながら、私は、つまずく。ことば(文法)として奇妙なところがあるわけではないが、つまずく。

書かれた詩以上の詩

 この部分の、最初の「詩」に。
 「書かれた以上の詩」と、どう違うか。なぜ、書かれた「詩」と、高橋は書くのか。明確にするために、強調するために。
 そう「理解」することは簡単である。
 だが、私は、やっぱりびっくりする。
 「詩(書かれた詩)」というのは、高橋にとっては、とても重要なのだ。「書かれた詩」と書かないと、高橋のことばは動かなかったのだ。「詩」への思いが非常に強い。その「強さ」に触れて、私はつまずく。
 このあと、詩は、こう展開する。

あなたの死が真正の詩だ と信じるためにも
あなたの駆り出された戦争が 過誤だったとは
思いたくない むしろ過誤ゆえにこそ真正だったのか
過誤でない戦争 過誤でない死など どこにもない
これは古代ギリシアでも 現代日本でも同じく真実/

 この「論理」のポイントは「過誤」をどう評価するか(哲学として引き受けるか)といことにある。「過誤」のなかには「過誤」でしかつかみとれない「真実」がある、ということは、私も信じる。けれど、それを「他人の死」と結びつけることには、私は、抵抗がある。
 「死」は、それぞれが個人で引き受けるしかない。
 「他人の死」は、どうあがいても引き受けられない。「他人」になりかわって「死ぬ」ということはできない。この「事実」は「過誤」ではない。絶対に「過誤」ではないことが、この世にはある。それを「レトリック」で隠してはいけない。
 こういう感想は、詩に対する感想とは言えないかもしれないが、そうであっても私は書いておきたい。「事実」を隠すために詩を書いてはいけない。
 戦争による死は、殺人だ。国家による殺人を「詩」と呼んではいけない。


つい昨日のこと 私のギリシア
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思潮社

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(128)

2018-11-13 08:02:08 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
128  夢の後に

夢の中の私は逃げる若者だったが 目覚めた私は疑いもなく老人
ほんとうは 疎まれても拒まれても追いつづけた老人こそが私

 夢はいつでも「意味」に変わる。象徴はいつでも「意味」に変わる、と言い換えてもいい。
 高橋は、こんなふうに「意味」にする。

追っかけられて逃げつづける若者はPoésieではなかったか

 「意味」はわかるが、高橋が詩人だけに、若者を詩にたとえるのは、いささかつまらない。「意味」になりすぎる。「詩」ではなく「Poésie」と書くところが、さらにつまらない。フランス語で書くことで「意味」を追加している。「意味」をうるさくしている。どこかに「意味」を裏切るもの、「意味」を破壊するものがないと、詩を読む楽しみがない。
 「比喩」は「意味」を引き連れているが、同時に「意味」を破壊し、知らなかったものを教えてくれるものであってほしい。

「物事を見抜く若き見者よ、次に語るのはあなただ……」
それは まかり間違っても 私に向けられた言葉ではない

 簡単に引き下がらずに、「若き見者(ランボー)」になってもらいたい。「老人」のあきらめに触れたくて詩を読むわけではない。少なくとも、私は。


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