詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

今鹿仙『永遠にあかない缶詰として棚に並ぶ』

2018-11-12 08:52:30 | 詩集
今鹿仙『永遠にあかない缶詰として棚に並ぶ』(金雀枝舎、2018年10月23日発行)

 今鹿仙『永遠にあかない缶詰として棚に並ぶ』を読みながら、西脇順三郎を目指しているか、と思った。

ギザギザを書いている指だ
ジャコメッティの本にはなかった
荒野が広がっている
あんなになってはもうさよならと
うたうしかない
葦が葦とむすばれて考えの
大事な原理がにぶる

 「やきゅう(午)」の書き出しである。「人間は考える葦である」とは言わずに、「葦が葦とむすばれて考えの/大事な原理がにぶる」というように、「ことば」をぽきっと折って、その断面を見せる。「その断面」とは、しかし、「ことばの断面」ではなく「教養の断面」である。
 さて、このあと、私は何を書くべきか。

 ずいぶん、悩んだ。

 「教養」がほんものであるかどうか、判断する知識は、私にはない。私は本のない家で育った。教科書以外の本を見たのは小学校の五年か、六年か。父の兄が死んだ。通夜だか、葬式だかに行ったとき、その家には本があった。本といっても雑誌、「家の光」である。それが私の生活である。家には裸電球が一個くらい。夜は飯を食ったら寝る、というのが生活だったから、学校での授業くらいしか「教養」に属するものがない。
 こういう人間が他人の「教養」について判断することはできない。できないのだけれど、なんといえばいいのか、「こっちの方がいいなあ」と感じることはできる。そのとき「いいなあ」という感じのよりどころは、「ことばの響き(音楽)」である。強く、くっきり聞こえる「音」が、私は好きである。
 で。
 西脇と比較するのは酷かもしれないが、「音」がなんとなく物足りない。「明るさ」がない。「むすばれて」のスピードが鈍い。それに「にぶる」が重なる。もっと軽快で、光をはじくような「音」がほしいなあ、と思う。
 「意味」の動かし方に、「脱臼感覚」がないのも、物足りない。西脇のことばの動きは「脱臼」のおかしさと、「脱臼」しても、平気で歩いていく「強さ」が共存している。「明るさ」が「脱臼」を自分自身で笑い飛ばしている。

 こういうことを書いても、しようがないのだけれど。
 思いついたことは書くしかない。

 次の詩は、もっと西脇を想像させるかもしれない。

遠い国からの客人 のような梨
ちょうどきみに似た
カバネルの天使が
気づいてばたばたと飛来する間に
平らげるんだ
(おいしかった もうないの?)
でもいつか
天使以外が手を差し伸べたら
黙ってフォークをおいて
笑いなさい

 「野蛮」の力がない。「フォーク」のことを言っているのではない。「手を差し伸べたら」の「差し伸べる」。ことばの響きが「差す+伸べる」に分裂して、弱くなってしまう。「メロディー」は美しくと整うかもしれないが、物足りない。

 しかし、こんな「理不尽」な感想を書いてしまうのは、この詩集(詩篇)がおもしろいものだからかもしれない。
 ぜんぜんおもしろくなかったら、西脇を引き合いには出さないだろうなあ。

 「もらい手」には、こんな部分がある。

歴史は浅くまだ妹(未)だからしかた
がないが
大根くらいしか飾るものがなかった

 この「大根くらいしか飾るものがなかった」という一行は、とてもおもしろい。「くらいしか」がもたもたしているが、「野蛮」の美しさがある。
 「野蛮」というのは、私のような無教養な人間が口にしてしまってはみっともないだけだが、教養があれば、「野蛮」ほど美しいものはない。いのちがまだ「形式」にととのえられていないまま、「行為」として噴出してくるからだ。
 この行には、そういう「いのちの力」を感じる。「音楽」を感じる。



*

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永遠にあかない缶詰として棚に並ぶ
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金雀枝舎
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(127)

2018-11-12 08:50:37 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
127  作法

 三島由紀夫を描いている。

かねてギリシア党を標榜するあなたにして
あの自裁は すこしもギリシア的とは思えない

 否定で始まり、否定で終わる。

腹をかっさばいたのち 首を断ち落とさせるとは
よろず潔さを旨とする蛮風の風上にすら置けない

 しかし、ほんとうに否定しているのか。
 途中の行は、こうである。

あなたの時代錯誤の血なまぐさい作法は
ギリシア人も ローマ人も 目を覆うだろう蛮風

 ここには「否定」の「ない」がない。「蛮風」には「批判」のニュアンスはあるかもしれないが、「ない」ということばが直接でてこないので、それは「批判」というよりも「ドラマチック」に見える。「劇」に見える。
 何かが、身動きがとれずに、破裂した。
 一種の「カタルシス」がある。

それも公の義のためでなく 私の美のために

 「美」が出てくる。「美」は「カタルシス」のひとつだ。何かが壊れ、それを凌駕する形で何かがあらわれる。「綺麗は汚い 汚いは綺麗」(シェイクスピア)が成り立つ瞬間。
 「蛮風」が「目を覆うだろう蛮風」と「よろず潔さを旨とする蛮風」に二種類の意味をもっていることにも、この詩を読むときは、気をつけなければならない。「蛮風は汚い(目を覆うしかない) 蛮風は綺麗(目を見開いて見てしまう)」「公の義は綺麗 公は汚いを義で隠す 私は野蛮を隠さない 私の蛮風は綺麗」と、ことばを動かして読み直すと、高橋が三島をどれだけ愛していたかがわかる。


つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社

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日本語教育/日本語教師

2018-11-11 20:25:09 | 自民党憲法改正草案を読む
日本語教育/日本語教師(とても長い文章です)
             自民党憲法改正草案を読む/番外246(情報の読み方)

 2018年11月11日の読売新聞朝刊(西部版・14版)。1面の見出し。

日本語教師 資格を創設/政府方針 外国人就労へ対応

 という見出し。
 見出し以上のことは書かれていない。それでも、この問題について書くのは、いまの「日本語教師資格」について非常に疑問を持っているからである。この疑問は、新しい資格によってさらに拡大すると思われる。

 私は、いま安倍が進めている「外国人労働者使い捨て政策」に非常に疑問を持っている。日本語が一定水準にならないと、強制的に母国に帰国させられる。できることなら、日本で働く外国人の手助けができないかと考え、「日本語教師」になるためにはどうすればいいのか、少し調べてみた。
 その結果、わかったこと。
 現在は「日本語教師として日本語学校に勤務する」ためには
①大学で日本語教育科目を専攻
②養成講座で研修
③民間試験に合格
 というのが条件のようである。
 (これを「試験や実習(知識・技能の能力判定)」ののち、「日本語教師資格」を与えるというものに変更する。)

 現行制度の問題点を指摘する。
 ①は具体的には何のことかわからない。大学に「日本語教育科目」というものがあるかどうか、私は知らない。「国語科」の教員になるための科目のことだろうか。
 ②は、民間のものならいくつかある。ヒューマンアカデミーの「養成講座」が有名かもしれない。アルクの「通信講座」というものある。
 ③はたぶん「日本語教育能力検定試験」を指していると思う。

 いちばん費用のかからない方法は③である。
 そこで試しに、「平成29年度 日本語教育検定試験 試験問題」(平凡社、1400円)というのを買って、取り組んでみた。
 いちばん簡単な問題と思われるものでさえ、まったくわからない。「質問」の意味さえ、はじめてみたときは何を言っているか、わからない。こんな具合だ。

問題1 次の(1)-(15)について、【 】内に示した観点から見て、他の性質と異なるものをそれぞれ1-5の中から一つずつ選べ。
(2)【句末での無声化】
   1 数量
   2 義務
   3 作為
  4 合理
   5 保守
(5)【借用における文法形式の脱落】
 1 マッシュポテト
  2 シフォンケーキ
   3 スモークチーズ
   4 アイスコーヒー
   5 スクランブルエッグ
(6)【派生語の語構成】
   1 栄養士
   2 調査官
   3 審査員
 4 依頼人
   5 看護師

 この問題を解くためには「無声化」「借用/文法形式の脱落」「語構成」というような「用語」を知っておく必要がある。これらの「用語」は「問題」と突き合わせると、なんとなく見当はつくが、びっくりしてしまう。
この「用語」が必要ということは、この「用語」をつかって外国人に日本語をおしえるということになるが、ばかげていないだろうか。この「用語」を理解できる水準の外国人はどれだけいるだろうか。それにここに書かれている「用語」がわかれば、その外国人の「日本語の水準」はふつうの日本人以上である。教えることなど、ほとんどない。
具体的に考えてみよう。
 (2)は語尾が「有声音」にならない(声帯をつかわない)という意味だろうから、「5」が正解だろうなあ。しかし、「ほしゅ」という発音をするとき、「ほしゅう」と「う (有声音) 」をつけたとき、このことばの最後は「無声音、ほしゅと発音してください」と説明する先生がいるだろうか。「ほしゅう、ではなく、ほしゅ。はい、まねしてみて」というのがいちばん簡単で性格だ。
 (5)は「マッシュドポテト」「スモークドチーズ」が「英語」の言い方だろうから(過去分詞形が元になっている)、「2」のシフォンケーキが求められる答えだな、とわかる。「マッシュポテトはマッシュドポテトという英語を語源にしています」というのでは日本語の勉強というより英語の勉強だ。。
 (6)は「調査する」人、「審査する」人とは言えても「栄養する」人という言い方は内から「1」が異なっている。このことばも、わざわざ「調査する人」と言いなおし、語源を確かめるなんて、「高等日本語」である。そんなことが理解できる外国人は、わざわざ日本語学校なんかに通い直さない。
 
 これは「問題」というよりも「クイズ」である。
繰り返しになるが、【句末での無声化】、有声化を区別できる(意識化できる)ひとは、日本語を学ぶ必要がない。【借用における文法形式の脱落】の問題は「英語圏」の人には説明として有効だろうが、そうではない人には無意味なことがらだ。それに「マッシュドポテト」と言われて何のことかわからない日本人がいたら、それは「マッシュドポテト」と言った外国人に問題があるのではなく、日本人の言語能力の方に問題がある。【派生語の語構成】にいたっては、聞いたことがないことばを自分で考え出して説明することが必要な人以外には関係ない。「調査官」をわざわざ「調査する人」と動詞にもどして考えることができるなら、当然「栄養士」は動詞を含まないとわかるが、そんなことをしながら日本語を鍛え直すのはプロの仕事であって、「学習レベル」ではないだろう。

 いったい外国人に、どういうレベルの日本語を教えようとしているのか、それが「問題」からは見えてこない。単に「日本語教育能力試験」で、受験生 (合格者) を選別することにしか役立たない。

 いちばん簡単な問題でさえ、設問はさらに多岐にわたり【行為要求のモダリティ】【二つの出来事の継起を表す表現】【副詞の呼応】という具合である。これらは、きっと「教科書」の「分類」で、そういう項目が用意されているのだ。
 「クイズ」であるから、質問「用語」のポイントがわかれば、即座に「正解」にはたどりつけるが、その「正解」を外国人に伝えるには、いったいどれだけ説明すればいいのかわからない。繰り返しになるが、こんな「用語」をつかって説明し、その説明がわかる外国人なら、もうすでに日本語はぺらぺらだ。日本語を学ぶ必要はない。
 だいたい、いま引用した問題の「正解」と「根拠」の説明を聞いて、了解できる日本人は何人いるだろうか。中学生、高校生にわかる? 

 さらに、なんだ、これはというのは次のような問題である。

問題15 次の文章を読み、下の問い(問1-5)に答えよ。

 文部科学省は、「学校教育法施行規則の一部を改正する省令等の施行について(通知)」を示し、平成26年度から、義務教育段階において日本語指導の必要な児童生徒を教育する場合には、(A)「特別な教育課程」によって行うことができることを通知した。年少者を対象にした教育実践では、(B)BICSとCALPに留意したうえで日本語指導を進める必要がある。(後略)
問1 文章中の下線部A「特別な教育課程」における指導内容に関して「学校教育法施行規則の一部を改正する省令等の施行について(通知)」に示されているものはどれか。最も適当なものを、次の1-4の中からひとつ選べ。(選択肢1-4は省略)

 この問題は何のため? こういうことを知らないと、外国人に日本語を教えられない? これは単に「義務教育現場」の先生が知っていればすむことであり、「労働者」として日本に入ってくる外国人の生活がスムーズにいくように、あるいは外国人が働くとき、職場で困らないようにということとはまったく関係がない。
 問2では「BICSとCALP」の説明として適当なものは何かを問うているが、これも同じ。「学習言語能力(CALP)は、文脈への依存度が低く、認知的負担が大きい」というような「説明」を知っていたとして、それを外国人労働者や子供たちに、どう適応するのか。

 で。
 長々と書いてきたが、ほんとうに書きたいのは、これから後のこと。
 この「日本語教育能力検定試験」というのは、「試験」というよりも「クイズ」である。試験に出てくる「用語」をどれだけ知っているかが合否の分かれ目である。つまり、いくら国語指導(日本語指導)の能力があっても、ここに書かれている「用語」を知らない限り、問題を解くことはできない。
 ということは、逆に言えば、「日本語教育能力検定試験」に合格するためには、そういう「用語」を説明してくれる学校、教材を利用しないといけないということである。そして、そこには「日本語の知識」(外国語の知識)だけではなく、「学校教育法施行規則の一部を改正する省令等の施行について(通知)」のようなものも含まれる。文科省がつくったであろう用語「BICSとCALP」も含まれる。
 「文脈への依存度」とか「「認知的負担」というような「用語」に頼らずに、日本語を習っている(必要としている)外国人にあわせて指導方法を考え直し続けることが必要なのに、そういうことは無視して、「日本語教育の指導法マニュアル」をどれだけ知っているかが、試験では問われることになる。
 これは結局、文科省出身の「役人」が、私はこんなにいろいろなことを知っている。何も知らない「教師」は、私の意見に従え、というようなものだなあ。だから、私はこう考える。現在の「日本語教育能力検定試験」というのは、「役人」たちが金儲けのために考え出したシステムだな、と。
 実際、「日本語教育能力検定試験に合格するための基礎知識50」とか「問題集」とかがシリーズ化されて出ている。そして、そこには「じっくり考えれば必ず正解にたどりつけるはずではありますが、限られた時間内の勝負になるので、過去問や模擬問題をつかって受験テクニック的なところも押さえておく必要があります」(基礎知識)というようなことが書かれている。「受験テクニック(合格テクニック)」を教えることで金儲けをしている人間がいるのである。そして、そこには「官僚」が絡んでいるのである。文科省だけではなく、他の省庁も関係している。(設問が、文部省管轄部門だけではない。)
 この「検定試験」の組織は、きっと官僚OBの再就職先になっているのだろう。彼らは「外国人」の日本語レベルを把握していない。どんな日本語が求められているのか、現場の声も知らない。ただ、「合格させてやる」という仕事をしたいだけなのだ。合格したいなら、おれたちを尊敬しろ、こういう教科書を使え、ということを命令したいだけなのだ。そういうひとが、これからつくられる制度でも増えてくる。官僚OBの再就職先を確保するために新しい制度をつくりたいだけであって、「外国人」のことなど、何も考えていない。なんといっても、安倍は、「外国人」を使い捨てすることしか考えていない。日本語に熟達してもらっては、安倍が困る。いかに「外国人」を大切にしているかという「ふり」をするためだけに、新しいシステムをでっち上げようとしている。
 小学校、中学校、高校、大学と「先生」の要求する「答え」をいかに見つけ出し、提出することで「 100点」をとるか競争し、勝ち抜いてきた人間が中心になり、「 100点」をとるためのテクニックを教えるというのは、ばかげていないか。そんなシステムを「日本語教育」のなかで拡大して、いったいどうするつもりなのだ。

 最終的には、「先生の言うことだけを聞く(先生の求める答えだけをこたえる)」というシステムは、「外国人の日本語」そのものにも反映されるだろう。「支配されるための日本語(批判を許さない日本語)」を教える教員がつくりだされ、「日本語を話す従順な外国人」を生み出すためのシステムがつくられるのだ。
 言い換えると、最終的には「奴隷のための日本語」がつくられていくのだ。
 そして、これはやっぱりブーメランのように、日本人の日本語にも適用される。
 すでに指摘したように、「日本語教育能力検定試験」そのものが、そうなっている。彼らがつくりだした「クイズ」の「用語」を理解し、それに従わない限りは、だれもこの検定には合格できないようになっている。
 「日本語」の専門家である作家とか、大学教授とか、新聞記者とか、アナウンサーなどに、この「検定」を受けさせてみれば即座にわかる。何人受かるだろう。「教育能力」というのは、日常の「日本語能力」とは違うとはいえ、こんな「非日常的な用語」で「教育」して、どんな日本語を話せる外国人が育つというのだろう。
 で、繰り返しになるが。
 いったい日本は、どんな外国人を求めているのか。外国人に何を求めているか。外国人と、どう向き合うつもりなのか、そのことから問い直さないといけない。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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estoy loco por espana (番外24)ホアキンの「抱擁」

2018-11-11 12:21:30 | estoy loco por espana


ホアキンの作品。「抱擁」
錆びることで鉄は静かになる。
錆は、鉄と酸素の抱擁だ。
人はなぜ抱擁するか。
抱擁は、感情を分かち合い、支えあうことだ。



悲しみがむき出しになる。
苦悩が暴れ回る。
怒りには行き場がない。

抱擁する。
何も言わずに。
私の沈黙と交換しよう。

抱擁する。
きみの鼓動と私の鼓動が
ひとつになるまで。

誰の悲しみかわからなくなるまで。
誰の苦しみかわからなくなるまで。
誰の怒りかわからなくまで。

抱擁する。
沈黙のぬくもりが二人を包むまで。



 この作品は、錆の美しさをあらわしている。
 錆は鉄の死ではなく、生き続ける鉄の意志だ。鉄の強さだ。
 一人で生きられなくても、二人なら生きられる。
 二人とは、鉄とホアキンのことだ。
 ホアキンは鉄によって生き、鉄はホアキンによって生きる。
 「抱擁」というタイトルが静かで美しい。


Obras de Joaquín. "Abrazo"
La oxidación hace que el hierro sea óxido y sea silencioso.
El óxido es el abrazo o vínculo del hierro y el oxígeno.

¿Por qué las personas se abrazan?
Los abrazos son compartir y apoyar emociones.

*

Tu dolor está desnudo.
Tu ansiedad corre desenfrenada.
Tu ira no tiene un lugar par irse.

Te abrazo.
Sin decir nada.
Vamos a intercambiarlo con mi silencio.

Te abrazo.
Hasta que tu corazón y mi corazón
Latieron juntos.

Hasta que no sepas quién está llorando.
Hasta que no sepas quién está sufriendo.
Hasta que no sepas quién está enjorado.

Te abrazo.
Hasta que el calor del silencio envuelve a dos personas.

*

Esta obra representa la belleza del óxido.
El óxido no es la muerte del hierro, es la voluntad del hierro de vivir. Es la fuerza del hierro.
Incluso si no puede vivir solo, dos personas pueden vivir.
Los dos son de hierro y joaquin.
Joaquín vive por hierro y hierro vive por Joaquín.
El título "abrazo" es tranquilo y hermoso.


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高橋睦郎『つい昨日のこと』(126)

2018-11-11 09:37:01 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
126  醜よみがえる

 「綺麗は汚い 汚いは綺麗--W・シェイクスピア」ということばが「前書き」のようについている。シェイクスピアのことばからギリシアを見直している。

美しさを求めつづけるあまりに 醜さを追放したのは ギリシアの行き過ぎ
追われた醜さは怨霊となり 物怪となり 古家の暗がりや地下の闇に潜んだ
気も遠くなる永い時を経て彼らは蘇った 蘇ったのみか美しさを追放しはじめた
いまでは自分たちこそ真の美しさ これまで美しさを名告ったのは化粧した醜さと
強弁してはばらない 対する昔ながらの美しさは いまや青ざめて力がない

 「論理的」な「意味」の詩である。しかし、この詩のどこにギリシアがあるのか。否定されているだけなのか。
 四行目の「真の美しさ」の「真」がギリシアだ。「真」を求めてしまう、「真」に集中してしまうのがギリシアだ。シェイクスピアも「真」を追い続けるとき、ギリシアになる。
 高橋も、「美しさ」と「醜さ」の関係を追い掛け、その果てに「真」にたどりつく。
 しかし、「真」といっても、それは永遠に「真」であるかどうかはわからない。
 いま、ここで「真の美しさ」と呼ばれている「醜さ」も「化粧」したものの姿かもしれない。
 高橋は「真」に対して「化ける(化かす)/装う」を対比させているが、この「化ける(化かす)」というのは「運動(動詞)」である。「真」も「真を求める」という「運動(動詞)」である。
 「真」であるかどうかは、そのときどきによって変わる。しかし、そこに「運動(動詞)」があるということだけは変わらない。
 この「動く/変わる」ときの「エネルギー」の集中力がギリシアだと私は思っている。高橋が考えていることとは違うかもしれないが。

 「強弁する」も「動詞」、「青ざめる」も「動詞」。どこに集中していくかは別にして、集中していけば、そこに「何か」があらわれる。
 シェイクスピアも「綺麗は汚い 汚いは綺麗」とことばを往復させている。動き回るときだけ、存在するものがある。「変わる瞬間」に、突然、あらわれる「見えない」ものが「ある」。
 「真の」ということばをつかうしかなかった、その瞬間に、この詩には「言語化」されていないものが動いている。

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estoy loco por espana (番外23)Lucianoの作品

2018-11-10 09:23:15 | estoy loco por espana




ルシアーノ Luciano González Diaz の作品は、バランスの感覚を思い出させる。
私は、どんなバランスを生きているのか、と。
象徴は、意味に転化する。
ルシアーノの作品は「抽象」ではないが、「意味」を呼び込む力が強いので、抽象的、あるいは象徴的な印象が強い。

紹介されている作品のなかでは、梯子から伸びた棒の上を歩く男がいちばん印象的だ。
夢の中に迷い込んだような錯覚に陥る。
バランスを崩せば落ちる。
歩きつづけても落ちる。
でも、歩くしかない。

El trabajo de Luciano me recuerda el sentido del equilibrio.
Me pregunto qué equilibrio estoy viviendo.
Los símbolos se convierten en significados.
Aunque el trabajo de Luciano no es "abstracto", tiene una gran capacidad para atraer "significado", por lo que tiene una fuerte impresión abstracta o simbólica.

Entre los trabajos que se están presentando, el hombre que camina en el palo que se extiende desde la escalera es el más impresionante.
Caigo en una ilusión como si me perdiera en mi sueño.
Si pierdo el equilibrio caeré.
Incluso si sigo caminando, me caeré.
Pero no tengo más remedio que caminar.

Tal vez estoy soñando con el placer de caer.
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(125)

2018-11-10 08:06:59 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
125  ジャコメティの歩く人

 ジャコメティとギリシアは関係があるのだろうか。ジャコメティはギリシアから学んだのだろうか。

考えたあげく 表情も筋肉も殺ぎに殺ぎ 歩く人の線だけになり
ついには動きの気配だけになるだろう それが二千六百年前の
古拙と呼ばれる最初の笑み 最初の踏み出しの含んでいたもの

 「動きの気配」の「気配」を「精神」と読み直してみたい。ギリシアの彫刻には「気配」というよりも「精神」を感じる。「集中力」と言ってもいい。
 ジャコメティの彫刻はどうか。私はあまりジャコメティの彫刻を知らない。だから、いいかげんなことを書くしかないのだが、「殺ぎに殺ぎ」の果てに残るのは、やはり「精神」ではないのか。もちろん「肉体」とは違って、そんなものは「ない」と言うこともできるだろう。しかし、「肉体」をつらぬく「何か」、完全に「殺ぐ」寸前に「残っている」と感じられる(錯覚することができる)ものがあるとすれば「精神」と呼んでもいいような気がする。
 「考えたあげく(花冠が得る)」は、その出発点である。「考える」という動詞が最後まで動き、その動きが残る。
 一方、「気配」は、どうか。私は「肉体」の内部にあるものとは思わない。「肉体」の外にあるのが「気配」、「肉体」からはみ出して動いているのが「気配」と感じる。「気配」を追い掛けて「肉体」が動く。
 「精神」が内部から「肉体」を動かすのに対し、「気配」は「肉体」を外から誘っている。

 高橋は、違う、と言うだろう。
 それは、しかし、仕方のないことだ。
 書いた人と、読んだ人が「ことば」のなかで必ず一致しなければならないということもないだろう。

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(124)

2018-11-09 09:38:36 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
124  リッツォスに

 カヴァフィス、セフェリス、リッツォスの三人のなかで、高橋にとっては、リッツォスはいちばんギリシア的ではなかった、ということだろうか。
 こう書き始めている。

払暁 十二丁の銃口を前に ズボンに覆われた股間について
「宦官の目の行く箇所」「やつらの狙う箇所」と あなたは言う
その言いかたは 少年愛が日常茶飯だった古代ギリシア風ではない

 リルケの「生殖の輝く中心」が古代ギリシア風ということか、高橋にとっては。
 よくわからないが。
 私はリッツォスの特徴は「視覚的」であると考えている。高橋の引用には「目」ということばがある。「目」で「狙う」、「目」で世界をすばやく切り取ってしまうのがリッツォスである。
 それを

二十世紀ギリシアの ふつうの女好きの男の 脂くさい口ぶり

 「口ぶり」に、つまり「音」にしてしまう。「雅語」がはいりこむ余地はない。「視覚」が「口ぶり(声)」によって立体化される。
 高橋は、このことをどう感じているのだろうか。

それにもかかわらず あなたの語る一分後の若い死者は
古代ギリシアの彫像そのもの そこがギリシアだという
ただ それだけの理由で

 ここに「彫像」がでてくる。「彫像」は「立体」である。「目」で見る。

 この詩は、「論理的展開」ではなく、別な力でことばが動いている。「それにもかかわらず」は「論理」を無視した「論理」である。それまでの「論理」を否定し、新しい方向にことばが動くことをあらわしている。
 論理の破綻、ということができる。
 それにもかかわらず、あるいは、それゆえに、なのか。
 私はこの詩が好きだ。
 ここには、私の好きなリッツォスがいる、ただ、それだけの理由で。






つい昨日のこと 私のギリシア
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外国人労働者の問題は日本の低賃金労働者の問題である。

2018-11-08 10:29:13 | 自民党憲法改正草案を読む
外国人労働者の問題は日本の低賃金労働者の問題である。
             自民党憲法改正草案を読む/番外245(情報の読み方)

 2018年11月08日の読売新聞朝刊(西部版・14版)。2面の見出し。

「特定技能1号」/就労期間 永住要件含めず/政府方針 急増懸念に配慮

 見出しだけでは、なんのことかさっぱりわからない。(きっと多くの人も何のことかわからないから、記事を読みとばすだろう。あるいは外国人の問題であって、日本人の問題ではないから、と読みとばすだろう。))
 私の「誤読」が含まれているかもしれないが。簡単にまとめると。
 日本に永住するための「要件」に「継続して10年以上日本に居住」というものがある。外国からの技能実習生は最長5年間日本に居住することができる。この外国人が「特定技能1号」に移行すれば、さらに5年間、つまり合計10年間日本に居住することになる。つまり、現行の「永住要件」を満たすことになる。そうすると、結果的に「永住外国人(移民?)」が増えることになる。
 政府と自民党は、これを心配している。「永住外国人」を増やさないために「特定技能1号」の5年間は、「要件」に含めない、合算しない、ということだ。(研修生の5年間は、「1号資格」が獲得できなければ、その段階で帰国ということになるから、10年の要件は満たすことができない。)
 これでは「1号資格」までは外国人を使い捨てにするということ。「2号資格」をとってから10年で、やっと「永住要件」を満たすことになる。研修生時代から含めると、20年である。20年間、日本のために働けば、しかも「日本語」と「就業分野」の両方の試験に合格すれば、やっと「永住」できる。
 なんとも厳しい「要件」である。

 記事中に、次の文章がある。

日本での永住を認めるかどうかについては、法務省が運用指針を定めている。①素行が善良②独立の生計を営むに足りる資産や技能がある③永住が日本の利益になる--ことなどを満たす必要がある。③に関連し、日本に継続して10年以上住んでいることや、就労資格を5年以上もっている事なども条件となる。

 「③永住が日本の利益になる」というのは、あまりにも自己中心的(日本中心的)な考え方ではないか。
 「研修生」や「1号資格」のひとたちは、日本の利益になっていないのか。安い賃金で働き、こきつかうのは、それが「日本の利益(企業の利益)」だからではないのか。安い賃金でつかえるだけつかって、高い賃金を払う必要が出てきたり、社会保障(きのう書いた医療費の負担)や子供の教育の問題が絡んでくると、「日本の不利になる」というのは、あまりにも人権を無視した考え方である。
 外国人労働者の問題は、「人権問題」として見つめなおさないと、そこで展開される「人権無視」はかならず日本人労働者の労働条件に反映されることになる。「人手不足」といいながら、低賃金でつかえるだけつかって、一定の期間がすぎれば使い捨てということが必ず起きる。
 「無期転換ルール」をめぐっても、すでに「雇い止め」が問題化している。「雇い止め」で切り捨てられるのは、低賃金の労働者である。低賃金であっても、「無期限」で働かれれば、支払う合計賃金は多くなる。そうしないために「雇い止め」が行われるのである。「雇い止め」の対象にされた人は、いままでよりもさらに安い賃金で働かざるを得なくなる。低賃金労働者を生み出すために、「雇い止め」が利用されている。
 外国人労働者の問題は、日本人の労働問題と緊密に連携している。
 日本の労働者は外国人と連携なければならない。「連合」のような「経営者予備軍」は安倍の手先にすぎない。野党は、もっと真剣に外国人労働者の人権問題を取り上げ、そこから日本の労働問題をあぶり出していくべきだ。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(123)

2018-11-08 09:13:10 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
123  セフェリスに

あなたのXA-I-KA-Iは十六句 十七句目は確信犯的欠番

 「確信犯」ということばに高橋の「共感」を読む。共感しなければ「確信犯」ということばをつかわないだろう。
 「確信犯」を高橋は、こう言いなおしている。

共感のしるしとして献げるに十七句 ではなく わざわざ十六句

 「わざわざ」が「確信犯」である。偶然ではなく、仕組んでいる。「わざわざ」はなくても「意味」は通じる。けれど高橋は「わざわざ」と書かずにはいられなかった。
 なぜなのだろう。
 次の最終行 (結論) の一行を書くためだ。

十七句目の沈黙をもって あなたの俳句讃仰を閉じた

 「沈黙」と「閉じる」。
 高橋が「俳諧(俳句)」から読み取っているのは「沈黙」によって「閉じる」世界だ。句の中に「沈黙」があるのか、句の外に「沈黙」があるのか。句の内と外をつなぐものとして「沈黙」があるのか。
 こういうことは「分析」しても始まらない。「論理」というのは、どのようにも展開できる。つまり「結論」などというものは、どのようにも捏造できる。単なることばの運動の「終わり方」にすぎない。

 だから、というのは変な言い方だが。
 先に書いたことを覆すために、私はこう書きたい。「確信犯」は「わざわざ」と言いなおされているが、他のことばでも言いなおされている。それこそがこの詩のポイントだ。
 引用は前後するのだが、三行目はこうである。

窮極の詩型が歴史の気まぐれの破砕の結果だ と先験的に知っていた

 「確信犯的」とは「先験的」であるということ。それは「わざわざ」と言いなおされているが、「わざわざ」は実は「わざと」ではなく、どうしようもなく「本来的(本能的)」ということだ。
 どんな詩、どんな詩人も「後天的」にはつくれない。「先天的」に詩なのだ。




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医療保険の将来(新しい差別制度は、どうやってつくられていくか)

2018-11-07 19:18:27 | 自民党憲法改正草案を読む
医療保険の将来(新しい差別制度は、どうやってつくられていくか)
             自民党憲法改正草案を読む/番外244(情報の読み方)

 2018年11月07日の読売新聞朝刊(西部版・14版)。1面の見出し。

医療保険 母国の家族除外/外国人労働者 健保法改正へ/財政負担を抑制

 日本の医療保険制度は、外国人にも適用されている。留学生や労働者も当然保険に加入している。大企業などの健保組合などでは「家族」を被扶養者と認めている。これを除外するというもの。
 現行制度では、母国の家族が病気になって治療を受けたとき、申請すれば、日本の保険が適用される。それができなくなる。
 これは将来、日本人にも適用されるだろうなあ。
 企業は、実際に企業で働いている労働者自身の保険については分担するが、従業員の家族については保険の適用を認めない。きっと、そうなる。家族は「健康保険組合(大企業)」「協会けんぽ(中小企業)」の「被扶養者」から除外される。別個に、国民健康保険に加入しないといけなくなる。

 法改正の目的を、読売新聞は、こう説明している。

 海外に住む外国人家族の医療費を日本側が負担する仕組みを改めることで、日本人労働者が抱く不公平感を解消し、医療保険財政への圧迫を抑える狙いがある。

 でも、ここに書いてある「日本人労働者が抱く不公平感」というのは、どうやって調べたのか。誰かが、外国人労働者の家族に医療保険が適用されるのは、日本人にとって不公平と言ったのか。だいたい、そういうシステムを日本人のいったい何人が知っているといえるだろうか。たぶん、ほとんどの日本人従業員は、そういうことを知らない。知らないから、それが「不公平」であるなどと言うはずがない。
 こういうシステムを知っているのは、健康保険組合や協会けんぽの関係者である。言い換えると、外国人を従業員として雇っている企業である。そこから「要請」があったのだろう。一般の国民が、外国人労働者の家族に保険が適用されるのは不公平だなどと、わざわざ騒いだりするはずがない。少なくとも、そういう問題を一般国民が取り上げて、政府に陳情したというようなことは聞かない。
 だから、これは政府(安倍)と健康保険組合(企業)が結託してつくりだした「ニュース」なのだ。「財政負担を抑制」するという「目的」で合致したものが、つくりだした「ニュース」なのだ。
 そして、この「法改正」が成立すれば、きっと次は、日本人労働者についても、同じことが適用される。実際に労働している従業員には保険を分担する。けれど企業で働いていない家族については、企業責任ではなく「自己責任」で保険を分担しろ、つまり「国民健康保険」に入れ、ということになるだろう。そうすれば大企業の「分担」は軽くなる。

 日本は労働力不足が深刻だ。それを補うには外国人労働者に頼るしかない。それなのに、外国人労働者を「使い捨て」にすることしか考えていない。安い賃金でつかうだけつかって、期限が来たら追い返す。日本に定住する(家族を呼び寄せる)には高いハードルを設定する。家族(家庭)が人間の生き方なのに、外国人には「家族」を認めない。この外国人差別が、やがて日本人差別(分断)につながる。
 「1号資格」の日本人には「家族」を認めない。(家族分の負担、扶養制度を適用しない)、「2号資格」から「家族」を認める、というようなことがきっと始まる。「生産性」の高い労働者は保護するが、「生産性」の低い労働者は保護しない。

 こういう「差別」は、具体的にはなかなか見えてこない。
 しかし、「限界集落」というような呼び方をされる地方の実態をみると、見えない差別が社会を動かしていることがわかる。「生産性」が高いと言われる都会の大企業だけが保護されているから、みんな都会の大企業を目指す。ほそぼそと田畑を守る、里山を守る農業など、だれもしなくなる。
 どういう政策的差別が働いて、日本をこんな形にしてしまったのか。
 それを検証し直すヒントは、きっといま安倍が大企業と結託して進めている「外国人労働者問題」に隠されている。大企業優先の「政策」が、さまざまな差別を助長し、差別を定着させることになる。
 「外国人労働者」の問題は、外国人の問題ではなく、日本そのものの問題だ。

 かつて日本は「金の卵」(中学卒業の労働者)に頼って、高度成長をなし遂げた。しかし、それが実際に成長につながったのは、金の卵を使い捨てにせずに、金の鶏にまで育てる政策をしたからである。
 そのことを思い出すべきである。
 日本に働きにやってきてくれる外国人がいるなら、その外国人を大切にしなければならない。外国人に対する差別をなくすようにしないといけない。




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高橋睦郎『つい昨日のこと』(122)

2018-11-07 09:34:32 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
122  恋の詩と読む人 カヴァフィス再読

不思議だ すべて いまは無いこと

 何と美しい響きだろう。
 美しい響きのなかで、「いまは無い」と、なぜわかるのだろうという疑問がわいてくる。過ぎ去った、消えた。「無い」とわかるのは、覚えているからだ。記憶(肉体)のなかには残っているのに、「いまは無い」と言うしかない。
 「ない」が「ある」ということを発見したのはギリシア哲学だが、この詩の「無い」は哲学的なテーマではないがゆえに、いっそう哲学的だ。

それを見つめる 憧れにひりひり渇いた心とが
しかし 不思議だ そのことをひそかに記した

 「それ」は直前の行に書かれている。あえて、それを省略して引用する。
 「それ」はは何か、人によって違う。しかし、それを「見つめる」ということの方が重要だ。「見つめる」、その結果、こころが「ひりひり渇いた」。見つめたこと、ひりひり渇いたことは過去なのに、いまも「ある」。

言葉の連なりが いまなお生きて 呼吸していて

 ああ、カヴァフィスがいる。そう感じる。
 「無い」ものをめぐって、生きている。「言葉」は「呼吸」である。吸って、吐く。その息に乗って「ことば」が動く。「ことば」というよりも「声」が動く。「肉体」が動く。
 カヴァフィスの詩には、いつも「声/呼吸」が動いている。呼吸が動いている。
 私は中井久夫の訳でカヴァフィスを読んだのだけれど。



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毛毛脩一『青のあわだつ』

2018-11-06 11:02:34 | 詩集
毛毛脩一『青のあわだつ』(書肆山田、2018年10月25日発行)

 毛毛脩一『青のあわだつ』は行変えのない詩と、行変えのあるものがある。ない方がおもしろい。表題作。

 青のあわだつ泉に生まれた早朝の植物のおびただしい繁殖 指と
ほそい茎から生まれた感情の植物のなめらかな繁殖 昨日のつぶや
きから溢れるゆるやかなその呼吸 浅い水底にかさなりあうかわい
たその眠り 水曜日のかざりのようにすきとおったその音楽 たし
かに心の くらく澄んだあかりの中でしか見られぬほどの あわい
虹色にひたされた水と 耳のかがやかしい気泡 そこで沈んでゆく
あおじろい瞼 そこにからまる弱くもつれた葉脈と ほそい花弁の
ふるえのうえに 未来のあいさつのようにやすやすと降りる

 何が書かれているか。繰り返される「体言止め」。「の」で直列つなぐか、「と」で並列につなぐかしながら動いていく。動詞は「降りる」まで登場しない。つまり、ここまでで「一文」のように読むことができる。「一文」のなかに、どれだけ「詩的情報」を盛り込むことができるか、を試しているように思える。「ほそい」とか「すきおおった」とか「あわい」、あるいは「かがやかしい」とか「あおじろい」とか、さらには「ゆるやか」「からまる」「ふるえ」とか。いわゆる「詩語」がからみあっている。その「からみあう」精緻さというようなものを書きたいのだ。
 と、指摘するのは、簡単なことだ。
 私は、しかし、他の方法でこの「からみあい」を言いなおしてみたい。

(1)青のあわだつ泉に生まれた早朝の植物のおびただしい繁殖
(2)指とほそい茎から生まれた感情の植物のなめらかな繁殖

 (2)は(1)を言いなおしたもの、ととらえることができる。「植物」と「繁殖」ということばが繰り返されている。(1)の「植物」は、これだけではどういう植物かわからない。(2)で「ほそい茎」がつけくわえられることで、その植物の「弱さ、繊細さ」のようなものが見えてくる。さらに(2)の「指」と「ほそい茎」の接続は、「ほそい指」を連想させる。人間が見えてくる。「ほそい指」をもった人間。そのひとは「感情」的な人間、感情を生きる人間であり、その感情はやはり「ほそい」ものでできている。
 こういう「ことばの接続」(選択的関係)というのは、「文学」で繰り返され、定型化したものである。そういう領域で、毛毛はことばを動かしているのだが。
 私は、それよりも「生まれた」ということばが繰り返されていることに興味を持った。「生まれた」は「生まれる」の「連体形」であり、これが「体言止め」を誘うきっかけになるのだが、この「生まれる」という動詞こそが、この詩を貫いているキーワードだと思う。
 最初の二行で繰り返されるだけだが、他の動詞も、実は「生まれた/生まれる」を言いなおしたものとして読むことができるからである。

昨日のつぶやきから「生まれる」ゆるやかなその呼吸
浅い水底に「生まれ」かさりあうかわいたその眠り
水曜日のかざりのように「生まれる」すきとおったその音楽
たしかに心の くらく澄んだあかりの中でしか「うまれることができない」ほどの
あわい虹色に「生まれ変わった」水と 耳のかがやかしい気泡
そこで「うまれる」あおじろい瞼
そこに「うまれる」弱くもつれた葉脈と ほそい花弁のふるえのうえに
未来のあいさつのようにやすやすと「生まれる」

 「生まれる/生まれ変わる」。たぶん「生まれ変わる」で統一した方がわかりやすくなると思う。一つのことばが次のことばを誘い出し、それが結びついたとき、そこから別のことばが生み出される。それは最初のことばの「生まれ変わり」である。ことばがセックスし、そこから別のことばが誕生する、といえばいいのか。
 ことばから始まり、ことばで終わる詩である。

 問題は。

 毛毛のことばのセックス、ことばの結婚は、「近親相姦」の匂いが強い。それはそれで魅力的なのかもしれないが、どうしても「衰退」につながりかねない。
 純粋培養は、弱々しい。
 セックス(結婚)の前提である「愛」というのは、自分がどうなってもかまわないと決意することに似ている。破壊的、暴力的なものである。暴力によって生まれ変わるものがある。むりやり誕生させられるものがある。それも詩(いのち)である、と毛毛が認識しているかどうか。認識していて、それでもなおかつ「古典(文学的定型)」を選びとっているのだとしたら、それはそれでいいのだが。

 行変え(行分け)詩は、一字空きではなく改行の分だけ「切断」が目立つが、それは視覚の問題であって、暴力、暴走にまでは至っていないと私は感じた。



*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(121)

2018-11-06 07:44:05 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
121  J・L・ボルヘスに

あなたという不死の水を呑んで 死ねなくなった私たち
呑んだ私たちが死ねないから あなたはますます死ねない

 こう書くとき、高橋はボルヘスをどうとらえているのか。「不死」にあこがれているのか、「不死」を拒んでいるのか。こういうことは問う必要がない。自明のことだ。「不死」にあこがれ、「不死」を理想化している。そして理想化するとき、人は、自分を理想化した人と「等しい」ものと思い込む。
 そして、ここから、さらに私は、こう思う。「不死」を理想化するとき、「死」は「不死」に等しいものになると。「絶対的な死」(完璧な死)こそが「不死」なのだ、と。
 「他人の死」についてなら、たいていの人は知っている。しかし「自分の死」というものを知っている人はいない。自分の「絶対的な死」こそが「不死」である。死ぬことによって、生き続けるものが生まれるからだ。生きているあいだは、すべてのものは死んで行く。しかし、死んでしまったら、そのときいっしょに生きていたものは死ねない。奇妙な言い方になるが、「死」を認める人間がいないと、「死」は存在しない。「死」をみとめるということは、「生きていた」を認めることであり、認めて瞬間に、それは「生き続ける」。「死」こそが「不死」を生み出してしまう。
 高橋は、そういう「ことば」にあこがれている。「文学」にあこがれている。ボルヘスにではなく。だからというべきなのか、ボルヘスは「人間」としては描かれない。人間のかわりに、高橋は「宇宙」を描いてしまう。

宇宙の限り 内へ渦巻く無の陥穽 その底が
湧き返るとき 宇宙そのものが裏返り
すべての有の母なる無さえも 消えようか

 しかし、これはギリシアなのかなあ。「有の母なる無」というのは、東洋の哲学のような気がする。宇宙から見れば、ギリシア(西洋)も東洋もないだろうけれど。

 私はまた、こんなことも思う。
 ボルヘスがギリシアならば、ナボコフはなんだろう。ボルヘスの簡潔、凝縮に対してボルヘスは饒舌、拡大。私にはまったく違った印象がある。高橋のこの詩集に、ボルヘスは登場するだろうか。そう考えるとき、高橋にとってのギリシアとは何かが、もう少し輪郭を明確にするかもしれない。

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(120)

2018-11-05 07:36:25 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
120  R・M・リルケに

……生殖の輝く中心……あなたの沢山の作品の中から
ぼくがいつもまず思い出す とりわけ魅惑的な詩句
発掘されたギリシアの胸像をうたった おそらく中心部

 私はリルケをあまり読んだことがない。かすかに「アポロンのトルソ」というような作品があったような気がするが、手元に詩集がないので、わからない。トルソなのだが、胸の筋肉を見ながら、それが「生殖の輝く中心」へと思いを引っ張っていくというような市だったと思う。「生殖の輝く中心」という訳だったかどうかは、わからない。
 その詩を読んだとき、私は「性器」を思い浮かべたか。思い出せない。だいたい西洋の彫刻は「性器」が小さい。それを見て「輝く中心」と思わないなあ。
 「性器」ではなく、胸の筋肉から性器へと視線が動いていく、その動きの方が「色っぽい」。そこに存在しないものを想像するという意識の方が「輝き」に満ちていると思う。というようなことを思っていたら……。

しかし ぼくは同時に連想しないわけにはいかない
あなたのふだんはズボンと下着に匿された中心部

 高橋は、リルケが書いているトルソの性器ではなく、リルケ自身の性器の方に関心を向ける。ここに、私は驚いてしまった。
 詩を読む(あるいは、他の文学作品を読む、芸術に触れる)というのは、作者と向き合うことだ。それは作者が対象とどう向き合っているかという「姿勢」に向き合うことであって、作者自身の「肉体」には関心がいかない。リルケがどんな「性器」をもち、どんな性生活をしていたか、「アポロンのトルソ(?)」とは関係ないなあと思う。
 「リルケに」という詩を書いている高橋が、どんな「生殖の輝く中心」をもっているか、というのも関係ないなあ。
 詩の続きを読むと、こうなっている。リルケは指にバラのとげがささったことが原因で死んだといわれるが……。

その前に荒淫のため 中心部から腐りかけていたのでは?
隠棲先と触れ込みの館は そのじつ出入り激しい売淫窟
淫を売っていたのは ほかならぬあなたという男妾
古代アタナイにも アレクサンドレイアにも聞かない悪所

 こう批判するとき、高橋は、どう感じているのだろうか。ことばのリズムから、リルケのように「荒淫のため 中心部から腐り」たいと思っているようにも読める。特に最後の二行がいきいきと動いている。「悪所」で「淫を売って」みたい気にさせる。


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