詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ナタウット・プーンピリヤ監督「バッド・ジーニアス 危険な天才たち」(★★)

2018-11-04 20:16:52 | 映画
ナタウット・プーンピリヤ監督「バッド・ジーニアス 危険な天才たち」(★★)

監督 ナタウット・プーンピリヤ 出演 チュティモン・ジョンジャルーンスックジン、チャーノン・サンティナトーンクン

 中国だったか、韓国だったか、大規模なカンニング事件があった。それを題材に、タイの監督がつくった映画。
 実際の事件はどうだったのか知らないが、カンニングの背景に貧富の格差があるところが、「現代的」かもしれない。「図式的」という指摘もあるかもしれないが、そうか、タイでも貧富の格差が問題になっているのか、と思った。経済のグローバル化にあわせて、貧富の格差もグローバル化したということか。次はきっと、高齢化問題がグローバル化するな。
 ということは、さておき。
 おもしろいのは、映像がなかなか「正当派」というか、スタイルがととのっているところ。最初のカンニングの、靴のシーンなど、とてもいいなあ。靴下だけになった足をぱっと組んで隠すところ。靴が机と机のあいだの通路に飛び出したのを、答案を提出しに行くときにひっかけて履くところ。とてもきめが細かい。この部分がていねいだから、その後のカンニングが大規模になっていく様子が、荒唐無稽でなくなる。
 答えを教える方法に、ピアノの指さばきを思いつき、方法化するのもおもしろいなあ。私は高校のとき、悪友と片手二進法アルファベットというのを考えたことがある。握り拳からスタートする。親指を立てる(1=A)、人指し指を立てる(01=B)、親指と人差し指(11=C)、中指だけ(001 =D)……という具合で、アルファベットを完全に表現できるのだが、Dぐらいまでは一気に覚えられるが、あとが指を動かしながら確かめるので、時間がかかってうまくいかなかった。で、そうかピアノか、と感心したのだが、私は音痴だったし、ピアノになじみのある悪友もいなかったなあ。こういう方法が成立するのは、貧富の格差があるとはいうものの、最低限ピアノを弾いていないとできないわけだからなあ。それなりに経済的に落ち着いている生徒が「貧乏」をやるのだから、タイはいま日本の高度成長期という感じなのかなあ、というような余分なことも思ったりした。というよりも「富裕」クラスが豊かさを握りしめているということかも。そうすると、それは日本のいまの社会にもつながる。一部の人間だけが富を奪っている。そういうこともグローバル化しているのだ。
 脱線した。
 このピアノから始まる「答えの伝達方法」が、クライマックスでは「答えの記憶方法」にかわる。このときの映像も、とてもおもしろい。記憶することに没頭する少女の机がするすると前へ動いて行って、ピアノを弾き始める。「音」として覚え込む。
 で、これがねえ。
 主人公の少女は、最後の方で、逃走しながら「答え」を送信する。地下鉄の駅を歩きながら送信する。そこにストリートミュージシャンの音楽が飛び込んでくる。すると、一瞬、少女は混乱する。覚えている音が、耳から入ってくる現実の音に攪乱される。案内表示の「ABCD」がそれに追い打ちをかける。この部分は、最初のカンニングのシーンと同様、傑作である。ぐい、と引き込まれる。このシーンには★5個つけたい。
 でもなあ。なんか、いやな感じが残る。「貧しさに負けた」というのが、いちばんいやな感じの原因だろうなあ。何が貧富の格差を生み出しているか、ということへの視点が欠けている。そこを描かないと、「貧しさ」が悪を引き起こすという論理になってしまう。さらには「貧しいことは悪いことだ」ということにもつながっていく。
 安倍のやっていることは、「貧しいことは悪いことだ」であり、さらに「貧しいのは、おまえたちが悪いのだ」という「自己責任」論へと進み、「貧しい人間は、働かせるだけ働かせ、捨ててしまえばいい」とい世論を生み出していく。まあ、そんなことをこの映画は言っているわけではないのだが、なんというか、「悪事」の爽快感がない。「悪事から立ち直る少女」にすがすがしさを見る、というのでは、それこそ、安倍の「貧乏人は貧乏人らしく生きろ」という論理のようで、私は、ぎょっとしてしまう。
 金持ちの天才が、貧乏人から金を搾取するために、カンニングビジネスをはじめるというのなら、この映画は、もっと違ったものになったと思う。この試験に合格しないと、就職もできない。だから、助けてという「貧乏人」を相手に、金持ちが「いくら払う?」と持ちかけ、ビジネスを主導する方が、きっと「現実」そのものをあぶりだすことになる。子会社をつくって社員を移籍させ、低賃金にしてしまう(いちおう、正社員だね)とか、「資本家」がやることは、そういうことだからね。子会社へ行くのがいやなら退社しろ(首だぞ)、と脅し賃金を下げる。あるいはアップ率を抑え格差をつくりがしていくという具合にね。
           (2018年年11月04日、KBCシネマ1)


 *

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(119)

2018-11-04 08:58:55 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
119  F・W・ニイチェに

 ニイチェは鞭打たれる馬を抱きしめて慟哭し、狂気に落ちた。それから正気に戻ることはなった。その逸話を書いた後、高橋は、こう書いている。

だが 馬と馬方とあなたの出会いの三角形は はるか以前に用意されていた
それは 若いあなたがディオニュソスのギリシアを発見した あの時
その瞬間から 見えない手で発狂後のあなたは描かれはじめていた

 この「結論」は「論理的」である。ディオニュソスを発見したニィチェはただ発見するだけではなく、それに飲みこまれていく。ディオニュソクス的要素があったからこそ、ニイチェはディオニュソスを発見できた。この「論理」の展開は「正しい」ものに思われる。そして「正しい」と思われるだけに、なんだかつまらない。「論理的」すぎる。ちっともディオニュス的ではない。
 書き出しに戻ってみる。

考えつつ歩いていたあなたは見なかったが 行く手の大地が突然 罅割れたのだ
鞭打たれる駑馬と鞭打つ老馬方とが 地中世界から送られ 躍り出たのだ
あなたは突然馬身を抱きしめて慟哭 以後正気に戻ることはついになかった

 この三行の方がはるかに詩としておもしろい。ディオニュソス的なものを感じる。
 「大地が突然 罅割れた」「地中世界から送られ 躍り出た」は高橋の脚色というか、イメージであり、それが「事実ではない」(論理的ではない)というところが詩なのかもしれない。
 「論理(常識)」を超えた躍動がある。
 詩は、たぶん、論理を破って存在してしまうものなのだ。だから、どんなに「結論」を言いたくなっても、その「結論」を論理的に導き出してはいけない。
 「論理」は説得力を持っているが、詩は説得力ではなく、もっと暴力的だ。説得するのではなく、反論させない、有無を言わせない。
 「大地が突然 罅割れたのだ」「地中世界から送られ 躍り出たのだ」と言い切ってしまうことが詩なのだ。


つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(118)

2018-11-03 08:52:37 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
118  声

二千数百年後の詩人も 若者たちを愛した
火曜日の夕べごとに陋居に集う彼らの前に立ち
難解をもって鳴る自作を 朗朗 誦するのを好んだ

 これは高橋自身の「自画像」だろうか。

その声がいかに魅力的だったかを 彼らの何人もが証言している

 「自画像」を「彼ら」の証言で補強するのは、ナルシストだ。だからこそ高橋なのか、それとも別の人の声なのか。
 よくわからない。

 私は一度だけ高橋の「朗読」を聞いたことがある。とても澄んだ響きで、感情の動きを重視した読み方だったので、非常に驚いた。感情を動かして読むのだ。
 それは高橋の詩ではなく、ある中国人の詩を翻訳したものだった。予習してきたわけではないようだが、熟読している感じの朗読だった。初めての楽譜でも、すらすらと歌える人がいるように、高橋は初めて読む詩でも、感情をこめて、まるで自分のことばであるかのように読むことができる。「ことば」が肉体のなかにすべて入っている。「文体」の引き出しがたくさんあって、そのことばがどの「文体」に属しているか、即座に判断できるのだろう。「ことば」が「文体」へ帰っていく感じといえばいいかもしれない。
 感情に戻っていえば、感情を「文体」のなかで動かしているといえばいいのか。「文体」のなかにある感情と、共鳴しながら、和音をつくるのだ。
 こういうことができるのは、高橋の「声」の奥底に「伝統」があるからだ。
 「二千数百年」という「時間」が冒頭に書かれているが、「時間」をくぐり抜けることで初めて生まれる「文体/感情」を高橋は「肉体」として獲得している。
 一方、こんなことも考える。
 私は高橋のことばの響きのなかに「死」を感じるが、それは「伝統」を感じるというのに等しい。「生きている」というよりも「死の歴史」といえばいいのか。もし高橋の声が生きているとしたら、それは「歴史になった文学」が生きているのだ、と思う。

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外国人受け入れ拡大法案

2018-11-03 07:47:19 | 自民党憲法改正草案を読む
外国人受け入れ拡大法案
             自民党憲法改正草案を読む/番外243(情報の読み方)

 「外国人受け入れ拡大法案」が閣議決定された。単純労働者の「枠(?)」を拡大するというもの。
 2018年11月03日の読売新聞朝刊(西部版・14版)。1面の見出し。

外国人材 上限明記せず/単純労働に拡大 法案 衆院提出/人手不足 5年で25万人見込み

 私は国会中継を熱心に見ているわけでも、新聞を隅々まで読んでいるわけでもないので、誤解があるかもしれないが、この法案に関しての野党の態度がよくわからない。
 「移民法とどう違うのか」「外国人労働者が増え、日本人の賃金が下がるのではないか」「治安はどうなる」というようなところから法案の問題点を追及しているが、もっと追及しなければならないことがあるのではないのか。

 何回か書いたことがあるが、私は安倍の「外国人労働者」に対する姿勢は、「使い捨て」の意識が露骨に出ているところに問題があると思う。
 人権を無視している。
 期間を限って、安い賃金でつかうだけつかって、あとは母国へ追い返す。こんな姿勢で外国人と向き合っていいのか。
 今回の法案では、熟練者(?)を対象に「2号資格」をもうけ、配偶者や子供も一緒に日本に住むことができるようになるのだが、この待遇改善の背後で、「使い捨て」が一層拡大しないか。「2号資格」が「1号資格者」を追い出すための口実に利用されないか。つまり、「排除」「差別」を助長することにならないか。これを考えないといけないのではないのか。
 また、人手不足が深刻なら、どうやって「2号資格者」を増やすか、言い換えると、日本に定住してもらうためには、どのような日本語教育をするのか、社会教育をするのか、さらに社会保障をどうするか、という点を追及しないといけない。そうしないと「2号資格者」が増えない。いつまでたっても「人手不足」ということになる。
 給料の高い仕事は日本人、安い仕事は外国人という「線引き」をしたままでは、だれも日本で働こうとはしないだろう。
 「日本人」であるかどうかではなく、「日本」をどうするのか、という視点が欠けていないか。生まれがどこであろうが、「日本」で暮らし、日本のために働く人を日本人と考えない限り、日本は消滅する。「多民族国家」に転換しない限り、確実に滅んでしまう。人口が減り続け、「労働力」確保どころのさわぎではなくなる。
 「日本国籍の人」を増やすためには、働く意欲のある人を排除しては駄目なのだ。人間として尊重し、働きやすい環境をつくることが必要だ。特に、子供の教育が重要だ。両親は母国語、子供は日本語ということがどうしても増える。そのとき、どうやって子供たちの教育を守るか。そこまで視野を広げて外国人と向き合わないといけない。
 安倍の生産性重視、人間は使い捨てというシステムでは、何も動かなくなる。いま、金が儲かればいいというのではなく、人間の「生き方」そのものを守るせいじが必要だ。「外国人労働者」だけの問題と思ってはいけない。
 外国人労働者の後は、日本人が対象にされ「1号資格」「2号資格」とふりわけられるだろう。「正社員」「非正規社員」よりも厳しい世界が始まると考えるべきだろう。そうならないようにするためにも、外国人労働者を「労働力」ではなく「人間」として見る視点が必要なのだ。平等の人間という視点から、安倍の政策を批判する必要がある。

 私のふるさとでは、少子高齢化が激しい。私が子供のときは42世帯があった。同級生だけで6人いた。いまは20世帯を少しこえているだけだ。20歳以下は、高校生がひとりいるだけだ。老夫婦ふたり、あるいは老人の一人暮らしが何世帯もある。一人ずつ死んでいくのを、ただ待っているという状況だ。
 こういう集落は、もちろん安倍の「視野」には入っていない。
 農業、漁業でも外国人労働者を受け入れるというが、そういうことができるのは「大規模農業(漁業)」関係者である。私のふるさとのように、老人が自分が食べる米、野菜をやっとつくっているだけのところにまで外国人が入ってくるはずがない。外国人を雇用できる「経営者」はいない。
 私はふるさとを出てきてしまった人間で、ふるさとに愛着があるというわけでもない。葬儀でもなければ帰省もしないのだが、「日本の将来」そのものの姿に見える。老人が、どこへもゆけず、ただ家に閉じこもって死を待っている。これから増えてくる、この膨大な死とどう向き合うのかということをほっぽりだして、いま労働者が足りないから、使い捨て外国人を受け入れる、という政策では、一部の金持ち以外は、惨めに死んでいくだけだ。
 拡大される「単純労働」のなかには「介護」分野も含まれている。これは考え方(見方)によっては、どうせ死んでいく老人が相手、意思の疎通が不十分な使い捨て外国人に介護させておけばいい、という発想かもしれない。ほんとうに介護を必要としているひとのことを考えるならば、徹底的な日本語教育が必要になる。日本人さえむずかしい仕事を、外国人に押しつけておしまい、というのは、なんともおそろしい話である。












#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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小川三郎『あかむらさき』

2018-11-02 11:46:41 | 詩集
小川三郎『あかむらさき』(七月堂、2018年10月20日発行)

 小川三郎『あかむらさき』。「下着」。

濡れた下着が
鴨居の下にぶら下がっている。

私はそれを
一晩中見つめていた。

私は真夜中
ほんとうのことが怖くて
ふるえている。

 「ほんとうのこと」とは何だろうか。まだ、わからない。しかし、「ほんとうのこと」が「怖い」というのは、わかる。だれかに嘘をついた。それが、ばれると、まずい。「怖い」というようなことを含めて、眠ろうとして眠れない夜を過ごすということは、誰にでもあることかもしれない。
 詩は、こうつづく。

真夜中の時間が
行ったり来たりするなかで
下着は少しずつ
乾いていった。

 私は、この連を、思わず線で囲んだ。
 これは、なんだろう。
 「時間」は「行ったり来たり」するものだろうか。もっぱら「行ったまま帰って来ない」もの、流れすぎるものと考えられていると思う。だから、ここで一瞬つまずくのだが、先の「ほんとうのこと」を結びつけると、「行ったり来たり」は「ほんとうのこと」のような気がする。たとえば、必死になってついた嘘。「ばれるだろうか、いやばれないさ、大丈夫、しかし心配だ」。「思い」は「行ったり来たり」する。それが「時間」のなかで繰り返される。「行ったり来たり」というよりも、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりかもしれない。どちらにしろ「まっすぐ」に目的地には行かない。どこにもたどりつけず、むだに(?)時間が過ぎていく。
 しかし、そういうときも「下着は少しずつ/乾いていった。」
 「私(小川)」が生きているときの、小川の感情の時間とは別の時間があって、そこでは「もの」は「もの」の時間を生きている。
 「少しずつ/乾いていった」とはいうものの、小川は、その「少しずつ」を実際に確かめたわけではないだろう。一分おきに手で触って確かめたわけではないだろう。しかし「少しずつ」と整えて言う。「頭」で何かを理解している。
 「頭」で理解していることと、「感情」が感じていること、感情にはわかっていることとのあいだには、何か、ずれのようなものがある。
 それが「怖い」のか。

部屋の外を
夜がすっぽりと包んでいた。
それは当たり前のことなのだと
いくら自分に言い聞かせても
駄目だった。

 「当たり前」。部屋の外を夜が包んでいる、は当たり前。しかし、これも「頭」で考えたことである。下着が少しずつ乾いていく、というのと同じである。
 やっぱり、下着が少しずつ乾いていくということが怖いのだ。
 下着が乾いてゆくのは「当たり前」のことだが。
 詩は、こうしめくくられる。

私は下着ではない。
私は下着にはなれない。
私は下着になるのがこわい。

下着は
少しずつ少しずつ乾きながら
鴨居の下にぶら下がっていた。

 「私は下着ではない。/私は下着にはなれない。」は「事実(客観)」のようだが、「客観/事実」というのは、不思議である。「事実/客観」がどうであれ、ことばは「私は下着になる」と言うことができる。「想像」を「捏造」することができる。そういう「ことば」が成り立ちうるのなら、「事実」の方が「ことば」の方へ向かって変形してしまうということもあるかもしれない。絶対に不可能なのならば、「ことば」はなぜ、そういう動きをすることができるのか、それが大問題になる。
 「ない」が「ある」ということを発見した(?)のはギリシャ人だが、「ことば」というのは、何か非常に矛盾したものなのだ。「ことば」がないと考えられないのに、「ことば」があるから間違えるということも起きる。
 鴨居の下にぶら下がっているのは、もう下着ではなく、「私」だ。
 「ことば」を動かすと、「私」は「私」ではなく、「ことばが描くもの」になってしまう。

 「穴」という作品も、怖い。

底にはなにもないのであった。
なんど見なおしてみても
底にはなにもないのであったし
もちろん
誰もいないのであった。

だから私は
思い切って穴に入り
その底に立ってみたのであった。
入ってみると見た目に反して
恐ろしく深い穴なのであった。

穴の底には
穴以外は空しかなかった。
ここはもしかすると私が
ずっと来たかった場所ではなかったろうかと
しばらく考えたが
どうやらそうであるらしかった。

 「しばらく考えたら」が興味深い。「下着」の「少しずつ」に通じるが、ここには「時間の幅」がある。
 小川は「時間の一瞬」にことばを凝縮させるのではなく、「時間の幅」のなかにことばがひろがっていくのに身を任せる。いや、ことばをつかって「時間の幅」を広げていく。「この瞬間」でも、それは「瞬間」ではなく、こんなに「幅」がある。ここには、こんなものが隠れていると、ゆっくり動く。しかも、それを「ある」という「現在形」ではなく「あった」と「過去形」で語る。そうすることで、「時間の幅」がさらに別の時間からながめられることになり、妙な「客観」というものが生まれる。「現在形」は「主観」がつよく動く。「過去形」にも「主観」はあるのだが、すでに「終わった」(客観になった)という感じがする。
 で、この作品の最後。

いまはただ穴の中だ。
穴と私と
空だけなのだ。

 突然、「現在形」になって、終わる。
 静かな不気味さがある。生きていることの、不気味さだ。






*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(117)

2018-11-02 10:05:16 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
117  遁れむ いずこに

ギリシア人はホメロスのほか ほとんど読まなかった
素で考え 素で詩をつくり 堂堂としていた
天空はひたすら青く 百千鳥は酔い痴れたりせず
ひたすら 餌をさがし 伴侶を求め
子を育て 死んでいった 疑いも知らず

 「素で」は「ひたすら」と言い換えられている。「素で」が二回つかわれるなら、「ひたすら」も二回つかって言いなおす。ここに、「まっすぐ」な何かが生まれてくる。
 書かれていないが「死んでいった」の前にも、私は「ひたすら」を補う。
 そのあとで、「ひたすら」は「疑いもせず」とさらに言いなおされる。
 これは先に出てきた「堂堂としていた」を言いなおしたものだとわかる。

 見つめているのは、「死」である。「生」が「死」と同じである、と見つめているのだ。
 「死」が何であるか、誰も知らない。「他人の死」は知っているが、自分の死はどういうものか、知っている人はいない。同様に、「自分の生」を知っている人はいない。日々、発見し、ひたすらに生きるしかない。

 さて。
 「疑いも知らず」と高橋は書いているが、ギリシア人のひとり、ソクラテスは「ひたすら」疑った。疑って、疑って、疑って、「知らない」ということにたどりついた。そして、死んでいった。
 ソクラテスは何も知らない。だから何にも頼らずに「素で」考えた。考えて、考えて、考えて死んでいった。
 あ、ソクラテスは「考える」ということについて、疑いを持つことを知らなかったということか。「ひたすら考える」とき、ソクラテスは「ひたすら」ということ、「素」であることを信じていたのか。

 私は「ひたすら」死ぬことができるだろうか。
 「素で」死ぬことができるだろうか。
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estoy loco por espana (番外22)Joaquinの作品

2018-11-01 09:44:48 | estoy loco por espana


実際に見る機会はなかったが。

繊細でリズミカル。
上へ行くに従って伸びやかに広がる。
まるで木のようだ。
ホアキンの作品には、若いいのちが動いている。
鉄が生きている。

delicado y ritmico.
difunde suavemente a medida que sube.
parece un arbol.
en la obra de Joaquin, la vida joven se mueve.
el hierro esta vivo.
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(116)

2018-11-01 09:23:55 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
116  葬儀

死者の魂は彼らには まるで無関心
最後列に立つ人びとに立ちまじり
不思議そうに 儀式の進行を見守る

 「彼ら」とは「葬儀を仕切る人たち」。
 私はいつも「魂」ということばに戸惑う。私は「魂」ということばは知っているが、それが存在しているのかどうか知らない。だから、感想も、実は、どう書いていいのかわからない。
 「見守る」という動詞を手がかりにすれば、高橋の「魂」には「目」がある。そして、それは「目」で考えるのだろう。「不思議そうに」ということばがあるから。
 このあと、詩は、とても美しい展開をする。

たぶん生と同じく 死もまた遊び
生きる者にとっても 死んだ者にも

 これは「魂」から見れば、ということだろう。
 「魂」には生も死も同じ。「遊び」。
 「遊び」とはなんだろう。「遊ぶ」とは、どういうことだろう。たぶん「目的」にしばられずに、ということだろうなあ。「目的」というものはあったとしても、仮のもの。それは、何かをするための「方便」だ。ほんとうは「遊ぶ」が「目的」で、「個別の遊び」は「手段」なのだろう。
 で、ここから、私はこんなことを考える。
 では、人間から見れば「魂」とは何? それはやはり「遊び」なのではないか。何かから自由になるための「目的」なのではないだろうか。あるいは「方便」なのではないだろうか。自由にことばを動かすための「方便」として「魂」ということばがある。考えるための「手段」、ことばを動かすための「手段」。
 、これなら、わかるなあ。
 こういう「魂」なら、あってもかまわない、と思う。

 でも、ふつう、人はそんなふうには考えていないだろうなあ。
 高橋はどうなのかな?
 私は、熱心な高橋の読者とは言えないので、高橋がどんなふうに「魂」ということばを使ってきているか、知らない。

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