詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池澤夏樹のカヴァフィス(1)

2018-12-20 08:12:08 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
 池澤夏樹訳『カヴァフィス全詩』(書肆山田、2018年09月25日発行)を読むのは、なかなかむずかしい。私は中井久夫の訳でカヴァフィスを知った。その印象が強烈にある。思い出さないようにして読む、というのがむずかしい。
 少し違った読み方をしてみようと思う。
 池澤の訳詩には「注釈」がついている。中井の本でも「注釈」はついていたが、中井の場合は本の最後の方にまとめて収録している。池澤は詩の下の方(余白部分)に書かれている。その「注釈」と「詩」を関係づけながら、詩を読みたい。詩よりも「注釈」を読む、という感じで読んでみたい。
 実は、私は「注釈」というものを頼りに作品を読んだことがない。中井の訳詩の場合も、ほとんど参考にしなかった。「注釈」には、結局、私の知らないことが書いてあるだけであり、どれだけ読んでもそれは詩を読む感動にはならないと思うからである。
 そういう私が、池澤の「注釈」をどう読むか。それを書いてみたい。

1 壁

古代ならば、このような不運は神々の与える運命(モイラ)として解して耐えるところだが、近代にあってはこれは主人公の単なる被害妄想ととられかねない。彼自身あたうるかぎりの反抗をしたわけではなく、その意味では被害を運命にたかめるだけの努力を怠った。

 池澤がこう書くとき、「ギリシア悲劇」のようなものを念頭に置いていると思う。どこがギリシア悲劇と違うのだろう。どこかにギリシア悲劇を感じさせるものがあるとしたら、それはどこだろう。
 カヴァフィスの詩は

思慮もなく、慈悲もなく、また恥もなく
彼らはわたしの周囲に厚く高い壁を築いた。

 と始まっている。「厚く高い壁」は比喩である。ここには「ギリシア悲劇」は存在しない。「思慮」「慈悲」「恥」といういわば抽象的な概念が、「厚く高い壁」という比喩によって意味を補強されているだけだ。言い換えると、ここには他人は登場しない。ドラマはカヴァフィスの「概念」あるいは「観念」のなかだけで起きている。「彼ら」と書かれているが、カヴァフィス自身が築いたのだ。
 つまりカヴァフィスはだれかに「反抗したわけではない」。自分自身と折り合いをつけただけなのだ。「対話」というものがあるとしたら、それはカヴァフィスとカヴァフィスの対話である。自己対話によって、カヴァフィスは、「観念」を純粋化しようとしている。これは、他者に共感を求めない、ということでもあると思う。
 そうした彼が、最後の連でこう書く。

しかしわたしは騒音や石工の声を耳にはしなかった。
知らぬ間にわたしは外の世界と切りはなされていた。

 私は「石工の声を耳にはしなかった」という部分がとても好きだ。自己対話の「悲しみ」がここに集約されている。私はここに共感してしまう。自己対話はさびしい。そのさびしさが、ふっとした感じで、具体的なことばになっている。「声」が切ない。
 カヴァフィスは「声」を生きた詩人なのだと、ここからわかる。

 「彼ら」はカヴァフィスを批判したのではなく、カヴァフィスが批判されるかもしれないと恐れ、彼自身で壁を築いた。批判されないための壁を築いた。そして逃げ込んだ。もしだれかが直接カヴァフィスを批判したのなら、その「声」は実在し、カヴァフィスはそれに対して何事か反論しているだろう。つまり、こういう詩にはならなかっただろうと推測できる。
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estoy loco por espana (番外31)Javier Messiak の作品

2018-12-20 08:04:21 | estoy loco por espana



Javier Messiaの作品。
ハビエルの作品は、色の対比が美しい。
同系色ではなく補色を対比させる。
補色の対比は強烈で不安を引き起こすことが多い。
しかしハビエルの対比からは、違ったものを感じる。
深さと強さである。
この作品は深い海から突き出た岩の塔のようにも見ることができる。
真上から見ている。
私が見ているのは、塔の高さか。
あいるは海の深みか。
色の拮抗が私の感情を静かにさせる。

Obras de javier messia.
La obra de Javier tiene un hermoso contraste de colores.
Contrasta colores complementarios, no colores de la misma línea.
El contraste de los colores complementarios es intenso y con frecuencia causa ansiedad.
Pero a partir del contraste de Javier, siento algo diferente.
Es profundidad y fuerza.
Esta obra puede verse como una torre de roca que sobresale de las profundidades del océano.
Estoy mirando directamente desde arriba.
Lo que estoy viendo es la altura de la torre?
O es la profundidad del mar?
El antagonismo del color calma mis sentimientos.
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estoy loco por espana (番外30) Eduardo Muñozの作品

2018-12-19 18:06:40 | estoy loco por espana
Eduardo Muñozの作品。



つかわれなくなった鉄が組み合わされている。
つかわれなくなったけれど、死んでしまったわけではない。思いがけない形で生きている。どんな「いのち」を見つけ出し、形にするのか。そのとき、エドゥアルドの人間性(人柄)が出る。
エドゥアルドは、温かい人間だ。ユーモアがある。
鉄は硬くて冷たい印象があるが、エドゥアルドが組み合わせると、とても温かい。そして、なるよりも「丸み」がある。この「丸み」は強さである。負けない強さである。
このおばあさんは、猫背と手足の小ささがとてもおかしい。ハンドバッグにきちんと鍵がついているのも、笑ってしまう。
 もしかするとスペインでは絵本などに出てくる有名なおばあさんかもしれない。

El hierro que no se usa se combina.
Dejé de ser utilizada, pero no murió. Vivo en una forma inesperada. ¿Qué tipo de "vida" se encuentra y se forma? En ese momento, surge la naturaleza humana (personalidad) de Eduardo.
Eduardo es un ser humano cálido. Tener sentido del humor.
El hierro tiene una impresión dura y fría, pero cuando Eduardo lo combina es muy cálido. Y hay "redondez" en lugar de ser. Esta "redondez" es la fuerza. Es fuerza para no ser derrotado.
Esta abuela es muy extraña en sus pequeñas espaldas y pies. También sonrío que los bolsos están correctamente cerrados.
Tal vez sea una abuela famosa que aparece en libros de imágenes.



 犬を散歩させているのは、大人かもしれない。大人でもあつかい憎い猛犬なのだろう。口輪が、そう思わせる。人間の線の細さがそれを強調している。

 しかし、私たちはなぜ、簡略化された形から、その完全形を想像できるのだろうか。
 この問題も、エドゥアルドは提出しているかもしれない。
 そして、その抽象というか、比喩化の過程で、たぶん人間性というものが出てくるのだと思う。
 エドゥアルドは、どんな人でもあたたかく受け入れ、しっかりと抱きしめるにんげんなのだと思う。


Puede ser un adulto que esté paseando a un perro. Incluso los adultos son probablemente perros odiosos de odio. El anillo en la boca me hace pensar eso. La delgadez de la línea humana resalta eso.

¿Pero por qué podemos imaginar esa forma completa de una forma simplificada?
Eduardo puede haber presentado este problema también.
Y, en el proceso de figuración, tal abstracción, creo que la naturaleza humana se manifiesta.

Creo que Eduardo acepta calurosamente a cualquier persona y la sostiene con fuerza.





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小林稔「一瞬と永遠」、浅見恵子「狂々」

2018-12-19 14:34:01 | 2018年代表詩選を読む
小林稔「一瞬と永遠」、浅見恵子「狂々」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 小林稔「一瞬と永遠」(初出『一瞬と永遠』8月)。いろいろ考えているうちに、この詩集の感想も書かずに置いてある。「現代詩手帖」のアンソロジーには「一、パリス、ノスタルジアの階梯」ともう一篇が収録されている。
 ギリシアをどう読むか。他の人のギリシアに関することばを読むと、違和感を覚える。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という思考でギリシアを見ていないか、と思ってしまう。精神と肉体、という「二元論」で見ていないか。

           少年たちの美しい形姿に似つかわ
しい魂を注ぐため、ノスタルジアの階梯をかつてわたしは
昇りつめたが、わたしは彼らに何を与え何を授かったので
あろうか。神象の視線は正面から捉えられ、一瞬の姿を永
遠の形相に変貌させた神の似像をまえに、わたしは精神の
羽搏きを感じて、しばらく立ち去ることを忘れた。

 「形姿」と「魂」、「似像」と「精神」。この対比が、私にはわからない。何度か書いたことがあるが「魂」ということばの前で、私は途方に暮れる。私は「魂」の存在を知らない。理解できない。読むと、そこに「対比」があることがわかるが、それはあくまで「頭」でわかっているつもりになっているだけで、私には「現実味」がない。「数学」の数式を読んでいるような感じで、「具体的なもの」が見えてこない。
 「似像」は「神の似像」と書かれている。この時の「似」は「似ている」というより「似させた」だろう。「像」は人間がつくったもの。そうであるなら「似させて」つくった像ということだろう。「似させる」という「動詞」のなかに人間がいる。こういう「動詞」に触れたときに、人間にどういうことが起きるのだろうか。私の場合は、どうしても「肉体」が動く。私にはこういうものをつくれない、と思う。同時に、その像をつくった人間の「肉体」を感じ、「人間がいる」と感じる。私の「肉体」がそう判断する。「精神」は動かない。
 でも、小林は「精神」を動かしている。「精神の羽搏き」を感じている。このときの「精神の羽搏き」というのは、小林の精神ではなく、その像をつくった人の「精神の羽搏き」ということだろうが、それを感じることができるのは、同じように小林の精神が羽ばたいているからだろう。
 私は、そういうことを感じられない。
 「神」というのものも、どうも、よくわからない。ギリシアの「神」は「人間の欲望」そのものに思える。人間の行動の「典型」を純粋化したものに思える。「精神」ということばは、どうもぴんとこない。「精神」というのは、キリスト教の「神」が出現したあとのものではないのだろうか。「新約聖書」を読むと、キリストは確かに存在した。目撃証言が微妙に違うのは、キリストが存在し、キリストに出会ったひとがことばを動かしているからだ、ということはわかるが、キリストが神、あるいは神の子であるかどうかは、私にはわからない。「新約聖書」の登場人物は、キリストがいたと語ること、その行動を語ることで、「精神」を語り継ごうとしている。デカルトの「我」というのもキリスト教の「神」と向き合っている。そして、そのとき「肉体」は脇に置かれている、と感じる。「肉体」と「精神」の分離というのはキリスト教によって始まって、デカルトが追認したというように思える。あるいはデカルトによって、より洗練された(?)という感じかなあ。
 私の感想なんて、あくまで感想で、いい加減なものなんだけれど。
 どういえはいいのかよくわからないが、小林の書いていることは「ことばの運動」としては完結しているが、そのことばの運動の中に私は積極的に入っていくことができない。「肉体」が入っていかない。「頭」だけがことばを追い掛けて読んでいる気持ちになる。どう整理すれば、私のことばが動くのか、よく分からない。だから、こうやって、くだくぐとことばをつないでいるのだけれど。
 私の「肉体」のなかに、ごちゃごちゃ整理されないまま動いているものがあり、それが整うまでは小林の詩について感想を書くのはむずかしい。



 浅見恵子「狂々」(初出『星座の骨』、9月)はおもしろい。

花という花から毛が生えて
土という土から溢れている
流れるそれは
すでに香りではない

 では、流れているの何? 私は即座に「肉体」だと反応する。このとき浅見は「花」になり「土」になり、「生えて」「溢れて」「流れ」ている。つまり、「ひとつ」の形ではない。瞬時に変形し、瞬時に「ひとつ」のものから「複数」のものになっている。「花即土/土即花」という固く結びついた「変化」そのものが「浅見の肉体」なのだ。
 浅見の「肉体」から「目」が飛び出していく。花をつかまえる。土をつかまえる。浅見の肉体がつかまえたものが浅見なのだ。
 「花」になって、「土」になって、浅見は感じる。

肉の内側から肉がにじみ
虫によって運ばれる
花粉の油
泥水の腐り
ミミズの吐息
芋虫の排泄
土壌から湧きだし
皮膚から入りこむ
ぬめったニオイに包まれ
雉や雲雀が
耕された畑の土手で
浮かされていることにも
気づかないまま

ひとり転がった地面の
花という花から毛が生える
土という土から春が溢れている

わたしの許しなく

 地面に転がって、浅見は「春」そのものになる。そのとき「肉体」は「花」のような美しいものだけではなく、「ミミズ」や「芋虫」も含む。「吐息(息を吐く)」「排泄(排泄する/糞をする)」ということを浅見は浅見の「肉体」で追認することができる。
 最後の「許しなく」がとてもいい。
 こんな無軌道な「変身」(自己拡張)を「許している」のは誰? 浅見の「精神」? ああ、そんな面倒くさいものは、生きている世界には存在しない。「肉体」は「精神」の許可など求めたりはしない。自分の好き勝手にやる。それが「肉体」の喜びである。「精神」なんていうものは、「他人への配慮」にすぎない。
 ギリシアの神は「他人への背理」なんかしない。自分の思うがまま。「肉体」が命じるままに動く。「わがまま=精神」、「肉体=精神」がギリシアだと思う。そのイコールは、けっして分離できない。

 小林の詩よりも、浅見の詩の方に、私はギリシアを感じる。

*

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北條裕子『補陀落まで』

2018-12-18 10:34:56 | 2018年代表詩選を読む
北條裕子『補陀落まで』(思潮社、2018年08月10日発行)

 北條裕子『補陀落まで』。「現代詩手帖」2018年12月号には「半島」が収録されているが、私は「時の庭」が好きだ。

寡黙な秋を前にして
丈の高い百合が
小さな百合をかき抱いて
揺れていて。
背の高いものたちがあらぬ方向をむいて
庭中に
てんでに乱れ咲いて。
そうだ 皆 いってしまったね。

  庭にはたくさんの花が咲いている。それは「あらぬ方向を向いて」「てんで」に咲いている。しかし、「丈の高い百合」だけは違う。「小さな百合をかき抱いて」いる。
 ただし、北條は、私が書いた順に目を向けたわけではない。まず百合に目がゆき、そのあとで他の花々に目を向けている。丈の高い百合が小さな百合をたき抱いている、ということが最初なのだ。このとき「百合」と「かき抱く」を分離することはできない。百合を見たのか、かき抱くという動きを見たのか。分離できないのだけれど、私は分離してみる。北篠は「かき抱く」という動詞を見たのだ。
 だからこそ他の花々は「あらぬ方向を向いて」「てんで」に咲いている、と描写される。他の花々は、もう一つの花を抱くという形では咲いていないのだ。「かき抱く」という動詞に、北條は特別なもの、北條だけにわたる「意味」を見ていることになる。小さな百合を北條自身だとすれば、丈の高い百合は、実際に北條より背がガ高いか、年上かのどちらかだろう。「いってしまったね」を意識すれば、そのひとは死んだことになる。北條よりも年上の可能性が高い。もちろん背も高いし、年上でもあるということもある。いずれにしろ、「小さな」北條が頼りにしていた人なのだろう。
 途中いろいろなことが書いてあるが、その最終連。

鎖骨に受ける 死線を避け
風を束ね
その行く先を整える。
(風は不実ではないのだから)
囁く声を無視して 顔をあげると
たくさんの陽の道筋が 広がっているのであった。

 「行く先を整える」の「整える」が美しい。「整える」に先立つ「束ねる」が「整える」を導いているのだが、この「束ねる」には最初に引用した部分の「かき抱く」が響いている。「かき抱く」は「束ねる」である。そうすると、おのずと「行く先」が整えられる。「かき抱く」とき、「そっちへ行ってはいけない、こっちだよ」と引き止める力が働いている。その「引き止める」力を感じるはずだ。抱かれた人は。
 だが、なぜ引き止められ、かき抱かれ、整えられるのか。
 最後になって、やっとわかる。
 「行く先」というのは無限にある。しかし「小さい」ころは、その「無限」がわからない。かき抱かれて(守られて)育ってきて、成長し、その腕を離れた瞬間、「たくさんの(陽の)道筋が 広がっている」ことに気づく。守られてきたから、いま、無限に広がるものがみえる。「陽の」というのは「比喩」である。明るく、輝かしい道が「たくさん」ある。そのどれを選んでもいい。それがわかるときが来るまで、「丈の高い百合」は「小さな百合(北條)」をしっかりとかき抱いてくれていたのだろう。
 ことばの奥に「ありがとう」が響いている。

 「たくさんの陽の道筋が 広がっているのであった。」は、「水面」では、

未だ剥いたことのない時間を
あらためて
明日と
名づける

 と言いなおされる。さらに、こうも言いなおされる。

水滴をはじく羽毛の鳥を
脇にかかえ 息をとめ
沼と呼ぶ 水のひろがりを
いっしんに かきわけていく

 「ひろがり」ということばは「広がっている」としっかり呼応している。ひろがりの中から(たくさんの道筋のなかから)、自分の選んだ道を「いっしんに」進んでゆく。「いっしん」は「一心」であり、その「一」には「束ねる」という動詞が生きている。




*

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estoy loco por espana (番外29)ホアキンの作品(補足)

2018-12-17 14:31:14 | estoy loco por espana
 Joaquin Llorens Santaのアトリエを6月に訪ねた。完成品もあったが、制作途中のものがあった。むき出しの鉄の感じが生々しく、印象が強烈だった。
 その作品は、さまざまな色を施されて展覧会に並んだ。
 彩色された作品の方が純粋にみえた。
 むき出しの鉄のときは、鉄の内部にいくつもの純粋さがうごめいていた。彩色されることによって、そのうちのひとつが選び出された。感情が統一され、まっすぐにひとつの方向を目指している。
 ただし黒はない。ホアキンはラジオのインタビューで、「黒は私が着ている」と冗談を言っていた。
 闇(黒)が光に洗われて、ひとつの輝きをもつ、ひとつの色になる。その動きをホアキンは制御しているのかもしれない。

Visité el taller de Joaquin Llorens Santa en junio. Había productos terminados, pero había algo en medio de la producción. La sensación de hierro desnudo era fresca y la impresión era intensa.
Ese trabajo se alinearon en la exposición con varios colores.
La obra pintada parecía pura.
En el caso del hierro al descubierto, se metió mucha pureza dentro del hierro. Al ser coloreado, uno de ellos fue escogido. Las emociones se unifican, apuntando hacia adelante en una dirección.
Sin embargo, no hay negro. Joaquín estaba entrevistando a la radio y en tono de broma decía "El negro es mi ropa".
La oscuridad (negro) se lava en la luz, se convierte en un color con un brillo. Joaquín puede estar controlando el movimiento.
Joaquín sabe que hay más de un color detrás de un color.



展覧会に展示されているときとは作品の表情が違っている。
室内の明かりのなかで、沈黙を集めて、さらに静かになっていく。
La expresión de la obra es diferente a la que se exhibe en la exposición.
A la luz de la habitación, reúno el silencio y se vuelve más tranquilo.



部屋の中に置かれると、ホアキンの作品はとても静かだ。
彼の作品は落ち着きをもたらしてくれる。
Cuando se coloca en la habitación, el trabajo de Joaquín es muy tranquilo.
Su obra provoca inquietud.







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伊藤比呂美「チャパラル」

2018-12-17 07:56:11 | 2018年代表詩選を読む
伊藤比呂美「チャパラル」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 伊藤比呂美「チャパラル」(初出『たそがれてゆく子さん』、8月)。

この土地に二十数年住み果てて
チャパラルということばを知った

 と始まる。つづきを読むと「竜舌蘭」の類の草木のように思えるが、よくわからない。「翻訳できない」という行を含んで、チャパラルの野(山)を歩く。
 そのあと、最終連。

どんぐりが生るのを見た
コヨーテの呼ぶのを聞いた
コヨーテの食べ残しを見た
それはうさぎの尻尾だった
月がのぼるのを見た
日がしずむのを見た
日がのぼるのを見た
雨が降るのを見た
雷が鳴るのを聞いた
人と出会って、人と別れた
花が咲くのを見た
咲いた花が枯れるのを見た
枯れ果てたのを見た

 「見た」「聞いた」が繰り返される。知覚動詞をとりはらうと「神話」になる。でも、伊藤は、これを「神話」にしない。あくまで伊藤個人の体験に閉じ込める。
繰り返される「見た」「聞いた」は、一連目に出てきた「知った」と、どう違うのだろうか。私は違わないと思う。伊藤にとって「見る」「聞く」は「知る」ことである。「知る」というのは、最終連のことばを借りて言えば「出会う」である。だから「別れる」はきっと「記憶する」である。「忘れない」である。
で、この「知る」「記憶する」「忘れない」を、私は「見た」「聞いた」というこことばがつかわれていない部分に補って読む。

それはうさぎの尻尾だった

それはうさぎの尻尾だと「知った」。そのうさぎの尻尾を「記憶する」。そのうさぎの尻尾を「忘れない」。
ここから最初の連に戻る。

この土地に二十数年住み果てて
チャパラルということばを知った

は、

この土地に二十数年住み果てて
チャパラルということばを「記憶した/忘れない」

 そう読み直すと、そうか、伊藤は「この土地」をいずれ離れるという意識をこめて書いているのだな、と「誤読」できる。すでに「離れた」のかもしれない。でも、けっして「忘れない」。そのために書く。




*

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(4)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
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佐々木幹郎「ここだけの話」

2018-12-16 12:36:57 | 2018年代表詩選を読む
佐々木幹郎「ここだけの話」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 佐々木幹郎「ここだけの話」(初出「みらいらん」2号、7月)にもわからないことがある。

この声は不思議だ
おふ おふ おふ と
曇天を糸のように連なって通りすぎていく
泣きガラスからの 伝言があり
姿もないのに 黒い電線の垂れ下がる 空の一角

 「この声」の持ち主が書かれていない。「曇天を糸のように連なって通りすぎていく」から想像すると、鳥の声のようである。「天」を通っていくのだから。さらに「泣きガラス」が伝言をつたえようとしているのだから。
 福間の詩のつづきで言うと、「固有名詞」がわからない。鳥の名前(鳥だと仮定して)がわからない。だが、その「声」は抽象ではない。つまり、意味ではない。「肉体」があるというか、「存在感」がある。「おふ おふ おふ」は佐々木のとらえた「声」であり、他の人がことばにすれば違ったものになるかもしれない。「カーカー」「ぽっぽっぽ」「ちゅんちゅん」という具合に「定型」になっているとは思えない。

この声は不思議だ
いくたびもわたしの小さな部屋を訪れる
朝の光の 言葉がずれていくときの 生きものの息づかい
おふ おふ おふ
わたしは 手にとられる「わたし」だから

 「わたしの小さな部屋を訪れる」と佐々木は書くが、私は「わたしの肉体を訪れる」と「誤読」する。佐々木の肉体が声を聞く。声は耳から入ってきて、佐々木の肉体を動かす。「おふ おふ おふふ」という声といっしょに「息」になる。「息づかい」になる。その「声」が息を整えるのだ。
 「言葉がずれていく」というのは、複雑な表現だが、そこに「朝」が関係してくると、そうかもしれないなあ、と感じる。夜の、夢のことば。朝の、現実のことば(目覚めのことば)。そこには「ずれ」があるかもしれない。というよりも、私たちは、ことばを微妙にずらして(ずれをつくりだして)、夜と昼を分けていないだろうか。夢と現実をわけていないだろうか。
 「おふ おふ おふ」は、夢と現実、夜と日中(朝)をわたっていくときの、佐々木の「息づかい」になる。佐々木は見えない鳥と一体化して動いていく。
 「わたしは 手にとられる「わたし」だから」は、よくわからない一行。「声」に導かれ、同時に「声」になって、「夜(夢)のわたし」から「日中(現実)のわたし」へと手を取られ(手を引かれ)、あるいは逆に手を取って(手を引いて)、動いていくときの姿かもしれないと想像する。手を取るわたし、手を取られるわたし。どちらが「主語」(主役)か、わからない。佐々木が鳥の声を聞いているのか、鳥は佐々木に聞かれた声を聞いているのか、鳥は佐々木に聞かれた声を知っているのか、(おふ おふ おふと鳴いたことはないと異議を唱えることはないのか)、その声はほんとうに「おふ おふ おふ」なのか、佐々木の「肉体」を通るから「おふ おふ おふ」という声になるのか、わからない。
 わからないけれど、そのわからなさのなかに、私は「佐々木」を感じる。あ、ここに佐々木がいるなと感じる。姿を隠すのではなく、姿をあらわそうともがいている感じがする。福間が「政治家、役人」という一般名詞のなかに姿を隠してしまうのとはまったく逆の動きを感じる。

太陽の舌にちろりと舐められるまで 眠っていよう
籠のなかの りんごみたいに
禿げ頭になっても 頑固に
皺だらけになって縮んでも 断固
リサイクルされない
おふ おふ おふ

 「禿げ頭になっても 頑固に/皺だらけになって縮んでも 断固」は「りんご」の比喩なのかもしれないが、佐々木の自画像にもみえる。老人になっても「リサイクル」されるなんて、まっぴらごめん。わたしは鳥になって飛んでゆきます。「おふ おふ おふ」と笑っているようにも感じる。

 私の感想は「誤読」だが、「誤読」できることが、私はうれしい。
 「正解」なんか、気にしない。ことばは人の気持ちを知るというよりも、自分の中にどんな気持ちがあるかを見つけだすためにある、と私は考えている。




*

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福間健二「この世の空」

2018-12-15 07:12:36 | 2018年代表詩選を読む
福間健二「この世の空」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 福間健二「この世の空」(初出「文藝春秋」7月号)。気持ち悪くなってしまった。
 全行引用する。

腑に落ちぬ世。百年前からずっと
同じことを言わされてきたが
きょうは大谷翔平がホームランと二塁打。
酒がうまい。この春からずっと
ぼくの野球少年は遠い空を見て落ち着かない。
去年の夏は藤井聡太で、いきなり将棋熱。
嘘に嘘をかさねて逃げきるつもりの政治家や役人がいて
それを許さない人たちもちゃんといて
天才もいる
この世の空、怖くなるほど青いときがある。

 世の中には腑に落ちないことが多い。だから大谷翔平や藤井聡太という「天才」の活躍を見て気分を晴らす。自分も「天才」になった爽快さを味わう。ここまでは、とても気持ちよく読むことができる。私も天才の活躍を見るのは好きだ。私は野球をしないし、見ることもないが、大谷翔平は見てみたい。大谷翔平が完封し、ホームランを打つところは見てみたい。私はミーハーである。
 では、何が気持ち悪いのか。
 後半である。嘘を重ねる政治家と役人と、それを許さない人が出てくるのだが、彼らに「名前」がない、というのが気持ち悪い。
 大谷翔平、藤井聡太は固有名詞なのだが、政治家、役人、それを許さない人は固有名詞がない。「嘘を重ねる」と「許さない」という「動詞」だけがある。「動詞」(動き)は認識するが、その「主語」は認識しない。ここが、とても気持ちが悪い。
 私は人間を判断するとき、固有名詞ではなく、動詞で判断するが、それはそれぞれの固有名詞と自分がどう向き合うかを語るためである。動詞の「主語」を「抽象」のままにしておいて動詞を問題にすることはない。固有名詞が、動詞(その人の動き)を隠す作用をしていないかどうかを明確にするために動詞を問題にする。
 福間を例にして言いなおしてみる。
 福間は詩人として確立された「固有名詞」である。多くの人が福間をすぐれた詩人だと認めている。その名声が、「福間の書いた詩はすばらしい」という形にかわり、どこに、どう感動したかを語ることなく、「福間が書いているのだから、この詩はすばらしい」と変化する。詩のなかでことばがどう動いているか、それを吟味せずに、福間という名前(固有名詞)が詩を価値づける。ほんとうにその詩がすばらしいかどうかは、詩のことばを実際に動かしてみないといけない。そのことばが自分にどう影響したのか、そこから何を考えたのか、その考えを自分のものとして引き受けることができるか、それを調べてみないといけない。
 私は、福間が書いている大谷翔平、藤井聡太についての行は、そのまま自分の「感情」として引き受けることができる。福間と「一体」になって、彼らの活躍を喜ぶことができる。大谷翔平、藤井聡太は、すごいよなあ、わくわくするよなあ(酒がうまい)。
 でも、政治家云々については、そのまま引き受けるわけにはいかない。安倍は嘘をつく。麻生も嘘しかつかない。佐川もそうだ。菅は、論理をはぐらかすだけだ。でも、前川はどうか。前川は、ほんとうのことを語らなかったか。
 「許さない人」のなかに政治家はいないのか。「許さない」を宣伝しながら、選挙になれば公明党にしか投票しない創価学会は、どういう「分類」に抽象化されるのか。
 世の中には理不尽なことがたくさんある。腑に落ちないことばかりだ。それは認識している。認識していることは、ちゃんと表明している。それでいい、というのかもしれない。「だって、長いものに巻かれないと、生きていけない」。それが「庶民」だ、というつもりかもしれない。そこまで、言うつもりはない、と福間は言うかもしれない。
 わからない。
 わからないけれど、私は気持ちが悪い。
 大谷翔平、藤井聡太は固有名詞を出して称賛するけれど、政治家や役人については固有名詞を出して批判することはない。「私はあなたを批判していません」と隠れるつもりなのだろう。
 そして「この世の空、怖くなるほど青いときがある。」というような、絶対的な「美しさ」、非情な美しさを、隠れた福間のかわりに提出して見せる。







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池上貞子「スコールにはキーメン紅茶を」

2018-12-14 09:25:58 | 2018年代表詩選を読む
池上貞子「スコールにはキーメン紅茶を」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 池上貞子「スコールにはキーメン紅茶を」(初出『もうひとつの時の流れのなかで』7月)。

 中国語の影響だろうか。ことばが引き締まっている。こう、始まる。

屯門はもと要塞の地
異国人のわたしはしばしの仮住まい
窓の外に重なり見える山の稜線
朝には濃い霧
鳥の声、人の声
わたしはひとりでいることはない

 ひとりでいても、鳥の声が聞こえる、人の声が聞こえるから孤独ではない、ということだろう。山があり、霧がある。自然に包まれている。名詞(体言)の積み重ねがすばやく、その重なりの間には不純物がない。透明な大陸の空気がある。
 そこに「時ならぬスコール」が襲う。スコールなかで池上はキメーン紅茶を飲む。その時間のなかに「歴史」が入ってくる。そこがこの詩のハイライトなのかもしれないが、私はそのあとのことばの変化の方に関心を持った。

紅茶の香りは のどから身体全体へ
そして わたしは リラックス

スコールがあがった 鳥の声、人の声がする
稜線は ふたたび 二列にわかれた
手前の山は 木々の色、かたちまで あざやか
うしろの山が 流れはじめた雲の下で 輪郭をつくる
あ ところどころに 山道が見える
またこの週末も 人びとに混じって あの道を歩こう

 突然、「分かち書き」にかわる。それまで「重なり」の間にあったものが、「重なり」を押し広げ、空間(隔たり)を主張する。間をつくっていた「透明」はそのまま透明なのだが、緊張感のかわりに、ゆったりした感じがひろがっている。
 これを「リラックス」と呼べばリラックスなのだろうが、すこし違うなあ、と思う。

うしろの山が 流れはじめた雲の下で 輪郭をつくる

 「流れはじめる」(流れる+はじめる)「つくる」とふたつの動詞がある。そして、その行は動詞(用言)で終わっている。他の行も、すべて「用言」で終わっている。「あざやか」ということばは「名詞」だが「あざやぐ」「あざやかな」ということばから派生している。「あざやかだ」と形容動詞にして読むと、行が落ち着く。
 一連目が「体言止め」が主流だったのに対し、最終連では「用言止め」に変わっている。「鳥の声、人の声」が「鳥の声、人の声がする」に変わっている。文体が根本的に変わっている。
 ここが、とてもおもしろい。
 池上は、ここでは「日本人」に戻っている。一連目も日本人であることにかわりはないのだが、中国語の影響を受けてことばが動いているのに、ここではその影響がやわらいでいる。

うしろの山が 流れはじめた雲の下で 輪郭をつくる

 この行は、いかにも中国らしい風景だが、中国語で書いたらもっと短くなる。「山道が見える」から「あの道を歩こう」までも、中国語(漢詩)なら一行にしてしまうだろうなあ、と感じる。
 日本語は「動詞(用言)」のなかで、自分の肉体をゆったりと動かし、他者との「間合い」を測ることばなのかもしれない、と思った。






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森雄治『蒼い陰画』

2018-12-13 08:10:22 | 2018年代表詩選を読む
森雄治『蒼い陰画』(ふらんす堂、2018年11月15日発行)

 森雄治という詩人は初めて知った。『蒼い陰画』は硬い言葉で書かれている。崩れてゆかない、という意味である。「蒼い陰画」という作品はない。「陰画」ということばは「降霊術」に「ネガ」というルビ付きでつかわれている。

もうひとつの準備された世界の陰画(ネガ)が浮上する

 「陰画」とは「もうひとつの世界」である。「の」でふたつは結ばれている。けれども、私はそれを「言い直し」と「誤読」する。「意識」という作品が、そういう「誤読」を誘う。

ガラス玉の風景
そこに指紋をつけてはならない
なぜならつけるまでもなく
繊細にどよめき崩れてゆくだけだから

 「なぜなら」は理由を語るのだが、「理由」というのは、り言い直しである。だからこそ「つけてはならない」は「つけるまでもなく」と引き継がれる。言い直しは、世界を二重にする。この二重は、陽画(ポジ)と陰画(ネガ)のことである。陽画が「現実」であり、陰画が「虚構」というわけではない。ふたつはしっかり結びついている。けっして分離しない。分離させないために「なぜなら」ということばがある。

瞼におおわれてもいないので
それはごく自然な摂理なのだ
希薄な硝煙のさざなみが表面を擦っている
そのしみいるような静かさに怯える幾千万の粒子の氾濫
薄明の夢の凝縮が
遠い叢林の狂乱を青く染まる

 これらの行に「なぜなら」は書かれていないが、すべての行に「なぜなら」を補ってみるといい。不自然な感じに響くところがあるかもしれないが、「言い直し」であることがわかる。
 「なぜなら」は「理由」を語ることで、新しい「比喩」を生み出す。あらゆる「比喩」は「陰画」なのである。比喩が現実の隠れていたものを象徴し、そこから「意味」を育てていくように、「陰画」は現実の隠れていたものを浮かび上がらせ、陽画という「意味」を育てる。この「意味」はすべて「意識」を構成する。
 タイトルが「意識」となっているのは、そのためである。

遠い叢林の狂乱を青く染まる

 ここには「蒼い」ではなく「青」がつかわれているが、森は「意識」を「青/透明につながる色」と考え、それを重ねることで「世界」の「意味」と「意識」を重ねようとしたのだろう。そのようにして「意味」の構築が「意識」の構築になるのだ。





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アマンダ・ステール監督「マダムのおかしな晩餐会」(★★)

2018-12-12 19:44:53 | 映画
アマンダ・ステール監督「マダムのおかしな晩餐会」(★★)

監督 アマンダ・ステール 出演 トニ・コレット、ハーベイ・カイテル、ロッシ・デ・パルマ

 ロッシ・デ・パルマ(アルモドバルが起用したスペインの「泣く女」のような女優)を予告編で見かけたので、見に行った。パリで働くメイド役。晩餐会の出席者が13人なのは不吉、ということで急遽、「レディー」のふりをする。
 あとはおきまりのドタバタなのだが、どうしても「紋切り型」。
 監督はアマンダ・ステール。はじめてみる監督。原作も彼女が書いている。フランス人らしい「いじわるな紋切り型」が随所に隠れている。アメリカ人は金にこだわる(成り金趣味)、イギリス人は醜いのにゲイが多い。スペイン人は宗教熱心で貧乏。でも、フランス人は恋愛を上手に渡り歩くしゃれ者。
 つまり、「しゃれ者」の視点から、成り金が引き起こしたドタバタを、イギリス人とスペイン人に演じさせ、それぞれの「よそもの」を「みせもの」にしている。登場人物では、トニ・コレットの恋人とハーベイ・カイテルの恋人だけが傷つかずに、テキトウに恋愛を楽しんでいる。トニ・コレットの恋人なんて、トニ・コレットが裸でプールに飛び込んできたのに、知らん顔して帰ってしまうからねえ。彼にとっては、単なる遊びということを、さらっと描いている。
 さて、これをスペイン人が見たら、どう思うかなあ。
 ロッシ・デ・パルマはベッドの枕元には、キリストの幼子とマリア様の絵を飾っている。「だれの絵?」と聞かれて、だれが描いたかではなく「キリストとマリアの顔が大事なのだ」と答えるところは、いかにもスペイン人らしいが、そう感じる私も「紋切り型」でスペイン人を見ているのかも、と少し反省したりする。
 ロッシ・デ・パルマの一途な感じはなかなかいいんだけれどね。
 これをもしペネロペ・クルスが演じたら、逆に「品」がなくなるだろうなあ、とも思う。晩餐会のハイライト(?)の「おっぱいには三種類ある、おちんちんにも三種類ある」というジョークは、ロッシ・デ・パルマが言うから「味」が出る。気取らずに、脇目もふらず生きていく、という逞しさが、そのまま「人柄」となる。
 ラストシーンは、フランス人ならではの「装ったクール」である。
 身分がばれて、失恋し、トニ・コレットの家を去っていくロッシ・デ・パルマ。この恋の一部始終を書いていたハーベイ・カイテルの息子に、ロッシ・デ・パルマに勘違いの一目惚れをしていた男が聞く。「結末は?」「まだだ」「人はだれでもハッピーエンドが好き。主人公は走っていき、雨のなかでキスをする」。さて、去っていったロッシ・デ・パルマは男に追い掛けられ、雨のなかでキスをするか。これを監督は観客にまかせている。どう判断するかは、観客次第。どう答えても、監督は「ばかねえ」と笑うつもりでいる。こういう終わり方は「余韻」ではなく、「いやみ」である。
 ロッシ・デ・パルが出ているので★2個にした。何度でも見たい顔である。
(2018年年12月12日、KBCシネマ1 )

 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

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白石かずこ「最初に鳥が飛ぶ」、野村喜和夫「骨なしオデュッセイア」

2018-12-11 08:58:23 | 2018年代表詩選を読む
白石かずこ「最初に鳥が飛ぶ」、野村喜和夫「骨なしオデュッセイア」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 白石かずこ「最初に鳥が飛ぶ」(初出『白石かずこ詩集成Ⅲ』6月)の書き出し。

最初に鳥が飛ぶ
空ではなく 鳥が飛ぶ
舟が浮かぶ
  どこへ ではない 西陽か朝やけか知らないが
太陽が空にウインクしてできた
             あついヒトミだ

 詩だなあ、と思う。何が詩か。リズムが詩だ。
 「空ではなく」というのは、とても奇妙な表現である。「空」が「飛ぶ」ということはない。「意味」だけを考えるなら「空ではなく」は不要である。しかし、その不要な部分が詩である。余剰/過剰が詩なのだ。「空ではなく」という短いリズム、歯切れのよさが、空が「飛ぶ」ということがあってもいいと錯覚させる。
 空を飛ぶ鳥を見たことを思い出す。鳥は空に止まっていて、空が動いている、という風に見える。そのとき「空が飛ぶ、鳥ではなく」ということばが動く。そういう錯覚を「空ではなく」ということばは否定するのだが、否定されることで、逆に可能性として「空が飛ぶ」が見えてくる。
 この錯乱をつくりだすのはリズムだ。
 このリズムに乗って「舟が浮かぶ」が唐突にやってくる。「どこへ ではない」と白石は書くが、私は「水ではなく 空に」と思う。「空ではない」ということばが動いたときから、主役は「空」なのだ。
 「西陽か朝やけか知らないが」は、もう、「空」のことしか書いていない。
 けれど、主役というか、主語は、固定されない。

太陽が空にウインクしてできた
             あついヒトミだ

 「あついヒトミ」は「太陽」のことだろう。太陽が空にウインクする、そのウインクは太陽である。太陽と空の、主役の位置はあっと言う間に交代してしまう。
 このスピードは「鳥」と「空」が交代したときよりも加速している。



 野村喜和夫「骨なしオデュッセイア」(初出『骨なしオデュッセイア』6月)。

 ストッキングに「文字」が印刷されている。文字が印刷されたストッキングを履いた若い女を見た。あるいは女が履いているストッキングに文字が印刷されていたのか。同じことだが、まったく違うことでもある。
 で、ことばが、こんなふうに動く。

文字列を読み取るためには、ふくらはぎとの距離を、
もっともっと縮めなければならない、
ふくらはぎは女に、女は公共に、
属している、それをつかまえるという、
わけにもいかない、秋の柔らかい陽射しが、
いや人口の冷たい光が、まだらにふくらはぎに、
文字列にあたる、私は追う、何が、
何が書かれているのだろう、読み取るためには、
まず公共から女を離し、女からふくらはぎを離し、
ゆっくりとそれを、本のように、
まるみを帯びた肉感的な本のように、
持ち上げなければならない、

 「属している」という動詞があり、その対極に「離す」という動詞がある。何が何に属しているのか、何を何から離すのか。これは「任意」である。つまり、言い換えることができる。いちおう、「ふくらはぎ(ストッキング)」に属している(書かれている)「文字列」を、「ストッキング(ふくらはぎ)」から離すという風に読むことができるが、いったん離されてしまえば、ほんとうに「文字列」が「ストッキング(ふくらはぎ)」に属していたのか、それとも「ふくらはぎ(ストッキング)」に「文字列」が属していたのか、よくわからない。
 主語と対象。その間で動く動詞。動詞を中心に見直すと、主語と対象(目的語)は、あっという間に入れ代わる。これは言い換えると、ほんとうに存在するのは「動詞」だけであるということになる。
 (私は、いつでもこの視点から詩を読むのだが。まあ、それは、おいておく。)
 だから、ほら、こうやって詩を読むと、野村が「ふくらはぎフェチ」だから女のふくらはぎ、ストッキング、文字に目がいってしまったのか、文字に目が行って、ストッキングに目が行って、よくみるとそこにふくらはぎがあり、ふくらはぎにたどりついたときに野村は「ふくらはぎフェチ」になるのか、区別がつかなくなる。
 こういうことが起きるのは、やはり、ことばにリズムがあるからだ。
 野村は、私の印象では、昔はとってもめんどうくさい詩を書いていた。でも、最近はことばがひたすらリズムに乗って動く。その結果、どこへ行くのか、そんなことなんか気にしていないという感じで書いている。私は、こういう詩が好きだ。



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倉橋健一「そのときも」、須永紀子「中庭へ」、中村稔「言葉について1」

2018-12-10 10:49:56 | 2018年代表詩選を読む
倉橋健一「そのときも」、須永紀子「中庭へ」、中村稔「言葉について1」(「現代詩手帖」2018年12月号)

 倉橋健一「そのときも」(初出「時刻表」3号、5月)には不思議なことばがある。

あの濃霧は私に忘れさせることはないだろう
手を伸ばせばすぐ届くところに居ながら
あの人の姿はしぶとく
この自然の昏いきつい装いのなかに溶けていった
私はもう手当たりしだいに呼び続けるしかなかった

 三行目の「しぶとく」が不思議だ。「しぶとく」という副詞は「持ちこたえる」(維持する/変化しない)ということばと結びつくのがふつうだと思う。けれど高橋は「溶けていった」ということばへとつないでいっている。「溶けていかなかった」ではない。ここに、つまずく。つまずくけれど、倒れる、という感じではない。なぜ、「しぶとく/溶けていった」なのか。この、学校文法では否定されることばの動きで、倉橋は何を明るみに出そうとしているのか。
 「溶けていった」けれど、そこには「抵抗」があった。簡単に溶けていったのではなく、あらがいながら、時間をかけて「溶けていった」ということを予感させる。
 詩は、こうつづいている。

電線の音だけがびゅうびゅうと耳元を掠めていった
私は綾取り用の細いしなやかな組紐を買うために
臥った姉さん頼まれて町へ行った帰りだった
姉さん!セピア色のフィルムのなかにしか姿を残せなかった姉さん
私は山間の廃線トロッコ道を枕木を踏みながら急いだのだった

霧に被われたのはどのあたりだったか
今になってみればそれはもうどうでもいい気がするが
瞼に残るのは小さな琴、小さな鼓、小さな乳母車、月にむら雲、
ああ私の生きている分量の百分の一にも満たなかった
全身赤ん坊のままだった姉さん

あの濃霧は私に忘れさせることはないだろう
なんといっても姉さん!霧に溶けていったのはあなただからだ
じわじわと霧は私の目、私の手、私の足、に襲いかかり
恐いことなんか少しもないのにまったく動けなくなってしまった
身近な彼方にでもあの人は(そのときも)居るはずだった

 最後の連に「動けなくなってしまった」(動けない/動かない)という動詞が出てくる。これが「しぶとく」と呼応している。「しぶとく/動けなくなった」とは、やはり、言わない。けれど「動けなくなった」けれども「しぶとく」そこに「居た」ということはできる。
 「居る」という動詞が何回か出てくる。この「居る」と「しぶとく」が深いところでつながっていて、その感覚が、ことばを貫いている。
 「しぶとく/溶けていった」「しぶとく/動けなくなってしまった」はつながりにくいが、その「溶けていった」「動けなくなってしまった」けれど、そのときの「時間」の「長さ」が「しぶとく/居る(存在する/生きている)」とつながる。「しぶとく」は「長い時間」という形で、そこに「居る」人を浮かび上がらせる。
 「私(倉橋)」が霧に囲まれて身動きできずにいたとき、姉は病床で死と戦い身動きできずにいたのかもしれない。「私」と姉は、「身動きできない」という動詞の中で「ひとつ」になり、それぞれに「しぶとく」その時間を生きたのだ。その「しぶとさ」を倉橋は思っている。さらに、その「しぶとさ」は、姉の場合は「恐さ」との戦いであったかもしれない。



 須永紀子「中庭へ」(初出「栞」7号、5月)の二連目。

踏み出した足が土中にめりこみ
なかなか上がってこない
象のように沈んでいく身体
〈重い〉感覚が思考を中断させ
脳に侵入する
〈重い〉苦痛が脳を占拠して
神経系を分断する

 「〈重い〉感覚」を「〈重い〉苦痛」と言いなおしている。「侵入する」は「占拠する」と言いなおされる。「中断させる」は「分断させる」と言いなおされる。ただし動詞の呼応は、「中断する/占拠する」「侵入する/分断する」という順序で書かれている。だから「侵入する/占拠する」「中断する/分断する」と読むのは、「正しい」読み方ではなく「誤読」なのだが、この「誤読」のなかには、倉橋が書いていた「私/姉」の交錯のようなものがある。交錯した瞬間に、瞬間的につかみ取る何かがある。



 中村稔「言葉について1」(初出、詩集『新輯・言葉について 50章』5月)の最終連。

言葉は質量をもたず、鋭利でもないけれど、
集落が頽廃したとき、集落を消失させるほど
威力をもつことに誰も気づいていない

 しかし、また、ことばは「消失してしまったもの」をも呼び出し、いのちを与えることもある。
 倉橋の詩では、姉は死んでしまっているが、その詩を読むとき、私が思うのは「生きている」姉である。須永の詩からは、「重い」と感じるときの「時間」そのものである。それらはいずれも、詩を読む瞬間の、「いま/ここ」に生きている。



*

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新倉俊一『ウナ ジョルナータ』

2018-12-09 16:18:01 | 詩集
新倉俊一『ウナ ジョルナータ』(思潮社、2018年10月30日発行)

 西脇順三郎のことを、きのう少し書いた。新倉俊一を思い出した。『ウナ ジョルナータ』に「ある一日」という詩がある。

まだ神無月だというのに
アフロディーテやアテナイやら
女神たちがつぎつぎと
海を渡ってやってくる
そして冷たいゼフィロスに
つぎつぎと鮮やかなに色の
花束を部屋いっぱいに
吹き送らせるのだ
安酒場からファミレスへ
能の「六浦」から運慶の
上野へと連日のように
まさに移動祝祭日だ
だが運命の回転は惑星
よりも速いアイアイ
ささやかな幸運が
いつか訪れたら行こうと
心に決めていたあの
映画の題名のような店
Una Giornata はもう
無くなってしまい
わたしの夢の中にしか
残っていない

 「アフロディーテ」と「ファミレス」の同居、「アテナイ」と「能」の同居。「アイアイ」ということば。どれも西脇を思い起こさせる。西脇も書くかもしれないなあ、と思わせる。もちろん西脇とは違う。こう書くと新倉に申し訳ないが、西脇の方がもっと「音」が強い。活字にすれば同じものなのだけれど、「ほんもの」という感じがする。前後の音との響きあいが違うのだと思う。
 でも。
 きのう読んだ城戸朱理の嘘っぽさ(気取り)と比較すると、ぐっと「真実味(ほんとうらしさ)」が強い。特に、最後の五行が響きあっている。そこに西脇とは違う新倉の音楽がある。
 「無くなってしまい」を「わたしの夢の中にしか/残っていない」と言いなおすときの、静かさ。「心に決めていた」と「心」から始まったことが、「夢の中」と「夢」に変化している。「心」と「夢」は微妙に違う。その移行の動きのなかで行われているのは、店の確認なのか、自己確認なのか、判然としない。店と一体になっている。店について思うことが、新倉自身を思うことと重なっている。
 同じことが新倉の夢と心の中で起きるのだと思う。つまり、西脇を思うとき、そこに新倉が姿をあらわすということが。そのことを新倉は喜んで受け入れているように感じられる。西脇を押し退けて新倉を出さないといけないとは思っていない。西脇によって導かれた世界があるということを、淡々と書いている。「頭」で強引に整理しようとしていない。整えない。
 そこに新倉の「正直」がある。
 だから、誘われるようにして、「ウナ ジョルナーレ」か、と思わず声を漏らしてしまう。どこにあった店なのだろう。東京か。イタリアか。もう新倉の夢の中にしかないという店に行ってみたいなあ、と思ってしまう。それができたら新倉の心の中へ入っていける。そこで新倉だけが知っている西脇にも出会える気がしてくる。

 詩集の最後におさめられている「ウインターズ・テイル」はとても美しい。工藤正廣が書いていた少年パステルナークのように、それは新倉自身のことというよりエミリー・ディキンスンのことなのだが、繰り返し繰り返しディキンスンに触れることで、ディキンスンに重なってしまった部分が自然に動いている。好きな人になってしまう。誰かを愛するということは、自分が自分ではなくなってもかまわないと決心することだが、それを「決心」とも思わず、自然に重なってしまう。そこに新倉の「正直」があらわれていて、美しいなあと思う。ディキンスンが美しいのか、新倉が美しいのか、考えることなく、ただ美しいと思う。





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